太秦からの映画便り

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映写室 新NO.1 ベルサイユの子

映写室 新NO.1 ベルサイユの子 
   ―ベルサイユ宮殿の森に住む男と子供―

 格差社会が進んで今多くの都市で、野宿者が溢れている。彼らを守ろうと色々な団体が活動するが野宿からの救済は難しい。不況で仕事を無くしやむなく路上で暮らす人もいるけれど、路上に自由を求めるタイプもいる。良かれと思う手助けがうるさがられることもあるのだ。この物語の主人公もそんな男だといえば、フランスの物語がぐっと身近になってくるだろう。それにしても、どちらのタイプも以前はこんなにはいなかった。好んで路上で暮すにしても、日毎に窮屈になっていく社会の仕組みがあるのかもしれない。

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(C)Les Films Pelleas 2008

 <物語はこうだ> 幼い息子をつれた若い女は家や定職がなくて、ある夜は街の物陰である夜は支援センターに保護されて眠る。ゴミ箱を漁って二人で飢えをしのいだ朝、「失業は宿命ではない。求める仕事がここにある」と呼びかける新聞記事を見つけ、ポケットにしまう。はぐれた息子を探すと、ベルサイユの森で暮らす男の小屋にいた。問わず語りの身の上話、進められるままに焚き火に当たり食事をし肌を重ねた翌日、女は息子を残して姿を消す。

 <このあたりの女の無防備さや男のぶっきらぼうさ等>、はらはらしながら見ることになる。攻撃的でなくても大人らしくない二人の無鉄砲さは反社会的、すぐ隣に危険がありそうで、カンヌで大絶賛されたという子供役の少年の可愛さと澄んだ瞳だけが救いだった。
 まだ自分が守られないといけないような母親や男に、彼を守る為に生活を変えさせる位だから、観客の心も鷲摑み、無垢な天使のようだ。だからもちろん、女は子供を捨てたわけではない。二人一緒だといつまでもこのまま、働いてちゃんと暮らせるようになるまで、男に預けたつもりなのだ。

 <学歴の無い女は今までちゃんとした仕事に>付けなかった。親も助けてくれないという話も、貧困の連鎖そのもので辛いが、新聞記事と息子を託せる男との出会いで、ホームレスから脱却しようと努力を始めたわけだ。新しい仕事は老人介護。慣れない仕事に必死で取り組み、そこに自分の居場所をみつける。老人から感謝されて介護するほうが癒されるというのも実際にありそうだ。フランスも老人が多い。しかも介護職は大変だから、再チャレンジのチャンスがある分野だろうと、このあたりも日本と一緒で、今のフランスの社会情勢を自分に引き寄せてしまう。

 <森で暮すホームレスの事情は色々でも>、共通するのは誰もが自分から好んでここに住んでいること。社会に留まりたいのに仕方なくホームレスに追い込まれた女と違って、煩雑な社会や人間関係を嫌い自ら世間を捨て、粗末な小屋でもここに自分の居場所を見つけた人々だ。この男にしても助けてくれる親やちゃんとした家がある。
 昔ヒッピーのコミューンがあったけれど、似ているようで少し違うのは、それぞれが独りが好きな事。社会が嫌いな人々が、嫌いな人同士で、近づき過ぎないように助け合って暮している社会だ。

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(C)Les Films Pelleas 2008

 <それでも苛酷な環境から突然命を落とす>者もいるし、放火されたり(こんな話が日本でもあった)、残り物を漁れない様に薬剤を撒かれたりとホームレスへの社会の目は厳しい。(どうしてだ!何か俺らが悪い事をしているか!)という男の怒りが聞こえてきそうだけれど、人は自分と違う考え方が理解できないもの、路上に暮して自分たちと違う何かを求める彼らを見逃せないのだ。そういう私だって、スクリーンの中の男の目が何処に向っているのか解らなくて怖かった。これが遺作となった、まさにはまり役のギョ―ム・ドバルヂューの名演、惹かれながらも彼の中の反社会性に怯えてしまう。

 <不本意ながら子供の面倒を見ることなった男は>、自分を頼りにする存在を得て少しずつ変わって行く。子供の為に疎遠だった実家に戻り、まじめに働いて学校にも行かせる。でもそんな、自分らしくない事がいつまでも続くわけが無い。男は根っからの反社会生活者、いくら家があっても自宅をねぐらにすることなど出来ない性分なのだ。子供を父親に託して家を後にする男の姿がやるせない。温かいベッドや学校に馴染めず「いつ森に帰るの」と尋ねた子供だって同じこと。この先彼が、普通の社会生活が送れるのだろうか、大人になった時如何するのだろうと、悲しい生活習慣の連鎖を考えてしまう。いけない、これも自分の物差しだ。彼らは普通の社会は窮屈で、息が詰まるのだ。私だって一晩外で寝れば別の世界が見えるかもしれない。何時の日か路上に寝てみたいと誘惑に駆られる。

 <昔京都に「河原町のジュリー」と呼ばれる>ホームレスがいた。長い髪は垢でこてこてに固まってまるで彫刻のようだったし、体も服も汚れて限りなく黒。でもそんな姿を悪びれることもなく人ごみの中堂々と河原町を闊歩していた。BALの前で英字新聞を読んでいたとか、元は哲学専攻だったのに路上で暮らしているのだとか、若者の間で都市伝説はどんどん広がっていったものだ。前を見ながらもっと遠くを見ているような雰囲気、何処で眠っていたのだろう。
 これを観終えた私は、ベルサイユ宮殿よりももっとリアルに、森の中の男や子供や女が思い浮かぶ。監督が描きたかったのが、そんな普通に暮らせない人々の心理なのは間違いない。あからさまな答えの無いのが余計に心に染みる作品だ。(犬塚芳美)

 この作品は5月23日(土)よりテアトル梅田で上映中、
   7/11(土)から神戸アートビレッジセンター、8月京都シネマにて公開予定
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映写室 「おと・な・り」シネマエッセイ

映写室 「おと・な・り」シネマエッセイ  
   ―恋の始まりは隣の部屋の物音―

 「美しい人が出てくる、きれいでせつない映画はな~い?」と友人に聞かれて、すぐにこの作品を思い浮かべた。物語のかすかな浮遊感、相手の気持ちが解らなくてもたもたする恋、明日への希望と戸惑いと、私はこの手の作品に弱い。たくさんのお花にレトロな建物やこだわりのインテリアと映像も美しく、まるで心象風景。真夏でもない春でもない青葉の頃に、大人と青春の狭間で疼いた年頃を思い出す。

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(C) 2009 J Storm Inc.

 <カメラマンの聡と生花店でバイトしながら>フラワーデザイナーを目指す七緒は、アパートの隣の部屋同士。でも顔は知らない。不本意な仕事で鬱々とする聡、夢に向かってまっしぐらでも利己的な男に傷つく七緒。薄い壁だから、鍵をかける音開ける音、毎晩レッスンしているフランス語や鼻歌、くしゃみの音やコーヒー豆を挽く音までが聞こえてくる。一人ぼっちの夜、二人は自分を励ますように隣の気配に耳を澄ます。ある日、聡は隣が空っぽなのに気づき…。

 <と、壁越しの物語が>、まるで二人の気配をうかがう様に広がっていく。音だけで想像する相手は遠いようで近い。隣人だからこそ知り得るプライベートな音。その音が好もしかったら、ほのかな思いだって生まれる。それでも、それ以上は立ち入らない二人の性格と都会暮らし。壁を隔ててたゆとうお互いの想い、好意はだんだん恋に変わっていくのだけれど、本人たちにもまだ自覚は無い。恋の過程でも一番甘やかな始まりの時がじっくり描かれるのを見ているうちに、同じ頃の自分に連れ戻されてしまった。

 <そんな手法や映像の透明感>、日常を描きながらの浮遊感、もしやと思ったら、やっぱり監督は熊澤尚人だ。実は先の友人とは、この監督の『虹の女神』を一緒に観てお互いに目を腫らした事がある。この時のキャッチフレーズは、確か「岩井俊二の助監督を勤めた熊澤尚人の監督作品」だったけれど、もちろん、もうそんなコピーは付いていない。先輩を乗りこえて、今やもう熊澤作品自体が、繊細な心理描写でせまる若者映画のブランドになっている。大人になり切れずにその手前でもたもたする物語に弱いのは、私自身がそんな時代の尾っぽを残しているのだと思う。

 <本当言うと、この物語が気になるのは>、昔私が二人のアパートとよく似た下宿で暮らしたせいもある。同じ年頃で、広い画室を2つの部屋に仕切った壁はこの物語と同じ様に薄く、隣の物音が手に取るように響いたのも一緒だ。どうってない事に悩み、上手くいかない恋愛に苦しみ、将来が見えず鬱々とする夜。隣の部屋の気配は、少なくとも自分は一人ではないと思えて慰めだった。あの頃の皆はどうしているだろう。忘れていたそんな時間を、厚かましくも素敵な二人に感情移入して思い出したという訳だ。青春の尾っぽが久しぶりに疼く。

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(C) 2009 J Storm Inc.

 <恋愛なんて興味ないとでも言いたげな>、仕事一筋の七緒役の麻生久美子のキュートさ。昔「きれいなお姉さんは好きですか?」と問いかけるコマーシャルがあったけれど、麻生久美子を思うと私はいつもこのフレーズが浮かんでくる。綺麗で儚く、隣に立つといい匂いがしそう。これってまるで、彼女が駐在さんの美人妻に扮した『僕たちと駐在さんの100日戦争』で、美貌に涎を垂らさんばかりにデレデレになった悪ガキの憧れそのものだけれど、麻生久美子の佇まいには、等身大と言うよりどこか別の次元、手の届かない大人の匂いがする。このところ毒のある捻った役が多いけれど、確かに負の何かを付け加えたくなる美貌だと、監督達の野心を納得した。

 <まだ綺麗な花を平気でバサバサ捨てる傲慢さ>は、前しか見ない生真面目さと紙一重。でもそれ位じゃないとこの年代の女は流されてしまう。結婚、安定と平凡な幸せへの誘惑が口を広げて待っているんだもの。もう少し自分に賭けてみたければ、肩肘張るのも仕方がない。仕事一筋、隣人にも過剰な想いは持たない。いや心の奥底は違うけれど、自分のそんな思いに気付くまでに時間がかかってしまうのだ。

 <売れっ子でも、本当に写したい物を撮っていない>と仕事の方向転換を考える聡。なまじ実績があるだけに昨日までを捨てるのは難しい。このまま流されれば、成功の裏側でいつかこんな風に悩んだ事も忘れるだろう。でも今ならまだ夢に向って行ける。
 結婚したり子供が出来たりと平凡な日常に落ち着いていく同級生たちを尻目に、諦めきれない夢の途中の二人。どちらが良いとも幸せとも言えない。それでもこんな仲間がいるからこそ、仲間たちが幸せだからこそ、自分は新しい挑戦が出来るのだ。同級生という存在の安らぎ、このあたりの微妙な思いもリアルに伝わってきた。

 <これってまるで、夢に向かって挑戦を続ける熊澤監督>の思いそのもののよう。だからこそ、最後には素敵な偶然が待っている。ちょっと甘いけれど、それも嬉しい。迷っている今も長い人生の一通過点、極上のラブストーリーに背中を押されて、夢を諦めずに生きてみようと思えた。二人を見守るマスター世代なのに、最後まで七緒や聡に成り切る私。こんな年代に返ってみたい方にお勧めしたい。(犬塚芳美)

 この作品は梅田ガーデンシネマ、シネ・リーブル神戸で上映中。
   5月30日(土)より、なんばパークスシネマ、MOVIX京都他にて上映。


<お知らせ>
 今まで主に作品紹介と評論の中間の形を取ってきましたが、今後はシネマエッセイの形に落ち着きそうです。そして来週から、今までどおりの水曜アップに戻します。ただし、今、公開作品が沢山あります。週末に今週の映画ニュースの形で情報もアップ予定。どうぞよろしく!

映写室「ハリウッド監督学入門」中田秀夫監督インタビュー(後編)

映写室「ハリウッド監督学入門」中田秀夫監督インタビュー(後編) 
 ―監督と編集マンの相性―

(昨日の続き)

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―アンケートの言葉に揺らぎますか。
中田:僕はそこまで観客におもねたくないです。ただおもねなくても、8割方が良いねと言ってくれたら、それはそれで武器に出来る。でも向こうは欲が深いから、制作側は8割で満足しないで、いや9割とか言ってきますからね。それでもある程度聞かないと、嫌々ばかり言っていたら「監督休んでて」と言われてしまいます。モニターリングの言葉に揺らがなかったかと言えば、ちょっと安っぽいといわれて削ったところがあって、そんなことしないほうが良かったと後で後悔しました。
―カヴァレッジの方は『怪談』でもされたと伺いますが。
中田:ええ、全てではありませんが、ラブシーンでここからここまでとか区切って、俳優さんとスタッフに言って使いました。これが良いのは、俳優の気持ちをカットで切らないと言うのと、時間的に速い事。ただカメラを2台使うと、映る場所が広いんで照明とかが制限されるし、足場を組むのに時間がかかります。

―向こうはそれぞれの役割が日本と違ったようですね。
中田:現場は250人位が動いていて、それぞれの役割分担が決まっています。これにも映っていますが、色々な違いが面白かったですね。向こうで光っているものがあって僕が拾いに行ったら、監督だから何も言われないけれど、日本のように何でも自分でする監督と良い様には思われない。何しろ向こうはディレクターズ・チェアーを運ぶ人まで決まっていますから、その人の仕事を奪うことになるんです。
―凄いですね。ところでその椅子にハリウッドで始めて座った感想は。
中田:椅子そのものには特に感動はありません。それより、カメラが2台も入っているので、狭い現場では椅子が置けない。隣の部屋のモニターの前に座らざるをえなかったりして、それが不満でした。僕はカメラの側にいてカメラと現場の両方を見たい。監督は自分の映画の最初の観客だと思うし、その楽しみだけは誰にも譲りたくないんです。それと、俳優と同じ室内にいて同じ空気を吸って、こちらから見てるぞというのを念で伝えると、俳優も良い演技が出来ると思っているんですよ。

―カメラが2台だとそれが難しいですね。
中田:アメリカは材料を沢山持つのが良い事だ、選ぶのは後で良いという方針です。日本だと監督が設計図を描いて、削った部分は撮らなくていい。監督に権限があるんです。ところがアメリカでは編集者に権限がある。映画だけでなく雑誌とかのインタビューでも、「あんたの視点で聞かなくて良い。全て聞け」と言われるそうです。僕も最初色々なアングルやサイズを考えていたんだけれど、最後までそれを通せない。不満なんだけれど、向こうのシステムではそうなる。だったら現場を自分が満足できるレベルにしておけば、どの角度から映されて、どう編集されてもいいと思うことにしました。撮影中は、週末で休みになるとホテルに編集マンが来て、編集したものを見せてくれるんです。で、意見を言い合って又直したりを繰り返して仕上げて行く。全く休みがない状態で正直に言ってこれは本当にきつかった。
―編集者との相性が重要ですね。
中田:ええ、編集者選びは慎重になります。監督と編集マンの相性が悪いと辛いですね。逆に監督と編集は相性がいいけれど、会社と合わないとなると編集マンが切られてしまう。時々あるんですが、エンドクレジットで編集に何人ものるのは、そんな事があったということです。

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―そんな困難を乗り越え、『ザ・リング2』とこの『ハリウッド監督学入門』を撮られました。監督は日本の映画人の憧れですが、ハリウッドでどうやれば自分流を貫けるか、アドバイスをお願いします。
中田:何時、何処でもケツを捲くる覚悟、負けん気の強さを持っていることでしょうか。大体ハリウッドは、大ヒット作を1本持っていれば10年はやって行けます。自分流を貫くのも可能で、シャラマン監督は『シックスセンス』があるからカヴァレッジを撮らなくていいんだと言われますしね。ハリウッドはビジネス優先なので、何時自分の首が飛ぶかと戦々恐々の不安神経症の人だらけ。如何に自分の立場を守るかばかり考える人の中では、僕のように一人で行って、何かあったらケツまくって帰ってやろうと思える人は強い。僕の場合、記憶としては日本で作った『リング』が大きく、それが名刺代わりになりましたが、『ザ・リング2』がもっとヒットして記録を作っていれば、今もハリウッドで撮れていたと思います。両方がないと自分も満足できないし、そこにも残れない。ハリウッドで監督を続けるには、記録と記憶の両方に残る作品が必要だという事です。

―ハリウッドは企画不足と言われますが、一方で、持ち込まれる脚本が年間3万本を超えるとも聞きます。
中田:色々な企画があっても撮影のゴーサインはなかなか出ない。膨大な資金集めのせいで、製作に名を連ねた何十の投資家や投資銀行のサインがないと、前に進まないのです。そのグリーンライトを待つのに時間をとられるので、僕のようにある程度の年齢になると2の足を踏んでしまう。行くんだったら若いうちがいいですね。英語力も必要です。僕がドキュメンタリーを撮った(=『ジョセフ・ロージー 4つの名を持つ男』‘98)ロージーは、生涯で33本撮っています。彼は44歳から20本位を一気にガーッと撮った。あれ以来僕に彼の霊が付いているんで、小さい作品も入れて僕もそれ位撮りたいんですよ。明後日からイギリスに行きます。今回は脚本の打ち合わせですが、『チャット・ルーム』と言う演劇が原作の作品がほぼ決まって、来年初頭からは日本の映画撮影に入る予定です。(聞き手:犬塚芳美)

  この作品は5月16日(土)より、第七藝術劇場で
     6月京都シネマ、7月11日(土)神戸アートビレッジセンターで上映予定


《インタビュー後記:犬塚》 
 <憧れのハリウッド、しかも監督学って何?> この作品はそんな好奇心に答えるように、ハリウッドと邦画界のシステムの違いを検証して、監督自身が普段は表に出ない大物のハリウッドの映画人にインタビューした作品です。素直に驚く素顔にはこの監督の人間らしさが滲み出る。ハリウッドを狙う業界人は必見で、業界人の卵や、業界を覗き見したい映画ファンも見のがせません。関西でのマイナー作品製作から這い上がった日本人プロデューサーのプール付き自宅は、ハリウッドで成功する事の大きさを示しているのでしょうか。
 <監督への憧れと好奇心とで>そわそわしながらのインタビューでしたが、映画の中の監督がバミューダー姿の自然体であったように、この席の監督もいたって自然体、映画青年がそのまま大人になったような姿勢に魅了されました。途中からオフレコの大物スターや大監督の愛のこもったハリウッド見聞禄が続いて(書けないのが残念!)、まるで自分が覗いて来た様に華やかなハリウッドの裏側を感じました。

映写室「ハリウッド監督学入門」中田秀夫監督インタビュー(前編)

映写室「ハリウッド監督学入門」中田秀夫監督インタビュー(前編)  
―撮影開始を示す「グリーンライト」が点るまで―

 衰退を言われても、ハリウッドはやっぱりみんなの憧れ。どこの国の映画界も一番のニュースは、ハリウッド進出です。世界の才能が結集するそんな場所で、自作のリメイク版『ザ・リング2』を撮った中田秀夫監督は、何を見て何を感じたのか。このドキュメンタリーは、監督目線の「ハリウッドって何?」を、グリーンライト、カヴァレッジ、テスト・スクリーニングと言う3つの言葉をキーワードにして読み解いたもの。中田秀夫監督に、自作についてとハリウッドでの体験を伺いました。米国を目指す業界人への貴重なメッセージも!

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(3月27日大阪にて)

《中田秀夫監督インタビュー》
―憧れの世界ですが、ハリウッドにはどれ位滞在されたんですか。
中田秀夫監督(以下敬称略):いたのは3年間で、契約は5本したんだけれど、実際に撮れたのは『ザ・リング2』の1本でした。実質的に契約以上の仕事をしたのは3本で、『THE EYE』は何度も脚本を書き直し、カナダに先行ロケに行ったりしたけれど、思ったより上手くいかなくて、何時まで待っても撮影のゴーサイン(=グリーンライト)が出ない。これ以上ここに居ても仕方ないなと思った頃に、日本から『怪談』の話が来て、自分で決断して帰ってきたんです。でも3年もいたのに出来たのは1本かよと思った。ゴーサインを待って鬱々としただけでは駄目で、その思いを前向きにして作品に変えようと。自主制作だって1本は1本、1本作ってこれで2本にしてやれと思って作りました。

―日本とハリウッドの違いは何でしょう。
中田:まず規模が違いますよね。他には監督の立場で言うと、日本は監督がこれで行くと言えば、立ててくれてその通りにやれるが、ハリウッドではそうならない。日本でも契約上は監督が最終決定権を持っていないけれど、プロデューサーに相談しながらでも、クリエイティブな面ではイニシアティブを取る文化があります。ところがハリウッドは契約社会で、その契約書が本になるくらいぶ厚く、権限があちこちに分かれていて、監督に大きな権限を与えません。せいぜいが大企業の部長位の立場ですね。たとえば車を作る会社で言うと、監督は車の設計者で、その上には経営者陣の社長とか一杯いて、デザインしたからといってそのままでは製品にならない。市場調査やテスト走行等で色々直されていきます。自分で言いたくはないけれど、ハリウッドの監督は企業の歯車の1つでしかない。重要な役割かもしれないが、歯車だけにとっかえが利くというのが近いかもしれません。実際にとっかえられた監督は一人や二人ではないし、意見が衝突して引かないと喧嘩して辞めることになります。僕は新人監督として呼ばれて行ったので、そんな意味でも余計に地位が低いと感じました。

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―撮り方も違うんでしょうか。
中田:アメリカはどうにでも編集できるように、色々な角度やサイズで撮影して(=カヴァレッジ)、材料を沢山集めておきます。最終的には観客の意見を聞きながら、最大公約数の意見をモニターリングして(=テスト・スクリーニング)、工業製品を作るように、映画を商品として磨きをかけて作り上げるんです。
―日本のやり方と比べてどうでしょう。
中田:一概にどちらが良いとも言えないんですよね。僕はアメリカ流が間違っているとも思わない。映画は面白がってもらって何ぼ、売れて何ぼというのも真実なので、アメリカ的な視点を否定できないという思いが常にあります。フランスとかはハリウッドとは対照的で、完全な作家主義。脚本を書いた人が監督をしますし、監督が最後まで作品のイニシアティブを取ります。それに対して国が何億と言うお金を集めたり補助を出したり、1年撮ると次の1年は年金が認められるとか、映画製作という非生産的な事をするのを、資本主義社会の中で優遇して守っている。ただそのせいか、自分の好きなように撮って良いんだという甘えが生じて、作品が自己満足に陥りがちで、この頃のフランス映画の低迷にもなった。映画は商品として流通しないといけない物。ハリウッドのように世界に配給すると言う宿命を持っているとその点が特に大事になる。どちらか一方ではなく、監督にはこの2つをバランスよく捉える視点が必要だと思う。日本映画は比較的それが保ててきたんですが、邦画バブルでアメリカ的な方向に寄ってきた気がします。

―そんな中田監督がハリウッドで撮った『ザ・リング2』はどうでしたか。
中田:自分としては楽しみながらベストを尽くして撮りました。企画の最初から関わっていないので、無い物ねだりですが、内容的にもっと最初から関わりたかったというのはありますが。商売的に言うと、万々歳ではないけれど、チョいプラスになっているはずです。そうは言ってもハリウッド作品なので、僕の作品の中では記録的に一番。世界中の人に届けたいと思うならハリウッドを目指すべきですね。ただ監督というのは厄介でそれだけでは満足できない。このドキュメンタリーは『ザ・リング2』と対極の作品だけれど、観てくれた人と話が弾むんですよ。楽しいです。
―『ザ・リング2』のテスト・スクリーリングは。
中田:3回やって、ロス以外の街、近郊都市で4百人位集めて、『リング』とは言わず「ヒットしたホラー映画の続編だ」とだけ伝えて、色々な年齢層から選んだ一般の人に観てもらいました。で、アンケートを取った後で20人位に絞って、もっと突っ込んで意見を聞くんです。僕らは後ろで聞いているんですが、これも作り手に信念が無いと、振り回されてしまってまずい。場所や人を均等に選ぶといっても完璧じゃあないし、当然誤差が出るのにそれに振り回されるのはどうも。それにホラーなんて嫌いな人は全く駄目なわけで、怖がるように作っているのに、怖いから嫌いだと言われてもねえ。そもそも怖くなかったらホラーが成り立たない。そんな風にして聞き出した、観客の解らないというラスト10分間を、スタッフや俳優さんを呼び戻して最初から撮り直すのがハリウッド。日本では時間とお金に余裕がないので、テスト・スクリーリングは難しいと思います。(聞き手:犬塚芳美)
                続きは明日  

  この作品は5月16日(土)より、第七藝術劇場で
   6月京都シネマ、7月11日(土)神戸アートビレッジセンターで上映予定

映写室「チェイサー」シネマエッセイ

映写室「チェイサー」シネマエッセイ
     ―500万人を動員した韓国の話題作―

 K氏の大絶賛に背中を押されて、「チェイサー」を観る。久しぶりの京都シネマだ。実は初日に観た家族が悲惨さに辟易したらしく、珍しく他の作品にしたらと止めるのだけれど、そう聞いたからには余計に観たくなる。映画が目的だけど、それ以上に、何が彼の感性に辛く、K氏は何を絶賛しているのかを確かめるのも目的になった。

チェイサー
(C) 2008 BIG HOUSE / VANTAGE HOLDINGS. All Rights Reserved.

 <土曜日の最終回>、いつものように一番前の席の真ん中で観る。この作品は、韓国で“殺人機械”と言われた連続殺人鬼ユ・ヨンチョルの事件をベースにしたもので、猟奇殺人者を元刑事のデリヘルの元締めが、自分のところのデリヘル嬢の転売者と勘違いして、お金を取り戻そうと追走する物語だ。
 <始まってすぐに家族の苦手な理由は>解った。主役を演じるのは、その辺を歩いていそうな中年男で、アップになった顔はどうにも暑苦しい。ちなみに家族の場合、例えば最近のディカプリオ主演作でも、この手は駄目だ。デリヘル嬢もしみったれていて、しょっちゅう挿入される土砂降りの雨と共に、まさに韓国の庶民の暮らしや匂い、湿度が映っている。映画全体、俳優たちの体から発するこの感じが、同じアジア人だけにリアル過ぎて苦手なのだと思う。湿っぽさを伴うこれは、実は私も苦手だ。

 <…と、家族の苦手な理由は解ったが>、それでも映画は面白い。決して超人ではない、しがない中年男のどたばたとした追走、路地から路地へと疾走する臨場感。警察や追走者の間抜けさも説明できないほどではなく、事態は異常でも、人物像が等身大の日常性を失わず作られている。犯人役の俳優が又上手いのだ。冷酷さと離人性をこの中では一番端正な顔に漂わせて、感情を表さずじわじわと迫ってくる不気味さ。異常性はいつも低体温のクールさの中にある。

 <もちろん、少ない出番でその人物像を>くっきり見せる手法も見事だった。1シーンだけの姉の一家の映像が後々まで効いてくる不気味さ。…何てもちろん後で気付いたことで、観ている時は追走劇に固唾を呑んでいた。このあたりのいらいらさせる展開も上手い。
 <主な視点が、自分で見た事しか信じない>、そんな意味でも凡庸な、事態に半信半疑の主人公に重なり、子供と共にミジンの行方を追って探し回る主人公の混沌のままに保っていたのがいいのだと思う。戸惑う観客に時々挿入される事件全体の俯瞰図。これって神の視点? 私たちにこの視点があれば! いたるところに十字架の見えるソウルの街で、無慈悲に起こったこんな事件。人間の愚かさ無知さを全身で贖罪するキリスト像の嘆きの深さに思い知る。

 <容赦のないこの物語の一点の救いは>、最後までミジンを助けようと主人公が走り回ったことだ。それだけにラストには無念さも増すが、生きたいと今際の際までもがいた命の鼓動を受け取った人がいて、しかもそれは彼女を食い物にした同じ底辺に生きる男だったという構図。デリヘルの元締めとデリヘル嬢という、一見救いのないこの雇用関係の中にも、彼らにしか解らない絆があったのだと思えて、私には救いだった。生きていると信じる事でつないだ命、他にも囚われ人の孤独や必死さ、横田めぐみさんとかも、他の人は絶望視しても、身近な人だけは生存を信じて最後まで探すのが命綱なのだと、そんな関係ない事まで考える。
 <決して美形ではない主人公が>、ラストになるほど魅力的に見えてくるのは、人物を描き切った監督の視点に飲み込まれたからに違いない。ひょんなことから人生に躓いて裏街道を生き始めた主人公が、贖罪の様に追走して浄化された心もあっただろう。

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(C) 2008 BIG HOUSE / VANTAGE HOLDINGS. All Rights Reserved.

<「成人映画」指定のこの作品が>、自国作の不振な韓国で500万人も動員した。この悲惨さ、私はとても2度も観る気にはなれないが、リピーターの多さが伝えられるし、K氏も2度も観たと言う。何故K氏に2度も足を運ばせ、韓国でそれほどヒットしたのだろう。ただし日本では中規模での展開、ヨン様ファンは多くても、この手の韓流ファンとなるとぐっと狭まってくる。

<両国の反応の違いには、まず題材への距離がある> 何しろこの事件は韓国中を震撼させた異常犯罪。自国民なら、恐怖心からも好奇心からも、短期間で20人以上の人を残忍な方法で殺した猟奇殺人犯の心理を観たいと思うだろう。怖いもの観たさのこの題材を選んだ時点で、まず最低保障はされたようなものだ。しかも死刑制度の是非という問題も含んでいる。入り口がキャッチーで、入ってみるとしっかりとした力量で魅せるのだから、噂が噂を呼んでヒットに繋がったんだと思う。
 <この噂が噂を呼ぶ力も>、韓国は強そうだ。日本でも一時は熟年女性のヨン様ファンが熱狂へとなだれ現象を起こしたが、観客だけでなく、韓流作品自体にそんな現象を起こさせる力が宿っているのを感じる。お隣韓国は、情の国、熱い国だと思う。

 <ちなみにこの作品の制作費は4億円と言われ>、日本よりは物価が安い韓国での話だから、これは凄い。新人監督のオリジナル脚本にポンとこれだけ出した英断、成功は行き詰った韓国映画界が本気で心身代謝を図った結果とも思える。こんなの作らないでよと言うレベルのゆるい物が乱作される日本は、反省しなくては。

 <他にはやっぱり韓国人の志向>を感じる。一時日本でブームになったものを除けば、一般的に韓流は、私たちには目を背けたくなるような残忍なシーンが多い。いつの間にか草食系男子ばかりになった日本と違い、未だに徴兵制のある韓国は肉食系男子が健在と言うことだろうか。血や暴力への意味合いや興味、許容度が違う気がする。
 <もちろん韓流だけでなく>、この頃の私は、刀を振り回す時代劇の残忍さについて行けなくなっている。日本ならではのコスチューム劇として応援したいと思いながら、斬り合いはほとんど目を伏せる有様。時代劇が若い人に受けなくなったのはそんなところもあるのかも。…何て。いけない、話はどんどん拡散していく。ともあれ力作だ。未来の巨匠ナ・ホンジンの初長編作をお見逃しなく!(犬塚芳美)
 
  この作品はシネマート心斎橋、テアトル梅田、京都シネマ
    布施ラインシネマ10、ユナイテッドシネマ大津等で上映中

映写室 「沈黙を破る」シネマエッセイ

映写室 「沈黙を破る」シネマエッセイ    
―占領地にいたイスラエル兵士たちの告白―

 この作品は2002年の春、イスラエル軍のヨルダン川西岸への侵攻で破壊と殺戮にさらされたパレスチナのバラータ難民キャンプとジェニン難民キャンプの人々の生活を生々しく記録する。一方で「沈黙を破る」のメンバーに助けられて、占領地に送られたイスラエルの兵士が、そこで何をしてどんな心境だったかを、自らの良心にかけて告白する姿も映す。攻められる方だけではない、攻める方の悲劇により密着して中東問題を映しているのがこの作品の新しい視点だと思う。

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 <イスラエルにいればただの若造に過ぎない>あどけなさを残す兵士が、占領地で銃を構え高圧的に尋問する姿は、人間の本質を映し出して誰もが怖くなるだろう。戦場で1人でも多く人を殺すことを義務付けられた精神が、休暇で平和な街に帰ったからと言って急に変わるもんではない。荒くれた心を持て余し、戦地の異常性を引きずって街を暴走すると言う告白にも、肯いてしまう。戦場とは、平時にはタブーの人を殺す事を義務付けられた異界。二つの常識の間で引き裂かれる心、悲鳴を上げる魂。そんな息子の荒廃を感じ、案じながらも言葉には出来ない両親。戦争とは全ての人を巻き込む、人間性を無くした異常事態だと改めて気付かされる。

 <もちろんこれは何時の時代にもどの争いにも>当てはまるもの、誰もが過去や現在を苦い気持ちで思い出すだろう。日本の侵略、ベトナム戦争、今も続いているイラク戦争、アフガニスタンやパキスタン等々、フィルムの回る時間と共にやるせない気持ちになってくる。それでもそんな思いと共に、ここにはない視点の、パレスチナを占領し、軍事大国に走るイスラエルの悲劇をもぼんやりと考えた。それはタリバーンの思いを想像するのと同じ視点だと思う。
 <その切り口もあればより公平でテーマが大きくなのにと>終盤に思ったけれど、かすかに思ったくらいでそれほどの違和感はない。だから私は、そのまま帰ればよかったのだ。かすかな思いと映像の訴えるものを反芻しながら、自分で発酵させるべきだった。と言うのも、続いてあった土井敏郎監督の講演で、映画の偏向を過剰に感じて、そのイメージが強く残ってしまったのだ。

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 <監督のプロフィールを考えると>それも当然の事。土井監督は1985年からパレスチナ・イスラエル問題にかかわり、映像による取材を続けている。命を危険にさらしパレスチナで取材を続ければ、パレスチナの悲劇により目が行き、イスラエルの傲慢さに怒りを覚えるのだろう。それが正しいのかもしれない、いや、多分正しいのだとは思う。でも、この日の私は、ジャーナリストを強調する監督の口調や、プロパガンダに変わってしまった論調に、聞き始めたことを後悔した。

 <壇上でジャーナリストを強調されればされるほど>心が冷えていく。(ジャーナリストってなんなの? そんなに偉いの? 貴方も知らないうちに貴方が攻撃している傲慢な強者になっているよ)と、横にお酒があって親しければ茶化すはず。だって土井監督自体は良い人っぽいのだ。後ろの方だったら耐えられなくて席を立っていただろう。
 <もちろんそんな思いが壇上に届く>はずもない。益々加熱する熱弁を聞きながら、この作品と対照的な、亡くなった佐藤真監督の「エドワード・サイード―OUT OF PLACE―」を思い出した。いまさらながらに、あの作品の知性を感じる。汲み取る力を求められても良い、観客の感性を信じて、安易な結論に導かない作品のほうが好きだ。会場の皆はどんな思いだったのだろう。

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 <余談だけれど、この作品も同じシグロ> 佐藤監督の追悼上映会で、パレスチナ側のキャンプとの交渉が上手く行かなかったと残念がった山上氏だけれど、そんな意味では充実感一杯のこの作品と講演を、山上氏はどう見てどう聞いたのかと又もや考える。映像自体は貴重で魅力的なのに、私の場合講演で思考が横道にそれてしまう。
 <そんな私の思いを代弁してくださったのが>、最後にあった野田正影氏のコメントだ。「証言はそのまま真実ではない。話す人の感性で歪んでいるのも忘れてはいけない」と言う、多分主催者には肩透かしを食らったような意味深な発言で会場を煙に巻く。面識も有る。真意を伺いたいと思いながら出来なかった。野田先生はいつも行き過ぎた熱気に水を差す。そのシニカルな視点が興味深い。…と、帰り道の思考は映画の主題から遠く離れっぱなし。

 <映画監督が自作を語るのは難しい> インタビューでは根堀は折り聞くけれど、実際の所監督に言葉は要らない、出来上がった作品が全てだというのを改めて感じた講演だった。だから、私のようなひねくれた人には、映像だけをお勧めしたい。貴重な作品です。(犬塚芳美)

  この作品は第七藝術劇場で上映中、
   5月23日(土)から京都シネマ、7月以降神戸アートビレッジセンターにて公開


※「沈黙を破る」とは
 占領地に赴いた経験を持つ元イスラエル将校たちによって作られたNGOで、創設者代表のユダ・シャウールを始め20代の青年が中心メンバーになっている。占領地での虐待、略奪、殺戮等の加害行為を告白することにより、イスラエル社会が占領の実態に向き合うことを願って作られた。もちろん「祖国への裏切り」と言う非難は堪えない。2004年6月、テルアビブで「沈黙を破る―戦闘兵士がヘブロンを語る」と言う写真展を開催し大きな反響を呼ぶと、以降、大勢の兵士の証言ビデオを収集し、国内外に占領の実態を訴え続けている。

映写室 「GOEMON」舞台挨拶レポート

映写室 「GOEMON」舞台挨拶レポート
   ―紀里谷和明監督と主演の江口洋介さん―

 「CASSHERN」の紀里谷監督が、江口洋介、大沢たかお、広末涼子等を迎え、物語的にも手法的にも自由に発想を広げて新作を完成した。物語は天下統一をめぐって信長、秀吉、家康が争った時代を、伝説の大泥棒石川五右衛門に焦点を当て、新しい解釈で読み解いた戦国絵巻物で、時代劇の新しい方向を探った、豪華絢爛な大型エンターテインメントに仕上がっている。スケール的にもハリウッドに負けていない。何時の時代なのか、日本なのか架空の国なのかと迷うけれど、それが監督の狙い目。圧倒的な映像美に取り込まれて、ボーダーレスの不思議な世界や、信長暗殺の首謀者が、実は秀吉だったと言う奇想天外な話にも説得力が出る。う~ん、歴史が解らなくなりそう。しかもCGを多用しながらもそれはあくまでも背景、物語がCGに流されていない。視点はしっかりと人間ドラマに向けられ、想像以上に重厚な、可能性を秘めた作品です。

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(4月27日大阪にて)

 <主演の江口さんは>、 「話を貰った時スケールが大き過ぎてどうやるんだろうと思いましたね。撮影に入る前に半年間ほぼ毎日会って話を詰める作業で、GOEMON付けだった。それだけに出来上がった時の感動は凄かったです。この作品には、この時代、この時代に住んでいた人の全てが映っています。大阪城が出てくるので、大阪と言うか架空の大阪が舞台の物語なんですよね」と打ち明け話をする。

 <又原案、プロデューサー、監督、撮影監督等>全てをやっている紀里谷監督は、八面六臂の活躍の理由を「紀里谷さんに頼むのが一番ギャラが安く早くできたということです。3ヶ月間フル回転で仕切りました」。「現場に入った時には絵コンテ、シュミレーションの全て終わっていて、其処に僕らが入っていったんです。凄い美術やCGなんだけど、監督から今回はドラマをやりたいと言われました。背景、CGは完璧だから、僕ら俳優はそれぞれの人が何故こんな風に生きたのかをじっくり考え、撮影の前や現場に入ってからも話し合いました」と江口さんが監督の仕事振りを説明。

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 <その江口さんの人柄を> 「とにかく真面目で全てにおいて全力でした。セットの中で撮影しているので例えば走るシーンとか、僕のカットが遅いとそのまま止まらないで走るから壁に激突する。怪我するでしょう、これって凄い事なんです。それ位役に入り込んでいました」江口さんは笑いながら「ワイヤーアクションとか色々あるので、朝ストレッチをしてテンションを挙げてやりました」とかわす。最後に監督が「凄い人数が参加し、凄い人々の意志で出来上がった作品です。新しい試みを一杯している。これからの日本映画の方向性を模索しているので、会場の皆さんどうかこの映画の成功にお力をお貸し下さい」と呼びかけた。ぴあの試写会に1万2千通もの応募、200組400人に当たったので、当日会場にいたのは、実に競争率60倍を勝ち抜いた好運なファンと言う事になる。黄色い歓声に迎えられたお二人だった。(犬塚芳美)

この作品は 5月 1日(金)より 
   梅田ピカデリー 梅田ブルク7 なんばパークスシネマ 他 全国ロードショー 


 なお、5月 5日(火・祝)全国5大都市で舞台挨拶を行います。 大阪では15時05分~15時20分 (12:45上映終了後) なんばパークスシネマ で江口洋介、広末涼子 さんの舞台挨拶の予定です。

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