太秦からの映画便り

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映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(後編)

映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(後編)
    ―ゴミと希望を拾って生きるストリートチルドレンたち―

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(c)2009 Yoshida Taizo

<昨日の続き>
―その松下さん主催のモヨの支援の下、スタジアムでサッカーをするシーンで、規則違反のシンナーで叱られてしゅんとしながらも、「僕はまだパンを貰ってない」と訴えて、嬉しそうに食べる様子とかも、可愛い。悪いのか無邪気なのか、ころころ変る子供たちの表情が印象的です。
小林:シンナーや麻薬が習慣になって止められない子供がいるんですよ。でもちゃんとしたボールを使って広いところでサッカーをするのは、彼らにとっては、僕らでは考えられないような凄い事なんです。しかもその後でパンや飲み物が貰える訳だから、皆楽しみにしている。パンを1斤くらいあっという間に食べてしまいます。
―子供たちはどうして家を出てストリートに来るのでしょう。
小林:事情はさまざまですね。ストリートチルドレンになるのはスラムの子供が多いけれど、田舎に手入れの行き届いた広い家があって手広く農業を営む家の子供もいる。貧しさだけが原因ではないのでしょう。ただカメラを向けると、親たちは皆、自分はちゃんと面倒を見ているのにどうして出て行くのか解らないと言うけれど、アレは嘘です。本当のことは言いませんよ。どう考えても過去には虐待等がありますね。ケニアはシングルマザーが多い。仕事も無くて親に子供の面倒を見る余裕が無いとかという特有のものもあるけれど、子供たちを見ていると、そういえば都会に憧れたとか、あの年頃には親に反抗して家を出たかったとか、我々と同じ思春期特有の心情もある。今回彼らを読み解くキーワードを思春期に置いてみたんです。

―確かに思春期は不安定で、私も訳の解からない事に悩んでいましたが、アフリカの彼らの場合それだけではない。このところの急激なグローバリゼーションで、自給自足の本来の素朴な暮らしが、一気に貨幣経済に飲み込まれていく。あまりにもそのスピードが凄くて、悲鳴を上げている様に見えました。そうかと言ってそれを止めて彼らだけ昔のままでいろとも言えない。難しい問題です。『バオバブの記憶』の本橋監督が、「学校で学ぶとお金でしか買えない色々なものを知って欲しくなる。でも手に入らなくて結局不幸になるから行かないほうが良い」と言って、学校に行きたがる子供を行かせない父親について、「一面で正しい。気持ちが解らなくはない」と言われましたが、同じ様に、今までの価値観をぐちゃぐちゃにされたのに、代わりの物がなく、夢見る方向を見失っているアフリカの悲しみを、隠れてシンナーを吸う刹那的な子供たちに感じました。もちろんこの作品がそんな事を訴えてはいないけれど、様々な事からそんな背景が浮かび上がります。
小林:アフリカを映すとどうしてもそうなりますよね。例えそんな風に編集していないとしても、そんな風にも感じて頂けばいいのです。ドキュメンタリーは報道とは違います。ありのままと言っても、僕が見てきたものだから、当然そこに主観が入っている。でも解りやすい説明やお仕着せはしません。映像のもっている力をもぎ取ってしまいますから。自由に解釈してもらえればいいと、最後は観客に委ねます。

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(c)2009 Yoshida Taizo

―映画が提言しないのはそれで良いとして、こういう作品を観ると、じゃあ自分はどうしたら良いのだろうと考える。それも上から目線と言われればそうかもしれませんが、そんな点はどう思われますか。この作品で現実を見て、立ち尽くしたんです。
小林:自分自身が地に足をつけてしっかりと生きる事ではないでしょうか。テレビ局とかで援助だと言ってアフリカに毛布を送ったりしますが、日本から送料を使ってわざわざそんな事をしなくても、品質は悪いかもしれないけれど、そのお金で向こうの毛布を買えば産業も成り立つわけです。ODA等日本の政府の援助も、援助と言いながら本当の援助になってなくて、日本の企業が援助した以上のお金を吸い上げる仕組みになっている。自分が自分の暮らしをちゃんとすればその矛盾に気が付くはずです。後、フェアトレードとかですね。
―自分がちゃんと生きるとは耳の痛い言葉です。ところでこの作品は途中まで佐藤真さんが関わっていたんですね。
小林:僕は佐藤さんの「阿賀に生きる」でカメラマンを務めました。今回の企画も佐藤さんが交渉とか色々根回しをしてくれたんです。それに3時間位に縮めた後からの編集はもう僕らでは無理ですから、佐藤さんがやってくれる予定だったんですよ。それがあんな事になって、一時は仕上げるのはもう無理かと思ったくらいです。色々な言語が混じっているので翻訳作業も複雑でしたし、こうして完成させることが出来たのは感無量です。日本では一人しかいない親指ピアノのプロ奏者、サカキマンゴーさんの協力を得れたのも幸運だったと思います。向こうの子供たちにも見せてあげたいんですが。(聞き手:犬塚芳美)

<インタビュー後記と作品の感想:犬塚> 
 <複雑な思いに揺れて>、観終えた後に答えの出ないドキュメンタリーです。子供ながらに街のゴミを拾い、業者からわずかのお金を貰って自活するストリートチルドレンたち。ぼろを纏い路上で眠って川で洗濯するとは、豊かさに慣れた私には、あまりに過酷な暮らしです。でも単純に同情もできない。体の底から湧き上がる躍動感、身体能力の高さ、仲間との弾ける笑顔と、彼らは私たちの無くしたものをたくさん持っている。そうかと思ったら、やっぱり辛いのか現実を逃れるようにシンナーに手を出し、黒い大きな瞳の底に虚ろさも広がっていく。無邪気な子供でありながら、時には人生の深遠を知る老人の様でもあるなんて、一体彼らの姿はどれが本当なのだろう。まるで今のアフリカそのものを体現するような、ストリートチルドレンたち。切ないような、子供たちの逞しさに未来を信じられるような、複雑な感情に投げ込まれました。
 <表題の「チョコラ」とは>、スワヒリ語で「拾う」を意味し、くず拾いをして生きるストリートチルドレンを指す侮蔑的な表現だとか。そんな侮蔑語すら「関係ねいや!」とでも言いたげに、毎日を生きる事に必死な、子供でもあり生活者でもある不思議な存在。やわな同情を跳ね飛ばす彼らの強い瞳が忘れられません。無駄のない、食べた物全てを血肉にしたような極限の黒い肉体が光って、活きると言う実態を私たちに突きつけてきます。


この作品は6月27日(土)より第七藝術劇場で上映、8月みなみ会館にて
詳しくは劇場まで(06-6302-2073)

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映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(前編)

映写室「チョコラ!」小林茂監督インタビュー(前編)    
 ―読み解くキーワードは思春期―

 ワールドカップも真近になり(?)、アフリカ諸国が又注目されています。そんな時に、ケニアの地方都市ティカのストリートで生きる子供たちを追った、珍しいドキュメンタリーが届きました。
 <ティカは首都のナイロビから北東に45キロ>、車で1時間の位置。人口10万のうち半分はスラムに住んでいるような貧しい街ですが、ここにNGOを立ち上げ、もう十何年子供たちを支援する日本女性がいます。この作品はその活動を追いながら、ティカの街や彼女も知らない子供たちの生態を映したもの。自分の命と引き換えるように撮影に臨んだ、小林茂監督にお話を伺いました。

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(5月29日 大阪にて)

<小林茂監督インタビュー>
―この作品を撮られたきっかけは?
小林茂監督(以下敬称略):アフリカの子供たちと最初に出会ったのは15年前でした。この映画を企画した松下照美さんと一緒に、ウガンダに子供の写真を撮りに行ったんですが、厳しい環境なのに表情の強さがあって心に残っていたんです。今回その松下さんから、アフリカの子供たちを撮って欲しいと言う話が来て、実は腎臓の悪い僕が透析に移行する直前で、松下さんも少し前に大病をしている。やるなら今しかないと思い、すぐに透析に移れるようバイパスの手術をして行きました。具体的なイメージは無かったけれど、子供たちの食べて寝てという日常をきちんと撮ろうと思って行ったんです。
―松下さんはアフリカで子供たちを支援する活動をされているのですよね?
小林:ええ、この作品にもその様子が出てきますが、ティカでモヨ・チルドレン・センターというNGOを主催して、主にストリートチルドレンへの支援活動をされています。孤児を施設に引き取ったり、スラムの中の学校や婦人グループへの助成やサポート、職業訓練校への支援等です。松下さんは元々は徳島の山の中で山羊を飼ったりしながら陶芸をされていたのですが、ご主人を亡くされた後、99年にNGOを立ち上げ、子供たちの支援に力を注いでこられました。

―子供たちが生き生きとしていて、元気をもらいました。彼らが抱えている問題も、反抗期とか都会への憧れとか自分のこの年頃の気持ちとも重なり、環境は違ってもある意味で私たちと同じだなあと思いました。
小林:そうなんです。ここに映っているのは思春期の子供としてごくごく当たり前のこと。アフリカのストリートチルドレンというと、スラムや貧困とか民族の争いとか、どうしても社会問題で切り込みがちですが、そういう作品は他にもある。それに1時間30分の映像でアフリカの全てを解らせるのは無理、出来るのは一つ位だろう。だったら子供の心情だと思いました。もちろん社会的な切り口も射程に入れて撮ってはいたんですが、後半に出てくる、10歳の少女に「コバさんの病気が良くなりますように」とお祈りされているのが解った時点で、作品の方向性が変わってしまったんです。映していた時は何て言っているのか解らなかったんだけど、1年後に翻訳してもらって始めて(あ、僕の事だ)と気づいて、参りましたね。どこかで彼らを上から見ていて、心配する側のつもりだったのが、逆にこっちが心配されていたんですよ。

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(c)2009 Yoshida Taizo

―あのシーンは印象的です。いつもより多めだという食事を分け合い、一つのベッドに親子3人が固まって眠る姿が温かい情景でした。子供が子供らしくて可愛くて。
小林:あの母親はHIVに感染していて、離婚して子供二人とスラムに移り住んできたんです。何時発病するかも解りません。それにここではなかなか仕事が無い。農場で季節労働の仕事にありつけるのは恵まれた方で、仕事があっても短期間だったりと、あの一家だって今の暮らしがこの後も続くとは限りません。そうなったら子供たちはストリートチルドレンになるかもしれない。でも子供たちはそんな事に関係なく、宿題を見てもらったり甘えたりと、幸せそうでしょう。映っているのは一瞬の幸せかもしれないけれど、だからこそ大切で、多めの食事はそれを感じている母親の心づくしです。
―ええ。これは松下さんに依頼されて始まった撮影ですよね。
小林:ええ、でもモヨの宣伝映画にしない事、彼女を主役にしない事と言う約束でした。最初は松下さんに同行して撮影していたんだけれど、どうしても画一的になる。子供たちの心情に何処まで降りていけているかに疑問があって、1カ月位経つとこれでは映画にならないと感じ始めました。どうしても教育的な目線、大人目線になって、これが撮影の前半のジレンマです。で、カメラマンと二人で街に出てみた。と言っても、すぐにカメラは回せない。僕たちだけでストリートに出るのだって本当は危ないような所ですから、最初は歩くだけでした。撮影がどんな事かも理解できませんから、街全体、子供たちを取り巻く全体に、僕らのしたい事、撮影と言うものを認識してもらわないといけない。そうするうちにだんだん慣れて、映しても良いよと言ってくれる様になりました。屋台の下で袋に入って寝ている子供たちとか、焚き火のシーン、ペンキの缶でピラフを作って分け合う所とか、編集で最終的に残ったのは、ほとんどがその後に撮ったものです。そうは言っても、それが出来るようになったのは松下さんのおかげで、一緒にあちこち出かけたからなんですが。

―子供たちが皆で作ったピラフ美味しそうでしたね。
小林:ここの主食は甘くないとうもろこしの粉が主で、さっきの一家のように練って食べるんです。お米は色々種類があるけれど高い。ピラフは大変なご馳走なんですよ。でも子供たちは屋台の野菜売りを手伝っていたりするから、夕方仕舞う時に屑のトマト等はもらってくる。お金を出し合って米を買えば後は何とか揃う。たまにはピラフを作るんで、料理には皆一家言あるんです。作りながら、ああだこうだとうるさいでしょう。そんなシーンとかを後で見た松下さんが、自分の知らないところでは子供たちがこんな風なのかと驚いていました。彼女の前ではやっぱり構えていて、子供たちは一面しか見せない。彼女にとっても始めて見る生き生きとした姿だったようです。(聞き手:犬塚芳美)
<続きは明日>

この作品は6月27日(土)より第七藝術劇場で上映、8月みなみ会館にて
   詳しくは劇場まで(06-6302-2073)

映写室 新NO.5「守護天使」&「剱岳 点の記」&「真夏のオリオン」

映写室 新NO.5「守護天使」&「剱岳 点の記」&「真夏のオリオン」
     ―3人の男の戦い―

 今映画館に力作が目白押しです。こんな黄金期はめったにない。で欲張って、今週は上映中の中から邦画3本を選んでみました。題して、主人公は誰の為に、あるいは何の為に戦ったのか。どの作品からも時代を超えた優しい大和男子の戦う姿が浮かび上がります。


1.守護天使(一目惚れの為に見えない悪党と戦う)
 大ヒットした「キサラギ」の佐藤祐一監督の新作と聞いては、見逃せない方が多いはず。上村祐の原作をテンポ良い活劇に転じ、笑いながらも最後にはほろっとさせる。

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(C) 2009『守護天使』製作委員会

 <これは中年サラリーマンの純愛>の物語。須賀が鬼嫁から貰う一日の小遣いは500円きりで、大事なそれを落とした時拾ってくれたのは天使の様な高校生だった。一目で恋をして、彼女をこの世の全てから守ると決める。そんな思い込みを笑いながらも助けるのは、雀荘に住み着く同級生や引きこもりのイケメン。彼女の淫らなブログを見つけるが、何かの間違いだと信じない。そうする内にも魔の手が伸びてきて、彼女は天使なのか悪魔なのかと観客までが惑い始める。

 <…と、物語がとんでもない方向に>転がり行方が見えないのは「キサラギ」と一緒で、それがこの監督の醍醐味だ。思い込みの激しい中年男を演じるのはカンニング竹山。メタボな下着姿など生活感たっぷり。これじゃあ妻の鬼嫁ぶりも仕方ないと納得。こんな男に勝手な思い込みで後をつけられたら怖いのも当然で、年甲斐もない純情さが痛々しくなる。でも笑い話に変えてはいても、現実はこんなもの。人は外見ほどには心が年を取っていない。彼が体現しているのは、心の中と外見がアンバランスな、男女を問わない中年族の等身大の純情さと哀れさなのでした。何ともひりひりさせる。
 <一方、輝くようなピュアさ>で観客の目を釘付けにするのは、第50代ポッキープリンセスの忽須汐里。名門女子高生役を清楚な制服姿で演じて、これぞヒロイン!眩しい。でもそんな姿の裏にこそ、乱れた生態があるかもと疑わせるのも今の世情。後に解る悪党の姿や500円の小遣いと共に、現代社会の歪みを滲ませてくる。

 <圧巻は須賀の鬼嫁役の寺島しのぶ>と同級生役の佐々木蔵之助。二人は別格の吹っ切れ方と上手さ。舞台で鍛えた実力と迫力で、全体に喜劇性を加味して作品を別の次元に持っていきます。そんな寺島に監督が最後に差し出したプレゼントが心憎い。それはそのまま、へろへろになって働いているお父さんたちへの愛でもあるのですが、この温かさこそが監督の持ち味なのでしょう。カンニング竹山が愛しく見えてきます。

  テアトル梅田、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、
        109シネマズHAT神戸等全国で上映中



2.剱岳 点の記(地図作りの為に自然と戦う)
 黒澤作品の名カメラマン木村大作が、監督兼カメラマンとして難しい大自然の撮影に挑みます。危険な山を相手に繰り広げられる人間ドラマと共に、カメラ出身の監督ならではの、氷点下40度を超える立山連峰の映像美が見所。少し古風なリズムで描かれる登山隊の足取りは、昔ながらの手法で映した実写だからこそのもの。

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(C) 2009『劔岳 点の記』製作委員会

 <明治末期に日本地図を完成する為の最後の空白区>、剱岳に登って測量する話で、原作は新田次郎です。剱岳は険しい前人未到の山、陸軍の測量隊に対抗するように日本山岳会も初登頂を目指している。でも責任者の柴崎はそんな争いには興味が無い。案内人の長次郎は登山を淡々と確実にサポートする。不順な天候、険しい道と行く手は厳しい。
 <…と、そんな物語をゲートルを巻いて>わらじを履いてという、明治時代の服装と装備で再現している。これって危険なはずで、俳優たちを当時の過酷な状況に置き、それを映す撮影隊もまだ暗いうちかの機材を担いでの登山と、述べ200日以上のロケーションは疲労困憊だったらしい。そんな映画作りへの愚直なまでの姿勢が臨場感になって、登山隊に自分が混じって登っているような気分になる。この頑固さ、本物への拘り、若い監督には出来ない芸当。

 <飄々とした柴崎役の浅野忠信には>この時代のエリートの品格が見れるし、まるで本当に山に住んでいる男のような風情で長次郎になりきった香川照之の土臭さも見事。腰をかがめて淡々となすべきことをなす昔気質が、本人の役者魂に重なります。自然に飲み込まれそうな人間、それでも負けずに自然を乗り越える人間、両方が拮抗したところに出現する新しい世界。近頃はそうそう見れない、正統的過ぎるほどの正統さが貴重で、昔は良かったと愚痴りがちな大人の鑑賞に堪えうる作品です。全ての肩書きを廃したエンディングロールに監督のこの作品に込めた思いを見ました。

          全国で上映中


3.真夏のオリオン(無駄な死から部下を守りたくて、敵と戦う)
 敗戦の色濃い太平洋戦争末期に、太平洋上で命がもったいないと回天を使わず頭脳戦を仕掛けた実在の潜水艦長をモデルにした物語で、池上司の原作を潜水艦ものが得意な福井春敏が脚色して、「山桜」の篠原哲雄が監督しています。構成の巧みさが光り、大掛かりな物語を予算の少ない邦画がそれを感じさせずに見せ切った見事さ。戦闘シーンの大迫力だけでなく、じっくりと描かれるそれぞれの人物が魅力的です。

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(C) 2009「真夏のオリオン」パートナーズ 

 <このところ色々な作品で活躍する>玉木宏が艦長役で、親友にはケミストリーの堂珍嘉邦、時を隔てた2役で北川景子が登場する。艦長が若すぎる気もしたけれど、それすらもこの艦長の大胆さや人間的な魅力にしたのは玉木の力。大きな瞳がとらえどころがなくてカリスマ性をかもし出す。堂珍の瞳も憂いを含んでこの時代の悲劇性を代弁。二人の友情が時にハラハラさせるのも、軍人らしくなくて物語を解りやすくする。そして特筆物が北川景子の美しさ。男優中心の物語の中、少ない出番で爽やかな風を吹かす。艦長の思いのままに、映らない時すらも匂やかだった。
 <こんな具合に中心を>古風にも見えながら今の時代感のある若い俳優に任せて、脇を今や中堅の吉田栄作や吹越満、益岡徹が固める。皆渋い。特に久しぶりに見る吉田栄作の、でしゃばらないのに確かな存在感が忘れられない。目を見張った。少し前なら一世代違っていただろう配役が見事なハーモニーで、監督と共に日本映画界の順調な世代交代を証明。これも邦画バブルと言われるほどたくさん作られた賜物だと思う。

 <古い物語に当時の時代性と>それと相反する今の空気を同時に流す事は難しい。でもそれをしないと、映画の世界観から若い観客は置いてきぼりをくってしまう。この作品は両方を上手くクリアーしているのが見易さになっているのだ。軍隊らしくない長髪だとか、節度はあっても過剰に軍隊っぽくない喋り方とかで、適度な今が加味されて、戦争物語に普遍性が出て時代を超えさせた手法。「山桜」に続いて、篠原監督の丁寧な人物描写とバランス感覚、時代感覚に魅了された作品です。

   全国で上映中

 こうして見ると、3つの作品のそれぞれの主人公は、結局の所、自分の信条の為、プライドをかけて他の誰でもない自分と戦ったとも思えるわけで、他人の評価など気にしない。そんな潔さが胸を打ちます。(犬塚芳美)

映写室 「食客」チョン・ユンス監督ティーチインレポート

映写室 「食客」チョン・ユンス監督ティーチインレポート  
 ―世界には、母親の数だけの料理が存在する―

 韓国で300万人を動員したという最上級のフード・エンタテインメントが、いよいよ日本公開です。一般公開に先駆けて上映された、昨冬の大阪での韓国映画祭のチョン・ユンス監督のティーチインをレポートしました。監督は「世界には、母親の数だけの料理が存在する」と言う言葉に感銘し、これを作り始めたのだとか。邦画の大ヒット作「世界の中心で愛を叫ぶ」のリメイク版監督としても有名で、この後も企画が目白押しの売れっ子。漫画が原作だけに切れ味の良い、息を呑むようなバトルをお楽しみください。

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(2008年12月7日 大阪にて)

《その前に『食客』とはこんなお話》 
 宮廷料理の頂点の店「雲岩亭(ウナムジョン)」にいたのに、陰謀にはめられて料理界を去ったソン・チャン(キム・ガンウ)は、故郷で食材の卸業をしながら、味にうるさいお祖父ちゃんの食事を作っていた。たまたま知り合った料理記者が、彼の料理に感動し料理コンテストに引っ張り出すが、かってのライバル、オ・ボンジュ(イム・ウォニ)が妨害をする。何時しか勝負に本気になっているソン、名誉をかけて白熱の対決が続く。


《チョン・ユンス監督ティーチイン》
 <『食客』はホ・ヨンマンさんの漫画が原作で>、テレビドラマ化もされています。食べ物をテーマにしたものは今回始めて撮りました。キャスティングで気をつけたのは3つあって、1つは原作の漫画に似ている俳優さんという事。2番目は、新鮮味を出したいから出来れば新人をキャスティングしたいという事。3つ目が演技力のある俳優さんを使いたいと言うことでしたが、この3つはほぼクリアーできたのではと思います。

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 <主演のソン・チャンを演じるキム・ガンウ>さんは、地味だけれど牛のように誠実な青年で、韓国中央大学の出身で僕の後輩に当ります。新人ではないけれどまだメジャーではなく実力もあると、僕の条件を満たしてくれました。イム・ウォニさんは本人も漫画的なキャラクターで、面白かったです。二人がコメディの要素とカリスマ性を併せ持っているので、笑いが出てきました。ソンに絡む記者役の女性は新人で、コマーシャル等に出ていた人ですが、地方に行った際、ホテルで見たテレビ番組に出ていて、コミカルな演技が良かったのでこれに出てもらいました。
 <実は今回僕の家族も出ていて>、精肉店で最後に韓国の国旗と今日は無料ですよと言う張り紙をしたのが妻で、一緒にいた子供も僕らの子供です。

 <殺される事に気付いた牛が涙を流します>が、あれは偶然撮れたもので、あのシーンは生きている牛を食物にする意味を問いかけたかったんです。屠殺場へと歩く姿は一度では撮れず、数回繰り返しやっと撮れました。血の匂いに敏感なのでストレスがたまると暴れたりします。牛が振り返るシーンも何度も繰り返すうちに、たまたま後ろを向いてくれて助かりました。キム・ガンウは役作りの為に牛と一緒に1ヶ月暮らし親しくなったので、彼の抱いた思いが、映像に出ていると思います。

 <解体を真近で見たので>牛の血生臭さが辛く、その後1週間ぐらいは牛自体を見れなくなりました。でも撮影を続けていると慣れてきて、精肉の場面を見たら生唾が出てくるし、さばいた肉をスタッフが両親に送ったり、切ったものをほいほいと投げ合って食べたりしました。そんなだから実際の撮影の時には肉が少なくなって、かき集めて撮影したほどです。肉をさばくシーンを入れたのは、例えば日本なら魚をさばくシーンとかで派手に出来るし、「すし王子」とかありますが、韓国料理はアクティブなシーンが少ない。単調になるので入れました。
 <スープを最後まですするシーンは>、食べ物を少し残すのが韓国の文化なので本来はおかしいのですが、今はそんなこともなくなり、違和感なく見ているようです。僕としてはこの作品の日本人の微妙な表現がどう受け止められるか気になったのですが、今日の観客の皆さんは、そこに固執せず、映画のシーン、映画文化として受止めて下さっている。日本は文化的に進んでいるなと思いました。

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 <河豚をさばくシーンがありますが>、手だけがアップになるところは吹き替え、顔が映るところは俳優さんが練習をして映しました。キム・ガンウは大根を切る作業とかも練習しましたが、料理人は手が赤くないといけないと、撮影の前に手をたたいて赤くしてから始めています。撮影の後のお料理は皆で食べました。撮影中の食事は、作業の途中なのでそちらに関心があり、いつもは味わって食べることもないのですが、今回はロケ現場に何人も料理人がいるので、それを食べながらの仕事でした。美味しかったです。韓国で試写会をした時、お腹をグーグー鳴らして見て欲しくて、そのようにしました。

 <妻の料理はあまり美味しくありません> でも食べるときは美味しいと言いながら食べます。僕も料理を作り、シュリの脚本は監督と二人で合宿して書いたので、僕が料理担当でした。
 <「世界の中で最も美味しい食べ物は母の数ほどある」>と言う言葉が原作にもあるのですが、料理は舌ではなく心で味わうと言うのを、この作品で皆さんにお伝えしたかった。お母さんの料理は一生は食べられません。この作品でお母さんの愛を表現したかったんです。

《作品の感想と会見後記:犬塚》
 韓国の食文化の深さが解かる、ダイナミックで楽しい、まさにフード・エンタテインメントです。主演のキム・ガンウさんが誠実そうで、好感を持ちました。又それぞれの演技も、掛け合い漫才のようにコミカルでテンポがよく、笑いながら見れる。好評につき続編の準備中だそうで、次回作は韓国産のキムチと日本で作られたキムチの対決なんだとか。お話し振りや知的な雰囲気から、チョン・ユンス監督が韓国映画界を吸引していく実力派なのが伝わってきました。


この作品は、6月20日(土)からシネマート心斎橋、
       7月4日(土)から天六ユウラクザで上映、
        今夏京都シネマにて公開予定

映写室 新NO.4愛を読むひと

映写室 新NO.4愛を読むひと
  ―彼女の隠したかった事―

 誰にでもある秘密、本人にとっては絶対知られたくない事でも、他の人にとってはどうってこと無い事が多いもの。この主人公の場合はどうだろうか? 少年との性愛に溺れながら、他人の罪を被ってでも隠したいほどの秘密を抱える女性を、「タイタニック」のケイト・ウィンスレットが存在感たっぷりに演じます。表題になぞらえて、「愛を見るひと」にお勧めしましょう。原作はドイツでは教科書にまで取り上げられる「朗読者」で、愛の証のように織り込まれる様々な名作の朗読シーンも素晴らしい。声に出して本を読んでみたくなる。終盤に浮かび上がる彼女の秘密、そのいじらしさが胸に刺さりました。

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(C) 2008 TWCGF Film Services II, LLC. All rights reserved.

 <物語は1958年のドイツで始まる> 15歳のマイケルが学校からの帰り具合が悪くなったところを助けてくれたのが21歳年上のハンナ(ケイト・ウィンスレット)。彼女に大人の魅力を感じて、頻繁に自宅を訪ねるようになる。石炭を運んで煤だらけになった体を洗っていると、裸のハンナに抱きしめられた。こうして二人は日毎貪る様に体を重ねるが、ある日ハンナが「本を読んで」と言い、その日からマイケルは名作を愛の営みの前に読んで聞かせるようになる。でもハンナは突然姿を消す。マイケルが再び彼女を見たのは、法科大学の学生として裁判を傍聴した時の事、ハンナはナチ親衛隊の看守として戦争中に犯した罪を裁かれていた。彼女はある秘密の為に一人で罪を背負うことを選ぶ。その秘密に気付いたマイケルは…。

 <…と、戦後の混乱期から始まって>戦争犯罪というナチの負の遺産を清算する日々が描かれる壮大な物語だけれど、ハンナのセリフに代弁される「貴方だったらどうしたのか?」という重いテーマと共に、この作品は相手の思いを探るような二人の表情が醍醐味だと思う。原作は「朗読者」だけれど、まるで映像が文字に挑戦するように物語を語って、セリフが少ない分、映像が雄弁に二人の感情を表現する。このあたりハンナの秘密にも関係するのだけれど、以前の「重力ピエロ」でも書いたように、優れた製作者の手にかかると映像表現が文字を超えて広がっていく。それに魅了された。

 <若い頃のマイケルを演じるのは>デヴィッド・クロス。自宅に帰ればまだ両親に保護される年頃の少年が、背伸びして年上の人を守ろうとする大人びた表情、それでものぞく初々しさ、ハンナがまぶしく感じるままに場面場面で表情を変えて、この年頃の少年の多面性を表現する。ハンナの視点に重ねていたのだろうか、彼の両親の心情だったのだろうか、彼に迷いがないのに、こんな事がいつまで続くのだろうと年上の女性に溺れる彼をハラハラしながら見た。恋にはつき物の危うさは、年齢差ゆえに余計に漂うのだ。

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(C) 2008 TWCGF Film Services II, LLC. All rights reserved.

 <一方大人の余裕でマイケルを翻弄する>ハンナ役のケイト・ウィンスレット、美貌に頼れない36歳からの女性の30年間を、時にはふてぶてしく、時には哀れに体当たりで再現。多くの映画賞受賞が納得できる。空を捉えたまま視点の定まらない瞳で、悪女なのか聖女なのか観客までが翻弄された。心の奥底まではのぞけない曖昧さは彼女のスタンスのまま。抱えた秘密と母親ほどの年齢で少年との性愛に溺れる不安定さを、刹那的に表現するのが見事だった。ただこのあたり、恋なのかどうかが見ていてもよく解らない。まるで解らないゆえにのめりこんでいくマイケルの心情のままだ。
 こんな具合に、恋の物語なんだけれど、双方向の恋というより微妙にすれ違う恋心が切ない。ハンナ自身もそれを感じて、朗読してもらう愛の物語で自分の感情を量っていたようにも思うのだ。男性ならば又違う視点で見れるかもしれない。

 <弁護士に成ったマイケルが>秘密に気付いて名作を朗読して刑務所に差し入れる日々、後半になって二人の関係は大きく変る。年上の人にのめりこんだ恋心はいつの間にか保護者のそれになっているのだ。このあたり関係性の変化を受け入れて、それでもマイケルにすがっていくハンナの姿がいじらしい。最も彼女にはもう彼しかいないのだけれど。マイケル自身も人生に躓いているのは、過去のあまりに衝撃的な出来事のせいだろうか。
 <そこらあたりに説得力を持たせるのが>、原作以上に役割を大きくした後年のマイケルを演じるレイフ・ファインズ。彼もまた曖昧な瞳と複雑な表情で言葉や文字にならないハンナへの思いを表現する。あれほど焦がれた人の弱さ、やっぱり心は複雑なのだ。今度は彼が、自分の感情を探るように差し入れの愛の物語を朗読したのかもしれない。もちろんハンナも自分の思いと彼の思いを探るように朗読を聴いたはず。だからこそある決意も生れる。

 <愛の形の変化>、彼の支えを哀れみではなく慈しみと受け取って最後の最後にプライドを捨ててすがる彼女、そうして自分に向かってくる、かって愛した人を受け止める彼、二人の関係性はそんな風に変化していく。美しいと言えば美しい。でも切ないと言えば切ない。そんな現実を愛の勝利ではなく、ほろ苦い思いで受け止めるのは、私に人生の何かがまだ解っていないのかもしれない。

 <こうしてみると物語はたいてい愛を>描いている。物語の数ほど愛の形はあると言うわけだ。私たちは愛を探して、あるいは自分の感情を探るように本を読んでいるのかもしれない。
 ドイツだから成立した物語を、監督はドイツに拘って撮影したと言う。ドイツの重厚な空気や静謐な空気感も作品世界になっています。(犬塚芳美)

この作品は6月19日(金)より
  TOHOシネマズ梅田、なんばパークスシネマ等全国一斉ロードショー

映写室 「スター・トレック」&「ターミネーター4」シネマエッセイ

映写室 「スター・トレック」&「ターミネーター4」シネマエッセイ     
―映画館で時空の旅―

 TVシリーズが懐かしい「スター・トレック」と、今やカリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーを一気にスターダムに押し上げた「ターミネーター」という、一世を風靡したSFの新作が揃って上映中だ。考えてみると片方は宇宙戦争、片方は人間と知的ロボットの戦いとまるで違うんだけれど、CGの酷使や、国家や人類、時空を超えて戦うと言う意味で私的には同じジャンル。映画館が夏休みの子供たちに占領される前に観てきました。

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(C) 2008 Paramount Pictures. Star Trek and Related Marks and Logos are Trademarks of CBS Studio Inc. All Rights Reserved.

 <「スター・トレック」は色々なシリーズがあるが>私の場合印象深いのは最初の第1シリーズ。皆が寝静まった頃、深夜の再放送をよく観た。まるで自分が「エンタープライズ号」の1員になって宇宙旅行をしているような不思議な現実離脱感。宇宙の彼方までワープしながら眠りに落ちていた気がする。
 <新作はこの最初のシリーズの始まる前の物語> クールさが魅力の耳のとがったバルカン星人ミスター・スポックなんて、あの彼をそのまま若くしたみたいだし、血気にはやるカークも往年の名船長の面影があるとか、キャストはこの時のメンバーによく似ている。こんな時代を経て冷静沈着なキャップテンが出来たのだと、命知らずの若者たちの青春物語をハラハラと楽しんだ。嬉しいのが、ちょっとレトロなワープや転送の仕組みで、「ワープ」と言う声と共に画面がシュワーとなると、観ているほうも身をちじめて何処かに連れ去られる気分。懐かしいなあこの感覚、ウン十年前とちっとも変わっていない。新作だけど、時代的には今までより古い設定だから、微妙な古さと言うか時代感も出している。CGを使いこなした上での手触り感、そのあたりのクリエーターの工夫の後も楽しみたい。
 <アメリカでは1966年に始まったこのシリーズ>、まだ東西の冷戦構造の残っていた頃から、もうすでにクリエーターたちの想像は国境を越えてはるか宇宙を飛んでいたんだと、SF黎明期に思いを馳せた。今は逆に想像が広がらなくて内向しているみたい。

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 <さて、「ターミネーター4」は近未来のお話>今からだと後10年もない2018年の設定になる。このところ、古い作品が毎週のようにテレビ放映されたから、リアルタイムで見逃した人も「ターミネーター」通になっているかも。ところでちょっと自慢だけれど、私が観たのはリアルタイム。どんな内容かも知らないで新京極のロキシーで2本立ての付録のつもりで観た。肝心のお目当てが何だったかは忘れたけれど、B級作品のこちらのほうだけが鮮明に記憶に残っているという訳だ。
 <大まかな話は>、軍事産業が作ったスカイネットが自我に目覚め、機械軍を結成して人類の滅亡を図るというもの。米国とソ連の核戦争が勃発して多くの人類が命を落とした審判の日の後、生き残った人々がジョン・コナーを中心に纏まり、ロボットに戦いを挑んでいく。過去や未来と時空を行き来するのが物語の特徴で、機械軍は未来から過去へとターミネーターを送り込み、コナーをその誕生の前、つまり母親や父親の時代から抹殺しようとするし、人類のほうもコナーに絡む人を守ろうとターミネーターに戦いを挑む。最初は憎らしい不死身の殺人ロボットだったのに、人気沸騰したシュワルツネッガーはいつの間にか良い役。これって何か物足りないけど、今回もカメオ出演している。

 <84年に作られた1作目は>ジョン・コナーの母親になるサラ・コナーを守るお話。まだ物語の全容が見えず、未来から転送されて立ち上る湯気と共に裸でうずくまる若者の、得体の知れなさに受けた衝撃は忘れられない。だから訳が解らずに逃げ回るサラの恐怖に感情移入するのはたやすかった。ホンダのバイクで逃げ回る姿がこの頃の日本人には妙に誇らしかったものだ。91年の2作目は少年になったジョン・コナーを守るお話、たしか美松劇場のラストランで観た。3作目は青年になったジョン・コナーの苦悩で、スカイネットの無差別殺人と核戦争の始まりだった。

 <そして新作は核戦争の後の物語で>、スカイネットとの激しい戦いの中で、ジョン・コナーの命令で過去に送られてサラを救い、やがてコナーの父となるカイル・リースを救う話だ。こうして書くとなんかややこしいけれど、観れば解ると思う。今回は脳と心臓だけが人間と言う新しい人種(ターミネーター?)が登場して、人間とは何かも問いかけてきた。

 <実はこの視点>、「スター・トレック」でも感情を持たないバルカン星人のスポックに絡めて問いかけてくるもの。CGを酷使し未来や過去と自由自在に行き来しながら、問いかけるのが人間性というのがどちらもの作品の温かみだ。ちなみに両方に登場するのがロシア生まれのアントン・イェルチン。「ターミネーター4」ではカイル・リースに扮するし、「スター・トレック」ではクルーで転送の名人に扮する。気弱そうな瞳がなぜか尾を引く青年で、日本で言えば福山雅治君。もうすぐ公開の主演作「チャーリー・バレットの男子トイレ相談室」も乙な味わいなのでお楽しみに!

 <ところで未来の人類は>宇宙に飛び出すのか、地球で殺戮を繰り返すのか、それとも友愛の道があるのか? いつの間にか時間的に身近(?)になったSF作品でそんなことを考えた。ミニシアター系も良い。邦画も良い。でも映画だからこそ出来る、創造的なこんな作品も見逃せない。このスケール感、両方とも映画館の大スクリーンと大音量でこそ楽しみたい作品だ。日常をタイムトリップしに映画館へ行こう!(犬塚芳美)

   両作品とも全国で上映中。

<お知らせ> 
 ミニシアターからシネコンまでの関西の映画館情報を満載した「CINEMA,CINEMA,CINEMA 映画館に行こう!関西映画館情報」と言う本があります。観客側と館主側の双方から紹介するコアな情報、観たい作品を追いかけて映画館めぐりを楽しみませんか。ちなみに東映太秦映画村やユニバーサルスタジオジャパンの大人の為の探訪記、各国の映画館情報、成人映画館の情報、映画を作る側、見せる側、見る側の視点での身近な話も載っています。ご注文は(075-721-1061)、あるいは創風社出版(089-953-3153)まで。
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映写室 新NO.3重力ピエロ

映写室 新NO.3重力ピエロ 
 ―原作と映画の幸福な結合―

 久し振りに余情の長い映画を観た。実は評判だという伊坂幸太郎の原作も知らず、ただただ加瀬亮を目当てに観たのだけれど、加瀬君やっぱり期待を裏切らない。あ、これって、出演作の選択と演技力という両方の意味です、念の為。親子関係、ひいては遺伝子に至る問題は重く、映画の世界観と物語の深さに圧倒される。私的には現在までの今年の邦画NO.1です。

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(C) 2009「重力ピエロ」製作委員会

 <表の物語は町に多発する>グラフィティアート(落書き)とそれに関連して起こる放火の犯人探しだけれど、その裏側で仙台市郊外に住む3人家族の物語が、微妙な危うさを感じさせながら進んでいく。二つの物語が絡み始めてからが真骨頂、表裏が逆転してなんとも温かい深遠な家族ドラマが浮かび上がる。この構成の巧みさにも魅了された。

 <才能に恵まれしかも美し過ぎる弟の春>、そんな弟といつも比較されていじけたと言いながら、大きな愛で弟を守ろうとする遺伝子工学を学ぶ院生の兄泉水、別荘風の生活感のない家でミツバチを育てて暮らす、どこか浮世離れした父親、母親は回想で登場する。
  <眼鏡をかけていつもデイバックをしょった泉水は>、確かにこんな院生がいそうなたたずまい。彼が家族に向けるまなざしの温かさと、何かもっと深いところを見ているような不安感が映画の基調になっている。春の美貌も儚さよりは危うさを感じさせるし、追っかけがいるほどもてるのに女に関心が無いことも後々謎解きのように効いてきた。普通なのに現実から少し浮遊したような父親の姿勢、おでんにミルクを入れるような3人の暮らしぶりも危うさになっているかもしれない。ともかく私の場合、このかすかな危うさに引っ張られるようにして観た。

 <不安の発端は、冒頭のバッドを持って>強姦犯を打ちのめしに行く春の確固とした姿勢に秘められた狂気、軽々と2階から飛び降りた弟に兄が感じた戸惑いだったろうか。のっけから兄に感情移入してしまった。そして少しずつ明らかになっていく家族の事情、このあたりの種明かしの手順も旨い。テンポが良くて、何気ない寓話ですら家族の物語を肉つけていく。
  <元モデルの美しい母親と公務員の父親>、幼い息子の3人家族はやっかみを受けるほど幸せだったのに、連続レイプ犯に母親が犯され春を身籠った事で影を抱えることになる。と言っても、この父親並ではない。いわくつきの子供を生もうと決断し、自分の子供として可愛がる。4人家族は一見何の問題も無いのに、うるさいのは世間だ。心無い噂で子供の頃から何かを感じながら育っていく春。このあたりで泉水の守るような視線の訳が理解できてくると言う訳だ。

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(C) 2009「重力ピエロ」製作委員会

 <町の落書きを消しながら連続放火犯を追う春>、弟に誘われて無理やり巻き込まれる泉水、やがて遺伝子記号と絡めてつながっていく点と線。ミクロからマクロまで、時空を超えるスケールでミステリーとしてもすばらしいけれど、それ以上に、過酷な運命に押しつぶされそうな美しい若者の慟哭が痛ましい。
  <ちょっととぼけた父親役の小日向文世>、理科系らしい緻密さと不器用さで家族を見守る兄役の加瀬亮、自分を殺したいほどの苛立ちを隠して兄に甘える弟役の岡本将生、不思議な設定を見事な配役のバランスで自然に受け入れていたけれど、考えてみると両親の決断は並外れた事。クリスチャンとかそんな思想が無くては成り立たない話で、一家の暮らしぶりからしてそうなのかもしれない。それでも子供にとっては重過ぎる運命、人ってそれほど強くはないもの。育ちや環境は遺伝子に勝つのだろうか。私にとっても 遺伝子はそう簡単には乗り越えられない。最後まで父親の決断や春へ打ち明けたことへの疑問が消えなかった。春と泉水二人をじっくり描いたほどには両親は描かれなくて謎を深める。でもそれも映画の余韻になっているかもしれない。

 <そんな点や、原作の通りだと言う印象的な台詞に魅せられて>、観終えてすぐに原作を読んだ。そしていっそう映画の素晴らしさを実感することになる。文字の世界が鮮やかにドラマティックに映像化されていて、自分ではとてもここまで読み込めない。映画監督って、俳優さんたちって、こんな風に豊かに世界を広げていく人種なのだと今更ながらに驚く。原作の世界感と映画の世界感の幸せな結合、もう森淳一監督ははずせない。もちろん原作者の井坂幸太郎もはずせないけれど。

 <この一家は表題のように「重力ピエロ」>だ。運命と言う重荷を背負いながら、微笑に苦悩を隠して、落ちそうで落ちず、綱渡りで渡っていくと思う。その健気さが心を打つ。余情はこれかもしれない。これからは私も大変な事ほど明るく伝えよう。観てから読んだけれど、演出や脚本の工夫の後を追ってもう一度映画を観ようと思っている。(犬塚芳美)

この作品は、梅田ガーデンシネマ、京都シネマ、イオンシネマ久御山
       シネプレックス枚方、シネリーブル神戸等全国で上映中

映写室 新NO.2夏時間の庭

映写室 新NO.2夏時間の庭   
  ―オルセー美術館開館20周年記念作品― 

 印象派の芸術家達が好んで滞在したイル・ド・フランス地方を舞台にした物語と言えば、美術好きなら見逃せません。しかも主な舞台が画家の元邸宅と言う設定だから、映画を観ながらもまるで絵画の中に迷い込んだよう。草花、木々が茂るにまかせた庭はまさに画家好みで、初夏の日差しと爽やかな風をバックに、セザンヌやモネのような詩的絵画の世界が広がっています。オルセー美術館の全面協力で、日常使いとして本物の美術品がふんだんに登場する贅沢さも特筆もの。フランスらしい手触りの作品です。

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(C)2008 MK2 SA-France 3 Cinema

 <映画の醍醐味は自分の手の届かない世界を疑似体験>することですが、アール・ヌーヴォーの家具や印象派の美術品に囲まれたこんな贅沢な日常は、疑似体験でも中々出来ない。日本だったらセンサーをつけたガラスケースの中に鎮座するような作品が、無防備に陳列されるフランスならではだと思います。そういえば以前、「ダ・ヴィンチ・コード」でもルーブル美術館の歴史的な所蔵品が惜しげもなく映画に映りましたが、フランスの美術館って映画撮影に協力的なのですね。美術品は使ってこそ生きると言うのもあるだろうし、美術品の多さはもちろん、文化の深さ等を感じます。

 <…と、あまりの凄さに舞台設定ばかり>に触れましたが、もちろんそれがこの作品の一番の醍醐味ではあるのですが、物語はそんな世界が日常の母親とそれを相続する子供たちのお話です。生と死の対比が鮮やかで、風景は其処にある命によって佇まいを変える。世代間の問題は何処の家庭にもあること、ゴージャスな世界が一挙に切なく身近になってきました。
<元々ここは有名な画家だった大叔父のアトリエ>で、母親がメイドと二人、膨大な所蔵品を大叔父の生前のままに守ってきた。その母親も老いて自分の死後のことを考えている。皆が集まった時、こっそり長男を呼んで大切な幾つかの保存法を指示しながら、自分が死んだら皆の負担にならないようこの家も美術品も売ってほしいと言う。長男は「何も売らない。みんなで受け継ぐ」と声を荒げたが、母親が亡くなり皆に今まで通り残そうと言うと…。

 <子供たちがこの家に来るのは1年に1度で母親の誕生日だけ> その日の為に色々準備しても、集まった側からもう皆の帰る時間を寂しく想像する母親。そんな母親の老いや孤独に気付かなかったり、見て見ぬ振りをしてあわただしく自分の日常に帰っていく子供たち。賑わいの後は余計に寂しい。灯りもつけず肩を落とす母親の姿に自分の母親を重ねて胸がキューンとなるけれど、それでもどうしようもない。自分の暮らしもある、もう子供の頃の様には行かないのはこの物語の兄弟と一緒です。

 <家というのは不思議なもので>、子供たちがいる時は生き生きと輝いても、皆が引き上げると母親の孤独のままに絵画のように固まってしまう。過ぎ去った時間だけが漂う重い空間で、孤独感に沈む主人を案じながら、メイドはそっと見守るしかない。同じ様に古い家に住んでいても、時を止めて生きた主人と違ってメイドは主人を守ると言う今の時間を生きてきたのだ。

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(C)2008 MK2 SA-France 3 Cinema

 <この家の保存に半生を捧げた母親は>、子供たちにそんなことが出来ないのもよく解っている。ここを昔のままに守れたのは自分が過去の時間に生きたから、子供たちには今を生きて欲しい。このあたり、理解しながらも寂しい母親の心情が浮かび上がります。映画的に解り易く孤独を描いていますが、たとえ隠してはいても老いて行く日々で誰もが味わう物かと思います。
 <一方子供たちの現実とのジレンマや折り合いの付け方も>、現実的にこんな物。フランスに住んでいて、仕事的にもこの場所に時々来れそうな長男は残そうとしても、外国に住む次男や長女はもう来ないかもしれない。無理をしてもここに来たのは母親がいたからの事、思い出の場所は遠くなっていきます。長男も寂しいけれど理解する。親を真ん中にした兄弟は親がいなくなったらどんな関係になるのか。その柔らかな変化も、親代わりのつもりの長男は理解する。兄弟の新しい関係の始まり、このあたりも普遍的なテーマです。

 <華やかだった印象派ももはや過去の事>、絵画の中で輝いても現実からは遠い。孫娘がこの庭に流れる空気を芳しく嗅いだように、この庭に楽しみを見出せるのは、思い出に生きる人ではなく今からここで思い出を作っていく人々。家には新しい住人が必要なのだ。この庭にも新しい時が輝くだろうと言う予感が、爽やかな風と煌く光で映っています。そんな空気が邸内にも流れて、やがてそこにも今の時間が流れ始めるに違いありません。母親はこの家を愛していたからこそ、人手に渡してもそれを望んでいたんだろうとも思えるのでした。

 <ところで、物語の本筋ではないのですが>、私が心打たれたのは、つましいお洒落をして主人を偲んで庭の花を手向ける老いたメイドでした。皆には遠くに住む甥と一緒に暮らすと安心させながら、近くのアパートでの1人暮らし。母親が大叔父との思い出に生きたように、メイドもまたこの後を思い出で生きるのでしょうか。いや彼女はそんなことはしない。ささやかな老後を、現実を見てできる限り自分の足で歩いていくだろうと思わせる姿なのです。老いることは辛い。でも誰も避けることは出来ない。思い出を持ってしかも現実を生きるしかないのだ。長年主人に仕えた彼女にはその両方があると思える後姿、私には見事な老後に見えました。これって私の主観だろうかとも思うけれど、無欲な彼女に、形見分けとしてさり気無く名品の花瓶を選ばせた監督の視点かもしれません。(犬塚芳美)

 この作品は、6月6日(土)からテアトル梅田、
         6月20日(土)から京都シネマ/シネ・リーブル神戸にて公開上映

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