太秦からの映画便り

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映写室 シネマエッセイ「ブーリン家の姉妹」

映写室 シネマエッセイ「ブーリン家の姉妹」 

 ―イギリスのゴールデン・エイジを築いたエリザベス1世の母と叔母と父―

 16世紀のイングランドの国王、ヘンリー8世を巡る女達の愛憎を描いた「ブーリン家の姉妹」が公開中です。これが素晴らしくて。ほとんどの撮影をイギリスの古い建物と豊かな自然の中で行い、衣装も当時の宮廷画家だったハンス・ホルバインの絵画を参考に創作して、まだ野趣味の残るチューダー王朝を豪華に再現。コスチューム劇では衣装が浮きがちなものだけれど、上手く時代感を出して馴染ませ、しかも俳優たちがそれに負けない存在感で着こなしているのが見事でした。ケイト・ブランシェットが演じた「エリザベス」、「エリザベス・ゴールデンエイジ」と繋ぐと、父と娘が統治した16,17世紀のイギリスの100年近くが俯瞰できるのも魅力です。

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(C) 2008 Columbia Pictures Industries, Inc. and Universal City Studios Productions LLLP and GH Three LLC. All Rights Reserved

 <この作品は、原題が「The Other Boleyn Girl」な>ように、王妃となったアン・ブーリン以上に、歴史の影に隠れるもう一人のブーリン家の娘、メアリーにスポットを当てています。仲の良かった姉妹は、1人の王を巡り仲たがいと和解の果てにどうなるのか。史実を踏まえながら大胆な創作を加えていく。お世継ぎを巡る画策はまるでイギリス版大奥で、権力闘争の要は洋を問わず女なのだと気付きました。

 <この姉妹の悲劇は、権力が王に集中し>、其処に近づくしかのし上がる方法がなかった時代に、美しく生まれたことだったのでしょう。親族や父の野心と気まぐれな権力者に翻弄され、一人は王の愛人となり男子を生みながら追放され、一人は王妃となり、後の女王エリザベス1世を生んだ後に断頭台の露と消えていきます。お金も地位も要らない、欲しいのは愛だけという純粋さで、王の心を捉える妹メアリーをスカーレット・ヨハンソンが演じ、私を欲しいのなら正妻にしてと迫り、妹を追放させ、王妃を追い出して自分がその椅子に座る、知的で野心的な姉のアンにナタリー・ポートマンが扮します。

 <アンの主張は今の時代なら当たり前だけれど>、当時としては画期的でした。離婚を認めないローマ法王と対立させてイギリス正教に変えさせたりと、王を翻弄して歴史上でも重要な役目を果たします。
 <アンは野心的だけれど>、そこに悲しさが見えなくもありません。のんびりと育てられた妹と違って、父親の期待を担って、一家の戦略の駒として育てられたから、王の優しさに自然に応えられる妹に対して、彼女はぎこちなく恋さえも戦略でした。男の子を流産して、それを隠そうと弟にまで関係を迫るという愚かさも、王妃の座にしがみつきたいと言うより、王への執着だろうに、それを恋だと自覚できないのが痛ましいのです。

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(C) 2008 Columbia Pictures Industries, Inc. and Universal City Studios Productions LLLP and GH Three LLC. All Rights Reserved

 <男ならば手を差し伸べざるを得ない>、儚さを纏った妹に対して、同じ物を持っていながら、どこまで強いのかと叩いてみたいような硬さを纏わされた姉。断頭台で震えるシーンでアンの繊細な心をポートマンが見事に表現しますが、「宮廷…」でもそうでしたが、心の奥底のガラス細工の様な脆さを見せるのは、苦しみも極限の時。それを見たさに、いわば可愛さ余って憎さ1000倍のように、男たちの冷酷さも増すのかもと思ったりもしました。いたわりで愛を受取る者と、冷酷な仕打ちで愛を確かめられる者、どちらがより愛されているのかは解りませんが、実利の取れるメアリーは美しさ以上に女から見ると魔性の女です。これがそのまま、演じる女優達にも当てはまりそうで、今回も役でそう思うのか、演じる者が加えた物でそう思うのかと迷いました。

 <この姉妹の、まるでジェットコースターのような>波瀾の人生に胸が痛みますが、そんな仕打ちをした権力者の、声に出さない慟哭も伝わってくるのがこの作品の優れた所です。エリザベス1世は生涯独身を通し、その理由を「私はイングランドと結婚した」と言いました。これを観ると、その父が世継ぎを欲して6回の結婚をし、そのうち二人の妃を断頭台に送ったのは、妃とではなくイングランドと結婚していたからだとも思えてきます。
 <最もこんな感想は、憂いを含んだ曖昧な瞳の>エリック・バナが王を演じたからで、残忍な行動と瞳の訴えるものが一致しない。どうしてもその瞳の奥に深い思慮を探ってしまい、この作品の魅力と欠点は、エリック・バナの加えたヘンリー8世の人間性だと思う位でした。もちろん冷酷な仕打ちを受けながら、最後までどこかで王を信じていたメアリーの視点に、私が共振したのかもしれません。

 <ところで私が嬉しかったのは>、「アクロス・ザ・ユニバース」や「ラスベガスをぶっつぶせ」で今年一気にブレークした、イギリスらしい気品と甘さを漂わせるジム・スタージェスがこの姉妹の弟に扮しているところでした。心配そうなスタージェスの顔が二人の間に挟まるだけで、絵的にも深くなる。3人で無邪気に遊んだ、幼い田舎の日々が人生の最良の時、何があってもこの弟だけは、二人の姉に幼い頃の面影を重ねていたのではと思うのです。
 この後ブーニン家は没落しますが、首謀者の叔父一家は今も生き残っていると聞くと、これこそが貴族の処世術と唸らされました。 2月にあったロンドンのプレミア試写会では、ここに登場する人々の末裔であるチャールズ皇太子夫妻がオープニングに駆けつけ、イギリスの映画とテレビの発展を挨拶されているので、豊かな文化遺産でハリウッドに巻き返しをと言う戦略もあるのでしょう。確かにイギリスの力あってこその作品でした。(犬塚芳美)

 <余談ですが>
 この作品は複雑な愛憎劇に負けず劣らず、豪華なビジュアルも見所です。二人とも古典的なドレスがよく似合いますが、ヨハンソンが世に認められたのはオランダの画家フェルメールのミューズを演じた「真珠の耳飾りの少女」だったし、ポートマンは今上映中の「宮廷画家ゴヤは見た」だけでなく「スターウォーズ」シリーズでも、未来なのか過去なのか解らない豪華なドレス姿を披露していました。衣装を担当したのは、アカデミー賞で常連の「恋に落ちたシェークスピア」のサンディ・パウエルです。

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映写室 NO.174 その土曜日、7時58分

映写室 NO.174 その土曜日、7時58分
     ―犯行はまず近親者を疑え!―

 <世相を反映してか凶悪な犯罪が多い> しかも、祖母や夫が殺され、息子が殺されて、「犯人を捕まえて!」と涙ながらに訴える家族を痛ましく見ていたら、数日後には号泣していたその人が加害者だと解るケースがよくある。おかげで素人の私すら、事件が起こるとまず家族を疑う習慣が付いてしまったが、殺すほどの憎しみの裏側にはたいてい愛があるし、殺しても手に入れたいほどの貴重な物の存在を知っているのもたいていは近親者だ。
 <そんな意味では、この作品も、今や現実に先を越される程の>物語だけれど、犯人の緊張に合わせるように画面に緊張感が漂い、焦る心情をリアルに体感させるのが見事だった。実力派たちの卓越した演技のハーモニーと、「十二人の怒れる男」、「狼たちの午後」等数々の傑作をものにしてきた社会派ドラマの巨匠、84歳のシドニー・ルメット監督のじっくりと人物を浮かび上がらせる演出手腕を楽しみたい。犯行は1週間分のお金が集っている、開店直前の「その土曜日、7時58分」に行われた。兄弟で大金を山分けする計画が狂ったのは、その日が父の誕生日なのを二人の息子が忘れていたのが発端という、家族の繋がりを問う側面も持っている作品です。

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(C) 2007 CAPITAL FILMS LIMITED. ALL RIGHTS RESERVED.

《荒筋》 
 誰もが羨む成功者のアンディは、離婚して娘の養育費も滞りがちの弟ハンクに、両親の経営する宝石店に押し入る計画を持ちかける。被害は保険で賄われるから誰にも実害はないし、店番は老眼の店員だから脅すのもオモチャの銃でいいと言う。実行を命じられたハンクは、心細くて荒くれた男を仲間に加え自分は運転役になる。ところが外で待つハンクの耳に響く数発の銃声、どさっと吹き飛ばされてきた血だらけの男。二人の企みは思わぬ結末を招いた。


 <時間軸を時々交差させてくるから>、集中力がいる。こんな事態になったわけを観客に説明するように、それぞれの人物を中心に時を蒔き戻して見せるのだ。それは各人の抱える事情でもあり、複雑な兄や弟のそれも、両親の事情も他の人は知らない。家族のこの疎遠さからも悲劇の芽は育っていたのだ。もっともこの兄弟でなくても、大人になった兄弟どうしならば全てを打ち明けたりはしないもの。この兄弟が特殊なのは、疎遠でありながら実は大事な根っこで依存しあっている幼児性だった。
 <こうしてみると実際の犯行の前に>、すでにこうなる流れが決まっていたようなもの。困難な事態は性格のまねいた結果だし、この性格の兄弟が不確かな時代の波に飲み込まれたらこうなるのは目に見えている。誤算と不運の連続のような物語を貫く、3人の関係性がこんな事件を生み出したという骨格はゆるがない。
 <「カポーティ」で太目すぎると揶揄されながらも>、伝説の作家役を存在感たっぷりに演じて、アカデミー賞をはじめ主演男優賞を独占したフィリップ・シーモア・ホフマンが、ふてぶてしさを装いながら、がけっぷちに追い詰められて何処にも逃げ場のない男の焦燥感をリアルに演じる。この男はどんな落とし前をつけるのかと、今後の展開を全く予想させないのが見事だった。完全な悪役なのに、焦燥感を哀れに思わせる振幅のある演技で、ライブドア事件のホリエモンを彷彿させるのは、体型だけではなく、エゴイストさの中に愛嬌と孤独の影を引きづっているからだろう。昨日までの栄光は明日も続くとは限らないし、栄光ゆえのストレスの大きさも昔とは比較にならない。其処がこの物語の今日的なリアルさで、この男の姿にひやりとするエリートも多いのではと思う。

 <その弟で、愛する娘に「ライオン・キング」にも>行かせてやれない父親を、情けなさたっぷりに演じるのが、このところクリエーターとしても台頭著しいイーサン・ホーク。兄の妻とひそかに情事を重ねたり、震えながらも兄の計画のコマにされたりと、所詮は兄の影響下で生き、兄の指図でしか動けないその気弱さぶりが又リアルなのだ。娘にはいい父親だと思われたいから無理もする。幼くて背負いきれない父性に喘ぐ男が切ない。

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(C) 2007 CAPITAL FILMS LIMITED. ALL RIGHTS RESERVED.

 <背中のこわばりに頑固さを見せながら、強靭だった男の老い>を演じるアルバート・フィニーの存在感も見事だった。ぎこちない歩き方、眼差しの一つ一つにリアリティがあって、この親子の今と昔の関係性を絵的に説得する。
 <どうもこの一家は、優しく気丈な母親を真ん中に>、仕事一筋で頑固な父とのバランスをとってきた家族らしい。この兄弟は、反発しながらも父を超えようと思いつめ逆にその影に縛られてきた兄と、可愛い顔で父親に可愛がられるままに育ち、未だに次男体質が抜けない弟という風に、少年期の葛藤を克服できないまま大人になった、ある意味アダルトチルドレンなのだ。

 <そんな3人の男は、人生の最悪の事態に直面して>、何とか抜け出そうともがき、辿り着くのはもっとおぞましい結末。本当の自分を認めるのを恐れ、坂を転がるように落ちていくさまが凄まじい。家庭の多くを妻に任せ実直に生きれた父親の世代と、実直さだけでは生きて行けない息子たちの世代、親子の葛藤を母親はどんな思いで見つめていたのだろう。
 <母親も息子たちの妻も、3人の女は>それぞれが困難な現状を自分の力で打開する。でも、若い妻たちは夫を支える気も力もないから、自分が夫の人生からフェードアウトするだけで、取り残された相手までを気遣う余裕はない。生きにくい複雑な世の中になっているのだ。

 <間違いからとはいえ、自分たちが母親を殺し>、しかも大金も手に入らなかった。もうこの二人に未来はないが、さすが父親、事態をクールに観察して些細な疑問を持つと、動いてくれない警察を尻目に自分が調べ始める。そして気付いた驚愕の真相、ラストに彼のとった行動は、愛だろうか、憎しみだろうか。昔人間らしい父親の、責任と言う匂いも嗅げるのが痛ましい。男性の視点から現代を生きる人間の脆さを描いて、卓越した作品です。この物語が絵空事ではない現実こそが問題なのだ。(犬塚芳美)

  この作品は11月1日(土)より梅田ガーデンシネマで、
         11月8日(土)よりシネリーブル神戸で上映、
         12月13日(土)より京都シネマで上映予定

映写室 「コドモのコドモ」萩生田宏治監督インタビュー(後編)

映写室 「コドモのコドモ」
       萩生田宏治監督インタビュー(後編)

      ―子供たちの計り知れない力―

〈昨日の続き>
―麻生さんの演じる先生との関係はどうだったのでしょう。
萩生田:秋田でロケをしていたので、子供たちは旅館で合宿、大人はホテルです。仲良くするなとは一言も言わなかったけれど、麻生さんと子供たちは前半は話をしていなかったですね。別に仲が悪くもありませんがよくも無かった。でもだんだん慣れてきて、映画のとおり終盤には仲良くなっていました。これは大体が順撮りで進めていますから、この状況はそうでないより良いですよね。

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© 2008『コドモのコドモ』製作委員会

―子供もですが、大人の描き方が良いなと思いました。
萩生田:お母さん役の宮崎美子さんや麻生さんは、お腹が大きくなるのにどうして気付かないのかとかこんな子供がいたらどうしたら良いかとか、普段生活していても答えが出ないようなことを、悩みながら演技をしていました。演技として、悩み続ける事に悩んでいたというか、もっともそれが春菜のお母さんの本来の姿かなと思います。撮影中に教頭先生役の塩見さんが凄い子供好きだというのが解かって、だったらと長年子供を見つめてきた人の本音の言葉を盛り込むように変えたりしています。
―原作は12年後まで描いていますね。
萩生田:出産してヒロユキが町を出て行き、12年後に皆が農作業小屋に集るんです。で、八木先生が新しい赤ちゃんを産むんですが、この映画ではそこを1年後にしました。作っているほうの願いとして、1年後にこんな風になっていればいいなという思いを込めて作りました。お祖母ちゃんの死とかは、生を描くならどこかで死も描きたかったんです。でもそうするとお母さんが赤ん坊を一人で育てる事になる。大変だろうと、パーティのシーンでは地元秋田の名物を全て出して、僕らもお母さんをねぎらい慰めるつもりで作りました。

―あまり男性が出てきませんが。
萩生田:そうなんです。女たちで物語は進んでいきます。最初はもっと男のシーンも撮っていたんですが、男が意見を言ってる場合じゃあないだろうと編集の段階で気付いて、どんどんセリフを削っていきました。こんな時は男は頼りないものですよね。

―どういう世代に観て欲しいですか。
萩生田:特に限定はしていませんが、しいて言うなら、30代から40代の子育て中の人たちかなあ。ボクは中2と小4の娘がいるんですが、子供を育てながら育てられています。側で見ていると心配で色々やってあげたいけれど、少し突き放したほうが子供は上手くいけるし、こっちも楽になる。子供と接していて子育てでいっぱいいっぱいの世代に、子供にはこんな力があるよねというのを、これを観て思い出して欲しいです。
―完成した作品を子供たちは観ましたか。感想は如何だったのでしょう。
萩生田:春菜はまあまあよく出来ていると、ヒロユキはあのカットはちょっとまずかったとか、又よろしくお願いしますとか役者として見ていますね。今回は企画として受け取ったのですが、出産シーンとかあるので、僕としては出た子供たちが今後どう受け止められるかに一番配慮してきました。でも現場では、この映画に現れているように、子供の持っている力は凄いなあと思い知らされましたね。こちらが心配していた所をやすやすと飛び越えていく。自分の駄目な所を解かっていて、どうすれば直るかを言わないのに、自分で工夫して克服していきます。特に撮影も後半の冬になると、こっちが何か言わなくても自分でどうにかしようと追い込んでいけるようになりました。

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© 2008『コドモのコドモ』製作委員会

―子供たちのセリフが生き生きとしていますが。
萩生田:春菜のセリフは原作そのままを使いました。原作者のさそうさんがこれを書いた頃、長女が小5で、その年頃は汚い言葉を覚え始める頃なんですが、なるべく放置して観察し、彼女の言葉をセリフとして拾っていったらしいです。教育現場についてもさそうさんに子供がいたので、PTAでの経験とかを生かしたと。原作が観察に基づいているんで、僕も出来るだけ学校行事に参加して、言うことをきかない時女の先生はこう言うとかこうするとか、細かいシチュエーションを観察し、見聞きした事を参考にしました。
―学校や舞台になる町が田舎なのが、この物語的に良いなと思いましたが。
萩生田:情報の届き具合を言ってらっしゃるのだと思いますが、「JUNO ジュノ」は情報がある中で判断していますが、これは情報が届いているかどうかを抽象的にしたかった。どこでもないどこかと言うか。人間よりも木のほうが威張っているような場所で、撮りたかったんです。学校が決まった時に、命の大切さを描くにはぴったりの場所だと思いました。


―撮影はいかがでしたか。
萩生田:この作品は前半と後半で演出を分けていて、後半はドラマティックですが、前半はドキュメンタリータッチで、子供たちの時間がリアルに流れていきます。子供相手の撮影は大変と言えば大変でした。慣れるまでは一度教えたことが次の日に繋がらなくて、又最初から言わないといけない。毎日1から始める事になるんです。僕は彼らにとって友達でないことだけは確かで、教壇のこちら側から物を言い、「これは仕事だからね」と言い続けて、仕事は仕事として付き合ってきたので先生のようだとも言われました。でも子供というのはコントロールしきれない、計り知れないものを持っていると考えて付き合ったほうが良いですよね。そんな子供たちの豊かさを観て欲しい作品です。(犬塚芳美)
 
  この作品は東京で上映中
  関西では、10月25日(土)よりテアトル梅田、京都みなみ会館、
               シネカノン神戸で上映


《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》 
 <この作品にはリアルな子供たちの世界>が描かれ、それを覗く色々な視点が見る人の立場によって選択できます。小学生の出産を扱ってはいるけれど、私はそれ以上に春菜の学校生活、子供たちと大人との関係に興味がありました。些細なことで昨日までは仲良しだった友達から仲間はずれにされる悲しさやその克服、その寂しさを母親には告げないところや、母親が忙しくてついつい子供の心を見逃してしまう瞬間、姉との関係、母親に言えない事を祖母に打ち明ける関係、先生の幼さゆえの一人よがりや無神経さ、逆にその先生が面目丸つぶれで挫けそうな心ややりきれなさ等々、誰もがかっての私なので、描かれている以上に後ろ側のそれぞれの感情をリアルに感じることが出来る。映画ファンだけでなく、子供に接する方にはぜひ御覧いただきたいと思います。
 <監督は、のんびりした私からはそんなに心配しなくても>と思うほど、出演した子供たちへの反響を気にしてらっしゃいました。韓国でネット上の中傷により人気女優を自殺に追い込むという事態も起こりましたが、今ネット社会で匿名の批判があっという間に広がる。そんな嵐に無防備に子供たちを晒したくないと、そこは同じ年頃のお子さんを持つお父様の顔も覗きます。「神童」に続いて子供が主役の作品ですが、難しい子供の演出の確かさとそんな細やかな心配りを信頼されて、まだまだ子供の作品が集まってくるかもしれません。

映写室 「コドモのコドモ」萩生田宏治監督インタビュー(前編)

映写室 「コドモのコドモ」
       萩生田宏治監督インタビュー(前編)
      
―奇想天外な話に見る子供たちの可能性―

 <(「コドモのコドモ」って?)と考えると>、何とも刺激的な題名だけれど、観終えた後に込み上げてくるのはユートピアを覗いたような温かさ。笑いながらもほろっとさせられ、無邪気な子供たちの可能性に目を覚まされる。
 <原作者は京都精華大学マンガ学部で教える>、さそうあきらさんで、編集者から「小学生にコドモを産ませてくれませんか」と言う唐突な企画を持ち込まれると、驚きながらも想像を膨らませて、04年5月から05年7月まで、復刊なった「漫画アクション」に連載し熱狂的な人気を集めた。この作品の世界観は、「子供の子供」じゃあなく「コドモのコドモ」というのがミソだ。今度全国のミニ・シアターを繋ぐ「シネマ・シンジケート」という組織が出来たが、「コドモのコドモ」はそこの第1回配給作品になる。さそうさんとは「神童」に続いて2回目のコラボレートとなる萩生田宏治監督にこの作品の撮影秘話等を伺います。

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(9月25日 大阪にて)

<その前に「コドモのコドモ」はこんなお話> 
 春菜はやっと初潮がおとずれたばかりの小学校5年生。祖父母と両親、高校生の姉と暮す、負けん気の強い今どきの子供だ。ある日気の弱いヒロユキと、興味本位で「くっつけっこ」をするが、新任教師の性教育で「これってあれのこと?」、「私妊娠したかも?」と思い始める。でも大人には言わない。次第に大きくなるお腹を抱え「私産むから」と言うと、クラスメートも赤ちゃんを守ろうとする。

<萩生田宏治監督インタビュー>
―春菜役の甘利はるなちゃんが、子供っぽくもあり小母さんのふてぶてしさも感じさせと、振幅があって魅力的でしたが、キャスティングはどうやって決まったのでしょうか。
萩生田宏治監督(以下萩生田):去年の8月から撮影をしていますが、脚本を練り始めたばかりのまだ初稿も出来てない4月頃からオーディションを始めました。40人位ずつ、のべ400人ほどに会ったんですが、その中で選びました。彼女はお笑いが好きでテレビの観覧番組に出ていた時、今の事務所のマネージャーの目にとまり、この映画のオーディションを受けたらどうかと言われて来た子で、オーディションを受けたのは今回が初めてのようです。人を惹き付ける力のある子で、彼女に出会えて幸運でしたね。1回20分のオーディションなんですが、他のキャストのオーディションにも毎回来て座っててもらいました。会った時から(春菜は彼女だ)と思っていましたが、撮影は春も冬もあって長い。辛抱できるだろうか、耐えられるだろうかと忍耐力を試していたんです。相手を替えながら本を読んでもらったりと、ずっとオーディションに付き合ってもらい、結果的に彼女とのバランスを考えて他の子供のキャスティングをしました。彼女は観察するのが大好きで、どんなものでもじーっと見つめ、自分なりの面白さを見つけて行く。不思議な力を持った子です。

―小学生が子供を生むという刺激的な内容ですが、現実的に子供たちは性についてどのくらい知っているのでしょうか。
萩生田:一般的にこの年代だと個人差が激しいでしょうね。男の子は全く知らないようですし、女の子は解かっている子もいない子もいる。もっとも解かっているとしても、それがどの位解かっているのかは解かりません。この映画に出演した子たちで言うと、撮影の前に先生に来てもらって、先生といっても大学生で色々なところで性教育の講義をしている方なんですが、1時間半くらい性の授業を皆で受けました。紙に針で付いて小さい穴を開けて、命の始めはこんな大きさなんだと見せるところから始まる。それがどんどん大きくなる過程でセックスがあると説明していく感動的なもので、性というと欲望の部分が大きいのですが、そこよりは命が誕生する過程という、現象としての捕らえ方に主体を置いた授業でした。

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© 2008『コドモのコドモ』製作委員会

―子供たちは性をどう思っているのでしょうか。
萩生田:逃げているんではないけれど、この映画の製作として性をどう考えるかはあまり重要ではなく、こういう子がいた時どうするかを大事にして映画を作りました。「JUNO ジュノ」から「14歳の母」があり今度は11歳と、映画で出産の低年齢化が起こっていて、其処が注目されるのは仕方がないのですが。春菜役についても彼女自身の考え方というのは聞いたことが無い。でも何をやろうとしているかは解かっていました。ただそれが性の認識とかいった事になると、何処まで解かっているのかはこちらには解からないままです。(小学生が出産する話なんて)とこのテーマに批判も出ていますが、それもしかるべき反応かなと受け止めています。ただその批判が子供たちにどう届くかをとても心配していて、この映画に出たことで子供たちがどんな目で見られるかには、最大限の注意を払って撮りました。ネットとかに出る誹謗中傷が、回りまわって学校とかで彼らの目に入ったらどうなるかとか、春菜のお母さんと連絡を取り合って心配しています。ただし、春菜本人がそれを心配しているかといったら、あまり考えてなくて、今彼女が心配なのは初日の舞台挨拶と学校の運動会が重なって、このままだと運動会に出れないので、当日東京は晴れて群馬の学校のあたりだけ雨が降って、延期になった運動会に参加したいという事です。逆さてるてる坊主を吊るすとか言っていました。

―子供たちの演技指導は如何だったのでしょう。
萩生田:今回は体験した事の無い事を演じるので、実際に追い込むのではなく、役として追い込むというか、役に入る時と出る時を作るよう配慮しました。5時になったら普通の子供に返るように、でも撮影中はこれは仕事だからねと言う風に説明して状況を作っていったんです。夏と冬のシーンの間に4ヵ月くらい開いていたのですが、冬になるとそんな事を僕が言わなくても、自分たちで自然に出来るようになりました。(犬塚芳美)
                                   <明日に続く>
   この作品は東京で上映中
   関西では、10月25日(土)よりテアトル梅田、京都みなみ会館、
                    シネカノン神戸で上映

映写室 NO.173 ベティの小さな秘密

映写室 NO.173 ベティの小さな秘密   
   ―フランスから届いた“現代のおとぎ話”―

 <絵本から抜け出したような素敵な>作品が届いた。まず惹かれるのは映像美だ。緑豊かな田園と風景に溶け込んだ大邸宅、自転車で駆け抜ける森の小道と背中で揺れるランドセル、それらにはえるカラフルな衣装も楽しい。描かれるのは繊細な心が紡ぐ、現実と幻想がオーバーラップした世界で、夢見がちな少女にとっては、揺れる影さえも誰かからのメッセージだった。少女の心的世界は足音にすら反応し、暗闇は妄想と現実の境目を無くする。トイレに行くのさえも冒険だった暗闇への恐怖は、幼い頃を振り返れば誰もが思いあたるだろう。
 <女優であり小説家でもあるアンヌ・ヴィアゼムスキーの原作>を、「アメリ」のギョ―ム・ローランが脚本化して、子供の頃の瑞々しい感情をリアルに再現。誰もが大きな瞳の小さいマドモアゼルに魅了されるだろう。

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© 2006 – PYRAMIDE PRODUCTIONS / FRANCE 3 CINEMA / RHONE-ALPES CINEMA

<荒筋> 
 まだ10歳で幽霊と暗闇が怖いベティは、姉と無人のお屋敷を探検に行くが、扉が勝手に開いて驚いて帰ってしまう。その姉も寄宿舎に入り、ママはパパと口論して町に出て行き、広い屋敷で家政婦のローズと二人でお留守番。ローズは隣のパパの精神病院の患者で口がきけない。窓の外のざわめきすら心細いがパパも仕事が忙しい。ある夜自転車を小屋にしまっていると、木陰にハンサムな若い男を見つける。パパが話していた病院から抜け出した患者らしい。震える彼に私が守ってあげなくてはと思うのだ。


 <繊細過ぎて時々妄想から物語を作ってしまう>ベティは、自分の事を少し変わっていると心配している。だから、口のきけないローズや隣のパパの精神病院の患者たちを見ていると、いつか自分もあんなふうにおかしくなるのではと不安になってくるのだ。普通の人なら自分との違いを見つけるところが、優しいベティは彼らと同じ自分の弱さを見つめてしまう。パパにはある時までそれが解らなくて、ローズの代わりに普通の家政婦を雇ってと言っても、単なる我儘だと聞き流してローズの為にそうしない。

 <このあたりの展開は微妙で>、大人は子供の恐怖心など想像もつかないものだとどきりとさせられる。でもこんな純粋な娘を育てた父親の素敵さもバックに垣間見せて、どこの家でもあることだけれど、この一家はママとママ似の姉、パパとパパ似のベティという二組に別れているらしい。ほとんどをベティの視線に重なるカメラワークで捉えながら、時々はまるで父親のような、彼女への慈愛に満ちた監督の目線がカメラワークになる。

 <ベティは学校でも活発な仲間とは馴染みにくく>、彼女が心を寄せるのは、明日にも殺されそうな収容所の檻に入れられた犬のナッツだったり、転校生で皆からのけ者にされている顔に大きな痣のある男の子だったり、大人なのに膝を抱えて震えているパパの患者の青年だったりと、自分と同じように生き方が不器用で弱い存在だ。彼らによりそっているとベティの寂しさが消えるのだけれど、大人にはそんなことは解らない。他の犬じゃあなく、ナッツを飼いたいといくら頼んでもパパは許してくれなかった。

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© 2006 – PYRAMIDE PRODUCTIONS / FRANCE 3 CINEMA / RHONE-ALPES CINEMA

 <自分の大切な二人(?)が明日にも大変になりそう>になった時、ベティは家を出て行く。このあたりの子供っぽさと向う見ずさがベティの魅力だ。嬉々としてバスケットに食べ物を放り込み、パパのクローゼットからセーターを持ち出す様子は、こちらから見るとままごと遊びの延長でも、本人は真剣そのもの、幼い少女にも母性愛があるのだと微笑ましくなる。ベティのキャラクターや美しさが、性格は違うのに、同じフランス映画の「ぜんぶフィデルのせい」の少女に似ているのは、フランス好みの美意識だろうか。少しお腹を突き出した姿勢に幼さが覗くのも一緒だった。

 <父親だったら抱きしめたいような>この魅力的な少女を演じるのは、アルバ=ガイア。お嬢様ならではの真っ直ぐさと大らかさと繊細さ、怖がりの癖に暗闇の向こうを覗いて見たがるような冒険心もあり、ハラハラさせられながらも目が離せない。内省的でクラシックな容姿を持ち、瞳に多くのことを語らせていく。心を豊かに表現する物言う瞳が、この少女の何よりの魅力だろう。全編に赤が印象的に使われて、紅を含んだその赤はフランス映画独特のものでそこにもこの国の文化を感じた。

 <ところでベティの小さな秘密とは何だろう> もちろん小屋にパパが探している青年を匿った事だろうが、少し複雑に考えると「自分も変になるのでは」とひそかに恐れていた事ではないだろうか。大人が思いもしないことを子供は心配するもの。些細なことで傷ついているのを忘れないでいたい。それにしても、御伽噺は暗がりと大きな空間でこそ生まれると思い知らされる。フランスの田舎の豊かさを感じる作品です。(犬塚芳美)

 この作品は関西では10月25日(土)より、テアトル梅田、シネカノン神戸、
          11月1日(土)より京都シネマで上映

映写室「ICHI」綾瀬はるか、大沢たかお、中村獅童、曽利文彦監督舞台挨拶レポート

映写室「ICHI」綾瀬はるか、大沢たかお、中村獅童、曽利文彦監督舞台挨拶レポート
  ―その女、座頭市。―

 <時代劇の中でも1,2を争うダーク・ヒーロー>は「座頭市」。今は亡き勝新太郎が、盲目の逆手居合い斬りの達人を演じて人気を集めたTVシリーズや映画は、未だに放映されている。そんな伝説の “勝新「座頭市」”に挑んだのが、仕込み杖を片手に皆でタップダンスを踊ると言う、北野武監督・主演の現代的にアレンジされた「座頭市」だった。
 <そして今回登場した3代目「座頭市」>は、何と女性。それも今が旬の若くて美しい綾瀬はるかが、微笑を封印して、背中に三味線を背負った離れ瞽女(ごぜ)の市に扮する。市を巡って張り合うのは大沢たかおと中村獅童。ダイナミックな大型時代劇を仕切るのは、ハリウッドの超大作「タイタニック」のCGにも参加し、実写映画では「ピンポン」で監督経験もある曽利文彦監督。来阪した豪華な面々の舞台挨拶レポートです。

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(10月17日 大阪にて)

<4人の舞台挨拶>
曽利文彦監督:時代劇なのに若い人が大勢来て下さって嬉しいです。「座頭市」と言うのは時代劇の金字塔ですし、僕は勝新さんのファンなので、今回の企画が男性版なら腰が引けたと思います。でも女性版だというので、更地で一からキャラクターが作れると喜んでやりました。脚本も女性の視点から新しいキャラクターを作ってもらおうと、浅野妙子さんに書いてもらっています。それぞれのキャスティングは、綾瀬さんは明るさとクールさの両方があるので、クールな市に振幅が出て良いと思いやってもらいました。又、立ち回りがあるので運動神経が必要なんですが、綾瀬さんは運動神経が良いと聞いてよけいに良いと思いました。

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大沢さんには武士の癖に刀が抜けないという男の、二枚目から三枚目までの広いふり幅を演じて欲しかったんです。獅童さんは僕が初監督をしてから6年ぶりの再会で、大きく眩しくなっていて驚きましたが、彼の存在感でこの悪役を堪らない悪役にして欲しかったんです。音楽はオーストラリア人のリサ・ジェラルドですが、時代劇のイメージを覆したいと探していて、「グラディエーター」で繊細な胸のうちを唄っているのを聞いて、これは市にぴったりだと無理にお願いして参加してもらいました。理想的な良い方たちに集合していただけました。

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大沢たかおさん:ちょっととぼけたこの男の役つくりを特にしたわけではなく、綾瀬さんの周りをうろうろしただけで楽しく演じました。シリアスな作品なので、僕の役はなんかお口直し的な感じが良いなと思ったんです。撮影中の綾瀬さんは現場を優しい雰囲気で包み込む、周りをピンクの像が跳ねているような、ファーンとした雰囲気の人でした。去年の5,6月皆で楽しく作った作品なので楽しんでください。

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綾瀬はるかさん:市は孤独で抱えているものが多い女性なので、セリフも少ないですし、負のオーラを出すのが大変でした。イメージトレーニングで練習したんです。監督からは事前に殺陣を頑張ってくださいと言う事と、三味線の練習をしてと言われていました。殺陣は振り回す事に慣れず、約半年練習したのですが、最初の基礎練習が大変でした。その後の合わせ稽古に入ってからは楽しかったです。三味線は、右手、左手、唄う口と全てがかみ合わずにこちらも大変でした。演技では、感情をあらわにする所と抑える所の、メリハリを付けてくださいと言われていました。大沢さんは白とブルーの羽をつけた像が飛んでいそうな爽やかさで、獅童さんはブラックですね。初めて殺陣をやらせていただき、一生懸命頑張った作品なのでぜひ観てください。

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中村獅童さん:30歳の頃、曽利監督の「ピンポン」で高校生の役をやって、歌舞伎の世界から映画界へ入りましたし、僕が世の中に認めてもらった作品なので、今回監督から新作に声をかけてもらって、ぜひ出たいと思いました。又、今回もライバル同士ですが、「ピンポン」で一緒だった窪塚君と再び共演できたのも嬉しかったです。スターは好感度が大事な時代にこんな悪役をやると大変です。綾瀬さんとは会ったその日に、話もしないで戦うシーンを撮りました。時代劇の経験はあっても女性と立ち回りをするのは初めてで、最初怖くて思いっきりいけなかった。監督からは思い切り行ってと注意を受けたくらいです。なのにタイミングがずれて、綾瀬さんの指に当たってしまった。暫く撮影が中断したんですが、痛いはずなのに再開したら平気な顔をしている。はっとして、ここから本気で向かっていけました。海外に行って外から眺めると、日本には時代劇があるじゃあないかと思う。叔父の影響もあり、僕は時代劇のファンなので、若い人に受け入れられる時代劇を作りたいんです。この作品は大きなスクリーンで時代劇の醍醐味のちゃんばらを観てください。

曽利監督:どなたでも見られるエンターテインメントの時代劇になっていると思います。楽しんでください。久しぶりに、ここまで悪をやるかという獅童を見て欲しいですね。 (レポート 犬塚芳美)

    この作品は10月25日より全国でロードショー

※<「ICHI」はこんな作品>
 <目の見えない市(綾瀬はるか)は>瞽女(ごぜ)として暮していたが、その美貌から男に無理やり犯され、掟通り追い出されて一人で放浪している。ある日襲われるところを一人の浪人(大沢たかお)に庇われるが、実際に彼を助けたのは市だった。仕込み杖を抜くとめっぽう強く、聴覚も優れているから賭場でも負けることは無い。一方浪人は棒切れなら強くても刀を抜けないのに、勘違いから宿場町の抗争の助っ人にされる。相手方は片目の男(中村獅童)を頭領に置く荒くれたちだ。片目の男も市の美貌に目をつける。市は昔自分に居合いを教えた男の消息を探していた。

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(C) 2008 映画 「ICHI」 製作委員会

※<作品と舞台挨拶の感想>
 <女性版の座頭市と聞いて>、実は最初、際物かと思っていたのだけれど、最近見た時代劇では飛びぬけて本格的でした。まず山形に建てたというオープンセットが本格的です。へぎを葺いた屋根が宿場町の風情を漂わせ、時を感じさせる日に焼けた障子の色、急ごしらえとは思えない時代感で、ここに立てばなるほど時を巻きもどし武士の時代になりきれるでしょう。凄いなと思ったら、仕切ったのは木村威夫先生の下で長らく仕事をされた佐々木尚さんでした。其処に片方の衣装はカラフル、片方は伝統的と、時代劇の匂いと今の息吹を上手くミックスさせて、世代を超えて観やすい世界を作っています。舞台挨拶はそんな仕事振りにどんな思いで望んだかをうかがわせるものでした。

 <特に監督と獅童さんにその思いが強く>、この中では一番時代劇の解る獅童さんが、好感度を無視して究極の悪を演じています。以前丹下左膳でも片目姿を拝見しましたが、今回も片目。これが出来るのは目力のある方だけなんだと納得しました。特殊メイクで凄まじい姿もさらしています。大きい立ち回りに惑わされずそれぞれの心中を丁寧に描いて「愛が見えたらきっと泣く」のキャッチコピーの通り、知らず知らす涙が溢れました。
 <実は脚本の浅野さんは>「ミセスシンデレラ」でデビューの頃、何度も繰り返しビデオを観て、終いには言葉の使い方の癖まで解ったほどのめりこんだ方。気が付いたらその時のプロデューサーの小岩井さんとともに、こんな大作にまで関わるようになっていて、個人的にも感慨深い作品でした。

映写室「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」上映案内

映写室「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」上映案内      
 ―コーラスラインにかける夢―

 秋も本番。大人向けの見逃したくない良作が目白押しになってきた。そんな1本のこれはドキュメンタリーで、伝説のミュージカル「コーラスライン」の16年ぶりの再演のための過酷なオーディションの様子を、ブロードウェイの歴史上初めてという、選考会場にカメラを入れて捉えていく。会場だけでなくカメラはその期間の彼らの日常にも迫り、舞台にかける夢の為に彼らがどんな暮らしを送っているかが描かれる。

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All Rights Reserved (C) Vienna Waits Productions LLC.

 <舞台に全てをかけ>、日常との光と影の狭間をストイックに活きる彼らは何なのだろうと思うけれど、その答えのようなダンサー自身が語る印象的な言葉がある。「ダンサーは鏡によって自我を掘り下げていく。鏡に映して初めて孤独を癒せる人種なのだ」
 <親友と最後の場面で一騎打ちとなった>日本人のユカ、代役候補だったのに8ヶ月の間に有力ダンサーの強敵とまでなった者、苦しい生活をやりくりして全てをこのチャンスにたくした者、一人一人にこんなにドラマがありながらも、応募総数3000人から最終選考の8ヶ月後に選ばれるのはわずか19名だった。過酷な競争に胸が詰まるが、華やかな舞台の裏側こそが、まさにダンサー達の「ブロードウェイ」物語。スポットライトを浴びるのはほんの一握りの選ばれし者で、勝ち抜いた喜びと自信が舞台の彼らを一段と輝かせるし、あそこに自分がたっていたら、次こそは自分がと、客席から舞台を見つめる羨望の眼差しもリアルで熱いのだ。そんな両者がいて初めて成立するブロードウェイ、だからこそ高いクオリティは保たれているのだと納得する。

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All Rights Reserved (C) Vienna Waits Productions LLC.

 <今回再演するという元々の>、コーラスラインのオーディションに集まったダンサーたちの物語「コーラスライン」は、日本でも劇団四季がロングラン上映しているヒット作だし、それを映像化したマイケル・ダグラス主演の映画もあるが、そちらも実話に添うところが大きく、この作品でオリジナル版の今は指導者になっているモデルのダンサー達が、伝説の作品の誕生秘話や当時のいきさつを話して大勢登場するのも見所だ。私のように、未だにそのシーンが浮かぶようなファンには又別の感慨がある。
 <何故これほどに舞台に夢をかけられるのだろう>と痛ましくもなるが、それは私がほどほどの夢を追いかけて緩く生きて来たから。大きな夢ほど簡単には手に入らないのは当然で、そうやって手に入れたものだからこそ輝いている。ショービジネスに魅せられた者たちの喜びと悲しみ、実話ならではの迫力が胸に迫る作品です。「コーラスライン」オリジナル版の貴重な映像の数々もはさまれ、其方も興味深い。(犬塚芳美)

  この作品は10月25(土)より、
       梅田ブルク7、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、
       OSシネマズミント神戸で上映

映写室 NO.172 センター・オブ・ジ・アース

映写室 NO.172 センター・オブ・ジ・アース     
―「地底旅行」が全編フルデジタル3Dでお目見え―

 冒険SF小説の大家ジュール・ヴェルヌが約140年まえに描いた広大な“地底世界”が、最新の映像技術でよみがえった。3Dメガネをかけて、映画館で地底の旅をしてみよう。時々は自分に向かってくる触手に悲鳴を上げるし、ふわふわと客席を漂う光る物体には思わず手を伸ばしそうになる。気が付くと、客席までがスクリーンの中と一体化、身をすくめ、肝を冷やして震えるだろう。まさに映画館がテーマパークで、映画館の未来を予感させる、体感する映画の登場です。

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(C)MMVIIINEWLINEPRODUCTIONS,INC.ANDWALDENMEDIA,LLC.ALLRIGHTSRESERVED.

<荒筋>
 地質構造学が専門の大学教授トレバー(ブレンダン・フレイザー)は、10年前に行方不明になった兄の遺志を継ぎ、地球内部のマントルを貫く裂け目の存在を証明しようとするが上手くいかない。兄の息子のマックスを預かり、兄の遺品から「地底旅行」を見つけると本には書き込みがあって、現在と10年前の地震エネルギーが同じだと気付く。何かを予感し、兄の消息を追ってアイスランドに飛ぶと、そこには「先進火山研究所」の所長の娘ハンナがいた。ハンナをガイドにマックスとトレバーの探検が始まるが、誤って地底160キロの大洞窟に落ちてしまう。

 <こうして3人の面前に広がったのが>、ジュール・ヴェルヌの本の通りの幻想的な“地底世界”だった。そこはまるでもう一つの地球、時を止めたように恐竜が徘徊し、油断すると背中には人食草が大きな口をあけている。助けてくれる賢い鳥もいるが、空を飛ぶピラニアに襲われたりと、危険が一杯の、人間ではなく動物や自然が主役の国だった。どうやら兄もハンナの父も、本の世界を現実だと信じていたらしい。次々と襲い掛かる困難を克服しながら、再び地上に戻る為に3人の旅が続く。

 <空中に浮んだ石に乗って深い谷を渡ったり>、海底深く沈んでいったりと、ありとあらゆる冒険シーンが出現し、ファンタジ―なのにリアルだから、まるで自分が3人と一緒にアドベンチャーになったような気分。お子さん連れはもちろん、大人だけでも浮世を忘れて天才作家の空想の豊かさに浸りたい。 
 <ファンタジーだけでなく、徐々に築かれていく3人の絆>、父への思い、学問のロマン性等、原作の温かい人の描き方も観客を魅了する。このところよく報道される、今年4人も出た日本人のノーベル賞受賞者が、皆理論に裏づけされた夢を見続け、新しい世界を予言した姿がテレビを通して私達を魅了するように、物語を書いた作家と、作家の空想の源を現実と信じて、そこに彼らの夢を見たマックスとハンナの父という二人の科学者の素敵さ。3Dに惑わされること無く、人間もきちんと描かれていく。

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(C)MMVIIINEWLINEPRODUCTIONS,INC.ANDWALDENMEDIA,LLC.ALLRIGHTSRESERVED.

 <もっともこんな映像が実現したのは>作家の空想だけではない。初の長編3D作品となるこの映画の企画は、ホームシアターやネット配信などの進歩で、映画館から客足が遠ざかるのではと言う、映画人の恐れが押し進めたものだという。映像の3D化が、サイレントがトーキーに、白黒がカラーに変わったほどの変化になるかどうかは解からないが、少なくとも今アメリカ映画では大きな流れになりつつある。撮影中のものも含めてこの後も続々と控えているが、先頭を切ったこの作品で、映画転換期をまずは体験して欲しい。

 <映像を立体化出来たのは>、先週の舞台挨拶レポートの「マシ・オカ」のような特殊効果エンジニアの台頭で、この作品が初監督作になるエリック・ブレヴィグは、15才から独学で立体映画の研究を始め、長い間ハリウッドの視覚効果の第一人者として活躍している。主演のブレンダン・フレイザーが製作総指揮も勤め、監督の元に視覚効果の技術に強いスタッフが集結して作られた。

 <こんな映画の解説をするのは難しい> 面白いから体感してという以上の言葉が見つからないのが真実だ。メガネをかけているが、時々はこれの無い映像はどうなのだろうと気になって外して見てしまうのが、ささやかな私の主体的冒険。関西での3D上映館はまだ限られているので、もし3Dでご覧になるつもりなら、劇場選択に注意して欲しい。(犬塚芳美)

  この作品は10月25日(土)より全国一斉ロードショー
  関西での3D上映館は、
      TOHOシネマズ梅田、TOHOシネマズなんば、TOHOシネマズ西宮OS、
      ワーナーマイカル・シネマズ茨木、ワーナーマイカル・シネマズりんくう泉南


※《ちょっとディープに》
 <原作のジュール・ヴェルヌは>SF文学の開祖として知られ、1823年生まれのフランス人で1864年に「地底旅行」を書いた。他には「十五少年漂流記」、「月世界旅行」、「海底二万里」、「八十日間世界一周」等があるが、いずれも冒険心をくすぐる名著で、映像化されたものも多い。「地底旅行」にいたってはアニメーションも含めると10回以上になる。海外には彼が書いた内容を真実だと信じる“ヴェルニアン”までいるが、この作品のハンナとマックスの父も“ヴェルニアン”と言う設定だ。この映画を観ると空想でここまで世界を広げられるだろうか、やっぱり真実かも、作家の体験かもと、にわか“ヴェルニアン”になりそう。
 <3D映像は技術的に難しく>、今までのブームは何度も失敗に終わっているが、理由は技術が伴わず、満足な立体感を得られなかったり、頭痛や不快感をもたらしたからだった。しかしこの数年、Real D 、Dolby 3D 、M1-2100、 XpanDなどといったデジタル3D上映技術が矢継ぎ早に出現し、それに刺激されて進歩的な監督たちが意欲的に取り組んでいる。ただし3Dは誰でも撮れるわけではなく、遠近法とか各シーンの設計は難解を極めるもの。又カメラも特殊なものが必要で、今回はジェームズ・キャメロン監督が特別に注文した“フュージョン・カメラ・システム”が主に使われた。

映写室 『ゲットスマート』マシ・オカさん緊急来日レポート

映写室 『ゲットスマート』マシ・オカさん緊急来日レポート
    
―俳優、特殊効果エンジニアとしてハリウッドで活躍する日本人―


 1965~70年に全米で人気沸騰した伝説のTVスパイドラマ「それ行けスマート」が、約40年の時を超えて、本格的なスパイアクションを見せるエンタテインメント映画として帰ってきた。この作品には、俳優としてだけでなく特殊効果のプロとしてハリウッドで活躍する日本人のマシ・オカも重要な役で出ている。公開に合わせて緊急帰国したマシ・オカさんの舞台挨拶レポートです。

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  (10月2日 大阪にて)

 <その前に『ゲットスマート』の荒筋>
 凶悪な犯罪組織が世界制覇を企んでいて、米国の諜報機関のスマート(スティーブ・カレル)はそれを阻止しようと日夜情報収集や分析に余念が無い。ある日本部が襲われ、実務経験の無いスマートが美人(アン・ハサウェイ)と組んでスパイ活動に送り出される。頭がいいのにどこか間抜けなスマートはトラブル続きで・・・。

<マシ・オカさん舞台挨拶>
 <NBC放送の「HEROES/ヒーローズ」(‘06)>に出演したおかげで、色々な作品のオファーが来るようになりました。スティーブ・カレルはアメリカでは知らない人のいない、コメディ俳優ではNO.1の、僕にとっては雲の上のような存在ですから、この作品で一緒に出れるのは本当に嬉しかったです。スティーブはよく頭の回る人で、1つのシーンの演技を100通り位はできる。カメラが回っている時は凄い天才だなあと思うのですが、カメラの回ってないところでは「来週犬を飼おうと思っているんだけど」とぼそぼそ話すような、まるで普通の小父さんでした。映画と一緒で無表情なままで可笑しいことを言う、そのギャップが面白いんです。普通のコメディ俳優だと笑いを独り占めしようとするが、彼は気配りの人で、周りの人を盛り立てて、周りの人が笑いをとることで作品の質を高めていく。そういうやり方もあるんだなあと感心しました。

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(C) 2008 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

 <相棒役のアン・ハサウェイは逞しい役者魂>ですよ。この作品がコメディ初挑戦で、しかも激しいアクションもあるのに、スタントマンを使わず全てのシーンを自分でやるのには驚きました。綺麗で演技力があって凄いです。
色々なコメディに興味があって、日本のお笑いもアメリカのレンタルビデオ等でチェックを入れているのですが、ナイツ(はなわさんの弟)とかすっとぼけて話し続ける姿が好きです。日米のお笑いには少し違いがありますが、両方とも自分を落として体を張ってやるのは一緒ですね。
 <僕は6歳から渡米していて>両方の文化で育ったので、アメリカにいるときはアメリカ人になり、日本にいるときは日本人になりと、いる場所によって生き方が変りますが、基本的に脳みその中はアメリカ人です。俳優としてだけで無く、特殊効果という映画の裏方の仕事もしていますが、目指しているのは、監督というより製作者になって色々な分野の人と一緒に何かを作りたいということです。

 <日本人がハリウッドで活躍するには二つ必要な物>があります。まず最初に、夢を諦めないで長い目で見ること。ハリウッドは競争が激しいのですぐに何とかなると思わず、努力し続ける事、100メートル走ではなくマラソンのつもりで頑張って目標まで走りぬいて欲しいです。二つ目は完璧な英語力です。英語がうまく喋れないと役が限定されて、日本人の役だったり、格闘家とかの特殊なものになってしまいもったいない。ぜひ完璧な語学力をつけて欲しいですね。この作品はアクションと笑いが両立した、滅茶苦茶面白いものです。楽しんで帰ってください。(レポート 犬塚芳美)

   この作品は10月11日(土)より全国でロードショ-

※<ちょっとディープに> 
 マシ・オカは、本名岡 政偉(おかまさより)さんで、1974年12月27日東京で生まれて6歳の時にロサンゼルスに移った。IQ189と判定され、12歳の時に“アジア系アメリカ人の天才児たち”を特集した1987年8月31日号の表紙を飾っている。流暢な日本語と英語、スペイン語を話し、俳優としてだけでなく、ジョージ・ルーカスの会社で特殊効果のエンジニアとしても多くの映画に関わって活躍中。

映写室 NO.171 宮廷画家ゴヤは見た

映写室 NO.171 宮廷画家ゴヤは見た
       ―画家の見た動乱のスペイン史―

 宗教がらみや国同士の争い、支配君主の交代で激変するヨーロッパの歴史の中でも、18世紀末から19世紀前半のスペインは、異端審問、フランス革命、ナポレオンの台頭と、内外の政治に翻弄されて特に激しく揺れていた。この作品は、天才画家ゴヤの目で、彼が描いた2枚の肖像画のモデルがたどる数奇な運命を追いながら、その後ろにそんな激動のスペイン史を浮かび上がらせてくる。権力の近くにいながら権力を非難する視点も忘れなかったゴヤ、彼の目に見えたものは何だったのだろう。時代は違っても、そこには不確かな今を生きる私たちにこそ大切なものが見えてくる。
 <「コレラの時代の愛」等このところ活躍著しいハビエル・バルデム>とナタリー・ポートマンという今が旬の実力派二人の共演も見所。この二人が絵的にぴったりとはまっている。ほとんどをスペインの古い建物や遺跡を使って撮影し、時を巻き戻したような重厚な空気感を映すことにも成功、これぞ映画の本格的作品です。

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(C) 2006 Xuxa Producciones SL - All Rights Reserved

<荒筋>
 18世紀末のスペイン、ゴヤ(ステラン・スカルスガルド)は宮廷画家に任命されるが、一方で権力や社会を批判する風刺画も描いていた。ある日、彼のミューズの金持ちの娘イネス(ナタリー・ポートマン)が、豚肉を嫌っただけで異教徒と疑われて、異端審問所にとらわれてしまう。其処の責任者はゴヤが肖像画を描いていたロレンソ神父(ハビエル・バルデム)で、彼はゴヤのアトリエの絵を見てイネスに惹かれていた。こうして二人の運命が絡み始め、心配しながらもなす術も無く眺めるしかないゴヤの筆が、悲しみに相反するように冴え渡っていく。

 <この歴史大作に挑んだのはミロス・フォアマン監督>で、この作品のアイデアは彼がチェコスロバキアの学生だった50年以上前にすでにあったものだという。ミロス・フォアマンは幼い頃両親がナチスの収容所で殺され、旧チェコスロバキアの戦争孤児の寄宿学校で育ったが、大学の頃には歴史書を読んで、自分たちの住んでいる共産主義社会と、スペインのこの時代に共通性を見出していた。共産主義社会も表現者という自由人には充分に暴力的だったということだろうが、もちろんチェコでの映画化はかなうわけもない。
 <ところが30年後のマドリードでの「アマデウス」の>プロモーション中に、一緒にいたプロデューサーがゴヤの絵に魅了され、「ゴヤこそが最初の近代画家」と確信するに至って、このアイデアが再び動き始めた。宮廷から宗教、外国勢力と謎の多い歴史ものをこれだけ面白く見せる手法は、さすがに「アマデウス」や「カッコーの巣の上で」の監督だと納得する。名前だけで作品のクオリティを確信させる数少ない監督の一人だ。
 異端者の迫害やこじ付けの様な異端差別、誤認逮捕の数々等、狭量な権力者の愚かさをじわじわと焙り出していく監督の脳裏には、ゲシュタボに囚われた両親の無念さや、大学時代の窮屈さが蘇った事だろう。

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(C) 2006 Xuxa Producciones SL - All Rights Reserved


 <ゴヤ役にわざと無名の俳優を使い>、逆に一目で人を釘付けにせずには置かない絵のモデルの男女二人に、ハビエル・バルデムとナタリー・ポートマンという、存在感と演技力で他を圧倒する俳優を据えた事で、観客の視点が自然にゴヤに重なっていく巧みさも見逃せない。主役はあくまで画家の見つめたこの時代なのだ。まだ電気の無い時代、帽子の周りにぐるりとろうそくを立てて絵を描く画家の姿には、狂気迫るものがある。私たちは権力の隣でこんな姿勢を取れるだろうかと、ハラハラしながらもその反骨精神に圧倒された。
 ゴヤの絵筆はミロス・フォアマンにとっては映画表現、時代や権力者に流されない普遍的な生き方の大切さがじわじわと伝わってくる。

 <それにしても、凱旋者と全てを失った者>という対照的な姿になった二人が出会うラストシーンは感慨深い。驚愕するしかないロレンソの心中を深くは追わないのも、事実を描くことに徹したゴヤの姿勢に準じているのだろうか。人とは愚かなもの、運命も皮肉なもの、そんな言葉にならない無残さに胸を締め付けられる。(犬塚芳美)

この作品は、10月11日(土)より、
        シネ・リーブル梅田、敷島シネポップス、
        新京極シネラリーベ、シネ・リーブル神戸、他で上映


※<ちょっとディープに>
1.異端審問とは13世紀前半、ヨーロッパに設立されたカトリック教会の審問機関で、異端と疑われたら容赦なくひったてられ残酷な拷問を受けるし、異端宣告を受けたものは焼き殺されるという、おぞましいものだった。ガリレオ・ガリレイがここで「それでも地球は動いている」と言ったといわれるし、ジャンヌ・ダルクが魔女として火刑に処せられたのは、この異端審問の結果だった。

.「着衣のマハ」「裸のマハ」等で有名なゴヤは、アーティストであると共に、権力者や弱者等社会の全ての人を分け隔てなく同じように眺められるジャーナリスト精神も持っていた。国王カルロス4世の宮廷画家に任命されて安定した暮らしを送りながら、一方で町をさ迷い世相や庶民を描き続けている。上流階級の人々の肖像画だけでなく、一種の風刺画の「砂に埋もれる犬」や「我が子を食らうサトゥルネス」「異端審問」などの“黒い絵”といわれる作品群も印象深い。激動の時代を生き抜いたゴヤを主人公にしても充分に1本の映画になりそうだ。

映写室 NO.170 トウキョウソナタ

映写室 NO.170 トウキョウソナタ
   ―大都会の危うい日常と確かなもの―

 アメリカが発信源の大規模な金融不安が世界を覆っている。数ヶ月前、ある弁護士さんが「サブライムローンの破綻はもっと大きな影響が出るよ」とさりげなく仰ったけれど、それが現実になってきたのだ。もっとも、その前からだって日本の中高年は崖っぷち。わが世の春を謳歌するエリートですら、一度転げ落ちると昨日までの全ては泡のように消えていく。
 <黒沢清監督が描くのは>、そんな世相をすくい取った、きらびやかな筈の大都会トウキョウを支える庶民、線路沿いの小さな家で暮らす4人家族の物語です。都市にもハレと日常があるなら、これは限りなく日常の、しかも日陰の顔。香川照之の演じるリストラされた父親の葛藤と悲哀が胸に迫る。父親に頼った家庭の安泰はこんなにも危うい。でも最後には、そこにもあるかすかな希望が描かれる。今年のカンヌ国際映画祭で「ある視点」部門審査員賞を受賞しています。

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(c)2008 Fortissimo Films/「TOKYO SONATA」製作委員会

<荒筋>
 メーカーの総務課長の佐々木竜平(香川照之)はある日突然リストラされた。でもそれを妻(小泉今日子)には言えず、翌日もいつものように家を出る。ハローワークにいくが今までのような仕事は無い。ある日公園でボランティアが配る無料の食事を食べていると、高校の同級生に会う。彼も失業者で、もう3ヶ月もそうしているらしい。帰宅すると大学生の息子はアメリカの軍隊に入るというし、小6の次男(井之脇海)はピアノを習いたいと言う。

 <香川照之に鬱積した思いを抱える男を>演じさせたら右に出るものは無い。もうそれだけで映画は成功したようなもんだ。名門の歌舞伎役者を父に持ち、自分も俳優と言う特殊な世界に生きながら、香川は何時までも、と言うか年を重ねるほどに額に脂汗を滲ませる様な庶民性を増していく。メディアには見せないけれど、この年齢の普通の男としての私生活があるのだろう。竜平に同年代の男たちが重なっていく。

 <この作品の面白さは>、一人の視点ではなく、何食わぬ顔をした家族それぞれの視点で、鬱積した日常が描かれているところだ。それはまるで手探りの家族関係や日常そのもので、お互いに労わりあいながら何処かで相手の暗部までは踏み込まない現代の家族の形が浮かび上がってくる。私たちは知的になったのだろうか、それとも他人行儀になったのだろうか。後一歩踏み込んでも良いのにという一昔前には無かった距離感が、今の家族の形らしい。

 <この物語で監督が一番シンパシーを持つのは>、やっぱり竜平に代表される同年代の男たちの苦悩のようだ。終身雇用制だった昔と違って、運不運で簡単にリストラされる今は誰もの明日は不確か。自分1人なら何とかなるが、家族は昔と同じように父親の扶養義務を無邪気に信じているのだから辛い。板ばさみで奇妙な行動をとる男たちが出るのも解ろうというもの。「もう僕らにそんな力はないよ」と、世の父親族がいっせいに言ったらどうなるだろう。 
 <そうは言わない男たちに>、「いい格好をする」とか「やせ我慢をして」と妻たちは非難するけれど、言えば自分たちの暮らしは大きく変わってくる。自分に自信をなくしながら、それでも家族を守りたくて何とかしようとあがく男たち。私にはそれを見栄とはとても言えない。社会の変化と変わらない家族の意識の間で、今父親たちが力以上の重荷を背負って悲鳴を上げている。でも、それももうすぐ終わるだろう。そんな図式もこの年代だからこそで、若者たちは「降参!」と両手を挙げることに慣れている。それはそれでちょっと困ったりもするが、これはそんな変革の狭間の年代だからこそ成立するお話だ。

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(c)2008 Fortissimo Films/「TOKYO SONATA」製作委員会

 <所在なげに公園で時間を潰す>スーツとカバンの男たち、虚勢を崩せないまま暮らし、最後は行き詰って妻と共に命を絶つ同級生、他にもやけっぱちになって強盗に入り挙句の果てにこの妻を人質に暴走する男(役所広司)が登場するが、失業という形で未来を閉ざされた男たちが痛ましい。やり直しのきかないこんな社会間違っている。
 <竜平が清掃の仕事に就くまでの鬱積は>愚かとも思うけれど、誰もが作業着からスーツに着替えて自宅に帰っていくじゃあないか。監督はコミカルにそこのあたりを描くが、そうさせるのは本人のプライド以上に家族のような気もする。

 <専業主婦の妻は>、ある日「あなたが失業したことをずっと前から知っていた」と言う。まるで、言い出せなかった男の愚かさをその一言で暴いたようなニュアンスだけれど、この残酷さ。なす術が無かったとしてもこの妻は好きになれない。もっともそれ以前に、企業戦士として忙しい夫との心の交流をなくしていたのかもしれないけれど、夫の苦悩を察しても手をさし延ばすこともなかったのだ。いけない、男たちの苦悩を見るとどうも妻族に厳しくなってしまうが、妻の描かれ方は男性である監督の視点そのまま、心を掴みきれず謎に包まれているだけなのだろう。
 <同じ屋根の下暮す男と女は>、労わりあう関係をなくしてしまっている。どの男も一番虚勢を張るのが妻に対してと言う事実が現代のソナタだ。黒沢監督の視点は正しくても何だか悲しい。

 <そんな両親の間で>、次男は家族が軋む音に胸を痛めながら、小さな秘密を抱えて暮らしている。塀の間から見えたピアノの先生に憧れて、こっそりピアノを習い始めたのだ。少し寂しげな井之脇が微笑むと可愛く、子供らしくてナイーブな表情が、このシリアスな物語を絵的にもふんわりと包んでいく。
 <壊れそうでもこの家族にはお互いの帰る場所>がある。それは父親が大きく守り、母親が細やかに守ってきた家庭で、父親の頑張りにも母親の努力にもちゃんとご褒美は用意されていた。何だか大人が子供で、子供が大人のような不思議な結末ではあるが、そこには確かな家族の希望が見えなくもない。一緒に夕餉を囲めばともかく明日を生きれるではないか。トウキョウという大都会を生き抜く力になるのは、ささやかで小さな家族の温もりだった。(犬塚芳美)

 この作品は10月4日(土)より、梅田ガーデンシネマ、シネマート心斎橋、
                   シネプレックス枚方、京都シネマで上映

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