太秦からの映画便り

夏の京都で、映画館と映画談議!

夏の京都で、映画館と映画談議!  
             
 祇園祭も真近、暑い夏の始まりです。
でも、(こんな時期こそ映画館!)という貴方、京都で映画談議しませんか。
 お話頂くのは、京都新聞でマキノ省三物語「オイッチニーのサン」を連載され、「京都 魅惑の町名―由来と謎をたずね歩く」という近著もある、映画通で有名な高野澄先生。そして今や生き字引のような存在、京都の映画産業の全盛期に、千本通を中心に映画館の看板絵を描き続けた竹尾昌典さん。そんな歴史の詰まった街に触発されて制作中の、柴田剛監督『堀川中立売』は若い息吹です。
 サプライズゲストも有り? 映画館と映画の好きな人、サカタニに集まれ!

 
“「オイッチニーのサン」で始まりま〜す ” 
プログラム: 1.竹尾昌典さんの映画館の看板絵、スライドショー
         2.ただ今編集中、映画『堀川中立売』
         3.高野澄先生に伺う映画や京都のお話

日時: 7月12日(日)4時〜5時半。(無料。先着60名まで)
              その後、飛び入り歓迎の懇親会(実費)があります。
会場: 集酉楽(syu-yu-raku) サカタニ(075−561-7974) http://www.sosake.jp/
アクセスと地図: 京阪七条より徒歩東1分。市バス七条京阪駅(206/208/100楽バス)
集酉楽地図
                          
主催: “映画館に行こう!”本制作委員会(T&F 075−721-1061)

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  「CINEMA,CINEMA,CINEMA 映画館に行こう!関西映画館情報」
          会場には執筆の面々集合。お会いしましょう!
          本の異論反論オブジェクト受け付けます。

※ご予約は、この記事へのコメントの書き込み(シークレット機能付)、
    あるいは(T&F 075−721-1061)、サカタニ(T 075−561-7974)まで。

映写室 新NO.6「MW―ムウ―」&「ディア・ドクター」

映写室 新NO.6「MW―ムウ―」&「ディア・ドクター」   
 ―止まらない邦画の快進撃― 

 日常を切り取り、揺れ動く心情をドキュメンタリータッチで描く分野で、邦画は世界でも他の追随を許さない領域に達していますが、このところ予算的に到底敵わない大スペクタクルでも、テンポの良い演出でハリウッド作品とは違った広がりを見せています。先週に続いて今週も、そんな全く違うタイプの邦画2本を紹介しましょう。どちらもミステリーで、「MW―ムウ―」は今年生誕80周年にあたる手塚治虫の原作を映画化したもの。「ディア・ドクター」は、「ゆれる」の西川美和のオリジナル脚本で、山間の村の医師の失踪で始まる物語。どちらも善だとか悪だとか、単純には割り切れない人間の2面性をあぶり出します。

1.「MW―ムウ―」 
 冒頭の軍隊を総動員したというダイナミックなカーチェイスが圧巻で、始まりはタイで起こった誘拐事件だった。被害者を追うと日本でのもう一つの殺人事件に結びつく。犠牲者は全員が同じ島の出身で、しかも皆、望月という国会議員の後援会員だった。この一致は何?と探り始めた新聞記者は、事故死した先輩記者がこの島の特集をしていたことに突き当たる。

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C) 2009 MW PRODUCTION COMMITTEE

 <こうして事件のキーワードが>沖之真船島だと解るのだけれど、先輩の死の背後にある闇の大きさを察したこの記者の戦慄が伝わってくるようだ。
 <明晰な頭脳で次々と復讐を企む結城に扮する玉木宏>、先週紹介した『真夏のオリオン』では、一人の命も粗末に出来ない艦長を大きな瞳に愛を込めて演じたが、今回は同じ瞳に冷酷な光だけを込めて演じる。見せない感情を探って仮面を剥いでみたくなるのは、あまりにも人間離れしているから。遠くを見つめる瞳が現実の何をも映していない。まるで空(くう)で、何かに心と体を犯されたサイボーグのようだ。そうは言っても伝わってくる感情、玉木が表現するのはいわばサイボーグの感情で、動かさないことで伝える感情の冷たさが見所だと思う。
 <一方牧師の賀来は>、結城の狂気を恐れながらも止める事も出来ず、自分の運命までも翻弄されてますます祈りに逃げ込む。原作では二人の間に肉体関係があってもっと複雑なドラマが展開するけれど、映画ではそこまでは踏み込まない。同じ苦しみを背負った者同士、離れられない一卵性双生児のような運命なのだろう。精神的な結びつきに焦点を絞った映画版のほうが、二人の過去が重くなるかも。賀来は何を祈っていたのか、山田孝之が内省的な青年の苦悩を瞳だけで表現する。玉木と対照的に、相手を思いつめたように見つめる瞳が印象的だ。結城の狂気は賀来の救いで、賀来の慈愛もまた結城の救い。まるで合わせ鏡のようにお互いの隠した感情を表現し合う二人。惹かれながら反発しあう様に悲しみがあって、役柄だけでなく役者としても相性が良いのだろう。

 <ところで、松本サリン事件から今年で15年> 家族が被害者になりながら犯人扱いされた、河野さんの無念さはどれほどのものだろう。どんどん過熱する報道の後、証拠不十分で釈放されても世間一般の疑いは消えなかった。それは地下鉄サリン事件でオウムの犯行が解るまで続いたけれど、私は河野さんを疑った事などない。実は政府を疑っていて、自衛隊とは思わなかったけれど、米軍の駐屯地での毒ガス実験ではと、とんでもない事を想像していた。生成の化学反応式が流失しても真似た事件が起きなかったように、サリンなんて簡単に出来るものではない。特殊な装置と神様が特別な人にだけ与える才能が必要なのだ。そう考えたら発生源は自然に狭まってくる。
 <あの事件はオウムだったけれど>、私と同じ様な事をもっと真剣に想像した人がいたと思う。化学のプロだったらなおさらだ。そんな事件が起こった時、事件は表に出るのだろうか。政府や米軍を信じても良いのだろうか? 手塚治虫の「MW―ムウ―」は松本サリン事件の20年近く前に作られている。真相を追うミステリーだけれど、結城と賀来の二人、いやもっと広く人間とは?の答えを追い求めるミステリーでもあるのだ。

 7月4日より全国でロードショー

2.ディア・ドクター
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(C) 2009『Dear Doctor』製作委員会

 棚田の美しい山間の小さな村を舞台に、脱ぎ捨てられた白衣の主、笑福亭鶴瓶が扮する医師の伊野を探って物語は始まる。彼は何故失踪したのか? 研修医の相馬、余貴美子が扮するベテラン看護婦の大竹、八千草薫扮する1人暮らしの老婦人等の証言から浮かび上がる伊野は、誰もに慕われ、強かでもありと人間らしい姿。でも彼の過去は誰も知らない。

 <こうして徐々に彼が偽医者なのが解ってくるが>、観ているほうは逆に、彼の周りのどの辺りがそれに気付いていたのか、解らなくなる。多くの事が観客に委ねられている。怪しいと言えば皆怪しい。村長だって最初はともかく、最後のほうは思い込みだけかどうか。緊急患者の処置での対応、看護婦はどうだったのだろう? 新米医師等にベテランの看護婦さんがさり気無く手助けするのはよく聞く話だけれど、彼女の場合一家の生活がかかっている。善意だけではないのかもしれない。余貴美子の意味ありげな目配せや一つ一つのセリフに、図太さや母親としての凄みを感じた。
 伊野医師は小さな嘘を転がし続けた男。好運なその場しのぎが成功し続け、皆の期待に合わせるようにずるずると医師を続けただけなのだろう。引き返したくても引き返せない。ここまで続けたのも、自分が首を突っ込んでしまったことへの、彼なりの責任感かもとも思う。

 <後姿に風情があって>、寝巻きのシーンなどセリフ以上に物語をつむぐ八千草薫、いつも素敵だけれど、この映画での八千草薫はいっそう輝いている。もしも自分が不治の病にかかったらどんな終末期を送りたいか。彼女の体全体が問いかけてくるのだ。それが自分ではなくて家族だったらどんな風に見送りたいか。今度は娘が考え込む。
 田舎の嫌らしさ、暮しにくさをリアルに描いてなんだか辛い。辛らつな目だけれど、最後に付け加えたと言うラストシーン、その向こうには優しさがあるのが西川美和だ。(犬塚芳美)

  梅田ガーデンシネマ、京都シネマ等全国で上映中

映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(後編)

映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(後編)
    ―ゴミと希望を拾って生きるストリートチルドレンたち―

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(c)2009 Yoshida Taizo

<昨日の続き>
―その松下さん主催のモヨの支援の下、スタジアムでサッカーをするシーンで、規則違反のシンナーで叱られてしゅんとしながらも、「僕はまだパンを貰ってない」と訴えて、嬉しそうに食べる様子とかも、可愛い。悪いのか無邪気なのか、ころころ変る子供たちの表情が印象的です。
小林:シンナーや麻薬が習慣になって止められない子供がいるんですよ。でもちゃんとしたボールを使って広いところでサッカーをするのは、彼らにとっては、僕らでは考えられないような凄い事なんです。しかもその後でパンや飲み物が貰える訳だから、皆楽しみにしている。パンを1斤くらいあっという間に食べてしまいます。
―子供たちはどうして家を出てストリートに来るのでしょう。
小林:事情はさまざまですね。ストリートチルドレンになるのはスラムの子供が多いけれど、田舎に手入れの行き届いた広い家があって手広く農業を営む家の子供もいる。貧しさだけが原因ではないのでしょう。ただカメラを向けると、親たちは皆、自分はちゃんと面倒を見ているのにどうして出て行くのか解らないと言うけれど、アレは嘘です。本当のことは言いませんよ。どう考えても過去には虐待等がありますね。ケニアはシングルマザーが多い。仕事も無くて親に子供の面倒を見る余裕が無いとかという特有のものもあるけれど、子供たちを見ていると、そういえば都会に憧れたとか、あの年頃には親に反抗して家を出たかったとか、我々と同じ思春期特有の心情もある。今回彼らを読み解くキーワードを思春期に置いてみたんです。

―確かに思春期は不安定で、私も訳の解からない事に悩んでいましたが、アフリカの彼らの場合それだけではない。このところの急激なグローバリゼーションで、自給自足の本来の素朴な暮らしが、一気に貨幣経済に飲み込まれていく。あまりにもそのスピードが凄くて、悲鳴を上げている様に見えました。そうかと言ってそれを止めて彼らだけ昔のままでいろとも言えない。難しい問題です。『バオバブの記憶』の本橋監督が、「学校で学ぶとお金でしか買えない色々なものを知って欲しくなる。でも手に入らなくて結局不幸になるから行かないほうが良い」と言って、学校に行きたがる子供を行かせない父親について、「一面で正しい。気持ちが解らなくはない」と言われましたが、同じ様に、今までの価値観をぐちゃぐちゃにされたのに、代わりの物がなく、夢見る方向を見失っているアフリカの悲しみを、隠れてシンナーを吸う刹那的な子供たちに感じました。もちろんこの作品がそんな事を訴えてはいないけれど、様々な事からそんな背景が浮かび上がります。
小林:アフリカを映すとどうしてもそうなりますよね。例えそんな風に編集していないとしても、そんな風にも感じて頂けばいいのです。ドキュメンタリーは報道とは違います。ありのままと言っても、僕が見てきたものだから、当然そこに主観が入っている。でも解りやすい説明やお仕着せはしません。映像のもっている力をもぎ取ってしまいますから。自由に解釈してもらえればいいと、最後は観客に委ねます。

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(c)2009 Yoshida Taizo

―映画が提言しないのはそれで良いとして、こういう作品を観ると、じゃあ自分はどうしたら良いのだろうと考える。それも上から目線と言われればそうかもしれませんが、そんな点はどう思われますか。この作品で現実を見て、立ち尽くしたんです。
小林:自分自身が地に足をつけてしっかりと生きる事ではないでしょうか。テレビ局とかで援助だと言ってアフリカに毛布を送ったりしますが、日本から送料を使ってわざわざそんな事をしなくても、品質は悪いかもしれないけれど、そのお金で向こうの毛布を買えば産業も成り立つわけです。ODA等日本の政府の援助も、援助と言いながら本当の援助になってなくて、日本の企業が援助した以上のお金を吸い上げる仕組みになっている。自分が自分の暮らしをちゃんとすればその矛盾に気が付くはずです。後、フェアトレードとかですね。
―自分がちゃんと生きるとは耳の痛い言葉です。ところでこの作品は途中まで佐藤真さんが関わっていたんですね。
小林:僕は佐藤さんの「阿賀に生きる」でカメラマンを務めました。今回の企画も佐藤さんが交渉とか色々根回しをしてくれたんです。それに3時間位に縮めた後からの編集はもう僕らでは無理ですから、佐藤さんがやってくれる予定だったんですよ。それがあんな事になって、一時は仕上げるのはもう無理かと思ったくらいです。色々な言語が混じっているので翻訳作業も複雑でしたし、こうして完成させることが出来たのは感無量です。日本では一人しかいない親指ピアノのプロ奏者、サカキマンゴーさんの協力を得れたのも幸運だったと思います。向こうの子供たちにも見せてあげたいんですが。(聞き手:犬塚芳美)

<インタビュー後記と作品の感想:犬塚> 
 <複雑な思いに揺れて>、観終えた後に答えの出ないドキュメンタリーです。子供ながらに街のゴミを拾い、業者からわずかのお金を貰って自活するストリートチルドレンたち。ぼろを纏い路上で眠って川で洗濯するとは、豊かさに慣れた私には、あまりに過酷な暮らしです。でも単純に同情もできない。体の底から湧き上がる躍動感、身体能力の高さ、仲間との弾ける笑顔と、彼らは私たちの無くしたものをたくさん持っている。そうかと思ったら、やっぱり辛いのか現実を逃れるようにシンナーに手を出し、黒い大きな瞳の底に虚ろさも広がっていく。無邪気な子供でありながら、時には人生の深遠を知る老人の様でもあるなんて、一体彼らの姿はどれが本当なのだろう。まるで今のアフリカそのものを体現するような、ストリートチルドレンたち。切ないような、子供たちの逞しさに未来を信じられるような、複雑な感情に投げ込まれました。
 <表題の「チョコラ」とは>、スワヒリ語で「拾う」を意味し、くず拾いをして生きるストリートチルドレンを指す侮蔑的な表現だとか。そんな侮蔑語すら「関係ねいや!」とでも言いたげに、毎日を生きる事に必死な、子供でもあり生活者でもある不思議な存在。やわな同情を跳ね飛ばす彼らの強い瞳が忘れられません。無駄のない、食べた物全てを血肉にしたような極限の黒い肉体が光って、活きると言う実態を私たちに突きつけてきます。


この作品は6月27日(土)より第七藝術劇場で上映、8月みなみ会館にて
詳しくは劇場まで(06−6302−2073)

映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(前編)

映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(前編)    
 ―読み解くキーワードは思春期―

 ワールドカップも真近になり(?)、アフリカ諸国が又注目されています。そんな時に、ケニアの地方都市ティカのストリートで生きる子供たちを追った、珍しいドキュメンタリーが届きました。
 <ティカは首都のナイロビから北東に45キロ>、車で1時間の位置。人口10万のうち半分はスラムに住んでいるような貧しい街ですが、ここにNGOを立ち上げ、もう十何年子供たちを支援する日本女性がいます。この作品はその活動を追いながら、ティカの街や彼女も知らない子供たちの生態を映したもの。自分の命と引き換えるように撮影に臨んだ、小林茂監督にお話を伺いました。

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(5月29日 大阪にて)

<小林茂監督インタビュー>
―この作品を撮られたきっかけは?
小林茂監督(以下敬称略):アフリカの子供たちと最初に出会ったのは15年前でした。この映画を企画した松下照美さんと一緒に、ウガンダに子供の写真を撮りに行ったんですが、厳しい環境なのに表情の強さがあって心に残っていたんです。今回その松下さんから、アフリカの子供たちを撮って欲しいと言う話が来て、実は腎臓の悪い僕が透析に移行する直前で、松下さんも少し前に大病をしている。やるなら今しかないと思い、すぐに透析に移れるようバイパスの手術をして行きました。具体的なイメージは無かったけれど、子供たちの食べて寝てという日常をきちんと撮ろうと思って行ったんです。
―松下さんはアフリカで子供たちを支援する活動をされているのですよね?
小林:ええ、この作品にもその様子が出てきますが、ティカでモヨ・チルドレン・センターというNGOを主催して、主にストリートチルドレンへの支援活動をされています。孤児を施設に引き取ったり、スラムの中の学校や婦人グループへの助成やサポート、職業訓練校への支援等です。松下さんは元々は徳島の山の中で山羊を飼ったりしながら陶芸をされていたのですが、ご主人を亡くされた後、99年にNGOを立ち上げ、子供たちの支援に力を注いでこられました。

―子供たちが生き生きとしていて、元気をもらいました。彼らが抱えている問題も、反抗期とか都会への憧れとか自分のこの年頃の気持ちとも重なり、環境は違ってもある意味で私たちと同じだなあと思いました。
小林:そうなんです。ここに映っているのは思春期の子供としてごくごく当たり前のこと。アフリカのストリートチルドレンというと、スラムや貧困とか民族の争いとか、どうしても社会問題で切り込みがちですが、そういう作品は他にもある。それに1時間30分の映像でアフリカの全てを解らせるのは無理、出来るのは一つ位だろう。だったら子供の心情だと思いました。もちろん社会的な切り口も射程に入れて撮ってはいたんですが、後半に出てくる、10歳の少女に「コバさんの病気が良くなりますように」とお祈りされているのが解った時点で、作品の方向性が変わってしまったんです。映していた時は何て言っているのか解らなかったんだけど、1年後に翻訳してもらって始めて(あ、僕の事だ)と気づいて、参りましたね。どこかで彼らを上から見ていて、心配する側のつもりだったのが、逆にこっちが心配されていたんですよ。

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(c)2009 Yoshida Taizo

―あのシーンは印象的です。いつもより多めだという食事を分け合い、一つのベッドに親子3人が固まって眠る姿が温かい情景でした。子供が子供らしくて可愛くて。
小林:あの母親はHIVに感染していて、離婚して子供二人とスラムに移り住んできたんです。何時発病するかも解りません。それにここではなかなか仕事が無い。農場で季節労働の仕事にありつけるのは恵まれた方で、仕事があっても短期間だったりと、あの一家だって今の暮らしがこの後も続くとは限りません。そうなったら子供たちはストリートチルドレンになるかもしれない。でも子供たちはそんな事に関係なく、宿題を見てもらったり甘えたりと、幸せそうでしょう。映っているのは一瞬の幸せかもしれないけれど、だからこそ大切で、多めの食事はそれを感じている母親の心づくしです。
―ええ。これは松下さんに依頼されて始まった撮影ですよね。
小林:ええ、でもモヨの宣伝映画にしない事、彼女を主役にしない事と言う約束でした。最初は松下さんに同行して撮影していたんだけれど、どうしても画一的になる。子供たちの心情に何処まで降りていけているかに疑問があって、1カ月位経つとこれでは映画にならないと感じ始めました。どうしても教育的な目線、大人目線になって、これが撮影の前半のジレンマです。で、カメラマンと二人で街に出てみた。と言っても、すぐにカメラは回せない。僕たちだけでストリートに出るのだって本当は危ないような所ですから、最初は歩くだけでした。撮影がどんな事かも理解できませんから、街全体、子供たちを取り巻く全体に、僕らのしたい事、撮影と言うものを認識してもらわないといけない。そうするうちにだんだん慣れて、映しても良いよと言ってくれる様になりました。屋台の下で袋に入って寝ている子供たちとか、焚き火のシーン、ペンキの缶でピラフを作って分け合う所とか、編集で最終的に残ったのは、ほとんどがその後に撮ったものです。そうは言っても、それが出来るようになったのは松下さんのおかげで、一緒にあちこち出かけたからなんですが。

―子供たちが皆で作ったピラフ美味しそうでしたね。
小林:ここの主食は甘くないとうもろこしの粉が主で、さっきの一家のように練って食べるんです。お米は色々種類があるけれど高い。ピラフは大変なご馳走なんですよ。でも子供たちは屋台の野菜売りを手伝っていたりするから、夕方仕舞う時に屑のトマト等はもらってくる。お金を出し合って米を買えば後は何とか揃う。たまにはピラフを作るんで、料理には皆一家言あるんです。作りながら、ああだこうだとうるさいでしょう。そんなシーンとかを後で見た松下さんが、自分の知らないところでは子供たちがこんな風なのかと驚いていました。彼女の前ではやっぱり構えていて、子供たちは一面しか見せない。彼女にとっても始めて見る生き生きとした姿だったようです。(聞き手:犬塚芳美)
<続きは明日>

この作品は6月27日(土)より第七藝術劇場で上映、8月みなみ会館にて
   詳しくは劇場まで(06−6302−2073)

映写室 新NO.5「守護天使」&「剱岳 点の記」&「真夏のオリオン」

映写室 新NO.5「守護天使」&「剱岳 点の記」&「真夏のオリオン」
     ―3人の男の戦い―

 今映画館に力作が目白押しです。こんな黄金期はめったにない。で欲張って、今週は上映中の中から邦画3本を選んでみました。題して、主人公は誰の為に、あるいは何の為に戦ったのか。どの作品からも時代を超えた優しい大和男子の戦う姿が浮かび上がります。


1.守護天使(一目惚れの為に見えない悪党と戦う)
 大ヒットした「キサラギ」の佐藤祐一監督の新作と聞いては、見逃せない方が多いはず。上村祐の原作をテンポ良い活劇に転じ、笑いながらも最後にはほろっとさせる。

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(C) 2009『守護天使』製作委員会

 <これは中年サラリーマンの純愛>の物語。須賀が鬼嫁から貰う一日の小遣いは500円きりで、大事なそれを落とした時拾ってくれたのは天使の様な高校生だった。一目で恋をして、彼女をこの世の全てから守ると決める。そんな思い込みを笑いながらも助けるのは、雀荘に住み着く同級生や引きこもりのイケメン。彼女の淫らなブログを見つけるが、何かの間違いだと信じない。そうする内にも魔の手が伸びてきて、彼女は天使なのか悪魔なのかと観客までが惑い始める。

 <…と、物語がとんでもない方向に>転がり行方が見えないのは「キサラギ」と一緒で、それがこの監督の醍醐味だ。思い込みの激しい中年男を演じるのはカンニング竹山。メタボな下着姿など生活感たっぷり。これじゃあ妻の鬼嫁ぶりも仕方ないと納得。こんな男に勝手な思い込みで後をつけられたら怖いのも当然で、年甲斐もない純情さが痛々しくなる。でも笑い話に変えてはいても、現実はこんなもの。人は外見ほどには心が年を取っていない。彼が体現しているのは、心の中と外見がアンバランスな、男女を問わない中年族の等身大の純情さと哀れさなのでした。何ともひりひりさせる。
 <一方、輝くようなピュアさ>で観客の目を釘付けにするのは、第50代ポッキープリンセスの忽須汐里。名門女子高生役を清楚な制服姿で演じて、これぞヒロイン!眩しい。でもそんな姿の裏にこそ、乱れた生態があるかもと疑わせるのも今の世情。後に解る悪党の姿や500円の小遣いと共に、現代社会の歪みを滲ませてくる。

 <圧巻は須賀の鬼嫁役の寺島しのぶ>と同級生役の佐々木蔵之助。二人は別格の吹っ切れ方と上手さ。舞台で鍛えた実力と迫力で、全体に喜劇性を加味して作品を別の次元に持っていきます。そんな寺島に監督が最後に差し出したプレゼントが心憎い。それはそのまま、へろへろになって働いているお父さんたちへの愛でもあるのですが、この温かさこそが監督の持ち味なのでしょう。カンニング竹山が愛しく見えてきます。

  テアトル梅田、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、
        109シネマズHAT神戸等全国で上映中



2.剱岳 点の記(地図作りの為に自然と戦う)
 黒澤作品の名カメラマン木村大作が、監督兼カメラマンとして難しい大自然の撮影に挑みます。危険な山を相手に繰り広げられる人間ドラマと共に、カメラ出身の監督ならではの、氷点下40度を超える立山連峰の映像美が見所。少し古風なリズムで描かれる登山隊の足取りは、昔ながらの手法で映した実写だからこそのもの。

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(C) 2009『劔岳 点の記』製作委員会

 <明治末期に日本地図を完成する為の最後の空白区>、剱岳に登って測量する話で、原作は新田次郎です。剱岳は険しい前人未到の山、陸軍の測量隊に対抗するように日本山岳会も初登頂を目指している。でも責任者の柴崎はそんな争いには興味が無い。案内人の長次郎は登山を淡々と確実にサポートする。不順な天候、険しい道と行く手は厳しい。
 <…と、そんな物語をゲートルを巻いて>わらじを履いてという、明治時代の服装と装備で再現している。これって危険なはずで、俳優たちを当時の過酷な状況に置き、それを映す撮影隊もまだ暗いうちかの機材を担いでの登山と、述べ200日以上のロケーションは疲労困憊だったらしい。そんな映画作りへの愚直なまでの姿勢が臨場感になって、登山隊に自分が混じって登っているような気分になる。この頑固さ、本物への拘り、若い監督には出来ない芸当。

 <飄々とした柴崎役の浅野忠信には>この時代のエリートの品格が見れるし、まるで本当に山に住んでいる男のような風情で長次郎になりきった香川照之の土臭さも見事。腰をかがめて淡々となすべきことをなす昔気質が、本人の役者魂に重なります。自然に飲み込まれそうな人間、それでも負けずに自然を乗り越える人間、両方が拮抗したところに出現する新しい世界。近頃はそうそう見れない、正統的過ぎるほどの正統さが貴重で、昔は良かったと愚痴りがちな大人の鑑賞に堪えうる作品です。全ての肩書きを廃したエンディングロールに監督のこの作品に込めた思いを見ました。

          全国で上映中


3.真夏のオリオン(無駄な死から部下を守りたくて、敵と戦う)
 敗戦の色濃い太平洋戦争末期に、太平洋上で命がもったいないと回天を使わず頭脳戦を仕掛けた実在の潜水艦長をモデルにした物語で、池上司の原作を潜水艦ものが得意な福井春敏が脚色して、「山桜」の篠原哲雄が監督しています。構成の巧みさが光り、大掛かりな物語を予算の少ない邦画がそれを感じさせずに見せ切った見事さ。戦闘シーンの大迫力だけでなく、じっくりと描かれるそれぞれの人物が魅力的です。

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(C) 2009「真夏のオリオン」パートナーズ 

 <このところ色々な作品で活躍する>玉木宏が艦長役で、親友にはケミストリーの堂珍嘉邦、時を隔てた2役で北川景子が登場する。艦長が若すぎる気もしたけれど、それすらもこの艦長の大胆さや人間的な魅力にしたのは玉木の力。大きな瞳がとらえどころがなくてカリスマ性をかもし出す。堂珍の瞳も憂いを含んでこの時代の悲劇性を代弁。二人の友情が時にハラハラさせるのも、軍人らしくなくて物語を解りやすくする。そして特筆物が北川景子の美しさ。男優中心の物語の中、少ない出番で爽やかな風を吹かす。艦長の思いのままに、映らない時すらも匂やかだった。
 <こんな具合に中心を>古風にも見えながら今の時代感のある若い俳優に任せて、脇を今や中堅の吉田栄作や吹越満、益岡徹が固める。皆渋い。特に久しぶりに見る吉田栄作の、でしゃばらないのに確かな存在感が忘れられない。目を見張った。少し前なら一世代違っていただろう配役が見事なハーモニーで、監督と共に日本映画界の順調な世代交代を証明。これも邦画バブルと言われるほどたくさん作られた賜物だと思う。

 <古い物語に当時の時代性と>それと相反する今の空気を同時に流す事は難しい。でもそれをしないと、映画の世界観から若い観客は置いてきぼりをくってしまう。この作品は両方を上手くクリアーしているのが見易さになっているのだ。軍隊らしくない長髪だとか、節度はあっても過剰に軍隊っぽくない喋り方とかで、適度な今が加味されて、戦争物語に普遍性が出て時代を超えさせた手法。「山桜」に続いて、篠原監督の丁寧な人物描写とバランス感覚、時代感覚に魅了された作品です。

   全国で上映中

 こうして見ると、3つの作品のそれぞれの主人公は、結局の所、自分の信条の為、プライドをかけて他の誰でもない自分と戦ったとも思えるわけで、他人の評価など気にしない。そんな潔さが胸を打ちます。(犬塚芳美)