太秦からの映画便り

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映写室 新NO.54マイ・ブラザー

映写室 新NO.54マイ・ブラザー
  ―地獄を見て帰還した海兵隊員―

 <先週の「ONE SHOT ONE KILL―兵士になること―」に>続いて、今週も兵士が主人公です。デンマークの女流監督スザンネ・ビアの「ある愛の風景」をリメイクしたもので、ハリウッド版は、叙情豊かな男女の愛の物語から、戦争とは何かに比重を移し、銃後の家族と帰還後の兵士が描かれる。男女の愛だけでなく複雑な家族の愛を問う形になりました。
 <戦場に行けば何が起こるか?> 決して口外したくない、戦争の非人間性と壮絶さが描かれるが、一方で安否を気遣う家族の苦悩も計り知れない。兵士は沖縄にも大勢いる海兵隊員で、その父親も元海兵隊員。しかもベトナムからの帰還兵と言うのが、アメリカ社会の苦悩だ。これこそがハリウッドが描くべき現実、表に出ない悲劇を映像化しています。

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(C) 2009 Brothers Production, LLC. All Rights Reserved.

 <海兵隊員のサムは>、妻と2人の娘に囲まれ順調な人生だ。銀行強盗の罪で服役中の弟トミーは、サムとは対照的に皆から疎まれる厄介者。でもサムだけは弟を見捨てない。弟が出所したのと入れ替わりに兄が戦場にいく。そして届いた訃報、絶望する皆を慰めるのは弟だった。そんな時、死んだはずの兄が別人のようになって帰ってくる。
 <妻と弟の仲を疑うサム>、陰気な父親に娘たちは「お父さんは死ねばよかった」とまで言う。戦場で何があったのか。おぞましい実態を少しずつ明らかにしながら、彼を支える家族の対応が描かれていく仕組みだ。


 <先週の《アメリカ軍に絡んだ豆知識》の中の>、帰還後の兵士を襲う苦悩について書いた箇所を思い出して欲しい。サムはまさしくこの通りに、精神を病んでしまう。家族がいなければ、ホームレスになるところだ。戦場とは殺さなければ自分が殺される場所。極限状態で生き延びるためにあらゆる試練をくぐるが、そのことが兵士の心を蝕む。戦場で行った行為は、帰還して日常生活に戻ると、自分ですら許せない非人道的なことだった。
 <「ONE SHOT ONE KILL」を美学とする>戦場と、人を傷つけてはいけない日常生活とのスイッチがそう簡単に入れ替われるはずもない。帰還後に自ら志願して又戦場に向う兵士が多いのも、怪物になった自分にはもうそこにしか居場所がないからだと思う。兵士の孤独の深さ、自分を憎悪しながら、苦しみを抱え込むしかない。その悲しみが痛ましいほどに伝わってくる。

 <退役軍人の父にも、ベトナムからの帰還後>、感情をコントロールできなくて家族に辛く当った過去がある。トミーの人生はそんな父親に歪められたものかもしれない。ベトナムから始まって未だに世界の紛争にかかわり続けるアメリカ、戦争の傷跡が2世代にわたり始めているのだ。プロデューサーや監督の、この作品に込める思いの深さがうかがわれる。

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(C) 2009 Brothers Production, LLC. All Rights Reserved.

 <ところで、この作品の元になる「ある愛の風景」>が忘れられない。俳優には、人は心を隠すものと言う現実のまま、感情を押さえてさりげなく乾いた演技をさせ、複雑な心情は映像の工夫で観客に汲み取らせる大人的手法だ。フィルムが劣化したような粗い粒子の赤みがかった画像、突然挿入される、顔のディテールの一部を大きく映す独特のカメラワーク、スザンネ・ビア監督の特徴に圧倒された。俳優達の抑えても抑え切れない瞳の深さ、お互いの探るような眼差しが、彼らの戸惑いと思いを伝える。
 <そんな作品をハリウッドがリメイクしたらどうなるか> こちらは映像的には正統派だ。華と力のある出演者が、揺れる心やぶつかる感情をじっくりと演じて、ハリウッドは俳優の宝庫なのだと思い知らされた。配役の隅々まで、子役までもが侮れない。

 <まず凄いのが>、サムに扮するトビー・マグワイア。「スパイダーマン」シリーズの彼がシリアスになって登場だ。撮影にあわせて相当の減量をしたのだろう、出兵前と帰還後では外見からして別人、瞳に宿す光までを変えてくる。一家の中心で太陽のように輝き、頼もしかった男は、焦点の合わない、狂ったような目に変化。心に触れられるのを避けるように、周りにバリアーを張っている。過酷だった戦場が想像できるが、だからこそ、腫れ物に触るように気遣い、容易には聞き出せない家族。
 <前半はサムの視点で弟や家族を包み込むように映し>、後半からはトミーの視点になって、その兄に戸惑い、息を詰めて探るように気遣う様を映りだす。妻や子供たちの反発すら、トミーは一歩引いて兄への思いにつなげようとする。つくづくと、アメリカは父性の国なのだと思う。

 <トミーに扮するのは>、ジェイク・ギレンホール。繊細な役の多い彼が、鍛えて筋肉をつけた腕にタトゥをいれ、無精ひげと共に野趣味たっぷり。瞳のせいなのか逞しいのに気弱さや子供っぽさも伺え、役の複雑さのままで痛々しい。やっぱり兄がいてこその弟なのだ。家族を支える姿勢も兄の帰還後は影からそっとになる。
 <ナタリー・ポートマンの演じる兄の妻に>次第に惹かれる様、二人の戸惑い、子供たちのなつく様。サムが生きていると解かるまでのこの一家の再生は、少しずつでも確かだった。このままだったらそれなりに幸せな第2の家族が出来ただろう。娘が言った「お父さんは死ねばよかった」は、もしかしたら、いや間違いなく、誰もの頭を掠めた思いでもあったはずだ。そんな空気を感じ、疎外感の中で生きていくしかないサム。死にたくなるのも解かる。兵士にとって、戦場の日々よりその後の人生の方がずっと長い。忘れられない戦場の記憶、一歩戦場に入ったら、そこを離れたとしても戦争は続く。

 <この家族が壊れないのは>、出兵前の素晴らしいサムの記憶があるから。今の彼に怯えながら、夫はこんな人ではない、兄はこんな男ではないと、目の前のサムを横に置いて、それぞれが以前の彼を思い浮かべる。サムがかっての自分を取り戻せると良いのだけれど、其れが容易でないのは観客にも想像がつく。
 <それでも夫の罪を聞いたからには>、妻はもう逃げられない。彼の側であてどない再生を待つ人生が始まった。それが家族の形、サムを労わる事が家族を続けさせる。そうするのが本当にいいのかどうか、弟はどうなるのか、妻と弟との思いは・・・。等々考えてはいけない。家庭が崩壊する。帰還兵士とその家族にはまだまだ戦場が続く。重い現実だけど、父の死も乗り越えようとした無邪気な子供たちがいる。時間と娘2人が救世主になるかもしれないと、わずかな希望を持った。(犬塚芳美)

   この作品は、6月5日(土)より全国でロードショー
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映写室 新NO.53  ONE SHOT ONE KILL-兵士になるということー

映写室 新NO.53  ONE SHOT ONE KILL-兵士になるということー 
 -「グリーン・ゾーン」と共に沖縄や米軍のことを考える―

 <約束の5月末が近づいたが>、沖縄の基地問題に決着がつかない。国外どころか、抑止力に気が付いた等、鳩山総理は今更何をと言う言葉を吐いて迷走を続けている。そこでよく聞く言葉が海兵隊だ。辺野古のキャンプ・シュワブ、普天間基地等と沖縄には海兵隊の訓練施設があちらこちらにある。沖縄を考える上で欠かせない、海兵隊員とは何者なのか? 何の為にここにいるのか? そんな事が少し解かる、海兵隊のブートキャンプ(新兵訓練所)の12週間を追ったドキュメンタリーです。

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(C)森の映画社

<うかつにも海兵隊を海軍の事かと>思っていたら、とんだ間違いだった。海兵隊は作戦の中でももっとも危険な、戦争が始まった時の殴りこみ部隊で、米軍には陸軍・海軍・空軍・海兵隊・湾岸警備隊とあるのだという。危険が少ないエリートコースは入隊も厳しい。志願制度の今、不況による就職難や、免除されると言う大学の奨学金の事もあり、海兵隊にはそういう事情を抱える、移民やマイノリティと言った貧困層が多いという。隊員は任務以前に、自分に関わるアメリカ社会の問題も抱えているわけだ。

<ブートキャンプとは>、兵士になった若者たちが最初に訓練を受ける場所。陸軍・海軍等それぞれにあるが、海兵隊のブートキャンプが12週間と一番長い。海兵隊のブートキャンプは2ヶ所あって、ミシシッピ川から東の出身者と女性は、パリスアイランドで訓練を受ける。1915年に開設以来、100年近く新兵訓練を請負って来た地だ。毎週500人から700人の新兵がやってきて、平均で男子の90パーセント、女子の85パーセントが卒業する。金曜日ごとに卒業式があり、08年10月から09年9月までの1年間で、164000人が新兵としてアメリカ軍に入ったが、そのうちの約20000人がここから巣立った。

<ここを出た彼らは>、早ければ半年ほどでアフガニスタンやイラクという戦闘の最前線に送り込まれる。12週間で兵士になったのかどうかと言えば、これを見る限り、兵士と言うより本格的な兵士訓練に耐える精神と体を作っただけのように見えた。まだあどけない顔で無邪気に夢や希望を語る若者たち、このまま戦場に行けるわけがない。この後でも、沖縄やアメリカの別の場所で、海兵隊としての訓練が続く。

<ただ、そうは言っても軍隊の訓練は若者を凛々しくする> 最初はばらばらで小さかった掛け声が、訓練と共に大きくなった。整列した彼らにかける教官の言葉は、常に大きな声を出せだ。全編をBGMのように、「イエッサー」と言う揃った大きな力強い声が支配する。終盤になるほどそれが敏捷になってきた。何も考えず、上官の命令には即座に返すその声で自らを鼓舞し、仲間と一体化する様。訓練の主体は、絶対服従の徹底と円滑な集団行動を身につけることに見える。そうして彼らは戦争の入り口に立つ。後に控える本格的な訓練、兵士になるとはどんなことなのだろう?

<インタビューに答える新兵達の真摯さ>誰もが、入隊は自分の可能性を試したかったからと言い、ここの訓練で自分を成長させて、未来の職業選択肢を広げ、大学にも行きたいと答えるのだ。でもその前に、彼らには4年間の兵役が待っている。アメリカが中東紛争に絡んでいる今、過酷な戦地へ送られる可能性が高い。命の保障はないのだ。なのにそれを尋ねられても、任務を遂行するだけと穏やかに答える彼ら。事態が解かっているのかと心配したいような顔もあれば、答えられない面倒なことを上手に避けて返す知性派もいた。家族が自分を誇りにしていると答える彼らが、自分や家族の不安を口にすることはない。

<戦場と平和な町の倫理観は>180度違う。兵士の最高の美学は、題名の通り「ONE SHOT ONE KILL」だ。でも人は人を殺せるようには出来ていない。人を傷つけてはいけないと言う倫理の枷を、戦場で迅速にはずせるようになるのが、兵士になるということだろうか。訓練で精悍になった彼らの顔が、実際の戦闘でどのように変わるのか、見るのも想像するのも怖い。

<丁度今、マット・デイモン主演の>「グリーン・ゾーン」がヒット中だ。こちらはイラクで大量破壊兵器の捜索に当る陸軍の上級准尉を主役に、アメリカとイラクの陰謀を描いたもの。銃弾の中で真相を探る兵士と、兵士を操る軍と政府上層部の物語になっている。米軍も1枚板ではない。命を危険にさらし正義感に燃える現場と、部下の危険など顧みず安全な場所でもっと大きな野望に蠢く上層部。ドキュメンタリー出身のポール・グリーングラス監督は、ノンフィクション作品もあるジャーナリストだけに、映画にも真実を求める。イラク攻撃の大義名分だった、大量破壊兵器の保持に関する情報は、現実でも、虚偽だとか上層部に近い色々な所の関与が噂された。CIAすら偽情報に踊らされ、一流ジャーナリストまでが偽情報を掴まされていやおうなく陰謀に一役買うなど、滅茶苦茶。でもこんなことがあったのかもと想像させる。

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(C) 2009 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.

<「ハート・ロッカー」で手持ちカメラの>ブレを利用し臨場感を出した、バリー・アクロイドを撮影監督に向かえ、有名俳優がいなければドキュメンタリーと間違うような、迫真の展開。米国でもヒットしたこんな映画を見ながら、それでも兵士に志願する若者たち。彼らを駆り立てるものは何なのだろう。対照的な2本から、アメリカとアメリカ軍の現実が浮かび上がります。(犬塚芳美)

    「ONE SHOT ONE KILL-兵士になるということー」は
        5月29日(土)から第七藝術劇場(06-6302-2073)で上映
      * 29日、30日、監督とプロデューサーの舞台挨拶があります。詳細は劇場まで。

        「グリーン・ゾーン」は全国で上映中


《アメリカ軍に絡んだ豆知識》
・アメリカの人口は約3億1500万人。アメリカ軍の兵士は2009年末で約150万人。このほかに州兵46万人、予備役が120万人いる。
元兵士の数は2000年の国勢調査で約2650万人。18歳以上の成人人口の約13パーセントに当る。このうちベトナム戦争時代の兵士は840万人。
・アメリカで1年間にホームレスを経験する人は約350万人。(2007年推計)元兵士の比率は推計25~40パーセント。退役軍人省の推計では3人に1人となっている。
2001年~2009年10月までに、イラクやアフガニスタンに派遣された兵士は200万人以上。複数回派遣された兵士は約79万人。戦死者が5347人で、負傷者は36571人に上る。2002年~2007年の退役軍人病院を受診した人の3分の1が精神疾患。5人に1人がPTSD。イラク・アフガン帰還兵のホームレスは、3700人以上だ。

< 凄まじい数字が並ぶが>、同じ藤本幸久監督に、そこの辺りを掘り下げた「アメリカー戦争する国の人びと―」という8時間14分に渡る超大作がある。戦争に参加させられた人びとや家族にとって、一生戦争は終わらない。「ONE SHOT ONE KILL-兵士になるということー」が戦争と軍隊への入り口を描いているとしたら、「アメリカー戦争する国の人びと―」はその出口を描いている。「行きはよいよい帰りは怖い」と言う歌がある。生き延びれたとしても彼らには戦争の傷跡と過酷な社会が待っているのだ。

映写室 新NO.52パーマネント野ばら

映写室 新NO.52パーマネント野ばら 
 ―原作者、西原理恵子のふるさとでのロケ―

<人は生きているだけで切ない> 切ないくせに、誰かを恋せずにはいれないから、もっと切ない。西原理恵子はそんな人間の本質を、これでもかと言うほどクールに見る作家だ。その痛みを自分に引き寄せて、時にはそれに塩を塗りこむような自虐性もある。なのに零れる人への愛しさ、愚かな存在へ乾いた目を向けようとする作者の、乾き切れないウエットな心が覗けて、複雑極まりないところが良い。
<もう何作目になるのだろう> 彼女の本が又映画化された。今回は大人の女たちの可愛さと愛しさが満載の、サイバラワールドの決定打だとも言われる、叙情性で一歩抜きん出ている作品だ。撮影は西原の出身地、高知の港町で行われた。この空気感で育ったからこそ、あのサイバラが誕生したのだと、少し解かった気がする。監督は、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の吉田大八。サイバラと共振している。龍馬だけじゃあない、南国の町の明るい光と空気感、土佐弁の温かさと人情を見て欲しい。

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(C) 2010「パーマネント野ばら」製作委員会

<海辺の町の小さな美容院「パーマネント野ばら」は>、離婚して一人娘を抱えて戻って来たなおこと、その母が切り盛りしている。今日も女たちが日常の憂さを晴らす。土地柄なのか明け透けな恋愛話が多く、小母ちゃんたちも女現役だ。でも皆男運が悪い。母の再婚相手は別の女の所へ行ったきり、友達のみっちゃんは浮気性の夫に貢いでばかり。ともちゃんはギャンブル狂の超駄目男に振り回されてきた。でもなおこは、高校教師のカシマと密かに付き合っている。

<サイバラの作品に優等生は出てこない> 過剰だったり欠けていたりと、皆どこかおかしい。でも無上の優しさも持つ。そんな不器用さや弱さを嫌いながら、どこかで愛している作者。痛切ないというのがぴったりのような、独特の世界観を持つサイバラワールド、今回もそんな登場人物で一杯だ。

<なおこに扮するのは菅野美穂>少し頼りなげで透明感のある存在が、濃~いこの物語の中で際立って、最初から少し浮いた存在だ。それこそが、なおこの立ち居地だった。何かがこの町に似合っていなくて、都会的な匂いも残るが誰もそれを咎めない。時が来たらこの町を出て行く予感もする。離婚までに何があったのだろうと想像した。柔らかな微笑、娘との穏やかな会話、心を傷つけて、それをリハビリするように、生まれた町で静かに暮しているのが伝わってくる。
<と言っても>、表立って母親は何も労わらない。強気を見せることで、か細い娘と孫を守るのがこの母のやり方のようだ。夏木マリが金髪に染めたパンチパーマで、原色のいかにもな服を着て、肝っ玉母さん振りを見せる。その圧倒的なインパクト、田舎に行くと確かにこんな、センスが良いのか悪いのか解からないような美容師さんがいると可笑しくなった。でも外観のやんちゃぶりに反して、この母は細やかだ。町にたった1軒の美容院だからと、ゴミ屋敷に住む老人も見捨てない。がに股の歩きぶり、ドーンと構えたところ、海辺の町で暮らし、全てを自分で引き受け、色々なものが自分から毀れて行くのを、それでも良いと肝を据えて乗り切った女の姿だ。夫が他所の女に走って寂しくても強気は崩さない。こんな母がいるからこそ、なおこはふんわりと生きていける。

<皆が都会に出て行く町で>、残っている女たちも半端じゃあない。誰もが何かの理由で残ることを選び、湧き上がる外への憧れを封印し、ガサツを装うことで乗り切ってきた女たちだ。あけすけなセックスの話や痛い男漁りが何だと言うのだろう。この土地に残り、生き抜くほうがもっと大事。過剰に剥き出した人間性は、何かに目を塞ぎ生きる為の方便だった。

<スリムになって>、こんなに横顔が美しかったのかと見とれさせるのは、友人のみっちゃん役の小池栄子。スナックを経営して、ひも状態の夫に自分の従業員に手を出されても追い出せない。殺傷沙汰を繰り返しながらも、又小遣いを渡してしまうのは、一人になるのが怖いから。自分から恋する思いが消えたら生きていけない。あの夫を追い出しても、この町の男たちは同じようなものなのだ。そんな夫を気遣う言葉が泣かせる。「今度は愛があるんじゃなかろうか?」愛がなければ浮気も何とか許せるのだ。だって又自分のところへ帰ってくるもの。気風よくなおこや母親に接するのは、未来の肝っ玉母さんの片鱗。一人で生きる時間がきっと彼女を、なおこの母親のように変えていくと思う。

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(C) 2010「パーマネント野ばら」製作委員会

<超ダメ男に引っかかってばかりの>池脇千鶴演じる、ともちゃん。何処かが壊れていて、何とも痛々しいけれど、痛々しいと言う言葉を跳ね除けるような確信性。こんな不思議な存在を納得させるのは、実力派池脇ならばこそだ。この町ならばお金のないどん底暮らしでも何とか生きて行ける。このゆるさが好きなのだろう。彼女はこのサイクルから抜け出る術を知らないし、抜け出す気もない。

<この町で埋没しそうな女ばかりの中で>、たった一人、なおこはカシマと幸せそうに見える。時期が来たら皆に祝福され、羨ましがられながら新しい生活を始めていくのだろう。娘の成長を待っているのか、離婚したなおこにまだ心の傷が消えないのか…、何て想像していたら、旅館で転寝した辺りから観客は戸惑いの中に放り込まれる。物語は意外な展開を始めるのだ。
<さあ、ここからが演技派>菅野美穂の本領発揮。全ての事象が別の側面を見せ始める。もちろん周りの演技派たちも負けてはいない。それでも生きていれば良い。生きているだけで幸せ、明日は明日で何とかなると、誰もが温かく包み込む気配。「パーマネント野ばら」は癒しの場所だった。

<女達が主役の物語に>、個性的な男優達がアクセントを付ける。いやいや、それは当然のこと、恋する女たちの相手は必ず男だ。高校教師のカシマに扮する江口洋介は、大きな体がなおこをそのまま包み込むよう。白衣が似合って無骨な風情もある。存在自体がこの物語の中の光なので、後半はなおさら切なさが増す。
<母の再婚相手に扮する宇崎竜堂は>まさにこの町の男だ。優しいのか無責任なのか解からないが、とりあえず目の前の女には優しい。彼が去っても意地を張り通す母は、誰より彼を理解しているようにも思う。不思議な重量感で物語を引き締める。後の男たちも凄まじい。スロットマシンのコインを残して餓死するともちゃんの男、チェーンソーを振り回す男、サイバラの毒はユーモアを加担しながら随所にちりばめられている。

<独特の毒気が効いてくるサイバラ作品に>、こんなにも惹かれるのは、私がすぐ隣の県で生まれて育ち、彼女が誇張する前の、この地の駄目さと温かさを熟知しているからかもしれない。それを露悪的に表現して世に出たサイバラ、そこに行き着くまでの思春期の彼女の頑張りと苦しみが解かる気がするのだ。駄目な故郷を嫌いながら、その嫌う思いが彼女を育てたという事実。「女の子ものがたり」も良かった。でも、土地に残り続けた女たちへの柔らかなエールは、なおさら心に染みる。いつか人生に疲れたら、「パーマネント野ばら」のあるような町に帰りたい。(犬塚芳美)

この作品は、5月22日(土)よりシネ・リーブル梅田、なんばパークスシネマ、
                MOVIX京都、シネ・リーブル神戸で上映

映写室 新NO.51 9<ナイン>~9番目の奇妙な人形

映写室 新NO.51 9<ナイン>~9番目の奇妙な人形 
     ―ティム・バートンのもう1本―

 <「アリス・イン・ワンダーランド」が>大ヒット中のティム・バートン監督だけれど、プロデュース作品では、もっと不思議な世界が出現している。これが凄い。見逃せない。今まで見たことがないような、始めて体感する世界なのだ。
 <麻のずた袋で出来た>、なで肩の奇妙な9体の人形が繰り広げる物語は、人類滅亡後の未来社会。手作り感一杯の、古さと新しさが混合した映像は、どうやって作ったのかも解からない。ストップモーション・アニメの様でもあり、CGの様でもあり、まるで動く立体絵本だ。深夜に、部屋の片隅の人形達が繰り広げたパラレルワールドの様でもある。まずはスクリーンで、腰を落として短い足でよたよたと、時には敏捷に動く彼らに出会って欲しい。ただし物語は複雑だ。人形達が、自分たちが生まれた意味を探るという、文明も風刺したちょっと高尚なファンタジーは子供よりは大人向きかも。其れを横において、映像展開だけでも、遊び心一杯のクリエイティブな世界が堪能できる。地中だけでなく未来へも潜り込んで欲しい。

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(C) 2009 FOCUS FEATURES LLC.ALL RIGHTS RESERVED.

 <古びた研究室で奇妙な人形が目を覚ます> 麻袋を縫い合わせた体、お腹の大きなジッパー、背中には9の文字がある。廃墟を見回してきょとんとしていると、背中に2と書いたボロ人形が現れ、自分は仲間だと言って、9を喋れるようにしてくれた。でも襲い掛かってくる機械獣に、2は9を庇って連れ去られる。気を失っている間に、同じ様な仲間が次々と現れた。どうやら9体いるらしい。

 <元々はUCLAの学生だったシェーン・アッカーが>、卒業制作で作った11分の短編だったと言う。2005年のアカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされるや、ティムは造型の妙や物語の独創性に惹かれ、プロデューサーとして全面的にバックアップ。建築とアニメの修士号を持つアッカーは、豊かな発想と理系的センスを映像に忍び込ませて、5年をかけて新しいテイストの長編に仕立て上げた。物語の背景の、人形の生みの親になる博士、創造主がアッカーという訳だ。だからなのか、まだ学生気分も残り、趣味に走って労を厭わない。凝り性の理系器質が露見して、知的な匂いがプンプン。多分試行錯誤したアッカーの作業部屋自体が、最初のシーンの古びた研究室のようなのだろう。

 <この作品の魅力は、なんと言っても人形達の体を作る、麻の温かさだ> 体のラインにしなってユーモラスな事。考えてみると麻袋は大好きなアイテムだった。コーヒー豆の入っている荒い麻袋、通称ドンゴロスは特に味わい深くて、コーヒーの輸入ショップで皆が競って貰い受けたものだ。この作品はそんな温かさに包まれている。圧巻がとろんとした背中と肩の表情で、気が付くと奇妙な人形達に命を感じていた。

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(C) 2009 FOCUS FEATURES LLC.ALL RIGHTS RESERVED.

 <9体の人形はどれも大きな目をしている> 目と言うより、毒ガスマスクをそのままくっ付けたようで、その瞳の動きで心の内を感じさせられた。心細そうな動き、驚いた表情、探るような瞳、何処がどう違っていたのだろう。その時は納得していたのに、今となっては解からない。体だって、廃墟のそこら辺で拾い集めたもので出来ている。継ぎ接ぎだらけで、麻袋の皮膚の上に、真鍮や手の銅版細工と金属の種類も色々、手縫いの縫い目、ガラス玉、針金、全ての素材の温かさを感じる作品でもあるのだ。壊れたら何処かから部品を調達して、工夫して直してしまう。なんかそんな全てが温かい。

 <同じ様な材料なのに>、9体それぞれに宿る個性、その妙を楽しむのもみそだ。頑固なリーダー、お人よしの老人、好奇心旺盛な双子、小心者、風変わりな芸術家、勇敢な女性戦士、腕力自慢、博士の渾身の思いを込めて最後に作られた、我らが9は勇敢で直情型。ちょっと向こう見ずでも、他の8体に勇気と方向性をもたらすのが役目だろうか。まるで社会の縮図だけれど、時にはいがみ合い、友情も芽生えと、人形なのに人の心をもっている。う~ん、しかし人間の心って? 博士の思いで人間のしでかした後始末に送り込まれた人形達。…なんて理屈より、ともかく映像を楽しみたい。結末だって、映像のトーンだって決して明るくはないけれど、若々しい才気走った所が全てをカバーする。ティム・バートンだって、結局はこの煌めきにやられたんだと思う。ワンダーランドと言えばこれほどのワンダーランドはない。3D全盛の時代に、別の贅沢さと奥行きを見せてもらった。ヒットした自作の陰に隠れるプロデュース作品、ティムも複雑な心境だろう。映像が全てでレビューを書き難く、露出が少ないのも痛い。(犬塚芳美)

*声優はマーティン・ランドー、ジェニファー・コネリーやイライジャ・ウッドとハリウッドの看板スターを並べて豪華版。吹き替え版全盛の時代に、アニメながら字幕のみで攻めているのも好感度高し。

この作品は、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸、
      なんばパークスシネマ、MOVIX京都等で上映中

映写室 新NO.50 17歳の肖像

映写室 新NO.50 17歳の肖像
 -私を変えた男-

 <少女は少しずつ大人になる>わけではない。何かをきっかけに突然大人の世界に足を踏み入れて行くものだ。そんな水先案内人を、ミステリアスな年上の男性が果たしてくれたらどれほどときめく事だろう。男性の側からすると、美しい少女にそんな役目を果たすのは、永遠の夢かもしれない。ここではそんな夢物語が展開する。
 <面白いのは、少女の両親までが>、少女以上にその夢物語に魅せられて、我が子の背中を押す所だ。少女と両親の高揚感と、外から見たその危なっかしさ。まるで「マイフェアレディ」のような華麗な展開も、少し醒めた目で見ると別の側面が見える。両方に感情移入しながら、60年代のイギリスの風物詩も楽しんだ。清楚な制服姿と60年代ファッションを着こなし分けて、その初々しさでオードリー・へプバーンの再来とまで言われる新星キャリー・マリガン、彼女の魅力を堪能する作品でもあります。

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<舞台は1961年のロンドン>
 高校生のジェニーは、雨宿りをしていて、「君のチェロが心配だ。チェロだけ載せるから車の横を歩いて」と、高級車に乗る男性、デイヴィッドから声をかけられる。彼の紳士的な態度とウエットに富んだ会話に魅せられ、気がつくとジェニーは助手席に坐っていた。数日後、町で偶然デイヴィッドを見かけるジェニー、声をかけると今度は音楽会と夕食に誘われる。問題は彼女のオックスフォード進学だけを夢見る堅物の両親だった。でもデイヴィッドの巧みな話術で両親は陥落、後には1泊旅行まで承諾する。


 <こんなシチュエーションで誘われて>、ときめかない少女がいるだろうか?あの雨の日に、ジェニーは魔法にかかってしまったのだ。フランスや大人の世界に憧れながらも、堅実で知的な高校生活を送っていたジェニーが、異次元に踏み込んでいく様が、彼女のときめきと一緒に描かれる。
 <楽しいのは>、少女ファッション一辺倒だったジェニーが、背伸びして、少しずつ大人のファッションを着こなしていく過程だ。しかもスタイリッシュな60年代のそれだから嬉しい。野暮ったい制服が何より素敵と思うのは大人世代の感覚で、少女にとっては大人のドレスは憧れの世界。着る物によって見えてくる世界まで違ってくる。そこは賢いジェニーのこと、知性を忍ばせて、階段を上がるように、一歩一歩その世界をものにしていく。高価な服で新しい世界に時めく少女、高揚感が手に取るように伝わってきた。

 <と言っても、ジェニーが得意そうな分だけ>、観客の方は何とも惜しい。もう取り返せないピュアな世界を、こんな中年男に汚されてとハラハラするのは老婆心と言うもの。少女の危うさ、大人の世界への憧れ、普通だったら戸惑いながら少しずつの所を、劇的に越えてしまう少女の物語だ。
 <ファニーフェイスを気にしていた>22歳のキャリー・マリガンが16歳の少女になって、両方のファッションを素敵に着こなし、繊細な心の内を表現する。16歳の初々しさに22歳の郷愁が加わっているのが、これほどジェニーを魅力的にしている由縁かも。

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 <こんな奇跡のようなことが>起こるのだと思っていたら、現代版「マイフェアレディ」はここからが凄い。悪い叔父さんは仮面をかぶってやって来る。ありえない現実をなし崩しに受け入れる主人公にハラハラしながら、観客の目が覚まされる。ジェニー駄目よ、戻ってきてと思っても、もう少女は毒薬に口をつけてしまった。
 <デイヴィッドを演じるのは>、瞳に曲者の影が消えない、ピーター・サースガード。何とも魅力的なはずのこの中年男に、最初から観客の警戒心が芽生えるのは、彼のせいだ。でもいつもは嫌いな彼に、今回だけは感情移入してしまう。平凡な家庭を持ちながら、いつも恋愛沙汰を起こす男。それでも妻が逃げ出さず、又新しい恋人も見つける男のだらしなさとその可愛さの両方が垣間見える。デイヴィッド自体が夢を生きる男。彼に夢を託したはずのジェニーだけれど、彼が夢を託したのはジェニーだったのだ。彼もまた人生の最初で躓き、現実ではなく、夢の中で再生を繰り替えした男だと思う

 <ところで、デイヴィッドとの出会いに一番浮かれたのは>、両親だったかもしれない。ビートルズ誕生前夜のロンドン郊外、保守的ではあっても、このまま進んでは何も変化のない生活に一番苛立っていたのは、もう子供にしか未来を託せない大人世代だった。まるで、娘のロストバージンの背中を押すような両親、自分たちが見れなかった世界をオックスフォード進学と言う形で娘に託し、今度は娘をさらおうとする異次元の男に託してしまう。ハラハラするけれど、現実だってこんなものかも。

 <この物語が素晴らしいのはこの後だ> ジェニーは泣き叫んだ後で、自ら立ち直っていく。この出会いを封印して人生をやり直せる賢さがあった。夢のような出会い、奈落のそこへ突き落とされた現実、両方を自分の成長物語ととらえるシニカルな視点が素晴らしいと思ったら、この作品は、イギリスで人気の辛口ジャーナリスト、リン・バーハーが雑誌に書いた回想録が基になっている。
 この出会いが彼女を生んだのか、彼女だからこの出会いを呼び込んだのか、私は後者に思えた。(犬塚芳美)

この作品は、5月8日(土)よりTOHOシネマズ梅田、TOHOシネマズ二条、
      後日シネ・リーブル神戸にて上映

映写室 新NO.49オーケストラ

映写室 新NO.49オーケストラ 
  ―チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に込めた思い―

 <クラシック音楽の世界を>、ドラマティックに描いた映画が続く。音楽家たちの浮世離れした物語と共に、個性的に演奏されるクラシックの名曲を聞くのが醍醐味だ。
<日本の音大生が>音楽家になっていく過程を描いて、今大ヒット中の「のだめカンタービレ最終楽章」では、のだめの吹き替えをした、中国人ピアニスト“ラン・ラン”のエキセントリックな演奏に魅了された。ロシア・ボリショイ交響楽団が舞台の、これから紹介する「オーケストラ」では、劇中曲にどこか東欧的なジプシー音楽の匂いがする。音楽の向こうに、音を奏でる人の心が見えて、音楽が解かりやすいのだ。
<音楽って生き物、演奏する人の心なのだと>、このあたりで音楽と物語が絡んでいく。終盤に、美貌のソリストとの競演で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が使われるが、目と耳の両方が圧倒される。にわかクラシックファンが増えること請け合い! ぜひ音響設備のいい劇場で見て欲しい。

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(C) 2009 - Les Productions du Tresor

 <元ロシア・ボリショイ交響楽団の指揮者>アンドレイは、清掃員。ユダヤ人が迫害された時代に、彼らを庇って職を追われたまま30年が経つ。ある日、支配人室で、パリ・シャトレ劇場からの招待状を見つける。とっさに閃いたのが、昔の仲間を集めて乗り込むことだった。シャトレ座の支配人を騙し、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をやる事と、ソリストとしてアンヌ=マリー・ジャケを呼ぶ事を納得させる。色々な仕事で糊口を凌いで来た仲間がパリに集まるが、観光気分だったり、行商を始めたり。アンドレイは偽ボリショイ交響楽団を指揮し切れるのか…。

 <音楽家の暮らしを描くと>、何処かこっけいになるようだ。この作品でも敗者復活戦に臨む筈のアンドレイは、だらしがなくてハラハラさせられる。特に序盤は、彼の頑固さや不甲斐無さばかりが描かれ、何故彼が掃除夫にまで落ちぶれたのか解からない。ただ、不遇の彼を支える妻がいて、彼の成りすましの計画を聞くと「離婚だわ」と呟き、少し間をおいて「もし、それをやらなかったら」と満面の笑みで付け加えて夫の背中を押す。この辺りで、観客も彼にかけてみようと思い出す。決め手は妻の一言と言うわけだ。

 <元団員たちの現在は>、聞くも涙語るも涙の世界。どんなに才能があっても、特殊な仕事をする人が仕事を追われるというのはどんなことか、不況の日本だけに、身に詰まされる。特に、続けるのにお金がかかるのに、暮らす上では無くてもいい音楽となると、生きていくのは大変。音楽の流れる劇場から離れたくなくて(?多分)、清掃をしながら、漏れて来る音にタクトを振り続けてきたアンドレイ、タクシーの助手席に楽器を乗せ仕事の合間に演奏していた者、生活に困り楽器を売り払った者、怪しい仕事に手を染める者、妻と別れた者、夢と現実の隔たりは大きい。それでも何処かこっけいなのは、この作品の視点でもあるけれど、音楽を志す人たちの、どこかノー天気で浮世離れしたところでもあると思う。この辺りは、「のだめ…」の貧乏オケの団員と一緒だ。

 <復活を夢見るアンドレイは>、パリのステージに残りの人生の全てをかけている。でも他の団員にそこまでの思いはない。30年の間に、音楽やステージへの夢は、実現したいものではなく本当の夢になりかけているのだ。やっとパリに到着しても、陽気でいい加減なロシア人気質のまま、久しぶりの自由を謳歌し、あっちにふらふらこっちをうろうろ、飲んで食ってに浮かれ、練習どころじゃあない。焦る招聘側、暢気な団員たち、狂騒劇はここからが本番なのだ。
 <そんな表面の狂騒を尻目に>、アンドレイの心は深い闇を漂い始める。久しぶりの舞台への不安から、止めていたアルコールに手を出し、意識も朦朧。そもそも、なぜアンヌ=マリーに拘るのか、エリート指揮者が何故失脚したのか、過去を辿ればロシアの悲しい歴史が絡んで来た。

 <脚本と監督は>,「約束の旅路」のラデュ・ミヘイレアニュ。今回もユダヤ人のうけた迫害の歴史を上手く織り込んでくると思ったら、彼自身がユダヤ系のジャーナリストの息子で、独裁政権下のルーマニアからイスラエルに逃げた過去があるらしい。彼にとって、迫害の歴史は、創作からはずせないテーマなのだ。アンドレイたちの再生を描くことが、仲間へのエール。歴史を風化させたくないという思いでもあると思う。


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(C) 2009 - Les Productions du Tresor

 <ハチャメチャな寄せ集め団員達が>笑わせてくれるとしたら、調子を変えるのは、ソリスト、アンヌ=マリーの登場だ。ついこの間「イングロリアル・バスターズ」で、心を掴まれたばかりのメラニー・ロランが、又もやユダヤ系の謎めいた女性に扮する。その美しさは、まるで光が降りてきたよう。団員達のかもし出す、時を止めたようなロシアの重さや野暮ったさと対照的で、西側社会の現代性と洗練度を見せ付ける。
<容姿の繊細さからなのか>、これほど美しいのに、幸せ100パーセントと言うより少し薄幸な匂いがするメラニー・ロラン。それがたまらなく魅力的で、謎めいてもいて目が離せない。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏シーンでは、音楽と共に、彼女の透明感のある美貌と、その美貌を一段と際立たせる、情感の溢れる演奏姿も見所だ。「のだめ…」の“のだめ”が演奏中の大胆な体の動きで思いを表現したのとは対照的に、こちらはもっと本格的に、大きな瞳と豊かな表情で思いの多くを表現する。まるで音楽家が音楽と自分の心を一体化させる過程を見た思いだ。

<前作では普段着を抜群のセンスで着こなしながら>、ラストの赤いドレスが、設定上から他の人に比べて安っぽくて残念だった。もっと良い素材のドレスを着せて、飛びっきりの美貌を見たいものだと思っていたら、こんなに早く、文句なしのドレス姿が見れたのが何より嬉しい。

 <…と、メラニー・ロランの絶賛>で終わりそうだ。仕方がない、それがアンドレイの思いだし、そんな物語なのだから。ところで、アンドレイと彼女の関係は何なのだろう? 途中、ありがちな物語を想像したけれど、後でもっと崇高な物語に連れて行かれた。この物語、練りに練られている。(犬塚芳美)

この作品は、5月1日(土)より梅田ガーデンシネマ、
          神戸国際松竹、MOVIX京都等で上映

映写室 新NO.48月に囚(とら)われた男

映写室 新NO.48月に囚(とら)われた男 
  ―月に1人で3年間赴任する―

 <スペースシャトルに乗って>宇宙に飛び立った山崎直子さんの動向が、連日報道された。宇宙ステーション「きぼう」との合体、アームを使った船外の仕事、ぽっかりと浮かぶ青い地球と、届く映像は映画以上にSFティック。神秘に魅せられて、未来の宇宙飛行士を夢見た子供たちも多いと思う。そんな今、タイムリーにこんなSFサスペンスが登場した。と言っても、こちらはイギリス映画らしくちょっとブラック。月の裏側で、たった一人で残酷な運命をたどる男の物語だ。
 <センセーショナルな監督デビューを飾ったのは>、デヴィッド・ボウイの息子(!!)の、ダンカン・ジョーンズ。斬新なアイデアと技術で、イギリスの新人監督賞を独占する。この親子やっぱり只者じゃあない、遺伝子からして違うと、父親の偉業を思い出す人も多いと思う。少し背筋をヒヤッとさせる、21世紀ならではの作品です。

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 <宇宙飛行士のサムは>、世界最大の燃料会社に勤務する。一人ぼっちで、知的ロボットのガーディと一緒に月の裏側に住む。ヘリウム3を採掘して地球に送るのが仕事だ。任期は3年、後2週間で地球に帰れる。唯一の楽しみだった家族とのTV電話が交信不能となり、里心は募るばかり。この頃幻覚や頭痛も酷い。とうとう外で作業中に事故を起こし、気が付くと基地の中の診察台だった。だが、様子がおかしい。自分と同じ顔形の男がいるのだ。本物はどっちなのか? …と訳の解からないまま、観客は哀れなサムの混沌に巻き込まれることになる。

 <かって、今以上に>、宇宙に夢を馳せた時代がある。人類が始めて月面を歩いた1969年の頃だ。21世紀には資源の枯渇した地球を捨て、月に住むようになるかもと言われたけれど、なぜか1972年を最後に人類は月から遠ざかっている。あの狂騒は何だったのか、どうして月から遠ざかったのか? 素人がそう思うのも当然で、だから時々、あの月面歩行映像は嘘だったとかの、まことしやかな話まで囁かれる。まるで、あの当時の月への狂想自体がSFのようにも思う。夜空に浮かぶ月を毎日のように眺めながら、考えてみると月について何も知らない。こちらに顔を晒すことの無い裏側にいたっては、勝手な想像しかないのだ。

 <そんな具合に>、私たちの宇宙は月で始まり、月で止まっている。本当言って、私の場合、宇宙ステーションも船外作業も、「アポロ計画」で受けた衝撃に比べるとどうって事はない。あの頃のほうが宇宙に近かった。6分の一の重力の月面をゆっくりジャンプするように歩いたあの映像の神秘、未来へ誘った精神、この作品はそこに連れ戻してくれる。
 <こんな映画を見ると思うのだ> 万博会場を飾った「月の石」、もしかしたらあの中には、私たちが夢見たような、もの凄い鉱物が含まれていたのかもしれない。表向きの月面探検は止めたけれど、近い未来にこんな事が起こるような研究が、ひそかに続けられているのかもしれない。…なんてダンカン・ジョーンズを真似てサスペンスしてみた。

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 <どうしてあれほど月面歩行が衝撃だったのか> それは、今の宇宙計画が科学の進歩を見せるだけなのに、「アポロ計画」の頃は、本気で地球以外の星で暮らすことを探っていたからだと思う。地球外生物との遭遇も目指して(?)いたかもしれない。この作品に地球外生物は出てこない。その代わりに、地球を遠くはなれて暮らす一人の男の人間性をじっくりと描いている。宇宙に行っても人は人だ。しかも夢で始まった宇宙への旅も、残ったのは、人類の野望と暴走、資本主義の冷酷さだけ。それらに翻弄される男の、怒り、絶望、孤独の深さは当然のこと。舞台は月だけれど、ものすごく内的な物語になっている。

 <この作品の素晴らしさは>、宇宙への夢と資本主義社会の闇の両方を見据えた、ストーリーの面白さや発想の奇想天外さだろう。主人公の戸惑いにまるでロボットのガーディのように寄り添い、真相を探るのが醍醐味だ。だから詳しくは書けない。未来の話だけれど、なんだか手の届きそうな、想像できる範囲のリアルさがおぞましい、…とだけ書いておこう。
 <主人公のサムを演じるのはサム・ロックウェル> ほとんど一人芝居のような活躍で、とぼけたような顔、鬱積した思い、疑心難儀の表情、放心状態と八面六臂。実は合成画面で一人3役をやり、人の持つほとんどの感情を体現し分け、演技派の実力を見せ付ける。誰に感情移入すれば良いのか、おろおろとした。ロボットだけれど、心を見せるガーディの声音も良い。サムの味方はサムとガーディだけ。何とも切ない。

 <ところで、デヴィッド・ボウイは>、「地球に落ちてきた男」に主演して、この作品と真逆の、宇宙からたった一人で地球にやってきた男の苦悩を演じた。全盛期のデヴィッド・ボウイは確かに宇宙人。地球人には見えなかった。ダンカン・ジョーンズはそんな父に育てられ、色々な方面で大きな影響を受けたのだと言う。つまりこれは、2世代で完成したSFサスペンスなのだ。

 <未来映画なのに何処かノスタルジックなのは>、SFマニアの監督が、いたるところに古いSF映画からの影響の痕跡を残しているから。ロボットのガーディ、月面車等、どこかで見た感じがする。それにSF作品とはいっても、そこはイギリス映画。CGには頼り切らず実写映像との組み合わせが多いのも、そう思わせる一因だ。未来というよりは、時々月の時代に(?)に連れ戻される。
 <そうは言っても、内容的には近未来感がいっぱいで>、なんとも不思議な、時代不詳の作品だ。もしかすると今だって現実に起こっているかもと思わせる、リアリティもある。こんな発想が湧く、ダンカン・ジョーンズこそが宇宙人。日本でも芸能界の2世監督が増えてきたが、世界でも同じこと。とびっきりの感性を持つ両親の影響を、全身に浴びて育った人の才能を堪能したい。(犬塚芳美)

 この作品は、4月24(土)より梅田ガーデンシネマ、京都シネマ、
               シネ・リーブル神戸等で上映

映写室 新NO.47 プレシャス

映写室 新NO.47 プレシャス 
  ―ネグレスト、虐待と子供たちは受難の時代―

 <本年度のアカデミー賞で>、助演女優賞と脚色賞の2冠に輝いた作品がもうすぐ公開になる。アメリカの下層社会の、娘を虐待する母親を、悲哀を込めて演じたモニーク。ブルーのドレスではちきれんばかりの黒い肉体を包んだ、圧倒的な存在感の彼女の、受賞スピーチを思い出す人も多いだろう。衝撃的だけれど、よく似たニュースは日本でも時々流れる。社会の皺寄せは何時も一番弱いところに向かう。今母親たちに何が起こっているのか、助けるはずの父親たちはどうなっているのか。この作品が伝えるのはアメリカの今だけれど、世界の今でもある。
 <日本では子供手当て法案が通ったが>、お金で解決しないこともある。そんな問題に根本から取り組むアメリカの姿勢が、暗い話の中で感動となって浮かび上がります。ほとんどノーメイクで歌姫マライア・キャリーが登場し、不思議な存在感を見せるのも見逃せない。

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(C) PUSH PICTURES,LLC

 <プレシャスは16歳の少女>、実の父に犯され2度目の妊娠中だ。父親は行方をくらました。生活保護を受けて何もしない母親からは、体と精神に虐待を受けている。辛いことがあると幸せな自分を夢想して、現実逃避。妊娠がばれ、フリー・スクールに送られるが、母親は勉強して何になると言う。でも,文字を一から教えてくれるここでの出会いが、過酷な人生にわずかな光をともし始めて…。

 <この作品、貧しい黒人社会を描きながら>、それぞれの女優の姿形がすでに物語になっている。主人公プレシャスを演じるのは、電話オペレーターから抜擢されたガボレイ・シディベ。彼女の迫力たるやモニークの比ではない。鬱積した思いが全て体に蓄積し、目も口も鼻もほっぺにめり込んでいる。この年齢でもう人生の苦悩が全身からたっぷり。いつも怒っている様で若さは見えないが、そんな姿に卑下することもなく、夢の中の彼女はもてもてのいけてる女の子だ。
 <ルージュを引き>、大きなイヤリングと原色のカチューシャ、彼女なりのお洒落をしてピンクのディバックを背中に、のっそのっそと町を歩く。その勘違いぶりと無防備さが切ない。ファースト・フードで育たないとこんな巨漢にはならないと思わすほどで(だから多分、ここまでの巨漢はアメリカにしかいないのでは)、ふてぶてしい表情、姿形の全てがプレシャスの環境を物語っている。

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(C) PUSH PICTURES,LLC

 <こんな風に、表情を消して体の存在感だけで>主人公になりきったガボレイ(彼女も主演女優賞にノミネートされていた)に対して、アカデミー賞に輝いたその母親役のモニークは、ここまで堕ちた女の悲哀を、だらしなく放り出す手足や瞳に宿す濁りや影で表現。夫を娘に寝盗られ(?)、猫だけを可愛がって、薄暗い部屋の中で自堕落な毎日だ。でも心は寂しさと空ろさではちきれそう。不貞腐れる以外生きる術を知らない中年女の悲哀をたっぷり見せ付ける。納得の受賞だ。母親に辟易し、学校へ行ってこんな生活から脱出したい娘の足を引っ張り、自分の人生を肯定しようとする。存在そのものが病める社会。
 <迫力のモニークだけれど>、ガボレイの隣に立つと彼女の中の女性性が浮き上がってくる。母でありながら何時までも女でしかなく、母親になれない女。それが決して美しくないからこそ、余計にリアリティがあった。日本の ネグレストもこんなケースが多い。ところでモニークもガボレイも、いつもは表情が動いて魅力的。無表情がどれほどブスに見えるかを証明するかのような演技でもあった。

 <こんな具合に前半はアメリカの暗部を見せ付け>、後半のフリー・スクールでの出会いからは、アメリカの光と良心を描いていく。目標にしたいような素敵な女性たちが登場し始める。真っ暗だったプレシャスの人生にも薄日が差し始めるわけだ。病理、暗部が深いからこそ、社会の仕組みとしてそこへ伸ばす手も用意されているアメリカ。この国の善悪両面が見える。
 <まずプレシャスの心を掴むのが>フリー・スクールの先生だ。ポーラ・パットンが知的に演じて、ブラックビューティーとでも呼びたいような素敵さ。誰もが辛い現実から目を逸らす事で生き延びてきたのに、それを許さない。辛抱強く生徒と向き合い、ここに来るしかなかった現実を直視させて、なおかつ乗り越える力をそれぞれの中に芽生えさせるのだ。彼女が見てくれていると言うだけで感じる安心感、再生へのタフな情熱は、先生というより皆のお姉さんだった。黒人でしかも同性愛らしいけれど、社会の中で堂々としなやかに生きる自身の姿から、希望を現実に変える方法を生徒たちに示している。

 <そこから廻される、福祉相談所の女性>を演じるマライア・キャリーが又素敵なのだ。最初歌姫だとは気付かなかったけれど、柔らかい、包み込むような存在感。こんな女性なら助けてくれるかもしれないと、目を惹きつけられた。余談だけれど、プレシャスの出産する病院スタッフとして、同じくシンガーのレニー・クラヴィッツが登場する。それと知らなくても、同じように独特の存在感を示し、何者なのかと思わずチラシを探したほど。シンガーの存在感の強さに圧倒された作品でもある。

 <監督とプロデュースは>、黒人のリー・ダニエル。原作本はニューヨークに住む詩人のサファイア。黒人、貧困層と世間から一くくりにされがちな彼らも、近づくとそれぞれの顔を持っている。その個性を描き分けて、極端な様でも、どのエピソードもリアルそのもの。虐待、貧困と言う愚劣な環境の中でも、生きる知恵と思いやりを忘れず、そしてしなやかに回復する力を宿す若い女性たちは素晴らしい。監督と原作者は、そんな彼女たちを愛を込めて描き、自分の手で掴む未来へとエールを送っている。(犬塚芳美)

この作品は4月24日(土)より、TOHOシネマズ梅田、敷島シネポップ、
               TOHOシネマズ二条、シネ・リーブル神戸等で上映

映写室 新NO.46第9地区

映写室 新NO.46第9地区
 ―南アフリカの人類立ち入り禁止地区―

 <今まで見たこともない>、不思議な映画が誕生した。舞台はワールドカップ開催真近の南アフリカで、ここに人類立ち入り禁止地区が誕生すると言う話だ。棲んでいるのは、空中に浮かんだ巨大な宇宙船から降り立ったエイリアンたち。現実には黒人達が住んでいるスラム街をもっと崩壊させたようなところに、有刺鉄線を張り巡らして隔離され、海老のような外観をした地球外生物が徘徊している。その不潔さ、その不気味さ、類を見ない。一方で見え隠れする彼らの人格(?)、いったい彼らは何者? 何が目的?
 <創ったのは南アフリカ出身のニール・ブロムカンプで>、弱冠30歳の新人監督が、故郷を舞台に斬新なアイデアを散りばめて、今年のアカデミー賞でもひときわ異彩を放った作品だ。新しい才能に喝采しながら、人類、エイリアン共に哀れな物語が心を締め付ける。

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(C) 2009 District9 Ltd All Rights Reserved.

 <28年前、巨大宇宙船が南アフリカ>、ヨハネスブルグの上空に浮かんだまま動かなくなった。船内には弱ったエイリアンが多数いて、その形からエビと呼ばれる。第9地区の仮設住宅に集められるが、そのまま月日が流れ、市民との対立が激化して、ヴィカスを責任者に第10地区への強制移住を始める。そのヴィカスが謎のウィルスに感染し人類から追われる羽目に。逃げ込んだのは第9地区だった。

 <第9地区を紹介するニュース映像で始まり>、調子もドキュメンタリータッチ。気がつくと、現実と混同しながらエビ族を探っていた。ヨハネスブルグと言う距離感が良い。ここにならこんな不思議なことが起こるかもしれないという、未知の領域がある。実際にもここのスラム街で撮影されたと言う。白人から迫害され続けてきた黒人達の悲しみが、空気感で漂っているのかも。二つに分断された街はSFの世界でも魔力を発揮する。

 <ここでちょっとエビについての知識を整理しよう> 28年間で収監されたエイリアンは総数180万。外観がエビに似ているから人間からはそう呼ばれるが、知能は高そう。凶暴そうだけれど、それは劣悪な環境に閉じ込められてきた歴史からかも。キャットフードの缶詰に目がなく、買収はもっぱらこれ。人間の策略に負け、猫缶1個で見苦しいほどの争いをするなど、ちょっと目に見えない差別感を感じて辛くもなる。
 <一方人間にも負け組みはいる> 他の地区からはみ出したナイジェリア人のギャングはここに潜り込んで暮す。エビを搾取するのが仕事だった。自分たちの女をエビに抱かせ(?)、猫缶を法外な価格で売りつけ、彼らの強力な破壊兵器を取上げる。でもその兵器はエビのDNAがないと使えない。

 <…と、よくもここまで荒唐無稽な事を>想像するものだと感心するエピソードのオンパレード。まさに映画ならではの世界に喝采だ。とは言うものの、奇妙なリアリティにも溢れ、乱暴なエビの擬人化も見事だった。B級感と大作感の間をさ迷う不思議な感覚、ヒット・メーカー「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソンが、若い才能をメジャー世界に導き、色々な映画賞で話題をさらっている。

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(C) 2009 District9 Ltd All Rights Reserved.

 <笑えるのが>、事件の鍵となるヴィカスがエビたちに立ち退き承認のサインを取り付ける過程だ。エビたちを騙して、もっと劣悪な環境に押し込むと言うのに、無理やりとは言え、契約のサインは取る。あの手この手で、しかし誠実にサインを迫るヴィカス。人権を無視ている様でもあり、尊重しているようでもあり、この国の黒人と白人の歴史を見ているようだ。

 <ヴィカスが昇進で張り切る様>、ヴィカスを自慢する家族、異人種を前にへっぴり腰になる様と、どれもリアリティに溢れ、平凡で誠実な男の人生と人柄が浮かび上がる。エイリアンを描きながら、核心は人間ドラマなのだ。
 <一方少しずつ明らかになっていく>、エビの事情。彼らは故郷に帰りたがっていて、宇宙船の故障で難民になってしまったらしい。エビの中でも特別な存在のクリストファー・ジョンソンとの出会いが後半を盛り上げていく。ぼろぼろの小屋に見せかけて、その地下で最新ハイテクを組み立てる抜群の知性。追われる立場になったヴィカスとの心の触れ合い。お互いマイノリティ同士だ。終盤の悲劇の中のわずかな光がここにある。

 <とにかく盛りだくさんの作品> 言葉だって、英語やアフリカーンスだけでなく、ナイジェリア語、架空のエイリアン語と入り乱れている。荒唐無稽な物語に込められた、新星ニール・ブロムカンプの温かいメッセージが余計に哀れを誘う。ヴィカスに救いはあるのか。人もエイリアンも心を持っているから切ない。(犬塚芳美)


*4月1日エイプリルフールに、難波周辺を、この作品から飛び出したエビエイリアンが徘徊した。

   この作品は、4月10日(土)より、梅田ピカデリー、なんばパークスシネマ、
                    MOVIX京都等で上映


*今洋画界は、ちょっとした9ブームだ。「NINE」と言う、イタリアが舞台でもてもての映画監督を中心に美人女優が大挙出演する、業界の裏側を面白おかしく描いた、映画全盛期の古きよき時代を髣髴させる作品も公開中だし、1ケ月後には「ナイン 9番目の奇妙な人形」という、この作品と同じ様に若い監督が作った、奇妙な形をした人形が主人公の、CG技術を酷使した未来映画もやってくる。同じ様な題名ながら、方向性はばらばら。でもどれもが見逃せないクオリティの高さと面白さ。ナインマジックが続いている。

映写室 新NO.45新しい韓国映画の風

映写室 新NO.45新しい韓国映画の風 
  ―「飛べ、ペンギン」&「今、このままがいい」&「渇き」― 

 <ヨン様のロケ現場まで押しかけるような>コアなファンは別として、日本での韓流ブームは沈静化したようだ。本国でも観客動員数や、自国映画のシェアは06年から下降の一途だという。当然のように、製作規模の縮小や本数の減少が続くが、一方で、新しい息吹も生まれている。映画人たちが本当に作りたいものを作れる、いい環境が整ったのだ。早くから映画関連の教育システムがあった韓国、こうなったら強い。ここで以前にお知らせした「牛の鈴音」のように、斬新で気合の入った作品が揃い始めた。
 <今回取り上げるのもそんな>作品だ。「真、韓国映画祭」と銘打った4本の中から2作品と、公開中の韓国版バンパイア映画を紹介したい。ちなみに、「真、韓国映画祭」とは、日常生活をテーマに、さまざまなアイデアを盛り込んだ、大作の影に埋もれがちな珠玉の秀作を集めたもので、今回の作品は、全て“家族”をテーマにしている。

1.《飛べ、ペンギン》:イヌ・スルレ監督

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©2009 INDIESTORY Inc

 <9歳のスンユンは放課後も習い事>で大忙し。母親は、息子の英語力が心配で、「週末は家族の会話を英語で」と言い出す。妻の行き過ぎを心配する父親は、何とか息子に息抜きをさせたい。一方母親の勤める市役所では、課長が英語教育の為妻子を海外に住まわせ、一人暮らし。一時帰国を楽しみにしていたのに、外国に慣れた妻子は、冷たい態度で課長を悲しませる。 

<…と、過剰な英語教育や学歴社会>に走る韓国の現状を揶揄しながら、今の韓国の誰もが感じる居心地の悪さを、ユーモラスに描く。子供への早期教育、飲み会でのアルコールの強要、女性の喫煙への冷たい視線、退職男性の社会での居場所のなさと引きこもり、妻との軋轢、熟年離婚等々、どれも日本とよく似ている。言っても仕方がないと諦めがちなそれらを、ユーモラスにとらえた視点に笑い転げた。実はこの作品、韓国人権委員会が手がけた初の長編映画なのだ。確かに日常のこんな些細な事こそ、人権問題の発端。日本だったらこんなにユーモラスには作れないと、行政のしなやかさに驚く。

 <それにしても英語教育への入れ込み>の激しいこと。韓国は今や国内よりも世界を見てるようだ。ちなみに、外国で暮す妻子へ仕送りする為働き続けると「雁のお父さん」と呼ばれ、子供を早期留学させたものの、自分は行く事も出来ない経済力のない父親を「ペンギンのパパ」と呼ぶらしい。この課長は「ペンギンのパパ」と言うわけだけど、「飛べ!」と言われて飛べるのだろうか。課長が飛ぶ代わりに、多分無骨に働いてきただろう封建的な夫を放り出し、彼の母親が飛んでしまった。
 <儒教社会で封建的と言われながら>、韓国でも実際に実権を握っているのは女性なのだろうか。女流監督と言っても視点は公平で、女性の勝手さや逞しさもよく解かり、それらをしぶしぶ許す男性の優しさもよく解かっている。妻のお尻に敷かれてたじたじの男性への眼差しが温かく、男性への応援歌のよう。と言うか、女性にはもう応援歌はいらないのかも。お父さん達頑張って!

      この作品は、4月3日(土)より第七藝術劇場で上映


2.《今、このままがいい》:プ・ジョン監督
imakonomama_main.jpg ©2008 INDIESTORY Inc.


 <ソウルで働くミュンウンは>、母が亡くなったと聞き久しぶりに故郷の済州島に帰る。魚屋を営むシングル・マザーの異父姉と、小さい頃から一緒に暮らすヒョンアおばさんが迎えてくれた。父を知らないミュンウンは、同じ様な娘を作った異父姉に複雑な思いを持つ。母の葬儀の後、写真を頼りに父を捜す決心をする。顔を知っている異父姉に一緒に行ってもらうが、お酒を飲み男達とはしゃぐ異父姉に苛立ち、途中で喧嘩に

 <真面目で融通の利かない妹と>自由でちょっとだらしない異父姉。水と油のような2人が母を中心にくっ付いていたのに、その母を亡くして付き合い方が解からない。両極端のように見えて、それぞれが母から受け継いだ性格なのを、当人達は気付いていないのだ。母がいなくなってみると、ヒョンアおばさんの事も解からない。家族でもないのにどうしておばさんは一緒に暮しているのか。お母さんはどんなつもりだったのか。ミュンウンの父親探しは、母親探しと自分探しのようなものだった。そんな彼女を気遣いながら、異父姉も母亡き後の家族の形を探している。母という一家の中心をなくして、ふらふらする独楽の様な旅だった。
 <見れば解かるのだけど>、この作品は脚本の巧みさが光る。女流らしい姉妹の間の細やかな感情の表現も素晴らしいが、衝撃の結末には「こう来るか!」と舌を巻くだろう。不在の母を濃密に感じさせて、性格も見た目もまるで違う異父姉妹が、旅の途中でお互いを少しずつ理解し合い、家族の秘密を受け入れていくまでの展開を楽しむ作品だ。

   この作品は、4月3日(土)より第七藝術劇場で上映


3.《渇き》:パク・チャヌク監督

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 <人を救う事に限界を感じた敬虔な神父は>、伝染病の人体実験を受ける。奇跡的に助かるが、彼は自分の変化に驚く。血に飢えたバンパイアになっていたのだ。ある日友人の家を訪れ、不幸な彼の妻と惹かれあう。友人が邪魔になって…。

 <神父に扮するのは>、韓国の誇る演技派ソン・ガンホ。血への欲望を理性で制御しようとするが、体の方がいうことをきかない。血に飢えると伝染病の症状が出てくるのだ。不治の病の人から血をもらったり、死体から余す所なく搾り取って真空パックにしたりと、神父らしく、罪悪感と自身の欲望とを秤にかけて、世間を騒がせず生き延びている。このあたりブラックユーモアだ。
<人間とバンパイアの葛藤で言えば>、彼はあくまで人間だった。もっとも彼の場合、外観からして、バンパイアには見えない。逞しいからだ、妙にリアリテイのある人間臭い行動と、この世とあの世の境をさまよう、儚げな西洋のそれとは一線を記している。

 <人妻に扮するのはキム・オクビン> 役柄のままに、世間を知らないまま閉じ込められた風情がぴったり。でも、こちらの方は、性欲、血の誘惑等、全てにおいて一度快楽を知ると、理性をなくして暴走する。直ぐに人間よりもバンパイアになってしまうのだ。神父に惹かれたのも恋なのかどうか、抑圧された暮しから抜け出したかっただけかも。そんな愚かさすら哀れに思わせる美貌と風情、作品に儚さを付け加える。怖いシーンも彼女の美貌で和らいだ。

 <ところで、この作品もラストがいい> 人間性が勝った神父と、バンパイアになってしまった人妻の逃避行はどうなるのか。そもそも2人の結びつきは何だったのかを思い出し、ほろりとさせられた。人妻のいじらしさと、彼女のそんな本質を信じていた神父。人間味を勝たせた異色のバンパイア映画で、2009年カンヌ国際映画祭の審査員賞を受賞している。

  この作品は、テアトル梅田、敷島シネポップ、
       シネ・リーブル神戸、TOHOシネマズ二条等で上映中


3本の韓国映画、どれもが異色で、脚本の巧みさに目を見張る。韓国映画界の高いレベルを感じます。(犬塚芳美)

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