太秦からの映画便り

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ジプシー音楽の多様性

映写室 「ジプシー・キャラバン」上映案内     
  ―音楽は神からの贈り物―

 インドに起源を持ち、11世紀から世界中に散らばったと言われるロマ/ジプシー。彼らの奏でる音楽はどんなに賑やかでも独特の哀愁を漂わせる。そんな魅力を伝えようと、スペイン、ルーマニア、マケドニア、インドと4つの国の5つのバンドが、6週間をかけて北米を回った。これはその「ジプシー・キャラバン・ツアー」を追ったものだ。

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 <ヨーロッパを旅すると>、アコーディオンやタンバリン、バイオリン等に合わせて歌い踊るロマ/ジプシーを駅や街角でよく見る。本当言うと、スリが多いから気をつけろと教えられたし、執拗にお金をせがまれた経験もあって、どうしても身構えてしまう。なかなか立ち止まって聴く機会はないけれど、それでも哀愁を帯びた独特の音色は耳に残って、彼らと出会った風景が、旅一番の思い出になったりするのだ。
 彼らの暮らしとかを知ったのは、ジョニー・ディップがロマの若者に扮した「耳に残るは君の歌声」でだった。ディップの雰囲気と重なり、美しい青年の纏う哀愁と、瞳に宿った複雑な色が忘れられない。あれは彼だけの物ではなく、悲しい歴史を刻むロマたち誰もが宿す影のようだ。ロマは何処の文化圏でも長い間差別され続け、ナチス時代にはヨーロッパ全土で50万人が虐殺されたという。しかもその史実がユダヤ人ほどには知られていない。

 <監督のジャスミン・デラルは>、1900年代初頭にジプシーに関する1冊の本に出会い、この作品の前に「AMERICAN GIPSY」(’00)を完成させている。デラルはイギリスに生まれ、一時は祖父母と共に南インドで暮らし、大人なってからはほとんどを合衆国で過ごすという様に、多くの文化に属してきた。でも何処の社会でも真ん中ではなくいつもその辺境にいたと、ロマたちの疎外感や寄る辺のなさに自分を重ねてみせる。
 <そんな共感から始まる本作は>、云わば彼らの知的追っかけ。5つのバンドの多様性でロマ文化の多様性を見せていく。インドの砂漠民バンド、「マハラジャ」で女装して踊る彼の動きを見ると、なるほどこの地の魂が世界に広がったのかと納得した。一方この作品の中心となる、ロマの歌姫エスマの圧倒的な肉体と歌唱力にも魅せられるだろう。他にも躍動的なブラスセッション、弦楽器中心で哀愁を掻き立てるバンド、何かが乗り移ったように情熱的に踊り続けるフラメンコと興味は尽きない。誰もが見せて聞かせる、生き生きとしたステージが圧巻だった。

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 <監督はそれぞれのミュージシャンのルーツも>訪ねている。ある時は結婚式に遭遇し、時には大切な人のお葬式となってしまうその旅。ロマの暮らしは貧しい。ツアーのメンバーはそれを抜け出し、誰もが歌で家族を養っていることに誇りを感じているのだ。音楽はロマ/ジプシーが神から生きる為に与えられたものと言う説が身に染みた。
 <躍動感と相反する物悲しさ>、それこそがロマ/ジプシー音楽の魅力で、彷徨い人の心象風景が浮かび上がる。この作品を通して、そんな歴史を知り、彼らの豊かさを知り、上で私が書いたような偏見を払うことが出来たらと思う。彼らの寄る辺のなさは、実はこの世に生を得てひと時留まるだけの誰もの寂しさでもあるのだから。
 ジプシー音楽をこれほどふんだんに聴いた事はない。彼らの暮らしの映像と共に貴重な記録になっている。

  関西では3/1(土)〜第七芸術劇場にて上映
  4月 京都みなみ会館、神戸アートビレッジセンターにて上映予定


※ディープな情報
 ロマは北インド起源の移動型民族。ヨーロッパ史上に確認できるのは15世紀になってからで、もうその頃から「異教徒」として差別と迫害に苦しめられた。放浪者とみなされるが、現代では定住生活者も多い。ジプシーと言う呼称が差別的だからと、彼ら自身の言葉(ロマニ)で人間を意味する「ロマ」を使用する考えがヨーロッパに広まったが、この言葉も東欧の被差別民等に限定して使われるのが現状だ。
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ラブコミックファンタジー

   映写室 NO.139ペネロピ
  ―お嬢様の勇気と自立心―
 もしも貴方が豚鼻だったらどうするだろう。まあずいぶん上向いた私の鼻なんて、豚鼻のような物だけれど、この主人公は、「…のような物」ではなく、可愛い顔に本当に豚のお鼻がついて生まれた。…と言う設定のちょっと風変わりなお話は、またもやファンタジーの宝庫イギリスが舞台だ。一足早く春色の気分になりたい方にお勧めの、ハートフルな小品です。
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(C)2006 Tatira Active Filmproduktions GmbH & Co. KG

 <名門一家の先祖は傲慢な仕打ちで>、魔女に「この家に次に生まれる娘は豚の耳と鼻だ。呪いを解く方法は、お前たちの仲間が娘に永遠の愛を誓う事」と告げられる。幸運にもその後はずっと男が続いて、皆が呪いを忘れた頃に生まれた娘がペネロピだった。整形をしようにも、鼻に大事な血管が通っていてできない。
 <母親は化け物の写真を撮ろうと騒ぐ>マスコミから娘を守る為に、偽のお葬式を出しお墓まで作った。こうして彼女は、屋敷の中だけで人目を避けて育てられるが、両親の溢れる愛と持ち前の知性で、全てが申し分なく成長する。でも何度お見合いをしても、いくら持参金をつけても、豚鼻を見ると皆が驚いて逃げていく。その度にペネロピがどんなに傷ついても、母親は呪いを解いて娘の鼻を普通に戻すのを諦めない。

 <おっといけない、これじゃあ荒筋そのまんま> この物語の素敵さを話そうとすると、どうしても筋を追ってしまう。何故って、この作品は奇想天外な話から真摯な問題をあぶり出す展開こそが醍醐味なのだ。もちろんこれはほんの序奏で、本題はこのずっと後。次々と起こる事件を通して、ありのままの自分を愛し、自分らしく生きる事の大切さや、柔らかい心の素敵さ等を描いていく。
 唯一豚鼻を見ても逃げ出さなかった男の出現あたりから、お伽噺の主人公のペネロピは私たちと同じ喜怒哀楽を共有する身近な存在に変わってくる。脚本家レスリー・ケイブニーの女流ならではのお姫様願望と、そんな風に育てられながら自立心を忘れない主人公の、凛とした姿勢に寄り添う心理描写がいい。全編に散りばめられたユーモアに笑い転げながらも、主人公の真摯な生き方に胸を掴まれる。

 <今公開中の「潜水服は蝶の夢を見る」で>、脳梗塞で倒れ左目以外動かない主人公に、絶望の底でも発狂しないで生き続ける極意を、知人が「自分の人間性にしがみ付く事」とアドバイスするけれど、ペネロピはまさにそれの実践者だ。愛情からとは言え、長い間の幽閉生活やこんな悲劇の中でも、人間性を無くするどころか豊かに育み続け、時が来るとそれを武器に自分の手で運命を切り開いていく。化け物扱いした世間や宿敵だったマスコミまでが次々と味方に変わる頃には、その勇気や心の強さに拍手喝さいだった。

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 <出番の殆どを、顔の真ん中に豚鼻をつけて演じる>ペネロピ役はクリスティーナ・リッチ。「アダムス・ファミリー」のウェンズデーに扮した天才子役と言えば解る方が多いと思う。大きな瞳がくるくる動いて知的でチャーミング。瞳に強さと深い悲しみや孤独感を宿し、主人公の複雑な心情をリアルに演じる。クリスティーナが扮したからこそ、ペネロピがこれほど魅力的に輝くのかもしれない。コスプレの様な扮装にも拘らず、彼女の心の中にまっすぐ観客の視線を集めた。
 本当言うと豚鼻を見慣れた目には、元に戻った顔よりそちらのほうが可愛く見える。この役、素顔より豚鼻を付けた時の可愛さで選ばれたのかもと思ったくらいだ。製作者側にもそんな思いがあるのか、呪いが解けた後で、母親が「少しお鼻を上向きに整形する?」なんて尋ねる笑えるシーンも用意されている。


 <ペネロピの鼻に逃げ出さなかった唯一の男>マックス役には、ジェームズ・マカヴォイ。「ラストキング・オブ・スコットランド」の、軽率さから惨劇に巻き込まれる青年医師役を思い出してほしい。あの頃よりずっと陰影が出て、甘さと青年の憂いを纏った姿が魅力的だ。彼への失恋がペネロピの背中を押して思い切った行動をとらせるのだけれど、登場するとたちまち物語の鍵を握るオーラを放つ。いい加減さと誠実さという矛盾する両面を感じさせるなんて、唯のハンサムじゃあない見事さだ。
 <製作は「キューティ・ブロンド」のヒロイン役で>ブレイクしたリース・ウィザースプーンで、主人公を助ける友人役で出演もしている。ペネロピの自立心や一途に娘を守ろうとする母親等、この作品の素敵な女性像は、この作品に関わる人々が女性への夢や思いを込めて作ったのだと思う。

 <映像の美しさも見所だ> 豚鼻の特殊メイクも可愛いいけれど、物語のわくわく感を盛り立てるペネロピの周りのビビットな美術や衣装が何と言っても楽しい。両親の愛を痛いほど感じる、子供部屋の延長のようなカラフルな部屋、素敵な色合いのお洒落な服や彼女の「ある着こなし」も楽しんで欲しい。
 さあ、物語は思いがけない方向に動き出す。色々な謎解きが鮮やかに展開するので、見逃さずに堪能して欲しい。物語に夢と希望を込めた製作者たちと、誰もが愛さずにはいられない聡明で素直な主人公に拍手喝さいです。

  関西では3月8日(土)よりテアトル梅田で上映
    3月上旬、109シネマズHAT神戸、他

壮大なファンタジー

映写室「ライラの冒険~黄金の羅針盤~」上映案内

     ―守護精霊(ダイモン)の見える異界―

 壮大なファンタジーの世界をさ迷った2時間。架空の世界なのに、物語も映像も丁寧に作られているから現実と見まごう。時代も不詳で、未来のようでも過去のようでも、今の私たちの裏側の世界のようでもあった。まさにもう一つの世界、パラレルワールドだ。楽しいこの不思議な世界を、夢見がちな子供だけでなく、夢を取り戻したい大人にもお勧めです。

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TM & (C) MMVII NEW LINE PRODUCTIONS, INC.ALL RIGHTS RESERVED.

 <舞台はイギリス・オックスフォード> 両親を亡くし学寮で暮らすライラ(ダコタ・ブルー・リチャーズ)は、お転婆で下働きの少年と遊び回る日々。でも彼女を引き取りたいと言うコールター夫人(ニコール・キッドマン)の冒険談に惹かれ、一緒に旅する事になる。学寮長が「真実を示す羅針盤だから、人に渡してはいけない」と黄金に輝く羅針盤をくれた。お別れを言いたいのに町に少年たちはいず、奇妙な噂が…。
 <こうして不穏な影と共に旅が始まるが、> 登場人物が多く、しかも複雑な設定の、誰が味方で誰が敵かが解らない話をすぐに理解するのは難しい。でも時間と共に、この不思議な世界がライラの目線に合わせて少しずつ姿を見せてくるので、自分が冒険するつもりで謎解きを楽しんで欲しい。

 <人の隣にいる動物を最初はペットかと思ったが>、実は動物はその人の守護精霊(ダイモン)で、心の奥底の魂が動物の形をして外に出たものだ。ライラの住む世界は私達の世界とは似て非なる、霊的な世界らしい。しだいにダイモンは自分を映す鏡でもあり、パートナーでもあり、両者は離れることが出来ないと解かって来る。人との距離、人間の言葉を話し毛並みをうねらせて動く様、擬人性や人とダイモンとの絶妙の取り合わせ等、動物の映像には目を見張る事ばかり。
 <ファンタジーの宝庫イギリスで生まれた原作が>、色鮮やかに形を見せて世界中に広がった。古い建物を使った実写の重厚さと、そこに滑り込ませる飛行船等の近未来的な創造物、私たちが住む世界とのわずかな差異の見せ方が巧みで、気が付くとライラに寄り添っている。デザイナー、デニス・ガスターのセンスに圧倒された。

 <原作のファンだったと言う>、熾烈なオーディションでライラ役を勝ち取った、新人のダコタ・ブルー・リチャーズが伸び伸びとお転婆娘を演じる脇で、主役級の俳優陣がじっくりと演じる贅沢さも見逃せない。ニコール・キッドマンの怖くて美しい事、ダニエル・クレイブのカッコいい事、必見です。
 この旅の行く手な何処なのか。ライラの叔父(ダニエル・クレイブ)も待っていそうだし、コールター夫人は何者なのか、北の果てにどんな企みがあるのか、ライラの両親は等々全ては謎の中だ。始まったばかりの冒険のもう続編が待たれる。

   3月1日(土)より全国で拡大ロードショー。
   なお、23(土)、24(日)に特別先行上映があります。


※原作について
 <原作者のフィリップ・プルマンは>、1946年にイギリスに生まれて、幼少時代を南アフリカやオーストラリア等さまざまな国で過ごし、7歳の時父が飛行機事故で死ぬと、今度は母と共に英国国教会派の牧師だった祖父に育てられた。成人すると中学教師をしながら小説や戯曲、絵本等を手がけ、90年代初頭に友人に薦められたのがきっかけで、実に7年の年月をかけ「ライラの冒険」シリーズを完結させている。
 <この物語が大人をも魅了する所以だけれど>、フィリップは教師経験を生かして大人と子供の目線を自在に行き来して、どちらをも生き生きと描く。さらに、多感な頃に多様な文化と広い世界を見聞きしたせいか、根底に宗教観を持ちながら、創造の世界は限りなく広がっていくのだ。昨年「この70年間で最も重要な児童書NO.1」に贈られる、”カーネギー・オブ・カーネギー”を受賞すると、児童書を越え、大人にとっても読み応えのあるファンタジー小説の地位を確立した。「ハリー・ポッター」の卒業生が手に取る作品として知られ、その「ハリー・ポッター」を押さえ、イギリス国民に過去最も愛された小説の第3位に輝いている。

ファーストフード文明

映写室 NO.138ファーストフード・ネイション    
  ―食の向こう側―

 中国からの輸入餃子に端を発して、食の安全への信頼が揺らいでいる今、タイムリーな作品が公開される。大手のハンバーガー・チェーンの牛肉パテに大腸菌が混入した事から、次々と明らかになる業界の内幕。アメリカのジャーナリスト、エリック・シュローサーのルポルタージュ「ファーストフードが世界を食いつくす」を元に、事実にドラマを混ぜた解りやすい展開が衝撃の映像で続く。手軽でこぎれいなファーストフードの裏側には、必ず汚れ仕事をする人がいると解かってはいても、こうしてあからさまになると辛い。

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(C)2006 RPC Coyote,Inc.

 <荒筋はこうだ。車にすし詰めのメキシコ人>たちが、命からがらアメリカへ密入国する。でもここにも早々仕事はない。一方ファーストフード・チェーンのミッキーズでは、主力製品”ビッグワン“の好調に沸いていた。そんなところへ「わが社のパテから多量の大腸菌が検出された。公になる前に調査しろ」と社長の命令が下りる。責任者のドンがコロラドの契約工場に飛ぶと…。
 <この後はおぞましい事実が次々と明るみ>に出るのだけれど、ファーストフードを食べる人も食べない人も、これが食の現実。目をそらしてはいけない。まるで先に公開されて大ヒットしたドキュメンタリー「いのちの食べ方」の続編のよう。「いのち…」に映った主役は大量生産される食品だった。農作物も動物も無機的にまるで工業製品のように管理されて、誕生から死(つまり私たちの食料になる)までをベルトコンベヤーの上で送る。
 何の説明もなく淡々とその過程を写した映像が雄弁で、そこには自然の摂理の命の共存や連鎖なんて物はない。現代社会の私たちが、何の痛みも感じず多くの命を奪って自らの命に変えている事に思い至ると、その罪深さに項垂れるしかなかった。

 <でもそこにもまだ、目を覆っている事実>がある。今回はそこを主体にして、便利に生きる為に、他の生物の命どころか同じ人間の尊厳や命までも奪っていると言う資本主義社会のエゴを描いていく。

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 <社長はともかく、ドンは真面目な男で>企業人でありながら消費者の視点もあって、両方からの真摯な姿勢で味と利潤を追及している。自分の仕事に誇りを持っているから、大腸菌の話を聞いてもすぐには信じられず、コロラドに着いてまずしたのは、”ビッグワン“を食べる事だった。不正や劣悪な環境はいつも何重にも覆ったベールの向こう、真剣に剥ぎ取らないと見えてこない。それでもまだ不充分なものは何か、企業と消費者という自分の視点の前にある、生産者や加工者の視点に立てば見える事がある。ファーストフードの罪と著しい特徴は、そこと消費者の間を大きく開けてしまった事だ。
 <消費者受けを狙って>、いや消費者だけが悪者逃れをするのはどうも好きじゃあない、つまり消費者の無言の要求で低価格競争が始まり、企業は利潤追求で生産者や加工業者に低価格を押し付ける。彼らは彼らで生き残りの為に食の安全管理を蔑ろにし、従業員に皺寄せをしていく。そこに巻き込まれるのが不法移民という悲しさ。つまりファーストフードの低価格は、本来の価格ではなく弱者が受けた損害の代償なのだ。食べる事で知らず知らずその不条理に加担すると気付けば、100円バーガーが喉に詰まると言うもの。メキシコから命からがら来た希望の地にあったのは何だろう。この辺りもアメリカの現状を丹念に織り込んでいる。
 <もちろん移民だけではなく>、ファーストフードで働くのはたいていがバイトの若者で、大げさに言うと、アメリカ下流社会の経済がファーストフードで廻っているようなものだ。経済でも「ファーストフードが世界を食いつくす」現実を目の当たりにする。

 <すさまじい食肉工場に>、命の終末をこんな風に見続けていたら神経がおかしくならないだろうかと気になった。とても平常心では見られない。目を覆ってばかりだったけれど、私のこんな観賞態度もエゴなのだ。嫌な事や汚い仕事は見ないで、他者に押し付ける卑劣さ。日本でだって解体は何処かでされているはずなのに、それを想像したことはない。
 <低価格を目指せば犠牲になるのは何か>解かっていても、消費者の立場になるとたいていの人はころっと忘れる。その皺寄せが食の安全に行って発覚すると、今度は貪欲な自分たちを棚に上げて、コストダウンに走った業者を責めるだけ。ここでは諸悪の根源に企業を置くけれど、もっと根幹の私たち消費者の無知とエゴを忘れてはいけない。(人が手作業で作るものは安くなくても良い。隠れた部分で大変な仕事をする人が、それに見合うだけのお金を得られ、消費者と同じ生活を出来る価格で良い)といつも思う。

 <怖いのは中国産の食品だけ>ではない。もちろんファーストフードだけでもなく、あまりにも作った人と消費者が離れていてその間が見えないのが不健康なのだ。この映画を食料自給率40パーセントを切り、その数字がまだまだ下がり続ける飽食の国、日本への警告のように思った。


  関西では2月23日(土)より第七芸術劇場で上映
       3月 京都シネマで上映予定


※ディープな情報
 監督は「スクール・オブ・ロック」の異才リチャード・リンクレイター。監督の人脈で大物たちが思わぬ役で出てるのでお楽しみに!今アメリカ人は年間130億個のハンバーガーを食べている。ファーストフード業界が大きくなるにつれ、アメリカ人のウエストが大きくなったらしい。1970年代以降太りすぎの大人は50%増え、5歳以下の子供では2倍、6歳から11歳の子供では3倍になっている。

クリアネスの知的な面々

映写室 「クリアネス」合同会見 
   
―原作は第1回日本ケータイ小説大賞 大賞受賞作品―

 少し時間があると若い人はケータイを開く。友人との頻繁なメールもあるけれど、そこにはケータイで情報を得たり小説を読むと言う、新しい文化が生まれているのだ。そんな風潮を反映してか、このところケータイ小説が次々と映画化されている。16日から公開中の「クリアネス」もそんな1本だ。原作は大阪在住の十和(とわ)で、これで第1回日本ケータイ小説大賞 大賞を受賞している。14日に大阪であった、監督と主演者3人、原作者の5人を囲む合同会見のレポートです。

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 (左より篠原監督、杉野希妃、細田よしひこ、小柳友、原作の十和氏)

その前に「クリアネス」とはこんな物語
 女子大生のさくら(杉野希妃)はボーイフレンドのコウタロウ(小柳友)がいながら、自宅で体を売っている。窓から見える向かいの部屋は出張ホストの事務所だ。美しい少年レオ(細田よしひこ)を観察していたら、ある日彼が部屋に来て嫌な客を追い出してくれる。こうしてレオと親しくなるが、会いたければ彼を買うしかなかった。

<合同会見>
―これを書こうと思ったきっかけは。
十和(以下敬称略):元々パソコンの中に4枚くらい書いていた文を、ケータイ小説と言うのを知ってそれで書こうと思いました。連載は全部で9ヶ月なんですが、途中で6ヶ月放置していたんです。掲示板を覗いたらもっと書いてくれと書き込みがあって、読者に励まされて又書き始めました。
―それを映画にする監督の思いはどうでしょうか。
監督:ケータイ小説と言うのはあまり意識していません。何であれ内容が面白ければ映画になります。これでいうと僕の好きな三角関係をテーマにしてるので、そこを描きたいと思いました。この主人公は恋人もいながら実を取りますが、それでも嫌な女にはなっていないはずです。こういう生き方をしてる人が実際にいると思いますね。ある種の共感を持って見てくれる人がいると思います。
―他の方はどうでしょう。
細田:ケータイ小説を読むのは初めてですが、僕らは横文字に慣れていて、原作も横文字なので言葉がダイレクトに伝わってくる。若者には馴染みやすいです。
十和:ケータイ小説は手軽だし誰でもできるし、発表の場としてとてもいいと思う。これだけブームになっているので、私も読む者の目線と近いものを書いていきたいです。

―希妃さんは日本で始めての出演作で、しかも主役ですがプレッシャーは?
希妃:初めてだからというプレッシャーはないのですが、原作があるのでそのファンがいるだろうと、その方たちを裏切らないかと心配でした。でも監督と話し合って、「無」からさくらを作りたいと思いました。
篠原:今回は配役をオーディションで決めたんですが、彼女に会ってみて、さくらという人に対して持っている思いとかを聞き、(あ、この人いけるな)と思ったんです。僕の以前の作品の「初恋」の時の少女は、母親が死ぬという事から動くけれど、今回のさくらは自分の肉体的な要求でそこに入って行くんです。世間から反感をもたれそうな役だけれど、彼女が演じれば許せる役になると思った。
―実際にその女性を演じてみてどうでしたか。
希妃:最初読んだ時に、若者の葛藤が描かれていてものすごい純愛小説だと思いました。こんな事をするけれど、普通の大学生と言うのが役作りの大きな要素です。そんな女性が変わっていく。さくらが元々持っているまっすぐさを自分も持っていたいと思います。
―恋人がこんな事をするこの役は辛くなかったですか。
小柳:役は辛いけれど、自分に置き換えたらどうだろうと思うと色々考え、いい経験になったと思います。

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―希妃さんは韓国でキム・キドク監督の作品にも出ていますが。
希妃:韓国映画が好きで、語学と演技の勉強が目的で、韓国に2006年から1年くらい留学していました。その時丁度「まぶしい1日」のオーディションがあると聞いて受けに行ったんです。で出演し、キム・キドク監督にはそれが上映された釜山映画祭でお会いしました。それを良いと言ってもらえて、監督の作品に出演する事になりました。この後もチャンスがあれば韓国映画やキム・キドク作品に出たいですし、もちろん主役が目標です。
―レオは細田さんの実年齢より低いですね。
細田: 16歳の設定なんです。レオは年上の人に憧れるんだけれど、無邪気に自分が引っ張っていくというか。
希妃:彼は凄いんです。演じていてもスーッと心の隙間に入ってくるところがあって。
―金髪ですが照れはありませんか。
細田:僕は他の作品でも金髪になることが多いんです。どうしてですかね。でも金髪になることで役に入り込める。自分の性格は内向的でもあり外交的でもあるんで、髪の変身は役作りに役立ちます。

―最後になりましたが、この作品で一番好きなシーンと見逃さないで欲しいシーンを、それぞれ教えて下さい。
十和:最後の、夕日を見る為にさくらが自転車に乗っているシーンは何度観ても泣きます。私が小説で表現したい事が映像になっているのがここで、さくらの心の成長とか、離れていても心は繋がっている、心の内側にはレオがいるという事とかが、あのシーンのさくらの表情に込められています。あと見逃さないで欲しいのはレオの可愛さですね。本当に可愛いので。
小柳:何処も絵が綺麗で、それを見て楽しんで欲しいです。
細田:レオがさくらの部屋に行くじゃあないですか。あれすごい行動力ですよね。ヒーローじゃあないですか、あれを実生活でもやってみたいなと。しょっぱなのあのシーンはぜひ見て欲しいです。
希妃:印象に残っているのはレオを刑務所に送るシーンで、撮り終わった日は何かを引きずって眠れなかった。考えてみると、2人はその前に肉体的には結ばれているけれど、送り出す瞬間に今度は2人の心と心が繋がったんだと思います。
監督:この作品は2人ないし3人の精神的葛藤がテーマですが、撮ってて楽しかったのは、沖縄で4人が突然踊りだすシーンです。まるでドキュメンタリーの様で編集していても毎回新鮮でした。見逃して欲しくないのは、さくらとレオが共有した時間が唐突に終わる所で、そこに漂うのは文章で言えば行間のようなものです。

<会見後記>
 売春、買春という刺激的な題材を使い、繊細で孤独な若者の心情を描いたケータイ小説。それに共感し、自分の言葉で明確に分析して見せる知的な出演者たちが、どんな今の物語を繰り広げているのだろうか。会見は若いクリエーターたちの、鋭い視点と熱い思いを感じるものだった。

関西では、なんばパークスシネマ、MOVIX京都 、MOVIX堺、MOVIX八尾
    109シネマズ箕面、109シネマズHAT神戸等で上映中

世界でも日本でも告発は命がけ!

映写室 「暗殺・リトビネンコ事件(ケース)」&「ハダカの城~西宮冷蔵・水谷洋一~」上映案内

 ―ドキュメンタリーで綴る告発の結末―

  ひと頃、産地偽装や賞味期限の改ざん等、内部告発で発覚した企業の不正が世間を騒がせた。反省して出直す側のニュースは頻繁に流れるが、告発者のその後はどうなのだろう。この2作品は彼らに寄り添い、厳しいその後を描いたものだ。
 国家の暗部を告発したリトビネンコ氏と、大企業の不正を告発した水谷洋一氏の2人は、頻繁にマスコミが取り上げたのでご存知と思う。両作品は、告発者をこんな目に遭わせた隠れし者を告発する。告発者や監督の、事件を風化させたくないという思いと理不尽な事への憤りが伝わってきた。ただ焦点は告発者で、事件の全容を描いているわけではなく、理解するには予備知識が必要な作品でもあります。

1.暗殺・リトビネンコ事件(ケース)
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(c)Dreamscanner Productions 2007

 <2006年11月後半にテレビ等で頻繁に流れた>、ベッドの上で空ろな目をこちらに向けるリトビネンコのこの映像で、当時の衝撃を思い出す方も多いだろう。この事件にFBS(ロシア連邦保安庁)やプーチン政権の関与が示唆されても、俄かには信じられず半信半疑だったけれど、彼の死後体内からポロニウム210と言う強力な放射性物質が検出されると、疑いは一気に現実味を帯びる。ロシアと言う国の不気味さに震えたものだ。
 <その後イギリス警察は>、防諜機関の情報局保安部も加えて捜査を進め、「動機、手段、機会の全てがFSBの関与を物語っている」とまで指摘する。そして2007年5月に、主犯としてKGBの元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者を告発し、ロシア政府に身柄の引渡しを求めたが拒否され、お互いの外交官を追放しあう事態を招いた。

 <ロシア側はいまだに関与を否定している> ルゴボイもモスクワのラジオで容疑を否定し、逆にリトビネンコが英国の情報機関の仕事をしていたと主張。ポロニウムの入手についても、ロンドン亡命中の富豪の関与を示唆したのだ。つまり双方の言い分が激しく隔たったまま、この事件の全容はいまだに明らかになっていない。

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 <このドキュメンタリーは>、爆破テロはFSBの工作だと主張しイギリスに亡命したリトビネンコが、この5年間にアンドレイ・ネクラーソフ監督と数百時間を共に過ごし、自分の反抗の原因やチェチェン戦争の裏側にあるプーチン大統領とFSBの暗躍、政権の腐敗等を話したものが元になっている。監督は彼の生前からすでにカメラを回していたのだ。
黒焦げの遺体が並ぶ痛ましいニュース映像も挿入され、リトビネンコより先に何者かに銃殺されるが、チェチェンの戦争犯罪を報道し続けた女流ジャーナリスト、A・ポリコフスカヤのインタビューでは、「劇場占拠事件の犯人の一人が、今プーチン政権で働いている」という衝撃的な証言もある。リトビネンコの父や妻という遺された家族の、「ポロニウムはどこから来たの?」という怒りを抑えた問いが痛ましい。
 <もちろん全ては闇の中なので>、ここまでの証言があっても陰謀の向こうは霞んでいる。そこが解りにくさでもあるが、ドキュメンタリーである以上仕方ないだろう。監督は元々創作の題材として彼を取材していたと聞く。何時かこれを元に、見えない部分に芸術的想像で切り込み、全容を見せる劇映画が出てくるかもしれない。
なお、この作品がロシアで公開される可能性は今のところないと言う。


     関西では2月16日(土)より第七芸術劇場
          順次  京都みなみ会館にて上映


2.ハダカの城~西宮冷蔵・水谷洋一~
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 <事の始まりは2002年>、朝日と毎日が1月23日の朝刊トップで報じた、「雪印食品・牛肉偽装詐欺事件」だ。新聞に「国産牛肉買い取り制度」を悪用した詰め替えがあったと雪印を告発したのが、その肉を保存していた倉庫会社「西宮冷蔵」の社長の水谷洋一だった。狂牛病騒動に便乗する大企業の、あまりに姑息なやり方に憤る水谷の姿は、当時よくテレビに流れたのでご記憶の方も多いだろう。
 <告発から3ヵ月後、「雪印食品」は>解体する。でも西宮冷蔵も、偽装詰め替え時に「在庫証明書が改ざんされていた」と言う解ったような解らないような理由で、国土交通省から営業停止処分を受けるのだ。その後は、今度は取引先が相次いで撤退し、2003年の5月25日には電気代の滞納で送電がストップ、倉庫の稼動が出来なくなる。このあたりも時々報道され、今度は一般の国民が、何処かからの圧力を思わせる国土交通省の処分や、一致団結した食肉業界の報復に憤ったものだけれど、憤っただけでは何の手助けにもなりはしなかった。水谷は告発の結末を一人で引き受け、大きく運命を狂わせていたのだ。
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 <監督の柴田誠が彼に出会った>のはこの後で、大阪駅前の曽根崎陸橋の上で本を売っている時だったらしい。この露天はわずかでも生活費を稼ぐのと、再建支援のカンパを募るのが目的だったが、今映像を見ると、苦境の自らを世間に晒し続ける事で、挫けそうな反屈の精神を奮い立たせる目的もあったのではと思う。事件を忘れずに世間も一緒に怒らなくては、個人は潰されてしまうのだ。
 後ろに「負けへんで!! 西宮冷蔵」と書いたのぼりを立てて、路上に本を並べて低い目線で黙々と支援者への礼状にペンを走らす毎日。柴田は愚直に筋を通す水谷の姿に惹かれ、以降1年半にわたり追うことになる。この作品は、そんな日々から再建、営業再開して一年後までを寄り添った記録だ。

 <真っ暗な中懐中電気で明かりを取る夕食>、だだっ広い事務所の寒々しさ、着膨れて寒さに耐えてもちっとも売れない日々、逆に思わぬ人の温かい言葉等が、まるでそばで見るように続く。本当言うとこっちは辛くなってもう頑張らないでと言いたいのだけれど、それでも髯ぼうぼうで野武士のようになった水谷は、ますます頑強に諦めない。男のプライドだとしても、もっと楽に生きてもいいのではとやっぱり私には辛い映像だった。
 <柴田はカメラを下げているものの>、監督と言うより友人のような視点でプライベートな姿を追っている。水谷にとって柴田のカメラが支えになった日もあった事だろう。もちろんこの作品は、柴田から水谷への何よりの応援歌でもあります。
ところで、この撮影時からもいくらか時間がたった。再開はしたものの今も業界からの圧力があり、まだ廃業の危機の中だと言う。あれ以来食肉業界との取引はないらしい。


 関西では2月23日(土)から第七芸術劇場で上映    
     2:23(土)-29(土) 18:50~20:45
     3:1(日)-7(金)  10:20~12:10
 なお初日(2/23)には水谷洋一社長・水谷甲太郎さん(長男)のゲスト予定
 2/23(土),24(日)、3/1(土),2(日)は柴田監督の舞台挨拶があります。

万感の思いで潤むトニー・レオンの瞳

映写室 NO.137 ラスト、コーション     
―タブーに挑む時―
 
 噂どおり濃厚な作品だ。2時間40分もの長尺に1分の揺ぎも無い。アン・リーが久しぶりに中国語でメガホンを取った本作は、1940年代の日本占領下の上海と香港が舞台。極限に置かれた男女の愛を、中国映画ではタブーの、大胆なセックスシーンに大きな意味を持たせて描く。「ブロークバック・マウンテン」に続いて、再びヴェネツィア映画祭で金獅子賞を獲得した。時間が経つと言うのに、ラストシーンの万感の思いで潤むトニー・レオンの瞳が忘れられない。

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(C)2007 HAISHANG FILMS/WISEPOLICY

荒筋
 戦火を逃れて香港で大学生活を送るチアチー(タン・ウェイ)は抗日派だ。友人のクァン(ワン・リーホン)が、日本傀儡政権下の要人イー(トニー・レオン)の暗殺を計画し、彼女も仲間に加わる。チアチーはマイ夫人と言う触れ込みで、まずはイー夫人のマージャン仲間になった。イー家の警備は厳重で、イーもなかなか姿を見せない。

 <張愛玲の原題は「色|戒」で>、色は情に通じ、戒は戒めだけでなく誓いの意味も含むと言う。ここには色と情と誓いの重さ、時代に翻弄される複雑な人生が描かれている。
抗日の思いはあっても、最初チアチーはそれほどの運動家ではなかった。他のメンバーも一緒で、暗殺を口にしたクァンにしても、皆で何かをするのが目的のような気安さがあったのだ。それが抜き差しならなくなるのは、チアチーがイーに出会ってからの事。二人のずらしながらも絡んだ視線はまさに運命、この瞬間から物語は大きく回り出す。でも暗殺までの覚悟があったかどうかは怪しい。彼女を突き動かしたのは、本人も自覚しないイーへの恋だと思う。イーの誘惑に手練手管を発揮するチアチーは日ごとに妖しく成熟し、それに気付かないふりをしながら、密かに情念の炎を燃やすイーとの緊張感が、前半の見所だ。二人の探り合う様な瞳がこの物語の濃密な空気感になっている。

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 <メンバーが暗殺に本気になるのは>、成り行きで人を殺した後の事。後にクァンが告白したところによると、彼らを見張っていた抗日組織にこの事件を庇って貰ったのだ。こうして組織に絡め捕られ抜き差しならなくなったメンバーと、忘れがたいイーの魔力に惹かれ、再びこの計画に参加するチアチー。若さゆえの夢見がちな正義感が、大きな陰謀の中で、殺しと言う現実的なものへと豹変するあたり、哀れでもあり不穏な時代の空気を思わずにはいられない。

 <イー夫人の取り巻きは始終マージャン>に明け暮れる。パイをいじりながらも、ゲームの手以上に相手のプライバシーを探る会話。それを笑いながらかわし、いやもっと危険に肝心のイーの様子を探る会話へ振る、マイ夫人に成りすましたチアチー。華やかなドレスと裏腹の丁々発止のやり取りが濃密だ。イーが帰宅すると、たとえ画面の隅に姿が映るだけでも、今度はそこに、どんな時もどんな相手にも気を許さない彼の殺気が加わり、観客にまで緊張が走る。一度その姿を見ると、不在の時すらもその存在が重いのは、やはりトニー・レオンの存在感だと思う。

 <もっと息を詰める緊張は>、もちろんアン・リーが最も撮影に力を入れたと言うイーとチアチーのベッドシーンだ。まるで肉体と精神の格闘技の様でもあり、どちらも一歩も引かず支配権を奪い合う様に延々と続く。最初は相手の真意を探り合っていても、すぐに自分の苦しみをぶつける事に変わり、エロティックと言うよりあまりに凄まじい。疲れ果てた後に喜びがあったのかどうかも解らない。その間だけは総てを忘れていても、シーツを滑り降りた途端、あれほどにしても掴みきれなかった相手の何かに、又疑いが忍び込んでくる。まさにこの時代のこの二人だからこその孤独と恐怖を、痛いほどに感じるベッドシーンだ。

 <チアチーを演じる新人のタン・ウェイ>が、素顔の清純な女子大生から妖艶な女までを自在に行き来して、そのどれもが魅力的なのに驚かされる。胸元の透けたドレスが、透けていると言うだけでこんなにもセクシーなのかと息を呑んだ。マージャンをする俯いた顔の、笑みを含んだ口元の匂い立つような美しさ。マイ夫人に成り切り、一時も気を抜かず、不在のイーに向けて放つ媚態に見惚れる。
 <イーを演じるトニー・レオンの>、老けメイクをしたと言う風貌が又いい。若くもなく、美男と言うわけでもない小柄で貧弱な肉体、イーの持つ男として唯一の力は権力だ。だからなおさら、権力ではなくその肉体で女をひれ伏せさそうとするベッドシーンに、この男の性が滲む。こんな悲哀があるからこそ、後の瞳の演技が生きるのだろう。
 <チアチーに惹かれながら>、運動を優先して感情を殺して生きる青年、クァンを演じるワン・リーオンが、役の成長に合わせるように表情を大人のものに変えるのも見事だった。彼も又時代に翻弄された若者、遅すぎた恋の発露が虚しい。

 <連合軍の参戦で、日本はこの物語の後>劣勢に転じる。イーはもちろんそれを知っていて、風貌はすでに末路を予感させる哀愁を漂わす。時の要人と彼の暗殺を目論むスパイとして出会い、だからこそ生まれた愛。ラストシーンの、妻に見咎められてもチアチーのベッドに座り込んだままで動けないイーの瞳が、この作品の総てだと思う。
 「ブロークバック・マウンテン」で二人以外羊しかいないと言う、寂しさの中で始まる禁断の愛を描いたアン・リー。今度の愛は、極限の緊張の中、恐怖を忘れる為の暴力的な性で始まった。いわばどちらも必死で生き抜いた結果で、セックスは生きる為の必然だったのだ。そして生まれた愛、監督は愛と性を生きる事と捕らえている様に思う。

   シャンテ シネ、Bunkamuraル・シネマ他全国一斉公開中
   関西では、シネ・リーブル神戸、高槻ロコ9シネマ、TOHOシネマズ伊丹、
     TOHOシネマズ梅田、TOHOシネマズ 橿原 、
        TOHOシネマズ なんば、TOHOシネマズ 二条等で上映中


※ディープな情報
 <中国では映画にR指定と言う制度がなく>、子供も同じものを観るので、セックス描写には限界がある。本作も中国公開には、全てのベッドシーンをカットしたヴァージョンが用意された。その編集もアン・リー自らがやり、完全版とは別の完成度がある為、両方を観た人からは、”中国版のほうが消化し易くて良かった“という声もあるのだとか。本作はそれ位濃厚なのだ。もっとも監督は、タブーに挑んだあのセックス描写があるからこそ力強い映画になっていると、完全版を勧める。力を注いだシーンが抜けた時、どんな物語が浮き上がるのだろう。あの2人ならそのもののシーンを隠せば隠すほど、濃密な情念が見えるような気がする。中国版も観てみたい。なお日本上映は完全版にぼかしを入れたヴァージョンで、無修正の完全版は香港や台湾で公開された。
 <このところ中国映画が凄い> 「中国の植物学者の娘たち」では女性同士のベッドシーンを描き、全編にそのシーンを上回るほどの濃密な空気を映し出した。其処にタブーがある時、クリエーターはポテンシャルを挙げて飛び越え奇跡を起こす。タブーのない国には到達し得ない境地だ。

状況劇場から劇団唐組へ

映写室 「シアトリカル」上映案内
   ―映るのは今も残る70年代―

 このドキュメンタリーは、2006年秋に唐十郎が「行商人ネモ」と言う新作の執筆に取り掛かってから、翌春に初日を迎えるまでを追ったものだ。と言っても、最後に唐が、全ては虚々実々と一連の出来事を示唆するように、ここに映るのがドキュメンタリーなのか、カメラを意識した芝居なのかは、判別がつかない。

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(c)いまじん 蒼玄社

 <誰かに成りすますのが仕事の役者>や、妄想を紡ぐのが仕事の作家の日常を追って、それが真実と思うほど御目出度くはないけれど、演じているとしても、それこそが染み付いた習性で、彼らの日常なのだろう。唐を中心とした濃密な人間関係や、執拗な練習風景、私生活も芝居の為と言う偏執した生活を、まるで舞台のように観た。
 唐の一言で食事すら右往左往する団員、家族のような合宿風景、長年行動を共にした役者たちの唐との阿吽の呼吸等、この濃密着度がまさに劇団唐組だ。「シアトリカル」とは演じるとか劇的という意味らしいが、唐の周りには、何処までが本気で何処からが(相手の反応を探る為の)芝居なのかも解からない混沌が漂い、この言葉こそが唐の生き方。だからこそ目を離せない。団員はそんな唐に魅せられ、離れ時を見失った共犯者で、一番の観客でもあるのだろう。唐と言う教祖に集う信者にも見えた。

 <監督が大島渚の次男、大島新で>「情熱大陸」等アーティストに迫ったテレビドキュメンタリーの演出を数多く手がけているだけに、この集団の日常を解かり易くまとめている。唐にフィルムを意識した演技があるとしても、大島新の手法そのものが、被写体を淡々と追うドキュメンタリー作家ではなく、自分の視点でドラマを紡いで見せる手法なのだと思う。だからこれは、大島新の「これが唐十郎だ!」論だ。

 <状況劇場で一世を風靡し>、今も演劇界に異彩を放ち続ける唐十郎。これを見て、消えたはずのアングラの怪しさ、70年代の残り香が唐の周りに今も色濃く漂っていることに驚いた。彼はどんな風に時を止めて生き、70年代とはいったい何だったのだろう。
 あの頃に青春を送り、少しでも時代にシンクロしたいと思った者なら、埃っぽい大きなテントの中で体育座りをして、若かりし日の唐やその仲間を憧れの眼差しで追いかけた記憶があるのではないか。芝居の内容は忘れても、独特のテンポといつも中心に唐がいて、客席に熱気があったことだけは鮮明に覚えている。あそこに座ると次の日から何かが変わりそうに思った。「状況劇場」には時代の混沌を抉り出し、観客をそこに突き進ませるエネルギーがあったのだ。唐は今もそれを体現し続けている。

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 <そんな、時を越えた圧倒的な唐の力に魅せられながら>、実はそれ以上に心に残ったのは、あまりに普通の団員たちだ。特に、辞めようかと悩む後輩に、「私は団員だから」とだけ答えて涙を流す女優が忘れられない。彼女の涙は何だったのだろう。
 <昔、登場するだけで客席が沸いた>個性的な俳優たちは、ここを飛び出しそれぞれ活躍している。唐のオーラを吸収し、自らの光に変え、今度は自分の光を守る為に、無意識に唐と距離をとったのだと思う。強い個性で自分の色に染め上げる唐。星の周りを回る小惑星が、引力のバランスをとりながら自らで居続けるのは難しい。今も残っているのは、彼のオーラを浴び、なお且つ役者として自らも輝き、一緒に一つの劇を作ると言う難しい危険な命題に挑む者たちだ。でも外野がハラハラしても、彼らにその声は届かないだろう。もちろんそれに挑み続けさせるのが、唐の引力だけではなく芝居への情熱と言うのは間違いない。

 <たっぷりと魅せられた1本だ> あの時代を知る誰かとこの映画について話したくなる。これが映画第一作目の大島新監督は、ドラマでもなくドキュメンタリーとも言いがたい新しい手法を映画でも築いたと思う。次回作の主役は誰だろうと、興味を持った。彼の身近にも怪物がいるのだから。


 関西では2月16日(土)より第七芸術劇場で上映
   時間等は直接劇場まで(06-6302-2073)

歌姫の最初で最後の恋

映写室NO.136 マリア・カラス最後の恋    
 ―運命が決まった海運王オナシスとの出会い!―

 これは「歌に生き愛に生き」た伝説のディーヴァと海運王にみる、男と女のすれ違いの物語です。人生の一番耀いている時にオナシスに出会い、彼一人に全てを捧げたマリア・カラス。なのにそれを喜ぶどころか重苦しく感じ始めるオナシス。二人の間のあまりに普遍的な恋の法則が辛い。

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 <数年前に、オナシスが逝き往年の声も失くした>晩年のカラスを描いた、「永遠のマリア・カラス」と言う作品があったが、そちらの焦点はオペラと歌姫としての苦しみだった。今回は原題が「カラスとオナシス」だけに、たくさん挿入される歌以上に2人の出会いと別れが中心になる。
 <無名時代、垢抜けず100キロはあった>と言うマリア・カラス。後に結婚するメネギーニに歌の才能を見出されると、30キロものダイエット等、有名になる為にあらゆる努力をする。美しく変身しそして掴んだ名声。でも喉の使い過ぎや忙しさから、今度は普通の生活に憧れる。それを許さない夫とギクシャクし始めた時に、オナシスから豪華ヨットの旅に誘われたのだ。子羊が猛獣の手に落ちるように、カラスはオナシスに惹かれていく。

 <総てを捨てて一人の男に尽くすのが喜びとなった>女そのもののカラス。有り余る富を手に入れ、それでもまだ上を目指し、利用できる女と自分の成功の証のような大輪の花を次々と欲する、野心家でプレイボーイのオナシス。カラス役のルイーザ・ラニエリの美しくたおやかな事、オナシス役のジェラール・ダルモンの我儘そうで女心を擽りそうな事。二人を並べただけで物語が始まる。そんなあまりにぴったりな配役が、この物語を解り易くし過ぎたのが欠点かもしれない。
 <考えてみると、メネギーニとの馴れ初めは>恋というより親子か師弟愛のようなもの。オナシスへの思いはカラスにとっては初めての激情、最初で最後の恋だ。訳知り顔に愛を歌いながら、あっけなくオナシスの虜になる初心さがいじらしい。そして一途にのめり込み、挙句に飽きられるなんて腹立たしい位の陳腐さだけど、この物語は最初から最後まで一歩も恋の法則をはみ出ないのだ。

 <愛を渇望して裏切られ続けたカラスの人生は>、分野は違っても同じ歌姫のエディット・ピアフと同じで、優れた表現者の宿命とも思う。情感豊かに人生を語り愛を歌えるのは、それだけの実人生があってこその事。もちろん辛さだけではない。喜びも又、凡人には到底及ばない深さで感受したと思う。いくら強い男とはいえ、表現者でない誰がその激しさを受け止められるだろう。オナシスばかりを責めれない。
 二人の出身地のギリシャで、同じ様に貧しかった昔を語る二人は、それぞれの連れ合いには見せない柔らかな表情を見せる。この安らぎが総てのはずなのに、虚飾の街パリはそれを忘れさせた。オナシスがやっとそれに気付いたのは、別の女との結婚式の直前と言うというお粗末さだ。
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 <心の中では許しながら、それでも彼に会おうとはしなかった>カラス。でもこれでいい。ここで彼を受け入れれば、又何時の日か悲しみの中に取り残されていたはず。拒否して初めて、カラスはオナシスの永遠の女になれたのだと思う。窓の下と部屋のカーテン越しにお互いを見つめる二人に涙が零れた。
余談だけれど、オナシスの死から2年後、50代半ばでカラスはまるで力尽きたように逝く。離れていても、否、離れていたからこそ、二人はお互いの存在が支えだったのだろう。


   関西では、2月9日(土)よりシネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸で
         3月、京都シネマにて上映


※ディープな情報
 <「永遠のマリア・カラス」の歌は>カラスの最盛期の録音を被せたもの。この作品ではアンナリーザ・ラスパリョージが唄っている。私はカラスの歌の方が情感も声もより繊細で好きだけれど、ラスパリョージの朗々とした歌いっぷりもいい。聞き比べて下さい。
 <ジャクリーンを利用したつもりが利用された>この結婚は、自業自得とは言えあまりに哀れ。本筋から離れて、カラスとは対照的なジャクリーンの生き方に目が行く。実はジョン・F・ケネディとオードリー・ヘップバーンに隠された恋の物語がある。二人は独身時代に出会い、それぞれの婚姻後もお互いの配偶者の目を盗んで、親密な関係が続いたと言う。心が別の女にあっても大統領夫人の名声だけは与えられたジャクリーン。オナシスとの関係でも妻の座だけは奪い取った。愛という不確かなものよりも、富や名声と言う世間に見える確実なものを手に入れるジャクリーンは、まるでオナシスのように野心的だ。それを不幸とは思わない感性があったのか、クールで多くを望まないから夫の裏切りに気付かないのか、どちらだったのだろう。恵まれていながらジャクリーンが何処か空ろに見えたのは、そんなせいかもしれない。

珍しいドキュメンタリー

映写室 「線路と娼婦とサッカーボール」上映案内:犬塚芳美 
―中米グアテマラからのドキュメンタリー―

 グアテマラ・シティの線路(リネア)沿いの貧民街の娼婦たちが、ハイヒールをスパイクに履き替え、サッカーを始める。「リネア・オールスターズ」と言うチームを作り、選手権大会の登録もした。注目されて差別等の社会問題を訴えるのだと言う。とうとう国際試合をするまでの道のりを描いて、貧しくても逞しい女性たちに元気をもらえる作品です。

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 <奇想天外な話でもこれはドキュメンタリー> 中米の強い日差しと共に、差別に負けず悲惨な私生活や素顔を晒した娼婦たちの天真爛漫さと前向きな思いが、この映画の明るさだ。貧しい国の中でも彼女たちは最下層。肉体の罪を重んじるカトリックの支配する社会からは蔑まれている。コーヒーと言う特産品がありながら、大国に翻弄されて破綻した経済のせいで、男たちは軒並み失業し飲んだくれて頼りにならない。社会に絶望し鬱積してるから、時には家族にすら性的関係を求める。告白から明らかになるが、このメンバーにもそんな被害者が多いのだ。
 <そんな悪夢から逃げ出した彼女たちは>、2ドル半という安いお金で体を売るけれど、誰の力も借りずヒモなしで働いていると、自分に誇りを持っている。仕送りをしたり家族を養ったりと、この仕事で一家の大黒柱だ。貧しさに負けず、差別されることに怒り、逞しく生きる娼婦達。「リネア・オールスターズ」のメンバーは12人でも、応援団は60人もいるんだとか。彼女たちの活躍は皆の希望になっていく。

 <サッカーなんてよく思いついたものだと呆れるけれど>、ボール一つで出来るサッカーは、貧しい国で盛んなスポーツ。とにかく逞しい。極彩色のセクシーな商売着も、やっとそろえたユニホームもはちきれそうな肉体で着る。最初はボールも蹴れないのにだんだん上手くなる頃には、こちらも観客と言うより応援団になっていた。初めてゴールした時なんて、嬉しくて映画なのを忘れて拍手しそうになる。最初の目的はもとかく、仲間と一緒にサッカーをし、厳しい現実を忘れる時間が喜びになっていく様子が伝わって来た。娼婦たちには弱い者同士一体になれる物が必要だったのかもしれない。
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 <対戦相手によっては汗でエイズがうつると言われたり>、喧嘩になったりの試合観戦にも力が入るけれど、それ以上に目を奪われたのが、サポーターのマリアだ。深い皴と痩せた体が人生を物語るよう。マリアは元娼婦で、恋人の暴力で片目になった不運な過去を嘆かず、小さな幸せに感謝して生きている。それでも娼婦たちを一生懸命応援するのは、後輩に自分のような人生を送らせたくないのだろうか。そんな思いを代弁するように挿入されるヴォーカルが心に染みた。

 <さあ、サッカーで彼女たちは変れたのかどうか>、それは映画を観ていただくとして、嬉しいのが、世間がなんと言おうと娼婦の母に感謝し、誇り、澄んだ瞳で夢を話す子供たち。子供が母親の苦労と悲しみを解っているのが未来への希望だ。そんな人々の逞しさと共に、情報の少ない中米グアテマラの風景や国情がむき出しで映るのもこの作品の見所。第56回ベルリン映画祭で観客賞を受賞しています。


  関西では、2月2日(土)より第七芸術劇場、
                 シネマート心斎橋(モーニングショー)で上映
    順 次、京都シネマ、神戸アートビレッジセンターで上映予定

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