太秦からの映画便り

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映写室「破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学」

映写室「破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学」    
―映画に助けられた日々― 

<毎週のお奨め映画と>、監督のインタビュー記事等をコンスタントに更新していたサイトを、突然休んだのは、もう2年以上も前のことだ。

<2010年5月31日>、月曜日だった。大阪で「SEX AND THE CTY」の試写を見て帰ると、もう11時近かったと記憶している。夫はまだ帰っていなかった。前夜も帰っていない。彼は太秦にある撮影所のスタッフだ。仕事も生活も不規則極まりない。作品に掛かり始めると、こんなことはよくある。とくに撮影前は、ああでもないこうでもないと、脚本から大きな夢を膨らませて、皆で話が盛り上がり、打ち合わせが深夜に及ぶ。
 <でも、まだクランクインの前>、ここで無理をしては後が持たない。いくらなんでも今夜は帰ってくるだろう。そう思って軽い夜食を用意して待っていた。
日付の変わりそうな時計を眺めて、一瞬、撮影所まで迎えに行こうかと思ったけれど、そんなことをしたら又笑われると自重し、お風呂を使って寛いだ。そして、待ちくたびれてソファーでうとうとし始めたところを、電話のベルで起こされたのだ。この夜を境に、私の運命は暗転する。夫の緊急解頭手術からリハビリと、長い闘病がスタートした。

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 <これが「破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学」>(亜紀書房 犬塚芳美著)の序奏になる。私ののん気な状態から一転して緊急手術となるさま、救急病院への1ヶ月の入院、リハビリ専門病院に転院してからの4ヶ月間を綴ったものだ。舞台は京都で、頻繁に散歩するのは左京区の北白川や出町周辺になる。9月14日発売で、今日は色々な人が書店に行ってくれたけれど、まだ並んでいなかった。でももうすぐ並ぶはず。

 <脳外科病棟の特徴は>、重ければ重いほど、当の本人は自分の厳しさが解からず、あっけらかんとしていることだ。そんな当人に代わって、当初の心労は、ほとんどが家族、それも連れ合いの肩にのしかかる。私もそうだった。驚いて取り乱す私の右往左往とともに、介護する立場で見た、脳外科患者のその時々の不思議な症状を記している。

 <私が書きたかったのは何だろう> 色々あるけれど、動機の一つは人間関係に衝撃を受けてだった。雨降りの日に助けてくれた人の恩を忘れてはいけないというが、親身に助けてくれる人が殆どだったけれど、落ち目のものにはわれ関せずと、関わりを避ける人もいる。それが親しい人なら苦しみは格別だ。そういう人間の醜さも見せ付けられた二年間だった。
夫を抱え、明日のこともわからず、その日一日をやっと生きているというのに、無残にも、自分の肩に載せられた荷物の重さに窒息しそうだった頃。こんな仕打ちを受けたことがなかったので、人は人に対してこんなことが出来るものかと、わが目を疑った。でもそういう事態に今まで出会わなかったのが幸せなのかもしれない。大変な日々には、とりあえずはこれを書き上げるまで生きていようと、崩れそうな自分の命をつなぐ糸にしていたところもあった。

 <そういう日々を助けてくれたのが>映画だった。これは本の完成間近の頃だけれど、「毎日がアルツハイマー」の関口監督にインタビューした時、監督から「近くで見る日常は悲劇だけれど、引いてみると喜劇になる」という、チャップリンの言葉を教えてもらった。悔し涙を流したあの日々も、確かに、引いて他者の目で見れば、こっけいなほどに人間性を曝している。いつかこの体験を書きたい、映像化したいという思いが、あの時の私の引きのテクニック、手段だったのだと、今気が付く。
 <もう一つの私の引きが>、脳の中への関心だった気がする。昔、まだ感性工学という言葉も一般的でなかった頃、脳を探ろうと、母校の研究室で、脳の出先機関、目、中でも色の反応を数値化しようとしたりもした。結局中途半端に終わったけれど、脳という触れることの出来ないアンタッチャブルな世界を、介護したといいながら、それ以上に興味深く、妻ではないもう一人の私が観察していたのだ。これが、いつか専門の方の目に触れて、あの時彼の頭の中で何が起こっていたのか、脳に絡めたご意見を伺いたいという希望もある。

 <ところで、この本を一番心待ちにして下さったのは>、闘病仲間や介護するその家族だ。脳疾患の闘病の大変さが解かるだけに、応援してくださる思いも強いけれど、なかなか言えない自分たちの思いを、書いてくれているのではという、期待もあるような気がする。せめて一石に成れているといいのだけれど。

 <それにしても>、脳外科病棟はまだまだベールの中だ。忙し過ぎる救急病院の執刀医は、まずは命を救うことが主眼、後に表れるさまざまなことについて、とてもそこまで見ていられない。リハビリ病院に行くと、今度は不都合は結果であって、今さら手の施しようがないから、患者の障害を治そうという目で注意深く見ることがないような気がする。病気ですら脳に受けた傷という意味で、脳外科では受傷という。幸い親切な主治医にめぐり合えたけれど、それでもこれが現状だ。患者の不思議な症状は、詳しいところまでは知られていない。
 <脳の神秘を思わせるデリケートな症状の数々は>、張り付いたからこそ気がついたけれど、見逃すこともあるだろうし、知性や人間性にかかわるだけに、表に出ないことも多い。ここに記したことは、もしかしたら、医療関係者だって、気がついていないこともあるのではないだろうか。私と同じ、介護する立場の家族だけでなく、読む人の視点で見えるものが違うと思う。

 <入院中も執筆中も、色々な映画を見た> どの作品もしばし修羅場を忘れさせてくれたし、夫や私の引き篭もりがちな感情を、世間に対して広げてくれた。私が一番助けられたのが、取材で監督たちと話したことだ。一本の映画を作るには、並々ならぬ苦労をしている。自主制作ならなおさらで、お金をかき集め、自腹を切り、自分の思いを形にしたいという思いのために、飛び込んでいる厳しい世界。夢に向かって努力する監督たちの姿が、がんばる勇気を与えてくれた気がする。頑張る人を見ると、くじけそうな自分ももう少しだけ頑張れた。境遇は違っても、これは普遍的な姿だ。

 <古いものの好きな我が家は>、ダイヤル式の黒電話を使っている。深夜に響き渡ったあの重い電話のベル、あの夜の記憶が蘇るから、2年経っても、いまだに自宅の電話は苦手だ。そして、時々、あの時間にどうして迎えに行こうと思ったのかと、もしかしたらあれが虫の知らせというものだったのかと、考えたりもする。この本の裏側には、書かなかったまだまだ多くの物語があるのだ。(犬塚芳美)
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映写室 「モリエール 恋こそ喜劇」シネマエッセイ

映写室 「モリエール 恋こそ喜劇」シネマエッセイ   
―井上ひさしさんの訃報と、フランス喜劇作家の恋の物語―

 <井上ひさしさんが亡くなった> ずいぶん以前に講演で心を捕まれて以来、近くで講演やお芝居があると必ず駆けつけていたので、心にぽっかり穴が開いたようだ。
 <小説もよく読んだが>、井上ひさしさんといったらやっぱり劇作家。それも人生の機敏を描く泣き笑いの喜劇を思い出す。「頭痛肩こり樋口一葉」のような新派系の脚本も書いたし、映画化された「父と暮せば」、井上さんの遅筆でしょっちゅう公演延期になった自前の劇団「こまつ座」も懐かしい。

 <どれも独特の語り口で>、膨大な早口の台詞はやがてそれ自体が音楽のようになったし、市井の人々の深刻な事態や社会問題を扱っていてさえ、何処かにユーモアを潜ませてくる。人の本質を描きながら、芝居は楽しむもの、人生の憂さを一時忘れて心を軽くするものと、肝に銘じていたのだと思う。こんな時代だからこそ、もっと生きて、「じたばたしなくても大丈夫、人生最後は喜劇になるよ」と言い続けていただきたかった。
 <このところ>、尊敬するクリエーターの訃報が続く。世間の閉塞感と重なり、まるで黄金の一時代が幕を閉じようとしているかのようで、何とも心細い。

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©2006 FIDELITE FILMS - VIRTUAL FILMS - WILD BUNCH‐FRANCE 3 CINEMA - FRANCE 2 CINEMA

 <ところで、井上さんの訃報で>、同じように舞台に命をかけた人の映画、「モリエール 恋こそ喜劇」を思い出す。これは、17世紀のフランスを舞台に、若き日のモリエールが喜劇に人生を捧げることを決心する、ある夫人との恋が描かれている。彼を伝える全てのバイオグラフィで空白になっている、22歳の時の数ヶ月に光を当て、こんな事があったのかもしれないと、想像の限りを尽くした、フィクション伝記とも言えそうな代物だ。「恋に落ちたシャークスピア」と言い、クリエーターの創造の元や空白期間を想像すると、どうしても恋に行き着くらしい。

 <シェークスピアのように>、シリアスなドラマを書いて劇作家になりたいのに、喜劇を求められたモリエール。不本意さで腐る彼は「笑劇や喜劇は人の外側だけを描き、笑わせるが、悲劇は人間の本質を描き、感動を与える。だから悲劇をやりたい」と言う。「では、感動を与え人の心を動かす喜劇を、貴方が書けばいい。貴方なら出来る」と答えた夫人。この言葉の深さがその後のモリエールを決定つけたとしたら、まさに彼女が彼のミューズだ。知的な彼女は、見かけに騙されず知性の何たるかを知っていたし、この作家の本質と才能を見抜いていた。惹かれあう2人、でも彼女はスポンサーの夫人。

 <こんな恋が後のモリエールを作った>と言う設定は、夢の様でもあり、説得力もあり、それ以上に、俳優陣の魅力と映像の美しさに見ほれさせられた。恋も芝居も、夢と現の間のつかの間のもの、だからこそ支配しあうとそんなことも思わせる。

 <夫人の夫の、恋ゆえに背伸びした姿や、人妻への苦しい恋を>、少し離れたシニカルな他者の目で眺め、“恋こそ喜劇”と位置づけたこの作品。そのままモリエールの戯曲手法でもある。自前の劇団を持ちながら、資金不足でお金の工面に苦労した男。それでも止まらない芝居への情熱、この辺りは井上さんとも重なりそう。井上さんは日本の“モリエール”とも思えるのだ。視点は、もう少し温かくウエットだけれど。

 <井上さんの座右の銘は>「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに」だった。逆になったら陳腐極まりないのに、時々小賢しくも“やさしいことを難しそう”に言ってしまう。知的という言葉には弱い。大切な戒めを時々思い出さなくてはと訃報で改めて思ったが、この作品でも、お上品ぶったサロンで、背伸びして高尚に人生を語る陳腐さが、描かれている。それを見て、モリエールはさらに夫人の言葉を噛締めると言うわけだ。

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©2006 FIDELITE FILMS - VIRTUAL FILMS - WILD BUNCH‐FRANCE 3 CINEMA - FRANCE 2 CINEMA

 <この作品、モリエールの色々な作品のエッセンスを>ちりばめた構成もいいが、ビジュアルにも圧倒される。フランスを代表する作家の伝記映画に全面協力したのだろうか、これぞフランスと言う豪華な映像が続く。ヴェルサイユ宮殿や、イルド・フランスのお城、世界遺産の町並みが重厚で美しい。映画ならではの臨場感は、モリエールが見たら嫉妬しそうなほど。今度は悲劇と喜劇に悩まず、板に留まるか映像に進むかと苦悶したかも。コスチューム劇だけれど、衣装に負けず、それを着る俳優の個性を際立たせた、少し現代性を加味した衣装も素敵だった。

 <だからもちろん俳優陣もいい> それぞれの輪郭が際立っている。モリエールに扮するのはちょっと危険な匂いがするロマン・デュリス。惑いの瞳や鬱積した表情はクリエーターのもの、幾多の恋に翻弄されたモリエールにぴったりと一致する。特筆したいのは、モリエールが惹かれる夫人に扮する、ラウラ・モランテの素晴らしさだ。イタリア人のせいか、フランス女優ではもっと小さくなっただろう役を、知的に華やかに、たおやかに広げていく。まさに大人の魅力、大人の余裕を見せて、こんな恋があったのかもと説得力を持たせた。
 <モリエールが立ち去らなければ>、二人の恋の結末はどうなっていただろう。恋も芝居も、一時の、夢と現の間の出来事。何時か終わるものなら、一時の輝きを胸に立ち去るのが正解だ。それを知っていたモリエールと夫人。これぞ恋、これぞ映画、これぞフランスの世界が楽しい。

 <…と、喜劇に身を準じ>、台詞の一つ一つに命を縮めた井上さんとモリエールを重ねながら、美しい映像を思い出している。映像は残るが、舞台は一瞬で消えてしまう。劇作家たる者、それをこそ愛したのだろうけれど、あの舞台をもう見れないのは残念だ。これから井上作品の映像化が始まるかもしれない。期待したいような、一瞬の命を惜しみたいような…。(犬塚芳美)

この作品は、4月10日よりテアトル梅田で上映中。
      7月上旬京都シネマ、神戸アートビレッジセンター にて公開

映写室 木村威夫先生の思い出

映写室 木村威夫先生の思い出 
  ―心の距離感のままに空間を歪める手法―

 <3月21日に、映画界の重鎮>、木村威夫先生がお亡くなりになった。先生は「海と毒薬」や「ツィゴイネルワイゼン」等200本以上の作品を手がけた映画美術監督で、ここでも取上げているけれど、最近はご自身で監督した作品もある。確か「夢のまにまに」で、世界最高齢の長編映画新人監督として、ギネス記録にもなったはずだ。去年12月の半ばに、新作のキャンペーンでお会いし、1時間近くも貴重なお話を伺ったばかりなので、何だか信じられない。超人的なパワーで何処までも生き続ける方の様な気がしていたのだ。
<その日は>、終わったその足で新幹線に飛び乗り、夜は東京で忘年会だと言うことだった。キネマ旬報の元編集長が一緒で、「僕らよりお元気ですよ」と、隣で舌を舞いてらしたのを思い出す。最後まで現役で走り続けて、そのままあの世まで突き抜けていかれたようだ。作られる映画のように、前衛そのものの人生だなあと、お人柄を偲んでいる。

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(2009年12月14日 大阪にて)

<訃報に驚いたけれど>、一方では91歳というお年でもあり、根をつめると、後で体調を壊される事が多くなっていたので、(とうとう来たか)という思いもあった。「夢のまにまに」も「黄金花 秘すれば花、死すれば蝶」も老境の不思議な体験を、先生独特のアバンギャルドな手法で表現されていたと思う。

<初めてお話したのは>、故佐藤真監督に招かれた京都造形芸大のスタジオ開きの日だった。恐れ多いのだけれど、お隣にいらっしゃったので、凄く好きな「紙屋悦子の青春」と「無花果の顔」のセットについて、感動をお伝えしたのだ。画面では解からない色々細かい手法まで教えて下さり、感動しきり。周りの学生達を眺めながら「若い人と一緒に作るのは楽しいんだよ」とも仰っていた。その学生達は自然に接していて、特に長老の方だと労わる事もせず、私が休んでいただこうと椅子など運んだのも思い出だ。そのままスタジオの隅で居眠りを始められたけれど、今思い出すと、あの時は去年の12月よりずっと恰幅がよかった。

<その後も手紙を差し上げると必ずお返事くださるし>、お忙しいのに良くして頂く。ある時、「何だか先生に、特別に良くして頂いている気がする」とお伝えすると、お嬢さんが私と同じ姓のお家に嫁がれ、少し前に亡くなられたので、「貴女に娘を重ね親しみを感じた所もあるかもしれません」とお返事をいただいた。
 <そんなこともあって12月のインタビューは>、ちょっと失礼なような厚かましいことも伺っている。「得しちゃっただろう、こんなこと初めて話したよ」と仰って、周りで聞いていたスタッフの方も身を乗り出していた。読み返すと木村先生のあの時の口調が甦ってくる。
生涯を本当の創作に捧げた映画人、木村威夫先生のご冥福をお祈りいたします。(犬塚芳美)

 参照  映写室 インタビュー記事:2010年1月7日、8日アップ分

映写室  藤田まことさん:シネマエッセイ

映写室  藤田まことさん:シネマエッセイ 
  ―劇場よりもお茶の間の人―

 <藤田まことさんの追悼番組が>続いている。先夜は「はぐれ刑事純情派 最終回スペシャル」の再放送だった。70も半ばを過ぎて、現役の刑事と言うのもおかしな話だけれど、不思議と納得させられる。長いシリーズ物らしく、岡屋龍一監督や共演者との兼ね合いも自然だ。誰もが役と自分を一体化し、しみじみと人生を語ってほろりとさせられた。こんな境地は時間をかけてこそのもの。そんな意味でも藤田さんは、単発の映画よりも、シリーズ化されやすいテレビの据わりがいい方だと改めて思う。

 <ところで、これの撮影時期が気になった> 一緒に見た家族は、この1,2年の体力的に辛そうな現場を知っているだけに、5.6年前のまだお元気な頃だろうと言うのだ。でも調べると、収録は去年の春頃と予想できる。相当しんどかったはずなのになあと、役者魂に感嘆していた。
 <現場では周りがハラハラするほどの>状態でも、カメラの前では懇親の力を振り絞っておられたのだろう。なにしろ藤田さんが出なくては始まらない。視聴率を大きく支配するし、1時間か2時間の何処かに、あの飄々とした顔が映るだけで、出ていない時間帯の空気までを支配する。かけがえがなかった。

 <出演作の中で私が特に好きなのは>「件客商売」だ。小林綾子さんとの年の離れた夫婦役が似合って、おっとりした顔の裏に悲しみを秘めた非情な匂いもする。時代劇なのに、時代劇と言う以上に人間の物語になっていた。
 <ご本人もお気に入りかと思ったら>、幾らかやり難そうな感じも受けたと言う。「ぴったりくるのは必殺の主水役じゃあないかなあ。サービス精神があるから、何処かに笑いが入ってた方が落ち着く人なんだ」と分析する。そんなところが関西人好みだ。出身地と言うのもあるが、視聴率もより関西で高かった。

 <どんな時もサービス精神を忘れない方で> 地方ロケに行くと、タイアップで大勢のスタッフが泊まるホテルに気を使い、他の泊り客を集めて歌とかのショーをしたという。もちろん無料だからホテルもお客も大喜び。人気も出るし、制作もタイアップが取りやすかったはずだ。
 <主演作に長寿番組が多い理由を聞かれて>、「視聴率がとれるように頑張るんです。自分の肩に共演者やスタッフ、その家族の生活がかかっている。数字が取れれば又続きますから」と答えている。主役でありながらプロデューサー的に作品全体を眺め、放映の数字まで心配し、番組の全てを肩に背負っていた。その重みで背中を丸めていたのだと、今頃気が付く。皆が愛したのはあの丸めた背中ではなく、背中に現れたそんな責任感だったのかもしれない。
  
 <この1,2年は>立っていられない事もある程で、それでも撮影は続くから、実は後ろ姿がそっくりな、遠景や後姿の代役を勤める影武者がいたという。[細やん]の愛称で呼ばれる役者さんだが、本当の名前は皆覚えていない。苦労人の藤田さん、今頃天国で、[細やん]からまだまだ続くはずだった影武者の仕事を奪った事を、謝っているのではないだろうか。片手を頭に当てて少し首を傾けて、口調までが浮かんでくる。そんな藤田さんの優しさを誰より知っているのも彼だ。何しろ背中に同じ重荷を背負っていたのだから。名優の代役を務めたことを誇りに、誰よりも藤田さんを偲んで、今度は顔を晒した自分に賭けていくと思う。(犬塚芳美)

映写室 「海角七号/君想う、国境の南」&「台北に舞う雪」シネマエッセイ

映写室「海角七号/君想う、国境の南」&「台北に舞う雪」シネマエッセイ   
 ―近くて未知の国、台湾を知りたくて!―
 
<酒井充子監督の「台湾人生」以来>、台湾が気になる。かって日本の統治を受けながら、この国の人々が恨み言を言わないのも心苦しい。オリンピック期間中の今は、特に気にかかる。中国本土との兼ね合いで、国連やオリンピックという国際的な舞台では、複雑な対応を取らざるを得ないからだ。近隣諸国の中でも格段に親日的な国なのに、複雑さの一因を作りながら、日本は国際的に手を差し伸べないまま。今回はどうだったのかと思っても、開会式も見なかった私ではよく解からない。ネットサーフしても情報は集まらなかった。

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(C)2008 ARS Film Production. All Rights Reserved.

<世界情勢も刻々と変わる今>、台湾のそれも変化しているはず。大陸の方の中国の変化はもっと激しいから、なおさら現状が解からない。そんな時は台湾発の映画を見ると、少しだけ事情が垣間見れる。これはそんな点からも見逃せない、台湾を舞台にした2本だ。
<最初の作品は台湾の南の端>、恒春(ヘンチュン)が舞台で、後者は台北の近くの菁桐(チントン)が舞台になる。どちらの町も風情が懐かしい。日本人の私にすら故郷のような思いを抱かせるのが台湾の土地柄なんだと思う。

  <「海角七号/君想う、国境の南」は>現代の物語に、日本統治時代の末期、第2次世界大戦が絡んでくる。統治下で恋に落ちた日本の青年教師と台湾の女学生、でも日本の敗戦で青年は引き上げる事に。時は変わって現代、青年が恋人への切ない思いを綴った手紙を見つけた家族が、統治時代の住所「海角七号」と書いて送ってくる。夢に敗れ、故郷で郵便配達をする青年が、皆の助けを借りてそれを宛名の女性に渡すというお話だ。

 <間近に迫る町おこしのコンサートには>日本からの歌手、日本人のコーディネーターと、物語の過去にも現在にも、台湾と日本との愛に絡む濃密な関係が描かれる。日本統治時代を知っている人々、今も日本人と関係のある人等を描きながら、優しいトーンで日本への思いが語られていくのだ。まるで、私たちは今でもこんなに日本が好きですよという、ラブレターのように思った。台湾では口コミから大ヒットになり、世界中の注目を集めたという。

 <「台北に舞う雪」の方は>、日本の作家による原案や脚本を、大陸出身の「山の郵便配達」や「故郷の香り」のフォ・ジェンチイ監督が台湾で撮ったものだ。話も大陸と絡め、両者の違いを際立たせながら、台湾のウエットで繊細な感じや癒しの部分を際立たせる。

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(c)2009 北京博納影視文化交流有限公司、“台北に舞う雪”製作委員会、博納影視娯樂有限公司

 <モウはこの町の人々に助けられ孤児として育った> 今は恩返しのつもりで、町中の雑用を引き受けて暮している。そんなところへメイという若い女性が現れる。大陸から来た売出し中の歌手だが、声が出なくなって逃げてきたのだ。親しくなる2人、モウたちの開いた野外コンサートでメイは美しい歌声を響かせ、旧正月に一緒に天灯を飛ばす約束の前にメイは帰っていく。

 <…と、台湾の物語は>、まるで御伽噺のような幻想性に支配されている。だからなのかラブストーリーが良く似合う。打算のない恋心を真っ直ぐに描いても、この国の空気感や風景が納得させるのだ。
<舞台になる菁桐はまるで絵本>のように美しい。一番の名所は日本植民地時代の面影を残す木造の駅舎で、その駅を中心に昔ながらの小さな商店や民家が、時を止めたように軒を並べる。だからここで繰り広げられる物語も、タイムトリップしたよう。監督の思いを風景に語らせて、何処か懐かしくほのぼのと温かい。

 <こんな作品を見ると>心が浄化される。民族性、体形、食べ物等から考えても、台湾は一番日本に近い国ではないかと思う。でも解らない所も多々。誰か詳しい方がいたら教えて欲しいのだけれど、とりあえずは、そんな事情もさりげなく描かれた映画から、この国への知識を広げたい。旅情を誘われるし、主人公たちを訪ねて行ってみたくなる事請け合いだ。舞台になる2つの町を訪ねたいなら、南北に走る鉄道の旅がいいかもしれない。

 <余談だけれど>、同じテイストのラブストーリー「きみに微笑む雨」も公開中だ。こちらは大陸中国、四川大地震で苦しんだ成都が舞台で、アメリカ留学中に知り合った韓国人のカップルが再会するというお話。「8月のクリスマス」の韓国ホ・ジノ監督が撮っている。
 <大陸中国だとか、台湾だとか>、韓国だとか日本だとか、区別して書いたけれど、優しい雰囲気は3本とも一緒。他の地域から見たら、人にも風景にも同じ匂いを嗅ぐだろう。 全ては同じ東アジアだと思える。こんなざっくりとした感覚で、台湾と大陸との融合が起こればいいのだけれど。映画で台湾を語りながら、最後には何処の国が主役でもない、緩やかな連帯のアジア圏を思った。(犬塚芳美)

  「海角七号/君想う、国境の南」は、京都シネマで上映中、
                春、神戸アートビレッジセンター にて公開
  「台北に舞う雪」は、2月20日(土)より、梅田ガーデンシネマほかにて全国ロードショー!
                【近日】京都シネマ
  「きみに微笑む雨」は、MOVIX京都で上映中


<台湾と日本との歴史>
 〈1895~1945年の51年間>、日本の統治下に置かれたが、欧米への対抗心もあり、日本政府はインフラ整備や治安維持、教育の普及に力を注いだ。また同和政策により、台湾での学校教育が日本語で行われた為、この時代に学校教育を受けた世代は親日的で日本語が話せる。いわゆる「日本語世代」と呼ばれる人々で、第2次大戦を日本人として生き、戦況が厳しくなると米軍の空爆をうけ、日本兵として従軍した人もいる。
 〈敗戦後日本が撤退すると〉、今度は大陸から来た蒋介石の中国国民党が統治。激しい台湾人弾圧が行われた。台湾語、日本語の使用が禁じられた為、「日本語世代」は長い間口を閉ざさざるをえなくなる。1952年、「サンフランシスコ講和条約」締結で、日本は台湾における一切の権利を放棄するが、その帰属は明記されなかった。1971年には国際連盟で「中国」の代表権を喪失し、脱退。1972年の日中友好条約で日台の国交は断絶したが、民間レベルの交流は今なお強固に続いている。それを支えているのが「日本語世代」だ。

映写室 「今度は愛妻家」シネマエッセイ

映写室 「今度は愛妻家」シネマエッセイ
  ―私のアイドルたち!―

 <作家でも俳優さんでも>、誰かを好きになると徹底的に追いかけるほうだ。と言っても、目が早い訳でもなく、きらきら輝いている人に自然に目がいくだけだから、当然世間も見逃さない。たちまち人気者になって、「貴女ってミーハーね」と呆れられながらも、皆と一緒に追いかけている。ただのミーハーとの違い(?)は私の熱が簡単に引かない事だ。世間はとっくに次のアイドルに移っているのに、ひそかに何時までも追い続ける。
 <言い訳をするなら>、輝いた日々以上に彼らがその輝きをどう変えていくかから目が離せないのだ。年を重ね新たな魅力で輝く彼らを見るほど嬉しいことはない。他者からは滑稽だろうけれど、私にとってのアイドルは、彼らに夢中になったその時代の自分の代弁者なんだと思う。

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(C) 2010 映画「今度は愛妻家」製作委員会

 <…と、前置きが長くなったが>、「今度は愛妻家」は、そんな私のアイドルが結集している。まず主演の薬師丸ひろ子さんと豊川悦司さん、そして「GO」や「きょうのできごと」でファンになった行定勲さんだ。俳優の2人はともかく、「世界の中心で、愛をさけぶ」の後、行定監督は厳しかった。興行的にも作品的にも成功したこの作品で、世間や自分に枷が出来たのか持ち味が出せず、本人だけでなくファンもいらいらしていたと思う。でも今年は行定監督の当たり年、そんな鬱積を吹き飛ばす良作が続く。

 <今公開中の「今度は愛妻家」はこんな話だ> トヨエツ扮する売れっ子カメラマンと薬師丸扮する専業主婦は、子供のいない倦怠期の夫婦。芸術家肌の夫はついつい妻をないがしろにし、それでも明るく振舞う妻が、試すように「だったら離婚しよう」と言ってもそれが現実になるとは想像もしない。悲劇はそんな時の旅先で起こった。最後に写真を撮ってと言い、夫がしぶしぶ構えたカメラに向かうと結婚指輪がないのに気付く妻。そんな事どうでもいい夫に対し指輪にこだわる妻は、ホテルに取りに戻ろうとして事故にあう。
 <こんな具合に、連れ合いにこんなシチュエーションで>亡くなられたら、そりゃあたまらないだろうという話が、時間軸を交差させて進む。妻も登場するのだけれど、生前のシーンだけでなく、それが夫の幻想なのは徐々に解かっていく仕組みだ。

 <この2人が夫婦役というと>「きらきらひかる」を思い出す人も多いだろう。2人はあのカップルの10年後のようだ。そう言えばあの作品でも妻は家出をした。投げやりな言葉にも平気な顔をしてるから、妻が傷ついているのに気付かない夫。その投げやりさも夫にしたら甘えやある種の愛情表現の訳で、傷つきながらも許している妻と阿吽の呼吸だけれど、この2人にはそんな大人の甘やかな関係がよく似合う。夫婦の間の微妙な空気を軽妙なやり取りと優しいトーンで映して、ほろりとさせる最後まで運んでいく。「きらきら…」のように2人にゲイが絡むのも一緒で、余談だけれど、トヨエツの隣にゲイの男は座りがいい。

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(C) 2010 映画「今度は愛妻家」製作委員会

 <おじさんどころかすっかり関西のおっさん化した>トヨエツと、変わらず可愛い薬師丸の織り成す、友達以上夫婦未満の情景。お父さんやお母さんの役が多くなったけれど、若い俳優では足元にも及ばない大人の情感だ。年を重ねて、かっこ悪いという新しい素敵さを発揮するのが嬉しくて、私の流した涙の半分はそれへのものだった。2人にそんなハーモニーを導いた行定監督もまた、生意気だけれど、肩の力が抜けて大人の監督(?)になったと思う。不本意な時代を経て、その不本意さすら、そんな時もあるよと受け止められる領域に達したのではないか。私のアイドルたちは誰もが新境地で魅了している。
 <こういうのは嬉しい> 彼らが輝き、そんな彼らに夢中になって共に生きたという意味で、私の過去やこれからの可能性までを肯定された気がする。見終えると、物語への感動だけでなく、そんな身内意識の晴れがましい思いにも満たされた。私のアイドルたち、元気を有難う。これからも応援するね!

 <同じく行定監督の手による「パレード」が>もうすぐ公開になる。こっちのほうは「きょうのできごと」に続く作風だそうだ。実はまだ見ていない。試写会が一杯で入れなかったのだ。私だけでなく相当の人数が溢れ、何時までも未練たらしく満席の会場を覗き込んでいた。珍しく映画を見ないうちからプレスを読んだが、サスペンス仕立てで期待は高まるばかり。初日に見ようと思っている(犬塚芳美)

今度は愛妻家」は上映中
「パレード」は2月20日(土)より梅田ブルク7、難波パークスシネマ、
               MOVIX京都、シネ・リーブル神戸で上映

映写室 「スター・トレック」&「ターミネーター4」シネマエッセイ

映写室 「スター・トレック」&「ターミネーター4」シネマエッセイ     
―映画館で時空の旅―

 TVシリーズが懐かしい「スター・トレック」と、今やカリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーを一気にスターダムに押し上げた「ターミネーター」という、一世を風靡したSFの新作が揃って上映中だ。考えてみると片方は宇宙戦争、片方は人間と知的ロボットの戦いとまるで違うんだけれど、CGの酷使や、国家や人類、時空を超えて戦うと言う意味で私的には同じジャンル。映画館が夏休みの子供たちに占領される前に観てきました。

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(C) 2008 Paramount Pictures. Star Trek and Related Marks and Logos are Trademarks of CBS Studio Inc. All Rights Reserved.

 <「スター・トレック」は色々なシリーズがあるが>私の場合印象深いのは最初の第1シリーズ。皆が寝静まった頃、深夜の再放送をよく観た。まるで自分が「エンタープライズ号」の1員になって宇宙旅行をしているような不思議な現実離脱感。宇宙の彼方までワープしながら眠りに落ちていた気がする。
 <新作はこの最初のシリーズの始まる前の物語> クールさが魅力の耳のとがったバルカン星人ミスター・スポックなんて、あの彼をそのまま若くしたみたいだし、血気にはやるカークも往年の名船長の面影があるとか、キャストはこの時のメンバーによく似ている。こんな時代を経て冷静沈着なキャップテンが出来たのだと、命知らずの若者たちの青春物語をハラハラと楽しんだ。嬉しいのが、ちょっとレトロなワープや転送の仕組みで、「ワープ」と言う声と共に画面がシュワーとなると、観ているほうも身をちじめて何処かに連れ去られる気分。懐かしいなあこの感覚、ウン十年前とちっとも変わっていない。新作だけど、時代的には今までより古い設定だから、微妙な古さと言うか時代感も出している。CGを使いこなした上での手触り感、そのあたりのクリエーターの工夫の後も楽しみたい。
 <アメリカでは1966年に始まったこのシリーズ>、まだ東西の冷戦構造の残っていた頃から、もうすでにクリエーターたちの想像は国境を越えてはるか宇宙を飛んでいたんだと、SF黎明期に思いを馳せた。今は逆に想像が広がらなくて内向しているみたい。

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 <さて、「ターミネーター4」は近未来のお話>今からだと後10年もない2018年の設定になる。このところ、古い作品が毎週のようにテレビ放映されたから、リアルタイムで見逃した人も「ターミネーター」通になっているかも。ところでちょっと自慢だけれど、私が観たのはリアルタイム。どんな内容かも知らないで新京極のロキシーで2本立ての付録のつもりで観た。肝心のお目当てが何だったかは忘れたけれど、B級作品のこちらのほうだけが鮮明に記憶に残っているという訳だ。
 <大まかな話は>、軍事産業が作ったスカイネットが自我に目覚め、機械軍を結成して人類の滅亡を図るというもの。米国とソ連の核戦争が勃発して多くの人類が命を落とした審判の日の後、生き残った人々がジョン・コナーを中心に纏まり、ロボットに戦いを挑んでいく。過去や未来と時空を行き来するのが物語の特徴で、機械軍は未来から過去へとターミネーターを送り込み、コナーをその誕生の前、つまり母親や父親の時代から抹殺しようとするし、人類のほうもコナーに絡む人を守ろうとターミネーターに戦いを挑む。最初は憎らしい不死身の殺人ロボットだったのに、人気沸騰したシュワルツネッガーはいつの間にか良い役。これって何か物足りないけど、今回もカメオ出演している。

 <84年に作られた1作目は>ジョン・コナーの母親になるサラ・コナーを守るお話。まだ物語の全容が見えず、未来から転送されて立ち上る湯気と共に裸でうずくまる若者の、得体の知れなさに受けた衝撃は忘れられない。だから訳が解らずに逃げ回るサラの恐怖に感情移入するのはたやすかった。ホンダのバイクで逃げ回る姿がこの頃の日本人には妙に誇らしかったものだ。91年の2作目は少年になったジョン・コナーを守るお話、たしか美松劇場のラストランで観た。3作目は青年になったジョン・コナーの苦悩で、スカイネットの無差別殺人と核戦争の始まりだった。

 <そして新作は核戦争の後の物語で>、スカイネットとの激しい戦いの中で、ジョン・コナーの命令で過去に送られてサラを救い、やがてコナーの父となるカイル・リースを救う話だ。こうして書くとなんかややこしいけれど、観れば解ると思う。今回は脳と心臓だけが人間と言う新しい人種(ターミネーター?)が登場して、人間とは何かも問いかけてきた。

 <実はこの視点>、「スター・トレック」でも感情を持たないバルカン星人のスポックに絡めて問いかけてくるもの。CGを酷使し未来や過去と自由自在に行き来しながら、問いかけるのが人間性というのがどちらもの作品の温かみだ。ちなみに両方に登場するのがロシア生まれのアントン・イェルチン。「ターミネーター4」ではカイル・リースに扮するし、「スター・トレック」ではクルーで転送の名人に扮する。気弱そうな瞳がなぜか尾を引く青年で、日本で言えば福山雅治君。もうすぐ公開の主演作「チャーリー・バレットの男子トイレ相談室」も乙な味わいなのでお楽しみに!

 <ところで未来の人類は>宇宙に飛び出すのか、地球で殺戮を繰り返すのか、それとも友愛の道があるのか? いつの間にか時間的に身近(?)になったSF作品でそんなことを考えた。ミニシアター系も良い。邦画も良い。でも映画だからこそ出来る、創造的なこんな作品も見逃せない。このスケール感、両方とも映画館の大スクリーンと大音量でこそ楽しみたい作品だ。日常をタイムトリップしに映画館へ行こう!(犬塚芳美)

   両作品とも全国で上映中。

<お知らせ> 
 ミニシアターからシネコンまでの関西の映画館情報を満載した「CINEMA,CINEMA,CINEMA 映画館に行こう!関西映画館情報」と言う本があります。観客側と館主側の双方から紹介するコアな情報、観たい作品を追いかけて映画館めぐりを楽しみませんか。ちなみに東映太秦映画村やユニバーサルスタジオジャパンの大人の為の探訪記、各国の映画館情報、成人映画館の情報、映画を作る側、見せる側、見る側の視点での身近な話も載っています。ご注文は(075-721-1061)、あるいは創風社出版(089-953-3153)まで。
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映写室 「おと・な・り」シネマエッセイ

映写室 「おと・な・り」シネマエッセイ  
   ―恋の始まりは隣の部屋の物音―

 「美しい人が出てくる、きれいでせつない映画はな~い?」と友人に聞かれて、すぐにこの作品を思い浮かべた。物語のかすかな浮遊感、相手の気持ちが解らなくてもたもたする恋、明日への希望と戸惑いと、私はこの手の作品に弱い。たくさんのお花にレトロな建物やこだわりのインテリアと映像も美しく、まるで心象風景。真夏でもない春でもない青葉の頃に、大人と青春の狭間で疼いた年頃を思い出す。

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(C) 2009 J Storm Inc.

 <カメラマンの聡と生花店でバイトしながら>フラワーデザイナーを目指す七緒は、アパートの隣の部屋同士。でも顔は知らない。不本意な仕事で鬱々とする聡、夢に向かってまっしぐらでも利己的な男に傷つく七緒。薄い壁だから、鍵をかける音開ける音、毎晩レッスンしているフランス語や鼻歌、くしゃみの音やコーヒー豆を挽く音までが聞こえてくる。一人ぼっちの夜、二人は自分を励ますように隣の気配に耳を澄ます。ある日、聡は隣が空っぽなのに気づき…。

 <と、壁越しの物語が>、まるで二人の気配をうかがう様に広がっていく。音だけで想像する相手は遠いようで近い。隣人だからこそ知り得るプライベートな音。その音が好もしかったら、ほのかな思いだって生まれる。それでも、それ以上は立ち入らない二人の性格と都会暮らし。壁を隔ててたゆとうお互いの想い、好意はだんだん恋に変わっていくのだけれど、本人たちにもまだ自覚は無い。恋の過程でも一番甘やかな始まりの時がじっくり描かれるのを見ているうちに、同じ頃の自分に連れ戻されてしまった。

 <そんな手法や映像の透明感>、日常を描きながらの浮遊感、もしやと思ったら、やっぱり監督は熊澤尚人だ。実は先の友人とは、この監督の『虹の女神』を一緒に観てお互いに目を腫らした事がある。この時のキャッチフレーズは、確か「岩井俊二の助監督を勤めた熊澤尚人の監督作品」だったけれど、もちろん、もうそんなコピーは付いていない。先輩を乗りこえて、今やもう熊澤作品自体が、繊細な心理描写でせまる若者映画のブランドになっている。大人になり切れずにその手前でもたもたする物語に弱いのは、私自身がそんな時代の尾っぽを残しているのだと思う。

 <本当言うと、この物語が気になるのは>、昔私が二人のアパートとよく似た下宿で暮らしたせいもある。同じ年頃で、広い画室を2つの部屋に仕切った壁はこの物語と同じ様に薄く、隣の物音が手に取るように響いたのも一緒だ。どうってない事に悩み、上手くいかない恋愛に苦しみ、将来が見えず鬱々とする夜。隣の部屋の気配は、少なくとも自分は一人ではないと思えて慰めだった。あの頃の皆はどうしているだろう。忘れていたそんな時間を、厚かましくも素敵な二人に感情移入して思い出したという訳だ。青春の尾っぽが久しぶりに疼く。

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(C) 2009 J Storm Inc.

 <恋愛なんて興味ないとでも言いたげな>、仕事一筋の七緒役の麻生久美子のキュートさ。昔「きれいなお姉さんは好きですか?」と問いかけるコマーシャルがあったけれど、麻生久美子を思うと私はいつもこのフレーズが浮かんでくる。綺麗で儚く、隣に立つといい匂いがしそう。これってまるで、彼女が駐在さんの美人妻に扮した『僕たちと駐在さんの100日戦争』で、美貌に涎を垂らさんばかりにデレデレになった悪ガキの憧れそのものだけれど、麻生久美子の佇まいには、等身大と言うよりどこか別の次元、手の届かない大人の匂いがする。このところ毒のある捻った役が多いけれど、確かに負の何かを付け加えたくなる美貌だと、監督達の野心を納得した。

 <まだ綺麗な花を平気でバサバサ捨てる傲慢さ>は、前しか見ない生真面目さと紙一重。でもそれ位じゃないとこの年代の女は流されてしまう。結婚、安定と平凡な幸せへの誘惑が口を広げて待っているんだもの。もう少し自分に賭けてみたければ、肩肘張るのも仕方がない。仕事一筋、隣人にも過剰な想いは持たない。いや心の奥底は違うけれど、自分のそんな思いに気付くまでに時間がかかってしまうのだ。

 <売れっ子でも、本当に写したい物を撮っていない>と仕事の方向転換を考える聡。なまじ実績があるだけに昨日までを捨てるのは難しい。このまま流されれば、成功の裏側でいつかこんな風に悩んだ事も忘れるだろう。でも今ならまだ夢に向って行ける。
 結婚したり子供が出来たりと平凡な日常に落ち着いていく同級生たちを尻目に、諦めきれない夢の途中の二人。どちらが良いとも幸せとも言えない。それでもこんな仲間がいるからこそ、仲間たちが幸せだからこそ、自分は新しい挑戦が出来るのだ。同級生という存在の安らぎ、このあたりの微妙な思いもリアルに伝わってきた。

 <これってまるで、夢に向かって挑戦を続ける熊澤監督>の思いそのもののよう。だからこそ、最後には素敵な偶然が待っている。ちょっと甘いけれど、それも嬉しい。迷っている今も長い人生の一通過点、極上のラブストーリーに背中を押されて、夢を諦めずに生きてみようと思えた。二人を見守るマスター世代なのに、最後まで七緒や聡に成り切る私。こんな年代に返ってみたい方にお勧めしたい。(犬塚芳美)

 この作品は梅田ガーデンシネマ、シネ・リーブル神戸で上映中。
   5月30日(土)より、なんばパークスシネマ、MOVIX京都他にて上映。


<お知らせ>
 今まで主に作品紹介と評論の中間の形を取ってきましたが、今後はシネマエッセイの形に落ち着きそうです。そして来週から、今までどおりの水曜アップに戻します。ただし、今、公開作品が沢山あります。週末に今週の映画ニュースの形で情報もアップ予定。どうぞよろしく!

映写室「チェイサー」シネマエッセイ

映写室「チェイサー」シネマエッセイ
     ―500万人を動員した韓国の話題作―

 K氏の大絶賛に背中を押されて、「チェイサー」を観る。久しぶりの京都シネマだ。実は初日に観た家族が悲惨さに辟易したらしく、珍しく他の作品にしたらと止めるのだけれど、そう聞いたからには余計に観たくなる。映画が目的だけど、それ以上に、何が彼の感性に辛く、K氏は何を絶賛しているのかを確かめるのも目的になった。

チェイサー
(C) 2008 BIG HOUSE / VANTAGE HOLDINGS. All Rights Reserved.

 <土曜日の最終回>、いつものように一番前の席の真ん中で観る。この作品は、韓国で“殺人機械”と言われた連続殺人鬼ユ・ヨンチョルの事件をベースにしたもので、猟奇殺人者を元刑事のデリヘルの元締めが、自分のところのデリヘル嬢の転売者と勘違いして、お金を取り戻そうと追走する物語だ。
 <始まってすぐに家族の苦手な理由は>解った。主役を演じるのは、その辺を歩いていそうな中年男で、アップになった顔はどうにも暑苦しい。ちなみに家族の場合、例えば最近のディカプリオ主演作でも、この手は駄目だ。デリヘル嬢もしみったれていて、しょっちゅう挿入される土砂降りの雨と共に、まさに韓国の庶民の暮らしや匂い、湿度が映っている。映画全体、俳優たちの体から発するこの感じが、同じアジア人だけにリアル過ぎて苦手なのだと思う。湿っぽさを伴うこれは、実は私も苦手だ。

 <…と、家族の苦手な理由は解ったが>、それでも映画は面白い。決して超人ではない、しがない中年男のどたばたとした追走、路地から路地へと疾走する臨場感。警察や追走者の間抜けさも説明できないほどではなく、事態は異常でも、人物像が等身大の日常性を失わず作られている。犯人役の俳優が又上手いのだ。冷酷さと離人性をこの中では一番端正な顔に漂わせて、感情を表さずじわじわと迫ってくる不気味さ。異常性はいつも低体温のクールさの中にある。

 <もちろん、少ない出番でその人物像を>くっきり見せる手法も見事だった。1シーンだけの姉の一家の映像が後々まで効いてくる不気味さ。…何てもちろん後で気付いたことで、観ている時は追走劇に固唾を呑んでいた。このあたりのいらいらさせる展開も上手い。
 <主な視点が、自分で見た事しか信じない>、そんな意味でも凡庸な、事態に半信半疑の主人公に重なり、子供と共にミジンの行方を追って探し回る主人公の混沌のままに保っていたのがいいのだと思う。戸惑う観客に時々挿入される事件全体の俯瞰図。これって神の視点? 私たちにこの視点があれば! いたるところに十字架の見えるソウルの街で、無慈悲に起こったこんな事件。人間の愚かさ無知さを全身で贖罪するキリスト像の嘆きの深さに思い知る。

 <容赦のないこの物語の一点の救いは>、最後までミジンを助けようと主人公が走り回ったことだ。それだけにラストには無念さも増すが、生きたいと今際の際までもがいた命の鼓動を受け取った人がいて、しかもそれは彼女を食い物にした同じ底辺に生きる男だったという構図。デリヘルの元締めとデリヘル嬢という、一見救いのないこの雇用関係の中にも、彼らにしか解らない絆があったのだと思えて、私には救いだった。生きていると信じる事でつないだ命、他にも囚われ人の孤独や必死さ、横田めぐみさんとかも、他の人は絶望視しても、身近な人だけは生存を信じて最後まで探すのが命綱なのだと、そんな関係ない事まで考える。
 <決して美形ではない主人公が>、ラストになるほど魅力的に見えてくるのは、人物を描き切った監督の視点に飲み込まれたからに違いない。ひょんなことから人生に躓いて裏街道を生き始めた主人公が、贖罪の様に追走して浄化された心もあっただろう。

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(C) 2008 BIG HOUSE / VANTAGE HOLDINGS. All Rights Reserved.

<「成人映画」指定のこの作品が>、自国作の不振な韓国で500万人も動員した。この悲惨さ、私はとても2度も観る気にはなれないが、リピーターの多さが伝えられるし、K氏も2度も観たと言う。何故K氏に2度も足を運ばせ、韓国でそれほどヒットしたのだろう。ただし日本では中規模での展開、ヨン様ファンは多くても、この手の韓流ファンとなるとぐっと狭まってくる。

<両国の反応の違いには、まず題材への距離がある> 何しろこの事件は韓国中を震撼させた異常犯罪。自国民なら、恐怖心からも好奇心からも、短期間で20人以上の人を残忍な方法で殺した猟奇殺人犯の心理を観たいと思うだろう。怖いもの観たさのこの題材を選んだ時点で、まず最低保障はされたようなものだ。しかも死刑制度の是非という問題も含んでいる。入り口がキャッチーで、入ってみるとしっかりとした力量で魅せるのだから、噂が噂を呼んでヒットに繋がったんだと思う。
 <この噂が噂を呼ぶ力も>、韓国は強そうだ。日本でも一時は熟年女性のヨン様ファンが熱狂へとなだれ現象を起こしたが、観客だけでなく、韓流作品自体にそんな現象を起こさせる力が宿っているのを感じる。お隣韓国は、情の国、熱い国だと思う。

 <ちなみにこの作品の制作費は4億円と言われ>、日本よりは物価が安い韓国での話だから、これは凄い。新人監督のオリジナル脚本にポンとこれだけ出した英断、成功は行き詰った韓国映画界が本気で心身代謝を図った結果とも思える。こんなの作らないでよと言うレベルのゆるい物が乱作される日本は、反省しなくては。

 <他にはやっぱり韓国人の志向>を感じる。一時日本でブームになったものを除けば、一般的に韓流は、私たちには目を背けたくなるような残忍なシーンが多い。いつの間にか草食系男子ばかりになった日本と違い、未だに徴兵制のある韓国は肉食系男子が健在と言うことだろうか。血や暴力への意味合いや興味、許容度が違う気がする。
 <もちろん韓流だけでなく>、この頃の私は、刀を振り回す時代劇の残忍さについて行けなくなっている。日本ならではのコスチューム劇として応援したいと思いながら、斬り合いはほとんど目を伏せる有様。時代劇が若い人に受けなくなったのはそんなところもあるのかも。…何て。いけない、話はどんどん拡散していく。ともあれ力作だ。未来の巨匠ナ・ホンジンの初長編作をお見逃しなく!(犬塚芳美)
 
  この作品はシネマート心斎橋、テアトル梅田、京都シネマ
    布施ラインシネマ10、ユナイテッドシネマ大津等で上映中

映写室 「沈黙を破る」シネマエッセイ

映写室 「沈黙を破る」シネマエッセイ    
―占領地にいたイスラエル兵士たちの告白―

 この作品は2002年の春、イスラエル軍のヨルダン川西岸への侵攻で破壊と殺戮にさらされたパレスチナのバラータ難民キャンプとジェニン難民キャンプの人々の生活を生々しく記録する。一方で「沈黙を破る」のメンバーに助けられて、占領地に送られたイスラエルの兵士が、そこで何をしてどんな心境だったかを、自らの良心にかけて告白する姿も映す。攻められる方だけではない、攻める方の悲劇により密着して中東問題を映しているのがこの作品の新しい視点だと思う。

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 <イスラエルにいればただの若造に過ぎない>あどけなさを残す兵士が、占領地で銃を構え高圧的に尋問する姿は、人間の本質を映し出して誰もが怖くなるだろう。戦場で1人でも多く人を殺すことを義務付けられた精神が、休暇で平和な街に帰ったからと言って急に変わるもんではない。荒くれた心を持て余し、戦地の異常性を引きずって街を暴走すると言う告白にも、肯いてしまう。戦場とは、平時にはタブーの人を殺す事を義務付けられた異界。二つの常識の間で引き裂かれる心、悲鳴を上げる魂。そんな息子の荒廃を感じ、案じながらも言葉には出来ない両親。戦争とは全ての人を巻き込む、人間性を無くした異常事態だと改めて気付かされる。

 <もちろんこれは何時の時代にもどの争いにも>当てはまるもの、誰もが過去や現在を苦い気持ちで思い出すだろう。日本の侵略、ベトナム戦争、今も続いているイラク戦争、アフガニスタンやパキスタン等々、フィルムの回る時間と共にやるせない気持ちになってくる。それでもそんな思いと共に、ここにはない視点の、パレスチナを占領し、軍事大国に走るイスラエルの悲劇をもぼんやりと考えた。それはタリバーンの思いを想像するのと同じ視点だと思う。
 <その切り口もあればより公平でテーマが大きくなのにと>終盤に思ったけれど、かすかに思ったくらいでそれほどの違和感はない。だから私は、そのまま帰ればよかったのだ。かすかな思いと映像の訴えるものを反芻しながら、自分で発酵させるべきだった。と言うのも、続いてあった土井敏郎監督の講演で、映画の偏向を過剰に感じて、そのイメージが強く残ってしまったのだ。

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 <監督のプロフィールを考えると>それも当然の事。土井監督は1985年からパレスチナ・イスラエル問題にかかわり、映像による取材を続けている。命を危険にさらしパレスチナで取材を続ければ、パレスチナの悲劇により目が行き、イスラエルの傲慢さに怒りを覚えるのだろう。それが正しいのかもしれない、いや、多分正しいのだとは思う。でも、この日の私は、ジャーナリストを強調する監督の口調や、プロパガンダに変わってしまった論調に、聞き始めたことを後悔した。

 <壇上でジャーナリストを強調されればされるほど>心が冷えていく。(ジャーナリストってなんなの? そんなに偉いの? 貴方も知らないうちに貴方が攻撃している傲慢な強者になっているよ)と、横にお酒があって親しければ茶化すはず。だって土井監督自体は良い人っぽいのだ。後ろの方だったら耐えられなくて席を立っていただろう。
 <もちろんそんな思いが壇上に届く>はずもない。益々加熱する熱弁を聞きながら、この作品と対照的な、亡くなった佐藤真監督の「エドワード・サイード―OUT OF PLACE―」を思い出した。いまさらながらに、あの作品の知性を感じる。汲み取る力を求められても良い、観客の感性を信じて、安易な結論に導かない作品のほうが好きだ。会場の皆はどんな思いだったのだろう。

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 <余談だけれど、この作品も同じシグロ> 佐藤監督の追悼上映会で、パレスチナ側のキャンプとの交渉が上手く行かなかったと残念がった山上氏だけれど、そんな意味では充実感一杯のこの作品と講演を、山上氏はどう見てどう聞いたのかと又もや考える。映像自体は貴重で魅力的なのに、私の場合講演で思考が横道にそれてしまう。
 <そんな私の思いを代弁してくださったのが>、最後にあった野田正影氏のコメントだ。「証言はそのまま真実ではない。話す人の感性で歪んでいるのも忘れてはいけない」と言う、多分主催者には肩透かしを食らったような意味深な発言で会場を煙に巻く。面識も有る。真意を伺いたいと思いながら出来なかった。野田先生はいつも行き過ぎた熱気に水を差す。そのシニカルな視点が興味深い。…と、帰り道の思考は映画の主題から遠く離れっぱなし。

 <映画監督が自作を語るのは難しい> インタビューでは根堀は折り聞くけれど、実際の所監督に言葉は要らない、出来上がった作品が全てだというのを改めて感じた講演だった。だから、私のようなひねくれた人には、映像だけをお勧めしたい。貴重な作品です。(犬塚芳美)

  この作品は第七藝術劇場で上映中、
   5月23日(土)から京都シネマ、7月以降神戸アートビレッジセンターにて公開


※「沈黙を破る」とは
 占領地に赴いた経験を持つ元イスラエル将校たちによって作られたNGOで、創設者代表のユダ・シャウールを始め20代の青年が中心メンバーになっている。占領地での虐待、略奪、殺戮等の加害行為を告白することにより、イスラエル社会が占領の実態に向き合うことを願って作られた。もちろん「祖国への裏切り」と言う非難は堪えない。2004年6月、テルアビブで「沈黙を破る―戦闘兵士がヘブロンを語る」と言う写真展を開催し大きな反響を呼ぶと、以降、大勢の兵士の証言ビデオを収集し、国内外に占領の実態を訴え続けている。

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