太秦からの映画便り

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映写室 新NO.45新しい韓国映画の風

映写室 新NO.45新しい韓国映画の風 
  ―「飛べ、ペンギン」&「今、このままがいい」&「渇き」― 

 <ヨン様のロケ現場まで押しかけるような>コアなファンは別として、日本での韓流ブームは沈静化したようだ。本国でも観客動員数や、自国映画のシェアは06年から下降の一途だという。当然のように、製作規模の縮小や本数の減少が続くが、一方で、新しい息吹も生まれている。映画人たちが本当に作りたいものを作れる、いい環境が整ったのだ。早くから映画関連の教育システムがあった韓国、こうなったら強い。ここで以前にお知らせした「牛の鈴音」のように、斬新で気合の入った作品が揃い始めた。
 <今回取り上げるのもそんな>作品だ。「真、韓国映画祭」と銘打った4本の中から2作品と、公開中の韓国版バンパイア映画を紹介したい。ちなみに、「真、韓国映画祭」とは、日常生活をテーマに、さまざまなアイデアを盛り込んだ、大作の影に埋もれがちな珠玉の秀作を集めたもので、今回の作品は、全て“家族”をテーマにしている。

1.《飛べ、ペンギン》:イヌ・スルレ監督

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©2009 INDIESTORY Inc

 <9歳のスンユンは放課後も習い事>で大忙し。母親は、息子の英語力が心配で、「週末は家族の会話を英語で」と言い出す。妻の行き過ぎを心配する父親は、何とか息子に息抜きをさせたい。一方母親の勤める市役所では、課長が英語教育の為妻子を海外に住まわせ、一人暮らし。一時帰国を楽しみにしていたのに、外国に慣れた妻子は、冷たい態度で課長を悲しませる。 

<…と、過剰な英語教育や学歴社会>に走る韓国の現状を揶揄しながら、今の韓国の誰もが感じる居心地の悪さを、ユーモラスに描く。子供への早期教育、飲み会でのアルコールの強要、女性の喫煙への冷たい視線、退職男性の社会での居場所のなさと引きこもり、妻との軋轢、熟年離婚等々、どれも日本とよく似ている。言っても仕方がないと諦めがちなそれらを、ユーモラスにとらえた視点に笑い転げた。実はこの作品、韓国人権委員会が手がけた初の長編映画なのだ。確かに日常のこんな些細な事こそ、人権問題の発端。日本だったらこんなにユーモラスには作れないと、行政のしなやかさに驚く。

 <それにしても英語教育への入れ込み>の激しいこと。韓国は今や国内よりも世界を見てるようだ。ちなみに、外国で暮す妻子へ仕送りする為働き続けると「雁のお父さん」と呼ばれ、子供を早期留学させたものの、自分は行く事も出来ない経済力のない父親を「ペンギンのパパ」と呼ぶらしい。この課長は「ペンギンのパパ」と言うわけだけど、「飛べ!」と言われて飛べるのだろうか。課長が飛ぶ代わりに、多分無骨に働いてきただろう封建的な夫を放り出し、彼の母親が飛んでしまった。
 <儒教社会で封建的と言われながら>、韓国でも実際に実権を握っているのは女性なのだろうか。女流監督と言っても視点は公平で、女性の勝手さや逞しさもよく解かり、それらをしぶしぶ許す男性の優しさもよく解かっている。妻のお尻に敷かれてたじたじの男性への眼差しが温かく、男性への応援歌のよう。と言うか、女性にはもう応援歌はいらないのかも。お父さん達頑張って!

      この作品は、4月3日(土)より第七藝術劇場で上映


2.《今、このままがいい》:プ・ジョン監督
imakonomama_main.jpg ©2008 INDIESTORY Inc.


 <ソウルで働くミュンウンは>、母が亡くなったと聞き久しぶりに故郷の済州島に帰る。魚屋を営むシングル・マザーの異父姉と、小さい頃から一緒に暮らすヒョンアおばさんが迎えてくれた。父を知らないミュンウンは、同じ様な娘を作った異父姉に複雑な思いを持つ。母の葬儀の後、写真を頼りに父を捜す決心をする。顔を知っている異父姉に一緒に行ってもらうが、お酒を飲み男達とはしゃぐ異父姉に苛立ち、途中で喧嘩に

 <真面目で融通の利かない妹と>自由でちょっとだらしない異父姉。水と油のような2人が母を中心にくっ付いていたのに、その母を亡くして付き合い方が解からない。両極端のように見えて、それぞれが母から受け継いだ性格なのを、当人達は気付いていないのだ。母がいなくなってみると、ヒョンアおばさんの事も解からない。家族でもないのにどうしておばさんは一緒に暮しているのか。お母さんはどんなつもりだったのか。ミュンウンの父親探しは、母親探しと自分探しのようなものだった。そんな彼女を気遣いながら、異父姉も母亡き後の家族の形を探している。母という一家の中心をなくして、ふらふらする独楽の様な旅だった。
 <見れば解かるのだけど>、この作品は脚本の巧みさが光る。女流らしい姉妹の間の細やかな感情の表現も素晴らしいが、衝撃の結末には「こう来るか!」と舌を巻くだろう。不在の母を濃密に感じさせて、性格も見た目もまるで違う異父姉妹が、旅の途中でお互いを少しずつ理解し合い、家族の秘密を受け入れていくまでの展開を楽しむ作品だ。

   この作品は、4月3日(土)より第七藝術劇場で上映


3.《渇き》:パク・チャヌク監督

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 <人を救う事に限界を感じた敬虔な神父は>、伝染病の人体実験を受ける。奇跡的に助かるが、彼は自分の変化に驚く。血に飢えたバンパイアになっていたのだ。ある日友人の家を訪れ、不幸な彼の妻と惹かれあう。友人が邪魔になって…。

 <神父に扮するのは>、韓国の誇る演技派ソン・ガンホ。血への欲望を理性で制御しようとするが、体の方がいうことをきかない。血に飢えると伝染病の症状が出てくるのだ。不治の病の人から血をもらったり、死体から余す所なく搾り取って真空パックにしたりと、神父らしく、罪悪感と自身の欲望とを秤にかけて、世間を騒がせず生き延びている。このあたりブラックユーモアだ。
<人間とバンパイアの葛藤で言えば>、彼はあくまで人間だった。もっとも彼の場合、外観からして、バンパイアには見えない。逞しいからだ、妙にリアリテイのある人間臭い行動と、この世とあの世の境をさまよう、儚げな西洋のそれとは一線を記している。

 <人妻に扮するのはキム・オクビン> 役柄のままに、世間を知らないまま閉じ込められた風情がぴったり。でも、こちらの方は、性欲、血の誘惑等、全てにおいて一度快楽を知ると、理性をなくして暴走する。直ぐに人間よりもバンパイアになってしまうのだ。神父に惹かれたのも恋なのかどうか、抑圧された暮しから抜け出したかっただけかも。そんな愚かさすら哀れに思わせる美貌と風情、作品に儚さを付け加える。怖いシーンも彼女の美貌で和らいだ。

 <ところで、この作品もラストがいい> 人間性が勝った神父と、バンパイアになってしまった人妻の逃避行はどうなるのか。そもそも2人の結びつきは何だったのかを思い出し、ほろりとさせられた。人妻のいじらしさと、彼女のそんな本質を信じていた神父。人間味を勝たせた異色のバンパイア映画で、2009年カンヌ国際映画祭の審査員賞を受賞している。

  この作品は、テアトル梅田、敷島シネポップ、
       シネ・リーブル神戸、TOHOシネマズ二条等で上映中


3本の韓国映画、どれもが異色で、脚本の巧みさに目を見張る。韓国映画界の高いレベルを感じます。(犬塚芳美)
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映写室 木村威夫先生の思い出

映写室 木村威夫先生の思い出 
  ―心の距離感のままに空間を歪める手法―

 <3月21日に、映画界の重鎮>、木村威夫先生がお亡くなりになった。先生は「海と毒薬」や「ツィゴイネルワイゼン」等200本以上の作品を手がけた映画美術監督で、ここでも取上げているけれど、最近はご自身で監督した作品もある。確か「夢のまにまに」で、世界最高齢の長編映画新人監督として、ギネス記録にもなったはずだ。去年12月の半ばに、新作のキャンペーンでお会いし、1時間近くも貴重なお話を伺ったばかりなので、何だか信じられない。超人的なパワーで何処までも生き続ける方の様な気がしていたのだ。
<その日は>、終わったその足で新幹線に飛び乗り、夜は東京で忘年会だと言うことだった。キネマ旬報の元編集長が一緒で、「僕らよりお元気ですよ」と、隣で舌を舞いてらしたのを思い出す。最後まで現役で走り続けて、そのままあの世まで突き抜けていかれたようだ。作られる映画のように、前衛そのものの人生だなあと、お人柄を偲んでいる。

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(2009年12月14日 大阪にて)

<訃報に驚いたけれど>、一方では91歳というお年でもあり、根をつめると、後で体調を壊される事が多くなっていたので、(とうとう来たか)という思いもあった。「夢のまにまに」も「黄金花 秘すれば花、死すれば蝶」も老境の不思議な体験を、先生独特のアバンギャルドな手法で表現されていたと思う。

<初めてお話したのは>、故佐藤真監督に招かれた京都造形芸大のスタジオ開きの日だった。恐れ多いのだけれど、お隣にいらっしゃったので、凄く好きな「紙屋悦子の青春」と「無花果の顔」のセットについて、感動をお伝えしたのだ。画面では解からない色々細かい手法まで教えて下さり、感動しきり。周りの学生達を眺めながら「若い人と一緒に作るのは楽しいんだよ」とも仰っていた。その学生達は自然に接していて、特に長老の方だと労わる事もせず、私が休んでいただこうと椅子など運んだのも思い出だ。そのままスタジオの隅で居眠りを始められたけれど、今思い出すと、あの時は去年の12月よりずっと恰幅がよかった。

<その後も手紙を差し上げると必ずお返事くださるし>、お忙しいのに良くして頂く。ある時、「何だか先生に、特別に良くして頂いている気がする」とお伝えすると、お嬢さんが私と同じ姓のお家に嫁がれ、少し前に亡くなられたので、「貴女に娘を重ね親しみを感じた所もあるかもしれません」とお返事をいただいた。
 <そんなこともあって12月のインタビューは>、ちょっと失礼なような厚かましいことも伺っている。「得しちゃっただろう、こんなこと初めて話したよ」と仰って、周りで聞いていたスタッフの方も身を乗り出していた。読み返すと木村先生のあの時の口調が甦ってくる。
生涯を本当の創作に捧げた映画人、木村威夫先生のご冥福をお祈りいたします。(犬塚芳美)

 参照  映写室 インタビュー記事:2010年1月7日、8日アップ分

映写室 「ブルー・ゴールド 狙われた水の真実」上映案内

映写室「ブルー・ゴールド 狙われた水の真実」上映案内    
 ―21世紀の利権争いは水― 

 <地球の水飢饉を訴える>、衝撃的なドキュメンタリーが上映中だ。20世紀が“石油戦争”の時代だとしたら、21世紀は“水戦争”の時代だとよく言われる。でも、日本に住んでいると、しかもこの数日の雨模様の中だと、水不足はぴんと来ない。この作品はそこの辺りを、地球規模で眺めて、論理的に解明していく。ドキュメンタリーと言うより、ちょっとシンポジウムのような作品だ。

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<地球のドキュメンタリー「アース」でも>、かってない日照りに苦しむ動物達が、存続の危機に瀕していた。人間だって動物だ。アフリカのように、今も水不足に苦しむ地方がたくさんあるが、2025年には地球上の全人口の3分の2が、水に対してストレスを感じるようになるという。何しろ水がなくては生きられない。二酸化炭素が引き起こす地球の温暖化は、人類にとってはまだどうやって生き延びるかの問題だけど、水危機は“生きれるかどうか”という極限にまで突き落とされるというわけだ。

<世界を見渡すと>、すでに水企業が存在して、開発途上国に水道事業の民営化を迫り、ウォールストリートは、淡水化技術と水の輸出計画に投資の狙いを定めている。そんな利権にブッシュ元大統領が絡んでいるって本当? 一方、軍の管理による水資源の発掘は、世界規模の“水戦争”を引き起こしそうな勢いなのだ。

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<日本には無縁だと思っていたものの>、食料自給率が40パーセントの日本は、海外から食糧に付属する形で、年間約640億トンの水が入ってきていることになると言う。これは、食料の自給率を支える日本の灌漑用水年間約570トンをゆうに超える。つまり今の私たちの暮らしは、外国の犠牲の上に成り立った快適さに過ぎない。実はこれには怖い視点があって、そんな形で入ってくる水の多くが汚染されていると言うのだ。水道の水がそのまま飲めるという、日本のような環境は中々ない。それも何時まで続く事か。先日のひどい黄砂のように、まだ化学物質が野放し状態の中国からは、黄砂、雨と一緒に汚染物質が飛んでくる。自国だけでは防ぎきれない汚染の浸透、水の安全性はどうやったら守れるのか。
 <ところで、国家目標のように自給率>を40パーセントから50パーセントに上げようと思ったら、140億トンの水が余分に必要になる。これは黒部ダム(保有水量2億トン)70基に相当する量だ。ダム建設が止まりつつある現在、水を賢く使う工夫がより大切になってきた。これが真夏で、瀬戸内地方等で時間給水が続く状態になったら、一気に身に迫ってくる話だ。絶対的な危機の前に、まだ手が打てるかもしれない。色々な角度から、水問題を考えようというドキュメンタリーです。(犬塚芳美)

この作品は、第七藝術劇場(06-6302-2073)で上映中
      後日、京都みなみ会館で上映

映写室 新NO.44花のあと

映写室 新NO.44花のあと 
  ―桜の花の満開の下で―

 <「蝉しぐれ」、「武士の一分」等>、映像化の多い藤沢周平の世界が、又映画化された。今回も「山桜」と同じく、藤沢作品では異色の若い女性が主人公だ。男たちが主役の武家社会で、影に沈みながらも凛と生きる女性の恋が、匂やかに浮かびあがる。
 <俳句では花と言うと桜をさす> 山桜、今回のソメイヨシノと、藤沢周平は桜をよく取上げる。武士を描くと桜になるのか、それとも武家社会の女達を桜に例えているのだろうか。パッと咲いて、パッと散る桜、華やかなのにどこかに死の影を宿す花。武家社会の恋が桜のように儚いのかもしれない。でも、情景、心意気、共に、とても日本的でもあって、藤沢周平は武家社会という形を借りて、日本を描いたとも思うのだ。
 <桜だけでなく>、長閑な時を止めたような風景は、日本の原風景かも。障子に差す影、畳と襖、和室ならではの茶道に通じる所作、全てが端正で美しい。でも主人公の心は私たちと同じ普遍性も持つ。「青い鳥」の中西健二監督が、時代劇に今の息吹を吹き込み、瑞々しく仕上げています。

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(C) 「花のあと」製作委員会

 <江戸時代の東北地方のこと>、男顔負けの剣術使いの以登は、花見で声をかけられた孫四郎と、一度だけ竹刀を合わす。惹かれ合う2人、でも父から以降は会うのを禁じられる。お互いに別の相手との縁談が進んでいたのだ。婿養子に入った孫四郎、許婚の帰りを待つ以登。初めての大役で不手際があり孫四郎が自害したと聞いて、以登は不審を持つ。許婚に真相を探って欲しいと頼むと…。

 <この作品、恋模様を繰り広げる>3人の俳優の個性が光る。以登に扮するのは、北川景子。日本髪が似合って、着物のぎこちない裾さばきも、いかり型にきっちりし過ぎた着方も、不満よりも初々しさに変える風情がある。硬い仕草も、考えてみると乙女の物だ。役柄どおりに、おっとりとしながらも、瞳に男勝りの気の強さを滲ませて、以登を現代に通じる凛とした魅力的な女性にしている。「真夏のオリオン」でも、もんぺ姿に冒しがたいような気品を感じさせたけれど、古風な衣装の中で余計に美貌が耀く女優らしい。髪を解いて、剣術に臨むシーンの剣術着もりりしくて、時代劇に馴染みにくい層も、違和感をなくすだろう。次々と着替えながら花模様で通した着物姿等、まるで咲き誇った桜のような、芯に強さを持つ北川の美しさを堪能する作品でもあるのだ。

 <孫四郎に扮するのは宮尾俊太郎で>、真っ直ぐで強い瞳と凛とした立ち姿が、いかにも剣の道に生きる男。セリフや表情で表現する俳優とは違う、体全体から発する独特の存在感、立ち居振る舞いからのオーラも、本来がバレエダンサーと聞けば肯ける。感情で表情や瞳が動かないのも、この男の無骨さに思えた。以登と竹刀を合わすシーンが見所だ。男勝りの以登が一歩もひるまず向っていきながら、孫四郎の腕前に次第に屈していく過程、お互いに男と女なのを忘れた戦いだったのに、以登が腕に竹刀を受けてよろけた瞬間、2人の張り詰めた思いが崩れて男と女に戻り、尊敬が恋に変るさまが鮮やかに描かれる。これでは父親が再会を禁じるはずだ。そうは言っても淡い恋、芽生えた瞬間に引き裂かれる運命だった2人の恋、まるで美しいまま散る薄いピンクの桜の様でもあるのだった。

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(C) 「花のあと」製作委員会

 <前半は、こんな具合に>、端整な2人や、以登の友人達の初々しさで張っぱられる。この作品が巧みなのは、後半になって観客の興味を大きく変えてくるところだ。物語が一気に人間臭くなる。
 <大飯食いで、遠慮のない不躾なさまを見せて>、以登と一緒に観客の眉までひそめさせた許婚。扮するのは甲本雅祐で、飄々と楽しそうに演じて、徐々に大人物の片鱗を見せてくる。こんな許婚ではと以登の不幸を連想したのに、全ての対応で大人の思慮を見せて、貧相に思えた風体までが、次第に味わい深く見えてくるのだ。これはそのまま以登の視点だったはず。不機嫌だった以登の顔に、徐々に観念したような笑みが浮かび始める。端正な藤沢周平の世界に人間臭さを加え、しかもその人間臭さを、もう一度上質な次元へと引き上げる甲本の許婚役。以登だけでなく、あっけらかんと不細工な男を演じる甲本雅祐にやられてしまった。

 <封建時代の女として>、以登はこれ以上望めないほど幸せな人生を送ったのではないかと思う。男子を望んでいた父から、男の子のように剣術を仕込まれた以登。でも父は、娘としても以登を慈しむ。
 <許婚がいて世間体を守りながら>、父母の愛情を一身に受け、気楽な娘時代を人より長く楽しめた以登。そうかと言って、恋を知らなかったわけでもない。たった一度の竹刀合わせで、時めく思いを知り、生涯の思いにさえなっていく。そんな大切な人を失う苦しみは味わうが、一方、真面目な男では乗り切れなかったかもしれない人生の荒波は、昼行灯と言われながら実力を発揮して出世する夫が、大きく包んで守ってくれた。

 <武家社会で、所詮女の幸せは男しだい> 男は守るもの、女は守られるものだった。藤沢周平は、そんな世界の人々を描きながら、男にも女にも人としても一分を持たせる。その一分が生きる姿勢なのだ。主人公達は一分を支えに、例え不幸があろうとも、悲しみを乗り越えて、自分なりの幸せをつかんでいく。それは、武士の美学ではあっても、性別や時代を超えて、私たちの胸を打つ姿勢。私達が考える日本的な美学なのだと思う。光を捕まえる、時を戻したような美しい映像で、日本の美学を描いています。(犬塚芳美)

   この作品は、梅田ブルク7、MOVIX京都等で上映中

映写室 新NO.43海の沈黙

映写室 新NO.43海の沈黙 
   ―岩波ホール セレクション Vol.1― 

 アカデミー賞を元夫婦で二分して評判になった「アバター」、「ハート・ロッカー」のような、大掛かりな撮影やCG技術を酷使した作品が増えてきた。迫力に魅了されながら、一方で、対極に立つ名画が懐かしい。今上映されている、映画の黄金期(50~70年代)の洋画からのセレクト「午前10時の映画祭」はそんな要望に応えたものだと思う。
 <この“岩波ホール セレクション”は>、そんな中でも特に、映画を通して時代と文化を考えようと選ばれた名作だ。第1弾は「抵抗と人間」がテーマ。表題と共に、「抵抗 死刑囚の手記より」が連続上映される。映画芸術とも呼べるような端正な世界感、美しい映像表現をお楽しみ下さい。大戦後すぐのフランスで作られ、60年以上経っての日本初公開です。

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©1948 GAUMONT

 <1941年、ドイツ占領下のフランス地方都市> 老人と姪が暮す家にドイツ人将校が同居することになった。将校は音楽家でフランス文化を尊敬している。夜毎にそれを伝えるが、老人と姪はあたかも彼が存在しないかのように振る舞い、沈黙を貫く。休暇でパリを訪れた将校は、ドイツ軍の悪行を知り…。

 <フィルム・ノワールの伝統を受け継ぐ>ジャン=ピエール・メルヴィル監督の処女作で、原作は大戦中のドイツ占領下に地下出版された同名小説だ。47年の作だから、ドイツ占領から解放されて、フランス映画が再生していく産声のような作品とも言える。
 <しかもそれは難産だった> レジスタンス文学の財産のような作品を、映画に売り渡すには抵抗があったし、原作者が将校にある俳優をイメージしていた為、それとの戦いもあった。又、メルヴィルがハリウッド映画への熱狂を公言して、監督組合に入ってなかったのも災いしたと言う。

 <結局、監督自身のプロダクションにより>、きわめて低予算で作られた。セットは作れず全てロケ。しかもほとんどが主人公3人の演技で進行する。モノクロームのやや暗い映像が素晴らしいが、実はこれも、低予算ゆえの苦肉の策。フィルムはあちこちから貰ってきた端尺で、画調の統一に困って、暗くした結果らしいのだ。
 <何とか二人の心を動かそうとする将校と>、動きそうな心を隠して、沈黙を保ち、無表情を押し通す2人。3人のかもし出すそんな気まずさや緊張感と、瞳に宿るかすかな感情の揺れが、暗めの画質の中のわずかな変化で切り取られる。広がる空気感はまさに深海の静けさだ。撮影のアンリ・ドカは、後に「死刑台のエレベーター」や「大人は判ってくれない」を撮り、ヌーヴェル・ヴァーグを代表するカメラマンとなっていく。

 <実はこんな静かなレジスタンスの情景こそが>、占領当時のフランスの誇りだった。 ナチスに占領された4年間、フランスはサルトルの言葉を借りると「沈黙の共和国」だったと言う。アラゴンたち抵抗の詩人が称えるように、英雄たちはゲシュタボの拷問に耐え、沈黙で応えた。一方民衆は、ナチスの吹く笛に踊らず、沈黙を貫いたのだ。ここで描かれているのは後者で、将校が信じていた、「ヨーロッパ新体制」や「美女はフランス、野獣はドイツだから、ドイツの残忍な性格を直すには両国の融合しかない」と言う言葉に惑わされず、沈黙で答えている。

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©1948 GAUMONT

 <もしもドイツ軍将校でないとしたら>、彼ほどいい人間はいない。同居する非礼を詫び、2人を尊重して敬意を払う。しかも流暢なフランス語を話し、フランスに敬意を払っているのが物腰からも伝わってくる。それでも2人は無視を貫く。彼が帰宅して軍服で居間を通り、「おやすみなさい」と言って階段を上りだすまで、異様な沈黙が支配するのだ。不自由な片方の足を引きずる特徴のある足音、階下の2人は実は気にしながら、黙って聞いている。どちらもが誇り高い人々だった。

 <ある夜将校は、ずぶぬれになった軍服姿を隠して>、居間を通らず直接上に上がり、私服に着替えて現れる。父親の影響でフランス文化に憧れて育ったこととか、軍服を脱いだせいか、今まで以上に親密な話を始めた。「美女はフランス、野獣はドイツだから、ドイツの残忍な性格を直すには両国の融合しかない」と、2人のフランス人に尊敬をこめて語るのだ。そんな夜毎の彼の一人語りにも、やっぱり2人は沈黙で応える。いくら良い人でも彼は憎きドイツ兵なのだから

 <ドイツ軍兵士の全てが>、ナチスの残忍さを知っていたわけではないらしい。将校は、パリで過ごした休暇で、1日に2000人殺せるガス室の話や、ドイツのフランス占領は、文化の融合ではなくフランスを根こそぎ潰す為だと知るのだ。休暇の後、彼は居間を訪れなくなる。それでも2人が彼について話すことはない。でも気にはなっているのだ。このあたりの微妙な空気感も映す。ある夜、ドアをたたく音、思わず「入りなさい」と答える老人。平静を装いながら姪も心を動かした。

 <将校は2人にとっては承知の事実>、衝撃のパリでの経験を話し始める。そして明日この家を去り戦場へ向かう決心を告げるのだ。「おやすみなさい。さようなら」と告げて去る彼に、姪も思わず「さようなら」と答える。翌朝この家を去る将校は、机の上に置かれた本と、それにはさまれた「罪深き命令に従わぬ兵士は素晴らしい」と書かれた記事。老人からのはなむけだった。

 <こんな親仏的な将校にすら>、沈黙を貫いた2人。語らなかった言葉が、将校を目覚めさせたとも思える。端正な映像と共にフランスの誇りを語っています。(犬塚芳美)

     3/20から梅田ガーデンシネマ、5/1から京都シネマ、
          6月神戸アートビレッジセンター にて上映

映写室 新NO.42時をかける少女

映写室 新NO.42時をかける少女   
 ―♪と~き~を~、かける少女~♪から約30年―

 題名を見ただけで「♪と~き~を~、かける少女~♪」と歌う、原田知世さんの澄んだ声が聞こえてきそう。誰にでも永遠の物語ってある。私の年代だと、その一つがこれだ。元となる筒井康隆さんの短編SF小説は、45年間の間に実写版、アニメと、テレビ、映画で幾度となく映像化されてきたが、今回は原作の“その後”を描くと言う新たな試み。
 <しかもタイム・リープするのは>、その原作が生まれた1970年代だ。下宿には電話もお風呂もなかった。「神田川」の歌に象徴される時代を、懐かしく思い出す人もいれば、新鮮な思いで見る人もいるだろう。タイム・リープした現代っ子の主人公はもちろん後者だ。近くて遠いあの頃をときめきながら探検するさまが、生き生きと伝わってくる。でも恋する少女の思いは何時の時も一緒。奇跡も起こすし、時すらも越えてしまう。…と言う、早春にぴったりのピュアな恋の物語を、永遠の少女たちに送ります。

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(C) 映画『時をかける少女』製作委員会2010

 <あかりは母、和子との二人暮し> 薬学者の和子は、自分と見知らぬ男子学生が写った写真を貰い、何かを思い出そうとして交通事故にあう。意識が戻ると、「1972年4月の土曜日、深町一夫に会う為、中学校の理科実験室に行かなくては」と繰り返す。あかりは「私が代わりに行く」と言い、母が開発した薬を飲み、その日にタイム・リープするよう念じる。でも間違えて1974年に戻ってしまう。映画監督志望の涼太に出会い、彼に助けてもらって高校生になっていた母も探し出すが、すでに深町の記憶はない。

 <こうして、時空を越えた数奇な物語が>蓋を開けていく。謎解きもこの作品の醍醐味なので、説明はしない方がいいだろう。あかりと彼女を助ける涼太の気分で、戸惑いながら時空の中を追いかけるしかない。見る方こそがタイムトラベラーだ。それを盛り上げるのが当時の空気感だけれど、俳優陣も美術も上手く時代を演出している。
 <現在の和子を演じるのは>、何処かに青春の残り香を感じさせる安田成美。現実と妄想の間を歩いてる風情と、夢見る少女のような瞳は、稀有な経験が作ったものかも。幼馴染には勝村政信が扮し、不思議ちゃんの隣での堅実な生活、脈々と続く時間で、昔世代を現代につなげる。

 <昔と今を行ったり来たりする主人公のあかり役は>、アニメ版でもヒロインの吹き替えを担当した仲里衣紗。余談だけれど、このヒロインは和子の姪の設定だった。題名の通り物語のあちこちで軽やかに走って、清々しかった。今の世界で見るといかにも現代っ子だし、昔の中に放り込まれると、風景との差異を感じさせて、そのまま物語の世界になる。でもどちらの時代でもキュートで親しみやすく、物語を躍動させていく。原田知世さんとは全く違うイメージで、今の時代ならではの「時をかける少女」を作り上げた。

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(C) 映画『時をかける少女』製作委員会2010

 <和子の昔を演じるのが石橋杏奈> こちらは古風な正統派美少女で、存在そのものが古き良き時代を感じさせる。もはや見かけない存在だけど、当時の美少女は確かにこんな風だった。ろうたけたというか、1人だけ別の次元で耀いていたものだ。ちょっとコミカルに演じた後年の安田成美とは重なりにくいけれど、数奇な人生が導いた変化だったのかも。
 <物語のキーパーソン、深町一夫役は>声楽家でもある石丸幹二。登場するだけで他の誰とも違う時空を感じさせて、複雑な物語を納得させる。こんな具合に配役が巧みで、誰ものまとう時代感が、ぴったりだった。

 <美術で再現される70年代も嬉しい> 外にむき出しの鉄骨の階段があるアパート、小さなドアが並んだアパートの廊下、お風呂の代わりに流し台で体を洗っている男子学生、ベルボトムのジーン、アフロヘア、サイケなファッション、過剰だったあの頃が甦ってくる。まるで70年代へのオマージュの様でもあるのだ。
 <その時代の学生にぴったりの雰囲気の涼太と>、違和感がありながらそんな時代を楽しんでいる風情のあかり。本当は大変な事態なのに、暢気に小さなコタツを囲むような同棲生活(?)を送り、銭湯に行ってフルーツ牛乳を飲んだりのあかりを見てる間に、もう私たち自身が、あの時代を思い出にしているのに気付く。私の視点は、涼太のものではなくあかりのそれなのだ。

 <ところで、これが長編デビュー作となる>谷口正晃監督の映画への愛も見逃せない。物語のキーポイントとして映画が使われる。不似合いな2人に芽生える恋がなぜか自然で、それでもタイムトラベラーの定めで消される記憶。でも心の片隅に消えない何かが残っていて、そんな全てをつなぐのが映画だ。この原作の今までの映像化作品、83年大林監督版、近年の細田監督アニメ版へのオマージュのような作り方もしている。映画自体が時をかけているのだ。見ながらこちらも時をかけてしまった。(犬塚芳美)

この作品は3月13日(土)より、梅田ピカデリー、神戸国際松竹、
                なんばパークスシネマ等で上映

映写室 新NO.41しあわせの隠れ場所

映写室 新NO.41しあわせの隠れ場所 
 ―事実は小説よりも美しい―

 元になったのは、アメフト全米代表のスター選手、マイケル・オアーの生い立ちを綴った本だ。ホームレス同然の黒人少年が、白人の裕福な一家に出会い、人気競技のスター選手になっていく。きっかけは同情かもしれない。でも全てを幸運へ導いたのは良心。生れたのは愛だった。リー・アンという1人の女性の並外れた義侠心と行動力が、どんどん世界を変えていったのだ。事実は小説を超えている。これこそがアメリカンドリーム、美しい話に涙するのは気持ち良い。ラストの写真で、これが実話だと納得すると、余計に感動で包まれる。

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 <真冬の夜、半そでのシャツでとぼとぼ歩く>、一人ぼっちの黒人少年マイケルに出会った裕福な婦人、リー。一夜だけのつもりで豪華な自宅に連れ帰るが、彼の礼儀正しさに惹かれ、何時しか家族同然になっていく。成績の悪い彼に自信を付けさせたいリー。一家は元々強烈なアメフトファン。マイケルもアメフトを始めるが、優し過ぎて闘争心がない。


 <どうしてだろう、普通は凶暴性が出る>はずなのに…と探るうちに、マイケルの過去、あまりにも悲惨な生い立ちがあきらかになって行く。悪い遊びに引き込もうとするスラムの仲間や、子供を気遣いながらも、自分のことで精一杯のヤク中の母親と、まさに最底辺、負の連鎖の最前線だ。ちょっと気を緩ませたら、直ぐ隣は刑務所。でも新しい父と母は類稀な勇気と善意の人、繊細な心を持つ大きな熊のような少年を、手を差し伸べて救い出してくれる。彼の特技は何か、それは類稀な保護本能だ。特に自分を救ってくれたリー一家への思いは強い。家族としての絆が生れていく過程を、説得力を持って描いていく。

 <物語の一番の感動所は、この一家誰もの温かさだ> 強い意志を持って慈善に走るリー・アンも素晴らしいが、妻の行動を笑って許し大らかに陰で支える、実業家の夫はもっと素晴らしい。そんな両親に育てられ、肌の色の違う貧しい少年を、偏見を持たず、素直に実の兄弟のように受け入れる二人の子供も素晴らしい。両親は子供の鏡なのだと改めて感じた。同じ高校に通う娘は、友人たちの偏見をやわらかく拒否し、人目を気にせずマイケルのそばに自然に座る。幼い息子のSJは無邪気に懐き、マイケルのことを兄と自慢する。この妻にしてこの夫、この両親にしてこの子ども達と、素晴らしさの連鎖は止まらない。豊かさが招いた善良さ、優しさと偏見のなさに感動した。

 <そんな家族を演じるそれぞれの俳優>も素晴らしい。美しくタフな母親役のサンドラ・ブロックはゴールデングローブ賞に輝いている。露出の多い服でスラムに行くシーンにはハラハラするが、何処までも真っ直ぐな正義の人は当り役。全く嫌味がない。その夫の実業家に扮するのはティム・マッグロウ。カントリーのスーパースターは自然体でも存在感抜群。大らかな包容力を自然に感じさせる。まさに理想の友だちカップル。凄い美人なのに、母と同じく偏見の欠片も持たない娘役のコリンズ・テューイが又可愛い。

 <でも誰が一番かと言ったら>、茶目っ気たっぷりにSJを演じた、そばかすだらけのジェイ・ヘッドに軍配を上げる。そもそも一番最初のマイケルとの出会いは、偏見もなく生意気に(そこが又可愛い)助言する彼だった。飛び跳ねながら入場行進の先頭に立つシーンなど笑い転げる。ウザガキかと思いきや、マイケルの優秀なコーチでマネージャーでもあったSJ。家族の電灯かマスコットって感じで、子役に完敗だ。

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 <もちろん、マイケルに扮するクイントン・アーロン>の孤独と優しさ、強さを併せ持つかのような瞳も素晴らしい。最初の鈍そうな雰囲気から精細さを現しだす過程、シャイな感じと、変化も演じ分けている。孤独な彼がだんだんと笑顔になっていく様は、まるで春の訪れのよう。5人それぞれの思いやりで、家族の絆が深まっていく様が、素敵だった。

 <ところが、最後に実際のこの家族の写真が映ると>、さっきまでの名演が吹っ飛んでしまう。ぴったりの配役にも拘らず、実物たちのほうが数段素晴らしいのだ。どう頑張ったって映画が勝てる訳がない。もっと逞しいお母さん、もっと包容力がありそうなお父さん。確かにこの2人なら、始めてであった少年にさえ、物語のような温かさを注ぐ事が出来そう。2人の子供たちも兄を囲んで誇らしげに笑っている。出会うべくして出会った肝っ玉一家だ。
 <それよりもっと驚いたのが>、本物のマイケル・オアーだ。知的で俊敏性も感じて魅力たっぷり。スターの輝きを放って誇らしげな両親を包み込むよう。この一家の誰もが、アメリカンドリームの体現者、信じられないようなこの美談が、本当なんだと納得し感動が押し寄せる。アメリカ社会の大好きな、アメリカの良心が映っていた。

 <原題の「ブラインドサイド」は>アメフトでは死角のこと。クォーターバック(攻撃の司令塔)がパスを投げる時の無防備な背中側をさす。それをガードするポジションのトッププロがこの映画の主人公、マイケルオアーだ。チームメイトを家族と思い、類稀なる保護本能で、今日も巨漢で防御する。さあ、現在進行形の物語は、次にどんな奇跡を起こすのだろう。(犬塚芳美)

   この作品は、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、
         神戸国際松竹等で上映中

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