太秦からの映画便り

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「ブレス」主演のチャン・チェンさん

映写室 「ブレス」主演のチャン・チェンさん合同会見
     ―キム・ギドク作品に主演する台湾の国民的スター―

 独特の作風で多くのファンを持つ韓国のキム・ギドク監督の新作が届きました。主演は人気実力ともに台湾ナンバーワンの、チャン・チェンさんです。以前映写室で取り上げた「呉清源」の端正な姿を思い出す方も多いのではないでしょうか。まだ寒い3月1日、大阪の映画祭に来日された折の合同会見を紹介します。

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(3月1日 大阪にて)

<その前に「ブレス」とはこんな作品> 
 テレビが処刑間近の囚人チャン・ジン(チャン・チェン)が何度目かの自殺未遂をしたと報じる。偶然それを見たヨン(チア)は彼の絶望に自分の孤独を重ねて、会いに行くことを思いつく。恋人だと嘘をついて面会の許可を得ると、ヨンは面会の部屋の壁紙、服装、音楽等で演出して、彼に四季を届け始める。ヨンの訪れが生きがいになるチャン・ジン。でも夫はヨンの行動に不審を抱き、刑務所で同室のチャン・ジンの恋人も、嫉妬し始める。

<チャン・チェンさん合同会見>
 会見は「こんにちは、チャン・チェンです。よろしくお願いします」と流暢な日本語で挨拶して下さって始まった。(以下は通訳付き)

―今回死刑囚役を引き受けたのはなぜか。しかも台詞のない役ですがそのメリットとデメリットを教えてください。
チャン・チェンさん(以下敬称略):キム・ギドク監督と一緒に仕事が出来ると喜んだのもありますが、この役を引き受けたのは脚本に惹かれたからです。台詞が無いのが面白いと思いました。台詞が無いと台詞がある以上に難易度が上がり、役を演じるのが難しいですから。初めてなので自分への挑戦です。この役は死刑囚でしかも喋れない、狭い場所で活動を限られて演じるのが面白かった。
―役へのアプローチはどうやって。この男の殺人動機をどう解釈されましたか。
チャン・チェン:キム・ギドク作品では登場人物の性格が大切です。僕が演じるのは殺人犯ですから、特殊な心理状態を再現するのが大切だと思いました。死刑囚の抑圧された感情を把握する為に心理学の医師を紹介してもらい、こんな人の心理状態はどんななのかを教えてもらって役作りをしています。このところの韓国の発展の状態とかも私の役作りには大切だったので、それも研究しました。殺人動機ですが、監督と話をしたのは観客に委ねようと言う事です。自分でもそのあたりは解釈をしないで演じている。ただそうは言っても自分なりの解釈はあります。映画で明らかにはされていませんが、この男は田舎で暮らしていて知的レベルは高いがブルーカラーの仕事をしていただろう。現実と理想のギャップに苦しんでいたのではと言う風に想像しました。

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(c) 2007 KIM Ki-duk Film. All rights reserved.


―チャン・ジンと言うのはチャン・チェンさんの韓国語読みでしょうか。自分の名前が死刑囚に使われる気持ちはどうですか。
チャン・チェン:作品が出来上がるまで自分の名前が使われている事に気がつかなかったんです。自分が出た刑務所の中のシーンでは名前でなくて番号で呼ばれますからね。
―短い撮影期間だったと伺いますが。
チャン・チェン:キム・ギドク監督は制作期間が短いのを売りにしてるので、監督に対する信頼がないと仕事が出来ません。僕の撮影は実質的には4日間です。現場に入るのはとても怖かった。プレッシャーが大きかったんです。でも結果的には撮影期間が短いのは良かったと思う。死刑囚を長い期間演じるのは役者としてとても辛いですから。
―監督はどんな方ですか。
チャン・チェン:キム・ギドクの今までの作品が暴力的だったり奇妙な人が多く出てくるので、監督自身も奇妙な人ではと思っていました。でも組んでみるととても優しかった。この作品は1月のソウルで撮ったのですが、刑務所のシーンなので暖房も無く大変寒い。カットになると監督が僕の足を擦ってくれたりしました。監督は映画を作る事に非常に熱心で、役者にもスタッフにも情熱をもって接してくれました。現場で演技指導してくれることが多かったです。
―怖いと思ったのが信頼に変わったのは何時頃からですか。
チャン・チェン:怖いと言うのは本人に対してではなく作品のイメージからです。本人を見るとそんなことはありません。あまり話さない方ですが笑いをとったり気を使ったりと、本人に接するといい人だなと信頼が生まれます。実はこの作品は監督から出演依頼の来た2作目で、1作目はスケジュールが合わなくて流れました。

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(c) 2007 KIM Ki-duk Film. All rights reserved.

―凄い監督とばかり仕事をしていますが、ご自身の意志もあるのですか。
チャン・チェン:幸運に恵まれて巨匠とばかり組んでいますが、僕が選んだのではなくたまたまで、そのチャンスを生かしてきました。色々な監督と仕事をして色々刺激を受けたのは宝物です。10代で出会ったエドワード・ヤン監督が映画への道を開いてくれました。ヤン監督に出会った頃はまだ若かったので怖いなあと思いましたが。よく走り回って叱られましたね。その後も色々な監督が映画への情熱を教えてくれました。それぞれの監督は似ている所もあるしまるで違う所もある。キム・ギドク監督は特に変わっています。日本の映画では去年の夏に公開になった行定勲監督の「遠くの空に消えた」(注・映写室でも紹介)に客演しました。
―日本の映画を観ますか。共演したい俳優さんがいれば教えてください。
チャン・チェン:ビデオやDVDでよく観ます。好きな俳優は加瀬亮、オダギリ・ジョー、浅野忠信さん等で、浅野さんとは多分次の作品で共演できます。
―日本語はお出来になるのでしょうか。
チャン・チェン:少しだけ出来ます。「呉清源」を撮っていた頃は大分上達していたのですが、時間たつので忘れてしまって。
―今回韓国の映画に出てどうでしたか。これから一緒に仕事をしたい国は。
チャン・チェン:ストーリーも役柄も相手役も良かったので、この作品に出れて幸せでした。韓国の映画に出るのは初めてではないのですが、この国のこの数年の発展は目覚しく、行く度に驚きます。彼らと一緒に仕事をしていて心地よかった。僕が住んでいるのは台北ですが、特に何処で仕事をしたいということはありません。俳優と言うのは受身なので全ての国からオファーが来て欲しいですね。

<会見後記:犬塚> 
 別の作品で来日中の台湾の映画スタッフがチャン・チェンさんの出演作を盛んに話題にしていて、本国での人気振りが伺えます。そんなカリスマ性や続けて2回重い役柄を見た後なので、どんな方だろうと緊張して待っていたら軽やかに登場されました。長身をカジュアルな服で包み笑顔の素敵ないかにも現代青年です。さて作品はそんなチャン・チェンさんと韓国の誇る奇才キム・キドク監督のコラボレート。特殊な設定の主人公の心を「ブレス」という題名どおり、まるで呼吸するように伝えてきます。描き過ぎない手法が観客の想像力をかき立て、見事に監督の手中に落ちていました。主人公とヨンとの触合いを見守る意味深な設定で、監督自身も出演しています。ファンとしてはこちらも楽しみですね。


   本作は5月31日(土)よりシネマート心斎橋にて公開
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ラスベガスをぶっつぶせ

映写室 NO.152 ラスベガスをぶっつぶせ     
   ―数学の天才がブラックジャックに挑む―

 ラスベガスに降り立つ者は、自分こそはと「運」に賭けて、たいていは「運」を呼べず、肩を落として立ち去っていく。こんな具合に皆が不確かな「運」に翻弄されるゲームに、「運」ではなく自分の「知力」で挑み、大金を手に入れられたらどんなに気持ちいいだろう。それを成し遂げる若者たちを描いたこの物語は、いかにも映画的だけれど、何と1990年代の実話が基になっている。しかもこの手法は合法だと判決が出ているのだ。さあ、あなたも挑んでみる? 出来るかどうかはともかく、ブラックジャックで「ラスベガスをぶっつぶせる」秘法が、詳しく描かれています。

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 <MIT(マサチューセッツ工科大学)で優等生の>ベン(ジム・スタージェス)は、卒業後ハーバード大の医学部に進む為の、30万ドルと言う高額な学費に困っていた。彼の天才的な数学力に気付いた教授(ケヴィン・スペイシー)は、秘密の研究会に誘う。それはラスベガスで大金を稼ぐ為の会だった。一度は断ったものの、学費も欲しいしメンバーには憧れの美女ジルもいる。
 こうしてベンはチームに加わり、教授から徹底的にカード・カウンティングを仕込まれるが、何しろ飛び切りの天才、飲み込みが早い。すぐに中心的役目を担うことになる。大胆な企みは成功を重ねて、ウイーク・デーはボストンでダサい理系学生、週末はラスベガスに飛んでカジノと贅沢三昧と言う、スリル満天の二重生活を送り始めるという訳だ。

 <理系の私の周辺には、トランプやマージャン等>賭け事に滅法強い人がいた。「博才があるよね」と言うと、いつも「いやこれは統計学なんだ」と真面目な顔で教えられたものだ。本業そっちのけで統計学的な競馬必勝法ソフトの開発に余念がない研究者や、マージャンでお給料以上を稼ぎ続ける大学教授もいる。不謹慎だと怒らないで欲しい。お金よりも、皆が運や勘で突き進む所を数学の知識で分析的に攻めるのが、理系心をそそるのだ。この作品が彼らに重なる。スケールは違っても好奇心の質は同じだ。
 <数学という一見机上の空論が>、実は人の心理掌握までの日常の事象の分析に役だつと言う真理。私たちの行動の多くは個々が直感的に判断する、経験からの予測に基づいている。それを個人から離れ、マスを大きく広げて数学的に正しく捉えれば、幸運を手に入れる確率は格段に上がるという訳だ。私だって、こんな頭脳があればラスベガスの裏をかいてみたいもの。そんな視点で観るとこの映画は数倍面白い。

 <ところで、ゲームは人を熱くする> 冷静沈着なベンですら、いつの間にか騙し騙されるゲームそのものに夢中になっていく。それに大学町での地味な普通の学生の暮らしと、ラスベガスと言う特別な場所での高揚感、人並み外れたセレブな生活を行き来する間に、若者は平常を忘れてしまうのだ。一度高揚感を味わうと、それの無い生活は虚しいもの。正統派の天才が、ゲーム依存となる過程がリアルに描かれていく。
 <これが賭け事のダークサイドなのだろう> ベンも周到な用意と確率の計算が正確だから勝つのを忘れ、いつの間にか自分の幸運までも信じるようになる。こうなったら破滅だ。宝くじ等で顕著なように、理論上投資に見合うお金が返ってこないのを知りながら、人は誰しも自分の運や夢にお金を賭けてしまう。教授がどんなに戒めても、このベンにして、痛い目にあわないとそれを自制し続けるのは難しかった。恋模様、ベンの変化に苛立つ大学の友人たち、カジノ荒らしを取り締まる用心棒等を巻き込んだ、後半の息を呑む展開から目が離せない。

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 <MITの学生だったジェフ・マーの経験を基に>したこの原作が、ベン・メズリックによって2002年9月にワイヤード誌に書かれると、一大センセーションが起こり、150万部を売り上げた。天才マーはどんな人だろうと興味が尽きないが、この作品でブラックジャックのディーラー・ジェフリーとして出演もしている。
 <原作に惚れ込み制作も兼ねているのが>、教授を演じたケヴィン・スペイシーだ。数学者として抜群の知性を誇りながら、教授もまた正統派の道を踏み外し、お金の魔力とゲームの高揚感から抜け出せなくなった一人。オスカー俳優の実力で、この教授の得体の知れなさや心の闇を深めている。僅かに滲む挫折感からの残忍性が後半の鍵だ。

 <そのスペイシーに一歩も引けを取らず>、知性、朴訥さ、度胸、怯えと複雑な表情でベンを演じるスタージェスの、自転車とジャンパーとディバックのダサいオタク系から、高価なスーツに身を包んだギャンブラー風までの変化も、見事だった。どちらも素敵だけれど、ボストンの町並みに似合う古風さや正当性が捨てがたく、せっかくのエリートコース、道を踏み外さないでと思いながらハラハラと観てしまう。
 <ところで、ハーバードの学費には驚いた> 30万ドルを円に換算してため息をつく。彼にはMITの学費も必要だったはずで、エリートコースを歩き続けるにはその2倍近くのお金がかかる事になる。自由と平等を掲げながら、その象徴のはずの大学がこの有様とは、何と歪な社会だろう。「大いなる陰謀」では高額の学費を奨学金で借りた為に、その後の人生を考え、奨学金が免除になる兵役に志願して命を落とす黒人学生が登場した。学費の為とは言え、この若さで高額の借金を抱える人生は辛い。さりげない描写で、アメリカの事情に踏み込んだ作品が続く。やっぱ、ラスベガスをぶっ潰すしかないじゃあないか。
 
   この作品は5月31日(土)より全国ロードショー

<ディープな情報>
 ブラックジャック(BJ)がこれほど人気を集めるのは、他のゲームが運に支配されるのにたいして、BJだけはテーブルの状況を読むことによって、ディーラーより有利な条件で勝負することが可能だからだ。伝説のプレーヤーに元パシフィック証券所長のケン・ウストンがいるが、彼は転身の理由を「株の世界よりカジノのBJの方が、はるかにギャンブル性が低いから」と答えている。
MITの学生チームは、ゲームに勝つ為に、カードカウンティングに加えて、どのタイミングでどんな額のお金を賭けるのがいいかの戦略や、特定のカードが束のどの位置に移動し、どのタイミングで配られるかのカード・トラッキングの高度技術も酷使したらしい。学生たちは先端の数学理論を使いこなし、ラスベガスに挑んだのだ。その挑戦こそが彼らにとっては究極のゲームだったのだろう。

Mr.ブルックス 完璧なる殺人者

映写室NO.151 Mr.ブルックス 完璧なる殺人者        
―成功者の二つの顔―

 誰にでも大なり小なり秘密はあるもの。それにギャンブル、覚せい剤やお酒等、悪いと解っていても止められない依存症もある。この物語の主人公は、その二つを最悪の組み合わせで持っていた。いつも良い人を演じるケビン・コスナーが、地位も名誉も手に入れた家族思いの実業家と、倒錯の性癖の連続殺人鬼と言う二つの顔に挑みます。秘密がばれそうになった時、最悪の依存症は断ち切れるのかどうか、衝撃の結末に息を呑む。

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(C) 2007 ELEMENT FUNDING, LLC. ALL RIGHTS RESERVED

<捜査官のアトウッド(デミ・ムーア)は>、カップルの全裸死体の側に残された血印に緊張する。シリアル・キラーが再び動き出したらしい。地元の大物実業家ブルックス(ケビン・コスナー)は、セレブなパーティを抜け出し、車を走らせながら血が騒ぐままにカップルを殺す。今回も完璧だった筈なのに、後で気が付くと部屋のカーテンが開いていた。こうして、完璧だった二重生活に綻びが出始める。

 <ヒーローもので人気の出たケビン・コスナー>だけど、私にとっては、丸っきりの良い人でもない。良い人の時も惨めさや口に出さない鬱積した思いを、整った顔の裏側に感じてしまう。どんな役の時も、彼の行動には問答無用の押しの強さがあって、根底に女には到底届かない男の論理を感じるから、いや彼個人の論理かも解らないけれど、異を唱えることもできず、引き下がるしかないのだ。だから、彼が演じる甘いだけの話には不満があった。何処か嘘っぽく、心の奥底に触れれないもどかしさが残ってしまう。
 <そんなケビン・コスナーに、年齢と共に凄みが加わり>、もう良い人の範疇では収まりきらなくなった頃の本作。やっと本領発揮だ。悪い時には裏側の誠実さが覗き、善良な市民の時にはそれでも信じ切れない不気味さが顔を覗かせる。まるで妻が半信半疑でこの男についていくようなもので、何かを感じないわけではないけれど、この男の前では気付かないふりをするしかない。得体の知れなさがこの男の力であり魅力だ。心の闇領域で生きる男と、誰もが知るセレブと言う表社会の二人の男の間を、圧倒的な存在感で行き来する。

 <だからなのかどうか、気がつくと>、非情な犯罪者のくせに人間臭いこの男に感情移入していた。犯行がばれないかとハラハラする。人を殺しながら、自分のおぞましさに苦悩する男、黒い欲望を抑えようと葛藤する姿にリアリティがあった。それでも断ち切れない依存症とは始末に負えないもの。私たちは犯罪者をいつも同じように悪人としてみるけれど、彼らにも善人の瞬間はあるはず。悩んで悔やみながら、それでも犯行に及んでしまうというのが真実かもしれない。

 <ところで物語は思わぬ展開を始める> カーテンの隙間からブルックスの犯行を写した男が、脅してきたと思ったら、目的はお金じゃあなく、殺しに自分も加担させろと言うのだ。物語が一気にサイコ色を強める。執拗に事件を追いかけるアトウッドの孤独感、カーテンの隙間から夜毎に他人の部屋を覗いていた者たちの孤独、都会人の心の闇が色々な形で現れ、このあたりの展開は息をつかせない。皆、正常と異常の狭間、正しさと悪魔の囁きの境界上を、バランスを取ってぎりぎりの所で生きている。両者を隔てるのは、些細な壁でしかない。よく俳優は悪人を演じたがると言うが、人の多面性や病理を誰もが執拗に演じて、影の濃さから目を離させないのが見事だった。
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 <秘密を抱えていた>この男の苦しみがより深くなるのは、大学の寮に入っていた娘が帰って来てからの事。妊娠して退学したと言うが、他にもっと大きな理由がありそうだと、彼も妻もうすうす感じる。大学町から捜査員が来て、彼の恐れは具体的になるのだけれど、このあたり、娘役のダニエル・パナベイカーが上手い。不気味さをコケティッシュにかもし出して、瞳が不信感を抱かせる。この娘は何なんだろうと言うような観客の反発と、それでも娘が可愛くて仕方ないブルックスの苦しみ。流れている血を呪い、娘を案じる彼の苦悩が、余計にこの男を人間臭くする。
 <そして娘を庇った時から>、この物語はエンドレスの不条理に突入していく。依存症が直らないのを身に染みて知る男も、自分に下したほどの覚悟を娘に向けることは出来ない。描かれていないその後が気にかかった。

 <終盤、印象的な形でウィリアム・ハートが>登場し、手に汗するブルックスとのやり取りが始まる。最近は日本でも凶悪な犯罪があると、心神喪失とか解離性障害とか、犯行時の異常心理が取りざたされる。極限状態の時、何らかの異常心理に落ちるのは間違いなく、それを言い出したらすべての人に罪はない。その時の異常心理もその人だと思うのは、私が肉体に宿る物を人格だと思うからで、人格をこそ人と考えれば違う結論がでるのだろう。この映画を観て、色々な異常犯罪者の、犯行時をじっくり正直に分析した手記を読んでみたくなった。Mr.ブルックスは多いのではないだろうか。


 5月24日(土)より、梅田ブルグ7、MOVIX京都、
             シネ・リーブル神戸等、全国でロードショー

「靖国 YASUKUNI」

映写室 シネマエッセイ「靖国 YASUKUNI」   
 ―刀と言う精神的なものと天皇と軍隊―
 某国会議員の文化庁助成金への疑問発言に端を発して、一時は公開が危ぶまれたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」が、第七藝術劇場で上映中です。上映問題、映像使用等、頻繁にニュースで取り上げられ、しかも微妙な感情を呼び起こす表題効果もあり、連日大盛況。私が観た日も、立ち見どころか入れない人もいたくらい。

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 <実は私は靖国神社に行った事が無く>、知識では知っていても、この神社の特殊性も今一つピンと来なくて、ご神体が「刀」というのも始めて知りました。
 <この映画は、日本に住む中国出身の李纓監督が>、10年間撮り貯めた物で作ったドキュメンタリーで、今やたった一人となった、高知に住む「靖国刀」を作る老刀匠の仕事場に入り、その製作過程と思い出を聞きながら、それに被せて小泉元総理の参拝や、終戦記念日前後の神社の様子を映しています。ニュースとかでは見知っていても、日章旗がはためき、軍服姿の方々が次々と参拝するのを長い時間見ていると、時が逆回転するようでちょっと辛い。ただ監督の公平さでもあるのですが、軍服の方へ一般の方がさかんにカメラを向けるのも映っているので、珍しい光景ではあるのでしょう。合祀に反対する人、日本の植民地支配を批判する人、アメリカの責任を問う人等の喧騒が映り、まだここには戦後があるというか、靖国神社の複雑さ特殊性をクローズアップしていきます。

 <靖国刀匠の最後の一人となった刈谷さんは>、当然仕事には思い入れがあり、監督の問いに答えて誇りを持って実に嬉しそうに、職人として「刀」について話される。だから代用品での試し切りについて話される口元にも笑みがあり、カメラはここで止まって、笑顔や沈黙の時間に意味を持たせるのですが、たぶんあの笑みはお顔に滲む年輪であり、インタビューの雰囲気を和ませる刈谷さんのサービス精神でもあると、注意深く映画を観ていたら解るのだけれど、単純に前後の繋がりを見ると別の意味が生まれます。正直に言って、靖国神社と絡めてくる映像に、刈谷さんはこんな風に繋がるとは想像もしないで話しているだろうなあと、お気の毒になりました。
 <刀作りについて紹介したいと言って仕事振りを映された>と聞きます。インタビューする事の多い私は、話された言葉どおり文字におこしても、本人以外そこに何の意味も感じないことですら、微妙に意味が違うと抗議を受けたことがある。靖国を考え、そこのご神体である刀を作ってきた人を映せば、李纓監督としてはこう繋げるのは必然なのでしょうが、刈谷さんの立場に立つと、この作為は辛い。自分の箇所の削除を求めた求めないと煩い世間に対して、ご本人はもうそっとして欲しいとコメントされていますが、その気持ちが痛いほど解る。言葉には出さなくても、監督も後ろめたさを感じていると信じたい。自分への自戒を込めて、伝えたい思いに誰かを巻き込む仕事の難しさ、必要な誠意、慎重さを感じました。

 <ところで、刀作りは精神的なところが大きく>、作られた刀も殺傷道具として以上に精神性を代弁している。作る過程も、雑然とした仕事場の上の神棚には榊が生けられ、神が見守っていますし、本人も白装束に白足袋を履き、いわば身を清めて仕事に臨みます。刀を打つ過程は魂を込める過程でもあり、画面からは、ことに臨む刀匠のただならぬ気配が伝わってくる。そうして出来上がった刀が身にも心にも重いのは当然です。
 <余談ですが、そんなものを持って歩き回っていた武士の時代>とは、何と野蛮だったのかと漏らすと、時代劇等の製作現場で本物の刀に触れることのある家族は、「野蛮と言うのは違うな」とぽつんと返してきました。武士と言うのは、刀を携え、いつも生と死の間を生きていた人々で、刀を持てば、それが放つ怖さや妖気という特別性に気付く。だからこそ刀の力に怯え、殺傷道具としてだけになるのを嫌い、そこに武士道と言う精神性を込めた。刀を持つものに、持つに相応しい高い精神性を求めたとも言います。もちろんそこから外れた荒くれどもは出るのですが、それは特殊な事だと。

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 <靖国刀も手作りゆえたくさんは作れず>、与えられたのは一部の上官たちでした。善悪はともかく、ここに武士道から続く日本軍の特殊性がありそうです。こんな風土から神風が吹く等という発想も生まれたのでしょう。又同時に、持つ者が極限で錯乱した時、刀の力に負けて、後世に汚点を残す残忍な行為に及んだこともあったと。刀の持つ2面性に支配された軍隊だったと言えるかもしれません。
 <日本軍の携えていた刀、それをご神体に置く「靖国神社」>、天皇、そこを軸に読み解いて行く李纓監督の視点は、考えてみるとこれこそが「菊と刀」ですが、両者とも外国人作家であるように、外から指摘されて始めて解る日本の姿でもあります。最後に流れる記録映像の昭和天皇は、軍服を着ていつも立派な刀を差している。それがやけに目立って、日本軍とは天皇を頂点にした、刀で繋がるとても精神的な軍隊だったのだと、改めて気付くわけです。ここにいたり監督の主張は明白になる。

 <この映画の話題は、上映中止に絡んで、言論の自由>、表現の自由等に集中しています。プロであればあるほど、肝心の映画の描くもの、日本やかっての日本軍の本質に言及しない。この映画を語る誰もが、論理をすり替えて、微妙な問題から逃げているかのようにすら見える。それはこの映画が、日本人ではなく少し距離のある外国人監督によって作られたのと同じで、「靖国神社」とは日本人にとってそれだけ語りにくい、複雑で微妙な問題を内蔵している証でもあるのですが、この映画は其処をこそ果敢に、余白部分で問いかけてくる作品でした。そこで感じた思いは、「ひめゆり」でも「特攻」でも同じように抱いた思いで、事実を積み重ねると自然にたどり着かざるを得ないもののようです。

     関西では、第七藝術劇場で上映中
     広島シネツイン新天地5月24日より、京都シネマ6月7日より上映
     沖縄では、桜坂劇場で7月12日より上映予定


<ちょっと横道のお話>
 私の隣で観ていた老人は、映画の中の割れたトランペットの音に合わせて、「兵隊さんはかわいそうだなあ。又寝て泣くのかなあ」と、感に堪えないように何度か大きな声で歌い、あそこにいた誰もに、もしかしたら映画以上に複雑な思いを抱かせました。こんな具合に、観に来ているのは老若男女色々なスタンスの方のようですが、この映画が社会現象を起こしているのは間違いありません。ナナゲイの前の道が、劇場から出た人で溢れて、映画館がこの商店街の活性化に一役買っているのを実感しました。

つぐない

映写室 シネマエッセイ「わずかな出番で映画をさらう人」   
  ―「つぐない」のヴァネッサ・レッドグレイヴ―
 
 映画を観ていて、役と演じている俳優さんを混同してしまう事があります。そんな時は、私が見ているのは役柄だろうか演じている本人だろうかと戸惑うのだけれど、たぶんそのどちらもで、両者が化学的結合を起こす事があるのでしょう。「つぐない」では3人のブライオニーがそれぞれに混同させてくれます。なかでもラストになって登場する、晩年を演じるヴァネッサ・レッドグレイヴのそれが見事でした。このベテラン女優のせいで作品の質がぐっと高まり、複雑にもなっているというお話です。

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(C) 2007 Universal Studios. All Rights Reserved.

 <評判がよく色々な方が書いているので>、「つぐない」の荒筋はもうご存知かもしれませんね。舞台は1930年代のイギリス上流階級で始まり、後に作家になる内省的な少女ブライオニーが、姉と自分の好きな人との間を、誤解もあり嫉妬もして嘘の証言をした事から引き裂き、色々な人の運命を狂わせるお話です。姉にキーラ・ナイトレイが、姉と相思相愛の使用人の息子のロビーに「ラストキング・オブ・スコットランド」のジェームズ・マカヴォイが扮しました。でも題名から察せるように、この妙齢の美男美女を差し置いて、主役というか物語の視点は過去を償おうと苦悩するブライオニーです。

 <そのブライオニーを年代に応じて3人の女優>が演じるのですが、まず事の発端の嘘の証言をする少女期は、新星シアーシャ・ローナン。この少女は演技力もたいした物だけれど、役に重なる容姿、それも正面以上に横顔が繊細で素晴らしいのです。おでこから鼻筋、口元からあごまでが美しい半円で繋がり、まるで天使の様な美しい凹凸になる。しかも瞳の僅かなニュアンスだけで、夢見がちな少女の危うさと一途さを感じさせるのが見事でした。彼女の横顔に魅せられたのは、観客以上に製作者達だったようで、カメラは執拗に彼女の横顔を追い続けています。
 <その後の、見習い看護婦として働いている年代>を演じるのが、オゾンの「エンジェル」で虚飾の作家に扮したロモーラ・ガライ。この時期のブライオニーは、自分の犯した罪の重さと戦場で傷ついた兵士の凄まじさに押しつぶされまいと、歯を食いしばって堪える、鬱積した表情をしています。本来なら一番美しい時期のはずなのに、年頃の娘の匂やかさが無く、配役を見るまであのロモーラ・ガライだとは気付かなかった位の無骨さ。実は、観ている時はそれが不満でした。この年代を重苦しく演じたからこそ、この役に現実味が加わったと気付いたのは、少し時間がたってからの事です。
役の為とはいえ、前後の二人の間で輝きを消した下支えを引き受けるのは、若い女優さんならちょっと辛いはず。それをやってのけるロモーラの役者魂は本物ですね。前作といいこれといい、作家と言う虚構を紡ぐ人種にリアリティを与えるのが見事でした。

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 <さて、それなりの結末が現れ>物語が終わるのかと思ったら、最後に晩年のブライオニーが登場します。実は私はここまで少し不満がありました。ブライオニーの言動には疑問を持たないものの、少女の言葉を鵜呑みにした周りの大人が幾ら何だって嘘っぽい。それにその時はともかく、後でいくらでも証言を改める事は出来たはずなのに、それをしないで自己満足的に「つぐなおう」とするブライオニーにも苛立って、展開が少し都合良過ぎると思っていました。
 <でもそんな不満も、ヴァネッサ・レッドグレイヴが>インタビュアーにこの物語の背景と、自分の病気を嘆く事もなく、これを最後に筆を折ると告げる姿を見た瞬間に消え、総てを納得しました。女優の全身からかもし出す説得力にやられたとしか思えません。

 <ブライオニーが説得したのか、演じたヴァネッサ>の滲ませる人生の説得力なのかは判別不能だけれど、あんな日々があったからこそ、一人の作家が誕生したのだと強烈に思いました。そうなると面白い物で、似ているわけでもないのに、若い時代を演じた2人の女優にすらヴァネッサのイメージが被ってくるのです。
 <こうして、短い出番で映画全体を支配して>しまったという訳で、何とも見事なヴァネッサ・レッドグレイヴと言うしかありません。思慮深い輝く瞳と人生を感じさせる皴や表情が本当に美しく、圧倒的な存在感を放っています。若い女優では到底太刀打ちできない美しさがあると教えてくれる。ちなみに3人のブライオニーに共通するのは、金髪の髪型と頬の小さなしるしだけでした。ブライオニーを演じた3人の誰もが、本年度の主要映画賞候補とまで言われているようです。

  関西ではテアトル梅田、三宮シネフェニックス、京都シネマ等で上映中

「丘を越えて」no池脇千鶴さん

映写室 「丘を越えて」池脇千鶴さん合同会見    
 ―菊池寛没後60年に贈る文芸作品― 
 人気作家であると共に文藝春秋社社長で、時代のパトロンとして君臨した菊池寛の、生誕120年、没後60年を記念する作品が完成した。原作は現東京都副知事の猪瀬直樹氏、メガホンを取ったのは高橋伴明監督。菊池寛には西田敏行さんが扮し、私設秘書として仕え、菊池から全てを教えられた女性細川葉子に、関西出身の池脇千鶴さんが扮する。池脇さんに製作秘話を伺います。

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 (4月25日 大阪にて)

<その前に「丘を越えて」とはこんなお話> 
 母と二人暮しの葉子(池脇千鶴)は、知人の伝で文藝春秋社の試験を受ける。女学校を卒業したばかりで、仕事が必要だった。社長の菊池寛(西田敏行)がモダン好きと聞くと、母から借金をして初めての洋服を誂える。試験の日、会社の前で馬海松(西島秀俊)に「きっと受かるよ」と声をかけられた。彼もここの社員で韓国の貴族らしい。

<池脇千鶴さん合同会見レポート> 
―少女のような池脇さんが、年上のこの役を演じるのは大変だったのでは。
池脇千鶴さん(以下敬称略):この映画の舞台は全く知らない世界だったので、役作りの為に色々勉強しました。昭和の資料を集めてもらって読んだり、写真を見たりです。物語が実話をもとにしているので、それを調べたりもしました。
日下部プロデューサー(以下敬称略):葉子という女性は実在の人物で、元々作家志望で文藝春秋社に入った方です。映画の中の色々なエピソードも、実話に基づいていますが、この方が今もご健在なもので、プライバシーもありますから、全て描くわけには行かずその辺に留意しながらでした。馬海松さんというのも実際にいらした方だそうです。
池脇:難しい役だけれど、台本が良かったので出演を決めました。葉子は私から見ても魅力的な女性です。生き様がかっこいい。演じていて彼女の大胆さを学びたいと思いました。生きる為のしたたかさを持っていて、物書きにもなりたいし、愛にも正直だった。何一つネガティブに捉えないで、総てを前向きに考えて動いたからこそ、周りがいい方向に変わっていくんですね。開かないドアを壊して、敷かれていないレールを敷き、色々な奇跡を起こしていった人です。

―葉子は仕事を手に入れる為に嘘をつきますが、池脇さんも嘘をつく事がありますか。
池脇:常に付いている嘘は、監督から「大丈夫ですか?」と言われると、本当はまるで解ってない時でも、はったりで「はい、大丈夫です」と言う事です。
―演出の高橋伴明監督は、池脇さんのことを天才だと言ってらっしゃいますが。
池脇:特別な事は何もしていません。台本通りに演じただけです。高橋監督は現場であまり指示を出されません。でもスタッフがどう変わろうが、現場の皆を背負っていけるカリスマ性があります。出来る人ばかりというのもありますが、こう動いてとかの短い言葉だけでした。ただ100円もの大金を、「頂けません」と言いながら結局貰うシーンは、嫌らしくならないかと心配しました。あのシーンには、菊池寛の彼女への心からの感謝の気持ちがあるし、葉子のほうも文章が上手いと褒められて本当に感激している。でも間違うとそれが変に見える危険性があります。見た方に大丈夫だったよといって貰えたので、安心しましたが。葉子は正直で、場面場面で真剣に自分や周りに向き合って生きているので、演じていても矛盾が無かった。菊池寛は遊びも知っていて仕事も猛烈にしている。素晴らし過ぎる上司です。西田さんが本人なのか菊池寛なのか解らない位、役と一体化して演じてられました。

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(c)「丘を越えて」製作委員会2008

日下部:今回は西田さんもいつものアドリブをいれず、台本の通りに演じたそうです。
池脇:西田さんと親しくて、現場が終わった時に「局長!」、「局長!」と呼んでたら、西田さんが「『探偵ナイトスクープ』に呼ぼう」と仰って、本当に呼んで下さったんです。実はさっきまでそれの収録でした。
―池脇さんの芸能界における菊池寛のような存在は。
池脇:色々な監督や共演者に育ててもらったし、仕事を良いと褒めてもらったこともあります。でも、芸能界で私を引っ張って来てくれたのは、自分の会社の社長とマネージャーです。私を信じて、私のやりたいようにやらせてくれる。仕事の世界に自由に突き進ませてくれたのは、2人でした。
―もう1人の共演者の西島さんとはどうですか。
池脇:西島さんとは、扮装をして馬海松さんになったところでお会いしたので、西島さんと言うよりもすでに馬海松さんでした。本当にかっこよかったです。もの凄い映画青年で、東京の映画館では観に来てるのをよく見かけるらしいです。

―葉子は父親のような菊池寛と、素敵な馬海松の間で揺れますが、彼女のように2人の男性の間で揺れた事はありますか。演じられて一番切なかったシーンは。
池脇:過去にはあったと思います。一番切なかったのは、朝鮮半島に帰る馬海松さんと別れて帰ったら、家に来ていた菊池寛さんの歌が聞こえてくるところですね。西田さんの、もうこうするしかないといった風情の、泣き笑いの顔を見た時は本当に切なくなりました。
―昭和初期の素敵なお洋服をたくさん着ますが、一番好きなのは。
池脇:あの時代は帽子が大事で、付属品ではなく『帽子」として存在するんですね。色々なものを被っています。服も枚数が多いので、衣装合わせが大変だったけれど、楽しかった。でも素敵な服をたくさん着たのに、私が一番好きなのは着物です。衣装さんが、アンティークの本当に可愛い物を探してくれました。着物を着て、髪もおかっぱで、これは実はウィッグなんですが、机に向かって勉強しているシーンが一番好きですね。
―まさに葉子の江戸情緒ですね。関西出身の池脇さんが江戸弁を喋ってらっしゃいますが。
池脇:江戸弁の言葉遊びに惹かれて出演を決めたのもあります。でもテンポとかアクセントとか、どう喋ればいいか解らず、テープに吹き込んでもらって何度も聞いて覚えました。現場で監督にも教えてもらいましたね。駄洒落言葉も多いのですが、それぞれ面白い。「電信柱が高いのも、角のポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」と言って母親の怒りをそらすシーンが、可愛くて一番好きです。

―余貴美子さんのお母さんと素敵な関係ですが、池脇さんのお母様は。
池脇:私の母はもっと保守的だけど、いつも一人暮らしの私の事を心配してくれています。東京から関西の家に帰ると、お風呂の用意がしてあって、お風呂に入ってる間にお布団を敷いてくれてと、まるで仲居さんみたい。ビールも私しか飲まないのに買ってくれてて、最初は何でと思っても、そんなの見てたら(ああ、私はここで甘えても良いんだなあ)と安心して来て、色々な事を頼める。仲のいい親子です。
―昭和と言う時代を平成の今と比べてどう思われますか。
池脇:女性が生きにくい時代だったなあと思います。葉子の時代は、結婚して子供を産みと、普通に生きるしか女性には選択肢が無かった。仕事をして生きていくと男の人に潰される。でも明るい時代でしたね。この後に暗い時代が来るけれど、この映画の頃までは明るく楽しかった。この時代を描くと後の暗い戦争を匂わせて終わるものが多いのに、この作品はそれを匂わせながらも明るく終わっている。明るい時代の日本のこの人たちを、お見せ出来てよかったと思います。

<映画案内とインタビュー後記>
 この映画は昭和初期という時代と、その文化を引っ張った菊池寛とその周りの人々を、愛を込めて描いています。まだ封建的な時代に、果敢に男性社会に踏み込んでいく細川葉子、彼女を愛し始める人間臭い文壇の重鎮菊池寛、葉子を愛しながらも祖国朝鮮の近代化の礎になろうとする高等遊民の馬海松と、個性的な三者が恋の手前でもたもたする、複雑な関係も見所。「父帰る」とか「真珠夫人」の菊池寛は、芥川賞や直木賞の創設者でもあったのですね。しかも文藝春秋社社長として、色々な雑誌も出していた。ここでは「モダン日本」の創刊の頃が描かれています。先頭を切って職業婦人となり、洋装を颯爽と着こなしながらも、どこかに江戸の香りを残すと言う葉子そのものが、この時代そのものにも思えました。素顔には幼さの残る池脇千鶴さんが演じるからこその透明感で、二人の男性から愛される女性を、コケティッシュに誠実に存在させるが何よりの見所です。
 

   5/17(土)より梅田ブルク7、109シネマズHAT神戸で上映
   5/31(土)より京都シネマ、
   6月中旬より水口アレックスシネマで上映予定

ラフマニノフ ある愛の調べ

映写室 NO.150 ラフマニノフ ある愛の調べ     
 ―作曲家とピアニストの狭間で―

 両側にうっそうと茂るライラックの間の細い道を、一人の少年が小枝を揺らしながら駆けていく。カメラが彼の後ろを何処までも追うと、やがて向こうに広がる庭と池と大きな屋敷。気が付くとスクリーンには小枝の揺らぎの残像や、零れる様なライラックの白い花の甘やかな香りが立ち込めている。多分、主人公が始終回想していた幼年期の思い出なのだろう。鮮やかでかつ強引な導入テクニックが見事で、全編に残像のライラックの花影とロシアの憂鬱が漂い、芸術家の創造の苦しみとその誠意、そんな彼を側で支えた妻の誠意が胸を打つ作品です。

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(C) 2007 THEMA PRODUCTION JSC (C) 2007 VGTRK ALL RIGHTS RESERVED

 <ロシア革命を逃れて、45歳でアメリカに亡命した>セルゲイ・ラフマニノフは、新しい地で成功を収めながらも、終生故郷を忘れる事は無かった。高度な技巧を要し、繊細で格調高い彼の音楽の本質を探れば、祖国ロシアに行き着くという訳だ。
 <亡命後始めての演奏会での事>、ラフマニノフはバルコニー席のソ連大使を見つけて、演奏を躊躇する。一役買ったのはカーネギーホールの大観衆で、激しいブーイングで大使を退席さすと、素晴らしい演奏が始まり割れる様な喝采が会場を包む。こうして大成功のうちに全米ツアーが始まるが、望郷の思いと曲が出来ない苛立ちで本人は衰弱するばかり。心配する妻や興行主のスタインウェイもなす術が無い。
 <失意の彼がロシア時代の回想に>逃げ込んだ様に、映画は彼の憂鬱に寄り添い、アメリカでの暮らしとロシアでの思い出を交互に映して、この天才の半生を浮び上がらせていく。新天地での戸惑いや生活の重さ、自分の思いと大衆の求めるものが乖離し、だんだんそれに流されていく荒立ちを描くあたりは、ものを創る者ならば身に詰まされるだろう。

 <1873年にロシアの裕福な家庭に生まれたセルゲイ・ラフマニノフ>は、幼い時から才能を開花し、12歳でモスクワ音楽院に入学する。父親が破産した後も、高名な教授に見出され英才教育を受け、チャイコフスキーとも交流があった。ただし、教授からピアニストに専念するように言われながら、作曲家の道を諦めきれず破門されたり、最初の作品の発表会に失敗したりして、失意から精神を病むようになる。彼の紡ぐ音楽のように神経も限りなく繊細だった。
 <それを支えたのが従妹のナターシャで>、冒頭のライラックの奥のあの屋敷で一緒に遊んだ少女だ。彼女は後に彼と結婚し大きな愛で支え続けるのだけれど、繊細な芸術家に寄り添うのは並大抵のことではない。エキセントリックで情熱的な女性に恋する夫の側で、この妻は母性に徹している。悲しい事に平穏な家庭からは彼の音楽は生まれないのだ。ナターシャは彼にとってマネージャーであり母親であり、タフな、まさに揺るがない祖国そのものの人だった。いや最初からそんなはずがなく、天才の側で暮らして彼を守る為にそうならざるを得なかったと言うことだろう。創造の女神の罪深さ、妻も又それを知る人だったということだろうか。
 <しかもこれほどロシア的な芸術家なのに>、やがて革命が芸術家にとって何より大事な自由を奪い、祖国を捨てさせる。いつも恋うものから遠くにいたのがラフマニノフのようだ。だからこそ、その恋う思いを鍵盤に載せた訳で、芸術家とはそもそも不幸であってはじめて成立するかのような一生が続く。

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 <ここまでの事情を知らなくても>、プーチンに良く似たラフマニノフは顔立ちからしていかにもロシア人だし、佇まいや格調高い独特の音色にも濃密にロシアの香りがする。歴史のあるロシアの豊かな文化遺産を体現する音楽家なのだ。アメリカに亡命しながら、アメリカに馴染めないそのロシア的匂いこそが私達を惹き付ける。それに長い指を酷使した超人的な演奏と技巧的で難しい曲は他の追随を許さず、ピアニストとしても作曲家としてもファンが多いけれど、両方に秀でていたからこそ本人はいつも苦悩の中にいた。この作品は、ピアニストと作曲家の狭間、祖国とアメリカに来た自分、創作と生活を支える事の狭間で揺れ続けた、彼の苦悩を綴っている。その苦悩や惑いこそが、体制の大きく変わったロシアが内蔵するもので、私達にはロシアの憂鬱と映るのだと思う。

 <ところでラフマニノフの演奏会には、何処で開かれようと必ず>、白いライラックの花束が届けられたと言うのは、あまりに有名な話だ。彼はその花にかき立てられ、もう一度瑞々しい演奏や作曲に挑んでいくのだけれど、肝心の花束の送り主は不明で謎に包まれている。この作品はそこに大胆な解釈を加えて、物語を展開していく手法だ。
ライラックへの思いをこれほど知っているのは、身近な人には違いないが、愛する人ではあっても愛される人ではなかった妻への優しい解釈は、少し完結し過ぎている様にも思う。ここに新たなミューズがいたとしてもおかしくはない。

 <ロシアとは不思議な国だ> 文学もだけれど、音楽バレエ等の文化度では他の追随を許さない。歴史と広大な土地、厳しい自然、それ以上に長い帝政時代が豊かな階層に膨大な文化遺産を降り注いだ。町のそこ彼処に創造の源が転がっているのだと思う。文化は過剰さや制約、鬱積したものからこそ生まれる。自由な新しい国にはそれが希薄な事を知っていたら、はたして彼は亡命したのかどうか。物語以上に、ロシアと言う国の力、詩情、文化とはどんな地で生まれるかと考えさせられた作品だった。
 全編に流れるピアノ曲が美しい。その音も繊細で華麗と言うよりは根幹の正当性に根ざす格調のあるロシア的な響き。ピアノ好きやラフマニノフのファンには堪らないだろう。余白に漂っているロシア文化の匂いに魅せられる作品です。

  東京で公開中、5月17日(土)より関西でも上映

<ディープな情報>
 ラフマニノフで一番有名なのは1901年に発表された「ピアノ協奏曲第2番」。初演でも喝采を浴びたが、43年の彼の没後も「逢引」(45)や「7年目の浮気」(55)等で使われ、日本でも最近「のだめカンタビ―レ」で使われて再び脚光を浴びた。「シャイン」では「ピアノ協奏曲第3番」が世界一難しい曲として登場する。

最高の人生の見つけ方

映写室 NO.149最高の人生の見つけ方
     ―余命6ヶ月と宣告された二人の男―
 体調を壊して軽い気持ちで病院に行ったのに、医師から余命6ヶ月だと宣告されたら、どうするだろう。誰にとっても有り得る話だけれど、たいていの人は、その瞬間までそれを考える事も無い。この物語の主人公たちは、そんな事態に直面して、最後の日に悔いが残らないように、今までの人生でやり残した事を全てやろうとする。大富豪の豪腕実業家にジャック・ニコルソン、実直な自動車整備士にモーガン・フリーマンが扮し、人生の儚さと素晴らしさを、余裕の演技で見せていく。物語もだけど、始終アップになる二人の顔に刻まれた生きた証の年月が、何と言っても味わい深い。

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 (C) 2007 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

 <体調を壊して入院したカーター(モーガン・フリーマン)>は、偶然この病院の持ち主のエドワード(ジャック・ニコルソン)と同室になる。二人とも末期癌で余命6ヶ月と解った。カーターが棺桶リスト(棺桶に入る前にやりたいことを列挙したもの)を作ると、エド―ワードがそこに自分のリストも書き加えて、一緒にそれをしようと言う。
二人は心配するカーターの妻や主治医を振り切り、点滴を引きちぎって病院を出る。苦しんで僅か命を伸ばすより、短くても積極的に残りの時間を使おうとするのだ。

 <学業を半ばで辞めて>、一家の為に働いてきたカーターには、やりたかった事が山ほどある。リストはそんな夢を書き出したものだった。なのにそれを夢で終わらせず、全部やろうとけしかけるエドワードは、自分の為だけに積極的に生きてきた男だ。偶然の出会いから考え方も境遇も違う二人が格好の相棒になって、スカイダイビング、レースドライビング、アフリカでのサファリー探検、エジプトのピラミッドを眺め等々、リストに線を引いては次のしたい事に向かっていく。
 <それを可能にするのはもちろん財力で>、エドワードがいとも簡単に差し出す総てにカーターは感嘆する。エドワードも彼の感嘆が自分の人生への肯定のようで嬉しいのだ。仕事一筋で財を成しても、身寄りは無いようなもの。友達もいなければ、離婚を繰り返し、一人娘とも長らく会っていない。カーターの喜ぶ様は、エドワードの脳裏に浮かぶ人生の後悔や虚しさを、一時和らげてくれる。一方家庭的に恵まれたカーターにしても、自宅で遺す事になる妻と向き合うのはまだ辛い。愛する人々の労りが重荷になる時だってある。神様が二人に授けた幸運は、同じ年代で同じ病、同じように余命を宣告された二人を出会わせた事だ。

 <二人の旅は、どんなに豪華でも観客には何処かが痛々しい> はしゃげばはしゃぐほど後ろの死が透けて見える。自分でも解っていて、相手の瞳にそれを見つけながら、それでも無邪気に楽しもうとする男たち。死に逝く者の悲しみや怯えは、やっぱり本当のところ同じ立場の者でないと解らない。ここに他者が入れる余地はないのだ。裸になるとぶよぶよでみっともなくても、服を着たジャック・ニコルソンのかっこいい事。我儘ぶりや寂しさ、豪腕ぶりを楽しそうに演じている。それに対して、受けのモーガンの穏やかさと暖かさ。遊び呆ける二人の表情が、時々少年のようになるのは、本人達がこの役を楽しんでいるからだろう。

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 <二人の選択に目新しさは無い> ここで描かれるのは、たいていの人が出来るものならこうしたいと思う事だ。それでも、遊びに逃げて、逃げる虚しさに気付いて、覚悟を決めて穏やかになる二人を見せられると人生を考える。弱音を吐きつくして、覚悟した後の自分を愛する人に晒すのは、最高の人生だと思う。その過程をこそ支えるのが、家族であったり愛する人だという考え方もあるけれど、死ねば終りの本人以上に、遺される者にこそ死は重いのだ。支えたつもりの家族が実は支えられていることもある。思いっきり苦しむ時間を、愛する人から離れた所で持てたのは、男の美学を貫けて幸せだったと思う。不測の事態が起こった時、こんな役の経験は彼らの死生観に影響を与えるのだろうか。

 <秘書がそんな二人に、感情を出さず淡々と仕える>姿が良かった。どんな場所にもどんな時間にもスーツで現れ、絶対権力者に労わり以上に平然と言いたい事を言い放ち、プライベートな時間もフォローする。実はこの作品、最初のシーンは雪山を黙々と歩く黄色いヤッケの男を映して始まった。遠景や足元ばかりなので、このシーンの意味や誰なのかは解らない。映画の最後にこのシーンに戻って顔が映ると、男はエドワードの秘書なのだ。我儘な豪腕実業家は、誰に嫌われようと、身近な一人の男に最後まで忠誠を尽くされた。人には人の幸せの形がある。エドワードにとってこれを最高の人生と言わずにいられようか。真ん中に最期を置いて、家族を支え実直に生き抜いた男、ビジネス界を腕力で泳ぎきった男と、その側でじっと支えた男、三人の男の阿吽の心を描いた作品だと思う。

 <昔はよほどの初期で無い限り癌の告知は無かった> 告知は癌の治癒率が飛躍的に上がった証でもあるし、この二人のように、残された日々を充実させたいと言う死生観の芽生えでもあると思う。人は必ず死ぬと言う真実に気付けば、やがて来る死を嘆くより、その日までの限られた時間を大切にしたくなる。痛みを消せればだけれど、癌はそれができる病だ。
   

   この作品は5月10日(土)より、全国でロードショー。

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