太秦からの映画便り

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映写室 NO.200グラン・トリノ

映写室 NO.200グラン・トリノ 
   ―移民社会アメリカの融合―

 「硫黄島からの手紙」、「チェンジリング」等、監督のイメージが定着したクリント・イーストウッドだけれど、出発点はもちろん俳優業。そんな彼が「ミリオンダラー・ベイビー」以来となる、待望の主演、監督作で帰ってきた。自戒を込めた露悪的な視点も加えて、死生観と共に移民問題を抱えるアメリカの現状を捉えます。(こんなのってあり?)と、言葉を失う驚愕の結末のほろ苦さ。最後の俳優作品と聞いては見逃せない。

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(C) 2009 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

<荒筋>
 ウォルト(クリント・イーストウッド)は元フォードの組立工。朝鮮戦争従軍の経験があり今もライフルを磨く。妻を亡くし一人住まいだが、二人の息子は自分の事で精一杯で寄り付かない。かっての住民は引っ越してしまい、近所は家の手入れもろくにしないアジア系移民ばかり。ウォルトは全てが気に食わない。日課は庭の芝刈りとビールと、秘蔵のヴィンテージ・カーを磨く事。その愛車<グラン・トリノ>を盗もうとしたのは、隣家のモン族の少年タオで、不良に脅されてのことだった。タオを不良たちから助けた事から、隣家との付き合いが始まるが、不良たちの牙が今度はタオの姉に…。


 <舞台は、自動車産業の崩壊で街が壊滅的>になったデトロイト。日本車を売る息子が腹立たしいのは、ウォルトだけではなく仕事を奪われたこの地の人々の本心だろう。実際に、ビッグ3は窮地でも、トヨタのプリウスは大変な人気で、購入が順番待ちらしいのだ。お金がある層は、荒れた町からとっとと逃げ出し、安価になった市街地に移民が入って、治安が悪化しているのも現実の問題。車で通りぬけるのさえ危険になったと、この近くに住む知人が嘆くが、そんな世相と空気感が写っているのがこの映画のタイムリーな所だ。

 <一昔前の栄光の影もなく荒れていく街に住む老人の内面と外観を>、クリント・イーストウッドが見事に体現している。まるで彼にあて書きしたような一体感、この年でないと演じられないこんな役に巡り会えるとは、何て幸運な俳優か。
 <いかにも従軍経験がありそうな姿勢の良さ>に、実務を堅実にこなしてきた男の頑固さと保守的な偏狭さを漂わせて、肌の色の違うだらしないよそ者に眉をひそめる男…と、ウォルトは実に具体的だ。まぶしい時代があればあるだけ変化は辛い。静かで高潔だった街を変えていく異民族に眉をひそめるのは当然だ。彼の姿に移民を受け入れながらもそう簡単に融合はさせない、アメリカ社会の差別の根幹が見えてくる。決定的な優位に立ったアングロサクソン人の差別意識は強固なのだ。

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(C) 2009 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

 <近所や家族との付き合いは>妻がしていた。寂しくても、今更沽券に関わるようなことは出来ないし、するつもりもない。空回りするプライドに邪魔され、さあ、どうやって人生の終盤を送ろうかと目標を見失っていたところに関わってきたのが、自分とは対照的にフレンドリーな一家だ。人口密集に慣れたアジア人は、異国の地でも濃い情の中で暮らすもの。祖母に母、姉と女ばかりの家でたった一人の男のタオは、学校へも行かず職も見つからず、フレンドリーさでは乗り越えられないこの国の壁にはじき飛ばされ、大人の入り口で躓いている。

 <そんなタオを悪仲間に引き入れようとする>従兄弟達。こうして弱者どうし落ちていくのかと、負の連鎖に心痛めたところを救うのがウォルトだ。タオの真面目さに次第に心を解して面倒を見始めるウォルト、ウォルトの頑固さの奥に優しさと男の美学を見つけるタオ。親子と言うより祖父と孫のような二人は不思議な感情で結ばれる。遠くの子供よりも身近な他人に生きがいを見出す所もよくある話だ。観客がウォルトとタオが開きつつある穏やかな未来に頬を緩ませていたら、物語は最後に大きな山場を迎える。 

 <もちろんここまでも充分に魅せるけれど>、この作品が本領を発揮するのはこれから。頑固さが痛ましいほどに、ウォルトは老いの一徹でタオたち兄弟を守ろうとする。しかも銃社会アメリカへのさり気無いアンチテーゼ。そのかっこよさと確たる死生観、ウォルトの物なのか演じる俳優の物なのか解らないままに、観客はアメリカ的父性を見せつけられることになるのだ。アメリカとは父性の国、クリント・イーストウッドは父性の俳優だとしみじみと思う。しかも人生観として、これを突きつけられたらもう後はない。クリント・イーストウッドが俳優人生をかけた渾身の老いた立ち姿、このかっこよさを観客の目に焼き付けてラスト作品にしたい気持ちがよく解る。

 <こんな風な人と人の触れ合いを通して>、移民社会アメリカの融合は少しづつ続いていくのだろう。クリント・イーストウッドの異国で暮らす少数民族への暖かい視線が心地いい。気が付くとタオに感情移入して彼の愛を受け止めていた。(犬塚芳美)

   この作品は全国で絶賛上映中

《お知らせ》
 <振り返ってみると>、映写室の1回目は「ミリオンダラー・ベイビー」でした。アカデミー賞の主要4部門を受賞し、世間が大絶賛したこの作品の結末に、映写室は異議を唱えたもの。クリント・イーストウッドが演じるのはいつも強い男、大変なことは自分一人で引き受け、女子供等、弱者は常に守る姿勢です。世代の差や受けた教育の差もあって、私の場合そこに少し違和感を持ってしまう。それは今回も一緒でした。(守られた者の悔恨はどうしてくれる? 女子供だって頑張れる、一緒に頑張らせて欲しい)と言うのが私論ですが、もちろんこれは理想論かもしれません。
 <200回目を初回と同じ感想と同じクリント・イーストウッド作品>で飾る事になりました。基本的な考えかたは変わってないみたい。意図したのではないのに、書き始めて気が付いたこの偶然は、筆者にとっても驚きです。でもこれも神の教示かもしれない。長らくご愛読いただきましたが、200回を機に少しお休みを頂き、更に充実するよう映写室の形を変えようと思います。今しばらくお待ちください。(ただしインタビュー記事は公開に合わせてアップを続けます)新装開店のその日まで、皆様ごきげんよう!
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映写室 NO.199 子供の情景

映写室 NO.199 子供の情景
  ―学校へ行きたい、バーミヤンの少女―

 タリバンの本拠地アフガニスタンが注目されたのは、2001年9月11日。同時テロのあったあの日を境に世界は大きく変わったけれど、それ以前だってここはいつも戦火の中だった。強国の侵攻や内戦に巻き込まれ、平和を知らない若者が大勢いる。戦禍は子供たちに何を残したか、19歳の少女監督、ハナ・マフマルバフが、瑞々しい感性で寓話的な世界に纏めました。学校へ行きたいと切望する少女に希望を見ながら、大人の罪深さに心が痛む作品です。

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<荒筋>
 6歳の少女バクタイは隣家の少年のように自分も学校に行きたい。「鉛筆とノートがないと学校に行けない」と聞き、卵を売って買おうと4つ持って出かける。ちっとも売れず、落として割ったりもして、買えたのはノートだけ。鉛筆の代わりに母親の口紅を借りて学校に行く途中、崩れたバーミヤンの仏像の前で戦争ごっこの腕白坊主に捕まる。ノートは破かれて米軍の爆撃機になり、目と口に穴のある仮面を被せられた。


 <描かれるのは子供の目に映る寓話的な情景>だけれど、背景から浮かび上がるアフガニスタンの現状が痛ましい。ここは今もって危険な、時には渡航禁止にもなる地。私たちのもとに映像が届くのは、テロや拉致という極端な事件の後ばかり。住んでいる人の事はほとんど知らない。でもここにも日常はある。軍靴に踏み荒らされて、人々はどんな風に暮らしているのか。物語の狭間に、ブブカを被った女たちの姿、男女別の教育システム、タリバン政権の残したものや仕組み等、男尊女卑の風潮の強いこの地の暮らしが垣間見える。

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 <バーミヤンは標高2500メートルもの高地で>、夏は40度、冬は零下40度と寒暖差が激しく、しかも冬が5ヶ月も続く厳しい気候だ。それでも春には緑に覆われる美しいところだけれど、そんな自然の中に戦車の残骸等が放置され子供の遊び場になっている。
 <バクタイの家はがらんとした洞窟> 母の言いつけで兄弟の子守をしていると、隣家の少年の本を読む声がする。自分も学校に行ってあんなふうに本を読みたい、物語の続きが知りたいと思う。でも探したけれどいなかった母親だって、この暮らしでは彼女の希望通り本や鉛筆を買うお金をくれたかどうか解らないし、学校に行って子守をしないのを怒るかもしれない。ここでは子供も重要な働き手、学校に行けるのは恵まれた境遇らしいのだ。だから余計に、学びたいと言うバクタイの思いが胸に迫る。

 <バクタイに扮するのは実際にバーミヤンに住む>ニクバクト。時折り浮かべる大人びた表情は、過酷な運命を生きるこの地の少女の複雑さのまま。スカーフを被った姿が何とも可愛く、瞳には強さも感じ、この物語の希望とリアリティになっている。小さな手でぎこちなく卵を持って、「卵はいかが?」と売り歩く姿をハラハラしながら見た。
 <一方町を歩くと昼間から手持ちぶたさな男たち>が何をするでもなくたむろしている。アフガニスタンは1979年のソ連の侵攻に始まり、内戦、タリバンと反タリバンの戦い、米軍の攻撃から2001年12月のタリバンの崩壊と、20年を越える長い間戦渦にまみれて荒廃し尽くし、ろくに仕事もなさそうだ。
 <学校に行き未来を積極的につかもうとする>少女には希望が見えるが、大人にはそれが見えない。現世を諦めて、ジハードと来世に望みをかけたい下地は充分で、又もやタリバンが復活したとも伝えられる。

 <それにしても、貧しい暮らしの中で、鮮やかな口紅を隠し持つ>女性もたいしたものではないか。「女性は守られるべきもの」という伝統的な家父長制度のもと、就学、就労を禁止され、髪や肌を覆うことを強要されても、密かにお洒落を楽しむ強かさ。そんな物を買う余裕があるのなら鉛筆を買ってあげてよと、思わず抗議したくなったのは、私がここの暮らしを知らないから。口紅は、この地の女に明日も生きる力をくれる唯一のものなのかもしれない。
 <貴重な口紅を鉛筆代わりに>惜しげもなく使うバクタイ、彼女にとっては学校へ行く事が明日への希望なのだ。教室でバクタイの口紅でお化粧しあうおませな少女たちには、勉学とお洒落の両方の機会を手に入れて欲しい。

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 <悲しいのは、タリバンの真似とアメリカ軍による空爆ごっこ>と言う少年たちの遊びだ。捕虜になった外国人が被されてよく映像に流れた、あの不気味な覆面を少女に被せたのにはドキッとする。死んだふりをして難を逃れろと言う隣家の少年の知恵にも驚く。これこそが戦禍の爪跡で、大人たちの罪は深い。
 <でも彼らにも再生の力があると思えるのは>、無邪気さを残しているから。乱暴にバクタイから取り上げたノートに憧れがあるのは隠せない。子供たち皆が机に座りノートに文字を書ける日が、この国の再生の時だろう。学校の力、学ぶ事の威力は侮れない。さりげなく国際社会のすべき事を示された気がする。

 <もちろんそんな現状はアフガニスタンだけではない> 舞台をバーミヤンにしたのだって、イランに住んでいてもイランでの映画製作は簡単ではないらしいのだ。思想的、政治的、社会的な抑圧に耐える日々で、ここに映っているのはイランとアフガニスタンに共通する苦しみだと監督は告白する。(犬塚芳美)

 この作品は、4月25日(土)より第七芸術劇場、5月9日(土)から京都シネマ、
         7月以降神戸アートビレッジセンター にて公開


《ちょっとディープに》
 テヘラン生まれのハナ・マフマルバフ監督は、8歳から、父親でイランを代表する名監督のムフセン・マフマルバフの設立したフィルム・スクールで学ぶ。父から受けた影響は計り知れず、この作品も彼女の心に残った父の言葉が核になっている。

 <ノートを効果的に使っているが>、それは父の「多くの国がアフガニスタンに爆弾を落としてこの国を救おうとした。もしその時、爆弾ではなくノートが落とされていたら、この国の文化はずっと豊かになっていただろう」と言う言葉が忘れられないからだと言う。
 <原題は邦訳すると「ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた」>となるが、これは父ムフセンが、2001年の同時多発テロ以降に世界各地で出版した本から取ったもの。ムフセンは「国際社会は、タリバンの仏像破壊については声高に抗議するのに、長期にわたる戦争と干ばつで起こった飢餓のために、100万もの人々が死に瀕している事には声を上げない。仏像は誰が破壊したのでもなく、アフガニスタンの人々に対し世界の人々がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けた」と書いている。

映写室 NO.198スラムドッグ$ミリオネア

映写室 NO.198スラムドッグ$ミリオネア     
 ―“スラムの負け犬”が求め続けたもの―

 強豪を押さえて8部門を制したアカデミーの授賞式に、素人のインドの子供たちが大勢登場したのを覚えている人も多いだろうが、あの舞台のように賑やかな作品だ。今やハリウッドに取って代わる勢いのボリウッド映画で、世界中の映画賞を総なめにして躍進中。イギリスのスタッフの端正な仕事振りの後ろに、製作地ムンバイのエネルギッシュな躍動感が広がっている。インド理解にも役に立つのが頼もしい。

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(C) 2008 Celador Films and Channel 4 Television Corporation

<荒筋>
 ムンバイのスラム出身の青年ジャマール(デーヴ・パテル)が、後1問で2000万ルビーを手に入れそうな今、国中が「クイズ$ミリオネア」に釘付けだ。番組のホストは無学な彼がこんな難問を知っているわけがないと、不正を疑って警察に通報。拷問にかけられたジャマールは、答えを知っていた理由を、一つ一つ辛い記憶を紐解いて話し始める。さあ、疑いが晴れ大金は手に入るのか、彼がテレビに出た目的は達成できるのか…。


 <この作品は大きく分けると3つの場面>で成り立っている。まず実況中継のクイズ番組のスタジオ、警察の取調室、そして回想されるジャマールが答えを知るにいたった彼の半生だ。話が広がるのはもちろん回想シーンだけれど、番組のホストや取調官とのやり取りに、より人間ドラマが広がる。しかも静的なシーンを引き締めるそれぞれの脇役に、インドが誇る名優を配しているのも上手い。

 <インド中の視線をくじ付けにしたスタジオでは>、ホストが内心面白くない。この手の番組の醍醐味は、クイズ以上に、大金に目がくらむ挑戦者の葛藤を司会者が暴く事。でもジャマールにはそれが見えない。淡々とクイズを続ける青年の平常心の前では、大金が手に入るかどうかの天国と地獄の間を煽れば煽るだけ、自分の陳腐さが浮き上がってしまう。番組を盛り上げる決定的な何かを挑戦者に奪われ、カメラに笑顔を見せながら裏側で舌打ちをするホスト。
 <いつもなら皆の視線は自分にあるのに>、今回は目の前の気弱そうな青年に国中が熱狂している。忌々しいけれど、カメラの前ではそんな素振りも見せられない悔しさ。アニル・カプールがさもありなんと思わせる演技と存在感で、テレビ業界人の内外両面の胡散臭さを体現する。二人が向き合って座っただけのシーンがこれだけ力強いのは、カプールの実力だと思う。
 
 <警察の取調室でも、映画的に同じ事が起こる> ジャマールの告白で変わっていく部屋の空気を知らせるのは、もっぱら取調官に扮したイルファーン・カーンの表情。世界的には知らない顔がほとんどのこの作品で、「その名にちなんで」や「マイティハート/愛と絆」等、国際的な出演作が多い彼の出現でメジャー感が出てほっとした人も多いのではないか。豊かな表情に、不正を疑いながらも信じようともする根底の優しさや人情味が滲み出て、ジャマールだけでなく取調官の人間性を浮かび上がらせるのが見事だった。

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(C) 2008 Celador Films and Channel 4 Television Corporation

 <そうは言っても、もちろんメインは>波乱万丈のジャマールの半生。その半生を、答えを知った経緯の説明の形で回想するのがこの作品のミソだ。幼い頃からいつも兄のサリームと一緒だったジャマール。母が死に二人で生き始めた時に目に付いたのはぽつんと佇む少女ラティカ。兄に反対されながらジャマールは少女を仲間に入れる。この日が運命だったのかもしれない。お金儲けに長け、いつの間にか純粋な心をなくするサリーム、兄について動けば良いから純粋さを無くさずにすんだジャマール、美貌ゆえにやくざのボスに気に入られて囲われの身となるラティカ。
 <絡みながら離れる3人の運命が>、ラストになればなるほど重層的に浮かび上がる手法も見事なのだ。出演者の中でただ1人イギリス生まれと言うデーヴ・パテルのかもし出す静が、めまぐるしい展開のこの作品に気品を与えているのも見逃せない。

 <それらのシーンは実際のムンバイで>ロケがされたという。アジア最大というスラム街を走り回る子供たちの貧しさと逞しさ、舞台挨拶に立った子役の中には実際にこのスラムに住む子供が何人もいる。時にはハンドカメラに持ち替えて切り取り、観光地での不法な商売、近代化された巨大なビル街、さまざまなインドの顔が、街の匂いやエネルギーそのままに、まるでその場に立っているように臨場感を持って広がっていく。人こそがこれからの財産のようなもの、躍動的なインドが映っているのも見所だ。

 <圧巻はラストに浮かび上がる>それぞれの愛の物語。書きたい事は山ほどあるが、運命の絡み合いとジャマールの平常心の訳が解き明かされる過程は、実際に映画を観て欲しい。ダニー・ボイル監督と脚本のサイモン・ビューフォイというイギリスのコンビが、緻密な設計図を作ってこの作品を撮っているのに感動するだろう。
 幼年期から青年期までの物語なので、主演の3人は年代別に3人が扮している。くりくりと動く瞳が印象的な、子役たちの可愛さもこの映画の見所の一つだと思う。(犬塚芳美)

  この作品は、4月18日(土)より全国でロードショ-

<「クイズ$ミリオネア」とは?>
 イギリス発祥のクイズ番組で、徐々に難易度を上げ正解を続けると高額賞金が手に入る仕組みだ。現在までに世界の80カ国以上で放送され、熱狂的な人気を誇っている。全世界の「クイズ$ミリオネア」は、本作の製作提供会社でもあるセラドール・フィルムズの関連会社によって所有・ライセンスされている。日本でも、みのもんたが「ファイナルアンサー?」と迫って社会現象にまでなった。ちなみに最高賞金額はイギリス版では100万ポンド(約1.3億円)、本作の舞台インドでは2000万ルピー(約4000万円)、日本では1000万円。

映写室NO.197 MILK(ミルク)

映写室NO.197 MILK(ミルク)  
 ―1970年代のアメリカでマイノリティの為に戦った政治家―

 さすがに本年度のアカデミー賞主演男優賞を射止めた演技だ。脚本も凄いし、実在の人物ハーヴィー・ミルクも凄いが、映画的に言うなら、この作品はまるでショーン・ペンの力を再認識する為のようなもの。公職に付いたゲイの男性の、微妙なゲイ的匂いを過不足なく漂わせる見事さ。マドンナの元夫の問題児は、今やハリウッドを代表する演技派だと確信する。

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(C) 2008 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED

<荒筋>
 72年、同性愛者のハーヴィー・ミルク(ショーン・ペン)は20才年下の恋人と共に、サンフランシスコの「カストロ地区」でカメラ店を開く。ミルクの人柄で店はたちまちコミュニティ・センターのようになる。全ての人の権利と機会の平等を求めて市政執行委員(日本の市議のような立場)に立候補し続け、4度目の挑戦で米国史上初めてのゲイを公言した公職者が誕生した。しかし同性愛者の権利剥奪の動きが全米で起こり、ミルクは多くのマイノリティを巻き込んでそれを阻止する運動を起こすが、ある日…。


 <ミルク側からの視点で描くこの中では>はっきりとした悪者だけれど、同性愛者への差別運動の筆頭、元準ミス・アメリカのアニタ・ブライアントを笑ってばかりはおれない。当時、海のこちら側日本でも西海岸のこの騒動は時々報道されていたが、正直に言うと私も、パレードで腕を組んだりキスしあったりと、同性愛を白日の下にさらす行為に、アメリカって極端な国だなあと驚き、彼女に近い懸念を持ってもいた。アート志向でヒッピーやウッド・ストック等自由を求めるアメリカ文化に憧れていた私ですらそうなのだから、当時の世間はまだまだ同性愛者へ偏見が強かったと思う。
 <そうかと言って同性愛を嫌悪していた>わけでもない。ゲイの友人に好意を持っていたし、「モーリス」とかの映画には魅せられたんだから、認めつつもどこかで秘めるべきものと思っていたんだと思う。その、自分でも意識しない、(秘めるべき事)と言う思想の中に潜む差別意識に立ち向かっていったのがミルクだ。(何故秘めなくてはいけない?正々堂々と言えば良いのだ)と示す彼の姿が、どれほど多くのマイノリティを救った事だろう。

 <いつの間にか婚姻届すら受理されるところが出来たが>、この映画を見て、時代は自然に変ったのではなく、悔しい思いをバネに、血の滲むような努力を続けた人々がいるのだと思い至る。しかも偏見を持つ人は1つに対してだけではない。例えばゲイへの偏見でも、その向こうにはもっと多くの差別意識があること、自分との違いを排除する思想がある事を教えられた。

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(C) 2008 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED

 <亡くなった時のミルクは政治家だけれど>、彼は政治の為に戦ったわけではない。正々堂々と自分の愛を誇り、愛する人を太陽の下で抱きしめたかっただけ。そんな、人としての基本的な自由の為に戦った人だと思う。
 毎回どんな難役でも確実に自分のものにするショーン・ペン。微妙な口元のニュアンス、少し前に回した肩や手の角度が匂わす微かなゲイの雰囲気、決してアーティスト系のゲイではなく、優秀な保険屋だった人の持つ地味さと普通さも纏っている。顔形ではなく彼の本質に迫ってミルクになったのだ。

 <そんな主役との2人3脚で>この作品にリアリティを与えたのは、もちろんガス・ヴァン・サント監督。この手の作品ではラストに記録映像を畳み込むように映して、観客を当時に連れ戻す手法がよく取られるが、今回は途中にバランスよく配して(これが出来るのはもちろんミルクに限りなく近づいているショーン・ペンがあればこそだけれど)、記録映像と劇映画をシャッフルし、私たちをまるでその場に迷い込んだような気分にさせる。しかも当人役は別の俳優でも、ミルクの周りの当事者をさり気無くその場に配して、その時の空気感を再現。劇映画なのかドキュメンタリーなのか時々解らなくなった。もうこの監督の作品は見逃せない。

 <ミルクが銃弾に倒れた夜の>伝説的な追悼行列が再現されているが、多くの市民がエキストラとして協力したと言う。既成概念や伝統を変えることは難しい。しなやかな心と強い意志でそれに挑んだ人として、ミルクは今なお慕われている。(犬塚芳美)

この作品は、4月18日(土)より梅田ブルク7、シネマート心斎橋、
                  京都シネマ等全国でロードショー
      4月25日(土)より三宮シネフレックスで上映


<ちょっと横道に>
 理解し合っていたはずの恋人スコットは、選挙に落ち続けても、二人の関係性よりも公人として皆のミルクになろうと夢を追い続ける姿に(もう付いていけない)と呟いて離れていくし、後の恋人ジャックは職場にまで電話して帰宅時間を尋ねるし、あげくには取り残された寂しさで自ら命を絶ってしまう。これってまるで男女の関係と一緒。恋に性別は関係ないと改めて気付かされる。

映写室 NO.196フロスト×ニクソン

映写室 NO.196フロスト×ニクソン 
   ―リチャード・ニクソンとは、一体何者だったのか?―

 アメリカの一般市民に「歴代大統領のうち“もっとも好ましくない大統領は”」という質問をすると、ジョージ・W・ブッシュと共に、たいていリチャード・ニクソンが上がるという。でも歴史学者や政治学者の評価はそれほど悪くない。大衆と専門家の間でかなり評価が違うのだ。実績を残しながらウォーターゲート事件の汚名にまみれ、任期半ばで退任したリチャード・ニクソンとは、一体どんな男だったのか。トニー章受賞の傑作舞台劇の映画化で、今も語り継がれる伝説のインタビューが再現される。

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(C) 2008 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.

<荒筋>
 1977年、米国元大統領ニクソン(フランク・ランジェラ)に、イギリスのテレビ司会者、フロスト(マイケル・シーン)が独占取材を申し込む。政界復帰を目論んでいたニクソンは、タレントのフロストをくみやすしと考え、巨額の報酬で承諾する。一方フロストは、これをきっかけに米国メディア復帰を目指していた。それぞれの思惑の元、カメラの内と外で丁々発止のやり取りが始まる。


 <主演の二人は舞台と同じ俳優なので熟達の境地にあり>、どちらもこれ以上望めないほどの役との一体感。まるでリアルタイムで本物のインタビューを見ているように、一挙手一投足に息を呑む。ただ正直に言って、主役の二人はどちらも気持ちのいい人間ではない。特にマイケル・シーンの演じるフロストは、メディアと言う水商売の垢がたっぷり。日本で言うと「古館一郎」や「みのもんた」のようで、人を食った雰囲気に違和感がある。ビジュアル的にも日本人の私には馴染みにくい顔立ちで、企画が売れなくて金銭的に追い詰められるシーンにすら、気弱さを隠す精一杯の虚勢や自意識が鼻について、同情はしにくいのだ。
 <彼に追い詰められるフランク・ランジェラ演じる>のニクソンの方がまだしも深い。ニクソン本人のものなのか、演じた俳優の力なのかは解らないが、老獪さと孤独、弱さが共存していて、何を考えているのかと心の内を図りかねる。これこそが政治家かもと目を見張った。ただしそこは映画的な表現というもので、ランジェラがあらゆる感情を顔面で複雑に表現するのが見事で、余計に人間味が増してもいるのもある。本物の政治家なら、これほど表情に心のうちを出さないだろう。

 <こんな具合に名演ながら、二人のどちらにも感情移入できない>のがこの作品の特徴で、私たちは目の前の凄まじいやり取りを、聴衆そのままにジャッジするようにテレビ的視点で見ることになる。まあ、疑惑の主へのインタビューという設定だから、それが正しいのだけれど、本当にどちらもが曲者だ。
 <老人臭かったニクソンは>テレビカメラが回り始めると急に威厳を持ち始めるし、元大統領の風格も戻ってくる。最初のフロストをなめた視線や、途中からの甘く見ていた相手の意外な力に身構える瞬間等、刻々と変わる心のうちをランジェラが解りやすく演じていく。

 <元大統領に気を使わずに>、言葉尻を取ってじわじわと追い詰めるフロスト、彼の厭らしさも凄い。まるで言葉のボクシングのようなやり取りさえも正義感よりは野心丸出し。こうでなくてはこんな仕事は出来ないのかもしれないが、どうも苦手だ。
知性よりも成り上がり根性が見えて、どちらもに人間的な品性を感じられず、いわば二人の厭らしさ比べをしたようなインタビューだった。

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(C) 2008 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.

 <驚くのが収録時間の長さ> まるで回顧録の聞き取りのように2週間も当てられる。脛に傷の有る身でそんな条件を飲んだニクソンの甘さを感じたが、ニクソンはニクソンで、弁明と政界復帰の宣伝に最大限に利用したかったんだろう。テレビを利用しようとして、テレビに止めを刺されたといえるかもしれない。
 <そうして作られた実際のインタビュー番組は>450万人のアメリカ国民を釘付けにしたという。唇の上に噴出す汗に象徴される元大統領の緊張、思わず「大統領は時に法律を超える存在だ」と言わされてしまう無防備さ、多くの業績を残しながらアメリカ的な正義感の元、大衆の好奇心の渦中に引きずり出されたニクソン。私には元大統領という以上に一人の老人に見えた。望みをたたれて背中を丸めた後年の姿が痛ましく映ったのは、フランク・ランジェラの名演に負けたということだろうか。

 <ロン・ハワード監督は>、このインタビューをリアルタイムで見ている。追い詰められたニクソンの懺悔で、もう2度とこんな醜い事件は起こらないだろうと思ったというが、この映画を見た観客の私に残ったのは、背後の謎とニクソンの得体の知れなさだった。再選確実といわれた男が、汚い手を使ってまで知りたかった民主党側の情報は何だったんだろう。「大統領は時に法律を超える存在だ」という言葉に、言葉尻を掴んだという思い以上に、そうまでして知りたかったことのほうに興味を持ってしまう。アメリカ国民ではない私は大衆の嫌悪感も持てないし、政治学者の知識もない。最後までフランク・ランジェラのかもし出した不可解さにやられっぱなしだ。(犬塚芳美)
 
《ちょっとディープに》
 <リチャード・ニクソンの功績>は、まず外交面では、泥沼化していたベトナム戦争を終結させ、中国との国交を回復し、ソ連とはデタント政策で緊張を緩和したりと、共産主義圏との冷戦関係を平和的に解決しようとしたことだ。内政面でも経済を再建し、人種差別撤退を遂行。環境問題にも取り組み、環境保護庁を設立して、オイルショックへの対応策として石油節約の為に高速道路の最高速度を制限もしている。こんな実績を引っ下げ、再選確実といわれていたニクソンが、一気に泥にまみれたのがウォーターゲート事件だった。
 <ウォーターゲート事件は> 1972年6月の事で、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビルにあった民主党全国委員会本部オフィスに、5人の男が不法侵入して逮捕される。取調べで時のニクソン政権の高官たちが、野党の盗聴に関与していたことが発覚するが、ニクソンと側近は捜査を妨害し、事件の揉み消しを図った。でも大統領執務室での会話を録音したテープが出るなどして、ニクソン自身も不法行為の容疑を受ける。弾劾を避けて74年8月に辞任表明。現職大統領の辞任は米国史上初めてという汚名を科せられた。ただし疑惑は一杯でも、後任のフォード大統領の恩赦で刑事責任は問われず、国民への謝罪もない。司法の手を免れた元大統領への民間調査のようなこのインタビューは、その3年後に行われる。


 この作品は、全国で上映中

映写室NO.195ワルキューレ

映写室NO.195ワルキューレ
  ―祖国に仕えるか、総裁に仕えるか?―

 これは第2次世界大戦末期に実際にあった、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂事件を題材にした政治サスペンスで、権力者に屈する者と不当な権力者から祖国を守ろうとする者のせめぎあいが、息もつかせぬ展開で続いていく。ヒトラーの暗殺計画は30回以上企てられたとも言われるが、この事件の後はもうない。早くからヒトラーの本性を見破り、祖国ドイツを守る為に危険な暗殺計画を首謀する名門貴族出身のドイツ軍将校を、トム・クルーズが貫禄で演じています。

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(C) 2008METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. ALL RIGHTS RESERVED.

<荒筋>
 アフリカ戦線で片方の手と片目を無くしたシュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)は、ヒトラーの悪政に絶望し、無駄に命を落とす部下や国民の為にも、彼を暗殺するしかないと考えている。でも彼を暗殺するだけでは祖国は救えない。ナチス政権の転覆が必要だと、有事の際の作戦「ワルキューレ作戦」を逆手に取ることを目論む。参謀長の立場を利用し自らヒトラーのいる会議に爆弾を仕掛けると…。


<少ない出番で一気にこの作品に>リアリティを出すのが、デヴィット・バンバーの演じるヒトラーの存在感だ。最高機密会議だと言うのに、側近の中にさえ目配せし合って暗殺を企てる者がいるという極度の緊張の中で、独裁者はますます頑固に冷徹になっていくと言う構図。それでも彼の存在だけで一つの方向に物事が動いていくと言う当時のドイツの仕組みがよく解る。
 <彼の放つ圧倒的な負のオーラ>、誰もが恐れ跪いたのはこんな男だったはず。今まで作られたものの中には、独裁者の心の内を丁寧に描き、人間的過ぎると非難を浴びた作品もあったが、暗殺する側の視点から描いている今回は、私が観た作品の中で、一番私のイメージに近いヒトラーだった。背中を丸めた後姿からも独裁者の不気味さが伝わってくる。

 <そんな総統に怯まず、無駄に死んでいく>大勢の兵士と祖国を守る為に、大佐は堂々と大胆な行動に挑む。彼を突き動かしたのは小さい頃から培われた正義感や祖国愛。家族の事を心配しながらも止めるわけにはいかない。九死に一生を得た運命が突き動かした物もあるだろう。トム・クルーズの中に残る甘さがいかにもヒトラーとの違いで、演技的な限界だったのかどうか、結果として反乱者達の甘さを的確に示す事にもなっている。
 <トム・クルーズではなく、もっとヨーロッパ的な俳優が>演じていたらどうだったろうと思うが、そうしたらこの心理劇はもっと重苦しいものになっていたかもしれない。彼が演じた事で、たとえ失敗したとしても、この時期のドイツ軍の中から反乱を起こすことに意義があったという、ハリウッド的な救いが加わったのだろう。失敗して死んでいった大勢の者達の思いはどちらだったのだろうか。

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(C) 2008METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. ALL RIGHTS RESERVED.

 <それにしても当時の軍の中に>、こんなにレジスタンスが広がっていたのかと驚く。敗戦の匂いが皆に気づかせた事は多い。日本でも同じだったはずなのに、今のところ映画的に検証されているのは、それでも祖国を守る為に進んで犠牲になっていった愛国心のほうだ。ドイツの動きを見ながら日本のことを考えた。
 <ヒトラーがこの暗殺劇で死なないのは>皆が知っている。だから解っている結末までの、作戦に加わる者、巻き込まれる者のそれぞれの葛藤を人間ドラマとして見せているのがこの作品で、人の強さと弱さがリアリティを持って多様に描かれているのが脚本と演出の巧みな所だ。家族を抱えた葛藤、独裁者への恐怖感、愛国心、それぞれの人々が独裁者の下でうごめいていた。

 <それでも事は翻らない> 翻りそうになりながら、ヒトラーの生存という一点で事態が逆戻りしていく、次々と将校が翻っていく最後のオセロゲームのような急変はなんとも悔しい。あれは何だったのだろうか。そんなヒトラーの存在の重さを思い知らされた作品でもあった。(犬塚芳美)

    この作品は全国で上映中

《ちょっとディープに》 
 <ワルキューレとは>、元々北欧神話に登場し、「戦死者を選ぶ者」と言う意味を持つ女神達の事で、ドイツの誇る作曲家ワグナーの書いた「ワルキューレ」は、その神話を基に作られている。ワグナーの熱狂的な愛好家だったヒトラーは、親衛隊による国内反乱軍の鎮圧計画を「ワルキューレ作戦」と名づけてシュミレートしていた。
 <1944年当時、連合軍によるノルマンディ上陸作戦>が成功して、ドイツの敗戦は日増しに色濃くなっていく。ミュンヘン大学の「白バラ」等反ヒトラーの地下運動は色々なところにあったが、それでもどれもが命がけだった。陸軍内部にあったという反ヒトラー派の「黒いオーケストラ」は、ドイツ壊滅を防ぐ為に一刻も早く英米と講和を結びたく、大胆な暗殺計画を決行する。
 <シュタウフェンベルク大佐を首謀者として>繰り広げられたのは、その「ワルキューレ作戦」を裏返すような作戦で、独裁者の暗殺すらも親衛隊の仕業にしようと言う大胆な物だった。でもヒトラーは悪運の強い人だったようだ。ヒトラーの恐怖政治が成立したのは、回りにプチヒトラーとも言うべき存在があったから。結局この作戦が失敗するのもプチヒトラーたちの存在だった。

映写室NO.194イエスマン“YES”は人生のパスワード

映写室NO.194 イエスマン“YES”は人生のパスワード
   ― もしも、すべてに“YES”と答えたら―

 <人生もパソコンも>、前に進む時の選択肢は “YES”か“NO”。二つに一つしかない。人生や演習の複雑な結論も、結局は単純なこの選択の繰り返しでたどり着いて行く。それも、右利き、左利きの癖があるように、人の選択には癖がある。そんなつもりは無くてもたいてい同じ選択をしてしまうものだ。
 <面倒な事が嫌いで、いつも“NO”と言っていた男>が、ある日を境に全てに“YES”と言うルールを自分にかせる。現代の喜劇王ジム・キャリーが、ハチャメチャな中にも味わい深く“イエスマン”を演じています。後ろ向きの人生はつまらない。 “イエスマン”になって新しい世界に踏み出したいと、これを見ると思うだろう。と言っても、日本人の得意な嫌々ながらの“YES”は駄目。明るい肯定的な“YES”でないと、未来は変らない。

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(C) 2008 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. - U.S., CANADA, BAHAMAS & BERMUDA. (C) 2008 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED - ALL OTHER TERRITORIES.

<荒筋> 
 カール(ジム・キャリー)は、面倒くさい電話には出ず、友だちからの誘いも口実を見つけては断る。仕事先の銀行でも融資の申し込みを却下してばかり。ある日悪夢にうなされ、友人の薦めるセミナーに行くと、何にでも“YES”と答える事を約束させられる。帰り道に早速“YES”と答えてとんだ災難に。でも思わぬ出会いも…。


 <奇想天外な話だけれど>、こんな無謀なルールを自分にかして実践した人がいる。ダニー・ウォレスという、TVのパーソナリティも務めるイギリスのユーモア作家がその人だ。 この作品は彼の回顧録を基にしていて、原作はベストセラーにもなっている。7ヶ月間あらゆることに“YES”といい続けたら、何が起ったか?
 <実は私は、こんな実験をしたというウォレス>の心境に、「何故?」と興味を抱いたのだけれど、映画同様きっかけは失恋だったらしい。まるで人生を捨てたように全てにネガティブになった彼に、誰かが何気なく言った「もっと“YES”と言わなきゃ」の一言がガツンと響いて、“YES”の大暴走が始まっていく。確かに「もっと“YES”と言わなきゃ」の一言、私も色々な人に言いたい。“YES”は未来への扉を開けるが、“NO”は扉の向こうを想像する事もないのだ。

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(C) 2008 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. - U.S., CANADA, BAHAMAS & BERMUDA. (C) 2008 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED - ALL OTHER TERRITORIES.


 <幾通りもの笑顔を持つジム・キャリーが>、重くなり過ぎず、軽くなり過ぎず、カールの素敵さとかっこ悪さを、絶妙のバランスで体現していく。彼は、ハンサムな顔をこれでもかと言うほど歪め、ハチャメチャに崩すのが大好きな、体も心も天性のコメディアンなのだ。少し年を感じさせる憂いが、若い頃にはなかった陰影で、テンポの良い笑いの中に人生の深さを忍び込ませる。彼ほどの天才でも、年と言う味方が必要な本物のコメディアンは、これからなのだ。コメディって人生のペーソスがあってこそだと、改めて思う。

 <さあ、カールの日常が変り始めた> 一番大きな変化の予感は、今まで知らないタイプの女性アリソン(ゾーイ・デシャネル)に出会ったことだろう。多分彼女は、カールが“YES”といい続けて到着した新しい世界の元々の住人、“YES”“NO”に縛られず、自由に自分らしさを築ける女性だと思う。カールがライブハウスで舞台に立つアリソンを見付けた時の胸の高鳴りが聞こえるようではないか。
 <そうなのだ、人生が大きく変るのは>、この人に受け入れてもらいたい、自分に“YES”と言って欲しいと言う、人生のパートナーに出会った時。この映画そんな恋のときめきもリアルに伝えてくれる。最初はルールに従っただけでも、この頃からの彼は“YES”の効力に目が覚めていく。見ている私もいつの間にか“YES”信者になっていたけれど。

 <尋ねる前から答えのわかるような>、何にでも“NO”という人は確かにいる。逆に、たいていの事には“YES”と言ってくれる人もいるものだ。人として賢明なのは両方を上手く判断する人だろうけれど、“YES”と“NO”の間の本人の事情には、実はあまり違いがないことも多い。無理をすれば“YES”と言えなくもないし、自分の都合を優先すればたいていの事は“NO”になってしまうものだ。“イエスマン”とは、とりあえず回りに合わせると言う事だろう。いや、合わせると言うのは違うかもしれない。目の前の事を肯定的に受け入れると考えてもいい。それでも自分は保てるのか、自分の人生はあるのか、喜劇の中に深い命題を含んだ作品だと思う。(犬塚芳美)


この作品は、3月20日(金)より、
     梅田ピカデリー、なんばパークスシネマ、
     ワーナー・マイカル・シネマズ茨木、MOVIX京都等で上映


《ちょっと横道に》 
 <ジム・キャリーが作中でカールになりきり>、“YES”と言って巻き込まれる、あらゆるシチュエーションに対応するため、色々な事に挑戦している。圧巻は、最悪の事態に備え会社から最終日の撮影でやっとオーケーが出た、橋の上からのバンジ―ジャンプ。こうしてみると彼自身が究極のイエスマンなんだと思える。
 <“YES”と“NO”で進んでいく占い等で>、もしその一つに違う選択をしたらどうなるのだろう? と思って、時々やってみるが、其処に思考が入ると、たいていは途中で同じ経路に返って行く。一つくらい違う選択をしても性格までは変わらない。結局同じ結論にたどり着くのは占いの組み立てかたがが正しいとも言えるのだ。本気で人生や性格をかえようと思ったら、この物語のように、機械的に“YES”あるいは“NO“と言わないといけないのだろう。

映写室NO.193アンダーワールドビギンズ

映写室NO.193アンダーワールドビギンズ
    ―女性戦士の活躍するシリーズの、起源にして最新作―

 映画の楽しみの一つは、スクリーンの中だけに存在する架空の世界を、まるで実在するかのように見れる事だ。ヴァンパイア族と狼男族の争いを描いたこの作品なんて、まさにその典型だけれど、奇抜さに以上に魅せられたのはその中の恋物語。身分や種族を超えた美男美女の悲恋が、大人版「ロミオとジュリエット」のようで切ない。今回はシリーズとなったタフな女性処刑人の誕生秘話で、シリーズのファンには種明かし的な側面もあるが、これ1作でも充分に楽しめる。夜と闇が交差する未知の世界で、クリエーターたちの自由自在な発想と工夫を凝らした映像を堪能したい。

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TM and (C) 2009 LAKESHORE ENTERTAINMENT GROUP LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

<荒筋>
 1000年以上も前、不老不死の祖からヴァンパイア族と狼男族が誕生する。知力や政治力のあるヴァンパイア族は凶暴な狼男族を支配しつつ、彼らの力を恐れてもいた。数百年後、狼男族から、人間から獣、獣から人間へと変化する新しい種族ライカンとして、知的なルシアンが誕生すると、ヴァンパイア族の長老は彼の血液からライカンをたくさん創り、奴隷として過酷な働きをさせる。しかし長老の娘ソーニャはルシアンと恋に落ちた。二人の関係に気付いた長老は…。


 <物語のおどろおどろしさ、映像の湿気感と重厚さ>が目立つが、同時に舞台を見ているような雰囲気もあって、それもそのはず主要な俳優はイギリスの舞台出身者で占めている。まず主演のルシアンには前作に続いてマイケル・シーン。逞しい肉体なのに、野生よりも知性を感じさせるのは、くっきりとした白目が際立つから。奴隷と言う屈辱的な立場にこれほど憤慨するのは、ソーニャとの恋もある。もっとも彼の知性は並外れていて、しかも端整なマイケル・シーンの顔には奴隷服よりも貴族の服が似合うけれど。人間性で言うと彼こそが貴族、指導者なのだ。その彼が怒りのあまり変身する狼男の映像の凄さも見所の一つ。目力の強い人で、瞳ばかりを思い出す。

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 <ソーニャの父の長老には、イギリスの名脇役ビル・ナイ> この人が映っただけでおどろおどろしくなるのは見事というしかない。どんな時も怒りを含んだ瞳はこの役そのもの。まさに闇の世界の住人だ。もちろん複雑な心情表現も巧みで、娘を愛しながら、一族の長として非情な決断をする男の抑えた悲しみが、じんわりと伝わってくる。

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 <勇敢な姫君ソーニャには、ローナ・ミトラ> とにかく逞しいのだ。端整な顔立ちでも古典的になり過ぎず意志の強さが目立って、この不思議な世界観にぴったり。でも未来の女処刑人の原型は、まだまだ未熟だった。父親の力を恐れつつ、恋人の恋しさに身を任せ、見るものをハラハラさせてばかり。古代の姫君は野性味もたっぷり、ドレス以上に戦闘服が似合うのだ。キワモノになりそうな設定でも、それ以上に大人の恋の物語になっているのは、この3人の演技の深さと渋さのせいだと思う。
 <そんなほとんどの物語の原案を書いたのが>、ルシアンの右腕役で俳優としても出ているケヴィン・グレイヴォー。遺伝子工学を学んだ、元微生物学者という科学的な視点を加えて、ヴァンパイアと狼男と言う半ば神話的な古典の世界が、ウイルスによる突然変異と言う話に変わり、現代的に瑞々しく甦っている。画期的なのは異なる種族間の愛で、ここでも「ロミオとジュリエット」の世界を軽く超えていく。これって禁断の愛かも、長老の怒りももっともかもと、グレイヴォーの自由さに脱帽。さあ、クリエーター達と一緒に、魂を遊ばそう!(犬塚芳美)

 この作品は3月14日(土)より敷島シネポップスにて公開

<ちょっとディープに>
 原案者で前2作の監督レン・ワイズマンは、本作では製作に回っている。余談なプライベート話だけれど、主演のマイケル・シーンが、子供まで成した女優のケイト・ベッキンセールを、この1作目で監督のレン・ワイズマンに奪われている。それもワイズマンが監督から製作に回った理由か?
 本作が初監督作品のパトリック・タトポロスは、元々美術畑出身で、今まで多くのヒット作で美術監督とクリーチャーエフェクツの、クリエーターとして活躍して来た。この分野の草分け的な存在。

映写室 NO.192シリアの花嫁

映写室 NO.192シリアの花嫁 
 ―2度と戻れない軍事境界線を越えて嫁ぐ― 

 <舞台はゴラン高原北部にある>イスラエル占領下のマジュダルシャムス村。軍事的な緊張で一段と厳しくなっている中東情勢だが、境界線でシリアとイスラエルに分断されたこの地には、家族が離れ離れになるこんな悲劇があると言うお話が、風土や風習の珍しさと共に始まる。
 <脚本も書いたエラン・リクリス監督>は、1954年のエルサレム生まれで、この地を舞台に幾つかの作品を作ってきた。今回は自身の旅の経験を元に、境界線を超えて嫁ぐ花嫁モナや家族と村の人々との1日の出来事を通して、時にユーモラスに、時に切なくこの地の複雑さを見せていく。心を打つのは何処の地でも変わらない親子の葛藤や女心。社会的な側面だけでなく、異文化の中での人間ドラマが胸を打つ。最後のモナの行動は、しなやかな現状への挑戦状だ。するすると境界を越えていく花嫁の勇気で、未来への扉が開けばいいのだけれど。

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<荒筋>
 今日は村の娘モナの結婚式。相手はお互いに写真でしか知らない、シリアに住む親戚の俳優だ。村人を招いた祝宴を前に、姉のアマルと共に支度をするが、今日を限りに家族とも会えなくなると思うと、心が晴れない。そんなモナとのお別れとお祝いに、ロシア人と結婚して勘当された長男も帰って来るし、次男もイタリアから帰って来た。父親のハメッドは、こんな日にもシリアの新大統領支持のデモに参加する。一方、アマルに届いた大学の入学許可証を見つけて、夫は愕然。村人を招いた盛大な宴の後、モナを花婿の待つ境界線に送っていくと…。


 <これほどの事情が無くても>、元々結婚式とは旅立ちで、家族や生まれた家との別れの日。花嫁にとっても家族にとっても、喜びと共に複雑な思いが去来するものだ。まして複雑な国同士の問題で、もう二度と会えないとなると、モナや家族の切なさは察するに余りある。この作品では結婚式の晴れやかさ以上に、寂しい影が一家に付きまとう。
 <それでも明日の自分の為に>、この家を後にする勇気と送り出す勇気。私たちから見ると、どうして其処までして困難な縁組をと思うが、同じ宗教内の親族同士の結婚は、結束と言う意味でも大切な事。この地の人々が遭えて無国籍を選ぶのと同じ様に、必然だった。右往左往する国際情勢に流されない確たるものがあるのだ。人々が、逆境の中でも負けないで、ここの土地を愛し、誇り高く自身のアイデンティティを持ち続ける姿が清々しい。

 <背景の社会情勢はもちろんだけれど>、この家族それぞれのキャラクターの濃さ。彫りの深い顔立ちそのままに個性が際立っているのも興味深い。一番ユニークなのはやはり父親だろうか。この村の指導陣、あるいは家長らしい頑固さで政治思想を持ち続け、イスラエル警察から睨まれて、家族をハラハラさせる。大人しく政府の思うようになる人物ではない。勘当した長男が帰って来ても、村の長老の手前簡単に許すことは出来ない等、昔の日本にもいた義理を重んじる頑固親父だ。知的な成功者なのだろう、この村を愛しながら家族を外部に羽ばたかせる強さがあって、三男を境界線の向こうのシリアの大学に通わせ、今度は次女に同じ様に境界線を越えて嫁がせようとしている。

 <そんな父親に育てられたんだから>、アマルも進取の器質。女ならば誰でも決断しないといけない結婚の日の朝、辛い結婚になったとしてももう帰っては来れない妹を案じながら、自分の夢を託すように、開かれた世界へと背中を押す。多分長女としてこの地に残る事を主眼に結ばれたんだろう凡庸な夫を愚痴るよりも、もう一度自分の人生を取り戻そうと、大学での勉強を目指すのだ。イスラエル生まれの国際的な女優ヒアム・アッサムが情感たっぷりに演じ、花嫁以上に姉が主役になっている。たおやかな美しさの中に悲しみや疲労感、知性が覗いて、彼女の佇まいだけで物語が広がる。この地を体現している女優だと思う。
 <多分一家の期待の星だっただろう弁護士の長男>、異文化の中で自分の出所が解らず控えめに振舞いながらも夫を助ける医師のその妻、女には目の無い軽い商売人の次男、夫と子供たちを温かく包む母親と、久しぶりの再会でぎこちなさから家族の絆が戻っていく過程が丁寧にリアリティを持って描かれる。

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 <キャラクターの濃さは家族以外も同様で>、シリアで待つ花婿、村の長老達、境界線でうだうだと難癖をつける双方の係官、意地と面子を張り合う両者の間を行ったり来たりする国際赤十字の女性と、誰もがこの地の空気感を持って立ち上がってくる。まるで自分がゴラン高原のこの村に降り立ったような気分だ。

 <日暮れは近づく。境界線に阻まれて>、モナはどうなるのだろうと思ったところに示されたのが、未来への指針だった。もちろんこれは映画的な結末で、現実がこれで解決するとは思えない。こんな事をしたら二つの国の狭間でモナは銃殺されるかもしれないし、多分捕らえられるだろう。それでも観客は、モナの選択に目を見開かされる。花嫁は自分の意志で未来への扉を潜ったのだ。この先何があっても彼女なら乗り越えていくだろうし、どんな境界線の向こうにもモナらしい幸せがあるに違いない。複雑な中東問題を斬新な切り口で見せ付けるエラン・リクリス監督に感服した。(犬塚芳美)

この作品は、3月7日(土)より梅田ガーデンシネマ、京都シネマで上映
        5月 神戸アートビレッジセンターで上映予定


《ちょっとディープに》
 <ゴラン高原のマジュダルシャムス村>は元々シリア領だったが、1967年の第3次中東戦争でイスラエルに占領される。しかしイスラエルでは少数派の敬虔なドゥルーズ派の村人たちは、シリアへの帰属意識が強く、多くが“無国籍者”となることを選び、 “境界線”の向こうの親族との行き来さえも出来なくなった。唯一の交流の場は「叫びの丘」で、拡声器で向こう側の親族とお互いに近況報告をし合う光景が見られる。
 <この作品は社会的な問題を斬新な切り口>で描いた手法と、巧みな脚本の構成、演出力で、世界中の観客から圧倒的な支持を得て、04年のモントリオール世界映画祭で、グランプリ、観客賞、国際批評家連盟賞、エキュメニカル賞と4冠を獲得した。それ以外にも世界各地で多くの賞に輝いている。

映写室 NO.191カフーを待ちわびて

映写室 NO.191カフーを待ちわびて 
 ―リゾート開発の進む沖縄の孤島の本当の幸せ―

 「嫁に来ないか。しあわせにします」と絵馬に書いたら、「私をお嫁さんにしてください」と手紙が届いた。これって奇跡?神様の配慮? 原作は原田ハマさんの、第1回日本ラブストーリー大賞をとった同名小説で、こんなのどかな島になら、そんな奇跡も起こるかもしれないと思うほど美しい南の島、沖縄の孤島が舞台の物語です。何もせずひたすら「カフーを待ちわびて」とは、いかにも南の島の空気感。方言の温かさが嬉しく、こんな奇跡を探しにこの島に行きたくなった。私のカフーに出会えるかも。

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(C) 2009映画「カフーを待ちわびて」製作委員会

<荒筋>
 沖縄の小さな島で、犬のカフーと共に世捨て人のように暮す明青(玉山鉄二)の元に、突然幸(マイコ)という女性からこっちに来るという手紙が届く。思い当たるのは友人達との旅先での事。悪戯だと思っていたが、幸は「今日からよろしくお願いします」と言って、本当にやって来る。明青の保護者のような存在のユタのおばあを手伝って、見よう見まねの家事は下手でも、都会的で美しい幸は明青が何も聞きだせないうちに、島の人気者になっていく。それでもどこか謎めいている彼女は一体誰なのか?


 <この物語の主役は3つある> まず、本当の主役の明青役の玉山鉄二。時々見せる自堕落さと放心した風情が彼の心の空洞を感じさせて、後半の種明かしへと繋がる。ぼさぼさの髪で世捨て人のような風情がよく似合っているが、この若者の本質が掴み切れない。さぞかしおばあをヤキモキさせるだろうという無骨さを自然に演じ、海や島の風景に馴染んでもいて、こんな青年が本当にいそうに思えた。
 <いかにも海の似合う南の島の青年の雰囲気>なので、出身地はもしや?と気になったが、京都府だという。演技力の賜物だろうが、それにしても不器用な役の似合う役者さんだ。たまに見せるはにかんだ笑顔が心に染みる。役としてのものなのだろうか、本人の物なのだろうかと迷いながら、最後は、まるでおばあのような気持ちで彼の恋を案じていた。

 <次の主役はもちろんマイコ> 「山のあなた~徳一の恋」で見せた大人びた和服姿とは打って変わって、年齢不詳の少女のような風情が素敵だった。本人の持つ透明感がこの不思議なヒロインにぴったりで、物語の神秘性と寓話性が高まる。儚げな感じはこの世の物とも思えず、途中までユタのおばあが呼んだ奇跡かもと思えた。それにしても美しい人だ。都会的なのに島の風景にスーッと溶け込む不思議さ。土着的に土っぽく演じた玉山と対照的で、さすがリゾート開発されそうな島だと、彼女の存在感がこの島を無国籍にしているのも見事だった。少し鼻にかかったような存在感のある独特の声も忘れられない。

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(C) 2009映画「カフーを待ちわびて」製作委員会


 <もう一つの主役は、もちろん沖縄のこの島だ> ユタのおばあがいるように、こんな島なら、人の力を超えた神がかり的な何かが支配していそう。そんな力には逆らえない。じたばたと働くよりも、カフーを待ってのんびりと自然を受け入れるのが良さそうだ。
 <島の若者を明青の仲間として>、裏には深刻な問題を抱えながら、この作品のトーンを壊さないよう、時にユーモラスに演じている多くの人々から、南国の島ののどかさと厳しさが浮かび上がる。とりあえずの答えは出したものの、たいていの田舎が抱える、開発か自然のままかの正解は見つからない。暮らしの大変さを知らない部外者が、理想論を押し付けられれるものでもないもの。

 <後半の思わぬ展開>は原作の上手い所だ。ちょっと推理小説めいた楽しさもあって、隠された過去、謎解きが感動を呼ぶ。映画は、読者に委ねた原作よりも踏み込んで、もう一つのラストシーンにたどり着く。
 <本当の幸せって何だろう?> 前に向かってひたすら走るのが楽しい時もあるし、ほんの小さな安らぎが嬉しい時もある。どちらもに幸せはあるけれど、何も無いのが長閑さの、この島の空気感に浸りたいと思う今日この頃です。恋の過程を丁寧に描いた、人の良心を信じられる爽やかな小品。ちなみに「カフー」とは沖縄の古い言葉で、「果報」や「よい知らせ」を意味する。(犬塚芳美)

この作品は、2月28日(土)より
   梅田ブルク7、なんばパークスシネマ、MOVIX京都等全国でロードショー

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