太秦からの映画便り

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映写室 「ある精肉店のはなし」纐纈あや監督インタビュー

映写室 「ある精肉店のはなし」纐纈あや監督インタビュー
―牛の飼育からと蓄解体までを行う肉屋さん―

人は、動物であれ植物であれ、他者の命を食べて初めて生きながらえる。その人間の命を支える仕事の一つに、牛をさばき家庭に届けると畜、精肉店の営みがある。とある精肉店は、牛の飼育から始まってと蓄解体までを行い、牛の命と全身全霊で向き合う。今どき珍しくなった家族4世代の食卓風景も圧巻です。纐纈あや監督に撮影秘話等を伺いました。

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映画『ある精肉店のはなし』より

<纐纈あや監督インタビュー>
―凄い一家がいるのですね。感動しました。
纐纈あや監督(以下敬称略):本当に凄い一家です。こういう方々に巡り合えたのは幸せでした。
―どのようにして知り合われたのですか?
纐纈:出会いは偶然なのです。映画にも出てきますが、この町のと蓄場の閉鎖が決まり、知り合いの学校の先生が発起人となってと蓄の見学会を企画しました。ナイフ1本で解体しているのは今や国内ではほとんど見ることができない、貴重な技術です。2011年の10月のことで、私も参加しました。その時には、まだ映画化までは考えてなかったけれど、解体作業の技術を記録に残すために撮影させて欲しいとお願いしました。北出さんたちも七代続いてきたと蓄の仕事が終わるので、記録にしておきたいという思いもあったようです。見学会が終わって、北出の皆さんに色々話を伺ったのですが、父親のことを話し出すともう止まらない。その様子から既にこの世にはいないお父さんのことにとても興味を持ちました。この一家をもっと知りたいと思い、映画を作りたいとお願いしました。

―でも、関東の監督に貝塚は遠いですよね。
纐纈:そうですね。私の初作品の「祝の島」も山口県の離島が舞台で日帰りができない所でしたから、遠いのには慣れています。映像ってまずその場所にいることが仕事です。to東京から通っているだけでは、微妙な雰囲気が掴めない。まずはここにいようと、近くに部屋を借り、1年間半そこに寝泊りして生活しました。と蓄場の仕事だけでなく、北出さんの暮らしを撮りたい、でも何を撮ったら暮らしが見えてくるのか、手探りから始まりました。家族の関係性や、地域とのつながり、毎日どんな風に過ごしているのか、できるだけその場にいさせてもらって、一家の生活を見させていただきました。こういうことをするので、映画を作るのは、とにかく普段から体力と気力、そして根気がないと出来ません。

―1年半カメラを回したと?
纐纈:期間としては1年半ですが、その間ずっとカメラを回していたわけではありません。1回の撮影は1週間位です。間をおいてはそれを繰り返すわけで、カメラを回す以外の時間がかなり重要だと思っています。カメラがあるとどうしても緊張してしまうので、撮影隊がいることが当たり前になるような時間を積み重ねていけるのかがだと思っています。
―なるほど。撮影で大変だったことは?
纐纈:と蓄や精肉作業などの仕事振りは、その姿や手の動きや、話す仕草などに現れますが、過去の時間を表現することがとても難しいことでした。もう父親はいない。でも、この一家の根幹は父親だと感じていたのでそこは大事にしたい。兄弟の話す父親の思い出話から、観客の皆さんに想像していただければと思います。

―そういう意味でも成功されているのでは? 父親像を濃密に感じました。
纐纈:ありがとうございます。北出さんご家族の日々の暮らしを通して、と蓄の仕事もきちんと見ていただきたいと思いました。暮らしを支える大切な仕事として描きたかったのです。作業を従事する人々を特別な人と捉えたり、特別な場所と捉えたりしないでいただきたいなあと。父親は、被差別部落ゆえのいわれなき差別を受けてきました。兄弟はそういう父の姿から、差別のない社会にしたいと、地域の仲間と共に部落解放運動に参加し、いつしか自分たちの意識も変化し、地域や家族も変わっていきました。

―そういう屈折したものをまるで感じさせません。まるで手品のように見事に牛を裁いていく手元、無駄な動きがなくて、ただただ見惚れました。体に染み付いた職人技だと思います。刃物を持った男性の動きだけでなく、洗ったり分けたりする女性の動きも滑らかで、動作の一つ一つが美しい。そういう意味では熟練した特別な人たちの特別な仕事でした。お肉になってもこんな風に大切に扱われて、幸せな牛たちです。もし私が牛だったら、ここで処理されてお肉になりたい。
纐纈:そうですよね。実際に北出のお肉はとっても美味しいんです。肉を知り尽くした一職人として、それぞれの肉質を見極め、最良の状態でお客様に提供する。北出のお肉を食べた時に、あまりの美味しさに、今まで自分の食べていたものはなんだったのかとびっくりしました。

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映画『ある精肉店のはなし』より

―私もこの映画を見て、お肉を食べたくなりました。お肉が美しいですよね。それに牛一頭余すところなく、あらゆる部位を食し使うのも凄い。見事です。たとえ命が尽きたとしても牛冥利に尽きるというものでは。
纐纈:本当にそうですよね。と蓄場がなくなって牛の飼育をやめた次男の昭さんが、牛の皮を使って太鼓作りを始めたのも、昭さんなりに牛との付合いを続けいくあらわれなのではないかと思ったりしました。

―お祭りの風景も新鮮でした。京都に住んでいるので、お祭りというと雅なものを思い出しますが、ここのお祭りは雄大で勢いがあって驚きました。それに単に行列を眺めるものではなく、町の人々にとってお祭りは参加するものなのですね。立派なだんじり、お揃いの衣装、新調した大太鼓。お金もかかっています。おみこし等の担ぎ手がなくて車で運ぶところまで出てるというのに、ここの皆さんのお祭りにかける並々ならぬ意気込みを感じました。
纐纈:昔、この地域のだんじりが貧弱だと言われて悔しい思いをし、貧しい暮らしをしながらも切り詰めてお金を貯め、地域一番のだんじりを作ったんです。あのだんじりは、この地域の皆の誇りなんですよ。

―この作品でもうひとつ印象的なのが、温かく賑やかな食事風景です。今どき珍しい大家族での食事、食べることでも家族がつながっているのだなあと思いました。こういう環境にいたら、引きこもりや鬱という現代人の悩みは起こらないでしょうね。
纐纈:土間続きに食堂があって、何かというと家族みんながそこに集まるんです。ご飯は誰がきてもいいようにいつも少し余分に作っているから、「なんかある?」っていう感じで、子や孫がやってくる。私もよくお邪魔しました。
―切り口の多い作品ですね。色々な視点で見ることが出来ます。社会問題を含みながらそれにも振り切らず、と蓄解体、食の問題、家族問題、でも一番印象に残るのは皆さんの笑顔と鮮やかな手さばき、つまり生き方でした。まさに「ある精肉店のはなし」だなあと、納得しました。いつか元気の出ない時には、北出商店に行きたいなあと思います。何も話さなくても、笑顔で美味しいお肉を渡してもらうだけで、悩みなど吹き飛びそうですから。                           (聞き手:犬塚芳美)

<インタビュー後記:犬塚> 
昔、師匠から映画監督を薦められたとき、自分にはそんな特別なことは出来ないと思ったそうです。でも、考えてみると、被写体と映す人との関係性が映像にあらわれる。自分と被写体の関係は唯一のものだ。自分がその人と関わって、もっと知りたいとか、素敵とか思うのだったら、それは自分固有のものだから、自分にも出来るのではないかと思ったそうです。お若いのに、地に足のついた制作姿勢、お話にも色々と納得させられました。骨太な監督だと思います。

この作品は、12月7日(土)~12月27日(金)、第七芸術劇場で上映。
時間等は劇場(06-6302-2073)まで。

なお、1月11日から神戸アートビレッジセンター 、順次京都シネマ にて公開。
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映写室「天心」松村克弥監督&木下ほうかさんインタビュー

映写室「天心」松村克弥監督&木下ほうかさんインタビュー  
 ―岡倉天心とその弟子たち―

「日本近代美術の父」といわれる岡倉天心が、竹中直人さんのキャラクターでチャーミングに蘇りました。門下生として天心と行動を共にする、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山との若き日々。日本近代史と美術史の一端が覗けます。撮影秘話等、松村克弥監督と、下村観山に扮した木下ほうかさんに伺いました。

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©2013映画「天心」製作委員会

<あらすじ>
昭和12年、第一回文化勲章を受けた横山大観(中村獅童)は、新聞記者から1枚の写真を見せられる。映っていたのは、天心に師事し五浦の地で修行する、若き日の大観とその仲間だった。乞われるままに、五浦で過ごした青年時代と、岡倉天心の生涯を振り返る。


<松村克弥監督&木下ほうかさんインタビュー>
―日本史、特に近代史に弱く、驚くことばかりでした。あの時代の日本は、自信をなくして、古来の伝統までを否定していたのですね。
松村克弥監督(以下敬称略):そうなんです。ここまでやったのかと、僕も調べて驚きました。廃仏毀釈とかは知っていましたが、これも想像以上の凄まじいものだったようです。仏像をたくさん燃やしていますからね。阿修羅像のある興福寺法隆寺も危ないところでした。五重塔の上に綱を付け、引き倒そうとしていますし、焼き払おうとして、建物の根元に薪を並べ火をつける寸前に、地元住民の反対で中止となったのです。

―地元の皆さんの誇りですものね、そりゃあ反対しますよ。
松村:いや、そういう理由ではなかったんです。「火をつけたら周りの自分たちの家に飛び火する。危ないからやめてくれ」という、きわめて現実的なものだった。
―え? 残ったのは幸いですが、理由を伺うと釈然としないものがあります。
松村:その後で、岡倉覚三(後の天心で本名)とアーネスト・フェノロサが入って調査しレポートを書くわけです。貴重な資料とわかって助かったんです。法隆寺も荒れ果てていたんですよ。そこにも二人の調査が入って、寸でのところで残されました。

―それほど日本人は自信をなくし、伝統を否定したのですね。もっとも日本だけでなく、よその国を見ても、体制の変換期には、自国の過去を否定する運動が起こっていますね。平常心をなくしたその当時の人々を思うと、痛ましくもあります。
松村:当時の日本文化は壊されたり焼かれたり、調べれば調べるほど凄まじいものでした。フェノロサと岡倉、二人の果した役割は大きいです。
―ところで、お堅いイメージの岡倉天心がチャーミングに蘇えっていて、驚きました。
松村:この企画が来るまでは、僕にとっても、天心は「茶の本」の執筆や世界的な活躍など、お堅く遠い存在でした。実はこの企画は居酒屋トークから始まったのです。大学の後輩が銀座で画廊をしていて、ある時、岡倉天心の映画を作ろうと言い出したんです。お酒の席での話はたいていそこでで終わるものですが、この話は珍しくそこから進展しました。で、調べてみると、天心は意外や人間味あふれる人物で、興味を持ったんです。

―特に参考にされたものは?
松村:松本清張の「内なる敵」を読んだんですが、さすがに清張さんで、聖人君子ではなく弱いところも脆さもある、人間臭い、人情味あふれる人物として天心を描いています。映画的な人物だなあと思いました。参考にさせていただき、そういう視点から脚本に仕上げていったんですが、それを竹中さんがリアルに演じてくださり、よかったなあと思います。
―ちょっと意外だったんですが?
松村:大分前にあったNHKの番組では山崎勉さんが扮していました。何か納得しますよね。僕にもそういうイメージがあったんですが、天心を研究している大学の先生から、「実際の天心は、得体が知れなくて、この映画の竹中さんが演じるような人だった」と言って頂き、嬉しかったです。

―時間を逆戻りさせたり、構成にも色々工夫がありますね。
松村:僕はテレビでサスペンスを撮っているので、そういうドキドキする、スリリングな構成をしたいと思いました。それと、物語を現代につなげたいというのもありました。岡倉天心という名前は、多くの方が歴史上の人物として知っていますが、僕のように漠然としたイメージだけで、詳しいことを知らない。その点、横山大観なら、ほとんどの人が日本画の大家として知っています。そういうメジャーな人を、ビッグネームの中村獅童さんに演技て貰ったら、分かりやすいのではないかと考えました。しかも大観は天心の愛弟子です。弟子から見た天心という形を取りました。しかも大観を回想に導く新聞記者は、石黒賢さんです。豪華でしょう? メジャー感を出して観客を惹きつけたいと思いました。
―そういうビッグ・ネームがたくさん出ています。キャスティングが大変だったのでは?
松村:同時代の4人の画家と、彼らを率いた天心を描くわけですから、決まるまでは頭を悩ましました。それと皆さん忙しいので、撮影時の調整も大変でしたね。でも、天心を含めた5人のハーモニーは上手くいったと思います。

―考えてみると同時代の日本画家という、ある意味で一くくりになるグループを演じ分けるわけですから、演出も役者さんの演技も大変ですよね?
松村:僕もそう思っていたんですが、現場に行ったらもうそれぞれが出来上がっていました。
木下ほうかさん(以下敬称略):僕は天心の4人の弟子のうちの一人、下村観山を演じたわけですが、お手本は「ときわ荘」です。天心が手塚治で、後は弟子たちだと。
―なるほど、そう言って頂くと分かりやすいです。この作品、絵を描く手元が映ることが多いのですが、特に観山がそうですが、あれはどうされたのですか?
松村:全部役者さんですよ。吹き替えはありません。ほうかさんとか、相当努力されたんじゃあないかなあ?
木下:まあいくらかはしましたが、たいしたことはありません。腕をついて、支えにして描くと楽なんだけど、それをしないで描くんですよね。線を引くのも大変でまあ、ちょっと練習しました。

―そういう過程で、観山の絵を手に入れるほどの一体感が生まれたと?(ほうかさんは、撮影後に観山のお軸を手に入れています)
木下:いや、一体感というより、演じて生まれた情ですね。「観山の絵とか興味あるね」とポロッと言ったら、撮影後に手に入れられる値段でそういう機会に恵まれました。他の人ではない、観山のお軸が、演じた僕のところに来たのは、感慨深いものがあります。しかも、どうやらこの時代に描かれたもののようなんです。
―観山とほうかさんの想いが引き寄せたのかも?
木下:どうなんでしょうねえ。
松村:美術史的に見ても、驚くことがありました。僕らは大観とか春草とか言うと、これぞ「ザ・日本画」で、日本画の代表のように思いますが、当時はそうではなかった。洋画の台頭で日本画が衰退するだけでなく、日本画の中でも天心の率いた彼らは異端だったんです。

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©2013映画「天心」製作委員会

―輪郭を描かない、没線(もっせん)描法は「朦朧体(もうろうたい)」、「化物絵」と呼ばれて、激しい非難を受けたのですね。初めて知りました。
松村:前衛はいつの時代も異端なんですよ。
―でも、彼らを率いた天心は、27歳で東京美術学校(現東京芸大)の学長になっている。それまでの日本文化を否定したりと色々あるけれど、この時代は若者の活躍できた時代でもあったのですね。
松村:それまでの全てがひっくり返って、新しい時代が始まったんですからね。若い人しかいない。チャンスが一杯あったんでしょう。又当時の若者も、新しい国を作ろうと果敢で必死でした。明治の半ば頃までに色々な分野で天才が出ています。明治は面白い時代です。

―そういう時代観を画面から感じました。
松村:ありがとうございます。少ない予算ながら頑張りましたから。それと、当時の場所で撮影できたのもよかったんだと思います。特に五浦に、当時のように六角堂を建てれたのは大きかったですね。土地の空気感というか、そういうものがにじんでいるように思います。美術も頑張ってくださいました。この作品の主役はほうかさんたち5人の役者さんですが、もうひとつは間違いなく五浦の土地、景色や海です。カメラの瀬川さんがロングをたくさん入れて、そういう土地の匂いを切り取ってくださいました。僕がカット割したらこうはいかない。感情の動きのあるところなど、もっとアップを入れると思うのですが、瀬川さんのおかげで、風景を多用した余情のある画面になりました。感謝しています。又、地元の皆さんが全面的に協力してくださり、エキストラはすべて地元の方です。地元の人が映ることでプロのエキストラでは出ない、土地の匂いが出せました。又、炊き出しもして下さってありがたかったですね。約1ヶ月の合宿のようなロケでしたから。

―確かここは、震災の被害もあったところですよね?
木下:そうなんですよ。本物の六角堂は津波で流されてしまっています。それに撮影中にも、何度か余震がありました。海の撮影の前で、どうしようかと思いましたね。でも五浦の海は美しかった。天心たちがこの地まで追い詰められ、後戻りできない状態で修行した心情を追体験できました。
松村:この作品が上手くいったのは、役者さんやそれぞれの部門のスタッフという、皆さんの力が大きいんですが、もう一つは川島章正さんの編集の力です。最初は監督である僕の意見を入れれるように余裕を持って繋いでいるんですが、何回目かの時には、川島さんがもう1秒たりとも動かせない、絶妙の呼吸で仕上げてきてくださいました。経験の豊かなベテランだけに、凄いなあと思いましたね。
木下:録音さんも頑張りましたよね。
松村:そうなんですよ。納得いかないと言って後で音を録りに行ったんですが、それでも納得できずに効果音を作っています。それぞれのスタッフが、それぞれの分野でこだわりを示してくれました。

―エキストラさんの動きもいいですよね。画面のずっと後ろを横切る人の動きが自然で、演出の神経が行き届いていて、(あ、この作品お金を使っているなあ)と思いました。
松村:いえいえ、映画としては低予算の作品です。でもそれをカバーするよう出来る限りの努力をしました。
木下:まるで合宿のような現場ですからね。皆の気分がだんだん盛り上がっていきました。そんな中で、竹中さんはあの方らしく独特の方法で、僕らを引っ張ってくださいました。緊張を緩めようと、真剣なシーンを撮っているカメラの向こうで、ふざけた顔をされたり、後ろから足でいたずらされたり、参ります。でもその時は取り直しになるけれど、肩の力が抜けて次にはいいものが出来る。何を考えているのか分からない天心そのものの、大きな竹中さんでした。
松村:この作品は、天心没後100年を記念して作られました。でも物語は、外国との関係も含めて、今に通じる多くのメッセージを含んでいます。あの時代を切り開き、日本文化を作った若者に、しばし心を馳せて欲しいと思います。

<インタビュー後記:犬塚> 
手に入れられたという下村観山の絵を拝見しました。嬉しそうなほうかさん。まるでインタビューの場所までが、あの頃に帰ったようです。お話しぶりから、松村監督もほうかさんも、映画を作ってますます岡倉天心とその愛弟子4人に惹かれていることを感じました。
 劇中に出てくる春草が振り返っている写真は、実在するものをそのまま真似たのだそうです。何か言いたげな春草はその後ほど無くして夭逝しました。1枚の写真の物語る歴史の1ページ、そこから映画は始まったのかもしれません。

この作品は、12月7日から梅田ガーデンシネマ、
12月21日から京都シネマ、1月元町映画館 にて公開。

映写室「ベニシアさんの四季の庭」上映案内

映写室「ベニシアさんの四季の庭」上映案内    
 ―英国貴族が、京都大原で見つけた幸せのかたち―

 <京都大原の里で>、日本人よりも日本人らしく暮らすイギリス女性がいます。彼女の名前は、ベニシア・スタンリー・スミス。絣のもんぺを履いて、古民家を改造して住みと、少し前の日本の暮らしを実践していますが、同時に庭には、故郷イギリスのハーブが一杯茂っているのです。日本とイギリス、両国の文化を融合し作り上げた豊かな暮らし。ここに至るまでのベニシアさんの軌跡を伺いました。

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©ベニシア四季の庭製作委員会2013

<私は日本の古いものが好きで>、それらを残したいと思います。今日着ているのも、日本の昔の着物で作った服です。手作り市で手に入れました。こういうものを買うことで、創る人の生活を支え、志しを応援したい。支える人がいないと廃れてしまいますから。
大原での暮らしも、昔からやっている事と昔から作っているもので成り立たせています。基本は、土に戻せるもの、燃やせるもので暮らすと言うことです。そうでないものはゴミになりますから。

<自分の好きな事をしてきたのですが>、そういう暮らしぶりがテレビ番組になり、注目を集めて、今度は映画になりました。こういう状況がいまだに信じられません。呼ばれて色々なところに講演に行きます。元々日本を回りたいと思っていたのに、幸運にも仕事で回れています。しかも、出会った人たちが、「テレビを見て元気になった」とか言ってくれます。私の人生はハプニングだらけですが、今も大きなハプニングの中に巻き込まれています。

<私の庭は>そういう人生を映している気がします。庭は一定ではなくて、変化を続け、その時々の姿を見せます。四季の変化もありますし、暮らしや年齢による変化もある。自然にもあがらえなくて、台風で倒れて、もう一度作り直したり、いつも未完成です。でもそれが好きなの。去年はここに咲いていた花が、今年は違う花に取って代わられてもいい。変化のないのはつまらないと思いませんか?

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©ベニシア四季の庭製作委員会2013

<正(ご主人)と会って>、初めて山に行きました。頂上近くのお花畑とか、本当に美しい。こんな所があるのかと、驚きました。
正は、山岳写真家なので、そういう所をよく知っています。皆が私の庭を褒めてくれても、「ベニシアの畑は小さい、これっぽっち」とよく言います。私もそう思います。山の上には比べようもない、広い広いお花畑がありますから。たいていの外人は知りません。観光局の人は、日本の素晴しさとして、もっと外国人にアピールするべきだと思います。

<母は4回結婚しました> 母の再婚は最初が3歳、次が5歳ですから、その時はよく分からなかった。寂しいと思うかもしれないけれど、乳母が良い人で、しっかりと私を育ててくれたから、大変ではありませんでした。しかも、母のおかげで私には父が4人います。4人全て良い人で、その全ての人から愛を貰い、生き方を教えてもらいました。幼いころに、大人の人生を4つ、垣間見れたわけです。人生は勉強だと思えば、なんでも勉強の材料になります。

<始めて日本に来た時は>、まだハーブが普及していませんでした。母がお料理の為に色々植えていたので、私には欠かせないもので、これは困るし寂しかった。細々と自分で育てていたのですが、40歳からハーブの効用を広めようと思いました。生活の為に働かないといけなかったけれど、まだ小さかった長男と一緒にも過ごしたい。家でハーブを教えたら仕事になるし、彼とも一緒にいれると思ったのです。
<少し話が脱線しますが>、幼児期は色々な意味でかけがえのないものです。3歳までは可能だったら家にいたほうがいいと思います。私は仕事をし過ぎました。仕方がなかったのだけれど、子供たちにはプレッシャーだったのでしょう。特に長女は大変だったんだろうなあと、今、精神を病んでいる彼女を見ると思います。

<映画には私の家族が一杯出ています> 私が一人で頑張ってきたのを見聞きしているので、応援したいと思うのでしょう。撮影に協力してくれました。ただし娘一人は出ていません。彼女は自分を晒すのに抵抗がありました。長女のジュリーは病気のせいで、少しマナーが悪いのです。少し躊躇ったけれど、それもオープンにしました。彼女は繊細だから、他の人からの思いを受け止め過ぎる。そして精神を病みました。彼女を登場させることで、統合失調症について、知ってもらえればと思います。

<私がこんなに古いものが好きなのは>、生まれ育ったイギリスの影響が大きいと思います。イギリスでは代々受け継いだものを、とても大切にしますから。祖父の家には代々伝わる家具が丁寧に磨かれておかれています。
<又、母は広い庭を自分で>作っていました。大勢メイドもいるし、庭仕事をする人を雇うことも出来たのですが、自分で手入れし、子供たちにもそれぞれ仕事を分け与えました。そこで庭仕事を覚えたのです。その頃の経験が今生きていると思います。

<ここに移る前は>、修学院に住んでいました。良い所だったのだけど、借家で1年後には出ないといけなくなったのです。それから一生懸命、色々なところを見て歩きました。私は古い家が好きなので、もちろん古い家を探しました。でもいいものが見つからない。諦めかけていた時に、今住んでいる物件が出ました。私は20回近く引っ越していますが、大原の家を見たとたんに、(自分はここで死ぬ。ずっと住む家だ)と思ったのです。借家を探していたのに売り物件で、本当は私たちには手の届かないものでしたが、幸運が重なって買うことが出来ました。そして自分たちで直して住み始めました。

<私は危機の度に誰かに助けられ>、直感的に動いているようですが、そういう波動を受け止めれるように、普段から暮らしています。動物は呼吸の速さで寿命が決まるといわれます。例えば、大きな象はとてもゆっくり呼吸して長寿です。だから意識してゆっくり呼吸します。色々辛いこともありました。そういう時は特に、パニックにならないよう、朝皆が眠っている時間に起きて、一人で瞑想し、ゆっくりと呼吸します。私が自分自身と向き合える大切な時間です。そうやって乗り切ってきました。

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©ベニシア四季の庭製作委員会2013

<日本での生活は>大変な時代も長くありました。イギリスに帰れば、辛い思いから開放され、豊かな暮らしがあります。でも帰りたいとは一度も思いませんでした。イギリスに帰ると階級社会で箱の中に入れられてしまいます。例え恵まれていても、私はそういうことが嫌いでした。

<私が日本に惹き付けられた根本は>、小さい頃におじいちゃんの家で、日本の古いものを色々見たからだと思います。祖父はそういうものを集めていました。偶然聞いたレコードの、尺八の音が耳に残っていたのもあるかと思います。日本人の書いた本も読んでいました。憧れの下地は出来ていたのです。
<アジアに憧れ、若い頃にふらっと>インドへ行きます。インドからネパールに入った時、二人の日本人に出会いました。大学生だったのですが、「日本は学生運動が盛んで、若者が頑張っている」と言うんです。気持ちが動きました。その頃のイギリスは老人社会になって閉塞的だったのです。じゃあ行ってみようとなって、一文無しで日本に来ました。東京で食べたキンピラゴボウが気に入り、住んでみようと思いました。

<色々なことがありました> 結婚、離婚、再婚。再婚してからも、楽しい事もあれば、夫婦の危機、子供のことと心配事が一杯でした。だから、これからは静かに暮らしたいと思います。占いでは、私は日本の女の人を助けるためにイギリスからきたようなのです。何度も言われたので、本当なのでしょう。これからもそういう仕事が待っているのだと思います。(構成:犬塚芳美)

<インタビュー後記:犬塚>
 旧知の知人に会ったような、穏やかな時間が流れました。特別なことではなく、自然体で自分の好きなことをしてきただけ、と仰るけれど、びっしりと書き込まれたノートには、自然体を支える、ベニシアさんの確固たる哲学が、さりげなく書き込まれていました。世界で一番古いものを大事にするのがイギリス人だと言われます。
 この頃巷で、世界で一番自国の古いものを粗末にするのが日本人だと言われだしました。住環境が古いものを締め出すのでしょうか? 故郷の傾きかけた蔵、古い箪笥、石臼、、ベニシアさんの暮らしは、発想を変えれば私にも出来るもの。そういうスローライフがやたら素敵に思える今日この頃です。

この作品は、9月14日からテアトル梅田、京都シネマ、
      10月19日シネ・リーブル神戸 にて公開。

映写室「爆心・長崎の空」日向寺太郎監督インタビュー

映写室「爆心・長崎の空」日向寺太郎監督インタビュー   
―今なお残る、原爆の傷跡― 

暑い夏がやってきました。この頃になると甦るのが、戦争と原爆の記憶です。「火垂るの墓」から5年、日向寺太郎監督の新作は、そこのあたりを捉えた新しい原爆の映画かもしれません。原作は、芥川賞作家で、現・長崎原爆資料館館長の青来有一氏の「爆心」。6つの作品からなる連作短編を元に、母を亡くした子と、子を亡くした母の二つの物語を、糸を紡ぐ様に手繰り寄せていきます。坂の町長崎には、今もなお、目に見えない形で原爆の爪あとが残っているのだと実感させられました。制作秘話等を日向寺太郎監督に伺います。

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©2013 「爆心 長崎の空」パートナーズ

<その前に、「爆心・長崎の空」とはこんな物語> 
坂の上に住む門田清水(北乃きい)は大学3年生。父母と平凡で幸せな日々を送っていた。ある日、医学生の光太とのデイト中に、喧嘩した母から電話がかかる。無視して電話に出ないまま自宅に帰ってみると、母は心臓発作で亡くなっていた。一方、高森沙織(稲森いずみ)は、娘を1年前に亡くした悲しみから立ち直れないでいる。ある日、二人が街角ですれ違う。

<日向寺太郎監督インタビュー>
―「火垂るの墓」以来で、5年目ですね。今回も原爆が根底に流れていますが。やはり師匠の黒木和雄監督の影響が大きいのでしょうか?
日向寺太郎監督(以下敬称略):なぜかそういう題材が重なりました。意識したわけではないのですが、無意識下で、黒木監督の影響があるのかもしれませんね。この前は向こうから監督を打診されましたが、今回は、原作を読んで是非撮りたいと、こちらから企画を持ち込んでのことです。2009年に俳人の金子兜太さんのドキュメンタリーを撮ったのですが、その時に初めて長崎を訪れ、なんとも魅力的な街に魅せられました。入り組んだ坂道、教会、そして爆心地。一度何もなくなった町に、こうして人々が住んでいることに感動したんです。それだけでなく、金子兜太さんも、この街に行くと創作意欲を駆り立てられるとおっしゃいましたが、目に見えないこの街の何かに強く惹きつけられました。この街をもっと知りたいと思い、帰京後、長崎に関する本を漁るように読んだんです。その中に青来有一さんの「爆心」がありました。どの短編も今を生きる長崎の市井の人を描きながら、被爆地であることやキリシタンの地であることと、この土地固有の記憶が浮かび上がり、そしてその記憶が人々の暮らしに影を落としています。ああ、自分の感じた長崎への思いはこういうことだったのかと、納得しました。黒木さんは原爆の映画を撮りましたが、実体験のない僕の年代では、あの臨場感は出ません。青来さんの原作のおかげで、僕が描ける原爆の映画は、こういう形で、今の暮らしの中に落としている影としてだなあと分かりました。そうこうしているうちに、2011年3月11日がやってきました。いまだに収束していない福島の原発。新たな被爆が起こり広がりつつあります。負の記憶が生まれるかもしれない今、「爆心―長崎の空」を撮る意味を考えました。時間は過去や未来へ繋がっている。今の私達は今まで生きてきた人の末席に連なっているわけで、そういう現代によって、この後の未来は作られるわけです。そういうことも伝えたいと思いました。

―では、青来さんの本をそのまま脚本に起こしていったと?
日向寺:原作は関連した6つの短編からなっているのですが、その中から2編を中心に選び、他の作品も絡めてまとめていきました。北乃きいさんの話はオリジナルです。
―脚本が巧ですよね。最初関連性のない二つの家族の物語が、別々のところで進行し、少し戸惑いました。ところが後半になって、糸が絡むように、色々な人間関係がつながり始めます。サーと視界が広がるというか、まるで手品のようで見事でした。ああ、ここでこうくるかと、映画の醍醐味というか。

日向寺:ありがとうございます。実は物語を二つの家族に絞るのが大変でした。それと原爆を描くのではなく、今の長崎を描けば、原爆とキリシタンという土地の記憶に重なってくるという、原作の肝心なところに集約できたのはよかったと思います。こういうのは青来さんがずっと長崎に住んでいるからこそ書ける物語だと思うんです。まったく個人的な物語が、進むほどに個人の死を超えて土地の物語となり、普遍性を帯びていきます。このあたり、原作の巧みさに助けられています。

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©2013 「爆心 長崎の空」パートナーズ

―役者さんもそれぞれに凄いですね。
日向寺:清水役の北乃きいさんは、撮影中にもどんどん大人になっていきましたね。彼女のまっすぐさがなければ成り立たない作品でした。内的世界を憂いを含んだ瞳や少しうつむき加減の眼差しで表現してくださり、上手いです。透明感があって、これからも楽しみですよね。稲森いずみも映画は久しぶりなんですが、複雑な役を説得力を持って演じてくださったと思います。僭越ですが、年を重ねていい役者さんになられたなあと、思いました。
―体全体から発する憂い、本当に魅せられました。そういう主役の二人を守り立てる脇役、ほんの少しの出番に大物を繰り出して、それにも驚きます。
日向寺:父親役の佐野史郎さんなんて、2回しか出てきません。妻の残したカレーを食べるシーンと、娘の作ったカレーのシーンだけなんです。でも抜群の存在感で、不在のシーですら父親像が浮かび上がります。見事だなあと思いました。
―杉本哲太さん、宮下順子さん、池脇千鶴さん、石橋蓮司さん、それぞれに凄いですよね。
日向寺:はい、それぞれの役者さんが、役を説得力のある印象深いものにしてくださり、監督冥利に尽きます。

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©2013 「爆心 長崎の空」パートナーズ

―問題の青年は、柳楽優弥さんなんですね。すっかり大人になられて見違えました。実は後でチラシを見るまで、柳楽さんとは分からず、(この青年は誰だろう? でもこの存在感は只者ではない。有名な人のはずだけれど?)と、目が釘付けでした。若くに世界で注目されて、苦労されたのが、ここに来て実を結びましたね。鬱積した青年の内的世界が見事に体現されていて、抜群の存在感です。あの重い瞳で物語を一気に自分に持っていきましたね。凄いです。
日向寺:ええ、素晴しいですね。柳楽さんの演じる青年はこの物語の中では異物です。二組の家族は恵まれて育っていますが、複雑な家庭環境がありますから。母親との関係も、ある意味で現代の親子の象徴かも知れず、今の若者の抱える生き辛さを象徴してもらいました。時代の抱える問題、重さともいえます。五島列島の出身というのもみそで、彼の小屋にはキリスト像が祭られていましたが、五島列島は隠れキリシタンの島として有名なのです。地元の、分かる人がみたら分かる事情も表現しています。池脇さんも異物ですが、彼女は長崎にこだわらず、嫌になったら街を出て行く。之も又、今の若者の代弁者ですが、自由なので、柳楽さんの演じる青年ほど内向せず鬱積したものがありません。

―確かに。あの気ままさは強味ですよね。原作の青来さんは、映画を見て何かおっしゃいましたか?
日向寺:良かったと言ってくださいました。この作品は随所に長崎の特徴をちりばめています。北乃さんの走るグラウンドから、天主堂が見えたり、坂を多用したり、観光映画ではありませんが、名所を一杯入れました。そういう意味でも楽しんでいただけると思います。ただ、小屋の焼けるシーンで、時計の針を原爆投下の時間に合わせていたりして、青来さんから、「やり過ぎじゃあないか?」と心配されました。
―すみません、そこまで気がつかなくて。
日向寺:普通はそういうものかもしれませんね。こっちのこだわりで。僕はこの作品で原爆に対する新しい入り口を作りたいと思いました。全面的に戦争を見つめてはいないけれど、住んでいる人々には、あの原爆がいまだに影を落としていることを訴えられたらなあと思います。青来さんは長崎に住んでいるといくらでも書ける。書きたい題材は一杯あるとおっしゃいました。この作品でその一環に触れていただければ嬉しいです。(聞き手:犬塚芳美)

この作品は、7月20日からテアトル梅田、
なんばパークスシネマ にて公開。

映写室「じんじん」大地康雄さんインタビュー

映写室「じんじん」大地康雄さんインタビュー 

  ―大地康雄さんが絵本の里で見たお話―  

 この作品は俳優の大地康雄さんが、2007年に北海道の剣淵町を訪れた事から始まりました。剣淵では約20年前から「絵本」を真ん中に、人と人との心が通う「絵本の里づくり」を進めています。大地さんは、絵本に目を輝かせる子供たちに感動し、「絵本の力」と「親子の絆」をテーマに、映画つくりを思い立ちます。

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©2013『じんじん』製作委員会

ここからは、大地さんの人脈と企画が人を惹き付け、どんどん話が進んでいきました。題名は人の心に「じんじん」と響く物語という意味です。大地康雄さんにお話を伺いました。

<その前に「じんじん」とはこんなお話>
 宮城県・松島に住む銀三郎は、気ままな一人身で皆から愛されるお調子者だ。毎年、幼馴染が営む北海道の農場を手伝っている。彼には昔別れた妻と娘がいるが、もうずっと会っていない。ある年、農場に行くと、都会から農業研修に来ている女子高生と一緒になった。喧嘩しながらもそのうち仲良くなるが、一人の少女だけは心を開かない。研修も最後が近づき、彼女はそっと秘密を打ち明ける。


<大地康雄さんインタビュー>
―温かい作品ですね。うるうる、じんじんしました。題名の通りです。これの始まりはどんなところから?
大地康雄さん(以下敬称略):前作「恋するトマト」は全国500箇所を巡回しました。農業がテーマなので、北海道で火がついたんです。どこでも上映会の後に、交流会というか飲み会を設定してくれるのですが、札幌で上映会があった時、飲み会で、ひげ面の男に「一度剣淵に来てよ」と誘われました。実は疲れていて、予定も詰まっているので早く帰りたかったのですが、あんまり熱心に誘われて、車で1時間のところまで出かけました。農業はたくさん見ただろうから絵本を見せたいというんです。最初は興味がなかったけれど、「絵本の館」に連れて行かれて驚きました。映画にも映りますが、田園風景の中にヨーロッパの建物のような館があるんです。しかも看板に「大地の会」-有機農業の会-と書いてあって、自分とのつながりを感じました。会場では読み聞かせをしていたのですが、子供たちが吸い込まれるように聞いている。どんどん絵に近づいていくんですよ。そして最後は床にひっくり返って喜びを表しました。絵本にはこんな力があるのかと、こっちもびっくりしましてね。その後に、普通の農家のお父さんが、農作業の服のままで読み聞かせをしたんですが、これが上手い。子供も読み聞かせをする方も、どちらも生き生きとして、連帯感があります。そこに日本の明るい未来を感じました。

―ええ。
大地:絵本はとてもシンプルで大事なことを伝えます。しかもお説教臭くありません。自分がされて嫌なことをしたら、相手が嫌な思いをするとか、人の心を思いやることができるようになります。感想を話し合うことで会話力がついて、引っ込み思案が治ったとも聞きました。又、子供に読み聞かせをすることは、大人にも効力があります。忘れていた大切なことに気がつきますから。剣淵は絵本で故郷つくりをして25年だそうですが、優しい町の風土が出来ています。

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©2013『じんじん』製作委員会

―桃源郷のようですね。町もですが、登場人物もそれぞれに魅力的です。設定は?
大地:主要な人物にはモデルがあるんです。兵庫県から毎年田植えに来る人がいて、僕の演じた銀三郎は、その人がモデルです。どうしてそんな遠くから毎年来るのかと聞いたら、「剣淵に来ると心が洗われる。ここは本当にいい町だ」と言うんです。又、高校生の農業実習も実際にあるんですよ。絵本の里つくりの中心人物は高橋さんという人なんですが、銀三郎の幼馴染のモデルです。実習生のお世話をしたり、本当に尽力されています。一人の人間の志は大切だなあ、それがあれば多くの人が集まってくると実感しました。この物語は、そういう実話が一杯ちりばめられています。6歳までの読み聞かせが親子の絆を作るらしいのですが、そういう宝物があるからこそ、ラストの奇跡を呼ぶんですよ。

―絵本を中心にしたそういう物語を作りたいという、大地さんの志も多くの仲間を呼び寄せています。
大地:そうですね。ただ、僕の志というより、剣淵の志が僕を惹き付け、そこから皆へと、こういう形で結集したのだと思います。出演者の皆さんにしても、中井貴恵さんとかは、もともと読み聞かせをされていると聞き、僕が直接事務所を通さずに、お願いしました。本当は違反なんですけど、是非出たいと言ってくださって嬉しかったですね。他の点でも、企画が進みに連れて、どんどん賛同者が増え、協力体制出来ていく。この作品の制作は幸運な軌跡をたどっています。

―銀三郎が魅力的です。大地さんの喜劇的なアプローチが遺憾なく発揮された作品ですね。
大地:喜劇的な作品というと、僕は「病院へ行こう」が始まりですかね。脚本は坂上かつえさんで、僕は長年テレビで刑事物をやっているんですが、そこの脚本家です。役者冥利に尽きますよ。当て書きで書いてくれているので、スーッと役に溶け込めました。この映画がここまで上手くいったのは、脚本の勝利です。彼女本当に上手くて、伏線を張りながら物語を進め、最後は心に「じんじん」と迫ってくる作品に仕立ててくれました。坂上さんは上手くいくときは筋が上から降りてくるといいますが、今回もそういう感じで出来たようです。監督の山田大樹さんもそこの仲間です。そういう、僕をよく知ってくれている仲間との仕事だったので、銀三郎のキャラクターも自然に出来上がっていました。

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©2013『じんじん』製作委員会

―私はまず、この主人公のキャラクターに魅せられました。絵本が先の企画とは知らず、「平成の魅力的な寅さんが出来たなあ。次も楽しみ」と、勝手にシリーズ化を思ったほどです。
大地:ハハハハ・・・(笑い)

―松島も出てきて、さりげない震災の復興支援映画にもなっていますね。
大地:この作品の配給の鳥居さんが、「松島でどうだろう?」と話を持ちかけてきたんです。震災後に何かしたいと思っていたので、渡りに船だったのです。松島は実際はそんなに震災の被害がなかったのに、風評被害が大きく、困っていました。大勢いた観光客の中でも、特に外国人観光客がいなくなってしまったんです。だから自分たちの町が舞台になると大喜びで、町をあげて協力してくださいました。期待もされて、北海道の上映会にも松島の町長さんが来たほどです。この作品をきっかけに観光客が戻ってくれればいいなあと思っています。

―それにしても巧みな作品ですね。
大地:悪人がいないのに感動できる珍しい作品だといわれました。札幌の中学生に見せたら、大人が感じるところで同じように感じていて、この作品が世代を超えて訴える力を持っていると実感しました。絵本は説教臭くないですからね。それもいいのだと思います。剣淵の皆さんの協力も、この映画の成功には大きな力になりました。エキストラは300人にも上りますし、撮影隊への炊き出しもしてくださいました。これは嬉しいです。たいていはロケ弁といって冷たくなったお弁当なんですが、今回は地元の食材をつかったおいしいご飯が食べられました。剣淵は年間3万人が訪れる町でもあります。良い所なので、これを機会に是非いらしてみてください。(聞き手:犬塚芳美)

* この作品は、夕張ファンタスティック国際映画祭で、作品賞と主演男優賞の2つをとりました。又、映画業界では初めて、総務省の後援を得られたので、全国の市町村に上映を呼びかけてくださるようです。

この作品は、7月13日からテアトル梅田、
8月3日から京都シネマ、
8月10日から神戸元町映画館 にて公開。

映写室「異国に生きる」上映案内

映写室「異国に生きる」上映案内  
―日本の中のビルマ人― 

放射能汚染により故郷を追われた、飯舘村の今を描いた土井敏邦監督が、もう1作、故郷を追われた人々の映画を完成させました。関西では同時上映になります。

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©DOI Toshikuni

<この作品の主役は>、東京で暮らすビルマ(ミャンマー)人青年チョウです。チョウは1991年、新婚早々の妻ヌエを残し、日本にやってきました。軍事政権の弾圧を逃れてです。働きながら、仲間と共に祖国の民主化運動を続けてきました。離れて暮らす寂しさを訴える妻、お互いの身を案じる父や母、無性に故郷が恋しくなります。民主化運動をやめ、自分のことだけを考え、お金を貯めて帰ればいいのに、彼にはどうしてもそれが出来ない。圧制に苦しむ人々を思うと、運動をやめるわけにはいかないのです。

<国内の運動家は>、ことごとく投獄され、アウンサンスーチー氏の幽閉も長きに及んでいます。圧政に抗議するデモの取材中に、銃弾に倒れた日本人ジャーナリストの映像が世界に流れた事もありました。世界中から抗議が殺到しましたが、それでも軍事政権は倒れなかった。私たちも、ともすれば、かの国の圧政を忘れてしまう。ビルマへの援助は、国民に行き渡らず、軍事政権を太らせるだけと抗議し続けるチョウたち。
妻との再会は、彼女も故郷を捨て、一人タイで夫を待った挙句のことです。そして、妻も東京にやってきました。二人は必死に働き、祖国の民主化運動を続けます。

<チョウが日本に来て20年が過ぎました> その間に父も亡くしました。今この二人は、ビルマ料理の店を切り盛りし、日本で暮らすビルマ人の支援に奔走します。不法滞在等、苦しい状況が多くの問題を生むのです。

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©DOI Toshikuni

<気がつくと祖国に>、新しい時代が始まりました。軍事政権が倒れ、多くの政治犯やアウンサンスーチー氏が釈放されました。チョウたちの夢が実現したのです。
チョウは、喜びながらも空ろな気分がぬぐえない。あらためて、無我夢中だった20年の重みを感じているのかもしれません。日本で安定を得ました。けれど、ここは故郷ではない。望郷の思いを持ちながらも留まる二人。チョウの髪には白いものが混じり、妻ももう若くはありません。

<ビルマの民主化が本物だと確信できたら>、二人は帰るのだろうか? その時20年離れていた祖国は? 見ているこちらにも不安が尽きません。土井監督が追い続けた、チョウの14年間。ビルマの民主化は、チョウのような多くの同国人の志で進んだことです。(犬塚芳美)

 

この作品は、6月15日(土)より、第七芸術劇場で上映。
「飯舘村」と同時に、土井敏邦監督の故郷喪失を問う2部作となりました。
時間等は劇場まで(06-6302-2073)
又、7月12日からは神戸映画資料館 にて公開

映写室「飯館村―放射能と帰村―」土井敏郎監督に伺う

映写室「飯館村―放射能と帰村―」土井敏郎監督に伺う  
―見る角度で、物事は一変する― 

未曾有の災害から2年が経ちました。しかし、地震、津波に続いて起こった原発事故の影響で、東北、取り分け福島の復興は、遅々として進みません。今なお故郷から遠く離れて暮らす人々。この作品の舞台は、原発から30キロ以上も離れていながら、風向きや降雪・降雨のせいで、大量に放射能に汚染された、福島県飯館村です。当初は全員でここに残ると村長が表明し、美談としてあちこちのマスコミで報道されました。しかし、2ヵ月後に、村内のあちこちからホットスポットが発見され、「全村避難」を余儀なくされたのです。今、飯館村はどうなっているのか? 長い間、パレスチナを追ってきた土井敏郎監督が、同じように故郷に帰れない人々、飯館村の現状を追いました。お話を伺います。

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©DOI Toshikuni

《その前に、「飯館村―放射能と帰村―」について》 
<第1部:家族>―離れ離れになった家族
酪農一家の志賀家。老夫婦は村から数十キロ離れた町で二人暮しだ。今まで息子の扶養家族だったが、「見まもり隊」の仕事に出て、年金で足りない生活費を稼ぐ。息子は酪農の道を捨て、工場に就職した。早く自宅に帰って一緒に暮らしたい。
 4世代で暮らしてきた長谷川一家。両親は福島市近郊の仮設住宅で暮らし、長男一家は山形に移った。線量の高い村で子供は育てられず、長男の頭に帰村は無い。再び一緒に暮らしたい父親に、母親は「自分たちだけの暮らしを築いた子供の家にはもう行けない」と答える。

<第2部:除染 >
 幼い子供のいる母親は、汚染された村に2ヶ月近くも残り、子供を被爆させたことを悔いる。一方、避難区域の見直しが出て除染が始まった。しかし、除染といっても住宅地の表面で土を削るだけ。取り囲む山や川には手の施しようがない。村に戻れる見通しは無いのだ。村民の過酷な生活はそのままで、膨大な金額がゼネコンに流れ始める。

<土井敏郎監督インタビュー>
―飯館村は当時、村長さんが全員でここに残ると宣言し、村の美しさを力説されたのが印象に残っています。一見すると、今も村は美しいままですが、見えない汚染、放射能汚染は続いているのですね。この作品を見て、汚染された地はどうにもならないという、重い気分が残りました。パレスチナを追い続けた監督が、今度は被災地に入ったわけですね?
土井敏郎監督(以下敬称略):3:11の後、多くのジャーナリストが東北に入りました。その中で僕に何ができるのか、パレスチナの視点でやる以外ないと思ったのです。故郷に帰りたいけれど、帰れない人々、それも人災によってです。故郷を失うプロセス、失う前が分かるほうが、より失う意味が分かる。津波で流されていると、証言なら取れるけれど、実際に目で見る映像の訴えにはかないません。汚染される前の村が残っているところというと、飯館村になります。

―考えてみるとこの村は複雑ですね。当初は全員で村に残ると宣言した村長は英雄でした。
土井:メディアの責任でもあります。ニュースラインに出て村長が話したことで、マスコミがいっせいにそう仕立て上げましたからね。ところが、今、ものすごい村長批判が出ています。若い村人が「どうしてすぐに避難させてくれなかったのか。あの人のせいで子供を被爆させてしまった。どう責任を取るつもりなのか」と詰め寄ったりします。この作品にも使えない激しさでした。でも話してみると、村長も悪い人ではありません。彼は村の形を守ることで、村を守ろうとしたんです。村を出てしまったら村が壊れてしまうと思った。若い人たちは、一刻も早く村を出たいのに、村長がそちらに予算を使ってくれないと不満を言いました。除染がおかしいという言葉が出てきますが、そういうバックグランドを映さないと、言葉が滑ってしまいます。

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©DOI Toshikuni

―でも、村長にしても、あれほどのホットスポットを知らなかったのでは?
土井:当初はもちろんそうでしょう。調査が進んだ段階ではどうだったのか? 分かりません。どこかで情報が止まっていたわけですが、先の大戦で、敗戦が見えているのに、政府や軍の上層部が認めなかった。そういう構図がどこかにあるのではないでしょうか。
―そして今、除染です。除染といえばもっと高度なことがされるのかと思ったら、単に土の表面を削るだけなのですね? 削った土はどこへ行くのですか? とても気になります。
土井:何の方法もなくて、一箇所に集めているわけです。除染は移染といわれる所以です。

―え? だったらその辺りの線量は更に高くなるのでは? しかも家の周りや校庭とか、土の部分の表面だけを削るわけでしょう? 村全体は出来ないし、そもそも川や山は?
土井:そうなんです。今やっている除染は、まるで意味がありません。やってるほうもそれはわかっている。原発の再起動の下地つくりのための除染です。努力していますよという、ポーズですよ。

―え? あんなにお金を使って?すごい数字にびっくりしました。しかも除染を請け負うのは大手のゼネコンで、かって公共事業で土建業者に資金が流れた構図が、ここにも出来ています。国民は何にも潤わない。少々除染したところで、もう村には住めない。そういう無駄なことにお金を使うのなら、あの膨大なお金を、今なお厳しい暮らしを続けている村人の生活支援に使って欲しいですよね。
土井:若い人は皆そう言うんです。でも、一人でも帰りたいという人がいる限り、除染もやめられない。やめたらやめたで、又非難が出ますから。

―う~ん、どうしたらいいんだろう?
土井:皆仮設住宅で疲れきっています。もともと仮設住宅に住めるのは、2年間の決まりです。政府は最初、2年以内に返すといいました。でもそれは、返したいという願望に過ぎない。今はあと2年と言っていますが、これにも根拠がありません。ここまでといわれ頑張ったら、又ゴールが伸びていたわけで、そういうことが続くと、人は希望をなくします。仮設住宅で呆けた老人がたくさんいます。家にいれば、畑仕事や何やかやとやることがあるけれど、仮設では何もありません。老人たちは、こういうところで死にたくない。故郷で死にたいといいますが、誰も責任を取ってくれないのです。時間が経てば、老人の中には、汚染されていても良いと、村に帰る人が出てくるでしょう。でもね、帰っても住める環境がないのです。家はあっても、人口が極端に少ないから商店は成り立たないだろうし、子供の汚染を恐れて、若い世代は住めない。一家が一緒にこの村に済むことはもう出来ないのです。

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©DOI Toshikuni

―やりきれないですね。監督のふつふつとした怒りを感じます。
土井:付き合っていると怒りが乗り移ってきますからね。ジャーナリストの原点は怒りですよ。そういう現状があるのに、政府はまだ原発を動かそうとする。海外にも輸出しています。決して反原発の映画ではないのですが、飯舘村の現状を見て、何かを感じて欲しいのです。もう2度とこういう悲劇を繰り返したくない。今政府は憲法を変えようとしていますが、どういう方向に変わろうとしているかご存知ですか? 憲法は本来権力を縛るためのものです。でも今、国民を縛るものになっている。原発のように、後で取り返しがつかないということにならないよう、国民の僕らは、しっかり考えないといけない。
―飯館村の皆は、まさに監督の追ってきたパレスチナの人々ですね。帰りたいのに帰れない。飯舘村の美しい風景が映るだけに、本当にやるせないです。今となってはどうにも出来ない、重さが残りました。(聞き手:犬塚芳美)

この作品は、6月15日(土)より、第七芸術劇場で上映
   時間等は劇場まで(06-6302-2073)
7月6日から神戸アートビレッジセンター にて公開。

映写室「旅立ちの島唄~十五の春~」吉田康弘監督インタビュー

映写室「旅立ちの島唄~十五の春~」吉田康弘監督インタビュー  

   ―沖縄本島から、東へ360キロの南大東島― 

 沖縄の離島を舞台に、少女の旅立ちの時を描いた作品が完成しました。高校の無いこの島の子供たちは、十五の年にこぞって、360キロと遥か海の向こうに旅立っていくのです。都会への不安と将来への夢、離れ離れになる家族への思い。毎年この島で繰り返されてきた別れの儀式に、島唄が流れます。制作秘話等を吉田康弘監督に伺いました。

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©2012「旅立ちの島唄~十五の春~」製作委員会

<その前に「旅立ちの島唄~十五の春~」とは、こんな作品> 
 絶海の孤島と呼ばれる南大東島の子供たちは、進学の為に皆十五の春に島を出る。少女民謡のグループ“ポロジノ娘”は、毎年別れの唄「アバヨーイ」を唄い、次のメンバーに後を託すのだ。新しくリーダーになった優奈(三吉彩花)は、1年後には自分もこの唄を歌うのだと複雑な思いだった。彼女は島人のお父(小林薫)との二人暮しで、お母(大竹しのぶ)や姉や兄は、那覇に住んでいる。自分が島を出るとお父は一人ぼっちだ。ちゃんとご飯を食べるだろうか、淋しくはないかと不安が募る。そんなところに姉が赤ん坊を連れて帰ってくる。

<吉田康弘監督インタビュー>
―素敵な島ですね。この島自体に物語性がある、今まで知らなかったので新鮮でした。
吉田康弘監督(以下敬称略):沖縄本島でもほとんどの人はこの島を知りません。なだらかに海とつながらなくて、沿岸が擂り鉢状になった島なので、絶海の孤島といわれています。僕も知りませんでした。この作品のプロデューサーが、休日のテレビで偶然この島のドキュメンタリーを見て、一瞬で惹きこまれ録画したんです。見てくれとテープを渡されたのですが、民謡教室に通う少女が最後に別れの島唄を歌うシーンで、これは映画になると思いました。子が親を思う気持ちや、親が子を思う気持ちとか、家族の情と普遍的な愛が見えたんです。その放送はどちらかというと母親と娘に主体があったのですが、僕は後ろから黙って見つめる父親の視線に惹かれました。これから作るのは、島を旅立つことをきっかけに、少女が家族とともに成長していく物語ではあるけれど、最終的には父親と娘の物語にしたいと思ったんです。そういうプロットで脚本を書き始めました。

―優奈を演じる三吉彩花さんがぴったりですね。島の娘の朴訥さと、都会に出て綺麗になっていくだろうなと思わせる原石の輝き、素晴しかったです。揺れる心の中を、わずかな表情の陰りに見せる様も、まさにこの年代の少女で、もう目が離せません。
吉田:三吉は今までの出演作で注目していたんです。優奈を繊細でナイーブな役にしたいと思うと、三吉しかいないと思って、オファーを出しました。彼女は自分の内なる世界をちゃんと持っていますからね。その世界観が僕らの求めるそのものなのです。三吉は本当に頑張りました。優奈の役をやるには、三線と唄が必須ですが、三線を必死に練習し、弾きこなしましたし、唄も独特の節回しがあるから大変だったと思いますが、本物の元“ポロジノ娘”に混じって、やりとげました。長年修行した皆に混じってのそれは大変で、一度は怖気図いて泣き出しましたが、15歳なりの女優魂で最後まで歌ったんです。撮っている時は、あのシーンを最後まで使うかどうかわからなかったけれど、編集の段階で切れなくて、結局最後まで使いました。三吉の場合、ひたむきに三線や唄を練習したことが、そのまま役に向き合うことになったかと思います。演技でもそれがいい方向に出て、この少女のひたむきさに重なっている気がします。

―今も素敵ですが、伸びやかで繊細で、今後の伸び代を感じさせる女優ですね。
吉田:そうなんですよ。彼女はとても恵まれた環境にあります。事務所が、三吉を逸脱した才能だと信じて大事にしていますから。今回も、事務所が、この作品をやるなら三吉自身が中学を卒業するタイミングでやらないと意味が無い。現実と役の年齢が一致した、そこから生まれるものを大事にしたいと言い、僕らも納得して、彼女の年齢に合わせ、撮影は2012年のゴールデンウイークに決めました。

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©2012「旅立ちの島唄~十五の春~」製作委員会

―この作品では周りの俳優さんにも恵まれていますね。両親役の小林薫さん、大竹しのぶさん、本当に素晴しいです。お二人がこの両親の内的世界を自然に静かに表現されていて、今更ながらですが、上手いなあと舌を巻きました。言葉少ないお父の慈愛、さりげないしぐさで示すお母の複雑な心中、作品の深みです。描かれていないこの物語の裏側が想像できました。こんな上手い人の娘役をやれて、演技的にも引っ張られ、幸せな女優さんだなあと思います。この両親なくして、三吉さんの優奈はありえない。オファーはすんなり行ったのですか?
吉田:実はシナリオ段階で、二人に当て書きしました。小林さんも大竹さんも、長年の付き合いでどういう作品なら承諾するかを知っていますから、プロデューサーが、シナリオがあるレベル以上でこの話ならきっと出てくれるというので。シナリオがラブレターのつもりで書きました。幸い気に入ってくださって、小林さんからは、最初の段階でシナリオに注文が来ました。それが僕らの目指す方向と合致したんです。僕らも極力オーバーな台詞をやめようとしたのですが、それでも俳優の見せ場を作ってしまいます。それをそぎ落とす方向で助言いただき、脚本の段階からお父を一緒に作っていった感じです。撮影中も、机の上で考えた台詞がしっくり来ないときがある。東京であれだけそぎ落としたつもりでも、島の景色の中でお父として存在している小林さんから見ると、この台詞は言わないだろうなあというのが、出てくるわけです。そういうのを除き、お父はどんどん寡黙になって行きました。実際父親というのはそういうものだろうと思います。ましてや、このお父は離島で男手一つで娘を育てている、ある意味で頑固一徹な父親ですから。娘を見つめる眼差し、遠くを見つめる目、台詞に頼らなくてもいい、演技力のある俳優さんだからこそ可能な、父親像を作っていきました。

―大竹さんも、さりげない仕草、いつもより少しだけ前かがみの姿勢、伏し目がちな瞳等で、この母親の疲れや惑いを感じさせて、唸らされました。出番は少ないのに、不在時にもお母の存在を感じる。娘とお父の中に、いつもお母がいることを納得させられました。それも踏み込めないもどかしい存在として。この物語そのままです。
吉田:この母親には、離島の人々の苦しみや宿命を背負ってもらいました。実際にこの島でも、子供たちが島を離れるときに、一緒に島を離れる母親は珍しくはありません。一度便利な生活に慣れると、なかなか島に帰れない。家族といえども、離れていると心をつないでいるのが難しいし、色々な事が起こる。言うにいえない事情が出てくるわけです。大竹さんは、そういうとても複雑で難しい役を、少ない出番で、説得力のあるものにしてくださいました。さすがだなあと感謝しています。誰もが答えの出ないものを突きつけられるのではないでしょうか? この作品は家族とは何か?を問うものでもあるので。離島で暮らすと必ず別れがあります。その瞬間に相手を思いやる。今の日本の現状では、家族の有様とかはテーマにし辛いものですが、離島だからこそ、そういうことをテーマにしても成り立つかと思いました。親の立場、子の立場、それぞれの年代の人たちに見ていただいて、家族とは?と考えていただきたいです。

―監督は前作でも家族をテーマにされていますが?
吉田:家族は誰にとっても身近な存在で、リアリティを持って作れますから。僕にとって手の届く題材なんです。その中でも父と娘の物語にしたのは、母親と娘の間とは違う距離感が切ないからです。母親と娘なら言葉もかけやすいし、触れ合うこともできます。でも、成長して年頃になっていく娘は、父親にとって、気安く触る事ができない。気遣いながらも少し距離をとって見守るしかできないという複雑な関係になっていきます。そのあたりのもどかしさや気遣う気持ちを描きたいと思いました。
―そう言えば、お父が娘を見つめるシーンが多いですね?
吉田:父親の存在を確かなものとして表現したかったのです。父親とは、気遣いながらも少し距離をとって、いつも娘を見守っているものだと、小林さんを通して実感しました。

―そういう、小津安二郎のような世界が、美しい南大東島の風景の中で展開します。あの島の空気感ももう一つの主役ですね。
吉田:そうなんです。真っ青な空と青々と茂ったサトウキビ畑、沖縄だけれど北海道のような、大陸的な景色が広がっています。沖縄というと砂浜のイメージがありますが、この島は周りが断崖絶壁、擂り鉢状になっているので、実は海はどこからでも見えるわけではありません。しかも沖縄本島まで360キロ、隔離された、まさに離島なのです。家族を隔てる海、360キロの距離は遠いです。台風が来ると1日一便の飛行機も飛ばないし、船もつくことができない。もともとこの島は船が港に接岸できず、ゴンドラのようなもので船と港の間を運ばれるのですが。
―そういう距離があるからこそ、別れが切ない。船出のシーンはジーンとなりました。
吉田:エキストラの島の人たちは、毎年ああいう別れを経験しているわけです。気持ちがわかるので自然にそういう表情になり、思った以上のシーンになりました。この作品は島の皆さんの大々的な協力で出来上がったのですが、エキストラというより、もう誰もがスタッフでした。島の人たちにシナリオを渡していましたから。今日はシーン何々の撮影だなあという会話が、自然に出ていた位です。ゴールデンウイークは、島人の多くが那覇とかの離れている家族の下へ行き、島はがらがらになるのですが、行政が、今年は残って撮影に協力して欲しいと、呼びかけてくれました。急にエキストラが必要な時も、公共放送で集めてくれる。本当に助かりました。

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©2012「旅立ちの島唄~十五の春~」製作委員会

―思春期の恋も瑞々しいけれど切ないですね。
吉田:この年齢で、重い別れを背負っていますからね。15歳の初々しさと、この年で一家の主になるという重い選択。そういうシーンはシネスコープで二人の距離感を表現しました。この作品のテーマが距離なので、作品の中でも意識的に人と人との立ち居地や距離感を映しています。
―そういう繊細な心配りが作品のリアリティを生み、しかも美しさになっているのですね。心情的にも映像的にも、とても詩的でした。南大東島に行ってみたいなあと思います。
吉田:是非いらしてください。島の人たちが喜びます。沖縄の人たちですら、この島のことを知りません。この作品で、南大東島を知ってもらうのも目的でした。方言や島の風習もさりげなくいれています。又、離島で暮らすのは大変です。政府が何らかの手を打たないと、もう人が住めなくなる。この物語では描いていない、そういう離島の苦しみや問題点も想像していただければ嬉しいです。
―この作品は三吉彩花さんの成長物語の様でもありますね。撮影期間は短かったそうですが、最後の「アバヨーイ」を歌う舞台のシーンなど、もう少女というより娘さんで、美しさに圧倒されました。身近に見て彼女の変化はどうでしたか?
吉田:ほぼ順撮りなのですが、表情は変わっていきましたね。彼女自身が「アバヨーイ」と向き合った結果が結実したのではないでしょうか。三吉は始めて主役をやるというプレッシャーを乗り越えました。ただ、「アバヨーイ」のシーンは、こちらも彼女を美しく撮ろうと、メイクや照明、カメラアングルと色々工夫しています。そういう僕らに応えて、三吉も、何かを乗り越えたのでしょう。はっとするほどの表情を見せてくれました。そういう少女の変化を見ながら、家族とは何か、それぞれの周りの家族のことを考えるきっかけにしていただきたいと思います。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記:犬塚> 
 美しい風景や空気感、そこで繰り広げられる家族の情愛と少女の成長、繊細ですべてに魅了されます。お話を伺い、これはこの作品に関わったすべての人が、それぞれに頑張った結果なのだと気がつきました。今日本は核家族化が進んでいます。私も独り暮らしの母をふるさとに残している。少女のように口には出せませんが、子供を送り出し、たった一人で残されて家を守る親の寂しさを時々思います。でもどうすることもできない。そんなことも思い出しました。
インタビューの後ですが、5月16日号週刊文春の冒頭グラビアを飾ったのが三吉彩花さんです。映画よりも更に大人になって、しかし、うつろう年代の少女の心を、グラビア写真でも見せています。


この作品は、5月25日梅田ガーデンシネマ、神戸国際松竹、
6月京都シネマ にて公開。

映写室「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」大宮浩一監督インタビュー

映写室「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」大宮浩一監督インタビュー   
―命の踊り―

 伝説のフラメンコダンサー・長嶺ヤス子。日本から世界に躍り出たアーティストの先駆けだ。この頃噂を聞かないけれど、それは世界を舞台にしているからで、日本にご無沙汰なんだと思っていた。この方にはそういうスケールの大きさを感じる。介護保険制度に一石を投じる、数々の名作を作ってきた大宮浩一監督が、今回は一転して、孤高の舞姫の素顔に迫ります。制作秘話を伺いました。

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©大宮映像製作所

<その前に、「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」とはこんな作品> 
震災直後の、節電で薄暗い病院に、白いガウンを着た長嶺ヤス子がいる。直腸癌で闘病中だった。しかし表情は明るい。毎年開く個展が近いと、ベッドの周りに絵を広げている。術後3週間でダンスも再開した。「エルフラメンコ」の舞台が近いのだ。当日、カスタネットと三味線を融合させた、魂の踊りに観客が熱狂する。一転して、犬や猫の世話をする穏やかな長嶺。彼女は福島の猪苗代に家を借り、沢山の動物の世話をしている。

<大宮浩一監督インタビュー>
―凄い方ですね。全てに圧倒されました。長嶺さんを撮ろうと思われたきっかけは?
大宮浩一監督(以下敬称略):この頃の若い人にはなじみが薄いようですが、ダンサーとしてだけでなく、犬や猫の問題で騒がれたこともあったので、お名前は存じ上げていました。不思議な人だなあという思いがどこかにあったのでしょうね。震災の直後に、長嶺さんが入院したと聞き、お見舞いに行って、その途中で「ドキュメンタリーを撮らせてください」とお願いしたんです。僕らがお見舞いに行くというのは、単なるお見舞いではなく、もう撮影を頼もうというところまで思っているわけですが、いいですよとあっさり言われて、撮影を始めました。というか、その時に話が弾んで色々広がりそうだったので、そういうのは映画の中で使いたいと、話を中断しました。同じ話を何度も聞くと観客に分かりますからね。撮影する側にも初めて聞く驚きが必要なんです。冒頭のシーンは、まだお会いしてから2回目くらいじゃあないかなあ。
―え、ずいぶん慣れているように感じましたが? 
大宮:長嶺さんの人柄ですよ。最初からあんな感じでした。

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©大宮映像製作所

―なるほど。ところで、長嶺さんの口から核心を突く刺激的な言葉が続きます。
大宮:ドキッとしますよね。あれはすべて、ご自分から淡々と言われた台詞です。「どうして撮るかなんて、撮ってみたらわかるわよ。それは私だけじゃあなくて、私を見て映すものであって、私自身じゃあないかもよ。あなたの感じる私を、結局表現するんだと思うの。私そのものじゃあなくて、きっと」
―ここまで言われたら、自分の長嶺さんを撮るぞと、腹を括るしかありませんね。
大宮:そうなんです。実際そうですしね。いくら素顔に迫ったところで、僕に見える素顔は、僕の心と響きあった部分の長嶺さんですから。それが表現するということだと思う。若輩者の僕を、おなじ表現者として、対等に見てくれている。それに感動しました。

―震災の直後で、気の毒、可哀想とあちこちでボランティアが立ち上がる中、「可哀想な人は今までもいた。震災後に急にそんなことを言うなんて罪よね」とさらりと言ってのけるのにも、ドキッとします。大宮:当時は、ドキッとだけでなく、(なんじゃこの人は!)と、思いました。皆の気持ちに水をさすのかと。それに僕も被災地のドキュメンタリーを撮ったりしていますからね。自分に言われたようにも思いました。編集の段階でもこの言葉を残すかどうか迷いましたが、時間が経ってみると、なるほどと思わされたんです。あれほどいたボランティアは、潮が引くようにいなくなったし、まだ困難の続く被災地を僕らは忘れがちです。(皆で何とかしなくちゃあ! 手助けをしたい!)という、震災直後の熱い熱は消えてしまいました。でも、長嶺さんは、当時も今も変わらず、動物たちを助け、一緒に暮らしている。(そういうことだったのか、変わらないのはこの人だけだなあ)と、あの時の言葉が重みを増してきました。誤解を招きかねない言葉なので、もっと前の編集なら、使わなかったかもしれないけれど、今ならしっくり来るんです。他の人ではない、長嶺さんだからこそ説得力を持つ言葉です。

―自分が平時からやってるからこそ、言えると。ところで、実際の長嶺さんはどんな方でしたか?
大宮:漠然と強い人だと思っていましたが、穏やかな人でした。そしてどんな時もしっかり前を向き、顔を上げている人です。震災直後で、皆が俯いている時期でしたが、彼女だけは変わってなかった。この人を見ていたら、僕らももう一度元気を取り戻せるのではと思いました。それも長嶺さんのドキュメンタリーを撮った理由の一つです。
―いつも平常心ということでしょうか。それに言葉が哲学的で、核心を突き、一つ一つ心に響きます。自分にも厳しく、「絵はこう描いたら売れるだろうなと思って描くから、ペンキ屋さんと一緒」とか、「もう踊りでやりたいことは無いの。やり尽くしたと思っている」とか。ドキッとします。
大宮:そんなことを言えば、僕ら映画やだって、観客の受けを計算しないわけではない。観客におもねた物も作れるわけです。自分はどうなんだと考えました。長嶺さんの言葉は、色々な人の心に突き刺さりますよ。

―字幕で流れる言葉も深くて感動しました。
大宮:あれは全部、長嶺さんの著書から取ったものです。色々な本から取るとややこしくなるので、出典は「炎のように火のように」の1冊からにしました。
―男性関係も含めて、お若い頃は激しい生き方でした。そういう生き方で身に着けた、人生哲学をお持ちなのですね。それに、長嶺さんの踊りは魂や命そのもの。まるで何かが乗り移ったかのようですし、自分の命を注ぐように踊られて圧倒されました。
大宮:あの踊りには圧倒されますよね。それを映すのもこの作品の目的でした。
―「フラメンコって綺麗なものじゃあないのよ。きれいな衣装の下の醜いものなの。私の描く絵はフラメンコのそこを描くから、誰にも描けないものになっていると思うわ」という言葉もその通りで、フラメンコを踊る女性は衣装を着けずに、裸体です。確かに、着衣の隣のものより、心惹かれます。
大宮:公演の度に赤字になっても、舞台には最善を求める。フラメンコにかける思いには計り知れないものがありますよ。

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©大宮映像製作所

―「裸足のフラメンコ」という、題名の意味は?
大宮:まだ若い頃、スペインで、日本人の癖に物まねをするなといわれて、長嶺さんは靴を脱ぎ裸足で踊ります。これをきっかけに長嶺さん独自のフラメンコが確立され、向こうでも認められました。当時はフラメンコといえば、スペインでもジプシーのものだったのです。裸足は長嶺さんのトレードマークにもなり、ドレスを着たときは靴を履きますが、着物を着た和物の時は裸足で踊ります。そういうことだけでなく、生の長嶺さんという意味も込めました。
―チラッと映った長嶺さんの足は、ひどい外反母趾。長年ヒールを履いて踊り続けてきた人だなあと思いました。
大宮:一瞬のそういうシーンをちゃんと見てくださって嬉しいです。

―え、でも狙ったシーンでしょう?
大宮:そうです。長嶺さんの足を映したいんだけど、あからさまにそうも言えない。そういう映像は解りますしね。で、チャンスが無いかなあと、待っていたら、靴下を履きかえるというんです。きたっと思いました。
―そんな素顔の長峯さんがいっぱい映っていますね。東京で、ハチという犬の看病のために、一人暮らしの方の家に泊まりこむ長嶺さん。点滴を打つ姿も自然です。猪苗代の家で、犬や猫をそれぞれの名前で呼び、抱きかかえる長嶺さんも、とても自然でした。口先だけではない動物たちとの共存の暮らしを見た思いです。
大宮:下手な獣医さんより上手いかもと思わせるほど手馴れたものでしたね。楽品もいっぱいそろっていてまるで病院ですよ。動物の面倒を見ているうちに、いつの間にかそうなったのでしょうね。犬や猫を保護しているけれど、長嶺さんも動物たちから、多くの物を貰っているのだと思います。いとおしそうに動物たちを見つめていますからね。か弱いものの命、それが結集して舞台では魂が乗り移ったような踊りになります。そして舞台から降りた一転して穏やかな顔の長嶺さん。どちらも長嶺さんなんです。自分のことにはお金を使わない人で、服も全てもらい物。いっつも同じ服を着ていますよ。
―でも、そういいながら普段はピンク系のラブリーなもの。イヤリング等こだわりを感じました。ところで、ご本人はこの作品を見てなんといわれましたか?
大宮:私ってこんないい人じゃあないのに、いい人に映っていると、言われました。え、充分嫌な長嶺さんも映しているよ?と思いましたが。自宅だとか、もっと映したいところもありましたが、僕らは可能な中で長嶺さんを作りました。映っていない部分も含めて、それが長嶺さんということかなあと思います。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記:犬塚> 
普段はちっとも踊らないとご本人が言いますが、ドレスを着た長嶺さんの背中は、くっきりと背骨が通った、まさにアスリートの若い背中です。普段鍛えていないはずがありません。とても実年齢には見えない。プロのダンサーなら普段のレッスンは当たり前、そういう姿を見せたくないのだと思います。素顔を映しているようで、これは長嶺さんの見せたかった長嶺ヤスコ像かも。それに気づきながら、こう見せたいと思う姿こそが長嶺ヤスコだと、大宮監督は思ったのではないでしょうか。透けて見えそうで見えないもの、世界の舞姫はやはり舞台で見なくては!

この作品は、5月4日から第七芸術劇場、
6月1日から神戸アートビレッジセンター、順次京都シネマ にて公開

映写室「桜並木の満開の下に」船橋淳監督インタビュー

映写室「桜並木の満開の下に」船橋淳監督インタビュー   

―震災後の皆が抱える心の暗さ―  

今年の桜は不思議でした。関東では早々に満開を迎え、遅れて開いた関西では、満開と時を同じくして、台風並みの雨と風。桜はあっけなく散っていきました。この物語の舞台の今年はどうでしょう? そんなことが気になるような、日立市が誇る素晴らしい桜並木が、映像の中に広がります。現実への桜への心残りをこの作品の中に探してみてください。満開の桜の下で何があったのか等々、制作秘話を船橋淳監督に伺いました。

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<その前に「桜並木の満開の下に」とはこんなお話> 
茨城県日立市の小さな町工場で働く栞(臼田あさ美)は、同僚の研次と結婚したばかりだ。そんな幸せの絶頂に、研次が仕事中の事故で死亡する。事故を起こした工(三浦貴大)が謝罪するが、栞は受け入れられない。しかし工場の建て直しに必死で働く工の姿が、彼女の心を溶かしていく。1年が過ぎ、工が工場をやめることになった。理由を聞くと・・・。


<船橋淳監督インタビュー>
―この作品は、日立市の支援で作られたものですね。
船橋淳監督(以下敬称略):ええ、そうです。日立市は平成20年度から、地元のPRとイメージアップを狙って、映画制作を支援する事業を行っているのですが、その公募に脚本を出して選ばれたというわけです。ところが撮影に入ろうとしていた矢先に、3・11が起こって、映画制作どころではなくなった。茨城県の被害も大きく、福島から避難してくる人たちもいましたから。キャスティングも決まっていたのに、一度中止になりました。映画の製作は実際の撮影の前に、かなりの資金を使っています。それがパアになるわけで、おまけに制作に予定していた2,3ヶ月が空白になって、何もすることが無い。鬱々とした日を送りました。ところが、少し落ち着いた夏頃に、あの映画の制作をやろうと、日立市のほうが言って下さったんです。予算のかなりを使っていたので、資金的にももう無理と、一度は断ったのですが、その話をオフィス北野の市川さんに話したら、お金を出していただけることになりました。あの震災で、この街や日本の状況は大きく変わってしまいました。工場も被災したし、親会社も被災しましたから。で、もう一度脚本を練り直し、キャスティングも1からやり直して、作ったというわけです。

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©2012 『桜並木の満開の下に』製作委員会

―震災後に大きく変わったところは?
船橋:やはり、さらに深まった暗さや不安感ですね。今、アベノミクスで景気が上向いているといわれますが、この物語は、3.11の震災の後の、日本中が暗く沈んでいた頃の物語です。日立の企業城下町の日立市には、関連の中小企業がたくさんあります。これらが震災で大打撃を受けました。そういう実際の被害だけでなく、原発の影響を恐れる風評被害も大きく、技術者や医者が、東京からこちらに派遣されるというと、赴任を拒否するという現象もあったようです。これでは物事が回っていかない。もともとの不況が震災後にさらに深まり、これからどうなるのだろうという不安感が街に漂っていました。仕事を求め、安全を求めて、若者は街を離れていきます。そう中での若者たちの物語を作りました。日立市はある意味で日本のどこにでもある地方都市の苦悩を抱えた町です。状況が変わったのかどうか、実体経済にはまだ反映がみられない中、身につまされる地方の方も多いのではないでしょうか。

―そういう震災の爪痕は、映画の中でどのように描かれていますか?
船橋:津波で抉られた海岸とか、あくまで物語の背景として描いています。というのも、今まさに長期化しようとている震災後の現場を、フィクションで捉えるのは、事の本質を遠ざけるような気がしたからです。フィクションはある程度距離をとらないとできませんが、爪痕が生々しい現実でありすぎて。工場にしても追い詰められていました。
―日立市にしても、この映画をきっかけに、そう言う所から脱却したかったわけですね。この作品のトーンは暗いけれど、暗さの中の希望というのか、未来に向かって風穴が開いていますから。小さな明かりがとても大切に思えました。
船橋:そう言ってくださると嬉しいです。それに日立市の方の思いは、まさにそうだと思います。撮影中は市民の皆さんがエキストラで出てくださったり、炊き出しをしてくださったりと、市を上げての全面的なバックアップがありました。又、映画に出てくる工場も、実際に稼動している工場で、こういう作品にもかかわらず、快く撮影させていただけ、作品のリアリティになっています。桜並木も、通常のライトアップ時間を延長してくださったり、色々便宜を図っていただけました。

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©2012 『桜並木の満開の下に』製作委員会

―主演の二人が素敵ですね。キャスティングはどうやって?
船橋:この映画制作支援プロジェクトの条件は、日立市で撮るということと、市内の桜の名所を映して欲しいということ。町おこしにこの街の桜を使って欲しいということです。だから撮影時期は桜の咲く時と限られていますし、物理的にはその期間にあいている人ということになりますが、この二人に巡り会えたのは幸運でした。二人とも目がいいんです。鬱々とした中で、色々考えているなあという、内面を感じさせます。ヒロイン役の臼田あさ美さんは役に体当たりで、複雑な感情に揺れ動く難しい役ですが、すべての自分の感情を作品にぶつけてくださいました。役作りが難しいので二人で色々ディスカッションしましたね。憎しみが愛情に変わっていく過程が肝心なので、僕のほうで意図的に、主演二人を会さないようにしました。撮影にあわせて距離を縮めていったわけです。三浦貴大さんは、お父さんに似たのかお母さんに似たのか、本当に好青年です。折り目正しくてスタッフからも好かれていました。

―二人の古風な雰囲気もあるのか、この作品を見ながら「キューポラのある町」を思い出しました。あの作品では、機械化されて熟練工が要らなくなるのですが、コンピューター技術が入った現代でも熟練工が必要なのですか?
船橋:工場は機械化されていますが、映画に出てくる過程は些細な調節や機械の使い方に、センスや熟練が要求されるようです。ここまで機械化されても、まだまだ本当の意味での熟練工は必要なのです。又、この作品は、古い時代をイメージしながら作りました。失われていく大事な何か、主人公二人のもっているそういうものが、もう一つのテーマになっています。

―今後の作品の構想がありましたら。
船橋:僕は多くのドキュメンタリーを作ってきました。ドキュメンタリーを撮っていると、心の変化に興味が行きます。どうしてもそこを追ってしまう。そして、時々テレビのサスペンスドラマの演出をさせてもらったりもします。これも又、理不尽な出来事やありえない関係がテーマになることが多い。この作品のように、自分の愛する人を殺した相手を好きになるとかです。そういう人間の心の複雑な変化を、描けたらと思います。(聞き手:犬塚芳美)


《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》
<最初の方に、「桜の花は迷いの花、蕾の中でいつ咲こうかと咲き時を探っている」>といった意味のせりふが出てきます。監督のオリジナルだそうですが、このせりふで、一気に、この作品の独特の視点に惹かれました。監督の仰る様に、主演二人の物言う瞳も、この作品の文学性を深くしているのでしょう。桜並木にしても、明るいだけではない、心を惑わすような儚い美しさが映っています。迷うのは桜だけではない、見る者の心なのでしょう。

 <ところで、この二人の終盤の関係は>観客に委ねられています。いくつかの暗示的な映像はありますが、決定的なものはありません。「本当はどうだったと思われますか」という監督からの逆取材に、記者からは「そういう関係があった」という意見が続き、私だけが「添い寝をしただけで、そういう意味の関係は無かった」と。それぞれのそう思う理由を重ねて監督から聞かれ、それぞれの理由を言うと、「どちらにも取れるよう観客に委ねてはいるけれど、僕なりの答えは随所にちりばめています」との事でした。う~ん、もう一度そのそれぞれを確認してみたい。ちなみに私の答えは、「まずは体ではなく心、お互いのぬくもりを求めたように思う」でした。
 <その時はこんな答えでしたが>、帰りの電車の中でもっと明確な答えが浮かびました。それは「そぐにはそうならない二人の人格を、それまでに映像の中で監督が作っていたから」です。さあ、正解はどれでしょう? 二人の心模様に焦点を合わせ、監督のちりばめたものに目配せしながら、映画館で「桜並木の満開の下」を歩いてみて下さい。

船橋淳監督は、この作品で、4作品連続ベルリン映画祭招待の快挙を成し遂げました。

●公式サイト  http://www.office-kitano.co.jp/sakura/

この作品は、4月13日からテアトル梅田、京都シネマにて公開

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