太秦からの映画便り

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映写室 シネマエッセイ「ぐるりのこと」

映写室 シネマエッセイ「ぐるりのこと」     
 ―リリー・フランキーってどんな人?―

 <リリー・フランキーが自分の半生を綴った>「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」で、彼の役を演技とは思えない自然さでオダギリ・ジョーが演じたものだから、単純な私が二人のイメージを重ねてしまうのは当然の事。(きっとオダギリのように素敵な人なんだ!)と時代の寵児に妄想は膨らむばかりで、「ぐるりのこと」に、彼が役者で出ると聞いては見逃すわけにはいかない。
 <そうでなくても色々な雑誌で色々な人が>、彼の事を「もてる、もてる」と連発しているし、東京の業界の知人も、「フランキーさんは、なんかもてるんだよ」と真顔で言う。彼がまだメジャーじゃない頃の話の「東京タワー…」で、松たか子が演じたガールフレンドは、女優の〇〇〇さんの事だとも聞く。だから、「ぐるりのこと」に駆けつけたのは、映画を観たいというより(リリー・フランキーってどんな人? どうしてもてるの?)と言う疑問の答えを探るのが目的だった。

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(C) 2008『ぐるりのこと。』プロデューサーズ

 <「ぐるりのこと」は美大の同級生同士で>結婚した夫婦の物語で、妻が子供を亡くした喪失感で欝になったりという紆余屈折の10年間を、二人の周りの事(ぐるり)を絡めて静かに綴っている。小さい出版社に勤める妻と靴の修理屋から法廷画家になった夫、妻の父親は元プロ野球選手で行方不明だし、母親は怪しげな祈祷で稼ぎ、妻の兄は浮き沈みの激しい不動産業者という設定だ。病気で精神的に不安定な妻を静かに支え続けた夫の情愛と、其処から生れたものが主題だろうか。PFF(ぴあフィルムフェスティバル)出身の橋口監督が、今邦画界で流行の、日常を描きながら人生のささやかだけれど、かけがえの無いものを炙り出す手法だ。
 <主人公の仕事柄、世間を騒がせた大きな事件の裁判が>被告と傍聴席の様子を誇張して描かれているが、鳩山法務大臣のいるこのご時世だから、もう死刑執行された方も数人いて、本当かどうかはともかく、誰もの巷の噂を裏付ける傍若無人振りが面白かった。

 <でももちろん最初に断ったように>、私の目的はひたすらリリー・フランキー。彼が出ていなかったら観なかったかも知れない位だもの。雑誌等で写真は見ているから、それ以外のニュアンスとかが知りたかった。一見するとごく普通の男性で、ハンサムとは言えないし、さり気無く中年体型になってもいる。(なのにどうしてもてるの?)と言う疑問には、力の抜けた自然体が素敵だったと答えたい。
 <リリー・フランキーさんは構成作家でD.Jとかも>されているから、映画には出なくてもこんなことには慣れている業界の人だ。丸っきりの素人ではない。それでもカメラの前に立てばいくらかは緊張もし構えるだろうに、こちらからはまるでそれが見えなかった。それどころか、きわどい下ネタやお国訛りを連発して、不思議な安らぎに変えている。彼の脱力感がこの作品のトーンなのだ。薄く脂肪の乗った裸体まで肩の力を抜いて平然とさらしている。まるで自分の家で寛いでいるように。すべては、演技と言うよりカメラを意識せず、いつもと同じように自分でいたのだと思う。

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(C) 2008『ぐるりのこと。』プロデューサーズ
 
 <カメラの前だけでなく、多分何処でもどんな人の前でも>、彼はこんな具合にいつも淡々とありのままの自分でいそうだ。この魂の抜け具合が、他人をもありのままに受け入れる優しさとなり、競争社会で生きる多くの女性の安らぎとなるのかもしれない。自分を追い詰めて苦しむ妻を慰めるシーンなど、包み込むような優しさ。実生活のワンシーンを見ているようだ。だらしない自分を知り尽くし、他人の歩調に合わせられる人なのだろう。そんな魅力が垣間見える。彼の描いたイラストも登場して、本人に似た脱力感が暖かくて素敵だった。

 <ところでこの作品ですら>、自分のままを出す役者ばかりではない。柄本明や寺田農、倍賞美津子と、自分でいるように見せながら、実は周到に計算した、役を生きているベテラン達がいる。こちらは、自然には見えてもただの自然とは重みが違う。もちろん映画的世界が成立しているのは、実力を持つそんな脇役がいるからだ。初めから自然体の人、演技を勉強し尽くして自然体になった人、同じ様で両極端、違うようで同じという両者の共演が興味深かった。
 <リリー・フランキーさんのもてる秘密を探って>見入ったけれど、この映画、私のようにちょっと横道にそれた関心で観た人も多いはず。彼を主役に据えた配役だって、そんな観客を取り込む意図もあったと思う。もちろん役にぴったりなのもあるだろうけれど(これはオリジナル脚本も書いた監督がそう思って本人にオファーし、脚本を読んだリリー・フランキーもこれは自分だと思って3ヶ月悩んだ後で引き受けたらしい)、この製作者達時代の空気を読むのが巧みなのだ。ちなみにこの映画の製作者に、良心的なドキュメンタリー制作で有名な「シグロ」の山上さんが入っていて、ちょっと驚いた。他にも、今さかんに作られている邦画はこの人たちで回っているというメンバーが、キャストにもスタッフにも大勢見つかった。そんな意味でも、この作品はとても今的なのだ。

 <ただ、この後公開の作品に>、同じテイストのものが続く。こんな作風が良いといっても、これでは食傷する。作るという視点で見れば、これは作っているわけじゃあなく、視点を変えて気付かせたわけで、反則技すれすれの変化球のはず。作りこんだ作品群の中にあるからこそ良さも光るというものだ。この手法はもう完成したんだから、そろそろ次の次元の競争も見たいなあ。(犬塚芳美)

     この作品は、シネ・リーブル梅田、京都シネマ等で上映中
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「パークアンドラブホテル」インタビュー

映写室 「パークアンドラブホテル」インタビュー
   ―熊坂出監督に伺う撮影秘話―

 ラブホテルの屋上に公園があるという設定の、不思議な世界観の邦画が、2008年のベルリン国際映画祭で、最優秀新人作品賞を取りました。主演は、その昔「私は泣いています」と歌ってミリオンヒットを放ったリリィさんです。初の長編作品で快挙をなした、熊坂出監督にお話を伺いました。
    
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  (5月9日 大阪にて)

<その前に、「パークアンドラブホテル」とはこんなお話> 
 髪を銀色に染めた少女が、大きなリュックを背負って写真を取りながら町を彷徨っている。ラブホテルに老人や子供が次々と入っていくのに驚いていると、オーナーの艶子が屋上に案内してくれた。そこは公園になっていて皆が思い思いに過ごしている。「どうして死のうと思うの?」と聞かれて、髪を黒く染め直されその日は泊めて貰うことに。

<熊坂出監督インタビュー>
―これがスーパーとかだったら普通にあり得る話ですが、ラブホテルの屋上に公園という設定はかなり特殊ですが。
熊坂出監督(以下敬称略):普通にありうる設定では映画が出来ませんから。僕は元々ラブホテルと言う空間が好きで、外観はお城だったりブティックホテルだったりと、取り繕った虚飾性の強い世界なのに、中で行われているのはリアルな本能そのものですよね。そんな矛盾を抱えた所が好きで。屋上と言うのも、僕の実家が内装屋で、3階建の上に屋上があって、昔はそこでよく遊んだんです。色々な所の屋上にも行ったし、小さい頃から屋上に思い入れがありました。二つの好きな場所が一緒になってイメージが広がったんです。
―何処かにある実際の屋上の公園からイメージを膨らまされたのかと思いましたが。
熊坂:いえ違いますね。屋上の公園は滑り台だとか椅子だとか運び上げて、全てこの映画の為に作りました。色々な公園のイメージを借りています。

―艶子と少女が喋りながらエレベーターで屋上まで上がる時間が長くて、もっと高い建物かと思ったら、映ると意外に低かったのですが。
熊坂:そうなんです、あそこは意図的です。撮影に入る前にあのシーンがあんなに長くていいのかと話し合いましたが、訳の解らない所に連れて行かれる感じとかを表したいと。これも子供の頃の体験が下敷きにあるかもしれなくて、さっきも言いましたが実家が内装屋なんで、作業場と一緒の家にエレベーターがあって、で、エレベーターに襖とか一杯積んで2階の作業場まで運ぶんですが、重いから上がるのが凄いゆっくりなんですよ。そんな潜在意識もあるかもしれませんね。自分の家にエレベーターがあるというのは、子供ながら結構自慢だったんです。
―ラブホテルと言うのは日本独自のもので、ヨーロッパではこの話が通じにくいのでは。日本だとその発想が一番受けるところですが。
熊坂:ええ、そうなんです。向こうでは企画として成立しません。そこのところを勘違いされて、ベルリン映画祭の質問で「東京ではこんなところが一杯あるんですか」と言う質問を受けましたね。でもそれ以外の、人間の描き方というか、構成や作品の方向性が評価されたようです。

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(C)PFFパートナーズ

―釜山とベルリンの映画祭の反響の違いはどうでしたか。
熊坂:僕も初めての映画祭で他は知らないので、この作品が上映された時という限定でお話しするなら、両方とも反響は良かったです。釜山は若い人ばかりだった。広い会場もソールドアウトでしたし、凄く受けたんですが、ここは映画監督というだけでリスペクトされてる気もするので、そんな反応は僕だけじゃあないのかもしれません。上映後はサインを求める人にワーッと取り囲まれて、恥ずかしくもあり嬉しくもありでした。釜山はすぐに映画のレビューが出るんですが、一紙にはこてんこてんに貶され、しょげていた所に出たもう一紙には凄く褒められ、嬉しかったですね。レビューを読んで一喜一憂する自分が馬鹿みたいだなあと思いますが。ベルリンの会場は凄く大きいんです。こちらも毎回満席でした。観客は国籍も年代も本当にばらばらですが、自分で言うのもあれですが、やっぱり評判が良くて、3回大きな拍手をもらえました。この映画は10のうち2を描く手法です。描かないところも僕の中では設定してるんだけど、後の8割は観客に委ねている。まあこちらの設定とは違う解釈をされている方もいました。

―それは計算してですか。
熊坂:そうです。凄く解りやすいカタルシスがあると映画がそこで終わります。10設定して10提示すると映画が閉じてしまう。終わった後で観客に持って帰ってもらうには、観るほうの想像の余地が必要だと言うことです。なかなか難しいんですが、映画とはそんなものだと思うんですよ。
―なんでも監督の奥様はすごい映画通とか。
熊坂:彼女は一緒に映画祭を回っているんで、必然的に何度も観る事になります。この作品も最初観た時は辛辣でした。でも、2回目以降にガラット変わりましたね。まあ、それだけ解りにくいと言うことですが。
―そんな反応は予想していたと。
熊坂:ええ、予想していました。この映画で大きな軸となっているのは、艶子のアンビリーバブルな感情をどう構築していくかです。言葉に出来るような画一的な感情とは違うものを描きたかった。少女が送ってきた写真を見て泣くシーンとか、艶子の中にも複雑な相反する感情がある。そんなところは一回観ただけでは解りにくいと思います。でもベルリン映画祭は女性審査員が多く、そんな微妙さがすっきり伝わるんですよ。フランスのドミニクさんと言う映画監督と色々話したけれど、一回観ただけで全て把握されていました。

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(C)PFFパートナーズ

―リリイさんの存在感が大きいですが。
熊坂:最初こそ色々段取りを話しましたが、途中からは本当に全て本人に任せました。こんな芝居のつけ方をすると、リリィさんの生の人生が出てくるので、それに説得力があるものだから、それだったらここまで言わなくても解るだろうと、最初の台詞を一杯カットしていって、「何するのよ」と怒るリリィさんと喧嘩ばかりでした。でも後で解ってくれて、あれはリリィ艶子になる過程だったんだと思います。リリィさんは素顔のように見えますが、老けメークをしたり、それぞれコンセプトのある服装をしたりと、こちらがしたのはそんな事です。リリィさんが微妙なニュアンスを表現してくれるから、それで充分で、音楽を入れると観客の解釈を混同させる。場面の中に自然に流れる音楽以外使っていません。
―リリィさんは出来上がったものを御覧になって何と仰いましたか。
熊坂:どうなんでしょう。ちゃんと話してないですね。ゼロ号の試写を前の席で観てたけれど、私太って見えるとか言ってたかなあ。僕らあまり自分の出てるものを見たくないんです。恥かしくて客観視できないんですよ。ちはるさんからは、出来上がったものを観て初めて、監督の言いたい事が解ったと言われました。実は僕は、他の人とも終わった作品についてあまり話しません。僕は我が強いので、他の人の意見より自分の評価が大事で、もうこの映画に関しては、時間も経っていますから自分の評価が終わっているんですね。カメラの袴田さんが以前「僕は反省しないんですよ。次の宿題にするんです」と言ったのに感化されて、まあそれって反省と一緒ですけど、いまさらどうこう言っても仕方がないというか。それに映画は生き物で、これは確かに僕が作ったけれど、もう僕の手を離れて一人歩きしていますから。

―ベルリン映画祭の受賞と言う幸先の良いスタートですが、この後の予定は。
熊坂:色々書いてはいるんですが、なかなか通らなくて。もっとサービスしないといけないんでしょうね。自分が面白いと思うだけじゃあなく、それを観客も面白いと思う方向に持っていく。これを描きたいと思うものを、サービス精神によって解りやすいものにする技術が必要なのでしょうね。それが監督のサービス精神だと思います。名作って誰も悪く言わないじゃあないですか。マスを広げる事がレベルを上げることだと思うので、そういうものを作りたいです。  (犬塚芳美)

 この作品は6月28日(土)より第七藝術劇場で上映、
      7月中旬神戸アートビレッジセンター、順次京都シネマで上映予定


<インタビュー後記:犬塚>
 描き過ぎない作風どおり、監督自身も喋り過ぎるのを嫌うような、言葉を選んだ短い返答が返ってきます。作品を補足する姿勢とは真反対で、そこに意志の強さと潔さを感じました。ところで、この作品は何と言ってもリリィさんです。アンビリーバブルな感情を抱えた女性を、時にはふてぶてしいほどの存在感で演じ、柔らかくリアルに感じさせます。考えてみると、私たちの感情と言うのは、言葉も行動もだけど矛盾している。でもそれらを俯瞰すると、言葉にはならなくても、確かな思いがあるのが見て取れます。人とはそんな生き物、生きるとはそんな事、この映画の矛盾の中の真実という不思議な世界観が忘れられません。屋上の解放区が何処かに出現しそうです。

映写室 NO.156 ミラクル7号

映写室 NO.156 ミラクル7号   
―映画はチャウ・シンチーのワンダーランド!―

 「少林サッカー」等でお馴染みの、香港映画界の才人、チャウ・シンチー(周星馳)が又もや弾けた作品を作った。「E.T.」をオマージュにしたSFファンタジーで、ハリウッド作品とは違うB級感が素敵な味わいになっている。主人公に拾われる奇妙な形の地球外生物「ミラクル7号」は、まるでスライムかヌイグルミ。でも次第に命を感じ始めるから不思議だ。失敗して困った顔や決意を秘めた瞳が忘れられない。全編遊び心が一杯で笑いが炸裂するが、観終えた後に残るのは何とも言えない温かさ。絶世の中国美人も出ていて、「お父さんも必見!」と断言しましょう。

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 <ディッキー(シュー・チャオ)は今日もボロ靴を履いて>、元気に小学校へ行く。お金持ちばかりの名門校では浮きまくりで、級友に虐められるが、巨体の少女や美人の先生が庇ってくれる。ある日「もう貧乏は嫌だ!」と我儘が爆発。それでも父は、息子に少しでもましな靴を履かせたくてゴミ捨て場を漁る。偶然見つけた緑色のボールを拾って帰ると、ディッキーは早速学校へ持って行き、「最新のオモチャで<ミラクル7号>だ」と嘘をつく。ところがボールは、ふとした拍子に小さな謎の生物に変身…

 <映画はディッキーの破れた靴をアップで映し>、それに続いてベンツ、フェラーリ等のマークと高級外車で登校する子供たち、そして今度は父親がボロ靴を繕うシーンへと移る。つまり近代的な建物やそこへ集まるオリンピック景気に沸く北京の最富裕層と、そんな建物の建築にかかわりながら、繁栄から取り残されて靴さえも買えない極貧を極める庶民という対比で、今の北京の凄まじい格差社会を映していく。
 ディッキーの通う小学校は、英才教育の匂いがぷんぷん。いかにもお金持ちそうな子供たちのエリート然と自信に満ちた姿に、誇張があるとはいえ、これが世界を目指す今の中国の富裕層なのだと感じる。

 <お金も無いのにどうしてこんな学校へ通わせて>高い学費や環境の違い等で、自分も息子も辛い思いをするのかと思うけれど、賢い息子には最高の教育を受けさせ、自分の手に届かなかった輝く未来を与えたいのだ。ここでコースから外れると、いくら努力してもこの父親のように貧しさから這い上がることは出来ないという、中国の学歴偏重の現状があるのだろう。

 <…なんて社会情勢が、物語の後ろに見え隠れするものの>、もちろん主題はディッキー親子の情愛と其処へ迷い込んだミラクル7号ことナナちゃんの活躍だ。この親子が本当に素敵で、派手に喧嘩しながらも仲がいい。父親は息子の為ならどんな苦労も厭わないし、ディッキーもそんな父が大好き。演技とは思えない信頼感やお互いを思う気持ちが、見ているほうまで伝わり幸せな気分になる。こんな愛があれば何も要らない、幸福はお金ではないとよく解るのだ。それに、よれよれでだらしない格好の父親も、チャウ・シンチーが扮するとカッコいいのが困るけれど。
 <ディッキーもたまには凹んでも>父親の「嘘はつかず、喧嘩をせず一生懸命勉強すればビンボーでも尊敬される」と言う言葉を座右の銘にしていているから、仲間に苛められる時以外は明るいのだ。大きな父性愛に守られて、子供らしく伸び伸びと育っている。闖入者のナナちゃんを相棒にして、色々な事件を子供らしく無邪気に乗り切っていく様子が可笑しい。こんな秘密の味方が出来たらどんなに楽しいだろう。

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 <そのナナちゃんが可笑しい> ディッキーの無理難題に困った顔をしたり過剰反応をしたり、何かを出したと思ったらウ〇チだったりして、ディッキーの嘆くまいことか。頑張ろうとするんだけれど、どこかピントがずれている。駄目な自分にしゅんとする姿も可笑しい。最も後ですごい事をするんだから、他力本願を戒める意味かもしれない。 
 <チャウ・シンチーはこの映画で>クリエーターとして思い切り遊んでいる。もちろん圧巻は、色々な形に変身するもののどれもがちょっと情けなくとぼけた味わいの、「ミラクル7号」と言う、愛すべき地球外生物のキャラクターを生み出したことだ。ポケットに入りそうで何だか儚いのに、スライムの体が微妙に震え、確かに生きていると感じさせるのも凄い。形もやることも何処か長閑でほっとさせられる。
 全編の過剰さの中、1人ナチュラルなのが、誰に対しても平等なユエン先生役のキティ・チャンだ。清楚でその美しい事、彼女が立っただけで風景が一変する。特にディッキーだけに優しいわけではなくても、ディッキーにはそう見えても仕方がない。

 <もっと凄いのが子供たちを色々に変身させている>ところだ。ここまで息子と書いてきたけれど、ディッキーに扮しているのは実は少女(!)で、他にもいじめっ子ジョニーに扮しているのも少女だし、ジョニーの用心棒の男子生徒は何と23歳の女性が演じている。逆にディッキーを助けてくれる巨体少女は、男性プロレスラーが扮しているのだ。どうです、この性や年齢をすら飛び越えた混合チーム、遊び心満載!
 <そんな内幕は観ていてもちっとも解らず>、どうしてこんな配役が閃くのだろうと感心する。チャウ・シンチーの創作魂炸裂の作品だ。おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさはぜひ劇場で確かめて欲しい。訳知りの大人を止めて、たまには童心に返ろう!

 <開発著しい北京の街で>ディッキー親子は元気に生き延びているだろうか。…等々楽しかった映画の世界が尾を引く。こんな格好で、宇宙からナナちゃんの仲間が一杯やってきたらどうしよう。それも楽しいかもと思える可愛い異星人の誕生だ。  (犬塚芳美)

   この作品は6月28日(土)より全国でロードショー

《ちょっとディープに、シュー・チャオの裏話》
 <ディッキーを演じるシュー・チャオは>1997年生まれの11才で、1万人のオーディションを勝ち上がったラッキーガール。何気ない少年の仕草や無邪気な表情、それに腕白ぶりも板についていて、何処から見ても少年で、後でチラシを見るまで少女だとは気付かなかった。まるで魔法を見せられた気分だ。
 <悲しみ喜び戸惑いやんちゃさ等>、これほどの細かい演技をしながら、今までの経験はCM1本だけと言うんだから、本人の才能もだけれど、チャウ・シンチーの監督としての力量が凄いのだろう。ただし、天才監督もこの少女の才能に惚れ込み、自分の会社との8年間の独占契約を結び特待生にしただけでなく、何と実生活でも養子縁組を交わしている。今は実の両親と暮しているが、来日会見ではチャウ・シンチーを「社長」、「父さん」、「監督」と呼び分ける利発さを見せ、報道陣を圧倒したと言う。
 <将来は映画監督になりたいというのだから>、この映画の親子のように、チャウ・シンチーが将来を見据えて英才教育を始めているかもしれない。なんか色々な意味で、中国のスケールの大きさを実感させられた作品だ。色々な作品のパロディ場面のあるオリジナル脚本も、チャウ・シンチーが書いている。

映写室 シネマエッセイ「譜めくりの女」と「JUNO/ジュノ」:

映写室 シネマエッセイ「譜めくりの女」と「JUNO/ジュノ」 
     ―訳ありの眼差しに心乱されて― 

 <男性はちょっと横に置いて>、女性の心理を丁寧に描いた秀作が続きます。圧巻は「譜めくりの女」と「JUNO/ジュノ」で、この2つは陰と陽とでも言うのか、ひっそりとモーニングショー1回きりで上映されている前者と、ジュノ旋風を起こして観客を集めている後者と興行的にも対照的。ただそれぞれに、この後どうなるのだろうと言う、行方が気になる大人のカップルが登場します。
 <そんな結末は、実は両方とも>、最初から奇異に感じていた登場人物の訳ありの眼差しのままで、(やっぱりこうなったか!)と納得する。日常でも誰かに感じた不協和音(?)は当たるもの。かすかな違和感がそのまま拡大した展開に、直感は侮れないものだと、映画なのか日常への思いなのか解らない、複雑な感情を抱きました。

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(C) Philippe Quaisse

 <「譜めくりの女」は>、「地上5センチの恋心」で夢見がちなヒロインを演じたカトリーヌ・フロが主演で、(京都では「譜めくり…」が先の公開になり、この後で「地上…」が続く)高名な弁護士の夫を持つ自身も高名なピアニストに扮します。腕が良いのに事故の後遺症で本番であがるようになっていたのが、たまたま手伝いに来た夫の事務所でバイトをする少女の、譜めくりの腕に助けられて再起をかけると言うお話です。
 <実はこの少女も昔ピアニストを目指して>いたのに、音楽学校の入試に試験官をしていたこのピアニストの無神経な態度で失敗して、きっぱりと止めてしまった。もちろんピアニストはそんなことは覚えてもいないし、彼女のそんな行為が無くても、元々実力的に無理だったのかもしれません。でも少女は、自分が夢を捨てたのはこのピアニストのせいだと、憧れつつも復讐の機会を狙っていたと言うわけです。

 <少女に扮するのが>、やはり以前にここで紹介した「ある子供」で鮮烈なデビューを飾ったデボラ・フランソワで、とびっきり美しいわけではないけれど、個性的というか、存在感のある肢体や瞳の奥の影が忘れられない。存在自体がなぜか気になる女優です。だから観客は、何の予備知識もなくても、彼女の登場シーンからこの女が物語の鍵だろうと予想が付く。説明が無いのに、観客は幼い頃の映像と結び付けて鬱積した思いを見つけ、(この女何かやるぞ)とハラハラしながら観ることになるのです。そのあたり、デボラ・フランソワのかすかに匂わせる、得体の知れない雰囲気を効果的に使っていると感心しました。

 <少女の眼差しに合わせた思わせぶりなカメラワーク>のせいもあって、動作の一つ一つに息を詰めて緊張するのですが、本人だけでなく息子や夫と、ピアニストの一家が善良で無防備なのです。標的のピアニストは少女を信頼し、彼女がいないと演奏できないまでに依存していく。もちろんそうなった後で本格的な復讐が始まり、観客の予想を超えた展開で、シリアスな結末にひた走ります。
 <恐ろしいのは恨み辛みが作り上げた怨念>と言うわけですね。少女の陰謀で、危機に落ちたピアニスト夫妻はこの後どうなるのか。中途半端に事を察した夫の無表情がすべてを物語っているとも言えますが、いや違う展開があるかもしれないと、わずかでも希望を探すのは、少女に翻弄されたピアニストが余りに痛々しいからでしょう。いくらなんでもこの少女の恨みはきつ過ぎる。まるで変質者です。穏やかな夫が観客と同じ様に僅かでも少女に危惧を抱いていたと思いたい。それがあれば寛容も生まれると言うもの、ラストシーンの後が気になる作品です。

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(C) 2007 Twentieth Century Fox

 <もう一つの「JUNO/ジュノ」は>もうご存知ですね。 一度の行為で妊娠した高校生のジュノが、友人に「胎児にも爪が生えている」と言われて中絶を止め、一人で里親を見つけ子供を生んで渡すまでのお話です。ジュノには新人のエレン・ペイジが扮していて、ちょっとおでこでキュートな表情と、めそめそしないぶっ飛んだ行動がカッコいいと、評判を集めていますね。彼女の明るさや両親の協力ぶり、親友の助け、相手の男の子の実感の無さやそれでも気になって見守るさま等はなんとも温かく、ジュノと彼女の回りの愛にやられた方が多い事と思います。
 <もちろん私もそうだけれど>、それ以上に気になったのは、生まれる子供の養父母が登場した時に感じた違和感でした。夫役の俳優の中途半端な表情が、なんだかこの映画の調子に馴染まない。妻を愛し養子を願うと言う役で登場したのに、何処かにあいまいさが見える。ジュノが二人を見て素敵なカップルと感嘆しても、セレブ然とした妻と似合わず、いくらかの危なっかしさを感じていました。

 <そんな気がかりを打ち消そうと思いながら見ていたのに>、後半になると、案の定彼はベールを脱いでいく。自由で型破りなジュノに触発されて、ミュージシャンの夢を諦め商業ペースで活躍している音楽家の自分に迷い始めるのです。妻の拘束を逃れもっと自由に生きたいと、そしたら違った自分になれたかもと、ここに至って夢を見始める。しかも、勘違いもいいとこなのですが、ジュノと二人で暮らそうとでも思ってたんじゃあないかという告白をするんだから驚く。悪あがきと言うか、高校生のジュノより子供じゃあないですか。ジュノに二人は素敵なカップルでいてと大泣きされ、妻にも事情が知れ、結局ジュノが臨月で、もうすぐ養子が届く頃になって、父親になる覚悟が出来ていないと妻との離婚を言い出す有様。

 <(ちょっと止めてよ!)と、誰だって怒りたく>なるでしょう? この訳知り顔のモラトリアム男何とかして欲しい。もちろんジュノも怒り、途方にくれる。途方にくれるけれど、女たちは逞しかった。彼の妻と二人、彼に惑わされないで計画通り前に進んでいくわけです。
 <ここからこの男には触れず>、ジュノの側を描いてこの物語は終わるのだけど、ジュノは回りを変える力もあるし、1人でも何とか事を処理していくだろうと信頼できる。だからこそ、1人で子供を育てる養母は大丈夫だろうかとか、別れた夫はこのままだろうかとか、此方の方が気になりました。どうして土壇場で責任逃れをするのかと腹立たしいけれど、子供を持つと言う実感のない男の人特有の物かも。それに今更の感のある彼の自分探しの結末が気になります。

 <何だかエッセイはいつも思わぬ方向に>行ってしまう。2本とも本題と離れたところが気になって。その場にそぐわない表情と言うのは、裏に多くの事を含んでいるのですね。体の中の不協和音は何時か亀裂を生み出す。表情に表れる小さな差異は、次の物語の出発点なのだと、映画と日常の両方で感じたと言うお話です。   (犬塚芳美)

   「譜めくりの女」は京都シネマで上映中(27日までのモーニング1回)
   「JUNO/ジュノ」は梅田ガーデンシネマ、京都シネマ等で上映中

映写室 NO.155マンデラの名もなき看守

映写室 NO.155マンデラの名もなき看守     
  ―南アフリカ初の黒人大統領のとらわれの日々― 

 このところ南アフリカの黒人同士が、移民締め出し問題で争っている。弱者はいつも強者に踊らされて、彼らのはるか手前で虚しい争いをするものだと辛くなるが、黒人差別撤退の為に血の滲む様な戦いを続け、長い獄中生活を経てやっと自由を勝ち取り、南アフリカで初の黒人大統領になったネルソン・マンデラは、どんな思いでそんなニュースを聞くだろう。偉大な指導者の気持ちを考えると、弱者同士の争いがもっと腹立たしい。

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C) ARSAM INTERNATIONAL,CHOCHANA BANANA FILMS,X-FILME CREATIVE POOL,FONEMA,FUTURE FILM FILM AFRIKA 

 <彼の生誕90周年を記念した映画が>完成した。本人が始めて映画化を許可したのは、ノーベル平和賞に輝く偉業の数々ではなく、27年間囚われの身にあったマンデラが、一人の白人看守と心を交わした日々のこと。今行われている移民の焙り出しは、外見で区別がつかないから、いわば方言のような言葉のニュアンスの違いを見つけてだと言うが、色の違う二人が心を交わせたのはマンデラの故郷の言葉コーサ語だった。

 <1968年、人種差別主義者の>グレゴリー(ジョセフ・ファインズ)は、家族を伴い国内一の刑務所ロベン島に看守として赴任する。反政府運動の首謀者ネルソン・マンデラ(デニス・ヘイスバード)の担当になり、彼らの言葉コーサ語が解るからと、昇進を餌にスパイを命じられた。通じないと安心して面会者と交わす指令が筒抜けだから、彼らの計画は失敗続き。危険人物と聞いていたマンデラだが魅力的で、グレゴリーはスパイしながらも彼の思想に興味を持ち始める。

 <グレゴリーは差別主義者ではあるけれど>、特別にひどい男と言う訳ではない。アパルトヘイト政策をしいていた頃の南アフリカでは、ごく普通の白人の考え方だった。いや、マンデラに出会って、彼の素晴らしさに気付き差別意識が揺らぎ始めるのだから、格別に柔らかい感性を持っていたとも言える。両者は常に支配者と従属者で、白人の誰もが(黒人は劣っているのだから自分たちの下で当然)と幼年期から刷り込まれ、対等な立場で接することなど無く、それに疑問を感じる感覚すら持っていない。
 黒人には参政権も無ければ土地の所有権も無く、家屋の所有や教育の自由も無かった。とまり黒人は時には人間以下の扱いで、マンデラのような優秀な黒人が突破口となり、自分たちと同じ地位に届かないよう、いわば特権を手放したくなくて、一杯制約をつけ競争の前に蹴落としていたことになる。

 <マンデラが「自由への長い道」で>、「肌の色や生まれ育ち、宗教などを理由に生まれつき他者を憎むものなどいない。人は憎しみを学ぶのだ。」と書いているように、幼年期のグレゴリーは差別感などなく黒人と一緒に遊んでいた。その彼ですら成人になると、少なくともマンデラと出会う前は黒人に差別感を持っていたのだ。無知を利用して憎しみを刷り込む社会構造だった。しかも、それに疑問を持つ白人をも仲間はずれにして、黒人同様に敵対視する醜さ。
 <この映画でも、グレゴリーが>、クリスマスに妻にチョコレートを送りたいと言うマンデラのささやかな願いを手助けした為に、彼だけでなく彼の妻までがこの小さな島で村八分にされる。親しかった仲間さえいっせいに手のひらを返す愚かさを、観客としては呆れて見ても、我が身に振り返って考えれば、現実の中で、きちんと異を唱えられる者がどれほどいるだろう。
 <差別とは、自分に都合の悪い者を>他からは意味のない理由をつけて排除する事。苛めそのものだと気付くと、今の私たちの周りの人権をうたう者にさえどんなに多い事か。デフォルメされてはいても、ここに描かれているのは、私たち自身が陥りやすい醜さなのを忘れてはいけない。

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C) ARSAM INTERNATIONAL,CHOCHANA BANANA FILMS,X-FILME CREATIVE POOL,FONEMA,FUTURE FILM FILM AFRIKA 

 <以前に映写室で取り上げた「善き人のためのソナタ」では>、崩壊前の東ドイツで国家の命令で民衆の自由な動きを監視していた男が、いつの間にか監視される側の社会の素敵さに気付く。挙句に彼らを庇って自分が苦境に陥るのだけれど、東西ドイツの壁が壊れた時、作曲家が密かに自分を守ってくれた男の存在に気付き、曲を捧げ愛で応えた様に、この話の映画化を許可したマンデラも又、ロベン島で出会った一人の名もなき看守の好意に愛で応えたことになる。これも又、マンデラの言葉を借りるなら、「憎しみを学ぶことができるなら、愛することも学べるはずだ。なぜなら愛は、人間の本性により自然に寄り添うものだからだ」という事だと思う。

 <ここに描かれているのは>、南アフリカの長く醜い歴史のほんの一瞬に過ぎない。支配者側に属する一人の平凡な男が、守るべき家族、出会った偉大な魂、自分の良心、そのどれもに愛を注いで、苦しみながらも旧態依然とした社会の規範を、自分の出来る範囲の抵抗で崩した日々の話だ。自分に密かに共鳴してくれたこんな男とこんな日々が、南アフリカを変えたのだと言いたい、ネルソン・マンデラの思いが伝わってくる。
この映画が、弱者同士で争っている南アフリカの人々の心に届きますように。 (犬塚芳美)

 
  関西では、6月21日(土)よりテアトル梅田、シネカノン神戸で上映
         続いて京都シネマで上映予定


<ちょっとディープに> 
 アパルトヘイトは1948年、南アフリカで法制化された人種隔離政策で、出生持の肌の色で人間4種類に分けられた。もちろん少数の白人が非白人から安価な労働力を得るのが目的で、後に国連から「人類に対する犯罪」とまで言われる。マンデラ釈放後の1992年、国会で廃止が宣言されて、以来終焉に向かった。
 マンデラの素晴らしい所は、このグレゴリーを変えたように、いつも大らかで、敵すらも魅了する素晴らしい人間性だと誰もが言う。さらに素晴らしいのが、黒人政府が誕生すると、かっての敵と共存する社会を目指した所だ。核兵器を破棄し、死刑を廃止し、ツツ大司教を中心にアパルトヘイトの真実の追究と和解の委員会を作った。和解、つまり憎しみの連鎖を止めたわけで、アパルトヘイトで行われたことを明らかにはするが、報復は許さない。権力を持った途端、立場が逆転して、今までやられたことをやり返す指導者が多いが、そんな愚かな事はしなかった。今ロベン島は、南アフリカの指導者達が青年期を過ごした自由の象徴とされ、観光客に開放されている。1999年には世界遺産に登録された。

映写室 NO.154アウェイ・フロム・ハー 君を想う

映写室 NO.154アウェイ・フロム・ハー 君を想う
    ―サラ・ポーリーの初監督作品―

 「死ぬまでにしたい10のこと」や「あなたになら言える秘密のこと」等、出演作ごとに独特の存在感を示すカナダの女優サラ・ポーリーが、長編初監督に挑んだ。アルツハイマーになった妻と夫の物語と言う、人生観や大人の視点を要する物語に、若い監督とは思えない心理描写の細やかさと卓越した美意識で臨んでいる。主演は「あなたになら…」でサラの主治医に扮したジュリー・クリスティで、年を重ねた彼女の燻し銀のような美しさも見所だ。老いに向かう夫婦の愛が、時に切なくカナダの美しい自然をバックに浮き上がってくる。

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(c) 2006 The Film Farm/Foundry Films/pulling focus pictures Inc.

 <オンタリオ湖沿いに住む、結婚して44年の夫婦>は困惑していた。この頃妻(ジュリー・クリスティ)がフライパンを冷蔵庫にしまったり、ワインが何かを忘れたりするのだ。スキーに出て家への道を忘れると、躊躇う夫(ゴードン・ピンセント)を説き伏せ自ら介護施設に入る。1ヶ月後の面会では夫が誰だか解らない。しかも、まるで恋人のように見知らぬ男の世話をしている。夫は妻が自分に復讐しているのではと疑う。

 <原作はアリス・マローの短編小説「クマが山を越えてきた」>で、飛行機の中でこの本を読んだポーリーが感動して映画化を決意。主人公にジュリー・クリスティを当て書きして、自らが脚本を書いたと言う。ポーリーは私にとっては気になる女優で、新作が届くと観ずにはおれない。透明感や不確かな今の時代を匂わせる容姿と自立心、知性的な眼差しが忘れられず、女優としての作品選びからして主張を感じるから、監督業は成るべきして成った道なのだろう。20代の若さでここまでの仕事をと驚くが、神様は志や溢れる才能にとことん味方するものだと思い知らされた。

 <この高齢化社会のこと、アルツハイマーは>誰もが避けては通れない問題だけれど、老人とはとても言えないジュリー・クリスティが演じると違ったニュアンスが出てくる。悲惨な日常以上に、壊れていく悲しみに本人や周りの愛を絡めることが可能なのだ。そこが新しさで若い監督ならではの視点だけれど、カップルにとってのこの病気の本当の悲劇は何かを直視させる。アルツハイマーの話ではあっても、それを超えて、人生や夫婦とは何かを愛の角度から考えさせられた。
 <いやこの映画が訴えるのは>、それ以上に美しく老いる事の大切さかもしれない。クリスティはそれほど美しく、役の向こうに彼女の豊かな人生が透けて見える。でもアルツハイマーはそんな人にすら起こるという悲劇、こんな妻が病気になったら夫の心は又別の揺らぎを見せるというもの。老いに向かってはいても、心はまだ老いを受け入れていない生々しさの中の夫婦、黄昏時の惑いというか、男と女の残照があるからこそ別の悲しみが湧き上がるのだ。人はこんな風にして1歩1歩男や女でなくなり、枯れた境地に辿り着くのだろうか。複雑な心情を演じ切ったクリスティは、本年度のゴールデン・グローブ主演女優賞を受賞している。

 <女性がアルツハイマーになって夫が看病する話は>、色々作られてきた。特に邦画の「そうかもしれない」は、夫の視点で壊れていく日常生活をリアルに描き、観るのが辛かったけれど、この物語は心情的には残酷でも、アーティステックな美しい映像に救われる。雪原のスキーの跡はこれまでの道のりやこれからも続く人生を暗示するし、広い雪原は寂しく、その中にぽつんと取り残されたような戸惑いと寂寥感がこの妻のものかもしれないと想像がつく。でも冬の木立に絡む光は美しく、ポーリーは、老いも自然の摂理、いつの日か人は大地に同化するんだとでも言いたげに、カナダの澄んだや空気や光を繰り返し映して見せるのだ。限りある生、人生の向こうがこの美しい自然だと思うと老いも受け入れやすい。

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(c) 2006 The Film Farm/Foundry Films/pulling focus pictures Inc.

 <側で見ていると一番辛いはずの>、自分がおかしいという自覚すらしなくなる過程は、構成上1ケ月飛んでいる。施設に入った日に妻に懇願されてベッドを共にした後再会すると、妻はまるで壊れていく恐怖から逃れるように、正常な域から出て向こうの世界の住人になっていたのだ。私が思わずこう書いたように、最後の日の記憶があるからこそ、夫も妻のここまでの急激な痴呆が信じられず、自分の過去の浮気への復讐なのではないかと半信半疑になる。疑う事で希望をつないでいるように見えなくも無い。
 <自分を置き去りにして、向こうで新しい恋に>生きようとする壊れた妻を、傷つきながら毎日通って眺めずにはおれない夫の孤独。この時期のぽつねんと佇む夫を、哀れむような眼差しで見つめるスタッフに、リアリティがあって痛々しい。夫もこの事実を受け入れざるを得ない時期だった。余談だけれど、施設に入るのは、世間を絶ちあがらってもしかたのない運命を受け入れさせるプログラムかもしれないと、この映画を観て思う。

 <物語は終盤意外な展開を始める> 恋人気分で世話を焼いていた男が退所すると、妻は一気に痴呆が進む。このままでは命も危ないと案じた夫が、いわば恋敵の男の自宅を訪ねると、男の妻はお金が続かないから自宅療養に切り替えたと言う。このあたりは、夫の迷いのままに時間軸を交差させて少し観客を混同させるから、集中して観ないと取り残される。そして連れ合いを看病する二人に新たな関係が生まれるのだけれど、女が生きる為に自分の前にある可能性を積極的に掴むのに対し、男は成り行きのようなもの。生きる手立てが出来て晴れ晴れとした女に対して、主人公の夫の気持ちは中途半端なままだ。観客が半信半疑だったように、この関係はまだ揺れている。
 <外の二人が自分たちから異性としての心を離して>歩こうとした時、中にいる妻はどうするのか。ラストの4人の物語はさらに混乱して、この病気は行きつ戻りつなのを教えられる。人生はこの自然のように美しくもあり時に寂しい。やるせない話だからこそ、大好きなカナダの光に包んで美しく見せたいというサラ・ポーリーの思いを感じる。老いとそれを包む自然への、監督の澄んだ眼差しが印象に残る作品です。(犬塚芳美)

  この作品は6/7よりテアトル梅田で上映中
         6/21(土)よりシネ・リーブル神戸、シネ・リーブル神戸
         順次〜京都シネマにて上映予定


<ちょっと横道に>
 ジュリー・クリスティがたおやかで美しい。若い女優では太刀打ち出来ない卓越した美しさで、年齢が深みや味わいになっている。さすがにウォーレン・ベイティと浮名を流した女優だと、昔の噂話を思い出した。プレイボーイで鳴らしたウォーレン・ベイティは、本人も素敵だけれどそれ以上に女性の審美眼が良い。今の夫人のアネット・ベニングとか、付き合うのは、美しさはもちろん抜群のセンスと、生き方に知性や意志を感じさせる女性ばかりだ。彼と付き合っていたと聞くと、私には素敵な女性のブランド力にすらなる。そんなクリスティが、淡いトーンで揃えた上質でシンプルな服をさらりと着こなす前半が素敵なのだ。カナダの知識階級が好んでするファッションで、周りに澄んだ空気を感じて、こんなコーディネートは白い肌と金髪とこんな光にこそ映えるのだと実感した。

映写室 シネマエッセイ「アフタースクール」と「ザ・マジックアワー」

 映写室 シネマエッセイ「アフタースクール」と「ザ・マジックアワー」    
  ―ミニシアターの匂いと娯楽大作―

 映画の醍醐味の一つは、巧みなストーリー展開に騙される事だ。たいていの作品は何処かにその要素を含んでいるけれど、騙す事が主眼の作品や、騙されている人の滑稽さを見て楽しむ作品もある。今上映中の「アフタースクール」や「ザ・マジックアワー」がそうだ。どちらも大勢の人を集めている。

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  (C) 2008「アフタースクール」製作委員会

 <この手の作品で忘れられないのが>、「アフタースクール」の内田けんじ監督のデビュー作「運命じゃあない人」で、固有名詞が苦手なくせに、新人だった監督の名前を一度で覚える位感動した。最初見せた風景を別の方向から見せると、まるで違う風景になるという種明かしに舌を巻く。当たり前だけれど、真実は一つでも見え方は人の数ほどある。
 <この作品は、カンヌ等の映画祭で>色々受賞しているものの、若い人好みのマイナーな匂いが魅力だ。それはまだ半分アマチュアの内田監督の持っていた匂いでもあり、観客に気後れすることなく自由自在に騙す若さに驚く。演技にも時々はダンスや舞台の要素を取り入れ、有名でない事が自由さになり、監督の独自性と発想を広げていた。
 <こんな完成度の高い作品を観ると>、後に続くこのジャンルの作品を観る目が厳しくなるから困る。大ヒットした「The 有頂天ホテル」は大味に見えたし、ロングランを続けた「キサラギ」すら、(良いけど、私は「運命じゃあない人」のほうが…)と手放しでは褒めれない。凄い作品って、罪作りでもあるのだ。

 <前置きが長くなったけれど>、だから内田監督がその次に作った「アフタースクール」に期待していた。前作は俳優さんにもインパクトが強かったようで、出演者があの「運命じゃあない人」の監督の現場にいけると思うとワクワクしたと答えているし、「内田監督ってどうだった?」と多くの俳優仲間に聞かれたとも告白している。だからこの作品は、デビュー作の期待値が色々なところに作用して生まれたとも言えるのだ。
 <有名な人も出ずチープ感のあった前作と違って>、今回は旬の俳優が一杯出ている。雰囲気からして大作だ。でもこの手の作品、それが曲者でもある。騙しのテクニックも、大きいスクリーンにかかるから、前作のような小業じゃあなく、大勢の観客を一度に騙す大業が必要で小回りがきかない。中心部の回転が遅くなるのは否めず、ここで裏がありそうと気付く。時間を蒔き戻したり、タッチの差で見えたり見えなかったりの世界を、めまぐるしく次々と手品のように多面的に見せられた前作のテンポとはちょっと違うのだ。
 <この作品はメジャーに打って出た監督が>、作家性を残してなお且つ間口を広げるようにバランスをとりながら、作っているのだろう。だからこそ大勢の人を集め観やすいのだけれど、ミニシアターで監督に出会った私には寂しさにもなる。内田監督には観客に集中力を求めるマイナー感を無くさないで欲しいのだ。老成よりも観客を意識しない大胆な手法を使える若さが、何処かに残っていて欲しい。

 <同じ事はデンマークからハリウッドに進出した>、「悲しみが乾くまで」のスサンネ・ビアにも感じる。「ある愛の風景」や「アフターウェディング」で使った、目とか睫という体の一部の極端なアップの多様は相変わらずでも、時に荒い画質を使ったり赤味の強い独特の画像や、それはもう見事に、観客が予想出来る行動や台詞はスパッと省略する大胆な手法は影を潜めた。見やすく一般的になったわけだ。
 ハリウッドで今までと違い多くのお金を使い大勢の人を巻き込んで作れば、クリアー条件も変わってくる。プロデューサーの意見も強いだろうし、今までのように好きな人だけに観て欲しいと、自分で責任を被って居直っていられないもの。

 <内田監督と言いスサンネ・ビアと言い>、才能のある監督がマイナーからメジャーに上がるのは嬉しい。でもその監督ならばこその手法が、資本の論理で影を薄めるのも辛いのだ。もちろんこんな事は私以上に監督本人が感じている事に違いなく、次回作ではそこをどう修正してくるか、二人の監督が自分の何を大切にするかが、大好きな二人だから気になる。

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(C) 2008 フジテレビ 東宝
 
 <そんなミニシアターの匂いどころか>、今回も多くの大物俳優を集めた大作感一杯の映画が「ザ・マジックアワー」だ。売れない俳優が、映画だと騙されてやくざの親分のところに乗り込むという設定で、普通にしてたらかっこいい佐藤浩市が、ダサい格好とわざとらしい大げさな演技に入れ込んでいる。佐藤の仕草が可笑しく笑いが漏れた。
 <三谷幸喜監督はこの頃は無理やりでも大勢を巻き込み>、自分の作品を社会現象にしてしまう。映画はお金がかかる。映画監督たるもの興行には大きな責任があるから、何としても見に行って欲しいと涙ぐましい努力をしているのだ。昨夜など何気なくつけたテレビに、聞くに堪えない歌を真剣なまなざしで熱唱する監督が映って、目が点になった。周りは笑っているけれど、これこそが三谷ワールドで、周りと馴染まず突出している自分の真剣さを笑いに変えている。ここまでの思いやこの姿に感動して、気がつくと涙が滲んでいた。宣伝の為とはいえなかなかここまでは出来ない。

 <大きい会場で大勢を一緒に同じ方向で感動させるのは>、ミニシアターとは別の力技がいる。小さい作品だったら完成度を上げ作家性も出せるのに、それがし切れず大味になることも多いのだ。監督がそれを知らないわけが無く、その危険性を承知で大作主義に舵を切ったのは、相当の思いがあっての事のはず。作家性を大事にする監督ならその当たりを話しても、こちらに舵を切った監督は、拘りを捨てて別の何かの為に選んだ道なのだから言い訳をするはずが無い。
 <こんな作品が映画界を支えているのは事実だ> 封切り日は深夜になっても満席状態で、多くの人がポップコーンや飲み物の載ったトレーを抱えて、わいわい楽しそうに会場を埋めていた。監督は満杯の客席と観客の笑い声が、この映画の最後の仕上げだとよく解っているのだろう。大勢で皆と笑い声を合わせてみるのが楽しい。この作品から溢れた観客がシネコン全体を活気付け明るくしていた。

 <何だか最初書こうと思っていた事と違う方向に>話しが進んでしまった。「アフタースクール」と「ザ・マジックアワー」と言う、同じ頃に公開され、同じように騙し騙されのテクニックと脚本が勝負になる監督が主体の作品の、立ち居地の違いが興味深かったのだ。多くの観客を相手にするのを覚悟した監督と、まだその惑いの中の監督、私が興味を持った以上に、本人同士が相手を気にしていると思う。ミニシアターも好きだし、娯楽に徹した映画も好きだ。どちらもが、大切な映画界の両輪なのだから。 (犬塚芳美)

    両作品とも全国で上映中

「休暇」監督とプロデューサーの合同会見(後編)

映写室「休暇」監督とプロデューサーの合同会見(後編)    
  ―門井肇監督と小池和洋プロデューサーに伺う秘話―

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(C)2007「休暇」製作委員会

(昨日の続き)
―拘置所とかの撮影は、セットですか。
門井:外観は本物の甲府刑務所を映していますが、中はセットです。これは何処に頼んでも無理な話で、写真は撮れないのですが中を見せて頂けたりと、普通厳しいこういう所にしては協力してもらえたので、それを参考にしました。
小池:後は坂本さんのアドバイスです。
―前作もですが、門井監督は人の再生をテーマに描かれますよね。それと独特の余韻も特徴かと。
門井:ええ、作品が変わっても人間の再生が僕のテーマです。親子とか人間同士のコミュニケーションの中で、人が変化していくのを描くのが僕のやり方ですね。それに設定している総てを描きたくない。大事な部分は観客に委ねたいんです。あまり細かい部分まで描いてしまうと、映画の解釈を狭めてしまうので、のりしろや行間を一杯取っています。テロップとかで、ああだこうだと説明したくないですし。自己主張が強く、偉くなりたいとか思わない方なので、スタイルを変える気もなく、もう少し解りやすい物を作るかもしれないけれど、題材は変わっても今後も同じ様な物を作り続けていくと思います。

―小池さんの前職は書籍の編集者ですよね。
小池:ええ。映画が好きだったのでこの世界に転身しました。でも映画業界の人は「お止めなさい」と言う事はあっても、手を貸してくれる人はいなかった。だったら自己流を貫こうと思いました。案外僕らのような、横から映画に入ってきた者の方が、真摯に映画を作っているのではと思います。エンターテイメントの中に何らかの社会性をくるんだ物、皆が知ってそうで実は案外知らない事を描きたいといつも思っていて、今回それが出来たのではと思います。「映画は作るんじゃあない。観てもらって何ぼだ」とよく聞かされたけれど、それが大事だと思う。足立さんに助けてもらいましたが、人の力を借りてでも上映館を増やす事をしたかった。
―物語にも悪人はいないし、お話を伺ってもこの映画に関わった方は皆良い人ですね。
門井:そうですね。色々大変だったけれど、気概のある人たちが参加してくれました。ギャラどころか、自分の力を発揮する為の機材を借りる予算すらない中で作ったので、感謝しています。色々な人が助けて下さり、良い人ばかりだったと言えますね。

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(C)2007「休暇」製作委員会

― 一番大変だったシーンは。
門井:死刑執行の日の、それに至るまでの大勢の執行官がいるシーンが大変でした。若い監督が、狭い室内にいる大勢のベテランにお芝居をつけるんですからね、胃が痛くなります。でも出来上がったものを観ると、リアルで真に迫っていて良い。こういうシーンを作れたのは、こうして人が集まってくれたからだなあと思いました。
―お好きなシーンは。
門井:金田の妹が面会にやってくるシーンで、余計な事を要求しないで、演技もつけずに二人に任せました。二人を監禁して、カメラを回しっ放しにして撮っています。二人は何も言わず向き合ったままですが、塀の中にいる自分以上に、たぶん外にいる家族は苦しんだはず。言い訳を出来ない事をしたからこそ死刑になるわけで、家族には何も言えないのが本当じゃあないかと。そんなものが滲むあのシーンは好きです。遺書を書けと言われるシーンも、もっと派手な映画なら嫌がったり泣き叫んだりするでしょうが、何も言えない何も書けないが本当じゃあないかと思いました。

―刑務官はもっと官僚的かと思ったのに、この映画では人間的ですが。
小池:坂本さんの話を聞くと、刑務官の間にドラマは無いと。所内で取っ組み合いの争いなんて、とんでもない事ですと仰っていました。
門井:そのままやっても映画にならないですよね。でも行動や感情を抑えたとしても、心は動いていたはずです。彼らの心情を映像にした訳で、嘘と解っていてもやらないといけないので、本当のリアルといかにものリアルの間を撮るのが大変でした。デフォルメし過ぎて安っぽくならないようにと、どの辺が落とし所かを探りながらやりました。
―処刑を察した金田が、独房の壁に頭をぶつけるシーンが印象的です。
門井:あそこは演じるのが難しいところなので、敢えて何も言わないようにしました。西島さんは何も言わない時の方が、出てくるものが良い。テストの時よりカメラが回っている時のほうがいいものが出てくるんです。そんなタイプの人には任せるほうがいいと思う。撮影の前に、どうなるんだろうと西島さんに聞いても、「やってみないと自分でも解らない」と言っていました。それであの頭をぶつけるシーンが出来たのですが、何だか解らないけれど発狂している。その何だか解らないのが大切だと思うんです。

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(5月19日 大阪にて)

―さっきから伺ってますと、お二人は仲も良く絶妙のコンビですが。
小池:(二人で顔を見合わせて)よく喧嘩するよね。
門井:小池さんとは前作からの付き合いで、僕の学生時代の作品を観て一緒にやろうと声をかけてくれたんです。仲が良いかどうかは、喧嘩ばかりしてるのでどうでしょう。一緒にシナリオも作ったんですが、作る側としていつも言うのは、どうしても外せない世界を大事にして欲しいと言う事です。例えばこの中の旅行のシーンで、予算を考えると、列車じゃあなくバス旅行にしたらとかなるんですね。でもここはバスじゃあないだろう。いくらお金がかかっても、列車を借りないといけない。そんな事を言ってたら、鉄道会社に協力していただける事になって良かったんですが、プロデューサーと数限りなく対立するのは、「もっとお金を」ですね。ただ二人ともいい映画を作りたいだけというのは一致しています。
小池:そんな風にして出来上がった作品で、出来映えには自分たちでも手ごたえを感じるので、ぜひ大勢の方に御覧いただきたいと思います。    (犬塚芳美)


   この作品は6月7日(土)より、
      敷島シネポップ、第七藝術劇場、TOHOシネマズ二条、
      三宮シネフェニックスほかにてロードショー


<会見後記:犬塚> 
 少し長いのですが、映画つくりの裏側の興味深いお話なので、そのまま記載しました。作品の完成度が高く、技術的にも精神的にも熟達と老成を感じるので、ある程度の年齢の方を想像していたのです。お二人にお会いして、この若さでこの境地というのに感服しました。本作だけでなく今後も楽しみです。死刑が中心ではないとはいえ、登場人物やその物語がしっかりと描かれているからこそ、もうそこは映画で充足し、観終えた後に、その後ろの死刑制度を考える。罪を犯した人を、時間とお金をかけて善人に戻し、その上で絞首台に送る仕組みの是非に迷います。会場を出る時、思わず「ヒットしそうですね」と呟くと、並んだ二人が嬉しそうに「ありがとう御座います」と返して下さいました。映画への愛に溢れるこのコンビから、もう目が離せません。

「休暇」監督とプロデューサーの合同会見(前編)

映写室「休暇」監督とプロデューサーの合同会見(前編)   
 ―門井肇監督と小池和洋プロデューサーに伺う秘話―

 吉村昭の短編集「蛍」に収録される「休暇」が、34歳と35歳と言う若いコンビで映画化された。死刑囚の心情を描いた作品はあっても、死刑を執行するほうに光を当てた作品は珍しい。両者の運命の交差が、言葉にならない複雑な感情を観る者に呼び起こす、良質な作品になっています。この映画の製作に執念で漕ぎ着けた小池和洋プロデューサーと門井肇監督にお話を伺いました。

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(5月19日 大阪にて)

<その前に、「休暇」とはこんなお話>
平井(小林薫)は、拘置所に勤務する刑務官。この年まで独身だったが、子連れの美香(大塚寧々)と結婚が決まる。でも子供が懐かず、休暇がなくて新婚旅行も行けそうにない。そんな時に金田(西島秀俊)の死刑執行が決まった。処刑の際の支え役をかってでたら、特別休暇を1週間もらえると言う。(生きることにした。人の命とひきかえに)と平井は自分に呟き、支え役を申し出る。

<小池和洋プロデューサー・門井肇監督、合同会見>
―この作品を作ったきっかけは。ロケ地が山梨なのは、小池さんの出身地と言うのに関係があるんですか。
小池和洋プロデューサー(以下敬称略):原作を読んで惹かれたのが始まりです。 映画を作りたいとは思っても、お金には限りがある。僕らが作るとしたら、面の広がりではなく奥行きで見せられるものを作る以外ありません。この企画はそれにあっていて、お金が無いという事と芸術としての広がりが丁度重なるところにありました。今でこそ、死刑執行にすぐ印を押す鳩山法務大臣の出現や、光市母子殺害事件の差し戻し裁判等で、死刑制度が注目されますが、これをやり始めた時は、まだ今ほど身近じゃあなかった。もうすぐ始まる裁判員制度で、僕らも死刑の判決に関わる事にもなりますから、そういう意味でも今ならタイムリーなんですが。本当に誰もお金を出してくれなくて、「死刑を描いてもヒットしない」と言って断ってくる。君ら二人がやっても駄目だと言ってもらえれば納得するのに、話をずらすから、何が何でもやってやろうと思いまして。

―とても苦労をされたと。
小池:ええ。僕らは二人とも映画の外の世界から来た人間で、だからこそ漕ぎ着けれた。映画界を知っている内側の人の、通常のやり方では出来なかったと思います。総てはずうずうしさと言うか、諦めない姿勢がよかったのでしょう。最初の頃、ちっとも話が進まず、しょげていたんですよ。そしたら救世主が現れて、この作品の顧問の足立さんですが、「ブッキングは俺に任せておけ」と言ってくれました。足立さんは大手映画会社の方なんですが、門井監督と組んで作った僕らの前作「棚の隅」からのお付き合いで、「棚の隅」を観て「ぐらっと来たよ。うちでやろう」と言って、自分のところでかけてくれた人です。それがきっかけになり、「棚の隅」は全国での拡大公開に漕ぎ着けられた。今回も「お前は山梨出身なんだから山梨で撮れ。そしたら山梨放送が乗ってくれる」とか、色々ノウハウを教えてくれました。そんな風に、去年の8月頃からだんだん明るい兆しが見えてきて、最初の出資は小さな物だったけど、繋がりが繋がりを呼び、文化庁がお金を出してくれることにもなり、色々な所の協賛も取れて、僕らがやるにしてはグローバル感が出てきたというか、テーマに相応しい広がりが出てき始めたんです。原作が国内に旅行に行くという設定なので、山梨県内の色々な方面の方に応援してもらったりもあり、そこで撮るのが自然だったと。

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(C)2007「休暇」製作委員会

―主役が小林薫さんで、他にも凄いキャストが集ってますが。
門井肇監督(以下敬称略):プロデューサーが小林さんのファンだったんで、その芝居を撮りたかったんですよね。
小池:それは語弊です。イメージだったからで。
門井:(笑いながら)小池さんからの案に僕も興味を持ちましたし。他の方にしても、配役について良い情報をくれるのは、冷静に全体を見通せるポジションにいるプロデューサーの事が多いんです。知名度も実力もある多くの方が、こんな低予算の作品に関わってくださったのは、本当にありがたいです。今映画がたくさん作られてますが、メジャー系は似通った物が多い。俳優さんというのは本来色々な役をやりたいもんなんで、このような珍しいものに食指が動いたのではと思います。原作や脚本の力というか、テーマに惹き付けられる物があったのでしょう。これが映画化できたのも、原作が持っていた力が大きく作用していると思います。

―小劇場出身で演技派の小林薫さんですが、演技はつけられましたか。
門井:僕の仕事は監督なので演技はつけますが、細かい指示を出すというより、基本的には、小林さんから出てくるものを大事にしました。それも現場ではなく、事前に小林さんの解釈と僕のそれをすり合わせていった形ですね。原作を読み脚本を読みと、よく準備をされる方なので、クランクイン前に電話等でお互いに色々話し合いました。
―金田が何をして死刑になるのかは描かれていませんが。
門井:彼が何をして刑務所に入ったのかとかは、この作品にとって重要ではないので、細かく描く事は不必要だと思いました。この作品が描いているのは生と死、言い換えれば、一人の人の死に加担したおかげで手に入れた休暇で、自分の新しい家族関係を築いていくと言う話ですから、それをブラさない為にも描かないほうがいいと。そちらを描くと、死刑制度の是非とか、可哀相とかそちらに興味が移ってしまいます。この作品では、死刑制度があって死刑執行をする人もいるという事実を伝えたかった。
―そうは言っても、監督の中には設定がおありなのでは。
門井:もちろん僕の中では設定があります。でも僕が話す事で皆さんの解釈を助けるのは本意ではないし、逆に話す事で皆さんの想像を狭めてはいけないので、それをお話しするのは控えたいのです。もちろん僕の設定だけが正解のわけでもなく、それぞれの人の解釈でいいわけですから。

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(C)2007「休暇」製作委員会

―実際に平井のしたような役目の方はいらっしゃるのでしょうか。
小池:いらっしゃいます。処刑で上から落ちると、体がぶれてあちこちぶつかり傷付くので、それを支える役目ですね。1人ではなく2人の事もあるようです。実際には吐瀉物や口や鼻等から出てくるものを被ったりと、誰もやりたがらない大変な役目だそうです。そんなところは我々では解らないので、元刑務官で色々その方面の本を出しておられる坂本敏夫さんに、アドバイザーについてもらいました。
門井:それを忠実に描くとR指定が付いて、観客に年齢制限が出来る。僕としても観賞の幅を狭めるのは不本意だし、でもそれを描かないと成立しないなら描かざるを得ない。描く事が大事かどうかを考えて、ぎりぎりのところでこうなりました。
小池:忠実に描き切れたら、それはそれで又凄いかも知れず、この作品とは別の力を持つものになるのでしょう。原作は処刑の状況を詳しく書いていますが、吉村さんの夫人の津村節子さんから、最初に、文字を読むのと映像を見るのは違うので、そのあたりの表現は気をつけて欲しいと言われました。原作との兼ね合いについて言われたのはそこだけで、後は何も仰いません。
門井:わりに原作に忠実な作品ではないでしょうか。この作品を撮り始める最初に、皆さんにこの作品は死刑が中心ではないとお話したんです。死刑の話ではあるけれど、人間を中心に置くよう演出に気をつけました。だから死刑についてあまり詳しく描き過ぎない様、其方の情報を集め過ぎない様に気をつけましたね。そんな映画はたくさんありますから、あまり詳しくない僕が作るもので良いと。  (犬塚芳美)  (続きは明日)

  この作品は6月7日(土)より、
        敷島シネポップ、第七藝術劇場、TOHOシネマズ二条、
        三宮シネフェニックスほかにてロードショー

山桜

映写室NO.153山桜    
  ―藤沢周平の世界を蘇らせる匂やかな二人― 

 時代劇なのに今の空気感も併せ持つ作品に出会った。篠原哲雄監督が、田中麗奈と東山紀之を迎えて、藤沢文学では珍しい若い女性が主人公の物語を、匂やかに仕上げている。現代的な容姿の二人なのに、鬘と着物を付けると香り立つ古風さ。脇を固める俳優陣の熟達な演技もあり、スクリーンの中には、表題の通り、まるで武家社会に咲いた「山桜」のような気品とほのかな甘さが漂う。庄内平野の美しい自然と共に、時代を超えて、真摯に生きる人々の姿が胸を打ちます。

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(C) 「山桜」製作委員会

 <舞台は江戸後期の海坂藩。まだ20歳過ぎなのに>、最初の夫に先立たれ、二度目の嫁ぎ先には「出戻り」と蔑まれて辛い日々の野江(田中麗奈)は、叔母の墓参りの帰りに満開の山桜を見つける。手が届かないでいると、「手折ってしんぜよう」と声がした。手塚(東山紀之)で、以前縁談があった相手だ。「今はお幸せでござろうな」と問われ、「はい…」と答えると「さようか。案じておったが、それは何より」と微笑んで去って行く後姿を、野江は何時までも見ていた。

 <野江を見初めた手塚からの縁談を>、母一人子一人の家に嫁ぐ娘を心配した両親が断ったから、野江が手塚を見たのはこの日が初めて。顔を合わせていたら結婚していただろうに、幸せはその手をすり抜けて、取り返しの付かない所まで来ていた。
 始まってすぐの上のシーンで、観客はもうこの二人の運命を予感するけれど、封建時代の、しかも嫁ぎ先で下働きのように扱われる若い女と武士の間のこと、再び絡むまでには時間がかかる。この偶然の出会いは幻の様でもあり、重大な決意をする直前の手塚と健気な野江に、神様が未来を手引きしてくれたようにすら思う。
 <二人が一緒に登場するのはこのシーンだけで>、この後私たちは野江の思いに重ねて、手塚の面影を探ることになるのだ。辛い日々を耐えれば耐えるほど、手塚へと思慕は募っていくわけで、そのあたりを田中が清らかに匂やかに演じ、時に感じる幼ささへ初々しさに転じる。揺れながらも思いを募らせる野江の風情が、今の私たちの共感を呼び、物語に時を超えさせた。時代劇の世界に、今の観客を自然に導入する力になっている。

 <野江はこれ程の両親の下に生まれながら>、この時代の女の常で、人生は夫しだい。結婚運に恵まれず苦労を重ねている。優しい母でさえ娘に帰って来いとは言えない。苦労を見ながら、それでも辛抱すればいい事もある、一人で生きるよりもいいだろうと、娘の幸せの為に思うのだ。だからこそ、離縁されて柳行李一つに荷物を纏め、細い体で背負って、爺や一人に見送られ婚家を出る姿が涙をそそる。野江には温かく迎えてくれる家があるけれど、それの無い女たちはどうやって生きたのだろうと、この時代の女たちに思いを巡らせた。

 <似合ってはいても、田中の着物姿が時代劇の空気感>を持つわけではない。でも周りがしっかりと固めると、それすらも観客との接点や見易さになるから不思議だ。テレビ等で時代劇の経験が多い東山の武士姿は端整で美しい。真っ直ぐな眼差しと立ち姿が、すでに時代劇の世界感を持ち、手塚役に相応しい風格を放つのだ。農民の苦境を見かねて一人で謀反を起こすシーンも、首謀者こそ切り捨てても周りの者はむね討ちで倒す等の仕種が流れるように美しく、立ち回りに精神性が見える。出番が多いわけでもなく台詞も少ない手塚がこんなに印象的なのは、野江の視点と言う物語の構成上だけでなく、演じる東山自身の存在感があるのだろう。

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(C) 「山桜」製作委員会

 <ところで、物語は終盤思わぬ展開をする> 一人っきりで孤独な人生だったと思っていた叔母だけれど、独身を通したのは、結婚直近の許婚を亡くしたからだと知る。寂しいどころか、一人の人を思って自分の意志で選んだ、ある意味幸せな人生だったのだ。
山桜の下で手塚と出会うきっかけを作った叔母が、今度は生き方で野江の背中を押す。再び満開になった山桜の一枝を手折って野江が向かったのは、留守宅を一人で守る手塚の母親(富司純子)の元だった。
 <いつもの事ながら、富司が素晴らしい> 一度は縁談を断った野江に「貴女はきっとここに来てくれると思って待っていたのですよ」と告げる顔に溢れる慈愛。牢中の手塚を誰よりも気遣う二人が、こうして身と心を寄せ合っていく。短い出番でこれほどこの役に説得力を持たせるのは、卓越したものがあっての事。東山と言い、富司と言い、役の向こうの役者の存在感の放つ光は強い。檀ふみ、篠田三郎の演じる両親も慈愛に溢れていて、野江だけでなく観客までを温かく包むのが見事だった。

 <ラストシーンがいい。まるっきり楽観は>させないものの、雪国の春に重ねて、ほのかな幸せの兆しを予感させて止めている。描き過ぎず、かといって観客に委ね過ぎずに提示するものこそ、篠原監督の慈愛だと思う。観終えた後はなんとも暖かい。野江や手塚に会いに、「山桜」を探しに、庄内へ行きたくなった。


 6月7日(土)より大阪 テアトル梅田/MOVIX堺/MOVIX八尾
           京都 京都みなみ会館
           神戸 OSシネマズミント神戸で上映
      続いて、奈良 橿原シネマアークで近日上映予定


<少し横道に>
 庄内平野の美しい雪景色から雪解けのせせらぎや下萌えの頃、そして大きな満開の山桜と、まるでこの物語を暗示するような、季節の移り変わりを早回しで映して始まる。藤沢周平の世界感には、庄内のこの自然も大きな役目を果たしているのだ。
 故郷を舞台に、武家社会の傍流を静かに生きる男たちを暖かい眼差しで描く、藤沢周平のファンは多い。よく映像化され、映画は本作が5作目となる。いつも鳴り物入りで宣伝されてテーマ的にも大作が多いが、野江の視点に寄り添って描く本作はその中では小品。でも私はこれが一番好きだ。この動きの早い時代に、様式美で支配される時代劇を違和感なく観てもらう為に、時代感と一緒に今の空気を流すと言う大変な命題も、一番自然にクリアーしていると思う。時代劇を観ながら、それ以上に時代劇なのを忘れて、野江と手塚の慎み深い恋の行方を追っていた。  (犬塚芳美)

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