太秦からの映画便り

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映写室 新NO.19エスター

映写室 新NO.19エスター  
 ―愛らしい少女のポスターの不思議なインパクト―

 最初から最後まで恐怖で息を詰めた。とにかく怖い。それも、絵空事ではなく身につまされて怖かった。そんな内容をよく表しているのがポスターだ。古風な服装をして黒い髪と黒い瞳で、真っ直ぐ前を見ている少女の映像は、可愛いのだけれど、よく見ると、ほんのすんでの所で不気味さも漂う。キャプションの通り「この娘、どこかが変」なのだ。
 <誰もの心を掴んでしまうポスターの力で>、この秋、彼女の事が評判になるかもしれない。もちろん、観ればもっと虜になるはず。じわじわと迫ってくる恐怖感がたまらない。監督は「蝋人形の館」のハウメ・コジェ=セラで、製作にはレオナルド・ディカプリオも名を連ねている。ミステリーファンだけでなく、人間ドラマが好きな方にもお勧めしたい。

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(C) DARK CASTLE HOLDINGS LLC

 <赤ん坊を死産したケイト(ベラ・ファーミガ)>とジョン(ピーター・サースガード)の夫妻は、喪失感を埋め合わせる為に、孤児院から養女を引き取る。頭が良くて愛らしいエスターだ。息子と耳の悪い娘に加えて5人の暮らしが始まる。首と手首のリボンを離さない少女は、個性的な絵を描く。最初にエスターを嫌ったのは息子だった。奇妙な事件が続き、ケイトにもエスターの違う顔が見え始める。彼女は一体何者なのか?

 <ポスターのせいか>、「この娘、どこかが変だ。」と言うキャッチコピーに導かれたのか、いや映画そのものの作りだとは思うけれど、平穏な最初から不気味さが底流を流れる。ミステリーの序奏だけれど、それって実は、夫役のピーター・サースガードのせいでもあるのだ。彼の瞳の曖昧さは信用できない。たいてい最後に不安通りの裏切りに導かれるし、彼の微笑だけで私の場合は不安感を掻き立てられるというわけだ。複雑な人間性を演じられる第1人者だと思う。
 <その彼がまずエスターに惹き付けられるのだから>、嫌な予感がするのも当然だ。まるで少女というより、彼女の女性性に魅せられた様な瞳をエスターに向けて、序盤の不気味さを引っ張るのは夫のジョンだった。

 <美しい歌声で、魅惑的な絵を描き>、個性的で大人びた考え方、エスターは普通の子とは違う。建築家と音楽家と言うお互いに芸術分野の夫妻は、「人と違ってもかまわないのよ」と言う言葉の通り、むしろその個性を喜ぶ。ぽっかりと空いた心の空洞を新しい家族を迎えて埋めようとする夫妻、渡りに船のような個性的な少女との出会い、観客の私たちは夫妻のあまりの無防備さが不安になってくる。エスターはまだ愛らしいばかりで牙を剥かない。牙は剥かないけれど、あまりにも完璧な姿が少し不気味でもあるのだ。

 <そんな観客の視点に近いのが>、夫妻の息子だった。娘はお姉さんが出来たと無邪気に喜ぶけれど、息子は敏感に何かを察知する。エスターは何かキモいと、学校で仲間から耳打ちされる息子。子供同士の他愛ない不仲のようで、この辺りからエスターの本性が出始めるのだ。でもまだまだ、親の愛情を取り合う子供たちの争いの領域は出ない。
 <息子とは敵対しながら>、娘を支配下に取り込もうとするエスター。賢くてもまだ幼く、純粋で人を疑わない娘、しかも彼女には耳が遠いと言うハンディもある。意地悪をされながら、エスターを姉のように慕う姿にはらはらさせられる。そんな子供たちのぎくしゃくを両親は気付かない。と言うより、新しい家族を一家に馴染まそうと、実の子供以上にエスターに気を使う。観客は夫妻の人の良さをハラハラと眺める事になる。

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(C) DARK CASTLE HOLDINGS LLC

 <そうして徐々に本性を表わすエスター> 彼女の周りで奇妙な事件が起こり始めるのだ。まずケイトがエスターを疑い始める。子供を守ろうとする母親の姿だった。彼女の過去を調べるが、それでもジョンは耳を貸さない。逆に妻の過去から、病気を疑う始末。子供たちも巧みに事件に巻き込まれ、まだ母親に全ては話せない。孤立するケイト、子供たちの危機、まだエスターに魅せられているジョン。
 <一家の幸せの為に迎え入れたエスターのせいで>、いまや家族はばらばらだ。さあ、この後どうなるのかと震え上がるが、息もつかせないテンポで次々と真実が明かされ、観客の予想もつかない驚愕の結末まで走っていく。スリラーだけに詳しい事が書けずまどろっこしいが、謎を解きながらのラストまでの緊張感が醍醐味。エスターの真実は実際に見て確かめていただくことにしよう。

 <体当たりで望むケイト役のベラ・ファーミガ>がすばらしく、情感たっぷりに知性的な母親を演じる。不安定な心理状態の描写も巧みで、夫に理解されず孤立して追い詰められる様に感情移入した。子供たちってどうしても父親よりは母親と結びついているんだなあと、まさに母は強しの典型だ。息子と娘を演じる子役二人も素晴らしく、健気さが胸を締め付ける。今となっては二人のあどけない表情を一番思い出す位だ。
 もちろん、どれが素顔なのか解らない位変貌する、エスターを演じるイザベル・ファーマンには驚かされる。愛らしい前半、驚愕の後半と、眼差し一つで変わる、人のイメージと言うのも興味深い。彼女の才能の全貌はぜひ映画館で。

 <先日あった映画好きの懇親会で>、この秋見たい作品は何かとチラシを見ながら話していた時、「何か気になるなあ」と何人もに言わせたのがこの作品だ。設定やストーリーの巧みさ、猟奇物ではなく、人としての現実味を持った物語なのがなおさら怖い。これほどのことはなくても、人間関係を引っ掻き回し、自分だけが優位に立つ人はいるもの。所謂トラブルメーカーだけれど、ミニ「エスター」は案外身近にいる。この秋、「境界性人格障害」と言う言葉が一気に認知度を増すだろう。(犬塚芳美)

   10月10日(土)より、梅田ブルク7、MOVIX京都、109シネマズHAT神戸、
                   MOVIX六甲ほか 全国ロードショー
                                        なおこの作品は、R15+(15才未満は入場禁止)


  日本語オフィシャルサイト
         http://www.esther.jp
  ワーナー・ブラザース映画オフィシャルサイト
         http://www.warnerbros.jp
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映写室 「未来の食卓」シネマエッセイ

映写室 「未来の食卓」シネマエッセイ  
   ―美しいフランスの田舎の風景―

 <フランスの魅力は何かと>聞かれたら、迷わずに田舎の風景だと答えたい。この前シャネルの映画3本を紹介したように、フランスというと高級ブランドやパリジェンヌに代表されるお洒落な街を思い浮かべるけれど、それはフランスのほんの一面。実際は農業国で、何処までも広がる田園風景にこそ、この国の豊かさを感じたりもするものだ。緩やかな起伏に沿う大地、そこをゆったりと流れる並々と水を湛える川、いいなあ。そんな情景は、旅行者の目を奪うだけでなく同じ国の都市部の人々も魅了するらしい。フランス人の夢は、リタイア後に田舎に移り葡萄園を経営してワイナリーになることなんだそうだ。

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 <ところが遠くから見ると美しい大地も>、広大さゆえに大掛かりな農薬散布で土壌が汚染されているらしい。フランスでは過去25年間で男性の癌の羅患率が93パーセント増加し、その70パーセントが環境と食料に関係すると言われる。突き詰めれば元凶は農薬と言う訳で、見かけの美しさと相反する農村地区の不健全さ。これって由々しき問題っていうんだろうなあ。

 <と思ったら、すぐに行動を起こした人がいる> フランスの南部にある、世界遺産の水道橋、ポン・デュ・ガールの近くのバルジャック村の村長で、地元産の有機野菜や、自分たちが作った野菜を食べて、体の安全性とともに本来の味覚を取り戻そうという挑戦だ。きっかけは地元で小児癌の子供が増えたことだった。子供たちの未来を守らなくてはと、村が担当する学校給食と高齢者への宅配給食を、全てオーガニックにするという画期的な試みを始める。このドキュメンタリーはそんな給食風景とそれを支える村の人々、環境汚染阻止に取り組む人々を追ったものだ。
 <息子を亡くした母親の証言>、農家の人の農薬からの自衛策、有機野菜に取り組む農家、割高な有機野菜をどうやって普及させていくか等々、方向転換への試みが丁寧に紹介される。

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 <そんな試みの素敵さはもちろんだけど、>このドキュメンタリーで魅了されるのが、理論整然と再生へ突き進むフランス人の知性や生真面目さと、最初も言ったような美しい田舎の風景だ。これぞフランスの底力というか、何か豊かなのだ。作中にあるように、村人は63パーセントが所得税を免除される低所得層らしいが、皆小粋で、日本人の私には貧しさが見えない。時には庭にテーブルを出してとる給食も、豊かな内容だけでなく食器やセッティングがお洒落で、こんな日常の積み重ねがフランス人の美意識を育てるのだと羨ましくなる。

 <日本のドキュメンタリーだと>、たいてい拭い難い日常性、俗に言うなら「しみったれ感」が滲んでしまい、逆にそれが臨場感という売りになるけれど、この作品は劇映画以上の端正さ。答えの解っている環境汚染問題以上に、美意識に貫かれたそんな姿勢が気になった。「日常がこんな風に洗練されてるの? それとも製作者の視点?」と留学が長く向こうに詳しい友人に聞くと、「映し方というか、製作者の美意識だと思う。田舎っぽいところも多いよ」と言う。

 <監督である、ジャン=ポール・ジョーの美意識>、あるいは都会生活者の視点で切り取った田舎の美点って事だろうか。パリだと移民が多く、雑多な人種が暮らしているが、田舎に行くといわゆるフランス人だけ。パリであんなに多い黒人はこの村では一人も見かけなかった。ここに住んでいるのは豊かではないといっても、最低限自分の土地を持っている人々。移民では住めないのだ。不況の今、日本でも地方に行くと、荒廃した都市部に比べ、本当の田舎の、土地を持っている農家の方の底力を感じるけれど、私が見たのはそんな豊かさのようにも思う。
 <いけない、どうも脇道にそれてしまう> それ位美しさにやられた。実りの秋は一段と綺麗だろうなあ、子供たちははしゃいで収穫をしてるのだろうかと、旅心もそそられる。「フランスに旅行するなら、パリより田舎だよ」と言う友人の言葉も紹介しておこう。本題だけでなく、ふんだんに散りばめられるフランスの美意識を堪能したい。(犬塚芳美)

この作品は、第七藝術劇場で上映中、
       10月10日(土)から京都シネマ、
       12月から 神戸アートビレッジセンター にて公開

映写室 新NO.18あの日、欲望の大地で

映写室 新NO.18あの日、欲望の大地で    
 ―消せない記憶―

 <原題の「THE BURNING PLAIN」の示す>通り、農薬散布の飛行機が墜落して炎上するシーンから始まる。これがその後の、まるで関係なさそうな物語にどう繋がっていくのかは、後半位までお預けだ。謎解きの後でなるほどと唸らされる、念入りに計算されたストーリーだけれど、それもそのはず。脚本は、小説家出身で「バベル」や「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」等で多くの脚本賞を受賞しているギジェルモ・アリアガで、この作品で初の長編監督を務める。他の作品でも見られるように、アリアガの出身地メキシコを絡め、場所と時空を交差させた複数の物語を、女たちの愛が貫いていく。何ともスケールが大きい構成が魅力だ。

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(C) 2008 2929 Productions LLC, All rights reserved.

 <親と子、青春時代と成人後と>、お互いに対峙する複雑な女心を演じるのは、天下の美女シャーリーズ・セロンと、キム・ベイシンガー。さすがの美しさで、美の競演だけでも圧巻だけど、自分を見失いそうな虚ろさを、訴えるような瞳で表現するベイシンガーと、同じ思いを突き放したような強い瞳で表現するセロンの、対照的な表現法も見逃せない。
 オマケというには大き過ぎるのが、ヴェネチア映画祭で新人賞を受賞したジェニファー・ローレンスの繊細な演技だ。セロンの少女時代を演じて、ゴージャスさでともすれば夢物語まで飛びそうな話を、等身大の物語に繋ぎとめている。2人以上に印象深い。さあ、どんな愛の物語が展開するのか…。

 <海辺の高級レストランで>フロアマネージャーとして働くシルビア(シャーリーズ・セロン)は、美しさも知識も完璧だ。だが行きずりの男と容易に関係を持つ奔放さや自傷行為と、謎も多い。ある日メキシコ人の男が、危篤状態の親友に頼まれたと言ってやってくる。逃げ出すシルビア、よみがえるのは10代の頃の記憶だ。手術後の母ジーナ(キム・ベイシンガー)と父、幼い兄弟たちと国境の町で一見平和に暮らしていた。母の帰宅が遅い日が続き、不審に思ったシルビアが後をつけると…。

 <先に書いたとおり>、この作品は点の物語が重層的に繋がっていく過程こそが醍醐味なので、これ以上筋を追うのはよそう。それよりは3人の女(実際は2人だけれど)の愛について考察したい。そうは言っても関係性の説明で触れる事になるかもしれないけれど。
 <まず、消えそうな自分の女としての炎を>メキシコ人の男との出会いで再び燃え上がらせて、のめり込んで行く母親のジーナ。夫や子供たちの誰が悪い訳でもない。ただ、身も心も愛し愛される人に出会ってしまったのだ。家族に求められるのが、女としてではなく母親としての自分だけというのが、この年齢の女には、しかも乳房を失うという心の傷があればなおさら、たまらない寂しさなのかもしれない。それはジーナを愛する男も同じで、お互いに虚ろな魂が共鳴しあって、自分の性の残り火を燃やし始める。家族の視点に立てばこれほど罪深いことはないけれど、ジーナは家族も捨ててはいない。こんな事が続けば、いずれはどちらかを選択したかもしれないけれど、お互いに家族に対しても別の愛を注いではいたのだ。それに満足できず、母の愛の変化に気付くのが思春期の娘というもの肯けた。

 <「ナイン・ハーフ」で美しい姿態を晒し>、女性のさがを妖しく演じて私達を虜にしたキム・ベイシンガーは、今回も思いっきりがいい。年を重ねてより表情豊かになった体で、愛を渇望する悲しいまでの女のさがを見せてくれる。主婦の虚ろさや不倫の愛を情感たっぷりに演じて、枯れ切れない美しさが哀れでさえあった。

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(C) 2008 2929 Productions LLC, All rights reserved.

 <母の後を追って>、見てはいけないものを見てしまう娘のマリアーナ(後のシルビア)。私が感情移入できたのは美し過ぎる2代女優にではなく、このジェニファー・ローレンスだ。思春期の少女の、子供でもあり大人の部分もありという不確かさを的確に表現して、ハラハラさせられた。少し首を傾けた風情や物言いたそうな唇に心情が滲んで、鬱積した思いが汲み取れる。私は、彼女の視点で見て胸が痛くなったけれど、娘を持つ方が母親の視点で見ると胸が締め付けられるかもしれない。この若さで、何気ない背中が悲しみを語るのも素晴らしかった。
 <男の息子役も良い> 親同士の愛の果てに、遺された家族の悲しみ。それぞれの連れ合いは、不倫相手の事など考えたくもなくても、娘や息子となると少し違う。どうして私たちがいるのに、母は、父は別の人と…と、問いただしたい思いを抑えられない。それがマリアーナの行動だし、息子の行動だ。そこら当りの揺れる思いを丁寧に演じて、2人を抱きしめたいくらい切なくなる。魅力的でも2人が典型的な美男美女じゃあないのも嬉しかった。

 <ところで、投げやりにも見える>、謎の女性シルビアを演じるシャーリーズ・セロンは、この作品の制作も兼ねている。「ミニミニ大作戦」等で超人的な美しさで印象の薄い頃から好きだったセロンが、激太りして臨んだ「モンスター」で演技力を認めさせ、今や演技力や美貌だけでなく、企画力も見せているのだから頼もしい。それでも、未だに美貌は彼女の野望にとって諸刃の剣のようだ。際立つ美人としての存在感、美し過ぎて細かい感情表現よりもそちらに目がいってしまう。
 <これがメリル・ストリープなみの>美貌だったら、もっと細かいニュアンスに目が届くのだけど、いかんせん何をしてもアンドロイド的に美しい。瞳が強すぎるのも一因かもしれないけれど、肌を荒れさせてもくすみを見せても完璧な美貌の壁は破れないのだ。…と、「美し過ぎる」を彼女の為に何回繰り返したのだろう。他の女優には大敵の、年齢の加える影が待たれる。そんな意味でもキム・ベイシンガーは彼女の目標かもしれない、と。

 <数奇な運命の果てに>シルビアがたどり着くのは何処だろう。薄暗い岸部の町で投げやりに暮らした日々、飛び出した砂漠の町で自分を待っている過去、どちらも寂寥感が漂い愛を求めずにはおれない場所だ。女たちの憂いを思い浮かべると、必ず背景の町の物悲しさを一緒に思い出す。風景が紡ぐ物語、物語と風景が見事に一致した作品だと思う。何だか、ギジェルモ・アリアガの原点を見たような気がした。(犬塚芳美)

  この作品は9月26日(土)より、テアトル梅田、シネマート心斎橋、
                    シネ・リーブル神戸で上映
        10月京都シネマで上映予定

映写室 新NO.17「ココ・シャネル」&「ココ・アヴァン・シャネル」

映写室 新NO.17「ココ・シャネル」&「ココ・アヴァン・シャネル」    
 ―シャネルの映画2本―

 独特のマークを思い出させる題名だけでも魅惑的な、公開中の「ココ・シャネル」、公開直前の「ココ・アヴァン・シャネル」、来年早々公開の「シャネル&ストレヴィンスキー」と、ココ・シャネルを題材にした作品が続く。こうなったら全部を見比べたい。これほどの競作は珍しいけれど、なんでもそれらが作られた2008年は、シャネルの生誕125周年に当たったのだそうだ。もちろんそれだけではなく、時代の要請やシャネルの戦略もあると思う。若者主導のチープなファッションに流されっぱなしの今、シャネルのモードが一杯のこれらの映画をきっかけに、大人の服に目覚めて欲しいと考えても不思議ではない。

「ココ・シャネル」
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(C) 2008 ALCHEMY / PIX ALL RIGHTS RESERVED.

「ココ・アヴァン・シャネル」
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(C) Haut et Court - Cine@ - Warnerbros. Ent. France et France 2 Cinema

 <「ココ・アヴァン・シャネル」には>シャネル本社保存の貴重な服を提供しているし、「シャネル&ストレヴィンスキー」でシャネルを演じるのはシャネルの広告モデルで、衣装は現在のデザイナー、アナ・ムグラリスが手がけている。
 <今を多分に加味した来年の1本は>テイストが違うから後日に回すとして、今回取り上げる2本は、同じ様にシャネルの生きた時を再現する。興味深いのが同じ女性を描きながら微妙に恋の始まりのニュアンスが違うところだ。例え結末は同じだとしても、この違いって女にとっては大問題。長年連れ添ったカップルがよく揉める所で、あの世のシャネルはなんと言っているだろう。シャネルに扮する女優の見比べと共に、野次馬的興味が尽きない。

 <本人にそんなつもりはなくても>、恋をばねに大きくなっていくシャネル。ビジネス的に見れば相当したたかでもある。でも映画はあくまで恋心に寄り添い、シャネルが世に出るまでの日々を描いていく。彼女の半生はこんな具合だ。
 <孤児院で育ったガブリエル・シャネルは>、お針子として働きデザインの才能を開花させた。そんな時に、後に愛人となるエチエンヌ・バルサンと出会い、よく歌っていた歌から“ココ”の愛称で呼ばれるようになる。広大なエチエンヌの屋敷で暮らし始め、やがて彼の親友のボーイ・カペルと恋に落ちる。二人に嫉妬するエチエンヌ、贅沢でも退屈な上流社会の暮らし、日陰の身のココ。帽子のデザインを始め、やがて屋敷を出てボーイの援助で店を出し…、デザイナーとして階段を駆け上がっていく。

 <シャネルと言うと>、高価なシャネルスーツに代表される、上流階級に愛されるコンサバ服を想像しがちだけれど、出発点はむしろ前衛。コルセットに締め付けられた装飾的なドレスを着て、女性は男性の飾り物だった時代に、ジャージ等男性の衣料素材を女性の服に取り入れ、動きやすく活動的にして、女性の社会進出に人肌抜くような画期的なものだった。もちろんこんな事は、題名に惹かれてみる女性達なら常識。香水やボーダー模様のTシャツ等、もっと詳しいことも知っているだろう。そんな視点、生み出す服に重心を置いているのは、シャネルの全面協力を得た「ココ・アヴァン・シャネル」のほうだ。史実に近く当時の彼女の環境と色々な服が登場する。若い方ならこちらが楽しいかもしれない。

「ココ・アヴァン・シャネル」
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(C) Haut et Court - Cine@ - Warnerbros. Ent. France et France 2 Cinema

 <残念なのは>、忠実に再現すればするほど、当時、彼女の服を初めて見た人々の衝撃からは遠ざかる事。彼女のせいで、そのほとんどが今の私たちには常識になっているから、衝撃よりは単にモードの流れを確認する作業になってしまう。う~ん、こんな作品の難しいところだ。何だか古さが目立って、しかも別の時代になるほど古くもない。この映画で挽回を狙うシャネルの販売戦略は成功なのかどうか…。
 <生涯を「アメリ」で有名なオドレイ・トトウが>演じて、コケティッシュさが際立ちあまやかでもあった。階段を駆け上がっていくシャネル、それでも恋にも翻弄される一人の女、其方に重心がある。ただ、最後まで彼女自身、つまりオドレイに見えて、シャネルを感じるには至らない。スーツの着こなしは貫禄が足りないなあ。あれほどの存在感を持つ人を超えるのは難しいと其方に目が行った。

 <シャネルは小柄で色の黒い人だったらしい> そんな点ではオドレイ版に分配が上がり、1954年当時のシャネルを大柄なシャーリー・マクレーン、若き日をバルボラ・ボブローヴァと二人で演じ分ける「ココ・シャネル」は似ていないのかもしれない。でもマクレーンが圧倒的な存在感でシャネルスーツを着こなす様は圧巻だ。若いモデル達とは貫禄が違って、こんな人の為のスーツなのだと改めて気付かされる。マクレーンには似ていないけれど、バルボラも良くて、姿形では無いからだの奥からの力を感じた。

「ココ・シャネル」
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(C) 2008 ALCHEMY / PIX ALL RIGHTS RESERVED.

 <構成は、一度引退していたのに戦後再起を図る>さまを主体に、若い頃を回想の形で入れていく。華やかなシャネルのファッションを期待してみると、精神性に重心を置いたこちらは肩透かしを食うかもしれない。つまりデザイナーを彼女の作ったものからではなく、その精神性から解き明かそうとしているのだ。
 <コレクションの発表前に>お金が無くてマネージャーと揉める様、それを無視して、直前までもくもくとショーの準備をするココ。ショーの不評、それでも諦められないココ。このあたり、マクレーンの背中に滲む孤独、時代を追いかける仕事の過酷さが痛ましい。ココの強さと孤独が良く現れている。マクレーン版は凄みが勝って甘さがたりないようにも思うが、ビジネス的に見ると男勝りのこんな姿だったはず。帝国を支えるのにか細くてやっていけるわけがない。…なんて書き方からお解かりのように、私はどちらかと言うなら此方の方が好きだ。

 こうして書いていると、同じ題材でも切り口の違いが際立った。ちなみに「ココ・シャネル」は英語で演じられ、「ココ・アヴァン・シャネル」はフランス語だ。せっかくの競作、観比べを楽しみたい。(犬塚芳美)

「ココ・シャネル」は梅田ガーデンシネマ、OSシネマズミント神戸、
           京都シネマ等で上映中
「ココ・アヴァン・シャネル」は、9月19日(土)より梅田ピカデリー、
           なんばパークスシネマ、MOVIX京都等で上映

映写室 「BSURA(バスーラ)」四宮浩監督インタビュー

映写室 「BSURA(バスーラ)」四宮浩監督インタビュー
   ―「巨大なゴミ捨て場」僕は、ここで生きている―

 フィリピンと言うと、真っ先に思い浮かぶのは「スモーキーマウンテン」。マニラ市内のありとあらゆるゴミが運び込まれるこの地には、ガラス瓶、アルミ、鉄等、再生できる資源を拾って生活する人々が大勢住んでいた。閉鎖されたけれど、場所を移しても多くの人が今もそんな仕事を続けている。89年にこの地を訪れて以来「忘れられた子供たち スカベンジャー」、「神の子たち」と、痛ましい現実の中でも輝き続ける子供の生を記録し続ける四宮浩監督が、その後の家族を追ったのが新作「BSURA(バスーラ)」です。作品の背景等を伺いました。

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(8月末大阪にて)

―この作品は高校生以下の鑑賞が無料だそうですが、又どうして?
四宮浩監督(以下敬称略):凄まじい社会を何とかしないといけません。でもここを舞台にした1作目を撮った時すでに、この国を変えるには内側からでは無理だと気付きました。外部からの力が必要だと。日本の若い人にその力になって欲しいと思うんです。たいていの映画は見たらそれで終わりだけれど、この作品はそうしないで欲しい。日本の政府等が100年単位で土地を借り上げるとかして、整備して産業をおこす事も出来る。高校生ならこれから時間があります。見て、考えて、政府への発言とか、自分に何が出来るかを探って欲しい。その為にも若い人に一人でも多く見て欲しいんです。若い人は携帯代に沢山お金を使う。残念ながら、ドキュメンタリーにはお金を払ってまで来てくれませんから。日本にいてもやれる事は沢山あります。そんな志を、一本の蝋燭を点して繋いでいきたい。大人は子供の為に生きるのが普通なのに、今、大人が自分の為に生きている。未来のある子供を大事にして欲しいんですよ。

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―単に可哀相とだけで見て欲しくないと。
四宮:ええ、貧しいから可哀想ではなく、貧しいからこそ情も深くなる。若い人に何が生きることなのか、自分に何が出来るかを考えて欲しいんです。最初から大きな事を考えなくても、自分の家族も含めて身の回りの事からやっていくのでも良いんですから。
―映画にも映りましたが、監督自身がそういう思いから、スラムの人々への贈り物とか色々な支援活動をされているのですね。
四宮:僕が中心になってやっているんではありません。慶応の学生が中心になってやっているんです。他にも立命館の学生とか、色々なところから大勢ボランティアが入っています。スモーキーマウンテンの近くの新しいゴミ捨て場の、ゴミ拾いとか掃除をしたりしていますよ。偉いなあと思います。

―日本の若者は生きがいを探していますからね。
四宮:ここを始めて見た時、自分の想像する地獄はこれかなあと思いました。匂いは凄いし蝿の数も口を開けたら入ってくるほどで尋常じゃあない。堪ったもんじゃあありません。でも、少女が近づいてくるからお金をくれと言われると思ったら、「こんにちは」といってくれて目が覚めました。他から見たら地獄でも皆の気持ちが荒んでいるわけじゃあない。ここに安らぎを求めて住んでいる人たちもいるんです。
―どうしても既成概念で見てしまいがちです。
四宮:皆家族思いでね。まだ自分が保護されるべき年齢の子が、弟、妹、父母のことを考える。自分の命がなくなっても良いから父さんの命を救いたいと言うんですよ。ここの子供たちは死が身近なんです。大体4,5人兄弟がいるんだけれど、2,3人が死んでいますから。でも死が近いからこそ生を考える。食べる物だってろくにないし、学校に行けない子も多い。だからこそ、死なないで生きているから幸せ、今日食べるものがあるから幸せ、学校へ行けるから幸せと、些細なことに感謝できる。素晴らしいですよ。

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―私たちが鈍感になっている部分に敏感なんですね。それにしても大変な環境、撮影の苦労がしのばれます。
四宮:撮影するならここに住もうと思って、最初、僕もゴミ捨て場に住んだんです。慣れって凄くて、あんなに凄まじくても匂いは2,3日で消えたけれど、体がおかしくなって限界を超えた。もう止めようと思ったけれど、ちょうどその頃あった「ホワイトバンド」運動を見て、日本にいても自分で出来ることがあるかもと思い直したんです。それと、89年の撮影で雇った現地のスタッフに、後に僕の妻になる人がいて、フィリピンとのかかわりが出来ました。愛の力は大きいです。彼女に関わったのが全ての始まりでしたね。
―監督と奥様では彼らを見る視点が違いますか。
四宮:違いますね。映像にもありましたが、人間の手だとか足だとかまで、ここは何でも運ばれてくる。ゴミの中に肉が入っていたら、皆喜んで拾って食べるようなところです。当然国内でも外の住人からは差別されている。彼女はそんなフィリピン人の視点で見るし、僕は日本人の視点で見ます。

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―そもそも、どうしてフィリピンと言うとゴミ捨て場とゴミ拾いなんでしょう。
四宮:フィリピンは1997年に出来た大気汚染法で、絶対にゴミを燃やせないんです。だからゴミは全てゴミ捨て場に持ってくる。再利用できるものはそこで拾い、それを売って生活する人々が派生する。そんな仕組みがもう50年位続いているんです。何しろフィリピンの失業率は50パーセントですから、外にも仕事がない。ゴミを拾っている連中のほうが、少なくともお金を持っているから外より豊かだったりする。だからここの方が安全なんです。フィリピンは現地の誰かと一緒じゃあないと歩けません。僕も常に誰かと一緒です。しかもこういう反体制的な作品を作ると別の意味でも危ない。何をされるかと怖いですよ。体制を探ろうとしたり、批判的な報道をしたような2000人のマスコミ人が行方不明になっているような国ですから。僕もこの映画を、日本、ヨーローッパと先に外国で見せた後で現地で上映しようと思っています。
―そう言えば、アキノ氏の暗殺とか戒厳令とかありましたね。
四宮:ええ、指導者だって安心できない。元々この国は少数の富裕層が土地を独占していて、ほとんどの人は小作人。しかも一族を大事にするから、富裕層はいい仕事を代々うけつがれるけれど、閨閥がなければ大学を出てもマクドナルドの売り子になれればいいほうなんです。「スモーキーマウンテン」にいるような人は親戚もこの中だけ。未来を閉ざされているわけで、貧しさと絶望感から学校にも行かなくなる。悪循環です。長年通ってもちっとも変わりません。

―監督がフィリピンに行ったきっかけは何ですか?
四宮:僕は最初日活のピンク映画を撮ったり、電通の映画社に入ったり、アダルトビデオも撮りました。もちろんCMも撮りましたが、さて自分の作品を作ろうと思ったら日本にはテーマがなかったんです。で外国に出て行って、妻との出会いでフィリピンとのかかわりが出来たと。僕以外にもBBCがここを取材し放送して、その影響で世界中の人が「スモーキーマウンテン」を知るようになります。国辱的だと恥じた政府が閉鎖して、4ヶ月間ゴミが来なかった時は大変でした。皆食べれない。ゴミ拾いは大事な収入源、仕事なんです。住宅が供給されても、7割は新しいゴミ捨て場でゴミ拾いをして暮らしています。実はゴミのせいで水とか環境汚染も進んでいて、ガンとかの発生率が異常に高い。日々の暮しの為には大事な仕事だけれど、健康もそこねている。複雑に絡んだ問題が横たわっています。(聞き手:犬塚芳美)

<インタビュー後記:犬塚>
 今回は揺すったり踏み込んだり出来なくて、予想できる答えしか聞けず、インタビューは消化不良に終わりました。本当は映像で解る事は作品に任せて、そこに表れていない、もっと本音の部分を聞きたかったのですが…。残念! 余白については、ドキュメンタリーをご覧になる皆さんの深い洞察と想像にお任せすることにしましょう。
 さて、フィリピンと言うとマルコス独裁政権や凄まじい数の靴を所蔵していたと言うイメルダ夫人、暗殺されたアキノ氏と後を継いだ夫人のアキノ大統領、戒厳令とか、政情不安も同時に思い出します。確か民主化を求める黄色い軍団の熱狂もあったはずですが、大きな変化は起こっていない様子。全ての根底には、一部の富裕層支配による凄まじい格差社会、貧困等フィリピンの社会問題が横たわっているようです。今回も、自分がアジアの世情に疎いことを痛感しました。

      この作品は、9/12(土)から第七藝術劇場で上映、
              順次京都シネマ にて上映予定

映写室 新NO.16キャデラック・レコード

映写室 新NO.16キャデラック・レコード    
 ―ポピュラー音楽の創成期―

 踊りださないまでも体でリズムを取りながら観てしまう。ロックが誕生する以前のカントリーやブルース、ジャズが流れ、音楽好きなら見逃せない作品だ。
 <舞台はちょっと古い> 1950年代から60年代、70年代にシカゴに存在した名門のレコード会社、チェス・レコードとその周辺のアーティストたちの光と影を、実話に基づいて描いていく。そう言うとまるで業界裏話だけれど、黒人と白人に象徴される人種問題も絡まり、音楽の向うに当時の社会背景も浮かび上がるのが優れた所だ。
 <時流に翻弄される流行業界のこと>、光が強ければ影も濃い。しかも、熱狂が大きければ大きいほど、舞台前の緊張感は計り知れない。押しつぶされまいとするそれぞれの苦悩、音楽を聴きながら人生を思う作品にもなっている。

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 <1941年、ポーランド移民のレナード・チェス>は、キャデラックを乗り回すことを夢見て、シカゴの黒人街にクラブを開いた。一方、ギター1本を抱えてシカゴにやってきたのが、南部の黒人マディ・ウォーターズだ。彼の音楽に惚れ込んだレナードは、チェス・レコードを立ち上げる。黒人差別が激しい時代に、二人が一緒にキャンペーンに行くと世間は奇異な目が向けるが、レナードは意に介さない。次々と加わるミュージシャンからは白人の父と慕われる。しかし、酒にドラッグ・女と、成功した彼らに誘惑が・・・。

 <ちなみに、キャデラック・レコードとは>、超高級車キャデラックがヒットの度にレナードからプレゼントされたことに由来する。ミュージシャンの処遇にも、キャデラックに象徴される自分の夢を重ねたレナード。成功は豪快に分け合い、なんとも豪快だけれど、自身も東欧系の血を引く「戦場のピアニスト」のエイドリアン・ブロディが演じると、青年器質がそのまま続いたように軽やかで、一緒に夢見る気分にさせられた。
 <ビジネスと言いながら>、レナードは営利以上に自分の時代感覚の良さを楽しんでいたのかもしれない。時代のキャッチ力は抜群。黒人たちとの2人3脚で時代を切り開いていく昂揚感が伝わってきた。大雑把さと優しさ、軽さと憂いが同居するエイドリアンの掴み所のなさは、彼の周りのミュージシャンが感じたものかも知れず後の伏線になっている。

 <底辺から一気に頂上に上り詰め>、そして巻き込まれる波乱の人生。何で成功し、なんで下り坂になるのかを冷静に見れるのはレナードだけだ。あせればあせるほど自分が見えない。身を滅ぼす理由に個人差はあっても、その辺りが解ってなかったことだけは共通している。
持て囃されて華やかではあっても、観るほうからは計り知れない孤独の中のアーティスト達。ステージ前の緊張感、新曲を作る為の追い詰められ方、酒や薬に溺れ転がり落ちていく様が辛い。音楽に人生をかけているだけに、ステージを降りた彼らは影にから娶られてしまう。アーティストが見たら又別の物語になりそうだ。

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 <ここシカゴは>、日本の政治までを変えたオバマ大統領が、政治家としてのキャリアをスタートさせた地。ポーランド移民が差別されるくらいだから、当然黒人差別は激しい。音楽は黒人がし上がれる唯一の手段だった。「ブラック・イズ・ビューティ」ではないけれど、白人では及びもつかない彼らの魂を込めたリズムや歌詞の凄さ。体全体が音楽のようで、熱狂的なステージが当時の空気感まで映しだす。

 <これ以外に登場するのが>、よく知る所では、カントリーからロックン・ロールを生み出したチャック・ベリー、黒人だけが聴いていたソウルを白人にも広げ、数え切れないほどのスタンダードナンバーを残す歌姫エタ・ジェイムズ等々だ。当時の熱狂を再現しながらめまぐるしく変っていくステージ風景、音楽に詳しい方ならここのあたりは違った視点でも見えるはず。
 <演奏されるのは黄金期のシカゴ・ブルース>で、これ等の影響で、後のエルヴィス・プレスリーのロックンロールが誕生するのだから、ポピュラー音楽の歴史を紐解くような作品になっている。ローリング・ストーンズや、ビーチ・ボーイズのエピソードも挿入され、ポピュラー音楽の流れや歴史が見えて興味深い。

 <エタには、彼女のナンバー「アップ・ライト」を>オバマ大統領の就任祝賀パーティで感動的に披露したビヨンセが扮している。さすがの歌唱力で存在感も抜群、唄い始めると隅々まで彼女に占領される。ビヨンセと言うよりエタが乗りうつったかのようで、当時の退廃的な時代感まで纏っていた。誰もがあの時代の匂いを持っているのは、演技力なのか、配役の妙なのか、それともやっぱり流れる音楽のせいなのだろうか?

 <時代背景の描写も見事で>、コスチューム、車、インテリアと、まるでセピアのその頃に引き戻されるよう。人生も社会も、全てが厳しく重苦しかった時代のようだ。そんなすべてをはねのけようと、皆が音楽に熱狂した時代でもあったみたい。
 ・・・と、時代描写、音楽の歴史、アーティストの苦悩を、たんたんとしたレナードの視点に合わせて描いている。盛りだくさんなだけに、彼のように淡々と流せない観客には少し散漫に感じられるのが惜しい。自分の視点を決めてみるのが良いかもしれない。(犬塚芳美)

この作品は、9月12日(土)より、梅田ガーデンシネマ、京都シネマ、
                シネリーブル神戸等で上映

映写室 「TAJOMARU」小栗旬舞台挨拶レポート

映写室 「TAJOMARU」小栗旬舞台挨拶レポート
    ―始めに小栗旬ありきの企画!―

 芥川龍之介の「藪の中」を新しい解釈で蘇らせた大型時代劇「TAJOMARU」がもうすぐ公開になる。時代劇だけれど、テンポ、テーマと時代劇の枠を超えたエンターテインメントの仕上がり。惚れ惚れするような男気溢れる人間の魅了をたっぷりと描く。主役は「クローズZERO」、「クローズZEROⅡ」で人気を不動にした小栗旬。世界をまたにかけて数々のヒットを飛ばす山本又一郎プロデューサーと一緒の、舞台挨拶のレポートです。

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(8月28日、大阪にて)

 「女性が多くて嬉しいなあ」とテレで真摯さを隠す小栗旬さんと、「今日はお越しいただいてありがとうございます。僕ら作ったものにとって、試写会と言うのは本当に心配で、直前まで身の細る思いなんです。でも今日こうして沢山お出でいただき、皆さんの笑顔を拝見して、(ああ、待っていてくださったんだなあ。大丈夫だ、行ける!)と元気をもらえました。ぜひこの作品を応援して下さい」と、どこまでも真摯な姿勢のプロデューサーの挨拶で始まった。

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(C)2009「TAJOMARU」製作委員会

司会:この作品を作ろうと思ったきっかけは?
山本又一郎プロデューサー(以下敬称略):小栗君は舞台も頑張っていて、大阪でも上演したんですが、彼が主演の「カリギュラ」を見た時、舞台に溢れる俳優としてのオーラやエネルギーに圧倒されました。それをスクリーンに出せないだろうかと考えて、黒澤作品の中でも一番好きな「羅生門」を思いついたんです。三船敏郎さんとかそうそうたる方々が見事に作り上げていて、リメイクはハードルが高く、作りたいと思いながらも今まで手が出せなかったけれど、彼にぴったりなのはこの役だ、小栗旬を通して今の物語にしたいと思いました。今回は、最初に小栗旬ありきの企画だったんです。
司会:そういう風に抜擢されて、小栗さんの役作りは?
小栗旬さん(以下敬称略):僕は役作りはあまりしないんです。

司会:今回難しかったのは?
小栗:松方弘樹さんとの殺陣は、ついていくのに必死でした。
司会:でもその松方さんは、小栗さんの殺陣のリズム感が良いと誉めてらっしゃいましたよ。共演者とはいかがでしたか?
小栗:和気あいあいでした。皆と一緒で楽しかったです。
司会:小栗さんは撮影が終わっても涙が止まらなかったと伺いましたが?
小栗:僕は役を引きずるタイプではないんですが、彼を生きて悲しくなってしまって。
司会:これを演じて今までの自分と変わりましたか?
小栗:いや別に…。(ニコニコしているんだけれど、質問には短くしか答えず、司会者は「もっと話して欲しいなあ」と笑いながらリクエストし、隣の山本プロデューサーは苦笑い)

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司会:阿古姫役の柴本幸さんはいかがでしたか?
小栗:幸ちゃんは体当たりの女優さんで、いつも100パーセントで向かってくるので、演技的に受身のこちらも100パーセントで受け止めないといけず、大変でした。
司会:そんな役作りは、どんなことろから? 衣装とか手が込んでいますが。
小栗:普段は着るものなんてどうでもいいんだけれど、こんな時は大事ですね。
司会:山本さんから見て、そうして出来た多襄丸はいかがでしたか?
山本:観て頂くと解ると思いますが、してやったりです。この作品のテーマでもあるんですが、台詞にもある、(正しいことが全てでは無い)という複雑な事を、感心するほど深く表現してくれました。本人は言わないけれど、脚本をそうとう読み込んだんだと思います。若い俳優の周りを固めてくださった松方さんとか、萩原健一さん、近藤正臣さん等は皆僕の昔からの知り合いで親しく、今回協力いただけました。長年時代劇を演じてきた人たちですから、さすがに慣れていて貫禄もある。画面に重厚さが出ています。彼を始め若い俳優さんは、ベテラン陣から得るところが多かったと思いますね。

司会:一番好きなシーンは?
小栗:そうだなあ、何処かなあ…。一杯あるんですが、自分のシーンを押すのは恥ずかしいんで…。皆でやったシーンですかね。
山本:多襄丸がお白洲から立ち上がって、むんずと刀を掴んで次に立ち向かっていくシーンとかは、彼の見せる気迫に鳥肌が立ちました。激しい立ち回りもベテランを相手に頑張っているので、ぜひ見て欲しいですね。
司会:迫力満点のシーンが沢山ありますよね。最後に会場の皆さんに一言。
山本:お忙しい中、「TAJOMARU」の為にお越しいただき有難う御座います。映画が息吹くのは皆さんのお目に触れてからです。素晴しい作品に仕上がっていますので、最後の後押しを皆さんのお力でお願いいたします。
小栗:映画は皆さんがそれぞれの見方で楽しんで下さればいいけれど、あまりつまらないと思わないで見て下さると嬉しいです。

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 …と、小栗旬さんは最後までテレの仮面をはずさず、司会者と山本プロデューサーを苦笑いさせた。でも始終楽しそうな笑顔、言葉とは裏腹のこの作品への思いや満足度が伝わってくる。退場時に舞台の袖に消える間際には、体を傾け舞台に無理に残して、客席のあちこちに激しく大きく手を振る。その度に割れるような歓声と拍手。小栗流ファンサービスはちょっとひねっていた。もちろんファンはそんな彼の内面をよく理解している。努力した姿を見せるのを嫌うスタイリストぶりや、話さなくても出来たものを観てくれというこのシャイな姿が、小栗旬の人気の元でもあり、彼流男道の真骨頂のようだ。ヤンチャな笑顔が印象に残った。

 この作品は、9月12日(土)より 梅田ブルク7、なんばパークスシネマ、
                     MOVIX京都、OSシネマズミント神戸 他全国ロードショー


《「TAJOMARU」について》
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 <乱世の室町末期。名門の畠山家の>次男直光(小栗旬)は、芋泥棒を助けて桜丸と名づけ兄弟同然に過ごす。大納言の娘、阿古姫は許婚だ。大納言が亡くなると、彼が残した金塊を巡り将軍(萩原健一)が陰謀を企む。阿古姫と結婚した者が金塊と管領職を手に出来るというのだ。仲の良かった兄は、「阿古と暮らしたいだけ。他のものは要らない」と言う直光を信じられず、地位とお金が欲しくて阿古姫を無理やり犯す。阿古と逃げる直光、追う兄。さらには助けた桜丸の裏切り、盗賊多襄丸(松方弘樹)との遭遇と、運命に翻弄される直光…。

 <兄や自分が助けて兄弟同然に育った桜丸>に裏切られ、失意のどん底の直光だけれど、許婚の阿古姫の裏切りだけは、目の辺りにしながらも何かが信じられない。憎むよりも、「何故なのだ?」と問いただしたいのだった。そんな彼に惹かれ、盗賊の一味が命をかけて助ける。徐々に明らかになる真実、少しでも阿古を疑った自分を責める直光。情に厚く正義感の強かった若者が、「正義だけが正しいとは限らない」と思い知るにいたる過程が丁寧に描かれる。激しい立ち回りやアクション、躍動感に引っ張らせながらも、最後まで一人の男の心の中に照準があっているのが見事だった。時代劇で乱世の物語なのだけれど、それ以上に恋の物語なのだ。凛とした柴本幸の美しさ、小栗旬の男気が印象に残る。「GOEMON」に続いて、新しい分野からの監督が、時代劇を現代に蘇らせる術を確立したと思う。

映写室 新NO.15サブウェイ123 激突

映写室 新NO.15サブウェイ123 激突     
―1時23分発の地下鉄でNYをハイジャック―

 こんな作品を観た直後は、電車に乗るのさえ怖くなる。日本でも以前にバスジャックがあったけれど、地下鉄でハイジャックに巻き込まれるなんて災難でしかない。カメラが、事件現場・身代金の輸送・犯人の追走を追って、轟音の響くNYの地下鉄線路構内に潜り、カーチェイスを追っかけてハイウェイをぶっ飛ばし、ヘリコプターで摩天楼を俯瞰してと、縦横の視点が迫力の作品だ。
 <原作はジョン・ゴーディのベストセラー小説で>、1974年の初映画化作品「サブウェイ・パニック」を、トニー・スコット監督が時代に合わせて翻案したもの。デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタと言う演技派2人の息を詰める頭脳戦が見所だ。人間だけでなく、蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下鉄路線という、内臓までさらした巨大なNYの街も片方の主役だと思う。

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 <NY、午後2時。ベラム駅1時23分発の地下鉄>を、4人組がハイジャックした。ライダー(ジョン・トラボルタ)と名乗る男が「市長に連絡して、1時間以内に1000万ドル用意させろ。遅れたら1分毎に1人ずつ殺す」と運行司令室に連絡してくる。交渉役には最初に無線を受けたガーバー(デンゼル・ワシントン)が指名された。人質解放の交渉しながら犯人像を探るガーバー。何故市長で、何故1000万ドルなのか、何故59分なのか、自信たっぷりのライダーとはどんな男なのか…。

 <ガーバーは運転手から管理職>に上り詰めたのに、汚職疑惑で停職直前だ。そんな事情ゆえ、彼が犯人の一味ではと疑い始める警察幹部。犯人側の真意が解らず、捜査するほうも右往左往する。そんな中で、一人冷静沈着に犯人に向き合うガーバー。1秒間違えば大惨事を起こすような路線の采配は彼の日常業務、息を詰めるような修羅場も何度もくぐっているのだろう。家庭的で平凡な男のガーバーが、粘り強い交渉力を見せて、犯人だけでなく警察側や市長の心をつかんでいくあたりの描写が見事だった。

 <ガーバーは、長年実務に当たった者だけが持ち得る自信>、NYの地下鉄を誰よりも知っているという誇りをかけて解決していく。いつもより太目の体で、知性に普通人の凡庸さと穏やかさをつけ加えたデンゼル・ワシントン、コーヒーをこぼす仕草すらこの男の人となりだ。精悍さを消した外見が、余計に内面の繊細さを浮かび上がらせると言うのも面白い。

 <ライダー役のジョン・トラボルタは>まるでギャングでタフさが目立つ。凄みのある面構え、鍛え抜かれた肉体、そのくせガーバーに見せる奇妙な近親感から滲み出る人間性と、この男の凶暴性の根幹が何処にあるのか解らず、優しさすらも不気味さになる。
 <出世作「サタデー・ナイト・フィーバー」>の後はイメージの払拭に苦労したというが、今やすっかり演技派のトラボルタ。「ヘアスプレー」で女装したりと、この所芸域も広い。瞳の強さや圧倒的な存在感に、積み重ねた時間や努力がしのばれて、同世代人として誇らしかった。
 <ただこの作品のミソの>ハイジャック事件の裏側を考えると、彼はちょっとタフ過ぎる。もう少し普通の、知的でホワイトカラーの匂いのする俳優のほうが良かったのではと思ったりもするのだ。逞しい体を持つ人の怒りは、体も怒りを表現して確信的で狂気になりにくい。静かな狂気というか、類まれな頭脳の暴走というのも怖いものだ。ジョン・トラボルタとは違った怒りの表現で、ガーバーとの対決を見てみたかった。ライダーに哀れみが出て、又別の物語になるかもしれない。

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  <…と、一歩間違えば大惨事になるような>過密ダイヤの地下線路でのロケとか、ハイウェイでのロケと、監督がリアリティにこだわった映像で臨場感を掻き立てられた分だけ、そちらは自然に受け入れて、視点は二人の内面に向かっていく。俳優二人の存在感が、そんなお膳立てに負けなかったということかもしれないけれど。

 <興味深いのは彼らの抱きあう>緩やかなシンパシーの生まれどころだ。誘拐事件等でも、ヤキモキする捜査陣を尻目に、犯人と人質が心を通わせあうことがある。ぎりぎりの状態で心を探り合えば、相手の柔らかい人間性を見るということだろうか。どんな人間も奥底では共感できる人間性を持っているということかもしれないし、この二人の場合は、相手の頭脳への畏敬もあるかもしれない。描き切っていないだけに、余韻となってそんなことが気にかかる。
  <さあ、勝者は誰か>、丁寧に観ないと犯人の企みに辿り着けない。公開中の「トランスポーター3」、「3時10分、決断のとき」と共に、アクションシーンの激しい、久々に見ごたえのある大人の男性映画だ。ネット画像等、さりげなく散りばめられる現代風物がハラハラさせて、今っぽいエンターテインメントになっています。(犬塚芳美)

この作品は9月4日(土)より、梅田ブルク7、TOHOシネマズ梅田、
                  OSシネマズミント神戸等で上映

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