太秦からの映画便り

映写室 新NO.38手のひらの幸せ

映写室 新NO.38手のひらの幸せ 
   ―原作は歌手の布施明さんの童話―

 今週は思いっきり泣いていただこう。涙は心を浄化する。感動の涙なら余計に良い。ピア満足度1位の作品だ。舞台は昭和30〜40年代の新潟。皆同じ様に貧しかった戦後も遠く、日本は未曾有の上げ潮基調にあった。でもそんな流れに取り残された人々もいる。この物語はそんな人々の命を繋いだ小さな幸せに光を当てていく。誰もが善人なのに運命は容赦がない。それでも挫けない主人公たち。何があっても生きるというこの時代の人々の人生への真摯な姿は、今の私たちに大切な何かを教えてくれます。

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(C) ドリームワンフィルム/ドロップオブスター/ランテル・メディエール/シージェイネットワークス/T―artist

 <両親のいない兄弟は>、育ててくれた祖父も死に養護施設に預けられる。ほどなく弟は印刷業を営む夫婦の養子になるが、兄は父の帰りを待って施設で育つ。東京に出て大工になった兄は、夏祭りに故郷に帰って弟に会うのが楽しみだった。弟を大学にやりたいという養父母に感謝し、前祝だとフルートを贈る兄。ところが入試の日に兄が事故にあう。

 <どうして不幸は不幸な人の上により降りかかる>のだろう。でも現代人なら(もう生きるのは嫌だ)とポキッと折れそうな状況でも、皆弱音を吐かない。助け合い明日を信じて生きるという、この時代の人々の、人間としての健全さに心を打たれる。
 <荒筋から想像できるように>、この兄弟は極貧だった。ぼろぼろの服を着て壊れそうな家に住み、粗末な物を食べ、それでも父は帰ってくると信じ祖父と一緒なら幸せだった兄弟。幼い二人を残して逝った祖父はどれほど無念だったろうと、描かれない思いを想像して涙が溢れる。次々と襲う不幸に助けてやりたい近所の人も手が及ばない。施設で優しい先生方に出会っても、兄弟は祖父と暮した家が忘れられないし、父親が帰ってくるとしたらあの家なのだ。父さんが僕らを捨てるわけがないと、何時までも信頼し待ち続ける兄弟。兄が養子に行かないのは、父が帰ってこれるよう苗字を守る為で、幼いながらに一家の主だった。親ですら親でなくなった現代、この健気さにも涙をそそられる。

 <兄は立場をわきまえ弟の家に上がる事もない> 養父母は二人の絆を解かっているが、その矜持と自尊心を尊重するしかないのだ。甘えん坊で兄が精神的な拠り所の弟も、自分が幸せだからこそ一人ぼっちの兄を気遣う。弟が進学を地元の大学に絞るのは、自分が故郷を出たら兄の帰る場所がなくなるから。彼らの原点はこの町だし、一人ぼっちの辛さは身に染みているのだ。どんな時も弟を守ろうとする兄、そんな兄を信頼し時には甘えながらだんだん大人になって兄を気遣う事も知る弟。こんな兄弟がいるだろうかと思うけれど、この時代ならいたのかもしれないと牧歌的な情景に思い直す。

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(C) ドリームワンフィルム/ドロップオブスター/ランテル・メディエール/シージェイネットワークス/T―artist

 <そんな二人を見守る大人たちも温かい> 高度成長期で前へ前へと進んではいても、時代に乗り遅れたものが生きれないほど世の中は厳しくなかった。特に兄の遺骨を抱く息子を駅まで迎えた養父母の、背中を丸めて息子の悲しみに寄り添う風情は温かく、本当の親子とは違うけれどかけがえのない家族の情景になっている。少し前に書いた「ワカラナイ」との違いが際立つが、過度な進歩の陰で私たちは大切な物を手放してしまったらしい。まだ隣人を気遣う余裕も、見知らぬ兄弟にそっと情けをかける余裕もあったのだ。ちなみに「手のひらの幸せ」とは、施設を抜け出し祖父と暮した家へ行く途中で、大きな柿の木の家の主から、柿とおむすびをそれぞれの手のひらに持たせてもらい、両手が塞がって涙が拭けない事、兄の服を掴めない事、程々の幸せで良いと、過分な幸せを感謝する言葉だった。

 <過酷な状況の中でも誰も悪い人のいないこんな物語を納得させる>のが、この作品のもう1つの主役、時をまき戻したような田舎の映像だ。藁葺きのお堂や昔ながらの大屋根の家、長閑な田園や包み込むような里山、誰もが思い描く故郷を映像化した様だ。これが初作品になるカメラマン出身の加藤雄大監督が、まるでおとぎの国から抜け出したような美しい情景を、詩情豊かに切り取っていく。風景が人間を作るのかもしれない、こんな風景があったからこそ、人間も生物としての強さを持ち、健気に生きれたのかも知れないと郷愁に誘われた。
 幼い頃の兄弟を演じる子役の2人も、あの頃の匂いを放って愛くるしい。全てが美しく、まるでユートピアに迷い込んで、美しい絵本を眺めた気分になる。

 <ところで驚いたのが>、原作が布施明さんの童話ということだ。自分のコンサートで朗読して会場のむせび泣きが止まらなかった作品だと言う。「シクラメンのかほり」で一世を風靡し、「ロミオとジュリエット」で世界的な女優だったオリビア・ハッセーさんとの結婚で日本中のドキモを抜いたハンサムな彼が、全く別の分野でこんな創作をしていたなんてと、多才さに驚く。華やかな世界に生きる人の思う小さな幸せが、兄弟愛、お互いを労わりあう心と言うのも嬉しい。布施さん自身があの頃を原風景に持つ世代、殺伐とした今、生きる力の希薄になった今、あの頃を思い出そうよと言う事かもしれない。これこそが自然の力だし人間力だと思う。人として正しい当たり前の事を並べて、奇跡の領域に連れ込む感動作です。(犬塚芳美)

この作品は、2月13日(土)よりシネ・リーブル梅田で上映
      2月下旬より京都みなみ会館で上映予定

映写室 「ユキとニナ」諏訪敦彦監督インタビュー(後編)

映写室 「ユキとニナ」諏訪敦彦監督インタビュー(後編)    
 ―日仏二つの個性をぶつけて―

<昨日の続き>
―森のシーンがそんな風に変わったから、冒頭の小さな森のシーンが出来たのですか? 画家のおじいさんとの会話とか、哲学的ですが。
諏訪:あれは最初からです。森ってピクニックに行くようなイメージもあれば、もっと深くて怖いイメージもある。多面的ですから。それを表現したいと思っていました。イポリットはあのシーンから始めたかったみたいですね。あの老人はイポリットのお父さんで、建築家で、隣は彼のお母さんです。実は僕は別の所であれを使いたかったんだけど、イポリットがどうしても冒頭に拘って、駄目だった。そっちは譲るからこっちは譲れよみたいな、バーター的でしたね。

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(C)Yoshi OMORI

―うっそうとして迷いそうだし、時々は木漏れ日もあってと素敵な森でしたが。
諏訪:日本の森と言うと山になってしまうけれど、フランスの森は平地の中にあるので、フラットに広がっているんです。ただ目印がないから確かに道には迷いますね。ロケハンで見つけた所を撮影時に見つけられなくなったり、困りました。実はロケハンで決めていた所が台風で木が倒れて立ち入り禁止になったんです。パニックになってどうしようかと思っていたら、いつもは立ち入り禁止の所に撮影許可が下りて、羊歯が一杯あるシーンの撮影場所ですが、結果的には良かったなと。森って明るく生命力に溢れたところと、暗くて飲み込まれそうな面を持っていますよね。多様で映すのは怖かったです。何かきっかけを探すけれど、なかなか見つからなくて。森って何だろう?と考え、それをどう映すか、最後まで怖いと思いました。

―話が元に戻りますが、ノエちゃんの演技に不安を持ちながら、ユキにキャスティングしたのはどうしてですか?
諏訪:キャスティングと言うのは常に不安ですよ。やってみないと解からないし、賭けのようなもんです。それでも一般的な俳優だったら演技で何とかなるだろうけど、ノエちゃんはその経験がないし、彼女の表現は解かり難いですから、どうなるかなあと。それなのに彼女に決めたのは、映像に撮ってみたら、凄く視点を引き付けられた。彼女自身が複雑なんだろうけれど、表情が複雑で、彼女が黙っていてもこっちの気持ちが動いちゃうんですよ。これって映画的ですよね。何かを与えてくれる演技ではないけれど、こっちの思いを引き出すと言うか。あの顔は人を惹きつける。それは間違いないと思ったんです。
―「不完全な2人」でお話を伺った時、僕が映画を作るのは知っているからではなく、知らない事を知りたいからだと仰って、印象に残っていますが。
諏訪:こんな事が知りたいと言うのではないけれど、自分が知っている事として描きたくないという事ですよね。僕も父親ですが、子供って、自分の子供でさえ理解しているつもりでも何か違っているだろうし、そういうものをちゃんと見えるようにしたいなという事です。複雑に存在している子供を、複雑なままに見えるようにしたいという事で。

―諏訪監督の台本は、基本的に台詞が書かれてなくて、即興で俳優と一緒に作ると伺っていますが。
諏訪:そうです。今回は特にイポリットと一緒に作ったんですが、考える事ってお互いにそれぞれ違うんですよ。ノエちゃんにしても物を考えていて、それが何なのかは解からないけれど、お互いに解からなくても良いんだと言う関係性で物事を進めていきました。
―そんなスタイルで映画を作られるのはどうしてですか?
諏訪:監督の中には自分の考えだけで作りたいと言う人もいます。自分の生まれ育った環境とかが、そうさせるんでしょうが、僕が作りたのはそういうものではなくて、それぞれが色々な考えを持っているという形という事です。カメラと言うのは押せば映る。その中にあるのはすでにあるもので、映画と言うのはすでにある世界に対する、自分の見方を提示するものだと思うんです。この方法が面白いのは、別の世界を見れる事で、その世界が又謎に満ちているんですよね。この場合の世界は他者と同意語なんですけど、子供も他者で、彼女の世界が映るのが面白く、それは僕の想像した物ではないという事です。

―大人でしかも男性の監督にとって、少女を描くのは難しかったのでは?
諏訪:最初にイポリットと話した時は、お父さんと息子の話でやろうと。イポリットがお父さんを演じるのだけれど、僕も父親だしね、父親って何だろうと考える所から始めたんだけれど、途中からだんだん子供の視点になり、男か女かと言ったら女になって行きました。この時は不安だったんです。僕らは男で女の子の気持ちが解からないし、イポリットはいるけど僕には娘がいないし。でも逆に考えたら、男の子だと自分の少年時代とか投影してしまいそうで、むしろ女の子だと解からないから、演者と対等になれる。これって良いかもという事です。手紙を書くアイデアも、脚本を書いている時、同世代の少女何人かに聞いた事なんです。「2人が愛し合っていた頃を思い出させたい。愛と言うのは復活する」と言うんですよ。女の子ってロマンティックだなあと驚きましたね。もう少し上だとファンタジーではなくもっと現実的な事を言うし、もっと下だと出来ないですしね。こんな事をするのもこの年代だからです。もっともノエちゃんは「私は絶対やらない。だってばれるもん」と言っていましたが。

―こんな子供たちの思いをぶつけられて、父親として何か感じるところは?
諏訪:もちろんこんな経験は無いんですが、ラスト日本に行って新しい友達がいるじゃあないですか。あのシーンを撮りたくて、ユキにとってニナと別れる前半は世界が終わると言うか失われる、暗い出来事な訳ですけれど、最後に、(でも大丈夫、又新しい世界が出来る。子供って大丈夫だよ)と言うのを示したかったです。そうは言っても、一方で消せない傷を背負う訳で、(生きるって幸せと不幸の両面。それが大人なんだ)と、彼女に取って最初に解る出来事だったと思うんです。子供が傷つくとは言っても、離婚に至るにはそれなりの事がある訳で、子供の為に離婚はいけないと言うつもりもない。大人には大人の事情があるけれど、それでも又良い事もあるよと示したい。
―ラストは楽しい事で終わらせようと思っていたのですか?
諏訪:そうですね。ユキの設定もそうだし、イポリットと僕が監督するという、成り立ちからして日本とフランスの混血のような映画ですから、日本のシーンを撮って、又新しい事が始まるというのは見せたかったですね。最後にユキが日本の生活を映すシーンは、彼女にビデオを持たせて好きなように回させています。時間がなかったのもありますが。

―その辺りを少女の二人はどこら辺りまで理解しているのでしょうか?
諏訪:彼女たちなりによく理解しています。もちろん理解はその人によって違うけれど、脚本をよく読んできていました。
―そういう風にして役に重なった彼女たちから出てくる台詞は監督の思いを超えていましたか?
諏訪:台詞は書いてないんですから、何が出てもある意味で思いを超えているし想定外。でも全体から見ると想定内。こんな風に普通に喋っている時も、同じ事をしてる訳です。気持ちをそういう状況に持っていけば良い訳ですから、かえって普通に脚本の台詞から入ることに慣れたプロの俳優さんだと戸惑うようですが、子供だとすんなり行くようですね。

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(C)Yoshi OMORI

―この映画にはそんな自然さが一杯ありますよね。日仏折衷のユキの家も素敵でした。
諏訪:「フトン」と言う言葉がフランスでも通用し、フロアーに直接布団を敷く人もいるように、日本文化が一部には浸透しています。だから日本人とフランス人の夫婦が暮せばあんな風になるのかなあと。あれは美術スタッフだけではなく、イポリットとお母さん役のツユさんが自分たちの思うように飾っていったんです。それを見て今度はスタッフが食器を揃えるとか、誰か1人のアイデアではなく、役者が複合的に作っていってあの部屋ができました。ツユさんは日本人と言うよりコスモポリタンですね。あの部屋には有名な写真家の作品がかかっているんだけど、彼女がどうしても飾りたいと、直接交渉して許可を貰ってきました。
―最後になりますが、撮影していて楽しかったシーンを教えて下さい
諏訪:2人が手紙を書くシーンですね。テントを立てるシーンも楽しかったなあ。子供にそのままやらせていれば良いんで、楽しかったですね。(聞き手:犬塚芳美)

《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》
 <監督のお話しにもあるように>、ユキに扮するノエちゃんの曖昧な表情が素晴らしい。魅せられました。何を考えているのだろうと、心の中を覗きたくなります。彼女に照準を合わせると、他の人の過剰さが気になりますが、でもそんな周りがあるからこそ、ノエちゃんの不確かな演技が光るのかもしれません。
 <ところで諏訪監督のインタビューは>2回目です。少し長いのですが、作風とか、それへの思いとか丁寧にお答え下さいました。学長職とのバランス等も伺いたかったのですが、映画の話に終始し時間切れ。もうフランスでは公開されたそうで、プロ受けが良いそうです。そんな意図はないそうですが、2人の監督の文化を反映してか、日仏両方のエキゾティズムを感じる作品でした。


   この作品は、梅田ガーデンシネマ2月6日から、
            京都シネマ2月13日から 公開

映写室 「ユキとニナ」諏訪敦彦監督インタビュー(前編)

映写室 「ユキとニナ」諏訪敦彦監督インタビュー(前編)    
 ―日仏二つの個性をぶつけて―

 シチュエーションは設定するものの、多くの台詞を俳優に任せると言う独特の手法で知られる諏訪敦彦監督の新作です。今回は、フランスの俳優イポリット・ジラルドとの共同監督作で、日仏混血の少女を主役に据え、撮影も仏日両方にまたがりました。現在は東京造形大学の学長でもある監督に、カンヌでも絶賛された本作について、撮影秘話等を伺います。

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(1月16日 大阪にて)

<その前に「ユキとニナ」とはこんなお話> 
 ユキはフランス人の父と日本人の母を持ちパリで暮す9歳の少女。ある日、母が父と別れてユキと日本で暮すと言い出し、ショックを受ける。親友のニナに打ち明けると、手紙を書いて二人が愛し合っていた頃を思い出して貰おうと言う。彼女も両親が離婚して母との二人暮しだ。そのニナが母と喧嘩して家出し、ユキもついて行く。


<諏訪敦彦監督インタビュー>
―イポリットさんとの共同作業はいかがでしたか?
諏訪敦彦監督(以下敬称略):色々難しい事もあったけれど、終わってみると楽しかったなと思えます。宣伝でイポリットが来日したので、2人でインタビューを受けながら、この映画について話し合っていると、2人で最後まで完成させたんだなあと言う実感が湧いて来ました。今回は、違う考え方の2人の人間が、1つのものを作れるかと言うのが、もう一つの大きなテーマだったので、完成してよかったなあと思いますね。
―撮影や編集段階で考え方の違いが際立ってきたと伺いますが。
諏訪:そうですね。シナリオ作りには2.3年かかっていて、色々やり取りしながら進めたんですが、その時は「ああ、そうだね」とか、「僕も子供の頃はこんな風に思っていたよ」とか「親って何だろうね」、「こんな事をしてたね」とか、共感する事が多く違いは際立たなかったんです。でも撮影が始まり、何処で撮るか、どうやって撮るかの、物を作る過程に入ると、いきなりお互いに譲れない所が出てきて、それをどう纏めるかが課題でした。それでも撮影中は一緒にいるので、僕らは毎日他のスタッフより1時間以上早く現場に入って、前の日の反省や、今日はどう撮るかと監督同士のディスカッションをやったから、まだ調整出来る訳です。ところが編集になると、僕は日本に帰って家内が編集するし、イポリットの方もフランスで向うのプロとチームを組んで編集する。お互いにデータをメールで送りながらの作業ですが、やっぱりエゴが出てきます。どっちがどっちを打ち負かすかではなく、エゴを持った人間同士が一緒にやると言うのが今回のテーマですから、そういう意味で譲り合いは仕方なかったですね。

―そんな共同作業の結果として、いつもの諏訪作品より間口が広がったと?
諏訪:自分一人だったらやらなかっただろうなあと言う事は、沢山ありますね。編集も自分一人でやってるわけじゃあないし、自分が思う通りに自分一人でやっていたら、もっと解りにくいものになっていたかもしれません。僕が撮るとどうしても長くなっちゃうんですよね。短く切れず、まだ色々映ってるんじゃあないかと思ってしまって。僕を知ってくれたのは「パリ・ジューテーム」での人が多いんだけど、あんな作風を期待してこれを観ると驚くんじゃあないかなあ。
―もっとカメラを回したかったと?
諏訪:回したいと言うのはないんですが。芝居はイポリット担当で僕は現場では殆ど見てただけです。

―そのせいなのか、いつもの諏訪監督より特にフランス語のシーンが過剰だった気も。
諏訪:でもユキちゃん役のノエは違うでしょう?
―ええ、とっても繊細な思慮深い演技でした。だから余計に他の方が目立って。
諏訪:ノエは結構不安でした。彼女は実際にパリで生まれた日仏の混血ですが、演技の経験がないので、制作に入った時はこの子で大丈夫だろうかと心配したんです。ニナ役の子は俳優だから感情を良く表情に現すんだけど、ノエはあまり表情に現れないというか、誰が見ても解るという表情ではない。でも彼女なりに考えて演技してるんですよ。希望的な演技じゃあないけれど、でもそれが良かったなあと後になって思えました。演技の経験がないと言うのは、誰からもある状況の表現方法を強制された事がないわけで、思いもよらないような彼女の内からのものが出てくるんです。演技の経験があると、例えば悲しい場面では、誰が見ても悲しんだと解かる演技をしてしまう。ノエの場合は、悲しくは見えないんだけれど、凄く個人的なその人独特の悲しみの表現が出てくる。そういうユニークなものの方がより普遍的だと僕は思うんですね。一般的には意味が通じ難いから、演技指導を受けたりすると、解りやすい表現を教え込まれるんですが、彼女はそんな回路を持っていないから、例え解りにくいとしても、私は実際に悲しくてそんな演技をするんだから良いと思えるんですよ。

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(C)Yoshi OMORI

―お母さんが泣いているシーンとか特にそう思いましたが。
諏訪:あそこなんて笑ってますからね。(笑)実はあれはレンズを見て笑っているんですよ。撮影に入る前に、彼女にはカメラだけは見ないようにと言ったんですが、これって難しい事で、彼女はまだプロではないんで、ついつい見てしまうんですね。さもカメラがないかのごとく出来るのがプロなんだけれど、お母さん役の俳優がそれをやってるのが彼女には不自然なんですよ。で、笑ってしまったんだけど、現場では感情が途切れてしまった、NGだと思ったけれど、ラッシュを見て、こういう事もあるのかもしれないと思いました。あのシーンのノエは凄く失望しているんです。僕たちがNGだと思ったのは、そんな時にお母さんが泣いているんだから笑うはずがないと言う大人の考え方で、そんな状況でさえ彼女の中では色々な考え方がくるくる替わっている。今回は僕たちが簡単には理解できない存在のとしての子供を描こうとしているんだから、子供に大人の感情を投影してはいけないと。あの時のノエのリアクションは正直解らない。でもあのシーンを入れた事で、子供は判らない存在だと言うのを改めて確認しました。

―森に入っていくシーンも大胆ですが。
諏訪:あれを撮る時は僕たちにとっても賭けだったんです。最初のシナリオでは、ニナが転んで動けなくなって、ユキが誰か助けを呼んでくると言う展開だったんです。それで道に迷って、淋しくて泣いて動けないと言う設定だったんですが、そんな風にやってと言っても、ノエちゃんが「私泣かないから」と言うんですよ。一生懸命演技をするけれど、その気分にならないから泣けないと、何度も言うんですね。こっちとしてもここが肝心だから「泣いてよ」と説得するんだけれど、できないと言う。理由は解からないけれど、そこまで言うんだから、これは違うんだなあと思い直し、別の方向を考えました。1人で森の中に入っていくと、倒れるとかしないので歩くしかない。それでああなりました。撮影中も、歩くシーンしか撮ってないけど大丈夫なのとスタッフは不安がっていましたね。で、あんなふうに繋がるんですが、実際にも森を抜けると超現実になります。見てる時は現実でも、それは夢の中の現実だという訳で、彼女が一人で歩き出した瞬間に、観客もユキと一緒に森と言う非日常的な空間をさ迷うと。ユキが一人で森の中に入っていくのは無意識の自殺ですよね。妖精が食事を運んでくれると言うけど、そんな事あるはずがない。彼女が生と死の間をさ迷い何に出会うだろうと考えると、その空間をふっと超えてしまっても良いんじゃあないかと思ったんです。あれは観念的な森であって、フランスのそこから日本の森に繋がる。元々森って幻想的なそんなもんでしょう? この映画では全て現実を描くけれど、結果として、描かれているのは非現実と言うのでも良いのではないかと考えた訳です。この空間のねじれ方が極めて映画的だなあと思いました。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く> 
 
 この作品は、梅田ガーデンシネマ2月6日から、
       京都シネマ2月13日から 公開

映写室 NO.37インビクタス/負けざる者たち

映写室 NO.37インビクタス/負けざる者たち 
    ―ラグビーにかけたアパルトヘイト後の南アフリカ―

 <もうすぐ>サッカーのワールドカップが開かれるが、これはサッカーとは似て非なる球技ラグビーの、1995年のワールドカップのお話。開催地は同じく南アフリカだった。
 <ワールドカップと言っても、ラグビーの場合は>サッカーのようには騒がれないし、最終戦の死闘を覚えているラグビーファンでも、アパルトヘイト政策を取り続けた南アフリカという国の、歴史的側面からは眺めていないと思う。そんな斬新な視点で綴ったワールドカップとネルソン・マンデラのノン・フィクションを、クリント・イーストウッド監督が高潔な光の部分を重点に置いて描きます。迫力のスクラムやタックルを捕らえるカメラワークも見所で、サッカー熱に押されて寂しがっているラグビーファンも必見。

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 ©2009 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC

 <南アフリカに初の黒人大統領ネルソン・マンデラ>が誕生したのは1994年の事。熱狂する黒人と怒る白人に囲まれたマンデラの急務は、肌の色で分断された国を一つにすることだった。自分の護衛官に白人も起用し、もうすぐ開かれるラグビーのワールドカップに目をつける。でも黒人から見るとラグビー自体が白人のスポーツで、このチームのジャージはアパルトヘイトの象徴だった。…と凄まじいアパルトヘイトの後遺症が描かれるが、一方でここから、双方の思いが極端に違う、火種になりそうなラグビーを核にして、融合を目指そうと言うマンデラの無謀な試みが始まるのだけれど、もちろん簡単には行かない。黒人は貧しいし、白人は黒人の報復を恐れている。社会は一発触発なのだ。

 <マンデラに扮するのは>、モーガン・フリーマン、彼の夢を助けるラグビーチームの主将には、髪を金髪に染めていつもより肌が白く感じるマット・デイモンが扮する。モーガン・フリーマンのマンデラは背中を丸めて、スタイリッシュに決めれば決めるほど27年の厳しい牢獄暮らしが滲む。一方ピナールは、逞しい体以上に繊細さが浮き上がり、黒人社会の中で白人性が強調されるのだ。それでも2人はお互いの思いを理解し合い、国の再生をワールドカップに託していく。

 <実際にもそうだったのだろうけれど>、この2人のリーダーが高潔過ぎて、物語としては少し物足りなさもある。過去を語らず自分を殺そうとした側を許すマンデラ、そんな新大統領に心酔するスポーツマンらしい若者と彼を誇りに思う家族、破綻がなくてアメリカ映画好みのヒーローなのだ。現地で撮影しながら流れている空気感がアメリカ的に明るいのも、クリント・イーストウッドをもってしても仕方ないんだろう。アフリカの地はそれだけ遠いと言う事だ。
 <もちろんマンデラが理想主義だけの訳がなく>、現状を冷静に見つめる限りないリアリストだったからこそ実現した事だけれど、この物語はそこまでは踏み込まない。リーダーはそんな非情な思想を隠し、民衆を酔わせるカリスマ性が必要なところまでを描く。

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©2009 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC

 <国民は単純だ> 食うや食わずでバラックに住んでいても、昨日までの敵も、オリンピックやワールドカップのような国家を背負った行事では、一瞬で支配階級や恵まれた階層とも一体化できる。スポーツと言う祭典の素晴らしさだけれど、それは良いことでもあり、何かに誤魔化されたナショナリズムでもありと、少し複雑な思いで見た。興奮が冷めた後には又多くの困難が押し寄せたに違いない。それでも皆で一緒に盛り上がったこんな瞬間があった事実は、両者の融合の一歩になったはず。これはそんな事を熟知した黒人大統領の手で、新しい南アフリカに向けて動き出した日を、誇らしく描いた作品なのだ。

 <南アフリカは今、成人の5分の1が>エイズに感染している。それが経済を圧迫しているし、20パーセントを超える失業率で白人の中にも貧困層が現れ、有色人種間では少ない仕事を奪い合って隣国からの不法侵入者との小競り合いが耐えないという。一方では黒人の中にも富裕層が現れ格差社会が出現した。歓喜の時から15年、南アフリカは未だ混迷の中で、治安も悪化しているのだ。
 <90歳を過ぎたマンデラは>もはや国政を握ってはいないけれど、皆の記憶の中で95年の戦いは輝いているはずだし、現大統領も覚えているに違いない。あの時と違って今度の祭典は黒人も対等に参加できるサッカーだ。さあ、この好機を現大統領が利用し切れるかどうか。6月に南アフリカはどんな顔を見せてくれるのだろうと楽しみが増えた。

 <ちなみに「インビクタス」とは>、マンデラの長い獄中暮らしを支えたウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩の題名で、不屈という意味になる。本作で「インビクタス」な者とは誰なのか。もちろんマンデラと主将の二人だけれど、同じ黒人としてマンデラを映画化しようと試行錯誤していた主演のモーガン・フリーマンもそうだし、良作を作り続けるクリント・イーストウッド自身に、まず送られるべき言葉かもしれない。
 <そしてそのイーストウッドが>今一番この言葉を送りたいのは、未だに困窮の中にいる南アフリカの人々へだと思う。不屈の精神でもう一度再生を目指して欲しい、マンデラたちの苦しみを無駄にしないでとの思いを込めて。あえて影の部分を排除した監督の意図をそう読みたい。(犬塚芳美)

  この作品は、2月6日(土)より全国でロードショー

映写室 新NO.36ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女

映写室 新NO.36ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女   
―スウェーデン発の傑作ミステリー―

  この作品いつもとは勝手が違う。物語の中で追う謎と、追う方の女の放つ強烈な謎の2重構造になっているのだ。スウェーデンの富豪一家の謎は、複雑かつ根が深くて陰惨そのもの。一方事件を暴く方も暗い過去を匂わせる。どちらも簡単には全容を現さない。事件を追いながらも、この女いったい何者? 過去に何があった? …と、まるでもう1人の主人公に感情移入したように彼女に惑う。いったいどっちの謎を探っているのか解からないが、曇った空の下に広がる北欧の風景も楽しい。漂う空気感とか、なんか独特なのだ。スウェーデンって明るいのか暗いのか、う〜ん、このミステリーのように複雑そのもの!

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(C) Yellow Bird Millennium Rights AB, Nordisk Film, Sveriges Television AB, Film I Vast 2009

 <月刊誌「ミレニアム」の責任者ミカエル>は、武器密売記事を名誉毀損で訴えられ失職した。その頃、大企業の元会長から約40年前に失踪した姪の謎解きを頼まれる。こうして、スウェーデン北部の島が舞台のミステリーが始まるのだが、島は密室だった。容疑者は元会長の一族郎党で、莫大な利権と資産をめぐって親族同士の駆け引きがあるようだ。ミカエルは早速襲われる。そんな彼を助けるのがドラゴン・タトゥーの女という訳で、彼の身辺調査を元会長から頼まれた調査員だった。

 <身長150cmで少年のようにガリガリの>体にドラゴン・タトゥー、鼻ピアスで厚底の靴を履き、パンクファッションに身を包んだ女は何者なのか、半信半疑で彼女と組むミカエル。たちまち画面は主役の座を彼女に奪われる。ミカエル形無しだけど、まあそれも仕方ない。彼女の放つこのダークなオーラ、ノーマルはいつもアブノーマルに負けるものだ。
 <彼女は天才的なハッカーで映像記憶能力もある> つまり超優秀な調査員と言う訳で、社会のルールにとらわれず、法を犯すのも平気で自分の思うとおりに行動するんだけれど、根底には既存の権力への不信感がありそう。全身から発する闇社会の匂い、孤独感、強烈で癖になった。相当のトラウマがあると予想させるが、事件が解決してみると、2つの謎の根底にはレイプ事件があると解かる。

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(C) Yellow Bird Millennium Rights AB, Nordisk Film, Sveriges Television AB, Film I Vast 2009

 <自身の欠損が研いだ刃が>、調査員としての武器。正義をかざすジャーナリストだけれど、罠に嵌められてあえなく退場するミカエルとは桁違いなのだ。…と言っても、ほとんどの推理はミカエルがしたのだけれど、どうも印象が薄い。少しずつ正攻法で探っていく、所謂インテリのミカエルに対し、直感で瞬時に本質に迫る女は目立つ。2部以降もコンビは続くのだろうか。
 <さて、肝心の姪の失踪は>思わぬ結末を迎える。老いた依頼者には辛い報告、一族の血の汚れだった。しかもヨーロッパの歴史を紐解けば、ナチの影が免れない。富豪一族の闇とヨーロッパの闇が重なる。このあたり、島を取り巻く海のようにおどろおどろしい。

 <原作は>、処女作出版前に急死して伝説の作家となったスティーグ・ラーソン。人口900万人のスウェーデンで360万部を売り上げたというのだから、まさに社会現象だ。世界40カ国で翻訳され、今も累計2100万部の売り上げを更新中と言う。ヨーロッパではすでに第2部、第3部も公開され、圧倒的な人気らしいが、この作品を観ればその理由も解る。草案の色々な罠が見え隠れし、事件より何よりこのヒロインの謎が解けないのだ。冒頭のミカエル失脚事件も、物語の終盤には絡んできそうな予感がする。

 <それもそのはず>、スティーグ・ラーソンはこの物語に第5部までを想定していた。第4部の草稿をパソコンの中に残していたそうだが、作者が急死した今、残念ながらそれが日の目を見ることはない。それまでにこのヒロインの謎は解決するのだろうか。それが気がかりだけれど、伝説のヒロインを置き去りに、大きな記録を残して、作者自身が伝説の人となってしまった。

 <家具等北欧のデザインは>シンプルなことで知られる。でも究極のシンプルに行き着くまでには、幾多の切り捨てたものがあるはず。この作品はそんなスウェーデンを表現しているみたい。切り捨てたもの、美しくペンキで覆った下の、ドロドロした物をこそテーマにしているからだ。それが風景の端整さと相まって不思議な味わいになっているのだと思う。原作の力、ヒロインに扮したノオミ・ラパスの存在感で、あまり馴染みのないスウェーデン映画に魅了された。漂うB級感、ドラゴン・タトゥーの女を劇場で見よ!(犬塚芳美)

この作品は、1月30日(土)より、
     敷島シネポップ、シネリーブル梅田、シネリーブル神戸で上映