太秦からの映画便り

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松山ケンイチ主演作2本

映写室NO.135 人のセックスを笑うな&L change the WorLd 
   ―松山ケンイチ主演作2本― 

 私的にも世間的にも、今一晩旬な男優は松山ケンイチだ。昨年末には「椿三十郎」で初々しい若侍を演じ、今度は続けさまの主演作公開。切ない恋に悩む若者と天才探偵Lをそれぞれ違った表情で演じ、又もや魅せられた2本です。

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(C) 2008「人のセックスを笑うな」製作委員会

1.人のセックスを笑うな 
 <凄い題名だけど、これは原作者山崎ナオコーラ>の戦略で、書店で目立つようにと付けられたもの。年上のミステリアスな女性に恋した男の子と、その男の子が好きな女の子のいじらしい恋心、年下の男を翻弄しながら何処か空ろな四十路の女の心模様がリアルに描かれていく。美術学校が舞台だけに、若い人同士の今の感覚語が頻繁に飛び交い、(若い人たちって仲間同士ではこんな風に話すのか)と、今更ながらに自分の年を感じた。男子も女子もユニセックスで優しく、傷つきやすくて自分にも未来にも自信のない姿が、妙に胸を疼かせる。

 <みるめ(松山ケンイチ)と堂本とえんちゃん(蒼井優)>は、早朝の町外れで裸足の女(永作博美)をトラックに乗せる。ある日学校で隣の人にタバコの火を借りると、その時の女だった。彼女は猪熊ユリ、新任のリトグラフの講師らしい。…と、偶然の出会いで始まり、後は大人の作為で、ユリは20才も年下の男の子の心を掴むのだけれど、この不思議な関係をリアルに感じたのは、肢体が少年の様にしなやかな年齢不詳の永作の魔力と、戸惑う顔がまだまだ幼い松山の中途半端な年齢の魅力だと思う。
 <敢えて男ではなく男の子と>書いているように、ここでの松山は男と言うにはあまりにピュアで初々しい。しかも、どう見てもユリには男の子扱いにしかされていないのだ。もちろんそれを怒るほど大人でもない。みるめがユリに絵のモデルになってと頼まれ、静かなアトリエに連れて行かれるくだりなんて、気恥ずかしい程の手管だけれど、誘うのが年上の女教師で誘われるのが男子生徒、しかも二人がそこへ行くのが自転車の2人乗りと言うのが、この作品の透明感だと思う。

 <そんな2人をヤキモキして見つめる>えんちゃんを演じる蒼井も、お得意の美学生役を今回は神秘性よりは幼さで演じ、拗ねた可愛い横顔を見せている。やるせない片思いがリアルだった。2人を翻弄するユリが幸せかと言ったら、20才から見ると大人の40才も、苛立ちや未熟さの中。彼女も又自分の中に確かなものがない。生きる辛さ、恋する切なさ、人はそれをどんな風に乗り越えて年を重ねるのだろう。そんなあやふやな物を描く、この物語の空気感が好きだ。

   関西では2月2日(土)よりテアトル梅田、
                  京都みなみ会館、シネカノン神戸で上映


※ディープな情報
 この作品の美術監督の木村威夫さん(89才)が、昨夏「面白い作品を撮っている」と嬉しそうに話された通り、美術的に色々工夫がされている。数々の巨匠と仕事を共にした木村さんの美術の特徴は、リアルなセットを作りながら、その中に心象風景を形にして潜ますアバンギャルドさ。この作品にもその両方が遺憾なく発揮されている。

2.L change the WorLd  (この作品の舞台挨拶レポートもあります)

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(C) 2008「L」FILM PARTNERS (C) 2008「L」PLOT PRODUCE

 <大ヒット作「デスノート」のスピンオフで>、本作はLに焦点を絞り、最期に何があったのかを解き明かす。モニターを見て世間と関わるバーチャルな世界から、不得意なはずの社会に出て、LはLでいれるのかどうか。監督と松山はLのイメージを賭けた演技的にも映像的にも難しい領域に挑んだ。荒筋はこんなだ。残された時間は23日、L(松山ケンイチ)は一人黙々と事件を処理する。そこへタイで消滅した村の唯一の生存者の少年が来た。次には少女が、非業の死を遂げた父親からあるものを託されてやって来る。今回は死よりも死を避ける戦いがテーマだ。死をかけても守りたいものは何だろう。

 <私はLの何に惹かれるのだろうか> 告白すると、始まりはテレビで放映された「デスノート」だった。何気なく観たのに、遅ればせながらこの物語の面白さと、Lなのか扮する俳優のものなのか区別の付かないキャラクターの魅力に嵌ってしまったのだ。見た目もある。膝を抱えて座る姿、白い肌と隈取の目のクールさ、前かがみの広い肩と長い手足は未来的だ。抜群の頭脳でまるで生活感がないから、人間の形をしてるけどワタリが生んだロボットの様でもある。内心最後にそんな種明かしがされるのではと思っていたほどだ。
 <アニメのような現実離れ>の中に住むLは、単純なヒーローではないけれど、何処かに哀愁があって、子供だけでなく大人も虜にする。そして今回発揮される人間性。子供っぽさと大人っぽさが入り混じった、柔らかい心が初々しい。それに気付いて自分でも戸惑う姿が素敵だ。
 今まで特殊な設定で保った神秘性は、外に出ても揺るがなかった。歩く時も猫背とがに股は直らず(必見の凄さ!)、Lの周りだけ異空間が出現する。これだけの世界を作った松山の力技が見所だ。
 「デスノート」の2作を観た後で観るのがベストだけれど、この作品だけでも大丈夫。頭を柔らかくして、Lと一体化した松山に連れられ、この世界に侵入して欲しい。気が付くとLの魅力に嵌っているはず。

   2月9日(土)より全国でロードショー

※デスノートとは
 死神の落としたもので、このノートに名前を書かれた人間は死ぬ。これを使って犯罪者を粛清し、新しい世界の神になろうとする夜神月ライト(=キラ)と、キラを突き止め、事件を終わらせようとする天才探偵Lの戦いの物語。このノートで操れる死の時間は23日以内。
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珍しいドキュメンタリー

映写室 「線路と娼婦とサッカーボール」上映案内
 ―中米グアテマラからのドキュメンタリー―

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 <グアテマラ・シティの線路(リネア)沿い>の貧民街の娼婦たちが、ハイヒールをスパイクに履き替え、サッカーを始める。「リネア・オールスターズ」と言うチームを作り、選手権大会の登録もした。注目されて差別等の社会問題を訴えるのだと言う。とうとう国際試合をするまでの道のりを描いて、貧しくても逞しい女性たちに元気をもらえる作品です。

 <奇想天外な話でもこれはドキュメンタリー> 中米の強い日差しと共に、差別に負けず悲惨な私生活や素顔を晒した娼婦たちの天真爛漫さと前向きな思いが、この映画の明るさだ。貧しい国の中でも彼女たちは最下層。肉体の罪を重んじるカトリックの支配する社会からは蔑まれている。コーヒーと言う特産品がありながら、大国に翻弄されて破綻した経済のせいで、男たちは軒並み失業し飲んだくれて頼りにならない。社会に絶望し鬱積してるから、時には家族にすら性的関係を求める。告白から明らかになるが、このメンバーにもそんな被害者が多いのだ。
 <そんな悪夢から逃げ出した彼女たちは>、2ドル半という安いお金で体を売るけれど、誰の力も借りずヒモなしで働いていると、自分に誇りを持っている。仕送りをしたり家族を養ったりと、この仕事で一家の大黒柱だ。貧しさに負けず、差別されることに怒り、逞しく生きる娼婦達。「リネア・オールスターズ」のメンバーは12人でも、応援団は60人もいるんだとか。彼女たちの活躍は皆の希望になっていく。

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 <サッカーなんてよく思いついたものだと呆れるけれど>、ボール一つで出来るサッカーは、貧しい国で盛んなスポーツ。とにかく逞しい。極彩色のセクシーな商売着も、やっとそろえたユニホームもはちきれそうな肉体で着る。最初はボールも蹴れないのにだんだん上手くなる頃には、こちらも観客と言うより応援団になっていた。初めてゴールした時なんて、嬉しくて映画なのを忘れて拍手しそうになる。最初の目的はもとかく、仲間と一緒にサッカーをし、厳しい現実を忘れる時間が喜びになっていく様子が伝わって来た。娼婦たちには弱い者同士一体になれる物が必要だったのかもしれない。

 <対戦相手によっては汗でエイズがうつると言われたり>、喧嘩になったりの試合観戦にも力が入るけれど、それ以上に目を奪われたのが、サポーターのマリアだ。深い皴と痩せた体が人生を物語るよう。マリアは元娼婦で、恋人の暴力で片目になった不運な過去を嘆かず、小さな幸せに感謝して生きている。それでも娼婦たちを一生懸命応援するのは、後輩に自分のような人生を送らせたくないのだろうか。そんな思いを代弁するように挿入されるヴォーカルが心に染みた。

 <さあ、サッカーで彼女たちは変れたのかどうか>、それは映画を観ていただくとして、嬉しいのが、世間がなんと言おうと娼婦の母に感謝し、誇り、澄んだ瞳で夢を話す子供たち。子供が母親の苦労と悲しみを解っているのが未来への希望だ。そんな人々の逞しさと共に、情報の少ない中米グアテマラの風景や国情がむき出しで映るのもこの作品の見所。第56回ベルリン映画祭で観客賞を受賞しています。


   関西では、2月2日(土)より第七芸術劇場、
                    シネマート心斎橋(モーニングショー)で上映
   順 次、京都シネマ、神戸アートビレッジセンターで上映予定

日本で一番早い一般試写会での舞台挨拶

映写室 映画ニュース 松山ケンイチ来阪     
 -デスノート番外編、「L change the WorLd」― 

 下の写真は、日本で一番早く「L change the WorLd」の一般試写会があった、1月19日夜の大阪御堂会館での、監督と主要メンバーの舞台挨拶の物です。この日は900名程の入場者に12000通近くの応募があったとかで、誰もが期待に胸を膨らませ、新作と今一番旬の男優を待ちました。どよめく様な歓声で始まった舞台挨拶の様子をレポートしましょう。
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 <2006年公開の「デスノート」は>、前編・後編合わせて80億を売り上げたヒット作です。主演の松山ケンイチが「以前は町を歩いても声をかけてもらえなかったのに、“デスノート”で Lをやったおかげで、今はこうして名前を覚えてもらっています。今回はLに恩返しする気持ちで撮影に望みました。」と挨拶。映画のLは白っぽいメークと濃い目のアイラインで、相当の猫背。そんな姿での登場かと思ったら、颯爽とした黒っぽいスーツ姿で、この日の彼は素に近いようです。
 <中田秀夫監督が>、「最初に原作の漫画を読んだのはアメリカにいる時だった。Lの最期は自分で決めた23日間、この作品ではそこを描きたいと。デスノートの中でもLはラストとても嬉しそうに死んでいきます。今回はそれに繋がる作品を作りたかった」と言えば、「この作品はLが主役だけれど、“デスノート”のLとは別の面、Lの恥ずかしい所を多く描いています。今回はLを演じる最後になるかもと、思いっ切りやりました。前作までは真ん中の柱は藤原君のライトだった。ライトがいたからこそ僕は自由にやってられたけれど、この作品では自分が中心になるので、今までと違い難しかった」と松山が振り返る。
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(C)2008「L」FILMPARTNERS(C)2008「L」PLOTPRODUCE

 <ハリウッドで活躍する工藤夕貴>は、「日本映画でこんな大きな役は久しぶり。私が演じるのは、自分とは違う傲慢な役だけれど、それが面白かった。こういう嫌な役をやると、私生活で少し優しくするだけで周りにいい人に見られて得した気分。これからもどんどんやりたい」と冗談を交え話した後で、「この作品に参加して、日本映画は本当に映画が好きな人達が作っているんだと感動した。皆、寝なくても食べなくても撮影なら平気で、映画にかける情熱を感じる。ハリウッドなら、後1テイク撮って欲しいと思っても“はい、時間です”でお終いになります。いくら遅れても良いテイクが取れるまで撮影が続くのがいい」と真顔で現場の話を披露する。 「自分がこう撮りたいと思ったイメージまでは粘りたい。俳優さんのモーションをきっちり捕らえるのが僕の仕事です。でも実は一発好きで、それが決まった時に松山君が小さくガッツポーズをしてて、僕も真似しました」と監督がジェスチャー付で告白すると、「今回一発はあまりなくて、あの時は嬉しかったんです。いつも監督に挑戦するように現場に入っていました」と松山が応じる。

 <高島政伸は>「大好きなデスノートシリーズ、大好きな中田監督の作品に出れて嬉しい。“ここは涎を垂らしたいので、卵の白身を口に含んでいいですか”というと、嬉しそうに“いやあ、いいですね”と言って下さったりと、監督の映画への愛を毎日現場でシャワーの様に浴びました」とニコニコしながら報告。
最後に松山が「この作品の中にメッセージは込めているので、何処を見てほしいとか僕が特に言う事はありませんが、映画には人生を変える力があると思います。映画館を出て行く時には価値観が変わっていたり、元気をもらっていたりするといいなと思う。皆さんぜひ楽しんで帰ってください」と締めくくった。
 その間も他のメンバーは和やかに松山を見ている。工藤はさすがハリウッド仕込で、肩を出した黒いドレス姿がひと際華やか。この作品がいい雰囲気の中で真剣に作られた事、又出来映えに誰もが自信を持っていることを思わせる舞台挨拶だった。

   L change the WorLd は2月9日(土)より全国で公開です。

新星ニナ・ケルヴェルの可愛さに参った!

映写室 NO.134  ぜんぶ、フィデルのせい
   ―主人公と一緒に追体験する激動の70年代―

 9才の少女が「ぜんぶ、フィデルのせいよ!」と口を尖らせるそのフィデルとは、フィデル・カストロの事。70年代のパリ、豊かな階層の少女は、共産主義に目覚めた両親のせいで生活が激変する。(こんなの嫌!)と幼い心は張り裂けそう。これはそんな少女が、不満だらけの目で見た激動の70年代世界史です。500人から選ばれた、新星ニナ・ケルヴェルの卓越した可愛さと共に、柔らかい心が自由の意味を考え、社会の変化を受け止める様をお楽しみください。

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(C) 2006 Gaumont-Les Films du Worso-France 3 Cinema

荒筋 
 1970年のパリ、9才のアンナ(ニナ・ケルヴェル)は名門校に通うお嬢様だ。休みになるとボルドーの大きな祖父母の家で過ごす。ある日スペインで反政権運動をしていた伯父さんが殺され、従姉親子が家に来る。アンナは不満だ。お手伝いのフィロメサも二人を嫌い、共産主義やフィデル・カストロが悪いと言う。でも両親はこれをきっかけに社会正義に目覚め、パパは弁護士を辞めアジェンデ政権の為に動き出し、ママも中絶の取材を始める。反共産主義者のフィロメサは首になった。急に貧乏になり、引っ越したアパートでは弟と同じ部屋、しかも得体の知れない人々がいつも出入りする。

 <…なんて荒筋を書くと社会派>なんだけれど、9才の我らがマドンナは、そんな事にはまるで興味がない。恵まれた自分の生活を乱されるのが嫌で、仏頂面をするばかり。
ある日我慢も限界に来て、弟の手を引きプチ家出。その一途な顔の可愛い事、可笑しい事、笑い転げる。最もこのぶち切れた行動が、後々少女に、恵まれた暮らしの裏側には、多くの犠牲がある事に気付かせるのだから、自分で社会への扉を開けたようなものだ。9歳にして自我を持つアンナは、理不尽な事には反発し、自分で納得しないと動かないと言うあたりが頼もしい。

 <監督が、社会派コスタ=ガブラスの娘>ジュリー・ガブラスと聞けば、この映画を別の感慨で観る人もいるだろう。原作はあるものの、監督は時代や場所を変え、自伝的な要素をちりばめて脚本を執筆。チェ・ゲバラと並ぶ革命家フィデル・カストロが当時の欧州に与えた影響を、少女の目線で捉える。アンナとその頃の監督が重なる訳だ。
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 <視点は少女のものだけれど>、歴代のベビーシッター等、家に出入りする大人の言葉の端々から、当時の世界情勢が浮かびあがる。70年代初頭は、5月革命後のフランス国内の政治活動、ウーマンリブ、スペインのフランコ独裁政権、キューバの社会主義政権、ベトナム戦争、チリのアジェンデ政権等まさに激動期で、日本でも学生運動が激しく、70年には日本赤軍による「よど号ハイジャック事件」が起こった。世界中が右へ左へ蠢いた時代だ。右往左往する大人に巻き込まれて、少女が大好きな物をどんどん取り上げられる不満を、誰もに解かり易い「カストロのせい」とは言わず、「フィデルのせい」と言う、お洒落なセンスに溢れた社会派作品だと思う。

 <ニナ・ケルヴェルも可愛いけれど>、弟役のバンジャミン・フイエも可愛いったらない。姉の苛立ちを上目使いに見ながら、従う事でさり気無くフォローする様子など、この幼さでもうナイト。ノー天気に見えるパパも社会を憂う苦悩を見せ、ママはもっとあからさまに世俗に流される自分へ苛立ちを現しと、両親の描写には、子供の視点だけでなく大人になった監督の、共感が加味される。もっとも今日は日曜日だからと、朝食を皆でベッドで取り、子供達がパパにくすぐりっこで遊んでもらう様子なんて幸せそのもの。バックに社会性を置きながら、表面を覆うそんなホンワカ感が、この作品の魅力だと思う。

 <さあ、アンナはどうなるのか> ラストシーンの、一人新しい学校で周りを見回す姿が成長の証しだ。それを見守るように俯瞰するカメラが、この両親の愛の形かもしれない。ちびっ子2人の魅力に引っ張られ、激動の時代を俯瞰した。ユーモラスで、誰に対しても否定的でない、穏やかな監督の視点が心地良い作品です。


 関西では1月19日より、梅田ガーデンシネマで上映中
    1月26日(土)よりシネカノン神戸、3月京都シネマで上映予定


※ディープな情報
 ジュリー・ガブラスがチリの軍事クーデターのエピソードを加えたのは、父の代表作「ミッシング」(’82)を意識しての事。この映画が作られたのは監督が11才の時で、アジェンデの写真を見ると、今でも当時を思い出すと言う。父の憂いをアンナの様に盗み見ていたのだろうか。ところで、監督だけでなくママ役のジュリー・ドパルデューも、父にジュラール・ドパルデューを持つ俳優一家の二世で、この作品に関わる二人の女性が、アンナと同じく豊かな両親の愛の元、成長した姿を見せている。

インタビューで綴るドキュメンタリーの上映案内

映写室 「カルラのリスト」&「バレエ・リュス」上映案内     
―2本のドキュメンタリー―

 この2本を同時に取り上げるのは、少し乱暴かもしれません。でも国連検察官のカルラも、伝説のバレエ団のダンサーたちも、その行動の裏には、ソ連の崩壊が影を落としています。貴重な映像やインタビューで綴った、2本のドキュメンタリーをご紹介しましょう。
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1.カルラのリスト 
 <この作品は、昨年10月1日>、日本が105番目の国としてICC(国際刑事裁判所)に加入したのを受けて、急遽公開が決まりました。ICCは「武力でなく法の支配する国際社会を作る」為の機関です。そこでどんな事が行われるかは、ICCの先例となるICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事法廷)で、国連検察官として活躍するカルラの仕事振りから想像できるでしょう。今回始めてカメラを国際法廷に入れ、彼女を密着取材しました。

 <写真の意志的な目をした女性が>、カルラ・デル・ポンテです。彼女の仕事は旧ユーゴ領内で行われた戦争犯罪の首謀者たちを探して裁く事。2001年にユーゴ元大統領ミロシュビッチを拘束したように、時には国家さえ敵になる。戦犯と知りながら彼らを逮捕しないセルビア共和国政府を相手に、飴と鞭のタフな駆け引きが続きます。
 <誰もが納得する国際正義は中々履行>できない。つまり立場が違えば正義も違うと言う訳で、彼女が邪魔な勢力もいて、命を狙われる為に常に厳重に警備され、少数のスタッフと共に、スイス政府から借り受けた専用ジェットで飛び回っています。流行のファッションに身を包みながら、それらを吹き飛ばす圧倒的な存在感。精神も外見も毅然として隙を見せません。この強さこそが彼女に必要なものなのでしょう。


 <今「サラエボの花」と言う>、ボスニア戦争時に集団レイプされて生れた娘とその母親の物語が上映中ですが、スレブレニツァの虐殺等、この紛争には多くの悲劇がありました。戦争犯罪人を捕まえて裁いて欲しいと言う、母親達の願望をしっかりと受け止め、カルラは今日もタフな交渉を続けています。
 <日本のICCへの参加が遅れたのには>色々訳がありました。自国には起こりえないと思う呑気さや、国際問題への無関心さも一因です。でも加入早々、日本からも斉賀富美子さんが裁判官に任命され、経済支援だけでなく人材でも貢献する事に。この作品を観て、ICCで拉致被害者の救出に取り組めるかもと、一縷の希望を持ちました。


   関西では、第七芸術劇場で2月1日まで上映中
    時間等は直接劇場へ(06-6302-2073)


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2.バレエ・リュス―踊る歓び、生きる歓び 
 <この作品には年齢不詳の魅力的な人が一杯出てきますが>、彼らは全て「バレエ・リュス」(ロシア・バレエ団)の元団員です。「バレエ・リュス」は20世紀初頭のパリに花開き、伝説のダンサー、ニジンスキーを生みますが、29年天才興行師セルジェ・ディアギレフが死ぬと解散しました。でもダンサー達は世界中に散り、半世紀に渡って踊り続けます。アメリカ、オーストラリア、南米と、時と場所を越えてバレエ文化を伝承し、種を蒔きました。初めてバレーを見る人達にその美しさと感動を伝えていったのです。
 <2009年の100周年を前にバレエ・リュスが再び注目される中>、この作品は、かってのダンサー達にインタビューし、00年の100人近くが集まった同窓会の映像や、本邦初公開のものもある貴重なバレエのアーカイブ・フィルムを散りばめ、バレエ・リュスの歴史を浮かび上がらせる。20世紀のあらゆる芸術とエンタティンメントに影響を与えたバレエ・リュスの向こうには、世界的に有名な多くの画家や詩人、デザイナー、音楽家等が見え隠れします。
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 <団員達は、ロシア革命、2つの世界大戦>、その後の冷戦構造やソ連邦の崩壊と、激動の20世紀を祖国を離れて踊りました。どんな時も支えになったのはバレエへの情熱です。さすが鍛えぬいたダンサー達、もう相当の年齢のはずの、誰もの若さと美しさに圧倒されるでしょう。今もって全身からオーラを放ち、大胆かつお洒落なのが素晴らしい。
しかも過去に生きてはいず、今も舞台に立つ人もいれば、後進を教えている人もいる。でも今を生きながら、ひとたび昔を回想すると、まるで昨日の事のように細かい事まですらすらと話し始める不思議さ。鍛えた体で一瞬の美を生きるダンサーの上に、時間はどんな風に流れたのかと不思議な思いです。

 <バレエを通して20世紀の芸術史を見ながら>、踊ることを歓びとし、踊ることで人生を輝き続かせた彼らの生き方に感嘆するでしょう。
努力すれば年齢を輝きにする事もできると、勇気のもらえる作品でもあります。


    関西では、梅田ガーデンシネマで上映中。
          以降シネ・リーブル神戸、京都シネマで上映予定

ほのぼのとした大人の恋愛物語

映写室 NO.133 やわらかい手 
 ―蘇ったマドンナの究極の癒し― 

 セックス産業と言うきわものを題材にしながら、浮かび上がるのは究極の愛という、久しぶりに情感溢れる大人の物語です。主人公に扮するのは、伝説のロッカー、ミック・ジャガーの元恋人の、マリアンヌ・フェイスフル。「あの胸にもう一度」での、素肌の上に黒革のジャンプスーツを着た、コケティッシュな姿を思い出す方もいるでしょう。長い不遇時代を送った彼女の再生も、往年のファンを癒します。
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荒筋
  ロンドン郊外に住む中年の主婦マギー(マリアンヌ・フェイスフル)は、難病の孫の治療費の為に、家も手放し質素に暮らしている。ある日医師から、「6週間以内にオーストラリアで手術を受けないと死ぬ」と宣告されるが、息子夫婦にそんなお金はない。自分が何とかしようと、思い余って歓楽街の「接客係募集」と書かれた店に入る。オーナーのミキ(ミキ・マノイロヴィッチ)は呆れて、張り紙の意味を知っているのかと問うが、マギーの手の柔らかさにある仕事を与えた。やがて「イリーナ・パーム」と言う源氏名をもらうまでになる。


 <オーナーのミキは、この仕組みを東京で見てきた>と自慢するけれど、真偽はともかく、ここで名前が使われるのがちょっと辛いけれど、凄い仕事があるものだと驚く。最初は題名からは想像も出来なかった展開に、とんでもない作品を観てしまったと下を向いても、心配は要らない。舞台は怪しげな風俗の店でも、描くのはあくまでマギーの暮らしと心。彼女は何をしても汚れを見せず、仕事の内容に戸惑いながらも、孫の命を救いたい一心で全てを乗り越える。その姿勢、その愛に感動した。と言うより、ひた向きなその姿に気品さえ感じて、気が付くと、彼女のしている仕事が何かすらも忘れている。それは貴族の血を引くという、マリアンヌの持つ気品や魅力でもあるのだろう。往年のマドンナぶりが窺われる。

 <マギーは孫の命を助けられれば>、自分や世間なんてどうでもいいのだ。迷いのないその意志が、さえない主婦に過ぎなかったマギーをどんどん美しくしていくのも見逃せない。もちろんそんな姿は観客だけでなく、仕事にシビアなミキの心も動かし、ミキとの触れ合いが、知らず知らずマギーの生きがいにもなっていく訳で、このあたりのほのぼの感がこの作品の本領だ。
 <事情を知りながら、「そんな仕事をして」と>マギーを攻める、俗物の友人たちや息子に対して、全てをさらけ出した、何もかもどん底から芽生えたこの2人の恋心や労わりあいの美しい事。2人が控えめに自分の事を告白するシーンは、若い美男美女のラブシーンとは違う温かさを感じる。階級制度の激しいロンドンで、移民として差別されながらそれを嘆かず、引退する日の為にと割り切ってセックス産業でお金を貯める男と、豊かだったのに、今や友人達とは違う暮らし向きで、風俗嬢を悪びれずに勤める中年の女。見栄も外聞も捨て、困難を自分の力で乗り切る2人の生き方。お互いに自分の分身を見る思いだったかもしれない。


 <マリアンヌが役柄とはいえ、よくここまでしたものだ>と思うほどの、衣装と言い仕草と言い中年女に徹した野暮ったさに感心するけれど、終盤には太目の体に短いブーツと言ういでたちで、どたどた歩く姿さえも、自分らしさを守る意志のように見えてくる。「君の歩き方が好きだ」とミキが告白する通り、私もその姿に安らぎを覚えた。まさに孫が命の祖母の姿だ。孫の為に風俗嬢になるマギーと同じく、心底この役を演じようとマリアンヌも見栄も外聞も捨てている。本来の持ち味と共に、そんな潔ぎ良さがこの作品に気品すら呼び込んだのだと思う。でも彼女本来の輝くような美しさを見せ付けて、あまりの違いにはっとさせられるシーンもあるので、往年のファンは楽しみにして欲しい。マドンナは年を経て、美しさだけでなく包容力も身につけたのだ。
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 <ところで、相手役のユーゴスラビア出身のミキ・マノイロヴィッチ>が、素敵で目が離せない。登場するだけで圧倒的な存在感。ミキの胡散臭さと優しみ、懐の深さ苦悩に孤独感と複雑な心情を覗かせ、まさに苦労人。気品のあるマリアンヌとのコンビネーションが良かった。二人の俳優の組み合わせそのものが、大人的だと思う。
物語は紆余屈折があり、2人の関係も仕事も一筋縄では行かない。そんなリアリティにはらはらもすれば、笑い転げるシーンもある。この仕事すら楽しくと、小さな個室の職場に花や絵を持ち込み、ポットを持参する主婦根性や、必死の覚悟や生真面目さが可笑しくて身につまされる。勇気があると言っても、マギーは普通の主婦でもあるのだ。この役を身近に感じさせたのが、マリアンヌの何よりの功績だと思う。

 <「やわらかい手」は淑女の必須と>知ったのは中学生の時。「風と共に去りぬ」で、レッド・パトラーが久しぶりに会ったスカーレットの、慣れない農作業で硬くなった手を、慰めるどころか戒める言葉だった。この作品ではその「やわらかい手」が思わぬ仕事に結びつき、窮地を救うのだけど、それ以前にも夜マギーが丁寧に手の手入れをするシーンがある。「やわらかい手」は、貧しさの中でも淑女のたしなみを忘れなかったマギーの素敵さが溢れた作品とも言えるだろう。どんな時も卑屈にならず、自分を大切にしながら生きる事の大切さを教えられた。2人の愛やマリアンヌの美しさを通して、年を重ねることの素晴らしさを知る映画でもあります。


  関西では、1月19日(土)より梅田ガーデンシネマで上映、
         2月9日(土)より京都シネマ、神戸アートビレッジセンターにて。

映写室 「アース」上映案内

映写室 「アース」上映案内 
  ―ドキュメンタリーで捉える46億歳の地球の命と悲鳴― 


 <この作品の主役は、私たちの住む46億歳の地球>だ。写るのはその地球の豊かさで、生物の生きられる北限から南までの未曾有の景観が、地球の丸みをしっかり見れる上空に、山あり谷ありの地上、果ては海の底までと臨場感たっぷりに迫って来る。
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(C) BBC WORLDWIDE 2007

 <案内するのは、そこに棲み食べ物を求めて移動する>動物たちで、地球は私たちの想像を超えて変化に富み、かつ神秘的で、多くの生物が生存していることに気付かされる。圧倒的な迫力に、人間なんて地球の片隅に生きる、この中の一つの動物に過ぎないと思い知らされた。


 <アラステア・フォザ―ギル監督は>この作品を「これまでカメラに収められたことのない、地球上で最も美しいものを目にする、これが最後のチャンスである」と断言するが、大ヒットした海洋ドキュメンタリー「ディープ・ブルー」のスタッフが結集し、5年の歳月をかけて全世界の200ヶ所以上にロケし、あらゆるハイテク機材を使い、史上最大の壮大な映像プロジェクトで、普通では決して見れない、私たちの住むこの星の今の姿を捉えている。生きる為の種族間の争い等、どうやって撮影したのだろうと、息を呑み目を見張る映像の数々だけれど、この作品にC.Gはまったく使われていない。ただ撮影したフィルムを、時にゆっくり、時に実際の数千倍のスピードで回しとアレンジして、時の移ろいや決定的瞬間をドラマティックに見せている。其処に被さるベルリン・フィルの音楽が、より盛り上げる志向だ。

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 <悲しい事に素顔の地球を追えば>、浮かび上がるのは、温暖化で悲鳴を上げている動物の姿だった。春が来て雪の中から這い出した真っ白い熊の親子は、生きる為に食べ物を探すが、急がなくては氷が解ける。この時間が年々短くなっているのだ。北極の氷原とそれが緩んだ広い海。氷に乗って流されていくホッキョクグマやそれから逃れるアザラシ。体が寒さに耐えるような仕組みのホッキョクグマは、逆に温かさに弱く、温暖化の今絶滅の危機にあるらしい。
 <そんな危機は南にもあって>、じりじりと焼ける砂漠を水を求めて黙々と移動するアフリカ像の群れと、小さな水溜りに集まる、砂漠に住むありとあらゆる動物たちの生存をかけた争い。ライオンもライオンに襲われる動物たちも、もうそこに棲み分ける余力はなかった。気候の歪みがあちらこちらで生態系を狂わしている。


 <昨秋の日本は異常に暖かかった> 紅葉の見頃は京都ではもう師走だったし、四国では真冬に向日葵が咲いている。そんな気候の変動を地球規模で見ると、前代未聞の大洪水で家を押し流された地方があるかと思えば、干ばつで草木が枯れてしまい飲み水にも困る所もあった。悲鳴を上げているのは動物だけでなく人間も一緒で、温暖化が頻繁に言われるけれど、あちこちで具体的な被害が出ている。さあ、「アース」はこれからどうなるのか、この星の生物はこれからも生きられるのか。大きなスクリーンで、地球の圧倒的な鼓動を体感しながら、まだ間に合うかもしれないその悲鳴に耳を傾けて、何かを考えたい作品です。


(注釈)日本語版のナレーターは、渡辺謙さん。あまり映画を観ない方なら吹き替え版も選択肢ですが、私には少し煩かった。映像に力があるので字幕を見なくても十分理解できるし、個人的には字幕版をお勧めします。

   1月12日(土)より全国でロードショー
  日本語公式ホームページhttp://earth.gyao.jp/

映写室 NO.132 ジェシー・ジェームズの暗殺&スウィーニートッド

映写室 NO.132 ジェシー・ジェームズの暗殺&スウィーニートッド     
―ブラッド・ピットとジョニー・デップによる殺人者の競演― 

 裏表のない善人よりも、悪の匂いの中に複雑な人間心理を見出すのだろうか。名優になればなるほど、悪役を演じたがるものだ。そんな掟通り、ブラッド・ピットとジョニー・デップという、男前度に人気度、実力と、今の映画界を代表する2人が、殺人者を哀愁を込めて演じている。善悪を超えた男性の魅力とは何か、2本の映画で堪能です。
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(C) 2007 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

1.ジェシー・ジェームズの暗殺 
<1800年代も終盤>、ジェシー・ジェームズ(ブラッド・ピット)は最初の強盗から15年もの間、犯罪と逃亡を繰り返してきた。それでも南北戦争の英雄の彼を新聞は義賊のように報じ、若いロバート(ケイシー・アフレック)は憧れを募らせ一味に加わる。列車強盗を最後に皆は解散して身を隠すが、ロバートだけはジェシーの元に残った。真近で彼を観察し真似する内に、憧れとは別の感情が芽生えたロバートは…。


<19世紀のアメリカに名をとどろかせた伝説の犯罪者>ジェシー・ジェームズと、彼を暗殺した手下のロバート・フォード2人の心理戦を、寂しい草原を舞台に、張り詰めた駆け引きと、綿密な人物描写で描いていく。この作品のプロデューサーでもあるブラッド・ピットが、自分の凶暴さや非情さゆえに、他人のそれを恐れて追い詰められる男を、頬をこけさせて演じ、ヴェネチア国際映画祭で主演男優賞を受賞している。遠くを見る瞳と静かな横顔に凄みを感じ、時に見せる優しささえどんな裏があるのかと怖かった。でも鉄壁の表情に潜めた小心が時に覗き、壊れそうな心が想像できなくもない。これが伝説の男と言うものだろうか。この無法者にして、最期は自分の死を待っていたような落ち着き。生きている間安心する事のなかった人生かもと、哀れでもあった。
 <ジェシーにこれほど憧れたロバート>が、何故彼に銃口を向けたのかは、説得力があるとは言えない。ジェシーの生への迷いが、彼の相似形のロバートに引き金を引かせたようにも思った。


 <それにしても>、この男達何故これほどに荒くれているのだろう。それに草原のこの寂しさ、時代なのか貧しさなのか、このすさみをこそ無法時代と言うのか、生きる証が凶暴さにあるような凄まじさ。静かではあってもいつ何時残忍な行為が始まるか解らず、観ていても最初から最後まで緊張の連続だった。伝説の人物の内面を描いたドラマであると同時に、さまざまな登場人物の思惑が交錯する心理サスペンスにもなっている。

      1月12日(土)より全国でロードショー
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(C)2007 Warner Bros. Entertainment Inc. and DreamWorks LLC. All Rights Reserved.


2.スウィーニートッド 
 <舞台は19世紀のロンドン> フリート街の理髪師のベンジャミン・ベーカー(ジョニー・デップ)は、悪徳判事に無実の罪で囚われる。15年後脱獄してみると、妻は判事に横恋慕されて操を守り服毒し、娘は彼の歪んだ愛で幽閉されていた。奪われた人生は取り返せない。復讐を誓って、ロンドン一不味いパイ屋を営む大家のミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム=カーター)と組む。切れ過ぎる剃刀と、突然美味しくなったパイの秘密は…。


 <この話は「理髪師とパイ屋の話」として知られ>、1847年の初舞台以来150年以上に渡って、世界中の人を魅了し続けている。今回映画化を手がけたのは、ティム・バートン監督で、ここにジョニー・デップと監督の妻ヘレナ・ボナムが加われば、「チャーリーとチョコレート工場」等、過去の実績からも期待は高まるばかり。アバンギャルドなこのゴールデントリオが何をしでかすのか、ファンとしては見逃せない。
 <もちろん出来ばえは予想以上で>、暗い色調の画面にシュールな二人の企みが更なる影を落とす様は、手に汗を握る。怪しく悲しい理髪師はジョニー・デップのはまり役だ。銀色に光るナイフを振り回すなんて、同じくバートン監督と組んだ、鋏を振り回して魅了した彼の出世作「シザーハンズ」を思い出した。紳士達が怪しいと思いながらも理髪店へと階段を上りベンジャミンの毒牙にかかったように、私も死臭と重い空気の流れるフリート街に、知らず知らず誘い込まれている。
 ここは、時空を越えて現実と虚構の狭間も飛び越え作り上げた、まさにティム・バートンの世界。グロテスクな中に愛の切なさが匂い立つ。  


 <今回監督の期待に応えてデップは歌まで>披露しているが、堂々とした歌よりも何よりも、やっぱり見所は殺人魔となったベンジャミンに宿る悲しみだと思う。今更何をしても妻が戻って来る訳でもないのに、狂いそうな自分の魂を沈めるかのように、ザクッと横一文字に咽喉を掻き切るその冷酷な仕種が、まるで自分の魂を掻き切っているかのようで、残忍さ以上に辛かった。そんな男に惹かれ、気が付くと途方もない悪に手を染めたミセス・ラベット。ベンジャミンが自分の人生などとっくに捨てているのに対し、彼女の夢はあくまでも現世。この逞しさと健全さ、ここにも決して相容れない男と女のすれ違いが見える。
 <浮世離れした二人に対し>、ミセス・ラベットの可愛がる少年の、シリアスな演技が絶妙のバランスで入り、ハラハラさせられるだろう。そして待っているのは、あまりの結末…。おどろおどろしい物語を支配するのは、悲しいまでの愛。それぞれの大きく見開いた思い詰めた瞳が忘れられない。


    1月19日(土)より、丸の内ピカデリー他全国ロードショー

  日本語オフィシャルサイトhttp://www.sweeney-todd.jp

過去の映画評なら

 お知らせ

容量の関係で2年間にわたる過去の映画評が消えたのですが、友人の人力により、多くを残す事が出来ました。船越さん有難う!

2007年11月末アップまでの分は、リンクコーナーの「ジャーナリスト・ネットの映写室インデックス」をクリックください。

映写室 「北辰斜にさすところ」三國錬太郎さん合同会見

    ―プロデューサーは大阪の弁護士さん― 

 今や死語に近い言葉ですが、旧制高校には「バンカラ」な青年たちが一杯いました。この映画はそんな青春を送った若者の、時を経た再会の物語。途中にはあの戦争もありました。主役の三國錬太郎さんのお話です。
               (2007年12月14日 ウェスティン大阪にて)

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 <三國さんは、戦後東京で開業した医院>を息子に譲り、今は悠々自適の余生を送る上田勝弥の役で、「長年この稼業をやっておりますが、今回不思議なご縁でプロデューサーから出演依頼がありまして。最初は躊躇したのですが、考えてみると彼の馬鹿さ加減は並外れている。付いて行ってみるに値する馬鹿さ加減だと思い、引き受けました。当たるかどうか解らない映画に投資するのは大変危険で、経済行為としては犯罪に近いのです。それを乗り越えて、大阪の一人の弁護士が、あちこちからお金を集め自分で出しと、とうとう映画を創りました。こんな奇特な人は、僕らの仕事にとって太陽のようなもの。でもこんな方法は周りの支援者がいないと浸透しません。文化活動というのは生きる基本ですから、彼の馬鹿っぷりを理解いただいて、ぜひこんな事が続いて欲しいのです。」とあのダンディなお顔で、冗談交じりに話される。


 <物語は昭和11年に主人公の勝弥>が旧制第七高等学校(現在の鹿児島大学)へ入学した頃と、同窓会の準備をする現在とを行き来して進みます。来年野球部創部100年で、五高(現熊本大学)との因縁の試合があるというのに、伝説のピッチャーの勝弥は出席を渋る。仲間や家族は訝るのですが、そこには言えない訳が…。
映画の主人公同様、この年代の誰もが戦争の影を色濃く引きずっています。三國さんご自身も中国への出征経験を持ち、千数百人にも上った所属部隊の内、再び祖国の土を踏めたのは数十人だったとか。そんなご自身の戦争体験と役の重なる所を伺おうとしたのですが、この主人公同様やすやすと口に出来るものではないのでしょう。やんわりと話題をずらしてお答えになります。又収録の後で亡くなられましたが、この作品には同級生役で北村和夫さんも出演されていて、「今村昌平監督を囲む仲間で、渥美清さんとかと一緒に朝まで酒を飲んだ。彼は抜きん出た人で、どんな時も弱音をはかず自分の中に止めていた。人の話を聞かなかったけれど、とても可愛い人だった」と懐かしむ様に話されました。


 <4,5年前からご自身の演技が変わってきた>そうで、「80代の演技者として演じる役目がある。ギラギラした物を出すより自然体で社会の矛盾を観客に示して、考えてもらう演技がいいと思う。若い頃のようなラブシーンは、今も4,6時中求めてはいるが、現実にはもうやれない。とは言っても、体の中に燃焼するものを保持させないと芝居が出来ない。伝えたい物が無くなると役者の本質が薄れそうで怖く、エネルギーの保持を心がけています」と何処までも追求する姿勢は崩れません。「僕は大陸から帰ってきて、偶然俳優になって木下恵介監督に育てられた。市川崑監督、大島渚さんと色々な名匠の良心に応えながら作品を作ってきて、大変恵まれた俳優人生です。でもこれからの人はそんな訳には行かない。自分でそういう対象を探して付いて行くしか方法がありません。優れた才能の玉が爆発物になるのです。時代を突き抜けるそれを見つけないといけない」とも。
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©2007映画『北辰斜にさすところ』製作委員会

 <ラベンダー色のセーターが似合って>、品のいいセクシーさをかもし出す三國さんですが、1923年生まれですからもう84歳。何時までも元気でお若い秘訣を「入院している友達がお見舞いの品を回してくれる。それで生きてるようなもので、健康の秘訣はおねだり上手ですかね。犬は何代目かが生きていますが、独り言のはけ口で可愛がる事が楽しみです。でも別れが辛いので次はもう飼いたくない。末路を見れるという自信がないと飼えません」と冗談を交えて話されます。昔から喜劇がお好きだったようで、「演劇は大衆演劇が本来のもの。僕の喜劇の理想は藤山寛美さんだけれど、彼の芝居は人の邪魔をしない。今は芝居が他の人の事を考えない個人演劇になっている。自分が主役だと思うのは大きな錯覚で、他人こそが主役だと思うのが大切なのでは。そんな動きに対して何か出来ないかと思って“釣りバカシリーズ”をやっている。でもあんなに神経を使ったから、寛美さんは長く生きれなかったんだなあ」としばし回想。
 <神山征二郎監督とは「三たびの海峡」(‘95)>、「大河の一滴」(’01)に続いて3作目で、「社会問題が彼にとっての大きな土壌だと思う。彼の演出は穏やかそうに見えるけれどあれは芝居では。師匠の新藤勝人を見れば解る」と、監督と主演俳優が才能をぶつけ合う丁々発止の関係を覗わせました。こんな風にユーモアを交えて、時には質問者をやんわりと煙に巻きながらの会見でしたが、これこそが老人力と言うもの。見事な俳優人生の円熟期かと思います。


 <さてこの映画ですが>、三國さん演じる勝弥の若い頃に扮するのは、本作が映画初出演の和田光司、勝弥に多大な影響を与える寮の先輩草野には緒形直人。他にも、今となってはもう見れない旧制高校のバンカラな若者が一杯出てきます。だみ声の応援歌、ひしゃげた帽子にザンバラ髪、下駄とそのバンカラ振りが素敵でした。三國さんの息子役に林隆三、その息子役に林さんの実の息子林征生が扮するのも見所でしょうか。でもこの映画の主人公は、そんな人物以上に旧制高校の空気感とそれを曇らせた戦争かもしれません。
 <そんな物語に惚れ込み>、弁護士と言う本業を抱えながら映画制作に乗り出したのが、三國さんが再三畏敬の念を話された廣田稔さん。ご自分だけでなく「伝えたい思いがある。伝えたい志がある」との熱い思いで、多くの方に働きかけメセナとして賛同者を集めました。「正攻法のそんなやり方で今時映画を作るなんて」と呆れながらも、三國さんを動かす原動力にもなったのです。これも一種のバンカラさ、作中の草野に通じる心意気を感じました。プロデューサーの思いに応えて地元の皆さんも多数協力、思わず零れる涙の向こうに、そんな手作り感が匂い立つ温かい作品になっています。


<注釈>
 旧制高校は今の大学にあたる教育機関で、卒業すると帝国大学へ進学出来る為、飛び切りのエリートが集まった所。戦後の教育改革で廃止になるまで、全国に38校あった。新入生はほとんど寮に入り共同生活を送ったが、それぞれの校風を表現するのが寮歌で、「北辰斜にさすところ」は映画の舞台となる、鹿児島の七校造士館の寮歌に由来する。


   関西では、1月5日(土)よりテアトル梅田で、
          1月26日(土)より京都シネマで公開。

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