太秦からの映画便り

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

今夜、列車は走る

映写室 NO.148 今夜、列車は走る    
―アルゼンチンで鉄道民営化のあおりを受ける男達―

 今の日本の、高齢化へと歯止めのかからない人口構成や、増え続ける膨大な額の赤字国債、国家予算の多くをその利息の支払いに当てている現状等を考えると、たまらなく不安になる。未来はどうなるのだろう、こんな事がこのまま続けば、この国は潰れると真剣に思う。自殺者は未曾有の数字だし、不況の足音もひたひたと聞こえだした。そんな社会に住んでいるからこそ、この物語の5人の鉄道員の苦悩がリアルなのだ。20世紀末のアルゼンチンの小さな町を舞台にした悲劇に、知らず知らず未来の日本を重ねてしまう。でも僅からだけど、そこに突破口が描かれているのが救いだ。

konya2.jpg

 <舞台になるのは鉄道を中心に栄えた小さな町だが>、国有鉄道の分割民営化のあおりを受けて、路線が廃止と決まった。給料はもう2ヶ月も遅配で、悲観して自殺する者が後を絶たない。鉄道一筋だった主人公の5人の男は、組合長の指導でしぶしぶ辞める事態に。町を凄まじい不況が襲い、次の仕事は中々見つからない。病気の息子を抱えるダニエル、娼婦といい仲のゴメスと、それぞれに事情があった。生きる為に我慢を重ねるが、誇りや夢を失い、食べるに事欠き、貧しさから家族関係もギクシャクし始める。

  <…と、この映画の中高年の男たちに>のし掛かる現実は、書いていても辛い。私の年齢で観るとなおさらで、男の立場で見ても妻の立場で見ても、誰もの事情が身に詰まされるのだ。それまで一生懸命に目の前の仕事に総てを捧げていたから、急激な社会の変化についていけない。そんな無骨さこそが社会を支えてきたと言うのに、非常時にはそれが足枷にこそなれ何の役にも立たないのだ。親切面をしながら仲間を裏切り、一人会社から応分の報酬を得る組合長のような要領の良い男もいるが、取り残され苦境に立たされるのは、何時も底辺で生きる者。実直にこつこつと社会を支えて来た者だった。
  <妻もそんな事は解かっている> でも労わろうと思いながらも、やっぱり自分の不安に負けて、社会への不満を夫に転嫁し、苛立ちをぶつけてしまうのだ。狂い始めた人生の歯車はなかなか元に戻せない。そのあたりの細かい心理描写が丁寧にされている。

 <それでも、息子を残して自殺した仲間と違い>、この5人は抵抗もせずに絶望する事は無い。混沌の中で何とか生きようとする。そこに僅かな希望が見えた。
定年間近だった整備士のブラウリオは、現場を離れたくないと工場に住みつく。がらんとした工場跡で、猫を相手に暮らすブラウリオの意地も、身に詰まされるのだ。(この年でいまさら何処に行けるというのだ)とでも言うような、諦めと覚悟が暗い画面から伝わってくる。この後彼はここで孤独死するのだけれど、これも一種の自殺のようなもの。最後まで鉄道マンとして生き、一人で職場を守った彼を思って慟哭する仲間の嗚咽が重い。もうこうなったら、誰もが鉄道マンの記憶を封印して、前に進むしかないのだ。彼の死はそんな覚悟を仲間に施したとも言える。
 <息子が病気なのにお金が無いと妻になじられ>、ふてくされた表情を見せても、陰では必死で仕事を探すダニエル。まだ若い彼は、妻の為にも息子の為にも、ここで逃げ出す訳にはいかない。もちろん、一家の主としての自分の自尊心もあった。新しい仕事の為にこっそり銃の練習をするから、この社会情勢だもの、観客はよからぬ想像をして心配するのだけれど、終盤に強盗に入ったゴメスと鉢合わせをして、ガードマンだったと解る。隠さなくてもいいのに、鉄道以外の仕事をするのが、ダニエルにとっては身を切られるほどの屈辱だったのだろう。

konya3.jpg

 <その彼と鉢合わせをして修羅場を迎えるゴメスだけれど>、食い詰めた挙句だった。「お金は要らないから来て」と伝言してくる娼婦の恋人がいても、もちろんそんな事が出来るわけもなく、独りぼっち。ゴメスとブラウリオと言う、この中では高齢の、男らしい生き方しか選べない2人が、結局現状を打開できずに死を迎えるのが、なんともリアルだった。2人の男らしさに惹かれながらも、やっぱりここは「面子や意地なんてどうでもいいのよ、そんなものを捨てて生きて」と言うしかないのだ。
 <これ以外にも身に詰まされるエピソードが続く> 働きに行く妻の陰で、前に進めないまま自分で出来る事を探しているうちに、どんどん家を壊してしまうカルロスの、平静を装う影のあせりも痛々しい。皆、生活以上に自分の尊厳を守る事が生きる砦だった。

 <生きる為に現状に蠢く大人だけでなく>、そんな姿を見る若者たちも苦悩していた。自殺で父親を亡くしたアベルと、カルロスの娘とそのボーイフレンドは、自分たちで出来ることを考える。ここには、大人にも自分たちにも希望が無いのだ。この重い空気を取り去りたい、皆を元気つける事はないかと考えて、ある夜、題名にもなっている「今夜、列車は走る」と事を起こして、鉄道員の家族ならではの誇りを示す。
 こんな事で現状が変わるとは思わない。でもガタゴトと走る列車を見る誰もの顔が輝いているじゃあないか。やっぱりこの町は鉄道が命だったのだ。それがあった事を思い出し、誇りを忘れないで未来を夢見れば、必ず突破口はあると若者はおしえる。そんな若者から元気を貰って、この町の男たちも、諦めずに明日を目指せると思える。この映画に映っているのは、年上の世代の重苦しい現実と、それすらも跳ね返せる可能性のある若いエネルギーだ。でも、その若者の行動を引き起こしたのは、生きようと必死になる大人がいたからなのも忘れてはいけない。

 <このところ若者に頻発する硫化水素自殺は>、個人の絶望感だけでなく、社会の閉塞感が加担しているのだろう。でも、未来は変えられる。絶望的な状況でも、誰かと話せばきっと未来への突破口は見つけられると、この映画は教えてくれる。彼らのように、若さの可能性を信じて欲しい。

  この作品は、5/3(土)より、第七芸術劇場で上映
          5/10(土)より、神戸アートビレッジセンター、
                    順次、京都シネマで上映


ディープな情報
 鉄道によって国を発展させたアルゼンチンは、この物語の背景になる91年からの鉄道の分断民営化で、およそ60000人が失業したと言われる。当時は5000%もに達するすさまじいハイパーインフレで、メネム大統領はそれの打開の為に、1ドル=1ペソの固定相場を打ち立てた。一方親米的な立場で新自由主義経済を推し進め、鉄道を始め、石油、郵便、電気、ガス、水道を次々民営化する。又、規制緩和で外資を呼び込み、経済発展を図った。
 この政策で一時は持ち直すが、アルゼンチンは実はこの物語の後でもっと大変な事態になる。上記の政策の結果、失業率が20%にも上がり、貧富格差が広がって、通貨の固定相場も災いし輸出産業が大打撃を受け、経済が急速に悪化するのだ。
 挙句にすさまじいデフォルトで国債は紙屑同然になり、国際的な信用を失墜させる。こうして、新自由主義の優等生とまで言われた、南米では珍しい中流国だったアルゼンチンが最貧国になり、暴動が勃発して国情も悪化していく。ここにあるのはその前夜の物語だけれど、何と今の日本と似ている事か。一時「このままでは、アルゼンチンのようになる」と言われたものだけれど、あの頃よりもっとそうなっていると資料を読んで思った。
スポンサーサイト

天才子役、広田亮平君!

映写室「あの空をおぼえてる」撮影監督インタビュー     
 ―中澤正行さんに伺う撮影テクニック―

 「あの空をおぼえてる」は、映像的にも色々な工夫がされています。その辺りを少しマニアックに、撮影監督の中澤正行さんに伺ってみました。

anoso-1.jpg
  (C) 2008「あの空をおぼえてる」フィルムパートナーズ

<中澤正行さんインタビュー>
―素敵な映画で、自然に涙が溢れました。導入部のビビットな映像とラストシーンの青空に浮んだ風船が今も忘れられません。
中澤正行撮影監督(以下、敬称略):有難う御座います。ビビットさで言うと、それを皆さんの記憶に植え付けたくて、今回ちょっとした仕掛けを使いました。導入部と最後のシーンは、富士フィルムの一番鮮やかなものを使っています。その途中のつまり絵里奈が死んでからのシーンは、逆に彩度をおとしたくて「銀のこし」の手法を使いました。実はこの手法は、元々は市川崑監督の「おとうと」で撮影の宮川さんが開発したものです。その後「セブン」で使われて注目され、今やポピュラーになってホラーやサスペンスではよく使われるんですが、今回の様な明るい話に使うのには抵抗がありましたね。でも前後を際立たせたいと思うと、「銀のこし」の手法は魅力的だった。やり過ぎないように一番効果の出ないフィルムを使ってますから、自然に仕上がっているとは思うのですが。それに極端に彩度の無いものから突然ビビットな調子への変化は不自然なので、途中に普通のものも入れて3段階でいっています。
―技術的な工夫は解らないまま、英治の心象風景が投影されて私に見える画面も暗いのだろうと思っていました。
中澤:そう観て下さるとありがたいですね。こっちはそれを狙っているわけで、いかにもになるのは避けたいですから。空の色もこれだけいいロケーションなのに、途中はいい青空は殆ど映っていないんです。色に餓えさせて、カラフルな色への飢餓感をラストシーンに持ってくるようにしました。ただ映画全体を見ると絵が勝ち過ぎるのは良くない。冨樫監督と組んだ前作の「天使の卵」で、綺麗な風景の誘惑に負けて構図を優先したシーンがあるんです。芝居に観客を引き込む為には、絵的には貧弱になったとしてもこう撮ってはいけなかったと後で気付いたので、今回はその点に注意しました。

―謙遜されているだけで実際にはそんなことは無いと思うのですが、監督はカット割りなんかは解らないので中澤さんに任せていると仰いましたが。
中澤:確かに冨樫監督は、専門分野はそれぞれに任せてくれます。カット割とかは僕がしますし。でもそうは言っても、僕でない他のカメラマンが現場にいたとしても、そう撮るしかない形に出来上がっているんですよ。一応僕が考えた事にはなっているけれど、監督にそう撮らされているというか、結局は監督が支配してるとも言える。もうこれは不思議としか言いようがありません。もしかしたら監督も、自分自身の思いという以上に、脚本とか皆が関わって複合的に生まれたその映画の方向性、映画の動き出した主体性のようなものに、突き動かされているのかもしれませんが。冨樫組の現場にはそんな力があるんですよ。監督と組んで、自分のオリジナリティ云々より自分の意図しなかった現場の流れを映す事が大事だと解かって来ました。とは言っても、未熟なのでいい絵を撮りたいというカメラマンとしてのエゴを捨て切れない時もありますが、それはいけないと反省はします。たかだか自分一人の思いとかで動くと、映画が小さくなる。せっかく大勢で作っているんだから、個人の思いは捨てたほうが色々な力が作用して映画が大きく膨らむ。そう気付いてから、事前にこう撮ろうとか思って臨む事はなくなりました。
―監督のお話でも、皆で作る形の方だなあと思いましたが。
中澤:監督にも大きく分けて二通りのタイプがあって、日本映画で言うと小津と溝口ですね。小津さんはカメラアングルを全て自分で指定したそうです。芝居だけでなく絵も完璧に自分で決めていて、「ここからこう撮れ」と指示したと。だからどの作品を観ても小津色です。ところが溝口さんは、カメラには口を出さず役者に芝居をつけるだけだったのに、出来上がったものを観ると、どのカメラマンと組んでもやっぱり溝口色。小津と同じ様に自分がフレームを支配しています。言わないまでもカメラがそう撮るしかない形が出来ているのでしょう。冨樫監督の現場はそんな感じなのです。

―なるほど。ところで今回カメラマンとして留意されたのはどんな点ですか。
中澤:実は先日東京のプレミア試写会で、久しぶりに広田君や里琴ちゃんに会ったんですが、微妙に大きくなっているんです。まだ撮影から半年ですが、英治役にぴったりと言うには今の広田君では子供っぽさが足りない。逆に子供っぽ過ぎた作品もある。(ああ、絶妙のタイミングであの役柄に重なる彼が撮れたなあ)と嬉しかったし安堵しました。映画にはあの時だからこその、彼のか弱い感じやよるべ無さが映っています。広田君は子供なので日々成長している。天才子役とはいえ、里琴ちゃんとのあの関係性はあの時期だけのものだった。移ろうそれをフィルムに残せたのが今回の僕の一番の仕事だったと思います。
―私もそんな英治に感情移入して、自分の事で精一杯でうじうじと幼い父親にいらいらしながら、切ない気持ちで観ました。かっこいい竹野内さんなんで許せますが。
中澤:竹野内さんはやっぱりスターです。完成したものを見ると、自然に竹野内さんが視線を集めるし存在感がありますね。感情移入についてはそうして貰える様に、と言うか観客をフィルムの中に引き込む様に、フレームの枠を忘れてもらえる様にと、工夫もしています。映画はスクリーンまでの距離や枠を感じさせないで、観客のいるところまで映画の世界を広げないといけない。英治が自宅に帰って廊下を歩くシーンでは、キャメラがトラックアップ(前進移動)していますが、誰かの移動に沿って視界が変る事で、観客はその人物に自分を重ねますから、この辺りからは英治の気持ちになって観てもらえるのではないでしょうか。後、視点とかも工夫するんです。感情移入させたい人の視点の先の物を映して、自分が見た気分にさせると言うようにですが。

anoso-2.jpg

―水野さんも生活感があるなあと思って観て、後で考えると本当はまるで違うカッコいい方ですよね。役で母親に成り切ってらしたのですね、凄いです。
中澤:そうなんですよ、実際はともかく画面の中ではしっかりお母さんです。上手いですよね。監督は演技も特に指示を出さず役者さんに任せるのですが、O.Kまで「もう一遍」とか「もう少し出来るんじゃない」という形でテイクを重ねて粘る事はあります。そうしたからといって、いい演技につながるとは限らないし、粘った結果がそのシーンには生かされない事もある。でも役者さんにとっては何処かでそれが生きているんでしょう。後でそれが効いて、全く別のシーンで現場にいた皆に鳥肌が立つような素晴らしい演技が出たりします。今回は演出のそんな奥の深さも見ました。地方ロケで長い間合宿のような形で撮影したので、再会すると4人は傍目には家族の再会のようですし、僕らスタッフもそんな気持ちです。映画の現場はそんなものを生み出しますね。色々見所の多い作品ですので、コアに楽しんでいただきたいと思います。

<インタビュー後記:犬塚>
 中澤さんには撮影監督ならではの視点で、ちょっとディ-プにこの作品を解説していただきました。それにしても、観客を映像の中に引き込み、感情と言う見えないものを見せる為に、プロは色々テクニックを使っているのだなあと、今更ながらに驚きます。もっとマニアックに「このシーンは、実はこの映画へのオマージュです」と言うお話も伺ったのですが、う~ん、奥が深い。それについては実際に観て探していただくことにしましょう。ヒントだけ申し上げると、「天使」(監督 エルンスト・ルビッチ)の食事シーンです。ディープに観ればいくらでも深くなるのが映画ですね。種も仕掛けもある映画作りの裏側への驚きと、冨樫組の撮影秘話がことさら印象的なインタビューでした。


   この作品は26日より全国で拡大上映中

  「あの空をおぼえてる」
   出演  竹野内豊・水野美紀・広田亮平・吉田里琴・小日向文世
   主題歌 「いつか離れる日が来ても」平井堅
   監督  冨樫森  ・脚本  山田耕大  ・撮影  中澤正行

あの空をおぼえてる

映写室 「あの空をおぼえてる」監督インタビュー(後編)      
―冨樫 森監督に伺う製作秘話―

anosora-s.jpg
(C) 2008「あの空をおぼえてる」フィルムパートナーズ

(昨日の続き)
―この幼さでもう魔性を感じました。こんな娘がいたら父親は可愛くてたまらないでしょうね。それに時々英治と年齢が逆転するようにも見えて。
監督;里琴ちゃんは先日のこの映画のイベントでも竹野内さんにくっついて甘えてましたね。年齢については女の子とはえてしてそういうものですよね。「お姉ちゃんっぽく振舞っちゃうんだよね」くらいの話はしました。ただ子供は朝とか調子が出なくて駄目な時があるんで、僕がするのは元気ないつもの里琴ちゃんになってもらう様に誘導というか後方支援ですね。でも彼女が強い分だけ何時までも出ていると印象が強過ぎて儚さが出ないので、編集で出てるシーンをだいぶ切りました。原作は彼女の死後の英治の手紙という形なので絵里奈は回想で登場しますが、親しい人が死んだ後で登場するのは回想じゃあないんじゃないか。今も其処にいるように感じるのが本当じゃあないかと思って、そんな風に演出しています。でも死んだ人がいる様に作るというのは難しくて編集でも最後まで迷いました。

―水野さんの怒りっぷりもカッコいいですね。母親になって心底怒ってますね。
監督:口から涎を垂らしたりしてね。「貴方が殺したのよ!」って言って泣きながら飛び出して来る。僕はあのシーンで泣けるんですよ。でもさすが役者さんで、カメラやその場面では母親そのものでも、其処を離れると途端にスーッと素になるんです。あのシーンの後も飛び出した勢いのまま詰め物をした大きなお腹をどーんとふざけてマネージャーさんにぶつけたりしてね。皆笑いを堪えたけど、この切り替え役者さんて凄いなと思いました。
―画面からは想像できません。ところで娘と父親の関係というのはこんな物でしょうか。
監督:こんなもんだと思いますよ。男女を問わず、どうしても次の子供が生れるとそっちに目が行って上のこの方はそっちに愛情があると思うもんです。親から見るとそんな事はないんだけれどね。だから父親が「どうして絵里奈だったんだ」と言ったのはどうしてうちの子がという意味なんだけど、それを聞いた英治が「どうして死んだのが英治じゃあなくて絵里奈だったんだ」という意味だと思ったというのはよく解る。この話の大きい所は妹が死んだだけじゃあない。二人が一緒に行って自分は生き残り妹だけが死んだ。自分が生き残ったのは何故なんだろう。僕は何故生きているんだろう、自分が死ねばよかったと思って生き続ける男の子の思いがテーマなんですね。しかも父親も二人だけで行かせた事に責任を感じている。そこから人は何で生きているんだろうという普遍的な命題に突き当たるんです。硬く言えばですがね。英治は臨死体験もしていますし。

anosora-kanw.jpg

―そういえば臨死体験でトンネルが出てきますが。
監督:いろいろな臨死体験をした人の話を調べてみると空へ行く前に必ずトンネルをくぐっている。暗闇から出て後でふわっと抜ける。子供が生れる時の産道もそうですしね、トンネルは生と死を分ける境目なんですよ。映画ではあのトンネルの向こうに消えていった絵里奈というイメージで統一しています。
―そしてラストシーンに繋がると。
監督:この映画のテーマは大きく言うと家族の再生です。少年の成長の物語ではありません。むしろ彼は最初から大人で一家を元気付けようと健気に振舞っている。自分は父親の「どうして絵里奈だったんだ」という言葉を聞いてショックを受けながら生きてきたんだというのを、父親に言えてやっと普通の子供になれた。それまでは別の時空を生きていたんでしょう。彼が子供に戻って素直に親の愛情を受け、元気に走り回れるシーンが必要だった。それがラストシーンです。
―そんな映画を撮られて、監督ご自身何か変られましたか。
監督:家の電話が鳴るとびくっとするようになりました。子供のいない時の電話は怖いね、何かあったんじゃあないかと思うから。携帯はそんな事ないけど。交通事故はたいてい家への電話の「〇〇さんの御宅ですか、こちらは〇〇署ですが…」で始まるんですよ。やっぱりこういう映画を撮ると交通事故とかをどうしても考えますね。この映画は竹野内さんとか子供を含めたファミリーの映画で、それを楽しんでいただいたり久しぶりの竹野内さんをスクリーンで観たい方やそれぞれのファンの方等に観ていただきたいけれど、それと同時に家族の箱を借りて大切な人を亡くしたらどうなるかを描いているんです。誰でもが何時か離れる事を思うと、たいした事のない平凡な日常が大切で愛しく思えてくる。映画をごらん頂いてそんな事をちらっと思っていただければ幸いです。

―この頃の邦画は日常の些細なものを描いたりこのような大作までと色々ですが。
監督:僕は作家ではないので、信頼できる優秀なプロデューサーと組んで一緒に作る形が好きです。映画を観た後で監督の顔が前に出るのは好きじゃあない。むしろ顔を消したいと思う。観客が登場人物と同じ気持ちになって泣いたり笑ったりしてもらうのが好きなんです。そうは言っても機会があれば変った物を撮るかもしれませんが、それでも監督色よりも登場人物が強いほうが好きですね。映画は共同作業なので、プロデューサーに始まり色々な分野の皆さんに助けられて作ります。現場でもそれぞれの専門領域は僕には解りませんから、信頼できるその分野のプロに任せている。今回も役者さんやスタッフ等皆に助けられて作りました。そんな映画作りのファミリーの匂いもこの映画に映っていると思います。ぜひ大勢の皆さんに御覧頂きたいですね。

<インタビュー後記:犬塚>
 拙く生意気な質問に丁寧にお答え下さいまして、有難うございました。寛大な監督に甘えさせていただけた事を心からお礼申し上げます。冨樫監督は初対面の私にもそんな事をさせる懐が深く丁寧な方で、そんなお人柄に惹かれて、役者さんもスタッフもわが身を奮い立たせ後一歩の高みを目指すのではと想像しました。作品から顔を消すという謙虚さが又監督の自信でもあり作風でもあって、出演者誰もが映像の中で自然に存在しています。監督の目論見どおり、時にはカッコいい竹野内さんのうじうじと自分を責める父親に感情移入し、時にはお母さんの水野さんになり、やっぱりそれ以上に今や誰もが認める名子役、広田亮平君の健気な英治になって胸をジーンとさせました。お転婆でエキセントリックな少女をきらきらと演じる古田里琴ちゃんの今この時の煌きも見逃せません。映画館にはハンカチを用意して出かけてくださいね。
 ところでこの映画はテーマ以外にも見所が一杯。舞台になるこだわりのお家も素敵ですし、爽やかな風を感じる地方都市の空気感や、お洒落な暮らしぶり、ポップでカラフルな映像、それに何より素敵なファミリーが見所です。悲しい題材を扱いながら、観終えた後に残るのは鮮やかな色彩の生きている素晴らしさや再生の力。風船を飛ばした爽やかな風の匂いが残っています。


    4月26日(土)より全国ロードショー

7年ぶりにスクリーン登場の竹野内豊さん

映写室 「あの空をおぼえてる」監督インタビュー(前編)      
   ―冨樫 森監督に伺う製作秘話―

 娘を亡くして立ち直れない両親を、自分も傷付きながら健気にも一人で元気付けようとする少年を描いた、ジャネット・リー・ケアリー原作の「あの空をおぼえてる」が、竹野内豊さんを主役に向かえて映画化されました。竹野内さんは実に7年ぶりという久々のスクリーンで、しかも今回は父親を演じます。メガホンを取ったのは丁寧な心理描写で定評のある冨樫 森監督、映画への思いや製作秘話を伺いました。

anosora-kan.jpg
(4月11日 大阪にて)

<その前に「あの空をおぼえてる」とはこんな映画>
 地方都市で写真館を営む父とお腹の大きいリトミック教室の先生の母、小学4年生の英治と幼稚園児の絵里奈の4人家族は、楽しく暮らしていた。ところがある日子供二人で町に買い物に行って車にはねられる。英治は一命をとりとめたが妹は死んでしまった。家は火が消えたようになり、英治は妹の分まで両親を元気付けようとするが…。

<冨樫 森監督インタビュー>
―凄く素敵な家族でしたが、キャスティングはどんな順番で決まったのでしょうか。
冨樫 森監督(以下監督):まず父親役の竹野内さんですね。娘の死から一番最後まで立ち直れないナイーブな設定ですが、竹野内さんならそんな繊細な表現が出来るのではないかと思いました。少し影を感じさせる俯きがちな目線を下へ落としている風情が、この父親役にぴったりだと思ったのです。手だれた役ではなく映画では始めての父親役をやってもらうのも、どんな風になるかとこちらは楽しみじゃあないですか。次に決まったのは母親役の水野美紀さんで、映画のネームとしては次に大きいですから。こちらは竹野内さんと同じ方向じゃあない人がいいなと思いました。母親役に求めたのは、行動的で明るくて、元気でパッと咲いたひまわりのような感じの人ですね。元々明るい人で、お腹が大きくなるに連れてだんだん変っていくのがいいなと。
―拝見しますとそのあたりが絶妙のバランスでした。
監督:最終的に絶妙のキャスティングだと思ってもらえるように、現場の皆で持っていくものなので、キャスティングをした時は一種賭けなんです。映画を作っていく中でそれぞれが役と重なり絶妙なバランスになって、結果として上手く行くといいなと思います。

―その後で子役ですか。
監督:途中から平行して選考は進んでいるんですが、最終的に子役が決まる頃には両親が決まっていました。広田君は「涙そうそう」の頃から気になっていて、彼がオーディションに来てると聞いて(あ、あの子来てるな)という意識は僕の中にあります。もちろんそれでも広田君よりいい子がいれば別ですが、圧倒的に彼が良かった。飛び抜けていましたね。
―どんな所がそう思わせるのでしょうか。
監督:映画を観ても解るし実際に本人に会ったらもっと解るけれど、「これが英治でしょう!」というような英治そのものの本当にいい子なんです。彼と一緒に映画を作りたいと思った。スタッフ全員から可愛がられてましたよ。それが映画に出てるといいなと思います。で最終オーディションの時には竹野内さんも来てもらって、並んだ時に似合う人を選んだと言う事です。
―そうやって絶妙の素敵な家族が出来上がったと。
監督:それには竹野内さんの存在が大きかったです。かっこつけないで、現場で自分をさらけ出して母親や子供達に向き合ってくれた。チラシの4人並んだシーンとかでも竹野内さんがすっとお母さんや子供に手を回すと、自然に皆が寄り添っていく。さり気無く現場の空気を作ってくれたんです。無理して父親になろうとしてもそんな物は伝わりますから。後は、家の雰囲気とか母親と娘が同じ様な服を着たりとか、そんな総てで家族が出来たんだと思います。

anosora-m.jpg
(C) 2008「あの空をおぼえてる」フィルムパートナーズ

―服もそうでしたし、この家族が暮らすのはとても素敵な家でしたね。
監督:あの家がこの映画のトーンを作っていますね。この映画はほとんどが家の中である家族劇なので、舞台になる家を見つけるのは大切でした。実はこんな事は初めてなんですが、写真は色々見ましたが実際の家を見たのはあの家だけで、他は一軒も見ずに制作が決めてしまったんです。戸惑った僕が「おい、此処だけかよ」と言ったけど、制作が「此処しかないですよ」と言い切りましたね。
―制作さんもよほどの自信だったと。しかも撮影を快諾してくださったとか。
監督:そうなんです。撮影は3週間位の予定だけど、準備等を入れて1ヵ月位かかる。人が住んでいる家をその間空けてもらうなんて普通は無理なんだけど、実家が近くにあってそれも上手くいきました。住んでいたのが壁一面の棚にズラッとビデオが並んでるような、凄く映画が好きなご家族だったんで協力してもらえたのでしょう。あれは松山邸と言うんですが、映画に映ってる三角形のテーブルは、E.T.の映画を見てもらうと解るんだけど、それに出てる物なんです。E.T.が好きだから、E.T.と同じ物をアメリカで探して船便で送っている。大きな冷蔵庫も向こうで買って送ったものですし、トム&ジェリーの穴が作ってあるような家なんです。
―遊び心一杯ですね。インテリアが素敵なのに生活感もあって凄いなと思って観ました。監督:調度はほとんどそのままで、可愛い小物とかを飾り付けたくらいです。交通事故という悲惨な話なんであまり地に足のついた雰囲気だと暗くなるから、明るく楽しい物を配して少し持ち上げてやったほうがいいのではと思ったんです。それにあの家は松山さんが自分で建てたもので、そんな愛情や暖かさも漂っているでしょう。

―え、御自分で建てられたんですか。
監督:ええ、自分で設計図を引いて土台だけは地元の大工さんにやってもらって後は自分で建てたんです。それが「自分で建てた憧れのアメリカンハウス」という本にもなってますね。実は松山さんのご家族がこの映画と同じ構成の4人でとても仲がいいんです。楽しそうで。あの家に漂っているそういう空気感が映像に映っていますね。後、庭のツリーハウスですが、最初はツリーハウスを建てれるような大きな木が庭にある家と言ったら、後ろに山を抱えるような家だろうと思っていたのに、そんな家が田んぼの真ん中にあったんだから驚きますよ。
―凄い幸運ですね。ツリーハウスは今も残っているんですか。
監督:ええ。美術さんが松山さんにプレゼントしたんですよ。建てる時は松山さんも手伝ってます。しかもさっきの本の最後に「これから作りたいものはツリーハウス」と書いてあってそれがこの映画で実現したんですよ。実はリビングに大きなストーブがあって、撮影は10月でまだ暑くて駄目だったけど、冬にこのストーブを焚いてその前でTシャツ1枚でバーボンを飲んで眠るのがこっちは僕の夢で、撮影の後でわざわざ助監督と一緒に行ってそれをやって来ました。東京の宣伝の人達もわざわざあの家を見に行ってるんですよ。
―皆をワクワクさせる家ですよね。映画公開で名所になりそう。そのテンションが残っててセットだと言う子供部屋も暖かくて楽しいのですね。
監督:それもあるけれど、その辺はデザイナーの中澤さんが上手かったんでしょう。コンセプトがあって英治の部屋は標本箱のようにとか、絵里奈の部屋も可愛いですしね。

―実は原作等何も知らないで観たのですが、前半の絵里奈のテンションの高さが刹那的で(あ、彼女は死ぬな)と思いました。演出的にそんな意図があったのでしょうか。
監督:数少ない生きてるシーンなので、元気にパーッとがいいかなと。後に残った3人にはそんな風に見えただろうということです。記憶ですから。まあ実際テンション高いですよね。実際にあんな子がいたら賑やか過ぎてうるさいでしょうね。
―そんな演技とかは監督の指示ですか。広田君も抜群に上手ですが。
監督:いや僕は演技はつけません。広田君なんて全く彼の力です。皆脚本を読んでこの役についてますから、それぞれがやるべき事を解っています。こう動いてとかは言いますが、後は総て役者さんに任せる。監督というのは役者がやり易い様に、一番いいところを引き出せる現場にして、その時にカメラが回っているようにするのが仕事です。演技の具体的な指示をする事はありません。特に主役のこの3人に、ああしろこうしろと僕が言わないといけないようでは駄目ですよ。「もうちょっと感情が出るでしょう」と言って、テイクを重ねてそれよりいいものが出るのを待つんです。絵里奈のテンションの高さもそうで、どういう事をやればいいかを自分が解っているんです。    (この続きは明日) 
                  
  「あの空をおぼえてる」は、4月26日(土)より、全国ロードショー

大人も子供も満足する作品

映写室NO.147 スパイダーウィックの謎&
       さよなら。いつかわかること

  ―死生観や、子供の気持ちと大人の気持ち― 

 大型連休も目前。今週はそんな時節柄に合わせて、家族連れで観れる、大人も子供も満足する作品のチョイスです。妖精と人間の対決という風変わりなファンタジーと、混迷するイラク戦争から今もって抜け出せないアメリカの、銃後の家族の姿という対照的な2作品は、子供の視点で見ても親の視点で見てもいい。しかもそれぞれから浮かび上がるのはしみじみとした世界感。それが深い。明日記載の作品も含めて、G.Wは世界の天才子役たちの競演です。

1.スパイダーウィックの謎

supaida-m.jpg
(C) 2007 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

 <このところ映画界はファンタジーブーム>だけれど、本家イギリスからではなく、「E.T」や「ジェラシック・パーク」を生み出したアメリカの敏腕プロデューサーから届いた本作の、扉の向こうへの入り口は少年のアドベンチャー精神だ。この作品心理描写も細かい。楽しませながらここまでの世界を描くなんてと、すっかり魅了された。
 <双子のジャレットとサイモン(フレディ・ハイモアの二役)>は、両親の不仲でしぶしぶ姉と母の4人で、森の中の古い館に引っ越してきた。どうしたことか館には大量の蜂蜜とトマトソースがある。ある日靴下が片方無くなり、ドアの向こうで何かが動く。ジャレットは自分達の他にも誰かいると館を探検して、“決して読んではいけない”という警告のついた1冊の本を見つける。それは80年前ここに住んでいたアーサー・スパイダーウィック大叔父さんの書いた妖精の手引書だった。

 <こうして見え始めたパラレルワールド>、彼が禁断の本を開いた時から、この一家は引き返せない世界に足を踏み入れていく。そこは妖精の世界で、醜い妖精もいれば綿虫のような儚く美しい妖精もいる。C.G技術を酷使した不思議な妖精が一杯登場するが、生存をかけて人間と戦ってくるのだから、妖精と言っても侮れないのだ。写真の先祖が妖精から我が身を守った最後の砦がこの館だった。沢山あった蜂蜜やトマトソースの謎も解けてくる。このあたりは複雑なストーリー展開に身を任せて、ハラハラどきどきと劇場で2時間の旅を楽しんで欲しい。

 <それにしても男の子はどうして冒険が好き>なのだろう。駄目だと言われると必ずそこに足を踏み込むし、見るなと言われたらそれを見ずにはおれない。主人公のジャレットがまさにそんな少年だ。観客は(止めて!)と袖を引っ張りたいほどに心配しながら、彼の後ろに隠れるように従い、気がつくとこの映画の世界に入っている。そんな風に導入しているから観客は常に恐怖感が拭えないが、それも醍醐味。単純な私はフレディが二役を演じている事にも気付かず、心臓をバクバクさせてひたすら映画の世界をさ迷っていた。「ネバーランド」、「チャーリーとチョコレート工場」等々、私はいつもこの天才子役にやられる。恐るべしフレディ・ハイモアだし、「イン・アメリカ‥‥」でお馴染みのサラ・ボルジャーの演じる姉の可愛さや勇敢さも見逃せない。
 <この映画が素晴らしいのは>、そんな架空の世界を舞台にしながら、両親の離婚という事態を子供がどう受け止めどう乗り越えていくかという現実を、少年の揺れる心に寄り添いしっかりと描いているところだ。子供の大人度に、大人だったら胸を突かれるだろう。
 物語は終盤思わぬところまで観客を連れて行く。序盤の複線が生かされ、たどり着くのは意外な死生観。私はここでノックアウトされた。

   4月26日(土)より、TOHOシネマズ梅田、TOHOシネマズなんば、
              TOHOシネマズ二条他、全国でロードショー



2.さよなら。いつかわかること

sayo_m.jpg
(C) 2007 The Weinstein Company, LLC. All rights reserved.

 <アメリカは今大統領選挙の予備選の真っ最中で>、民主党のオバマ氏とクリントン女史の争いに世界中が注目するけれど、この映画はそんな報道にばかり気をとられ、私たちが忘れがちなアメリカのある種の現状を静かに伝える。イラク戦争を戦場や中東側から描く映画はあっても、銃後の、それも母親が兵士という一家の姿を描いた作品は初めてだ。
 <シカゴのホームセンターで働く>スタンレー(ジョン・キーザック)は、ある日イラクに兵士として赴任中の妻の死を伝えられる。幼い娘たちにどう伝えようと迷うばかりで、外食に連れ出したまま衝撃的にフロリダの遊園地まで出かけてしまう。12歳のハイディはそんな父を訝るが、8歳のドーンは大ハシャギだ。夜になると自宅に電話し留守電の妻の声を聞くが、なかなか娘たちには本当の事が言えない。

 <こうして書くと軟弱にも見える父親だけれど>、銃後の家族の心痛が痛々しい程に伝わってくる。母親が心配で父のいない時にこっそり戦争のニュースを見るハイディ、母親と同じ時間にお互いを思いあう約束をしているドーン、そんな2人の娘以上に妻の身を心配をしているものの、表面的には平気を装う父親と、それぞれの家族の様子がなんともリアルなのだ。反抗する事で父親に不安を伝える娘たちの姿は、赴任したのが父親で母親が残された場合とは明らかに違う。妻の訃報で全てがどうでもよくなって、さ迷うスタンレーや、些細な事に反応して不吉な予感に怯えながら、それでも信じたくないから考えるのを止めるハイディに、たいていの観客は感情移入するだろう。自分すら受け入れられない妻の死を、娘たちに話せなくて一人苦悩する父親の慟哭が、なにより身につまされる。
 <日本にいると信じられないが>、具体的な数字を挙げるとアメリカの現役兵士の14.3%が女性だし、その内約40%に子供がいるという。しかも07年11月末のイラク戦争のアメリカ軍戦死者3879名中、女性の戦死者は93名にも上がっている。(アメリカ国防省データより) 
スタンレーの妻はその中の一人だったのだ。この作品はそんな兵士の残された家族の悲しみを丁寧に描く事で、今も続いている戦争の悲劇を浮かび上がらせる。この一家の苦悩や悲しみはアメリカ社会のものだと思う。イラクにとってもアメリカにとっても、争いは悲劇でしかない事を改めて教えられる。
 自分の作品で音楽も手がけ、そのセンスが高く評価されるクリント・イーストウッドが、始めて単独で音楽を提供しているのも見逃せない。

  4/26(土)より、梅田ガーデンシネマ、シネカノン神戸で上映
        6/7(土)より京都シネマで上映予定

問題作の凱旋上映・後編

映写室「おそいひと」監督インタビュー(後編)     
―柴田剛監督に伺うこの作品の誕生秘話―
osoihito-2.jpg


(昨日の続き)
―話が前後しますが、この映画で優しさの影の自分の傲慢さを観たようで落ち込みました。
監督:この映画で直接差別される所を描いてはいません。でも描いてない行間で観客自身の感情を引き出し、揺さぶるようにしています。差別と遠慮や優しさは重なる所があるんです。健常者の僕らはどこかで障害者に遠慮している。実は僕も、もっと向かってきて欲しいと言われました。撮影の為に自分の差別意識を曝け出して、毎日喧嘩だった。差別というのを画面の中に閉じ込める為に喧嘩しようと思いました。遠慮を捨てて障害者の中に入ってカメラを回したからこそ戦友になれたんです。
―そんな風にして親しくなった敦子が「普通に生れたかった?」と尋ねるシーンがありますね。ドキッとしました。もちろん私はそんな事が言える所まで入れないし、彼女よりもっと悪いのかもしれませんが。
監督:それでもヘルパー暦10年の方だったら、どんなに親しくなってもそんなことは言わない。あの言葉は失言ですよね。普通という言葉自体が曖昧で、障害者を異物と見てるってことですよね。ポロッと出てしまった本音。まあそれだけでなく、ずっと一緒にいて仲間になって、そんな所から出た言葉でもある。敦子がもう自分は言える関係だと思ったから言った言葉で、彼女の表情も全く普通だった。でも言った後でやっぱりまずかったと言う空気は映っています。住田さんの「コロスゾ」と続く訳で。そんな事を平気で言うヘルパーさんもいて、言われた方もげらげら笑ってる事もあるから、その辺は微妙な関係性ですが。小児麻痺の人たちはなぜか実年齢より肉体が若く見えてしまうんですよ。住田さんにしても結構な年の大人なのに、僕らがタメ口をきいてしまうような若さがあります。彼らは言わないけれど、若く見えてそれで精神年齢まで低く見られたような会話をされるのが腹立たしいんじゃあないかなあ。

―それと彼女の言葉には諦めた思いに火をつけたようなところもありますよね。
監督:若い頃は不自由な体に苦しんだ事もあるでしょう。それで自殺する人もいます。でもどこかで強くなって、豪快に笑い始めた。辛いのは当然だけど、その瞬間を笑う事を選択して生きている。それに小児麻痺の人はひょうきんな人が多いんです。動きがコミカルなのもあるし、笑うしかしょうがないと諦めた達観からかもしれませんが。彼らを見ていると癒されます。健常者よりも武装を解いて生きてますね。幼年期に自立する為に他者に対する防御を取っ払っているんです。この「おそいひと」自体が映画界に対して精一杯そういう姿勢で作りました。障害者の心が映っていると自負しています。まあそれは住田さんが作ってくれたもので、こういう作業を通して障害者とはどういうものかを教えて上げると言われました。住田さんには喜怒哀楽のすべてが詰まっている。本当は誰でもそうなのだけど、住田さんは隠さずにそれを貫けた。体のハンディがあるから弱く生きる事が出来ない。強く生きるしかなかったんです。本当は女性の障害者も描きたかったんだけど、住田さんに止められました。会いに行ったんですけどね。映画は時に悪乗りしないと出来ない。住田さんは自分はそれが解っているからいいと。でも女性の障害者にはそんな事は出来ない、しないで欲しいと。
―色々な物を跳ね返す大変さを知ってるからでしょうね。
監督:其処に住田さんの優しさという女性差別もあるのでしょうが。見ていてやっぱ切ないですしね。
―そこに住田さんだけでなく監督の優しさという差別も重なるという事ですね。本人は案外大丈夫かもしれませんよ。まあ、それでも後でフォロー出来る環境がないと。
監督:其処の所は、環境が整って次の世代が取り組むことですよね。日本だと時間がかかるだろうなあ。

―だからこそ色々な方に観て欲しくて、上映がレイトショーというのが引っかかります。これを作った人と同じ視点の人だけが観る事になるなと。
監督:そうなんですよ。僕が東京の上映館を決めたのもそこがバリアフリーだったからです。時間も、誰かに遠慮しないで障害者が気楽に来れる時間帯に上映したい。映画を見に行くのに、ヘルパーがいなくても一人で行けたらいいなと思います。大阪もレイトショーでスタートしますが、人が入ると昼間にかかるので、ぜひヒットさせて拡大上映に持って行きたい。この映画で障害者の方が外に出るきっかけになるといいと思うんです。彼らと付き合って色々教えられた事があって、ステップバスとかも、「僕らが楽だったら健常者だって楽なはず」というんですよ。
―確かにそうですね。ところで題名ですが私はてっきり「遅い人」だと思っていました。
監督:僕も最初そんな意味でつけたんです。体が不自由だからどうしても動作が遅いと。自分の1作目から2作目までが5,6年かかっているのでその遅さも含めています。それと引っ掛けて、映画を観ていただけば気が付く、もう一つの「襲い人」ですね。そのあたりは住田さんの渾身の演技を観て下さい。

<インタビュー後記:犬塚>
 大好きな「シマフィルム」が又もややってくれました。重度障害者が体を使って人を殺すというこの映画は、過激でもあるけれどそれ以上に真実をついてくる。優しさや遠慮に潜む差別という痛い所を描いた繊細な映画です。誰もがはっとするでしょう。監督は大阪芸術大学の出身、舞台になるのも主演の住田雅清さんが住むのも大阪。しかも大阪芸大を中心にした監督の仲間達が結集して作られています。この映画はそんな意味でも、関西に住む私たちにとってまさにお帰りなさいです。2004年の完成から受難の旅でした。
 ところで色々なお話を伺いながら、監督自身を「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」のオダギリー・ジョーさん演じたリリー・フランキーさんに重ねていました。何時かこの映画の製作秘話が映画になるかもしれませんね。ドラマティックで、揺るぎのない映画への情熱が凄い。若い、これからもっと伸びるに違いない才能に出会って、うきうきとした帰路でした。夏公開の次回作も待機中。


  この作品は4月26日(土)より大阪第七芸術劇場で上映。
         監督や主演挨拶等のお問い合わせは(06-6302-2073)まで
        5月京都シネマ、
           順次神戸アートビレッジセンター、福知山シネマ等で上映。

柴田剛監督の問題作が大阪で凱旋上映

映写室「おそいひと」監督インタビュー(前編)
     ―柴田剛監督に伺うこの作品の誕生秘話―
 海外の映画祭で絶賛されながら、障害者の犯罪を描いた過激さから日本国内での公開が決まらなかった問題作「おそいひと」が、とうとう舞台になった地元大阪での上映まで漕ぎ着けました。単館のレイトショーから始まって、拡大上映のロングランにまで持って行った東京興行で勢いをつけての凱旋です。監督の柴田剛さんにお話を伺いました。

osoihito-kan.jpg

<その前に「おそいひと」はこんなお話>
 ボイスマシーンで会話する住田雅清(住田雅清)は、重度の脳性麻痺を持つ身体障害者だ。電動車椅子で移動し、サポートを受けて一人で暮らしている。介護のバンドマン、タケ(堀田直樹)とは友達みたいなもので、一緒に酒を飲んだりとつるんでいる。ある日、大学の卒業論文の為に介護を経験したいと言う敦子(とりいまり)が現れる。住田の何かが蠢き出して、怒涛の結末へと走り始める。

<柴田剛監督インタビュー>
―健常者の思い上がりや傲慢さを思い知らされたりと色々痛いところを突かれて、観終えてすぐは言葉も出なかったのですが、この作品はどんな状況から生まれたのでしょう。
柴田剛監督(以下監督):この作品は8年位前に撮ったもので、僕は大学(大阪芸術大学)を卒業して1,2年目でした。卒業制作で「NN-891102」と言う作品を作ってあちこちもって回った後で、自主制作映画の作り方を探っていた頃に、この企画が来ました。
―ご自分の企画ではないのですか。
監督:ええ違います。映画を撮りたくて模索していた時にテーマが入って来た。僕の映画作りはいつも仲間と一緒に、たいてい5人位でイメージを膨らませていく方法です。住田さんの介護者をしていた大学の先輩、この映画のタケにあたる立場の人から、「住田さんと言う面白い人がいる。毎日仕事と言う名の飲み会やで」と聞かされました。僕は音楽をやってて、仲間に時間が自由になる介護の仕事をしてる人が多かったんです。でも撮らないかと言う話を、一度断ってるんですよ。「僕は障害者じゃあないから」と言って。
―難しいと思われたと。
監督:まあちょっと躊躇がありましたね。でも住田さんに会ってみると魅力的で、この人なら引っ張って行ってくれるだろうと思い直しました。当時は介護保険が出来る前後で、ヘルパーと介護される人には相性があるのに、国にコントロールされるのはおかしいと、障害者が抗議していた時期なんです。障害者の立場で言うと、ヘルパーは下の世話から3度の食事までお世話する生活密着型の、いわば友人以上仕事未満の関係なのに、資格が必要になって云々言うのはおかしい。どうして国が介入するんだと、この映画にも登場する福永さん等があちらこちらで訴えていました。そんな時代背景や提起されたテーマ、障害者と言うと差別は避けて通れません。人が生きるうえで差別はつき物で、大きなテーマなんで、映画でそこにちゃんと向き合おうと思いました。

―そうして走り始めたと。
監督:映画作りにはお金がいるんで、話を神主さんに持っていって、380万お金を出してもらいました。差別についての歴史や色々な話を伺ったりもしましたね。でも僕らも若くていらない機材を買ってしまったり生活があったり、あっという間にお金が無くなって、途中で頓挫してそのままになっていたんです。辛かったですね。住田さんにも頑張ってもらったし何とか完成したいけどどうにもならない。2000年頃の関西はひどい不況で、ワーキングプアと言う言葉も無い頃ですが、本当に仕事が無かった。スーパーの下ごしらえのアルバイトすら、雇う方は僕らより主婦のほうが便利だったりで。住む所もなくて、2年間あちこち友達の家に転がり込んだりとかして、ひどい時には1日100円で暮らすような、履歴書に張る写真代が無いような生活をしました。

―でもこれの製作はシマフィルムですが。志摩さんとの出会いはその後ですか。
監督:そうなんですよ。何処にも拾ってもらえそうもない映画を作って、仕事もなくてと腐ってたら、学生時代の友人が自分たちのライブのドキュメンタリーを撮れと声をかけてくれて、撮ったんです。その打ち合わせの時に舞鶴の人がいて、「柴田君は映画を撮るらしいなあ。舞鶴に志摩さんという映画に出資する人がいるから会ってみたら」と教えてくれたんですよ。早速借金をしてそれまで撮った分のテープを持って舞鶴まで飛んで行きました。一緒に食事して話したんですがその後半年位返事が無くて、(駄目だろうなあ)と思ってた頃に、あ、その頃は僕はもう関西を諦めて東京に行ってたんですが、東京に志摩さんが来ると聞いて、もう一遍と思ってピアのスタジオを借り、「NN-891102」を観てもらったんです。お金は無いけど自分も映画監督としての矜持がある。スクリーンで観て欲しいと思ったんですよ。そしたら志摩さんが「面白い。帰ってあのテープも見る」と言ってくれて、そこから「これいけるで」と返事を貰って、「企画書を出せ。お金は何ぼいる」と言うから、自分の抱えてた借金も包み隠さず「これがあったら気になって映画が作れない」と全部差し出したら払ってもらって、完成に漕ぎ着けたんです。
―凄い出会いでしたね。実は独特の痛さを追求するシマフィルムの作風が好きなんです。
監督:(色々シマフィルムのパンフを並べて)これでしょう。その話が丁度「ニワトリはハダシだ」のクランクインの頃で、志摩さんからそれのメイキングを撮れといわれたんですが、「自分の作品に集中できない」と断ったんですよ。完成したのを観て(この現場にいたかったな、撮ればよかった)と後悔しました。今回東京の興行が良いと、「まだ続く。はいっとるんや」と志摩さんから電話があるんですが、「嫌なんか!」と一人で突っ込んでます。
                           
osoihito-1.jpg

―そんな風に苦労して完成させても公開までに時間がかかりましたね。海外では好評だったのでしょう。こんな設定に住田さんの反応は如何でしたか。
監督:日本の反応と一緒です。良いと言う人と、障害者が犯罪を犯すという一種アンタッチャブルな所に突き進んでいるので、偏見を生むという人もいます。こんな人を主役に据えるのが偽悪的だとも言われました。住田さんは元々俳優さんなので、基本的に僕に委ねてくれて、状況を面白がっていましたね。例えば横断歩道を渡る時でも、向こうから障害者が来たら、何がしかの緊張を持って信号待ちの間は見れても、すれ違う時にはたいていの人が目を逸らすでしょう。彼らは何もしないと当然のように安心感を持っている。どうして障害者が安全だと思うのか。その辺りも弄りたかった。実は最初の編集ではもっと長かったんです。僕がナレーションで住田さんの感情を入れた、笑いあり涙ありのものだった。でもちょっと散漫だから切ってしまえと83分にした。そしたらそれを観た住田さんがホラーだと言うんですよ。前の方が良いと。で僕が、「流れに沿って話を深めていくと、使えない肉体を使って人を傷つける方向に加速するんだから、覚悟して下さい」と言いました。ロッテルダム映画祭に住田さんと一緒に行ったんですが、映画好きの人が集まるところでお披露目して拍手を受け、生で手ごたえを感じてからは僕の味方になってくれた。今は宣伝等色々協力してくれてます。映画の中の住田雅清は住田さん自身でもあり、半分は監督の僕です。         (続きは明日)

    この作品は4月26日(土)より大阪第七芸術劇場で上映。
        監督や主演挨拶等のお問い合わせは(06-6302-2073)まで

子供以上大人未満の少年の痛々しい心

映写室 NO.146 パラノイドパーク    
     ―日常が変わった事件―

 16歳のアレックスは、(僕は普通だった。あの事件が起こるまでは…。)と呟く。あの事件とは何か。始めたばかりのスケートボードに夢中で、もっと上手くなりたかっただけなのに、ふとした偶然から誤って人を殺してしまうのだ。どうしてこんな事が自分に起こったのかと震える彼が、そのまま自分に重なり背筋が凍った。私だったらどうするだろうと考えても答えは見つからない。子供以上大人未満の少年の痛々しい心を描いて、2007年のカンヌ国際映画祭で60周年記念特別賞を受賞しています。

paranoid-m.jpg
(C) 2007mk2

 <映画は草原のベンチで何かを書いている>少年を映して始まる。カメラがロングに変わるとそこは郊外で、町の手前の大きなつり橋のミントグリーンが美しい映像に被さる音楽はニーノ・ロータ。ピアノの旋律も軽いジャズ調で、最初のシーンだけでこの作品のセンスを確信する。実際エンドロールの男性ボーカルまでの音楽が絶妙のバランスで続き、最初から最後まで全てにおいてセンスのいい作品だった。音楽も映像も今の匂いを含みながら何処かふわふわと現実を離れ美しい。透明な空気感が少年の精神世界と繋がっていく。
 <舞台になるのはアメリカ、オレゴン州>のポートランドという、都会と田舎が共存する地方都市。原作はこの町出身のブレイク・ネルソンで、ガス・ヴァン・サント監督もポートランドを拠点に映画を作っており、公募で選ばれた主演のゲイブ・ネヴァンスもこの町の高校生と、この作品に関わる多くの人がこの町で暮らしている。そんなところからも漂うこの町の空気感も映画の大切な要素だ。そこに滑り込むちょっと異質な伝説の公園を鍵にして、思春期の若者の揺れる心がリアルに描かれる。

paranoid-s.jpg

 <脚本も巧みで>、構成は少年が父親に手紙を書く形で、自分に起こった事件を少しずつ告白する形をとっている。ここでは便宜上最初に書いてしまったけれど、平凡な一人の少年に起こったおぞましい事件は、やっと中盤で解かることになる。それまでは彼の日常を追い瞳に影を落とす憂いが何なのかは探りきれない。事件と思春期の憂いがオーバーラップしていく。私たちの日常で何か事件が起こって、周りがその真実にたどり着くまでの過程と一緒だ。
 <アレックスは友人に誘われ始めて>「パラノイドパーク」に行く。ここは治安が悪いけれど上手いスケートボーダーが集まるので有名だ。週末にも行こうと約束するが、友人は彼女と旅行で一人になった。ぼんやりしてると不良グループに誘われ、一緒に貨物列車に飛び乗る遊びをしてると、警備員が走ってきてこん棒で殴られる。危ないからボードで振り払うと警備員が転び、ちょうどそこに列車が入って来た。…こうして事件が起こりアレックスの日常はひっくり返ったのだ。といっても表面的にはそんなに変わりがない。激しく動転したあの夜を忘れたかのように、家や学校では平然としている。心は別の時空をさ迷い始めたが、とりあえずは生きる為にも平然を装う以外方法が無かったのだ。

 <彼の両親は離婚協議中で>父親は家を出ていて、ストレスからしょっちゅう食べ物を戻す繊細な弟と母親の3人で暮らしている。あの夜だってそんな事情や、彼の気持ちなどお構いなしで早く処女喪失をしたいだけのガールフレンドの事等、未来の見えない自分に鬱々としていたからこそ、不良の誘った遊びに乗ったのだ。それでなくても思春期は、大人と子供の狭間で自分でもどうしたら良いのか解らない混沌の中にある。父は家を出る前に何か相談があれば力になりたいと言ったけれど、あの夜電話しながらコール音の途中で切ってしまった。ガールフレンドや友人に話そうにも何かが違う。(早く人を呼ぼう!)とあせりながらとうとうそれが出来なかったあの夜のように、誰にも相談できず自分でもどうしたら良いのか解からないまま、ずるずると日常が進んでいくのだ。

 <このあたりの戸惑いを宗教画の天使のような風情の>ゲイブ・ネヴァンスが、大きな瞳をこちらに向けて静かに表現する。まるで見えない未来を探しているようだった。この少年にこんな秘密があるなんて、誰に想像できるだろう。事件が起こるとよく両親や先生が「子供の苦悩に気付かなかった」とコメントするけれど、幸運にも無事に大人になる者でさえ、危ういトンネルを抜けるのが思春期だと思う。事件が決して彼の悪意ではなく、整備員の過剰さや不運や過失等を含むだけに、思わず逃げ出した気持ちも痛いほどに解かる。こんな事態になったアレックスが哀れで、運命の過酷さや思春期の曖昧さを思わずにはいられない。
 アレックスは全てを綴った後で>、父親に見せるだろうか。いつか誰かにこの話をするのだろうか、警察は彼を逮捕するのだろうか等々映画では全てが曖昧で答えを見つけられない。アレックスに原作者や監督の思春期の姿が重なる。事件はともかく、こんな重さを持って思春期を潜り抜けた者が、作家になるのだろう。一人の美しい少年を通して、思春期の惑いを痛々しいほどにリアルに描いた作品です。(R-12)


    4月19日(土)よりテアトル梅田にて上映。
    5月、京都みなみ会館、続いてシネカノン神戸にて上映予定


ディープな情報
 劇中で使われるパラノイドパークは、実際にはバーンサイド・スケートパークと言ってこの物語の舞台のオレゴン州ポートランドにある。麻楽の蜜売人や娼婦がたむろする危険な場所だったが、スケーターたちが勝手にセメントを流し込んで、つまり違法に作った。サイケな落書きの中スケーターたちが、うねり、円形トンネル、段差等を自由に滑って誇らしげに見せるパフォーマンスは、日本の若者にも火をつけそう。ボード1枚でしかも都会で遊べるスケートボードは、エネルギーをもてあます若者の格好の自己表現なのだと気付く。世界中のスケーターたちの憧れの公園でもある。

ブラックサイト

映写室 ブラックサイト上映案内     
     ―公開処刑の動画サイトに集まる注目―

 私たちのサイトもだけれど、インターネットは日々進歩し思わぬことが可能になっている。でも匿名で何時でも何処からでも世界中に情報を発信できることから、利便性と共に危険も拡大した。日本でも事件の度に自殺サイトやネットを使った殺人依頼が騒がれるけれど、システムを熟知した者が悪用すればもっと大変なことだって起こり得る。あっという間に増殖する2チャンネル等の言葉の暴力が、肉体への暴力になったらどうなるのか。この映画はそんな進歩し続けるネットの現状を踏まえ、インターネット社会の恐怖を描く。「一緒に殺す」のエンターキイーを押すと大爆音が響くのには震え上がった。究極の悪意、決して覗いてはいけないのが「ブラックサイト」だ。
 
blacksite-m.jpg

 <導入部の足元ばかりを映すローアングル>が怖い。つまり行為が見えながらそれをしている人の顔が見えない訳で、ネット社会の匿名性を揶揄する映像で始まっていく。
 <主人公のジェニファー(ダイアン・レイン)は>ネット犯罪を専門に取り締まるFBI捜査官だ。犯罪には慣れた百戦錬磨の彼女を凍らせたのが「Killwithme.com」と言うサイトで、拘束された人がライブ中継され、アクセスごとにじわじわと残忍な方法での処刑が進む様プログラミングされている。つまりサイトは公開処刑場で、誰かが苦しみながら死んでいく様子が、リアルタイムに動画で流れるというわけだ。犯行が報道されるとサイトの知名度が上がり、閲覧者が増えて処刑時間は早まる。誰が何の目的でこんな事をし、次に処刑されるのは誰なのか。ある日そのサイトに処刑を待つジェニファーの相棒が映って…。
 <美貌の主人公は>、こうして身の危険を感じながらも見えない犯人との知的かつタフな戦いに挑み始める。現実にはここまでの悪意は無いと信じたいし、技術的にもこんな高度な事が早々出来るわけではないけれど、少し前に京都府警でもネット犯罪捜査のトップに女性が就いたと報道された。現実にもジェニファーはいるわけで、インターネットを取り巻く環境を考えると怖いけれど映画の世界は意外と近い。

 <犯人は相当知的でパソコンの専門知識があり>、しかも残忍だ。犯人に目星をつけ何故これほど人に憎悪を募らせるのかを探れば、浮かび上がるのはある事件。又、犠牲になる男たちやジェニファーの、死の瞬間まで決して諦めず犯人の手がかりを伝えようとする執念や使命感等、舞台はクールなネットでも映画からは人の息遣いが伝わってくる。登場する誰もが人間的で熱い。ネットがそんな人間の心の熱を吸収しきれないからこそ、こんな犯罪が起こるとも思えるほどだ。
 <ところでネットで一番怖いのは何だろう> この作品では個人の憎悪以上に匿名の不特定多数の一方向へ流れる無分別な好奇心、自分一人位なら許されるという軽薄さを上げている。印象的なシーンが終盤にあった。ある人が拘束されてサイトに映り、いつも通りアクセスごとに死に近づいていく。事情を説明して危険だからサイトを見ないようにと報道したらどうなるだろう。結果は最悪だった。テレビがどんなに見ないでと声を張り上げても、閲覧が止まるどころか恐ろしいスピードでアクセスカウントが加算されていく。でも一命を取り留めた途端にアクセスカウントはがくんと落ちる。皮肉だけれどこれもまたネット社会の真実なのだ。

bblacksite-s.jpg

 <ダイアン・レインがタフなシングルマザーの捜査官>を迫真の演技で見せて、アクションシーンもカッコいい。見えない敵に震えるシーンや娘を思う母心等繊細な演技も見どころだ。でも私がそれ以上に興味を持ったのは、他者にこれほどの憎悪を抱いた犯人だった。特異な存在でありながら、弱い心、追い詰められた神経、復讐心等どこかにまかり間違えば誰でもなりそうな普遍性がある。頭でっかちで自分の中に芽生えた独りよがりな憎悪を外に出せないままどんどん肥大化させて、一人ネットに向かう姿はとても今的だと思う。
 ネットと言うクールな世界で、出口の見つからない微熱が集まって炎上する。そこにあるのは過剰に増幅された人間心理だ。…何て理屈はともかく、怖いけれど知的でエンターティメント性もある秀作です。パソコンの仕組みに熟知した人ならもっとディープに楽しめると思う。 (R-15)

 4月12日(土)より、梅田ブルグ7、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、
            109シネマズHAT神戸、MOVIX六甲等で上映
 

 

コントロール

映写室 NO.145コントロール   
 ―天才ヴォーカリストの駆け抜けた波乱の時―
 1980年の朝、イギリス北部の町で一人の若者が自ら命を絶った。彼の名前はイアン・カーティスで、後にクラブシーンをリードするバンド、“ニュー・オーダー”の前身の “ジョイ・ディヴィジョン”のヴォーカル兼ソングライターだった。これから全米ツアーに発つという朝に、一体彼に何が起こったのか。生前に親交があり、U2、デヴィッド・ボウイ等、ロックスターを撮り続けたアントン・コービンが、謎を探りながらも天才ヴォーカリストをいとしむ様にモノクロームのフィルムに焼き付けている。波乱の時を疾走した若者の孤独と苦悩は、ロックファンだけでなく悩みながら生きる全ての人に響くだろう。心の震える作品です。

gontrol-m.jpg
(C)Northsee Limited 2007

 <スクリーンの中は、壁一面にロックスターの写真>を貼った部屋で回るターンテーブルや、スタンドマイクを使った派手なパフォーマンスに総立ちの、熱気とタバコの煙で霞むライブ会場と、どれもが懐かしい70年代末の音楽シーンだ。白黒のスタイリッシュな画面からは、そんなシーンの真ん中にいた彼の半生だけでなく、当時のイギリスの閉塞感や若者の鬱積した思いが匂い立つ。
 <イアン・カーティスの半生は>総てイギリスのロックシーンに重なっている。1956年にマンチェスターで生まれた彼は、10代半ばの頃イギリス北部の死んだ様な小さな町で、デヴィッド・ボウイに憧れ、音楽で世に出ようと思いつめていた。彼の音楽の根底にこの頃の鬱々としたものが流れているからこそ、閉塞感に押しつぶされそうだった若者の心を掴んだのだろう。町には不況の影が濃く未来が見えない。音楽は若者にとって現状の突破口だった。

 <でもパンクロックが怒りを社会に向ける外的なパフォーマンス的だったのに対し>、次の世代のイアン・カーティスは、怒りの刃を自分に向けてどこまでもひりひりと追い詰める。文学者のように内省的な創作スタイルは、最初から消耗戦で破滅的だった。彼の半生を見ると命を音楽に変えたようなもので、短い活動期間に納得する。それに観客とは無責任な者で、一途な瞳で内的苦悩を歌う彼の姿に熱狂し、自分が苦しむ変わりに時代の代弁者に祭り上げ、むしりとるようにエネルギーを奪っていく。あっという間にトップスターに躍り出た彼は、ファンの熱狂をかわす術のないまま、不器用に消費されつくすのだ。ステージが喜びから重圧に変わるのに時間はかからなかった。多くのアーティストが経験するだろうそのあたりを、痛ましいまでに描いている。

 <イアン・カーティスを演じるのはイギリス出身のサム・ライリー>で、彼の素敵さがこの映画の全てと言ってもいい。繊細な伝説のヴォーカリストの苦悩を見事に現代に蘇らせて、多くの映画賞を受賞している。文学青年のような風情は本人そっくりで、端正な顔で遠くを見据える横顔には、誰も近づけない孤高の人の悲しみが滲む。長身の背を少し丸めて細い指にタバコを燻らせながら無造作に着たよれよれのコート、肩に引っ掛けるズタ袋等はまるでモード写真で、息を呑むほどに美しい。しかもこのあたりはさすがカメラ出身の監督、精神世界までを写し取っている。サム・ライリーは古風なのに今の時代性もあって、時代を普遍的にするのが良い。あの頃の若者にも今の若者にも見えた。
 <彼が19歳で若くして結婚する妻デボラを演じるのがサマンサ・モートン> 本当言うともっと年上の役を演じる事の多い彼女は、サム・ライリーと似合わず最初から違和感が拭えない。彼女の放つ生活感や圧倒的な存在感が時には2人を親子にも見せるし、肉感を伴ってリアルに演じる演技力も上手過ぎて、何処かクールな他の俳優とは一線を記している。ロック歌手の夫に重いのが辛くなるほど解った。ファーストアルバムが出た頃に夫は最愛の女性を見つけ愛人関係になるが、その時にはもうすでに妻との関係が破綻。それでも妻とも別れられず、愛人との間で苦悩し命を削ることになる。

control-s.jpg

 <映画は彼の人生を支配する痙攣との遭遇を> 現実のままにさりげなく描く。昼間働く職業安定所で、面接をしていた女性が倒れ激しく痙攣するのだ。これをつぶさに観察して、代表作の“私 制御不能よ”と歌う「She’s Lost Control」を作るし、この光景がよほどの衝撃だったのか、彼の特徴の痙攣するように激しく体を揺するステージアクションも始まる。でも音楽の教示を得ながら、この時見た光景が後の自分の恐怖にもなった。
 <78年末のロンドン公演の後に>、始めて「てんかん」の発作に見舞われ薬物治療が始まるが、体力的にも精神的にも疲労が続いて発作はだんだんひどくなっていく。恐怖からの薬物に依存し、全米ツアーの直前の1980年の5月18日、久しぶりに帰った自宅で妻との口論の後激しい発作に見舞われると、泣き明かした挙句首を吊って自ら命を絶ったのだ。

 <この時の彼がファンと自分の音楽>、妻と愛人との間をさまよう愛、病気、薬物と、身も心もばらばらに引き裂かれて、“全てが制御不能”に陥っていたのは間違いない。音楽に全てをぶつけ熱い思いを滾らせていた若者は、後一歩で世界を制覇するところまで来ながら、驚愕するメンバーと妻と愛人と娘を残して力尽きた。生前の彼を思い出しながら、彼の“制御不能”に手助けはできなかったのか、彼の音楽は何だったのかと問いかけて、彗星の様に現れあっという間に消えた天才ヴォーカリストの輝きを、愛を込めて映した作品です。  (PG-12)

  4月12日(土)より、梅田ガーデンシネマ、京都シネマ、
              シネカノン神戸にてロードショー!


ディープな情報
 原作は未亡人のデボラ・カーティスが夫の伝記として纏めた物だ。監督のアントン・コービンは、“ジョイ・ディヴィジョン”の音楽に憧れオランダからロンドンに移ってきたほどのファンで、イアン・カーティスが亡くなる前に、バンドの写真やビデオ等を撮っている。又全編に流れるサウンドトラックは、ジョイ・ディヴィジョン”の残りのメンバーで作った“ニュー・オーダー”が楽曲を提供。音楽的にも見逃せない作品になっている。

フランスから届いた大人のメルヘン

映写室 NO.144地上5センチの恋心
    ―フランスから届いた大人のメルヘン―

 平凡な日々の中でも些細な幸せを見つけて楽しく暮らす人もいれば、成功して全てを手に入れながら満たされない何かに焦燥感を募らせる人もいる。これは前者そのものの主婦と、後者に重なる流行作家がひょんな事から運命を絡ませる物語だ。主人公は現実を忘れ地上5センチで夢見ても、時々地表に着地する堅実さを忘れない。5センチ飛び上がって見えた世界と現実の違いを、自分に言い聞かせる賢さを持っているのだ。どちらもが大切で、だからこそ掴む幸せ。フランスならではの上質でカラフルな色彩の中に、大人のメルヘンが展開する。観終える頃には幸福感と共に夢見る力を伝授されています。

5cm-m.jpg
© BEL OMBRE FILMS – ANTIGONE CINEMA – PATHE RENN PRODUCTION – TF1 FILMS PRODUCTION LES FILMS DE L’ETANG – RTBF (Télévision belge)

 <苦しい事にぶつかった時>、現実を見据えて苦境に立ち向う人もいれば、現実を忘れて夢に逃避する人もいる。たいていはそのどちらかだけれど、この主人公はその両方だ。
夫を亡くして2人の子供と暮らすオデット(カトリーヌ・フロ)は、昼はデパートで働き、夜は踊り子の羽飾りを作る内職をして陽気に暮らしている。一番幸せなのが、一日の終わりにロマンティックなバルタザール(アルベール・ヂュポンテル)の小説を読む事だ。彼のサイン会に飛びっきりのお洒落をして行くが、緊張で自分の名前も言えない。次のサイン会では思いを手紙に託した。一方テレビで酷評されて落ち込むバルタザールは、妻にも裏切られ自殺未遂。そんな時にオデットの手紙を読んで癒される。こうして、まるで違う世界に住む二人の人生が交差した。

 <これは哲学の教授を経て>、今やフランスを代表する劇作家で小説家になった、エリック=エマニュエル・シュミットが始めて監督した作品だ。オリジナル脚本も彼で、一人ぼっちの失意の時、オデットのようなファンからの自分の作品への賛美と感謝の手紙に慰められたのが、この物語の始まりになったと言う。
 作家はスランプになると、たいていファンレターを繰り返し読むと聞く。自分の作品の欠点なんて、他人に言われなくても解っている。弱った心を奮い立たせるのは、真実を突いた評論家の辛辣な言葉以上に自分を肯定し必要とする人の言葉だ。エリックは作家のそんな心情を告白しながら、一通の手紙と一度の出会いからイメージを広げて、作家の力となるファンに感謝を込めて究極の癒しのヒロインを誕生させた。
5cm-s1.jpg

 <考えてみるとオデットの日常は自分による自分の肯定だ> コスメ売り場でハタキを振り回して踊りながら仕事をするオデットは、メイクも服装も髪型も自分の好きな世界そのまま。でも青痣を作った客には的確なメイクのアドバイスをし、さりげなく自分の人生を大切にする事も忠告する。コスメで夢を売りながら、現実に対応する事も忘れない。
 <それは暮らしでも一緒で>、問題の多い娘や息子との日常をちゃんと支え、しかも好きな写真や人形を飾り自分を気持ち良くする事を心がける。お金の為とは言え、仕事にしても内職にしても綺麗で夢のある物から離れない。現実の中で楽しい事があるよう自分をプロデュースする術なのだろう。そんな主人公の素敵さを、カトリーヌ・フロが浮遊感と現実味の両方を見せて演じるのが見事だった。浮世離れした様や優しい雰囲気は癒しでも、これを全くの御伽噺にせず生活感が地上5センチに留めている。意外にもオデットが匂わせる主婦っぽさに安らぎ、主婦って誰かの為に陰で努力する人なのだと気付かされた。

 <この作品の物語に合わせる映像の浮遊感が>観客までを浮遊に誘う。CGを酷使した踊るコスメたちや空に舞い上がる主人公等心理描写を託した映像は、視点を変えて想像力を働かせれば日常すらこんなに輝いて見えるというお手本で、オデットがジョセフィン・ベイカーのナンバーを歌うシーンは、映画がセミ・ミュージカル調になる。作品全体がまるで監督の夢工房だ。
 <憧れの作家役のアルベール・ヂュポンテル>のハンサムなのにとぼけた味わいも素敵だった。自信喪失で子供のようになった作家を、黒目がちな瞳を潤ませてちょっと滑稽に演じるのは、この物語の深刻になり過ぎないトーンなのだろう。終盤近くハラハラさせられたけれど、オデットのせいで彼もまた夢見る力と夢を現実に着地させる力を持ったのだ。観客だってそれが欲しい。
 <このところのニュースは>、苦境に真正面から立ち向った挙句現実に押しつぶされて命を絶ったり、正視を避けて現実から足を踏み外し結局命を失ってしまうものばかりだ。困難に出会ったら、オデットのように自分を大切にして、片方をだけを取らず自分を元気付けるものを周りに集めて、現実に向える元気が戻ってくるまで時を待てばいい。着地点は夢見る事で覗いた世界と現実の狭間がベストだ。ラブ・コメディの中に見える人生の深淵、エリックからの贈り物はメルヘンタッチで優しいのにメッセージが深い。

  4月5日(土)より、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸で上映
  7月26日(土)より京都シネマで上映予定


ディープな情報
1.脚本と監督のエリックは、日本でも公開された「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」の原作者と言えば解る方が多いでしょう。元々舞台劇のこれで大評判をとりシュヴァリエの称号を受けていますし、書籍版でも色々な賞を受賞しました。
2.ジョセフィン・ベイカーは1906年セントルイス生まれの黒人。22年に人種差別が嫌で渡仏し、表現力豊かなチャールストンと躍動的な裸体が、“黒いヴィーナス”と賞賛されて多くのアーティストを虜にします。晩年には「虹の部族」と言う理想郷を作って12人の肌の色や宗教の異なる養子と共に南フランスで暮らしました。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。