太秦からの映画便り

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映写室 新NO.23「パリ・オペラ座のすべて」&「アニエスの浜辺」

映写室 新NO.23「パリ・オペラ座のすべて」&「アニエスの浜辺」   
 ―フランスからのドキュメンタリー2本―
 今週は2本のドキュメンタリーです。両方ともフランス作品で、男女2人の巨匠が、これぞ芸術の世界を熟達の技で描きます。「パリ・オペラ座のすべて」は、題名どおりにパリ・オペラ座を拠点とする世界最高峰のバレエ団の練習風景と活躍を、フレデリック・ワイズマンならではの肉薄と構成力で。「アニエスの浜辺」もまた題名どおりに、アニエス・ヴェルダが浜辺を舞台に、夢と現の境界で遊ぶ自身を描いた自画像映画だ。前者が芸術と芸術家の本質に迫っていく職人技の端整さなら、後者はクリエイターならではの洒脱な世界。映画で芸術を見るか、映画で芸術するかと、ある意味対照的で、今更ながらにフランスの芸術分野の多様さに驚く。

《1.パリ・オペラ座のすべて》

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(C) Ideale Audience - Zipporah Films - France 2009 Tous droits reserves - All rights reserved

 <この作品は>、“現存する最も偉大なドキュメンタリー作家”と言われる、フレデリック・ワイズマンがパリ・オペラ座の全面協力の元、2007年の終盤84日間を密着撮影した物だ。160分の長尺に、インタビューやナレーションは一切なく、まるでオペラ座に住み着いた怪人がここで起る色々な事象を盗み見たように、人と建物を紹介していく。
 <講演で観れる舞台や私たちが見学できる所以外に>、オペラ座のお土産として人気の蜂蜜を屋上で採る所から、怪人が住んでいるという地下の水路、あるいは楽屋裏、衣装等を作る職人たち、帽子職人、食堂や掃除等の劇場スタッフ、主役のダンサーたちの練習風景と舞台、芸術監督と、文字通りオペラ座を回しているすべての人を映す。

 <映っているのは今だけれど>人物、建物のそこかしこに時代も滲んで、今から350年余り前、ルイ14世が創設したと言うこのバレエ団の歴史も浮かび上がってくる仕組みだ。ちなみにワイズマンは、過去にも「BALLETアメリカン・バレエシアターの世界」を映している、バレエを愛しバレエへの造詣の深い監督で、舞台や練習風景では、絶妙の確度から踊り子達の肢体に迫り、バレエの魅力と美しさを臨場感たっぷりに切り取っている。前作よりこちらに現代性を感じるのは、前衛作品に取り組むとか、このバレエ団が進取の器質に富んでいるからだと思う。
 <何しろこれだけを纏め上げている>芸術監督のブリジット・ルフェーブルが素敵なのだ。時代をつかみセンスがよくて美しい女性で、パリ・オペラ座と共に彼女がこの作品のもう一つの主役だけれど、ワイズマンには彼女こそが今のパリ・オペラ座と思えたのだろう。

 <ここのダンサー達は公務員らしい> 撮影の間に待遇改善のストがあったり、振付家のベジャールが亡くなったりという事件まで、淡々と日常的に映しているのは、これだけの組織、いつも綱渡りのように日常を潜り抜けて幕を開けていると言う表れだろうか。過去にトップダンサーとして活躍した振付師や、今トップのダンサー等、バレエファンならよだれの出そうな映像すら、特別なテロップもつかず日常的に流れて、誰が誰なのか解らなくなるが、そんな贅沢さこそが、パリ・オペラ座だということだろう。
 ・・・と、バレエに詳しくないのでただ圧倒されて見ほれてしまったが、詳しい方ならもっと深く見れると思う。新作から古典まで舞台風景を眺めるだけでも堪能できる作品だ。

この作品は、10月31日(土)よりテアトル梅田、
        11月14日(土)より京都シネマ、
        11月21日(土)よりシネ・リーブル神戸で上映
 
         

《2.アニエスの浜辺》

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(C) 2008 Cine Tamaris-Arte France Cinema

 <81歳になる女流監督アニエス・ヴェルダが>、子供時代を過ごしたベルギーの浜辺、疎開してきたフランス、セートの港、同じく映画監督だった夫のジャック・ドミュと渡ったアメリカの西海岸、撮影で使った砂浜、今アニエスが住むダゲール通りに2日間だけ出現した浜辺等々、人生の節目節目にあった思い出の浜辺を訪ねる。浮かび上がるのは時代の移り変わりと、今も変らないアニエスの創造力だ。時には浜辺に鏡を並べ、時には皆で白いドレスをまとい、まるで童女のように無邪気に自身のイメージを映像化する。主役はいつもアニエスで、ころころとした姿のその可愛い事、奔放な事。80歳を超えてまだ止まない想像力に圧倒された。天国でジャック・ドミュが苦笑いしているのではないだろうか。

 <ただ、これをドキュメンタリーと言って良いものかどうか>、正確には「自伝的エッセイ」が正しいかもしれない。思い出を探り紐解き、そのエッセイを書く過程がドキュメンタリーなのだ。撮影スタッフがしばしばフレームに入るのも、それの証明かも。映画を作ること、情景を作品として切り取る事、それが日常だった監督の姿が浮かび上がる。
 写真家として出発し、生涯を映画に捧げたアニエス、今も夫を愛しウイットに富み、なにより今なお前衛を目指す姿が私たちを勇気付ける。近くで見たら、きっと少し変で(?)可愛いいお婆ちゃんなのだろう。こんな風に元気に、前向きに生きれば人生は楽しいと言うお手本を示してくれた。(犬塚芳美)

この作品は、10/31(土)から第七芸術劇場、
        11/28から京都シネマ、
        12月中旬神戸アートビレッジセンター にて公開
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映写室 新NO.22「きみがぼくを見つけた日」&「アンナと過ごした4日間」

映写室 新NO.22「きみがぼくを見つけた日」&「アンナと過ごした4日間」
  ―究極の二つの愛の形―

 今週はちょっと風変わりな設定の、二つの愛の物語です。アメリカ映画の「きみがぼくを見つけた日」は、体が勝手に時空を超えてしまう男と、そんな男を愛する妻との切ない物語。ポーランド映画の「アンナと過ごした4日間」は、片思いの男のとる驚愕の行動を切なく描写。ハリウッド的な広がりのある豪華な映像と、ヨーロッパ映画らしい絵画的で重い映像という作風の違いだけでなく、時を越えて求め合う魂と一方通行のまま4日間で終わる至福の時と、愛の形や期間も対照的だ。
 <形は違っても>、それぞれに感じるのは究極の愛。当人だけでなく他者から見ても愛は切ない。あのひと時は夢か現かと、主人公と共に戸惑う。脚本の巧みさ、設定の妙と、どちらも捨てがたいけれど、2本のどちらにより惹かれるかが嗜好の分かれ目だ。


《1.きみがぼくを見つけた日》:運命に挑む恋人たちの物語 

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(C) MMVIII INTERNATIONALE SCARENA FILMPRODUKTIONSGESELLSCHAFT 2 MBH & CO. KG (tm)NEW LINE PRODUCTIONS, INC.

 <ヘンリーは幼い頃母親と一緒に>事故にあい、瞬時に過去に移動して助かった。それ以来、体が勝手に過去と未来を移動する。誰も信じてくれない秘密を抱え、孤独なヘンリー。ある日過去に帰った所を6歳の少女に見つかる。「未来から来た」という言葉を信じる少女は、何度も会ううちにヘンリーに恋心を。やがて妙齢の2人が同じ時空で出会って・・・。

 <こうして2人は運命的に結ばれる> 息を潜めて生きていたヘンリーは、自分をそのまま受け入れてくれるクレアの出現でやっと自分を晒せるし、クレアにしても自分と同じ時空でのヘンリーの出現は、幼い時から彼を待ち続けた自分の半生の肯定だった。
 <父親は娘を称して>「現実に対応する逞しさがない」と言う。意味深な言葉だけれど、クレアの凄さは、現実をそのまま受け止める逞しさではなく、現実を夢見る事で乗り越える逞しさだ。ヘンリーの特異性に悩まず、何処までも真っ直ぐなクレアの愛が色々な事を可能にする。根無し草のように時をさ迷っていたヘンリーは、クレアの出現でやっと居場所を見つけ、人並みの幸せを手に入れた。でもクレアはもっと上の、子供を持つという人並みの幸せも欲しい。

 <考えてみると、クレアにとって確かなのは>ヘンリーの心と愛だけ。体はまるで不確かで、結婚式等の大事な時でさえ、予告もなく別の時空に行く。それに若い彼が現れたり、数年後の彼が現れたりと、本物がどれかすら解らなくなる。しかも、行ったら最後、何時還ってくるかも解らないのだ。愛しながらも取り残されて不安と孤独に耐えるクレア、せめて2人が体を重ねた証の子供が欲しいと考えたとしてもおかしくはない。一方家庭を持ったからこそ、自分の特異性に苛立つヘンリー、ここにも男女のすれ違いがあった。

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(C) MMVIII INTERNATIONALE SCARENA FILMPRODUKTIONSGESELLSCHAFT 2 MBH & CO. KG (tm)NEW LINE PRODUCTIONS, INC.

 <時の旅人が主人公だけに>、物語の舞台は何処も時の流れ、風を感じさせる。矛盾もある物語がすんなり納得できるのは、そんな空気感を切り取るカメラワークと、全てを信じるクレアに視点を重ねるせいだ。クレアは「きみに読む物語」で輝くような美しさを見せたレイチェル・マクアダムス、ヘンリーには「ミュンヘン」のエリック・バナが扮する。行きつ戻りつ、年齢はばらばらでも、時系列に沿った2人の愛の進化は止らない。それを手がかりに見るのも方法だ。

 <他の作品であまりに別れを悲しむから>、時間軸の加わった4次元の世界では、死の意味が違ってくると思っていたら、早速こんな物語に遭遇した。この作品ラストが素晴らしい。スクリーンの中の風に吹かれれば、一瞬だけれど私たちも時の旅人になれる。ブラッド・ピットが制作も務める不思議な物語を堪能あれ!(犬塚芳美)

この作品は、10月24日(土)から
      梅田ブルク7、なんばパークスシネマ、アポロシネマ8、
      MOVIX京都、MOVIX六甲、109シネマズHAT神戸
      OSシネマズミント神戸 ほか 全国ロードショー


■日本語オフィシャルサイト
       http://www.kimi-boku.jp
ワーナー・ブラザース映画オフィシャルサイト
       http://www.warnerbros.jp


《2.アンナと過ごした4日間》:孤独な男の愛は現実か妄想か

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(C) Alfama Films, Skopia Films

 <病院の火葬場で働くレオンは>、年老いた祖母と二人暮し。夜になると双眼鏡で看護婦のアンナの部屋を覗くのが日課だ。病院をリストラされ祖母も死ぬと、大胆な行動に出る。アンナの部屋に忍び込みお茶に睡眠薬を入れて、最初の夜はアンナの服のボタンをつけ、次の夜は床を拭き、ぺティキュアをぬる。3日目のアンナの誕生日には、盛装して花束と指輪を届けた。ところが4日目警察に見つかる。レオンの思いはアンナに届くのか・・・。

 <監督はこれが17年ぶりの新作となる>、ポーランドの映像作家イエジー・スコリモフスキー。どうも私は、ポーランドという言葉に弱い。ナチスや厳しい自然を思い出し、それらを潜り抜けた端正さを思い浮かべるようだ。この作品でも、シアンに振ったトーンや物音一つしないような空気感が、ポーランドの重苦しさを伝える。
 <詩人で画家でもあるスコリモフスキーらしく>、動画なのに場面場面が完璧な構図で、まるで絵画のように計算されつくした映像。静的な空気感が漂い、それが静謐さにも繋がる。川を流れる牛の死体、突然の激しい雨、覗き見、特異な主人公の職業、全てが暗示的で、監督の内的世界を映像化した風情。ストーリー以上に映像が物語る。

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(C) Alfama Films, Skopia Films

 <遺体の切断された足を眺めるとか>、レオンの職業からして重苦しいが、レオンは人というより牛のように鈍重だ。愛すらも鈍重で、同じような体形のアンナに独りよがりの偏狂的な愛を注ぐ。人との交流がなく、接し方を知らない男。彼のそんな性格を作った悲しい過去については、注意深く映画を見ると解る。そのアンナは、彼の愛を愛と受け止めたのか? あまりに哀れな結末も映画を見ていただこう。人を愛するのは難しい。人からの愛を受け入れるのも難しい。恋愛というのは両者のそれが一致した、まさに奇跡的な結びつきなのだ。

 <この作品は、ニューヨークの新聞に小さく>載った日本で起こった事件にヒントを得たという。ここに生々しさや日本的な湿り気を加えたらちょっと辛い。現実とはちょっと距離感のあるスコリモフスキーの映像だからこそ、平静に見られるような気がする。それがアートの視点、3面記事を藝術に昇華させる力技だと思う。
 余談だけれど、レオンが動かない祖母に呼びかけるポーランド語の「バッチャ、バッチャ!」という言葉で、(ん、これって日本語?)と不思議な感覚を持った。(犬塚芳美)

この作品は10月31日(土)より、第七藝術劇場で上映
       11月14日(土)より、京都みなみ会館、
       12月5日(土)より、シネ・リーブル神戸で上映予定

映写室 新NO.21「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」&「パンドラの匣」

映写室 新NO.21「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」&「パンドラの匣」      
 ―太宰治生誕100年に送る、映画化作品2本―

 2009年は、太宰治の生誕100年に当る。この後も「斜陽」、「人間失格」と太宰文学を原作とする映画の公開が控えているが、まずは対照的なこの2本だ。対照的といっても、ちょっと気取った言葉のやり取りと、そこから生れる間合いの美しさは共通している。太宰に重なる男の魅力と、女にもてたと言う作家の視点で描く女性たちのたおやかな美しさもそうだ。鮮やかな映像が私の中で時々セピアに揺らぐ。終戦前後の世相を濃密に描きながら、どちらの作品の人物像にも今を感じるのは、監督の工夫と共に太宰文学の普遍性だと思う。映画の魅力だけでなく、底流を流れる夭逝作家の魅力にも惹かれる。久しぶりに太宰を読みたくなった。この秋、文芸の世界にいざなう2本です。


《1.ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~》
―円熟期の監督と熟達のスタッフの手で、正統的日本映画に―


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(C) 2009 フジテレビジョン パパドゥ 新潮社 日本映画衛星放送

 <小説家の大谷は>、才能に恵まれながら酒に溺れ、借金、愛人と自堕落で、いつも死の誘惑にかられている。妻の左知は、そんな夫の帰りをあばら屋で坊やと共に待っていた。夫の借金の尻拭いに飲み屋で働き始めると、その美しさが皆の注目の的。若い工員や昔の恋人の弁護士が心を寄せる。生き生きと美しくなる妻に嫉妬する大谷…。

 <短編の「ヴィヨンの妻」に>幾つか他の短編のエピソードを加えて膨らませている。舞台は終戦直後。復興の兆しで、貧しい中にも町が活気付き始めた頃だ。天才と持て囃されながら人生や作品に鬱々とした思いを抱えて、自堕落に暮らす作家。悩むと酒に逃げ、極貧は深まるばかりだ。裏切られてもほっとかれても夫を支える妻は、何処に惹かれているのか、何故寄り添い続けられるのかを、色々なエピソードを重ねて問いかけていく。お互いに敬語を使い合うという、原作の世界観のままの台詞が不思議なテンポを宿して、この2人の静謐な精神世界を映すのがミソだ。貧しさが精神にまでは及ばない作家とその妻、だから余計に極貧が際立つのだけれど。

 <作者の太宰に重なる大谷には浅野忠信が>、左知には松たか子が扮して、男と女の部分を残した匂やかな夫婦の情感を見せていく。夫婦だけれど男と女、男と女だけれど結びつきは精神性というこの夫婦の特異さを、扮する二人が納得させる。しっくりと馴染み、精神性と日常性の両方を漂わせる二人の着物姿が素敵なのだ。主演作が続く浅野にとっても、滲む苦悩と男の甘え、色っぽさで、久しぶりに初期の頃の魅力を垣間見た。もてる妻に嫉妬して苦しむ風情など、生きる苦悩より深そうではないか。程のよい崩した着物姿が、何しろ魅力的なのだ。

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(C) 2009 フジテレビジョン パパドゥ 新潮社 日本映画衛星放送

 <意外な事にこれが大作初主演という松も>、あばら家に寝巻きで登場したシーンの存在感だけで、もう観客をこの物語に取り込んでいく。しどけない襦袢姿にすら気品を残し、左知という不思議な存在を自分に引き付けて、一皮向けたように女優としての香りを漂わせている。そそくさと着た粗末な着物が体に馴染んで程よく粋な事、まさにこの時代の清貧の妻だ。それに仕草が美しく、奥の部屋から寝巻きの襟元をかき合せて出てくる様、重そうな背中の坊やを気遣う風情と、これじゃあ誰だってほおって置かない。粗末ななりを恥じながらも居直ったようにも見えるのは、この妻の大らかさや暢気さにも通じる。
 <…と、時代の空気感を漂わす浅野と松の着物姿の素晴らしさ>で、物語の世界に取り込まれた。

 <まるで妻を試すように次々と苦行を強いる夫>、何処か暢気にそれを受け流し、夫を許す妻。愛人と心中未遂を繰り返す夫にしても、生きるとしたら妻の傍らでしかない。壊れそうな二人に見えて、壊そうにも壊れないのはそれぞれを恋う相手が味わう敗北感で解る。留置所の鉄格子越しに、始めて意志的な目を向け夫の不実を詰る妻。夫婦としての最後の絆を問う言葉の重さ。こんな日々が彼女を自立させても行く。紅を引き覚悟を決めて訪れた弁護士の元から帰った左知は、明らかに変っていた。

 <魂の深いところ、お互いの静謐さで結びついた>2人は、この後も皆をハラハラさせながらこんな暮らしを重ねていくのだろう。この後だって左知に平穏があるとは思えないけれど、それも仕方がない。二人は運命の結びつき、左知は彼を愛しているのだから。「私たちは生きているだけでいいのよ」と夫の隣で呟いた、タンポポのような陽だまりの温かさで、夫を包んでいくのだろう。監督はそんな左知をいとおしむ様に、松たか子を全編匂やかに美しく撮っている。
 <ラストシーンの二人が並んだ映像は>、この夫婦の今の関係性だ。全てを引き受ける覚悟を決めてさっぱりと意志的な瞳の妻の横で、夫はそれしか方法が無いかのように、まだいじいじと妻に甘えている。視線は交えなくても、それでも二人同じ場所に並んで立っているのだ。
 <大らかで清々しく、悲しいまでの愛の物語>だと思う。才能に惹かれるのは怖い。才能と裏腹の破滅の精神も引き受けることになるのだと思い知らされた。

 <室井滋・伊武雅刀・妻夫木聡・広末涼子・堤真一>といった、それぞれが主役級の共演者を、個性を際立たせながらあくまで脇に留めて、まとめ切った配役の妙。そんな演出の冴えをモントリオール映画祭で評価された根岸吉太郎監督だけでなく、主演二人にとってもメモリアルな作品になるだろう。(犬塚芳美)

  この作品は、TOHOシネマズ梅田、TOHOシネマズ二条等で上映中


《2.パンドラの匣》
 ―若い才能が結集した実験的な作品―



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(C) 2009「パンドラの匣」製作委員会

 <利助は戦争中は吐血を隠していたが、玉音放送を聴き>、こうなったら「新しい男」に生まれ変わり生きようと、山の中の健康道場に入った。ここでは患者は塾生、看護婦は助手と呼ばれる。助手は塾生に「がんばれよ」と声をかけ、塾生は「よしきた」と応えるのが決まりだ。皆があだ名で呼び合い、利助は「ひばり」と名付けられる。詩人のつくしが直って退所後、新しい助手として美しい大人の竹さんがやってきた。

 <…と荒筋を書いても何だか解かりにくいが>、道場のベッドが並んだ部屋がメインの物語は、舞台劇のように進む。変な規則で一杯の日常はどこかユーモラスで、そこで行われるのは治療というより精神鍛錬のようだ。道場はある種のユートピア、死が近くにありながら、この作品はユーモラスで明るい。まな板の上の鯉というか、誰もがじたばたせず、観念したように不思議な規則と治療を受け入れている。おじいちゃんまでが少年のように素直だ。そんな日常や、自意識過剰なひばりに個性豊かな道場の仲間や若い娘たちが絡み、死への恐怖の隣の甘酸っぱい感情と、心の揺れが描かれる。
 <「ヴィヨンの妻」がやるせない大人の愛の物語>なら、こちらは気恥ずかしさも含んだ青春物語。愛の手前の憧れや初恋の物語だ。太宰の原作だけれど、太宰のオリジナルではなく、「斜陽」のように他の人の日記が元になっている。

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(C) 2009「パンドラの匣」製作委員会

 <ひばりに扮するのは染谷将太>、つくしに窪塚洋介、竹さんには、芥川賞作家の川上未映子、他にもふかわりょう、ミッキー・カーチス等々の意表を突いた配役の妙も見所だ。
川上未映子のどうどうとした女優ぶりが見事で、存在感たっぷりに塾生だけでなく私たちの心もかき乱す。俳優が本職でない人の不思議な間合い、映画初出演の人たちの新鮮さ、下手という意味ではなく自意識の事だけれど、ちょっと学芸会的でもあるリズムを楽しみたい。
 <廃校を利用したという舞台のような>塾生達の部屋、時代考証と無視の仕方、独特の世界だ。白い洋装が可愛い助手の服装に顕著な衣装も、正確な時代考証というより独自の世界を作って、この世界を時代不祥のユートピアにするのに一役かっている。

 <時々音楽がぷつんと意図的に切られたり>、恐ろしく無音になるが、この作品は今時珍しいアフレコ(音声が同時録音ではない)なのだという。昔の大映作品を目指したという富永昌敬監督の企みはいたるところにあり、ニュアンスとしては優しくても、この作品志は随分とんがっている。それがひばりの自意識過剰な世界を感じさせて、まずは文芸作品を撮りたかったという監督の目論見どおり。セピアに霞んだ夢の中のような時間だった。(犬塚芳美)

    この作品は、10月17日(土)より、テアトル梅田で上映
            10月24日(土)より京都シネマ、
            12月シネリーブル神戸で上映予定

映写室 「USB」奥秀太郎監督インタビュー(後編)

映写室 「USB」奥秀太郎監督インタビュー(後編)   
 ―「愛の進化論。」とは?―

<昨日の続き>

―お二人ともお出になるだけで映像に物語を感じるというか、独特の存在感がありますものね。どんな役もこなす桃井さんは今回普通の母親、日常性との繋ぎ役でした。
奥:普段奇抜な役をやることの多い方なんで、逆に母親をやったら面白いかなと。
―その母親は息子の事をどこまで解っているのでしょう。監督の設定では?
奥:僕の中では、ある程度のことまでは解かっていて許している設定です。ただ、母親が思っている以上のことを息子はやっていますよね。母親はさすがに人を殺しているとまでは思わないけれど、色々な事をやっているんだろうなあと感じながら、気がつかない振りをしていると。母と子ってそんなところがあるじゃあないですか。感じてはいるんだけれど、口に出せない。子供として庇護し、心配しながら見逃しているというか…。

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©2009 NEGA Co. All rights reserved.

―それにしては26歳。庇護が長過ぎる。
奥:そう、26歳! 長過ぎるんです。それが今っぽいんじゃあないかと。今、ニートとかフリーターとか言って、学生でも会社員でもなく、しかも何時までも実家暮らしの人が多いですよね。一世代前の人の若い頃70年代なら、工場で働いて30万円貰う事に誰も疑問を持たなかった。でも今は、コンビニでバイトして15万円貰える時代で、会社員でなくてもバイトで良いじゃあないかと皆が思い始めている。今の若者は工場で働かなくても良いと気付いた世代です。これを作った一昨年から去年の頃は特に、こんなに不況でもなかったので、普通に暮らせば餓死するのが難しい社会だった。実家にいたりしたら、それだけで楽勝です。大人からは何やってると思われるけど、それも平気で、ちゃんとした仕事をしたいと思わないし、しなくても暮らしていける彼らには、する理由がない。社会人になり切れず、ならない人をテーマにした映画を作りたいと思ったんです。そんな事が可能な時代だと思うんですよ。ただ、それでも鬱積していると。全部ではないけれど、主人公の心情に僕自身が重なる所もあります。医学部の受験とか司法試験とか、落ちても落ちても長い間挑戦する人もいますよね。まあ、そんな風にして結局受かる人もいるから、なんとも言えませんが。

―ええ。ただこの主人公の場合には勉強していないし、受かろうという意志は感じません。
奥:まあ感じられませんね。
―若い人が何を考えているのか解からないとよく言われますが、これってそんな感じですか? 絶望感に支配されているとか?
奥:絶望感といっても、親の世代の絶望感とは違います。
―ええ、感覚としては解ります。主人公と同年代の鈴木さんはどう思われますか?
鈴木雄大さん(以下敬称略:同席していた出演者兼製作):若者は若者で大人は解かってくれないとも言うけれど、祐一郎に限っては解ってくれないという悩みはないのではと思います。解ってもらおうと思ってないというか。意志がなさそうである人だなあと思いました。僕個人としては共感できる人ではありませんが。

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奥:明確な意志はある人ですよ。彼の事について桃井さんと少し話をしたんです。桃井さんは祐一郎の感じが解かる、今っぽい子ねと言われて、だから母親役の私は普通に演技すれば良いのよねと言っていました。そのとおりに演じて下さったと思います。
―確かに桃井さんのあの母親にならこんな息子がいそうですね。
鈴木:ええ。桃井さんが今までやった親子の中で、渡辺さんの祐一郎が一番息子っぽいと言っていました。
―桃井さんをはじめ実力派の個性的な方々が揃いましたが、ベテランを指揮するご苦労はなかったですか?
奥:皆さんに対してやりにくいとかそんなことは全くなかったです。逆に色々助けて下さり、相談にのって下さいました。本当の意味で素晴らしかったのは桃井さん、野田さんです。撮影はのべ20日間ですが、お忙しい方々のオフを狙って撮影スケジュールを組むので、撮り終わるまで半年ほどかかりました。
鈴木:渡辺さんは最後のほうでグロッキーというか、かなり参っていました。主人公でその間ずっとですから、あの役を引きずると精神的にきついですよね。
奥:少なくとも爽快感のある役ではありませんから。

―そばで撮影をご覧になって奥監督の仕事振りはいかがでしたか?
鈴木:この作品のオーディションで初めて奥さんと出会いましたが、ずっと近くで見続け、肝心な時に頼れる人だなあと思いました。状況も不安定な中での撮影、自分のやりたい事がちゃんと解っていないと出来ません。それをやり遂げたのは凄いと思います。貴重な経験が出来ました。
奥:僕は舞台の映像をよく撮るけれど、其方は当然ながら舞台の監督の意向に合わせます。仕事だからそれは仕方が無い。自分の言いたい事は映画で表現しています。だから映画作りは止められません。

―ええ。ところで「USB」という個性的な題名は、何時考えられたんですか。
奥:最初は「桜の木の下に」と思っていたんですが、現代的なメディアのイメージに近づけたくて、その頭文字と次に考えたUSBメモリーをかけたんです。USBメモリーは映像でも出てきますし、中に何が入っているのか解らない。でも大切な何かがはいっているかも解らないというところがイメージ的に合うなと。
―USBメモリーを首にかけたレントゲン室のシーンは衝撃的ですよね。それに続いて、今度は恋人も一緒のレントゲン室のシーン、彼女の肩を抱いた祐一郎の指の意志的な事。軽く置いたはずの渡辺さんの繊細な指にゆるぎないものを感じて、今もって残像になっています。それまで投げやりだった彼に始めて強い意志を見ました。「もう1枚!」、「もう1枚!」と続く途中で息苦しくなり、「解ったからもう止めて!」と叫びたい位で。あのシーンは最初から決めていたんですか?
奥:ええ。あそこへ持っていくために途中を作ったようなものです。最初と最後があってその間を埋めていくのがストーリー作りですから。

―ところで、あの衝撃的なラストがどうして「愛の進化論。」なのでしょう?
奥:テロ的にああいう行為をとることで、障害のある子供が生まれる可能性は高まるわけです。それでも自分は引き受けると言う祐一郎の意志ですよね。今の時代を生き抜いていくある種の覚悟と取ってもらってもいいかなあと。ニートだったり派遣だったりと自分の事で精一杯で、カップルは生きにくい世の中になっています。しかも環境汚染が進んでどんな障害を持った子供が生まれるのか解からない。そんな事が原因で壊れる夫婦関係も多いわけです。今はそんな事を乗り越える力を要求される時代だと思っています。内容的には愛は進化してないけれど、カップルの新しい絆を提案したかった。逆に言うと、「気安く愛を語るなよ!」という意味でもあります。

―祐一郎は彼女を愛しているんでしょうか? 彼女への冷たさが骨身に応えました。彼と彼女の心のすれ違い、誰かの体験談をそのまま映したようです。
奥:皆で相談しながら作っていったので、誰かのそういうアドバイスが反映されたかもしれません。ただ、祐一郎に彼女への愛が無いわけではない。口では山のように愛していると言い、実際に愛しているように見せながら、致命的な局面、肝心な時には愛していない事が露見する人もいます。祐一郎は日常的に優しくは無いけれど、子供が出来たと言われたら、堕せとは言わない。開き直りの行為ではあるけれど、障害を持った子供が生まれる可能性まで引き受けるという覚悟、彼が義務感としてそれを持っていることを見せたかったんです。こういうスタートを取ったことが、彼の愛の進化論かなと思います。
―うーん、義務感かあ。彼の愛はあまりにテロ的です。彼女の健気さが痛々しくて。
奥:確かに、だったらもっと普通に優しくしろよとなりますが。

―ゆっくりお話を伺って少し解明できましたが、奥監督の作品は一般的に難しいと言われます。その点はどうでしょう?
奥:どうなんでしょうねえ。難しいと言いたがる人がいるんですよ。この作品はそんなに難しいわけではない。
―ええ、確かに。若い監督が時々、答えを与え過ぎずに、考えさせる事で観客を映画の世界に取り込みたいと言われますが、そんなところもありますか?
奥:僕は考えて欲しいと思うほうではありません。言いたいことはより解かりやすく伝えたいとは思っています。ただ同時に、扱うテーマとして、ものすごく解かりやすい解決策、人と同じ結末を取りたくないとも思います。言いたい事は明確に言いたいけれど、導くのは言葉に出来るありきたりの結論ではないと。それを解かりたくなくて、シャットダウンする人もいる。まあ、しょうがないですね。

―最後になりますが、監督からこの映画のここを観て欲しいというメッセージをお願いいたします。
奥:環境汚染が人類に及ぼす影響への危機感はずっと持っていました。この作品はそんな点とそんな時代を生き抜く愛がテーマになっています。これを観て、その人が何かしら自分でもやりたいなあと思ってもらえたら、僕にとってはそれが一番嬉しい。もやもやした気分になるだろうけれど、たまにはそんな映画もいいでしょう。そのもやもやが何なのかを、皆で考えて欲しいと思います。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記:犬塚>  
 <ちょっとひりひりした空気観>、可能性と共に若い危うさの漂う作品です。作品全体のトーン、出演者、暴力的な物語等々から、クリエイティブな刺激を受けました。それが何より嬉しい。もうお気付きのように、私は舞台で言ったら小劇場系のこの手の作品から触発されることが多く、好きと言うか妙に気になる。表現しにくい微妙なところを、言葉を探りながら丁寧に応えて下さった監督に感激しました。
 <先行した東京上映では>、奥監督の今までの作品以上に若い観客が多かったそうです。桃井世代としては、若い人だけでなく大人世代にも、あの頃の自分たちに繋がる今の若者の鬱積した思いを、この作品で体感して欲しいと思いました。
 <物語の後半部分>、川崎の和光での撮影は、化学臭のする工場群の中でむせながら、撮影が終わると逃げるようにロケバスに入るという苦行だったとか。日本人はほとんどいないという現場作業、イチゴのような甘い香りというのはベンゼン化合物に間違いなく、その薬品が何に使われるのかというと、たいていは防腐剤だったり着色剤だったりの食品添加物なのですが…。テロ的に示された現代は決して架空ではなく、私たちに見えている社会のサブストーリーなのかもしれません。
 

  この作品は10月10日(土)より第七藝術劇場で上映
         公開初日(14:30)に奥秀太郎監督の舞台挨拶があります

映写室 「USB」奥秀太郎監督インタビュー(前編)

映写室 「USB」奥秀太郎監督インタビュー(前編)    

―愛の進化論。―

 一時ニュース映像に頻繁に流れた奇形のタンポポは、どうしてああなったのだろう? 以前に核燃料の再処理過程で臨界事故を起こした町は、今どうなっているのだろう? 一見平和そうな町の、見えないところで進んでいく環境破壊。放射能や化学物質という文明が生んだ異物は、遺伝子レベルで猛威を振るっている。地球に未来はあるのか? 私たちの、恋人達の未来は? そんな明日の見えない現代社会に、日本映画界の異端児と呼ばれた監督が、「愛の進化論。」を投げかけます。舞台映像を多く手がける奥秀太郎監督に、この作品の誕生秘話や多彩な出演者等について伺いました。

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(9月25日、大阪にて)

<その前に「USB」とは、こんなお話>
 祐一郎26歳が住むのは、数年前に原子力発電所の臨界事故のあった町だ。開業医だった父の後を継ごうと、医学部を目指してもう5年目。自堕落な生活から借金がかさみ、やくざの脅しで予備校で覚せい剤を売ったりする。母親は毎日弁当を作って送り出し、予恋人からは子供が出来たと告げられた。100万円に吊られて大量に放射能を浴びる臨床実験に挑むと…。
   出演:祐一郎(渡辺一志)、その母(桃井かおり)、末期癌の映画監督(野田秀樹)、
      やくざ(大杉連)、医師(大森南朋)、等


<奥秀太郎監督インタビュー>
―祐一郎役の渡辺一志さんがとても印象的です。監督の前作「カインの末裔」でも主役を演じられていますね。キャスティングのきっかけは?
奥秀太郎監督(以下敬称略):渡辺さんは監督でもあるんです。彼の撮った「19」と僕の「壊音 ―KAI-ON」が同じ配給会社で、しかも同じ映画館でかかったりして、イベントで知り合ったのがそもそもの始まりでした。年令は彼のほうが1つ下だけれど、彼は僕の映画の先生のようなもの。僕は最初映画の撮り方がめちゃくちゃだったんで、色々彼から教わりました。で、「カインの末裔」で主役をやって貰い、その時から、今度の事も、こんな作品を作りたいんだと話していたんです。だからキャスティングにあたり、この作品について僕の欲しい内容を一番理解してくれると思いました。彼の高い演技力を評価しているので、こういう複雑な内容をやる上で、彼の力に託したいと思ったんです。

―頬のふくらみとか目の据わり方とかの表情の得体の知れなさ、対照的に繊細できれいな手とか、外見からのメッセージも多い方です。惹かれたのは演技力ですか、それとも外見ですか?
奥:外見というよりはやっぱり演技力ですよね。
―内面を表に出せる格別なお顔ですよね。鬱積した思いが伝わってきました。

奥:ええ。でも直接会うとこんな風ではなく、もっと普通です。役作りしているんですよ。
―え、そのままのように見えますが? 瞳の重さとかも?
奥:もちろん彼の一部ではあるけれど、普段からあんな人ではない。もっとライトな方です。
―色々印象的なシーンはありましたが、それにも増して印象深いのが渡辺さんの存在感、思いを込めた表情の複雑さなのです。もっとも滲み出ている様に、本人自身が色々な思いを持っているからこそ監督をされるんでしょうけれど。
奥:話していると確かにそうだなあと思います。彼の思いと僕のそれが全部一致するわけじゃあないけれど、思いの深さを感じました。触発しあえる刺激的な存在が身近にいるのは幸運です。

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©2009 NEGA Co. All rights reserved.

―この作品は数年前に監督が、満開の桜の上から雪が降った映像を撮った時に思いついたそうですが。
奥:ええ。ラストシーンが今から7年前の3月に撮っていた、桜が咲いて雪が降った時のもので、それをそのまま使っています。撮影中、偶然フレームの中にカップルが入ってきて、誰だかもわからない形で映っていますが、今度新しく撮ったお芝居の部分で、俳優がこの二人に見えるように服装を合わせました。最初にこの情景を撮った時から、何かに使いたいと思っていたんです。
―違う季節のものが一緒に存在するという自然の狂い方も、今回のテーマと重なっている訳ですね。でも画質とか合わせるのは大変だったんでは?
奥:ええ、その点は色々工夫しています。あの部分はハンディカメラで撮っていて画質も悪いですからね。今度撮った映像と自然に繋ぐには本当は無理があります。そうかと言って、ここはこの作品の原点ですからCGとかでやるものでもないし、狂った自然現象を撮っているあれをそのまま使いたい。繋がるようにテクニック的に相当の事をしました。
―自然が狂ったという意味では、一時ニュース映像でもよく流れた奇形のタンポポが、アップで何度も映りましたが。
奥:動物でやるとグロくなるので、タンポポで行きました。まあ、後で動物については暗示的にやるわけですが。

―ラストへの衝撃的な繋がり部分ですね。あの放射線科の臨床実験も衝撃でした。実際にあんな人体実験があるのでしょうか? 100万という金額とかも凄くて。
奥:調べてみたんですが、ある事はある。ただし危険度的に色々なレベルの実験があって、あのレベルであの金額が出るのは厳しいかもしれない。でもあれ位の金額が出る実験もあります。
―映画よりももっと危険な実験がある訳ですね。その被験者になる人もいると。
奥:ええ、放射線医学は色々な実験をしているようです。病院等の放射線技師は皆ガイガーバッジをつけています。ただ、その数値は自分では解からない。上のほうの管理者だけが解っていて、数値がやばくなると、来週は休めとか言われるらしいですよ。撮影した筑波は実際に数年前に核燃料の臨界事故のあった所で、他にも色々な原子力実験装置があって、立ち入り禁止区域が町のあちこちにあるんです。放射能の汚染度が高いというか…。そんな放射線を扱う技師さんにこれを見ていただいたんですが、評価して下さいました。

―なんか怖い話ですね。だから野田秀樹さん扮する映画監督のような、町に漂う放射能で癌を治そうという話が出てくると。その野田さんが素敵でした。野田さん、桃井さん、大杉さん等多彩な出演者ですが、キャスティングの順番は?
奥:野田さんは早かったですね。野田さんはほとんど映画に出ていないはずなんだけど、僕の映画にはこれで3本目です。御願いしたら台本も見ないうちに「いいよ」と即答でした。
―女装したりと舞台でメイクアップした状態を見ているので、こうして素顔に近い状態を拝見できたのが嬉しく、改めて素敵な方だなあと思いました。最初からあのように設定していた役ですか? それともある程度野田さんに任せて自由に膨らましていただいたとか。奥監督は野田さんの舞台の映像部門を撮るとか、仕事仲間でもありますよね。
奥:ええ。NODA・MAPの映像を作っていますから。僕は普段舞台の映像を作っているんです。宝塚とかよくやるんですよ。野田さんは簡単な説明で(ああ、こうだな)と理解して動いて下さる。僕が何をしたいかを一番理解して下さっている方で、有り難いと思っています。野田さんにしても桃井かおりさんにしても、ご自身が監督。それぞれが御自分の世界観を持ってらっしゃいますが、それを解釈の力にして、僕の意図を汲み取って動いて下さいました。(聞き手:犬塚芳美)         <続きは明日>

  この作品は10月10日(土)より第七藝術劇場で上映
       公開初日(14:30)に奥秀太郎監督の舞台挨拶があります

映写室 新NO.20私の中のあなた

映写室 新NO.20私の中のあなた 
   ―姉のドナーとして生まれてきた妹―

 「My Sister’s Keeper」という原題の前に「I am 」を付けると、この映画の内容を正確に現す事になる。そう、白血病の姉の命は、彼女のドナーとなれるよう遺伝子操作して生れてきた「I」、つまり妹にかかっているのだ。生れる前から臓器提供が目論まれているなんて、何だかぞっとする話だけれど、病気の娘を救おうと必死の母親には、もう一人の娘の人権が見えない。現実離れしていそうで、医学の進歩した今、起りそうな話でもある。親子、姉妹の情愛だけでなく、命に絡んで幾つもの倫理問題を考えさせられた。

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(C) MMIX New Line Productions,Inc.All Rights Reserved.

 <敏腕弁護士の元に>、一人の少女アナが訪ねてくる。両親を訴えたいというのだ。アナは姉のケイトを救う為に何度も手術台に上ってきたが、今度の腎臓提供は嫌だと言う。激怒する母親、戸惑う父親。移植しないとケイトは死ぬと解っていながら、姉が大好きなアナがどうして…と、その謎を追う形で物語は進んでいく。

 <原作は2004年の出版だけれど>、現実でも今の医学界は、拒絶反応のない移植臓器の開発に躍起になっている。タイムリーな事に日本では、つい先日、京大の中山教授がips細胞の研究で、ノーベル医学賞への登竜門といわれる「ラスカー賞」を受賞した。自分の体にいろいろな臓器になりうる肝細胞があるというんだから、この研究が進めばこの妹のような悲劇はなくなるはずだ。ペースメーカーとかの人工補助臓器もあるし、医学の進歩で一つ二つパーツが壊れた位では人間死ななくてもよくなってきたらしい。だからいっそう、かけがえのない人の、消えそうな命が諦められなくなっている。これはそんなお話だ。

 <数年前に「アイランド」という近未来が>舞台のSF映画があった。お金持ちが自分の命を永らえる為に、細胞からクローン人間を作って無菌状態の中で純粋培養し、いざという時に自分の臓器と交換する話だ。一人助かる代わりに、臓器を提供したクローン人間は死んでしまうわけで、命すらお金しだいというなんともおぞましい話だった。結果的には捏造だったけれど、丁度韓国でES細胞培養の成功も発表され、映画の中の近未来が急に身近になり、怖くなったものだ。
 <ただ、そうは言っても>、人間の倫理観がそこまでの事を許すわけがないと、妙な安心感も持っていた。現実には科学の進歩に倫理面の審議が追いつかず、取り残されている。其処が問題なのだ。この物語もそんなところを問いかける。この物語のレベルなら今だって可能かもしれない。原作が出版された2004年の段階では近未来だった話が、今や現実にあるかもしれない所で進んでいく。

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(C) MMIX New Line Productions,Inc.All Rights Reserved.

 <それにしても母性とは凄まじく、かつ悲しい> 何があろうと子供の命は絶対に諦められない。母親役のキャメロン・ディアスが現実には母親でないのも、この極端な母親像の形成には有効だったかもと思う。彼女が現実の母親ならば、ここまできっぱりとは演じられず、ケイトともう一人の娘アナの間で複雑に揺れると思いたいのだ。
 <姉の為に犠牲にしてきた自分の半生>を疑う事もせず、仲良しで誰よりも姉を慕う妹。それでも今度は受け入れるしかない姉の決断と生の限界だった。生も死も、向き合えば向き合うだけ真摯に真実を教えてくれる。いくら心配しても、結局は他者の体でしかない母親と違い、二人にとって命は自分の体の中の声。そんな意味では、二人は母親よりも本当の意味で命を見つめていたのだ。健気な妹を演じるアビゲイル・ブレスリンの子供っぽさと大人っぽさの入り混じった様もリアリティがある。
 <突っ走る母親と>、気持ちが解るだけに止めようにも止め切れない父親、近くで助ける事しか出来ないけれど、静かにそれを実行する母親の妹、ここにも姉妹のいたわりあいがあるのだ。
 
 <そんな皆の中で>、クールに一人近づいてくる死を見つめるケイト。この物語がリアリティを増したのは、ケイト役のソフィア・ヴァジリーヴァの熱演による所が大きい。頭だけでなく眉も剃り、熱っぽい厚い唇をして、まるで病気そのもののような姿で、スクリーンの中で短い生を生き切っている。限りあるからこそ輝く命、今への愛しさ。同じ病のボーイフレンドとのデートで見せる笑顔が素晴らしく初々しく、死を扱いながら、この物語が死以上に生を描いて、生きるとは何かを問いかけてくるのは、彼女の煌きのせいだ。

 <死は死に行く人より遺される者にとって重いと改めて気付かされる> 体の声で本人は受け入れても、娘の死を受け入れられない母親。ケイトの最後の仕事は、母親に自分の命の限界を解らせる事だった。母の必死さがあればこそ繋げた自分の命、でもその母が見失っている妹の命や父や弟の事。母の気持ちが解るからこそ誰もそれを言わない。自分が知らせなくては。自分が死んでも自分の家族は家族でいて欲しい。それが自分の生きた証しなのだから。そんな全てを母親に解ってもらうのが旅立つケイトの希望だったのだ。
 <生きるってどんな事?> 人は何処まで生きることに頑張ればいいの? 臓器提供の為に遺伝子操作して子供を生んでもいいの? 母親にとって子供って?と、考えさせられた事ばかりだ。
 余談だけれど、時間軸のある4次元の世界に行けば、行きつ戻りつ出来る訳だから、死も超越できるはず。死を絶対の別れと思うのは3次元に生きる私たちの限界かもしれない。(犬塚芳美) 

この作品は、10月9日(金)より、TOHOシネマズ梅田、TOHOシネマズ二条、
                MOVIX京都等全国でロードショー

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