太秦からの映画便り

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映写室「バックドロップ クルディスタン」監督インタビュー(後編)

映写室「バックドロップ クルディスタン」監督インタビュー(後編)     
―野本大監督に伺う「クルド難民って?」―

(昨日の続き)
― 一般的なクルド人はどうなのでしょう。
野本:嘘吐きだと言う人も多いですね。しかもこのお父さんがクルド難民の象徴のような存在だったので、クルド人全体にそんなイメージを植えつけてしまいました。ただこの映画は、トルコやニュージーランドに一家を追いかけて行っていますが、お父さんの嘘を暴くのが目的ではない。僕がこの一家に関わったプロセスを見て欲しいのです。日本の分は僕の視点で見ていますが、トルコ編から映像の中に自分が映ります。それが嫌だったけれど、映ると別人になり切れると解った。演じるようなもので、それもある種の嘘ですよね。このお父さんは嘘をつきながらも世間と関わっている。色々な嘘のつき方等を見て、こうやって生きても良いんだ、こんな方法でも人と関われるんだと言うのに気が付いた。自分の問題に置き換えると気が楽になりました。

bdk1.jpg
(c)BACKDROPFILM

―狭い国土のこと難民問題は難しいですね。
野本:このレベルを受け入れるときりが無いですよね。国内でも高齢者の就職難や若者のフリーター等仕事が無い人が一杯いるのに、日本にはたしてそこまで余裕があるかという問題になります。本当の難民の姿が見えにくくなりましたが、そこにはっきりとした指針と展望が無いといけないと思います。
―この一家はニュージーランドで土地を手に入れるんでしょう?
野本:何だかんだ言いながら自分が動いて、デモをして、それをやり遂げたんだから大したもんです。出会った時から3年以上カメラを回し、同時進行で3,4ヶ月かけて編集しました。この映画の答えは言ってしまえばチープですが、そこに至るプロセスを見て欲しい。一番嬉しかったのが、車の中でお父さんが「僕の事を知ろうとしてくれているからね」と言ってくれた事です。僕は根本的には変われなかったけれど、こんな風に人と関わっても良いんだと教えられましたね。とにかくこの胡散臭いお父さんが魅力的だった。お父さんは僕にとってクルド人じゃあない、世界人です。こんな人に出会えてラッキーでした。

bdk2.jpg
(c)BACKDROPFILM

―変わった題名ですが。
野本:タイトルは自分のやりたかった事、やってきた事、この家族のやってきた事とかを一言で言いたかったんです。今の現象をひっくり返すと言う意味ですが、格闘技も好きですから。
―山形国際ドキュメンタリー映画祭や、毎日映画コンクールで受賞されましたが。
野本:山形で取れたのは嬉しいが、自分がやったことを自分で評価できないから、(こんなんでいいの?)という思いがある。撮ったと言うより、やったという感覚で、自分が変われなかった部分の反省が大きいです。制作の友人には「ラスト突き抜けていないね」と言われました。映画に出来ることには限界があるし、自分の力量のぎりぎりのところまで行ったけれど、自分の本質に向き合っていないので、満足できません。これで終わってはまずい。僕はこんなもんじゃあないよというのを次回作では見せたい。1作で終わる監督が多いけれど、入選しなくても良いから作らないといけないと思っています。次回作はこの作品を評価してくれた人を裏切るものにしたい。突き抜けた作品でもう一度賞を捕りたいと思います。(犬塚芳美)

<インタビュー後記とドキュメンタリーの感想:犬塚> 
 <台風の影響で新幹線が立ち往生していた日に>、野本監督は朝早く出発して「青春18切符」でもうすでに大阪入りしていたんだとか。1泊後のキャンペーンの後は4000円と言う格安の夜行バスのチケットをネットで見つけて帰ると嬉しそうに言う、いかにも若い男の子の元気さを持つ監督です。「こんな程度で貰ってはおかしい」と処女作の受賞をしきりに謙遜し不思議がるので、思わず「そんなところも含めての受賞なのでは。完成度ではなく今後の伸びしろ、受賞で更に発奮されるだろうところを評価されていると思います」」とお姉さん風を吹かせてしまいました。一生懸命質問に答えて下さる姿からも、今後の活躍が楽しみな監督です。
 <さて、このドキュメンタリーは>なかなか複雑。全容は観ていただくのがいいでしょう。お父さんの座り込みもそういえば確かにそんなニュースがあったと当時を思い出します。でもテレビのこちら側では、胡散臭さまでは解らなかった。強制送還する日本の外務省の非情さを怒ったものですが、これを観ると感想が違ってくる。「外務省ってよく調べるんですねえ」と言うと、「お父さんが日本にいる留守中に、(トルコの実家に)何度か日本人が来たと言うので、多分それが外務省の人でしょう」との事。そんな全てが面白くてたまらない様子の監督でした。

   この作品は、9月27日(土)より第七藝術劇場で上映
        10月4日(土)より神戸アートビレッジセンターで上映予定
スポンサーサイト

映写室「バックドロップ クルディスタン」監督インタビュー(前編)

映写室「バックドロップ クルディスタン」監督インタビュー(前編)     
―野本大監督に伺う「クルド難民って?」―

 クルド難民の一家の謎に惹かれた若者の、東京からトルコ、果てはニュージーランドまでを追いかけたドキュメンタリーが、山形国際ドキュメンタリー映画祭や、毎日映画コンクールで受賞した。監督がドキュメンタリーで問いかける、「“クルド難民”って本当?」に対して、「“バックドロップ クルディスタン”って何?」と私たちは問いかけよう。

100_0402_1.jpg
    (8月29日大阪にて)

<その前に「バックドロップ クルディスタン」はこんなドキュメンタリー>
 始まりは2004年3月、偶然手にした「ネブロズ(クルドの新年祭)」のチラシだった。聞きなれない「クルド」と言う言葉に惹かれ、埼玉県蕨市で開かれたネブロズに参加した時に出会ったのがカザンキラン一家だ。ちょうどその頃、父親のアーメットさんが裁判に負け強制送還の危険性が出た。UHCR(国連難民高等弁務官事務所)に難民認定と第3国出国をアピールするデモをすると聞いて、野本監督は学校を中退して彼らを追い始める。その後トルコやニュージーランドまでも一家を追いかけることになるのだが…。

<野本大監督インタビュー>
―このドキュメンタリーを撮ろうと思ったきっかけは何ですか。
野本大監督(以下野本):これを撮ろうと思った時は僕はまだ学生でした。映像ジャーナリズムを専攻していて、卒業制作の企画を探していたんです。難民も教科書に書いているレベルしか知らなかった。当時人と関係するのが怖くて、身近な面倒なことから逃げていて、誰とも繋がれないと言う思いを持っていました。それは10代の高校生の頃からで、原因は解っているんですが、作った映画を観るとあっけらかんと取り繕っていても内面は違うんです。自分は誰なのかを問われる瞬間を待っていたので、強烈に自分を追い込んでくれる人が必要だった。タワーレコードによく行っていたんですが、そこに「難民がいます」と言うポスターがあった。難民って何だろうと思って調べると、色々な難民がいる。難民と言う知らないテーマに飛び込んだほうが、その問題に突き当たりやすいと思った。自分が抱えている問題に一致したんです。
―それで撮り始めたと?
野本:僕は埼玉に住んでいるんですが、クルド人も埼玉に住んでいる。2004年の3月21日、300~400人集まったクルド人だけの新年祭に行ったら、集会で挨拶したのが長女のゼリアで可愛かって話しかけました。そしたらお父さんを紹介されて、家族7人を知ることになる。直感でこの家族を撮ろうと決めました。なんていうかちょっと胡散臭さもあって、現れた人間がキャッチーでした。映画は面白くないと撮れませんから、難民と言うより、この家族を撮りたいと思ったんです。

bdk4.jpg
(c)BACKDROPFILM

―可愛いから撮りたいと言うのは、解かり易いですね。
野本:ええ、そうです。かわいそうな難民と言うイメージも少なからずありましたが、それはこの家族の本当の姿ではない。むしろ逆境の中で目いっぱい外に発信している姿が、僕に無いものだから羨ましかった。この家族の発信力の基は何なのかを考えると難民に行き着くんですが、それが何か怪しい。何かを隠しているのが解る。お父さんは嘘をついているのを感じますが、嘘をついてまでこの人は何処を目指しているのか、この一家のゴールは何処なのかと言う結末を見たかった。
―トルコに行く前の座り込みを撮っていた時から、嘘だと解っていたんですか。
野本:実は解かっていました。お父さんはとにかく出たがりでカメラを追いかけて話したりしていて、逆にカメラが無いと話さない。胡散臭かったですね。しかもお父さんは2度目の来日なんです。難民なのにそれだけでもおかしいでしょう? 僕も最初のインタビューでかまをかけて、「一度クルドに帰った時は、迫害されましたか?」と聞いています。僕以外の支援者等は「うそつき」、「騙された」と言った人もいる。本人の虚偽性もあるでしょうが、嘘をついてる間にだんだんそれが本当だと自分でも思うようになると言うか、自分で自分の過去を作り始めたんでしょうね。でもこっちが作った難民と言うイメージもあるし、それを勝手に押し付けて向こうもそれに乗っかったのかもしれない。色々話してないことがあるけれど、まだ本当のことを言ってもらえない関係かもしれないとも思いました。

―う~ん、たいしたお父さんですね。ただクルド人の迫害は実際にありますよね。
野本:後半のトルコの映像を見ていただくと解るように、実家に行くとこの一族は皆裕福です。広い畑も持っているし暮らしにも困らない。皆成功しているんですね。虐待も否定している。ただクルド語が無くなってきているとか、文化面で色々あるようです。そのあたりは本人の受け取り方ですから、辛かったのかもしれない。全く無かったわけではないだろうけれど、難民と言うほどでもなかったんでしょう。でも今の日本では、クルド人に関わらず、難民と言わないと外国人は受け入れてもらえない。お父さんは家族を連れてきています。家族の為にもそう言うしかなかったんでしょう。実は弁護士さんも騙していて、「何時嘘と知りましたか」と聞いたら「裁判の途中」と言っていました。(犬塚芳美)       (明日に続く)

  この作品は9月27日(土)より、第七藝術劇場で上映
      10月4日(土)より神戸アートビレッジセンターで上映予定

映写室 NO.169 ビルと動物園

映写室 NO.169 ビルと動物園  
 ―高層ビルの窓越しに出会ったテンとキリン―

 <香子と慎、動物に例えるならテンとキリンのような二人の>、初めての出会いは高層ビルの窓越し。香子は会社で仕事中、命綱で守られて空中の足場に乗る慎は窓拭きのバイト中だった。こうして二人の物語は、絡まりながら絡まりきれず漂うように始まっていく。脚本と編集も担当した斉藤孝監督はまだ30代前半の若さなのに、まるで熟達の職人のような繊細さで作品を支配。都会の片隅で迷いながら生きる若者を温かく見つめる。
 新しい明日へ歩き出す勇気を、背中を押されながらも自分で見つける二人。その正直さと不器用さが愛しい作品です。

birutodoubutu_ma.jpg
(c)2007『ビルと動物園』製作委員会

<荒筋>
 大企業のOL香子(坂井真紀)は上司(勝村政信)と不倫中だが中絶を強いられたりデートをすっぽかされたりと傷つくことばかり。そんな時に慎(小林且弥)に出会い、居酒屋や動物園での他愛ないデートをする。突然上京した父親にお見合いを勧められると、苦し紛れに慎に会わせるが、「自分のことや将来を何処まで考えているのか」と説教される。やがて上司の妻の妊娠を知った香子は会社を辞め、慎は音楽教師を目指すことに。

 <窓拭きのバイトの先輩は>、「無防備な人間を見るのはどんだけオモロイか。この仕事は俺にとっての動物園」と慎に言うが、それはそのまま監督の人間観察の面白さなのだろう。登場人物の心理を、丁寧にしかも優しい眼差しで描いていく。観終わってこれほど監督の名前が気になった作品はない。1作で斉藤孝監督の虜になった。 
 <淡そうに見えながら凝視すると>しっかりと輪郭を現す主人公二人の設定に、内側から命を吹き込んだのが坂井真紀と小林且弥だ。田舎から都会に出てきて、都会の幻想で魂を抜かれ、何時しか足元を忘れる若者。似たもの同士の二人は、窓越しに出会ったあの日のままだった。でもそんな自分のあぶなっかさを何処かで解かってもいる。解かってはいても引き戻り方や地表の掴み方が解らない。夢と現実のどちらも選べず自分を見失いそうな若者がこんなにもリアルなのは、監督にも主演の二人にもこの感覚がまだ痛みを持って残っているからだろう。私が二人をこんなに愛しいのは、かっての自分に重なるからだ。

 <足を地に付けて生きる覚悟を決めるのは>何時だろうか。そんな事を考えなくても早々に大人社会に適応する人もいるが、何かに躓いてその垣根を越えられないものもいる。この二人は躓きながらも夢と現実の中間を上手く掴んで、新しい朝を見つける。その過程を温かく見つめるのがこの作品の素敵さだと思う。

 <もう夢見る時は過ぎたのだと思わせてくれるのは>、たいてい幼い頃の思い出の場所。老いていく両親や、故郷の友人たちと実家だろう。仕事を止めて帰った香子の故郷での暮らしのリアリティに胸が詰まった。 
 <都会で見た父と違って>、古びた家で一人暮す父の老いは隠しようもない。それでも弱音を吐かず地道に生きる父。その父がいるからこそ、都会でふわふわと生きれる自分に気が付く。故郷は自分の根っこ、父は拠り所なのだ。でも悲しいけれど、故郷は離れていれば懐かしくても、都会に慣れた自分にはもう違う場所になっている。(ここはもう今の自分の場所じゃあない。逃げてきた東京でもう一度ちゃんと生きてみよう)と思わせるのも故郷だ。そんな娘の心中は側にいれば父にも解る。家を出て行く娘に、父は、怒鳴るように「が、がんばらんか!」と励まして送り出す。ここにいろとは言わないし、言えない。これも父と娘ならの情景、二人の語らない思いが胸に迫った。

birutodoubutu_s1.jpg
(c)2007『ビルと動物園』製作委員会

 <それは慎にとっても同じで>、音楽家で生きるのは所詮自分には無理なこと。でも夢の続きの音楽教師という道もある。母校で教育実習をして恩師の温かさに背中を押される。地に足を着けながらも、まだ二人は自分らしく生きるという夢を諦めてはいない。遠くの夢でなくても自分に届く夢だってあるのだ。そこをさわやかに描いている監督の力量、老成と思春期を併せ持つ監督の目の確かさを感じる。主人公の二人は何処にでもいるような、私たちと等身大の若者。何処にでもいる二人だからこそ生き方も結論も愛しい。

 <エンディングに流れる持田香織のボーカルが>、観客の思いに寄り添い、作品の世界観を豊かに広げるのにも聞きほれる。音楽が加わってちょうど完結する足し算と引き算の確かさ、監督の調整は最後まで緩まない。新しい自分を生き始めた二人が一緒に歩き始める日も近いだろうと思いながら、長い余情の中を夢心地で帰路に着いた。(犬塚芳美)

   この作品は9月27日(土)より第七藝術劇場で上映

映写室 NO.168 蛇にピアス

映写室 NO.168 蛇にピアス
   ―男の突き出した二つに割れた舌(スプリットタン)―

 刺青をしたり鼻や唇のピアスと、際限なく体に細工する若者たち。正直なところ、彼らの美意識が解らない。でも解らないなりに何を考えているのかに興味があるのは、透けて見える痛さが私の虚無感と何処かで重なりそうに思うからだ。そんな心理を瑞々しいタッチで描写した金原ひとみの原作を、蜷川幸雄が孤独を真正面に据えて映像化した。
 体の痛みでしか実感できない「生きている証」、社会に押しつぶされそうな若者の孤独が浮かび上がってくる。もしかしたら生きるということに対して、彼らは私たちよりずっと真摯に問い続ける哲学者かもしれない。時代の虚無感が彼らを追い詰めているのかもしれないとも思う。作り物で変形した彼らを見ていると、現代社会はもう人間の住処ではないのかもしれないと思ったりもする。

hebi-m.jpg
 (C) 「蛇にピアス」フィルムパートナーズ

<荒筋> 渋谷の町をふらついていたルイ(吉高由里子)は19歳。偶然出会ったアマ(高良健吾)は赤毛でモヒカン、背中の刺青、唇や眉のピアスと異様だが、ちょろちょろと動く二つに割れた舌を見せられた時から、虜になった。私もしたいとせがむと、シバ(ARATA)の店に連れて行ってくれる。シバも顔中にピアスをし、全身に刺青があった。

 <ここに登場する若者は>、若者だけの世界で生きていて、両親や家庭はまるで描かれない。複雑なアマと違って、ルイの家庭は恵まれていそうに感じるが、それでも親への不満とか不平とかではなく、(多分)大人には解らない彼女自身の選択で家を飛び出している。否、もしかすると飛び出したほどの意識も無く、ふらふらと自分に合う(これが味噌のような気がする)ぬくもりを求めてたどり着いた所が、同じ不確かさを見せるアマなのかもしれない。若者たちは、お仕着せじゃあない自分の心にぴったりと合う自分だけの温もりを探しているのだ。二人でアルバイトをするママゴトのような暮し、それでも背中の刺青に「でも瞳は入れないで欲しい。飛び出してしまうから…」と言う切なさ。家を出ながら、少女は自分で見つけたこんな頼りない拠り所を大切にするほどに弱くもある。

 <携帯電話1本で友達と繋がり>、それ以上に深入りしないから、アマが帰らなくてルイが行方を捜そうにも本名すら知らない有様だ。天涯孤独ならともかく、突然いなくなって両親は探していないのだろうかと、普通の疑問を持つけれど、現実は私の頭よりずっと進んでいるのは新聞を賑わす多くの事件が証明している。若者たちは大人とは別の世界に住み始めたらしい。もし一緒に住んでいると親が思っていても、それは彼らの仮面で、彼らの本当のねぐらはもはや大人の入り込めない別の時空になっている。何時からこんな風になったのだろう。

 <20才のまだ幼さを残す少女が>、SM、刺青、ボディピアスと過激な題材を自由に操り、若者の孤独を描いて芥川賞をとった、2004年の金原のデビューは鮮烈に覚えている。この時は、19才の綿矢りさの「蹴りたい背中」と言う対象的な作品も同時に芥川賞を取ったから、余計に印象深い。若い人の台頭、しかも描いているのが大人は存在すらも知らない世界だったから、旧世代は色々な意味でショックを受けたものだ。
 <今や、彼女が描いた世界は地方都市にまで>広がった。プチ家出、援助交際、フリーター、体のあちこちにさしたピアス、刺青等々は、少女を巻き込んだ事件が起こるとたいていどれかが絡んでいて、何も知らなかった親や教師をあわてさせる。この映像の世界は、金原という若い感性が確かな時代感覚でいち早く捉えた方向性だったらしい。

hebi-s.jpg
(C) 「蛇にピアス」フィルムパートナーズ

 <アマの突き出したスプリットタンは>、しなやかに動いて確かに生きていた。こんなにもエロテックで神秘な舌に惹かれる気持ちは少しだけ解る。こんな舌になれたら自分が変われそうに思うもの。それにしてもルイとアマの優しいこと、これでは生きにくい。ピアスも刺青もそんな若者が社会から自分を守る鎧かもしれない。
 <援助交際で稼いだお金で>、せっせと体に刺青を入れていくルイ。偶然に出会ったアマと運命のように出会ったシバ、ルイは二人の男の間で揺れ続けるが、二人の本質にはまだ気付いていない。そこらあたりが社会の怖さだ。
 ルイやアマのすぐ側には、同じようでまるで異質な、狂気を秘めたシバがいる。シバにからめ捕られたらもう後戻りは出来ない。孤独な少女の求めた「生きている証」の痛みの向こうには、本物の痛みと狂気があった。いつも事件はこうして起こる。


 <(全く何を考えているのか)と、普通だったら>怒鳴りつける年代の蜷川が、しなやかに若者に寄り添っていく。若者自身も掴みきれない不安と焦燥感、その根源は何なのだろうと問い続ける。もちろん当の若者にも解らず、だからこそスプリットタンを目指したのだ。言葉にならない答えが映像に漂い、ラストになると闇は深まるばかり、ちょっと辛い。
 蜷川幸雄は青春を描くとタッチが冴える。しかもその青春がひりひりと痛いほどいい。舞台でも完成された重厚な商業ペースのものより、若い俳優を使ったアバンギャルドで未完成なものの方が、彼の本気度が見える気がする。そんな意味ではこの作品も「青の炎」以上に監督の本領を発揮していると思う。製作者として常にがけっぷちを歩く姿勢が、実生活でそんな生き方をする彼らへのシンパシーになるのかもしれない。蜷川の中に残る思春期が、今も疼いているように思った。(犬塚芳美)

 この作品は9月20日(土)より全国ロードショー
    関西では、シネ・リーブル梅田、なんばパークスシネマ、
         京都シネマ、シネ・リーブル神戸で上映

映写室 シネマエッセイ 「12人の怒れる男」

映写室 「12人の怒れる男」シネマエッセイ     
  ―少年を裁く12人の陪審員の怒りの矛先― 

 1957年に作られて多くの賞を受賞したアメリカ映画「十二人の怒れる男」が、ニキータ・ミハルコフ監督の手で今のロシアを舞台にリメイクされた。本当言うと、ロシアの社会や政治を複雑に織り込んだ、この作品の全てを解るのは難しい。解ったつもりでも、解ったのは漠然とした雰囲気だけのこと。後で言葉に出来るほどには解っていない。…と書いて、映画的側面からだけの紹介のお断りにしよう。政治、宗教等の内情に通じた人なら、この作品からもっと多くの事が読み取れると思う。
 それでも、12人の俳優の圧倒的な存在感と、2時間半を超える心理劇が濃密さを貫き通したのには感動する。今だに充足感が消えないし、最後に到達するのが社会正義というまっとうな論理で、ロシア映画の底力を見せ付けられた思いも消えない。力不足でもやっぱり取り上げずにはおれない作品なのだ。

12-main.jpg

 <物語はこうだ> チェチェンの少年がロシア軍将校だった義父を殺害した罪で、終身刑を求刑された。3日間の審議も終わり市民から選ばれた12人の陪審員が評決することに。結論はすぐに出そうだったが、1人がおずおずと有罪に同意できないと言い出す。再投票ではもう1人無罪を言い出すものが出る。こうして1人、又1人と自分を語りながら少年の有罪を翻し始めた。

 <監督は順撮りで、しかも途中のカットを入れず>全員に同時にそれぞれの演技をさせ、舞台のような緊張感を与えてこの作品を作り上げたと言う。舞台出身の俳優がほとんどだからこそ可能だった事だろう。前半は焦点が定まらず少しまどろっこしいが、それはそのまま、片手間だった12人の評決態度でもある。時間と共に誰もの顔が存在感を増し、観客の頭の中も整理できて物語が絡み始めた。 
 <日本でも来年から裁判員制度が導入されるが>、この映画を観ると怖気づく人もいると思う。特に重い罪についてこの制度が使われるというから、死刑制度のある日本では、この映画以上に裁判員が人の命を左右することになる。最初12人がそうだったように、思い込み、民族差別や偏見、利己主義、人の事にかまっておれない忙しさ、視点の不確かさやすぐに人に左右されながらそれに気が付かない愚かさ等々、凡人は人様どころか自分こそ裁かれるべき不都合を持っているもの。人の一生を左右するというのに、ころころと何度も真反対に主張を変える人間の姿も描かれている。そんな大衆に託される命とは何だろう。

12-sub1.jpg


 <でも裁判員制度を導入する意図も>、この映画を見るとある意味で理解できる。人を裁くとは人と社会を真正面から見つめる事、翻って自分自身を見つめることだと、この映画が教えるからだ。少年の判決の為に誰もが自分のことを語り始める成り行きに、私たちはここまで自分を追い詰めて裁判員を務められるだろうかと、映画としての展開の上手さを超えて圧倒された。しかも自分を語り始めた時、人は内面を見せて人間的な顔になる。同じに見えていたロシア人の顔が、東洋人の私にも一人ずつ違って見え始めるのには驚く。

 <この作品は日本で舞台化等もされたように>、話が陪審員室から動かず、ともすれば変化の無い密室劇になる。単調になるところを、場所を体育館に代え、バスケットボールのゴールスタンド、停電等自然な成り行きで変化をつけるのも巧みだし、だだっ広い平和な空間映像に、モノクロで短く挿入されるチェチェンの戦闘シーンや、空を見つめる独房での少年の映像との対照が、この物語の奥行きを深める。まるでみんなの頭の中を映したようでもあり、遠い地の出来事をここで裁く不条理さ、知っているようで思い込みでしかないチェチェン問題の認識の遠さ等、複雑な背景を浮かび上がらせるのだ。

 <もっと巧みなのが、迷い込んだ1羽の小鳥だった> 出口が見つからずバタバタと天井を舞い、ガラス窓にぶつかる非力な小鳥は、まるで大きなロシア社会に閉じ込められたチェチェンの少年のようでもあり、誰もが頭上を見上げしばし現実に引き戻される。民族差別等は受けても、ここにいる12人は彼と違いともかく平和の中。あの小鳥を閉じ込めておくほうは無い、窓を開けて逃がしてやるのが当然だと、小鳥は物語と画面の両方をかき回す。
 <ところで12人は何に怒ったのだろう> もちろん最初は少年など関係なく、忙しいのに陪審員に選ばれたこと等自分の不運に怒っている。でも時間と共に怒りを社会や自分の内面に向け始め、問題はチェチェンの少年のおかれた社会の不条理であり、そんな社会を作った自分たちだと気付いていくのだ。裁判員制度が始まったとき、私たちの視点や怒りをそこまでもっていけるだろうか。否、そうでないとせっかくの制度が無駄になる。この制度導入の意図もそこにあると思いたい。

 <ロシアにとってのチェチェンとは>中国におけるチベットのようなもの。イスラム教国でイスラム文化を持つチェチェンは、ロシア連邦の中ではユダヤ人以上に異質だ。ソ連が解体する1990年ごろから現在まで激しい独立運動を繰り返し、99年から2000年の第2次紛争時にはチェチェン側に20万人もの民間人犠牲者が出たという。それでも独立を認めないロシアと諦めないチェチェン。ロシアで大きなテロがあるとたいていチェチェンが絡んでいる。溶け合えない両者の感情は私たちの理解を超えているのだろう。 
 <そんなチェチェンとの関係や今のロシアが抱える複雑な社会問題等を>、心理劇の背景に浮かび上がらせる。ここで不明なところはぜひご自分で観て感じ取って欲しい。他の映画2本分以上の濃厚な時間を過ごすことになるはずだ。(犬塚芳美)

 この作品は、関西では第七藝術劇場、シネマート心斎橋で上映中
       10月 シネ・リーブル神戸、京都シネマで上映予定

映写室 NO.167 「コレラの時代の愛」&「言えない秘密」

映写室 NO.167 「コレラの時代の愛」&「言えない秘密」   
 ―時代を超えた愛の物語2本―

 恋心は時に時空を超えるもの。ひた向きな愛で隔たる時空を歪めたり、耐え忍んだ時が頑なな心を溶かしたりと、方法は色々でも奇跡を呼ぶことがある。ノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスの傑作「コレラの時代の愛」を圧倒的な存在感で引っ張るのは、「海を飛ぶ夢」、「ノーカントリー」等で数々の映画賞を受賞したスペインの演技派ハビエル・バルデム。「言えない秘密」は台湾の若手実力派ジェイ・チョウが、監督・脚本・音楽・主演をマルチに努め、爽やかな風をまきおこす。珍しい南米や台湾の映像と共に、両作品のヒロインの正統的な美しさも魅力で、初秋にふさわしい愛の物語2本です。

1.コレラの時代の愛 

corerano-m.jpg
(C)Copyright 2007 Cholera Love Productions,LLC ALL RIGHTS RESERVED.

 <荒筋>舞台はコロンビアのカタルヘナ。男(ハビエル・バルデム)は女(ジョバンナ・メッツォジョルノ)の夫が死んだと聞いて、万感の思いでプロポーズする。51年と9ヶ月4日、男はこの日を待ち続けていたのだ。でも悲しみにくれる女から返って来たのは「出て行って!」と言う罵声だった。622人に愛されても彼が求めたのはただ一人の女だけ。始まりはまだコレラが多くの人の命を奪った時代の、故郷の屋敷での一目ぼれだった。

 <この男の場合、長年待ったと言っても>付きまとってはいない。思いは自分の中でたぎらせ、人知れず遠くから見つめていた訳で、その空虚さを埋め合わせるのが乞われるままに交わるその場限りの多くの女との秘め事だった。そのあたりの南米気質やしつこさと情熱を演じるとしたら、やっぱりハビエル・バルデムしかない。怪演すれすれで、重厚な物語に私達を誘っていく。全編まるで彼がこの地の空気そのもののような、纏いつく重さで、物陰からヒロインを見つめるまなざしを感じさせる。
 <この男の過剰さを真正面から演じて>、女が疎ましく思う気持ちと最初に惹かれた気持ち、両方が理解できた。驚くのが、青年期から51年後までを、特殊メイクの力を借りてとはいえ、一人で演じきったことだ。青年期の初々しさと男盛りの中年期、老年期のいぶし銀のような雰囲気。まさかと思いながら目を凝らしたが、同一人物以外に微妙なニュアンスがこんなに似るわけも無い。一体素顔の彼はどの年代なのだろうと、年までを超える役者の力演に驚く。
 <こんな主人公の側だから>、熱愛されるヒロインはただ気高く輝いていればいい。錯覚かもしれないが一度は愛した男を、夢から覚めて裏切る言葉さえたおやかで、男が諦められないのも解ろうと言うもの。自分の意志を持っていそうでも、この時代の女の常で、結局は受身の幸せに流される容易さ。そんな曖昧ささえ男と同じように観客を虜にする。物語の通りに、時を越えて愛されるべく生まれてきた人のオーラを感じた。南米の恋は何処までも不条理で濃いのだ。

 <そんな二人と共に>、この映画の見所はコロンビアの空気感を映した映像だろう。ゆったりと流れる川沿いの珍しい風景、極彩色の鳥が飛ぶ青々とした庭や装飾の多い重厚な建物、贅沢な調度や衣装の数々等、南米の濃厚さが全編に漂っている。ここには別の時間が流れていそうで、こんな土地なら時を越えた愛が生まれてもおかしくは無い。男の恋はこの土地ならではのもの、ガルシア=マルケスがカタルヘナで記者をしていた時にこの土地から受け取ったインスピレーションなのだろう。原作の世界感を再現した映画の重厚さに魅せられた。

    9月13日(土)より、TOHOシネマズ梅田、TOHOシネマズ二条で上映
    9月27日(土)より、シネカノン神戸で上映予定


2.言えない秘密 
ienai-m.jpg
(C) 2007 East Empire International Holding Limited

 <荒筋>淡江音楽学校に転校してきたシャンルン(ジェイ・チョウ)は初日に旧校舎のピアノ室で、美しい曲を弾くシャオユー(グイ・ルンメイ)と出会う。曲名を尋ねると「誰にも“言えない秘密”よ」と答える。その日の帰り自転車の二人乗りをしながら話す家族の事。親しくなったのにシャオユーはよく学校を休む。ある日家を訪ねると…。

 <私はこの作品で始めてジェイ・チョウ>を知ったけれど、日本では馴染みが薄くても、台湾では圧倒的な人気で、アルバムセールス、出演作の動員共にトップクラスのアーティストだと言う。満を期しての監督デビューは、自身のオリジナル脚本でなされた。物語の随所に出てくるピアノの演奏はもちろん本人で、クライマックスの圧倒的な演奏が彼の実力なのだ。ハンサムな訳ではないが、ナチュラルな優しい雰囲気が女性心理を擽る。
 <華麗なピアノ曲、可愛い制服>、こじんまりと素敵なおうち、自転車で走る郊外の道、全てがメルヘンチックで、知らず知らずこの物語の世界に引き込まれていく。と言っても、優しい世界を楽しんでいる間も、後で意味が出てくる伏線はあちらこちらに隠されているわけで、油断できない。でもシャンルンが気づかなかったように、私たち観客もその時まで大きなミステリーに翻弄されよう。最後の隠し味にジェイ・チョウの非凡さが伺われる。

 <殆どが制服姿と言うのもあるが>、ジェイ・チョウを取り巻く二人の女優の清楚さも素晴らしい。二人の笑顔を見るだけでさわやかな気分になった。ただし物語の後半は謎を残している。二人の関係は、それぞれの父と母はと、観客の想像も掻き立てる。描かれていないところも裏側できちんとつじつまが合っているというから、いつか種明かしをして欲しいものだ。 
 <重厚な雰囲気のある校舎は>ジェイ・チョウの母校だと言う。少しセビアに振った映像と言い、このけばけばしい時代に制服姿を魅力的に描いた姿勢といい、彼の美意識の結晶のような作品だ。ジェイ・チョウに貴公子のイメージが定着してしまった。全体に小品感があるが、それも自分だけの宝物のようで、この作品の雰囲気になっている。

   9月13日(土)より、テアトル梅田、MOVIX京都、
              シネカノン神戸他ロードショー


  世界観は対照的な2作品だが、どちらの愛も奇跡を起こすほどに純粋だった。(犬塚芳美)

映写室 NO.166 TOKYO!

映写室 NO.166 TOKYO!
― 東京の疾走感に刺激されて―

 漫画、アキバ系、寿司、禅と日本の文化を表す言葉が、いつの間にか世界の共通語になった。そんな文化の中心東京は、外観は巨大な世界都市なのに、他所とは違う時間や文化の内蔵で、クリエーターを触発し続けている。今までもここを舞台に、エキゾチックさを強調した映画は色々作られたが、もっと深く東京の特質に迫る作品が出来た。ミシェル・ゴンドリー、レオス・カラックス、ポン・ジュノという3人の監督が、TOKYOを舞台にそれぞれの物語を展開するが、新鮮な外国目線ながら、その視点は意外に私たちと近い。3編のどれもが、東京という猛スピードで疾走する都市と人々のずれに触れています。

1.TOKYO! <インテリア・デザイン>監督:ミシェル・ゴンドリー(仏出身・NY在住)

tokyo-s.jpg

 <荒筋>恋人アキラ(加瀬亮)が撮った映画を持って、一緒に東京に出てきたヒロコ(藤谷文子)は、友人の部屋に泊めてもらう。アパートを探すが少ない予算ではまともなところが無い。バイトを探してもアキラだけに見つかる。上映会が終わり、皆に賛美されてご満悦のアキラの傍らで、気が付くとヒロコは心の辺りがぽっかりと空洞になっていた。
 <ミシェル・ゴンドリーはもともとミュージック・クリップ界>の鬼才で、時間軸を複雑に交差させた「エターナル・サンシャイン」の監督でもあり、手法は別でも、今回も一人の少女の空虚さをシュールな映像に変えていく。
 「東京」という言葉で監督の捉えたのは、地方から出てきて暮すことの大変さで、それを金銭と精神の両面から描けば、巨大都市の無常さとクールさに少女は弾き飛ばされそう。人はどうやってこの街にしがみ付き、溶け込むのだろうか。

 <うつろな表情と頼りない歩き方で>ヒロコの孤独を感じていたら、映像はどんどんシュールに心象風景をなぞり始める。自分だけが取り残されて、居場所が無く心にぽっかりと開いた穴。ひょろひょろと歩き、隙間に忍び込み、街角で見かけた男への寄り添うような思慕。寂しさから自分が消えて無くなりそうな感じが、心象風景としてリアルだった。この辺り監督の暮すNYも同じなのだろう。作品に漂う優しさは、まるで監督が少女の化身の椅子に座る男のようで、少女を柔らかく包み込んでいく。都会に出てきた誰もが、寄り添える誰かを見つけて、少ずつ、心の空洞を埋めていくのかもしれない。ここらあたりは大人のファンタジー。ヒロインの虚ろさを藤谷文子がふんわりと演じて、後半の魂の広がりへと繋げています。

2.TOKYO! <メルド>監督:レオス・カラックス(仏出身パリ在住) 

tokyo-1.jpg

 <荒筋>渋谷の喧騒の中、マンホールから謎の人物が現れる。彼はメルド(ドゥニ・ラヴァン)と言う男で、赤毛、長い顎鬚、ボロボロの服という異様ないでたちで、心臓辺りに手を当て大またに闊歩し、又マンホールに消えていく。地下には戦車等色々な武器が山積していた。手榴弾を投げたことから特殊部隊に拘束されるが、世界各地から届く彼の怪情報は、…。

 <この街はいったい何所だろう> 「ポンヌフの恋人」等の主演で知られるドゥニ・ラヴァンが、くたくたの上下で闊歩すると、東京の街が無国籍になる。街って何だろう。街に顔なんて無いんじゃあないか、歩く人こそが街の顔だと気付かされるのだ。メルドに驚く日本人の方が映画的には異邦人。一人の男が巻き起こす風が一瞬で街を塗り替える様は見事というしかない。それに私たちは地上でちまちまと日常を送っているが、その足の下にはアナーキーな世界が広がっているかもしれないというこの世の虚構性。マンホールは果てしなく続く暗闇で、一文字菊と紙幣を食べて、世界で3人しか話せない言語を使う男とは、かっての3国同盟の名残だろうか。
 <アバンギャルドなお話と映像に煙に巻かれながら>、1人の俳優の存在感の大きさに魂を揺さぶられた。全ては東京とスクリーンを舞台に、自由に遊び回った鬼才レオス・カラックスの力技だと思う。

3.TOKYO! <シェイキング東京>監督:ポン・ジュノ(大韓民国出身・ソウル在住) 

tokyo-m.jpg

 <荒筋>一人暮しの男(香川照之)は家を出ないままもう10年。父親から送られてくるお金で食事を注文し、目をあわさないように受け取り本を読んで暮している。今日も土曜毎のピザを注文するが、うっかりガーターベルトをした配達の少女(蒼井優)と目が合い恋に落ちた。翌週も注文するが届けてきたのは店長(竹中直人)で、少女は引きこもりになって家から出ないと言う。
 <他人と顔を合わせるのが怖くて>、目を逸らして暮らす中年男、引篭もりの主人公が香川照之という重さがなんともリアルだった。理由は解らなくても、びっしりと積み上げたピザの空箱、本等々、そんな中で、ひざを抱えて椅子にうずくまる男からは、世間への恐怖と拒絶、鬱積した思いが伝わってくる。香川の独断場だ。
 <今引篭もりの人が多い> 世の中のスピードについていける人ばかりじゃあない、壊れないように引篭もって自分のペースを守って生きるのも自衛手段なのだろう。其処に起こった地震(シェイキング)、建物だけじゃあなく男と少女の心も揺り動かす。男に会った後で彼女の方が引篭もりになるのは、偶然だろうか。「殺人の追想」等で有名なポン・ジュノは、韓国という同じ東洋人の監督らしく、湿っぽい感情を、一番ねっとりと表現している。

 ここに映っているのは、東京ではなく「TOKYO」。3人の鬼才を刺激した巨大都市は、今日も疾走し変貌を続けている。(犬塚芳美)

  この作品は9月6日(土)より、シネマート心斎橋、梅田ガーデンシネマ、
                    MOVIX京都等で上映予定。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。