太秦からの映画便り

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映写室「ただいま それぞれの居場所」大宮浩一監督インタビュー(後編)

映写室「ただいま それぞれの居場所」大宮浩一監督インタビュー(後編)   
―介護保険制度からこぼれる人々の居場所―

<昨日の続き>
―若い人が意欲的に取り組んでいる姿は頼もしいですね。
大宮:介護が生き方という若い人たちが出てきていますよね。若い人の流入は、介護保険が後押ししたところもあると思います。で、最初大きなところで働いて、限界を感じた若者が他の方法を模索している。普通のところで働いてそこを変えるより、新しい所で、介護を生き方そのものとして実施できる場所を探しているというか。彼らは20前後でバブルを経験し、それがはじけてですから、快楽主義の末路、消費文化の行き過ぎを見たというか。そのゆり戻しが起こっているのかもしれません。逆にいうと、認知症であったり障害があったりという、介護を必要とする人々は、何かを与えてもくれる。ただ生きている、ただ生活しているでは得られない達成感を、介護者に与えてくれるのでしょうねえ。スタッフ自身も何処か欠けたところがあって、人とのふれあいで満たされ生かされているのかなあとも思います。考えてみると介護は特別なことではないですよね。以前は生活の一部として当たり前のように自宅でやっていたし、赤ちゃんに手がかかって大変なようなものかと。

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(C)大宮映像製作所

―そう言われればそうですが、実際は大変です。丁度昨年の今頃義父の認知症が解かって、右往左往。その事で頭を占領されて、その頃見た映画はほとんど覚えていません。
大宮:ええ。確かに口で言うほど簡単じゃあない。老後は年齢を逆行していきますからね。素人では無理かもしれませんね。でも介護って平和な時は平和なんですよ。1日一緒にいて、お茶を飲んで終わりということもある。これが仕事か?と思うけれど、一緒にいる事、一緒に暮らす事が仕事なんですね。逆に、突発的な事態で、休みの日に呼び出されたり、自宅まで出かけないといけないこともある。何処までがプライベートで、何処からが仕事か解からないけど、頼られていることが自分の生きがいになっているのではないかと。頼られるのを楽しんでいるようにも見えました。誤解を受けるかもしれませんが、看取った達成感という意味で、利用者の死すら楽しんでいると感じました。彼らが一番嫌がるのが、途中で施設を変わられることなんです。一番辛いと言いますねえ。情でやってきたのに引き裂かれるようだと。

―情ですか。それまでの関わり方によっては、家族ですら情を切りたい事があるんですが。過去が関係ない他人だからこそ出来るところもあるのかもしれませんね。ところで、介護保険を使わないとなると全額自己負担ですよね。下世話な話ですが、幾ら位になるのでしょうか? 実は義父がグループホームに入っていて、色々お手をかけるものだから、心配になって計算したことがあるのです。そしたら、施設には、行政からの介護保険料も含めて、一人当たり一ヶ月に45,6万円が入ると解かりました。もちろん介護保険は本人は1割負担だから、こちらはそんなに払っていませんが。それでもキュウキュウだそうで、頻繁な通院や、突発的な入院等でお手数をかけると、家族としては申し訳なさで一杯になるんですが。
大宮:利用料金は一律ではないんじゃあないかなあ。本人の年金の種類だったり、家族の方の経済状態で色々違うのだと思います。全額負担といっても、そもそもの金額が低く抑えられているはずです。例えば1日デイサービスを受けると、〇〇〇前後とか言っていました。

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(C)大宮映像製作所

―それだったら何とかなりますよね。
大宮:ええ、負担できる範囲のはずです。ここが全てではないけれど、色々な施設が出来たとはいっても、介護保険制度からこぼれてしまう人もいる。その人たちをどうするかということになった時、こういう人もいる、こういう所もあると提示できればいいなあと思って作りました。介護の方法にしても、制度ではなく、人としてしなくちゃあいけない事があるんじゃあないかと、彼らは言うんです。なるべくその人に寄り添って選べるようになれば良いじゃあないですか。選択肢の一つということかなあ。ただ、介護保険でフォローできるのであれば、拒否しないでそれも貰い、自己負担も使うといった、両方にまたがって一緒に歩んで行けないかなあと、思いますね。若い人がそれを模索してくれているのが嬉しいですよ。
―ええ。頼もしいと言うか。でも入所待機者が多いのでは?
大宮:いや、基本的に来たら入れるんじゃあないですかねえ。来る者を丸ごと受け入れるというか。取材で気持ち良さそうだなあと思う所は、たいてい丸ごと受け入れているところです。

―なるほど。おおらかですね。
大宮:日本の高齢化は凄まじくて、今後人類史上未体験の、老人が老人を介護するという領域に進んでいく。大らかにならないとやっていけませんよ。それに介護保険も制度として融通が出てきました。最初介護保険を使わないと言って始めたとしても、それに拘らず、制度が自分に寄って来たら、貰えるものは貰って、頑張り過ぎないで、長く続くようにして欲しいなあと思います。ただ制度の縛りには地域差があって、千葉の方は比較的ゆるい。だから「いしいさん家(家)」や「井戸端げんき」のような色々な所があるんですよ。京都なんて施設をもう作るなと言う方針ですからね。増やすと介護保険料が払えなくなると。箱を作ると経費が掛り過ぎるから、空き家や廃校を利用するとか、方法はあると思うんです。これからもっと多様化していって欲しいですね。(聞き手:犬塚芳美)

《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》
 <正直なところ>、これがベストかどうかは解からない。設備も良いとは言えず、介護用にいたる所を工夫して建てられた施設を見慣れた目には、わざわざこんな不便な所で、辛い作業をする意味があるのかと疑問も持ちました。 
 <そうは言っても、スタッフも入所者>も、それぞれの顔が見えるのが凄いのです。ここには施設特有の取り澄ました静寂も、過剰な清潔感もない。その代わり、雑然とした日常、煩雑な人間関係が、個性豊かに浮かび上がってくる。まるで自宅のよう。介護職員も家族です。暮らしとはこんなものかもしれないとも思いました。だからこその、「ただいま それぞれの居場所」なのでしょう。
 <人生の最終章を>、自分らしく生き抜こうとする入所者たちを、体当たりで受け止めるスタッフ。嬉しいけれど、情に流されて無理をしないで欲しい。若い人たちが自分も大事にしつつ、続けられればいいなあと思いました。


この作品は、5月1日(土)から第七芸術劇場、
     5月22日(土)から神戸アートビレッジセンター
     順次京都シネマ、にて公開
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映写室「ただいま それぞれの居場所」大宮浩一監督インタビュー(前編)

映写室「ただいま それぞれの居場所」大宮浩一監督インタビュー(前編)  
 ―介護保険制度からこぼれる人々の居場所―

 介護保険制度が出来て10年、若者の流入も多く、介護の種類は増えてきました。でも一方で、介護保険の制度に合わず施設を追い出される人もいます。そうなったら何処に行けばいいのか。まだまだと思っていても、介護問題はある日突然、待ったなしでやってくる。現に私も、去年突然渦中に放り込まれました。でも悲壮になってばかりでは始まらない。新しい介護の形を模索する人々を追った、大宮浩一監督にお話を伺います。

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(3月30日 大阪にて)

<その前に、「ただいま それぞれの居場所」はこんな作品>
 京都に小さな介護施設が誕生した。28歳の青年が妻と2歳の長女と一緒に、自分のおじいちゃんを自分の手で見たいと、介護保険を使わず、普通の民家で始めた施設だ。一方、埼玉県のケアつき福祉施設「元気な亀さん」は、創立23年の老舗。20人の宿泊者とデイサービスで、障害者や学童も通ってくる。怒りっぽくてスタッフを殴る老人は元校長先生。でも、散歩し、スタッフや家族と共に流しそうめんに舌鼓を打つと、笑顔が広がる。最近、他の施設から追い出され、ここに辿り着く利用者が増えてきたという。


<大宮浩一監督インタビュー>
―「よいお年を」や「若葉のころ よいお年を2」と同じ「元気な亀さん」が出てきますね
大宮浩一監督(以下敬称略):ええ、さすがに当時の入所者はもういないんですが、スタッフは残っています。福祉の現場は離職者が多いと言われるけれど、ここはそんなことがない。皆長く続く。仕事場ではあるけれど、もう一つの生活の場になっているんでしょうねえ。99年に作った前作の時は、介護保険制度が出来る直前だったけれど、「元気な亀さん」に若い人が一杯入ってきた。(これはブームか? そのうち辞めて行くんだろうなあ)と思って、若い人を中心に撮ったんです。だけど、今度行ってみると、その時の人が結構残っている。お母さんになって子供と一緒にそのまま来てたりとかで、嬉しかったですね。
―居心地が良いのでしょうねえ。その頃と施設のスタンスは変わっていませんか?
大宮:ええ、変わっていないですね。主催者の瀧本さんは、パンチパーマが薄くなってそれを帽子で隠すようになったけれど(笑)、理念とか姿勢はぶれずに頑張っている。それがあるから若い人が付いていけるんだと思います。上にぐらぐらされたら、迷いになりますが、瀧本さんは一貫してますから。

―前作の時は大宮さんはプロデューサーですよね?
大宮:そうでした。今回もその時の監督に声をかけたんだけど、彼はその後両親の介護という家庭の事情が生じた。映画を辞めて故郷に帰り、親と一緒に暮し始めたんです。今は、ご両親が施設に入っているので、もう1回どうだと声をかけたけれど、向こうで責任のある仕事もしている。「俺はもういいから。映画を見せてもらうよ」ということで、今度は僕が監督をしました。

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(C)大宮映像製作所

―介護問題は誰にも降りかかってくるという、典型のようなお話ですね。
大宮:そうなんですよ。誰にとっても他人事ではないというか。実は僕にしても、親の介護が急に差し迫ってきました。この作品が完成したすぐ後で、それまで元気だった父が、転んだことがきっかけで要介護5まで行ってしまったんです。自分だっておぼつか無い母が介護していて、いわゆる老老介護ですよね。実際のところ、これが完成した後でよかったと、しみじみと思いました。実家は山形なんで、東京で暮している自分はどうしたら良いのかと、今考えているところです。こっちで施設を探したりしながらも、(映画では居宅が良いって言ってねえか? 矛盾してるよなあ)って自分で突っ込んだり、そんな繰り返しですね。でもこの作品で、すべてを受け入れそれを愉しむという事を教えてもらったんで、悩んで酒を飲んでも状況が変わらないのなら、おおらかに構えていようと思っています。

―確かにこの中で、入所者もスタッフも皆さんおおらか。雑然とした中で、個性豊かに生き生きとされていて、(こんな施設もあるんだなあ)と嬉しくなりました。色々介護施設を調べられたんですか?
大宮:こういう小さい所を中心に見ました。対極の、大きな特養とかは見ていません。僕は映画制作者であって、介護の専門家ではない。あまり知識を持つと、スタッフの行動についても「これはおかしい」とか口出ししたくなって、逆に作品に縛りが出るかもしれない。そう思って、あえて調べなかったところもあります。特養も必要だと思うし、大きな所には良い所も悪い所もある。逆に小さい所にもその両面があります。どちらが良いと言うのではないけれど、映画の立ち位置として、どちらかと言えば、こんな小さい所にシンパシーを持つというところでしょうか。
―シンパシー?
大宮:ええ。小さい所へのシンパシーという意味では、映画の作り方と似ています。作りたいものを作る時に、始めてエネルギーが出るでしょう? 映画を作っていても、撮影所とかで社員として仕事を与えられていると、好きな映画作りでさえ、好きでなくなってくると言うか。人生思いっきり生きれるのは、たかだか数十年。好きなように、いい加減に生きても良いと思うんですよ。好きだから頑張れるんだから。

―そういう意味では、この中でも若い人たちが、ある意味いい加減に、好きな事をしていますね。もちろん試行錯誤の時間はあったのでしょうが、こちらから見ると実に気軽に、段差や階段がある自宅を使って、介護施設を作っている。建物がどうとか、行政を動かしてどうとか、難しく構えないでも、志があれば、こんな風に出来るんだなあと目から鱗が落ちました。
大宮:介護保険を使うには申請しないといけない。行政が絡むと色々制約や規制があるらしいんですよ。彼らはそれを嫌っている。例えば夏の暑い日に散歩に行って、汗ばんだらシャワーを浴びたい。普通の感覚のそこの当たりが、対応できるかどうかです。大勢いる施設だと、(何時に食事で、お風呂は何曜日で)と規則を作らないと運営できないけれど、小さい所だと、それぞれの顔を見ながら臨機応変に出来ると。

―確かにどの施設も自宅のようだし、暮し方も自宅の延長ですよね。
大宮:散歩に行ったりの日常や、施設にしても生活臭の溢れた所で、ごちゃごちゃしてたり階段があったりですからね。これが好きな人と、きちんとしてるのが好きな人がいるわけで、誰にでも良いとまでは言えません。自分の部屋があって、規則正しい日常があってと、きちんとしながら、一人で居たい人もいるでしょうから。
―ええ。体が動きにくいのに、2階で、しかもお布団に寝て、手を貸して立ち上がらせてもらっている。こんな事を続けて介護者は腰を痛めないだろうか? ベッドを利用しても良いんじゃあないか? とも思いました。
大宮:そう思われるのも解かります。この作品は、ここが良いではなく、こういう所もあるという事です。(聞き手:犬塚芳美)
<続きは明日>

この作品は、5月1日(土)から第七芸術劇場、
      5月22日(土)から神戸アートビレッジセンター
      順次京都シネマ、にて公開

映写室 新NO.49オーケストラ

映写室 新NO.49オーケストラ 
  ―チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に込めた思い―

 <クラシック音楽の世界を>、ドラマティックに描いた映画が続く。音楽家たちの浮世離れした物語と共に、個性的に演奏されるクラシックの名曲を聞くのが醍醐味だ。
<日本の音大生が>音楽家になっていく過程を描いて、今大ヒット中の「のだめカンタービレ最終楽章」では、のだめの吹き替えをした、中国人ピアニスト“ラン・ラン”のエキセントリックな演奏に魅了された。ロシア・ボリショイ交響楽団が舞台の、これから紹介する「オーケストラ」では、劇中曲にどこか東欧的なジプシー音楽の匂いがする。音楽の向こうに、音を奏でる人の心が見えて、音楽が解かりやすいのだ。
<音楽って生き物、演奏する人の心なのだと>、このあたりで音楽と物語が絡んでいく。終盤に、美貌のソリストとの競演で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が使われるが、目と耳の両方が圧倒される。にわかクラシックファンが増えること請け合い! ぜひ音響設備のいい劇場で見て欲しい。

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(C) 2009 - Les Productions du Tresor

 <元ロシア・ボリショイ交響楽団の指揮者>アンドレイは、清掃員。ユダヤ人が迫害された時代に、彼らを庇って職を追われたまま30年が経つ。ある日、支配人室で、パリ・シャトレ劇場からの招待状を見つける。とっさに閃いたのが、昔の仲間を集めて乗り込むことだった。シャトレ座の支配人を騙し、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をやる事と、ソリストとしてアンヌ=マリー・ジャケを呼ぶ事を納得させる。色々な仕事で糊口を凌いで来た仲間がパリに集まるが、観光気分だったり、行商を始めたり。アンドレイは偽ボリショイ交響楽団を指揮し切れるのか…。

 <音楽家の暮らしを描くと>、何処かこっけいになるようだ。この作品でも敗者復活戦に臨む筈のアンドレイは、だらしがなくてハラハラさせられる。特に序盤は、彼の頑固さや不甲斐無さばかりが描かれ、何故彼が掃除夫にまで落ちぶれたのか解からない。ただ、不遇の彼を支える妻がいて、彼の成りすましの計画を聞くと「離婚だわ」と呟き、少し間をおいて「もし、それをやらなかったら」と満面の笑みで付け加えて夫の背中を押す。この辺りで、観客も彼にかけてみようと思い出す。決め手は妻の一言と言うわけだ。

 <元団員たちの現在は>、聞くも涙語るも涙の世界。どんなに才能があっても、特殊な仕事をする人が仕事を追われるというのはどんなことか、不況の日本だけに、身に詰まされる。特に、続けるのにお金がかかるのに、暮らす上では無くてもいい音楽となると、生きていくのは大変。音楽の流れる劇場から離れたくなくて(?多分)、清掃をしながら、漏れて来る音にタクトを振り続けてきたアンドレイ、タクシーの助手席に楽器を乗せ仕事の合間に演奏していた者、生活に困り楽器を売り払った者、怪しい仕事に手を染める者、妻と別れた者、夢と現実の隔たりは大きい。それでも何処かこっけいなのは、この作品の視点でもあるけれど、音楽を志す人たちの、どこかノー天気で浮世離れしたところでもあると思う。この辺りは、「のだめ…」の貧乏オケの団員と一緒だ。

 <復活を夢見るアンドレイは>、パリのステージに残りの人生の全てをかけている。でも他の団員にそこまでの思いはない。30年の間に、音楽やステージへの夢は、実現したいものではなく本当の夢になりかけているのだ。やっとパリに到着しても、陽気でいい加減なロシア人気質のまま、久しぶりの自由を謳歌し、あっちにふらふらこっちをうろうろ、飲んで食ってに浮かれ、練習どころじゃあない。焦る招聘側、暢気な団員たち、狂騒劇はここからが本番なのだ。
 <そんな表面の狂騒を尻目に>、アンドレイの心は深い闇を漂い始める。久しぶりの舞台への不安から、止めていたアルコールに手を出し、意識も朦朧。そもそも、なぜアンヌ=マリーに拘るのか、エリート指揮者が何故失脚したのか、過去を辿ればロシアの悲しい歴史が絡んで来た。

 <脚本と監督は>,「約束の旅路」のラデュ・ミヘイレアニュ。今回もユダヤ人のうけた迫害の歴史を上手く織り込んでくると思ったら、彼自身がユダヤ系のジャーナリストの息子で、独裁政権下のルーマニアからイスラエルに逃げた過去があるらしい。彼にとって、迫害の歴史は、創作からはずせないテーマなのだ。アンドレイたちの再生を描くことが、仲間へのエール。歴史を風化させたくないという思いでもあると思う。


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(C) 2009 - Les Productions du Tresor

 <ハチャメチャな寄せ集め団員達が>笑わせてくれるとしたら、調子を変えるのは、ソリスト、アンヌ=マリーの登場だ。ついこの間「イングロリアル・バスターズ」で、心を掴まれたばかりのメラニー・ロランが、又もやユダヤ系の謎めいた女性に扮する。その美しさは、まるで光が降りてきたよう。団員達のかもし出す、時を止めたようなロシアの重さや野暮ったさと対照的で、西側社会の現代性と洗練度を見せ付ける。
<容姿の繊細さからなのか>、これほど美しいのに、幸せ100パーセントと言うより少し薄幸な匂いがするメラニー・ロラン。それがたまらなく魅力的で、謎めいてもいて目が離せない。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏シーンでは、音楽と共に、彼女の透明感のある美貌と、その美貌を一段と際立たせる、情感の溢れる演奏姿も見所だ。「のだめ…」の“のだめ”が演奏中の大胆な体の動きで思いを表現したのとは対照的に、こちらはもっと本格的に、大きな瞳と豊かな表情で思いの多くを表現する。まるで音楽家が音楽と自分の心を一体化させる過程を見た思いだ。

<前作では普段着を抜群のセンスで着こなしながら>、ラストの赤いドレスが、設定上から他の人に比べて安っぽくて残念だった。もっと良い素材のドレスを着せて、飛びっきりの美貌を見たいものだと思っていたら、こんなに早く、文句なしのドレス姿が見れたのが何より嬉しい。

 <…と、メラニー・ロランの絶賛>で終わりそうだ。仕方がない、それがアンドレイの思いだし、そんな物語なのだから。ところで、アンドレイと彼女の関係は何なのだろう? 途中、ありがちな物語を想像したけれど、後でもっと崇高な物語に連れて行かれた。この物語、練りに練られている。(犬塚芳美)

この作品は、5月1日(土)より梅田ガーデンシネマ、
          神戸国際松竹、MOVIX京都等で上映

映写室 「密約」千野皓司監督インタビュー(後編)

映写室 「密約」千野皓司監督インタビュー(後編)
   ―22年ぶりの、タイムリーな再上映―

<昨日の続き>
―でも放映された時は評判だったのでしょう?
千野:当時は話題になりました。でも話題になったといっても再放送はなかった。特別番組だし、お金もかけている。これ程のものならたいてい何度も再放送があるんですが、1回で闇に葬られたんです。しかもキー局の関係で、肝心の沖縄では放映されなかった。でも自主上映とか、労働組合の皆さんが応援してくれましたね。ナナゲイの元の映画館でも上映してくれました。モスクワの映画祭に出したらどうかと言われて、1989年、丁度今村正さんの「黒い雨」と一緒に出しました。地味な映画だから駄目だろうと思っていたのに、一杯でしたね。丁度東西冷戦が終わり、ペレストロイカの時代を迎えようとしていたのもあると思います。ロシアでの成功のニュースはすぐにアメリカにも伝わり、今度はハーバード大学で上映してくれるという。ここでも一杯になり嬉しかったですねえ。モスクワでは同時通訳だったのが、ここでは英語の字幕を入れないといけない。私の志に感銘してくれたのか、翻訳者が報酬は要らないと言ってくれたりもしました。

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―そういうことがありながら、日本では劇場で一般公開されなかったと。悔しかったでしょうねえ。でもそれを晴らすように、今回の上映はタイムリーです
千野:ええ。時代に要請されたというんでしょうか、映画は生き物だとつくづく思いました。きっかけは酒の席で、毎日新聞の元映画記者の方が、これを見たいと言い出されたことです。試写をやるにもお金がかかるんだけど、そんなの無いよと言ったら、それでも見たいと言って皆がカンパしてくれた。で、試写会場を借りて上映したんです。そしたらこれを配給したいという会社が現れ、全面的にお任せして今回の運びになりました。
―まさに時代に呼び寄せられたと。
千野:そうかもしれませんねえ。上映はとっくに諦めていたのに、こんなことになって感無量です。33年前に製作された映画が再び脚光を浴びるなんて、これまでのテレビ界ではなかったことでしょう。一方で、僕は14年の年月と私財を投じて、日本とミャンマーの合作映画「THWAY(トウエイ)―血の絆」を撮ったのだけど、完成して6年経ってもまだ劇場公開できないでいる。つくづくままならないものだと。

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―難しいですね。でも今度のことがきっかけになるかもしれませんよ。ところで、久しぶりにご覧になっていかがでしたか?
千野:感無量ですよ。時代の風が人間の心を動かしたんだなあと思います。人生捨てたもんじゃあない、生きていてよかったと思いました。実は3年前に、この映画をかけて、その後で講演するという催しがあったんです。北村和男さんが来てくれて、拍手で壇上へ迎えて、その3ヵ月後に死んじゃった。他にも、この映画は出演者、スタッフと大勢亡くなっている。彼らが蘇った気分ですよ。これだけ歳月がたっても、ちっとも色あせてない。皆いい仕事をしているなあとそれにも感動しました。

―この事件は当時世間を騒がせましたね。事件そのもの以上に「情を交わした」という言葉を覚えています。
千野:当時すでに経営が厳しかった毎日新聞は、この事件のせいで購読者を半分にした。主婦層が、「西山のような記者がいる新聞社の記事は読めない」と抗議の電話を一斉にかけてきたんです。皆が世論操作に負けて、感情的になり、肝心の問題を置き去りにした。民衆が情けないと言うのが、原作者の澤地さんのスタンスですね。一貫して弱い立場の女を演じた事務官が、「国民に知らせるべきだと思った」と主張していれば、無罪を勝ち得ていただろうと映画の中でも言っています。

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(当時の台本)

―目からうろこです。今ならすぐにそう思えるけれど、当時はそう思いながらも、私も世間と同じように、西山記者の手口を嫌だなあと思いました。暫くは毎日新聞を読みたくないとも思ったものです。それと同時に、事務官の女性にも、同じ女性として情けないなあといらいらした記憶があります。実際は情に流されてのことでも、意地でも、大義名分を主張できなかったものかと。当事者2人はご覧になりましたか?
千野:解かりません。映画の中にもあるように、蓮見事務官には澤地さんすら会おうと思っても会えなかった。西山さんはどうでしょうねえ、こっそり見てくださってると思いますが。澤地さんはよく出来ていると言ってくださいましたが。
映画宣伝担当者:西山さんは多分見ていないと思います。澤地さんの原作は読んで、よく書けていると言ったらしいけれど、映画のほうは生々し過ぎて見れないと聞きました。西山さんは未だに蓮見という名前を聞くだけで、肌がぴくぴく動くほど、神経過敏なのだとか。よく出来ていればいるほど、当時の再現が怖いんではないでしょうか。

―情報提供者を守れなかったという意味で、記者として痛恨のミスを犯していますからね。国民を欺く「密約」を暴いたと言う大きな仕事の達成感以上に、一人の女性の人生を変えてしまったという重さに耐える日々だったのでしょうね。西山さんもまた、人生を狂わせてしまったと。
千野:この役は難しいですよ。でも北村和男さんが実に上手く演じてますよ。

―冷淡過ぎず、そうかと言って記者の軽さや狡さ、非情さもある。言葉にしない思いが程よく伝わってきました。それに蓮見役の吉行和子さんが又いい。曖昧なこの女性の雰囲気を、品を残してじんわりかもし出している。この2人でなかったら、もっとどちらかにぶれていたでしょうねえ。澤地さん役の大空真弓さんもお若くて知的。そんな意味でも、玉手箱を開けたように、久しぶりにあの時代を垣間見ました。ところで、この作品、どんな人々に見て欲しいですか?
千野:もちろん大勢の人に見て欲しいですが、特に日本を支える50代の人たちに見て欲しいです。日本の政治の歴史ですから。町田で上映したんですが、インテリ層の女性が多かった。男性はなかなか時間がないんだろうけれど、3人それぞれの視点で描いているので、ぜひ見て欲しいですね。(聞き手:犬塚芳美)

《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》
 <この事件を覚えています> 私は西山さんの手口と、それが公になった事の両方が情けなかった。情事なら何故伏せなかったのかと。それを上手く言葉に出来なかったものの、澤地さんが見事に事の本質をついていて、この作品はその視点からも作られています。
 <ニュース映像で見た、地裁の判決後のお二人のインタビューは>感慨深いものでした。いつの間にか八十路前になった澤地さんが、お着物を凛と着こなし、年齢を重ねた美しさを纏われて、これを書かれた時と同じように、情報操作されて本筋から目をそらされ、「情をかわした」に終始した当時の裁判、それを許した私たち大衆の情けなさを、毅然と主張される姿を、憧れの眼差しで見ました。この間の日々、澤地さんが着実に実績を残されたことを実感します。一方、西山さんの表情からは多くのことが読み取れなかった。北村さんの演じた彼同様、多くの事を自分で背負い、今も心の痛みを抱えて生きてらっしゃるのだと想像しました。
 <そう思うと>、千野監督の言われた、日本を支える50代の人に見て欲しいという言葉がいっそう重い。二人のように、情報操作に流されず、物事の本質を突ける大人でいれているのだろうかと、自問しています。


   この作品は、4月24日(土)から第七芸術劇場、
         6月5日(土)から京都シネマ にて公開

映写室 「密約」千野皓司監督インタビュー(前編)

映写室 「密約」千野皓司監督インタビュー(前編) 
   ―主人公は、沖縄返還協定に絡む日米の「密約」を暴いた毎日新聞記者―

 <4月9日、東京地裁が歴史的な判決>を出した。沖縄返還協定に絡む日米の「密約」を認めたのだ。25人の原告団の中、密約を暴く発端となった記事を書いた、元毎日新聞記者、西山太吉氏や、この事件を元にノンフィクション「密約 外務省機密漏洩事件」を書いて、作家として世に出ることになった澤地久枝さんの、喜びや怒りの会見をご覧になった方も多いと思う。実際の書類は見つかっておらず、立場上相当上位のものが関与して、破棄したと疑われている。まだまだ真相の全ては解からないが、民主党政権になって、外務省の機密文書の開示が増えてきた。
 <そんな追い風も>あるのだろう。澤地さんの本を元に、テレビ朝日の開局20周年記念の特別番組として作られた本作が、30年以上経って初めて劇場公開になる。タイムリーな公開に、「感無量です」とおっしゃる千野皓司監督。この作品に込める思いや撮影秘話等を伺います。

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(4月2日大阪にて)

《その前に「密約」とはこんな映画》:それぞれの視点の三部構成になっている。
第一部:東日新聞記者、石山太一の視点で。
第二部:外務省秘書官、筈見絹子の視点で。
第三部:後にこの事件のノンフィクションを書く、作家、澤井久代の視点で。


 <1972年、東京地裁では>被告席に立つ男女に、検事が「被告人石山太一は被告人筈見絹子とひそかに情を通じ…」と起訴状を読み上げている。
 <その前年、沖縄返還に関して>、日本は基地の旧地主等、個人に対する損害補償をアメリカに請求していた。しかしアメリカは、沖縄返還に際して国民の税金を一切使わないと議会で約束している。交渉は行き詰るが、日本政府は時の総理大臣の引退花道として交渉を進めたがっていた。考えられたのが、日本政府が請求権を肩代わりすると言うものだ。
 <そんな噂を聞きつけた毎日新聞の石山は>、確実な情報を得るため、外務省にキャップとして送り込まれる。目をつけたのが、女性事務官の筈見だ。彼女と情を交わし、極秘電信文を見せて欲しいと頼む。だが、筈見の持ち出したそれが野党の手に渡り、国会での追及に使われたことから、出所がばれて…。
 <石山と筈見を裁く法廷を、一人の女性が傍聴している> 駆け出しのノンフィクション作家、澤井久代だった。彼女は苛立っている。国が国民を騙したと言う大きな問題が、記者と情報提供者が、情を交わしたという問題にすり替えられて、それに踊らされる大衆…。
 

《千野皓司監督インタビュー》
―監督は日活の「喜劇、東京の田舎っぺ」で監督デビューですよね。
千野皓司監督(以下敬称略):ええ。東京ぼんたが人気絶頂の頃の作品ですよ。会社の命令でしょうがなく撮ったものです。元々はドタバタ喜劇なのに、ドタバタが嫌いで複雑な話にしたんだけれど、お客が入って続きを撮ることになりました。彼は漫才家で俳優ではないから、演技が出来ない。指導は手取り足取りでしたね。かなりシリアスなものもあって、3本目は十三の駅の裏側で撮影しました。コメディーなのに、ゲリラ的な詐欺師のその日暮を撮りたくて、釜ケ崎で1年近くロケしたものもあります。まあそんなだから、しょっちゅう会社とは対立していました。
―反骨精神のせいで随分苦労されたと?
千野:ええ、そうです。それに時代も悪かった。この頃から、邦画が急速に駄目になる。日活は生き残りをかけてロマンポルノに行くんです。仕方なくピンクを撮った人も多いけど、僕は嫌だからテレビに行った。と言うのも、僕は東京は新橋の花街育ちで、実家がそこで呉服屋と言うか、帯止めやら半襟やらを売ってたんですよ。小学校の友達は芸者の子とか色々で、ませている。誘われて、いかがわしい場所の覗きをやったりした。つまり僕には悪ガキ時代があるんですよ。だからなのか、逆に映画でピンクはやりたくないんです。

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―ええ。
千野:で、日活を追われ、テレビに行ったんだけど、撮るだけでなく脚本も書きました。ホテルに閉じ込められて、原稿が1枚書き上がると、待ってた人が持って行くとかね。忙しかった。映画の人は構成が上手い。テレビの人は台詞が上手いんです。この頃に両方から鍛えられました。でもいくらテレビを撮っても、映画評論家は馬鹿にして評価してくれない。悔しい思いをしましたねえ。そんな鬱々とした思いがあって、何かやりたいと言ってたら、時代的にノンフィクションが出てきた。吉展ちゃん誘拐事件とかのね。企画書を出したら、当時のプロデューサーが1本ではもったいないと言い出し、「真相」というくくりでシリーズ化することになって、数本企画を出した。で、政治的テーマだから一番難しいと思ったのに「密約」の撮影が最初に決まったんです。テレビ朝日の20周年記念番組でした。
―大作ですね。評判は?
千野:よかったですよ。ただ、情事の描き方が淡白だと言われましたが、それは意図的だった。原作を読んだ時、ポルノ物にはしたくないなあと思ったんです。しかもスポンサー筋が、受けが良いかもしれないが、情事物にはしないでくれ、政治物にしろと言ってくれた。で、硬派のこんな形になりました。しかもお金がかかるのに、35ミリで撮らしてくれたんですねえ。それもあって、今までどんな良いものを撮っても評価してくれなかった評論家たちが、これは評価してくれました。あの時35ミリで撮らしてくれたのはありがたかったなあと、今しみじみ思います。こうして今回劇場にもかけられるんですから。

―撮影はいかがでしたか?
千野:撮影は黒澤作品も撮っている、斉藤孝雄さんという有名なカメラマンなんですが、予算がなくて、カメラマンがライティングも何も全部一人でやるから大変でした。走り回ってましたねえ。それに「密約」を撮ると新聞発表したとたん、公共施設の撮影は全てシャットアウト。表のシーンは隠し撮りが多いんです。苦労しました。舞台になる毎日新聞社の撮影ももちろん出来ず、社内のシーンは共同通信で撮っています。実は有名監督の夫人が澤地さん役で出る予定だったのに、直前になって監督が断ってきた。「こんな作品に出たらCMの仕事が来なくなる。家内は出せない。きみは本当に撮るのか?」と言うんです。実際僕はこの作品の後、2年間仕事がなかった。テレビは許認可事業だと始めて気付たほどです。堪り兼ねて知り合いのテレビプロデューサーに仕事が欲しいと頼むんですが、苦労しましたよ。(聞き手:犬塚芳美)           
<明日に続く>

  この作品は、4月24日(土)から第七芸術劇場、
        6月5日(土)から京都シネマ にて公開

映写室 新NO.48月に囚(とら)われた男

映写室 新NO.48月に囚(とら)われた男 
  ―月に1人で3年間赴任する―

 <スペースシャトルに乗って>宇宙に飛び立った山崎直子さんの動向が、連日報道された。宇宙ステーション「きぼう」との合体、アームを使った船外の仕事、ぽっかりと浮かぶ青い地球と、届く映像は映画以上にSFティック。神秘に魅せられて、未来の宇宙飛行士を夢見た子供たちも多いと思う。そんな今、タイムリーにこんなSFサスペンスが登場した。と言っても、こちらはイギリス映画らしくちょっとブラック。月の裏側で、たった一人で残酷な運命をたどる男の物語だ。
 <センセーショナルな監督デビューを飾ったのは>、デヴィッド・ボウイの息子(!!)の、ダンカン・ジョーンズ。斬新なアイデアと技術で、イギリスの新人監督賞を独占する。この親子やっぱり只者じゃあない、遺伝子からして違うと、父親の偉業を思い出す人も多いと思う。少し背筋をヒヤッとさせる、21世紀ならではの作品です。

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 <宇宙飛行士のサムは>、世界最大の燃料会社に勤務する。一人ぼっちで、知的ロボットのガーディと一緒に月の裏側に住む。ヘリウム3を採掘して地球に送るのが仕事だ。任期は3年、後2週間で地球に帰れる。唯一の楽しみだった家族とのTV電話が交信不能となり、里心は募るばかり。この頃幻覚や頭痛も酷い。とうとう外で作業中に事故を起こし、気が付くと基地の中の診察台だった。だが、様子がおかしい。自分と同じ顔形の男がいるのだ。本物はどっちなのか? …と訳の解からないまま、観客は哀れなサムの混沌に巻き込まれることになる。

 <かって、今以上に>、宇宙に夢を馳せた時代がある。人類が始めて月面を歩いた1969年の頃だ。21世紀には資源の枯渇した地球を捨て、月に住むようになるかもと言われたけれど、なぜか1972年を最後に人類は月から遠ざかっている。あの狂騒は何だったのか、どうして月から遠ざかったのか? 素人がそう思うのも当然で、だから時々、あの月面歩行映像は嘘だったとかの、まことしやかな話まで囁かれる。まるで、あの当時の月への狂想自体がSFのようにも思う。夜空に浮かぶ月を毎日のように眺めながら、考えてみると月について何も知らない。こちらに顔を晒すことの無い裏側にいたっては、勝手な想像しかないのだ。

 <そんな具合に>、私たちの宇宙は月で始まり、月で止まっている。本当言って、私の場合、宇宙ステーションも船外作業も、「アポロ計画」で受けた衝撃に比べるとどうって事はない。あの頃のほうが宇宙に近かった。6分の一の重力の月面をゆっくりジャンプするように歩いたあの映像の神秘、未来へ誘った精神、この作品はそこに連れ戻してくれる。
 <こんな映画を見ると思うのだ> 万博会場を飾った「月の石」、もしかしたらあの中には、私たちが夢見たような、もの凄い鉱物が含まれていたのかもしれない。表向きの月面探検は止めたけれど、近い未来にこんな事が起こるような研究が、ひそかに続けられているのかもしれない。…なんてダンカン・ジョーンズを真似てサスペンスしてみた。

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 <どうしてあれほど月面歩行が衝撃だったのか> それは、今の宇宙計画が科学の進歩を見せるだけなのに、「アポロ計画」の頃は、本気で地球以外の星で暮らすことを探っていたからだと思う。地球外生物との遭遇も目指して(?)いたかもしれない。この作品に地球外生物は出てこない。その代わりに、地球を遠くはなれて暮らす一人の男の人間性をじっくりと描いている。宇宙に行っても人は人だ。しかも夢で始まった宇宙への旅も、残ったのは、人類の野望と暴走、資本主義の冷酷さだけ。それらに翻弄される男の、怒り、絶望、孤独の深さは当然のこと。舞台は月だけれど、ものすごく内的な物語になっている。

 <この作品の素晴らしさは>、宇宙への夢と資本主義社会の闇の両方を見据えた、ストーリーの面白さや発想の奇想天外さだろう。主人公の戸惑いにまるでロボットのガーディのように寄り添い、真相を探るのが醍醐味だ。だから詳しくは書けない。未来の話だけれど、なんだか手の届きそうな、想像できる範囲のリアルさがおぞましい、…とだけ書いておこう。
 <主人公のサムを演じるのはサム・ロックウェル> ほとんど一人芝居のような活躍で、とぼけたような顔、鬱積した思い、疑心難儀の表情、放心状態と八面六臂。実は合成画面で一人3役をやり、人の持つほとんどの感情を体現し分け、演技派の実力を見せ付ける。誰に感情移入すれば良いのか、おろおろとした。ロボットだけれど、心を見せるガーディの声音も良い。サムの味方はサムとガーディだけ。何とも切ない。

 <ところで、デヴィッド・ボウイは>、「地球に落ちてきた男」に主演して、この作品と真逆の、宇宙からたった一人で地球にやってきた男の苦悩を演じた。全盛期のデヴィッド・ボウイは確かに宇宙人。地球人には見えなかった。ダンカン・ジョーンズはそんな父に育てられ、色々な方面で大きな影響を受けたのだと言う。つまりこれは、2世代で完成したSFサスペンスなのだ。

 <未来映画なのに何処かノスタルジックなのは>、SFマニアの監督が、いたるところに古いSF映画からの影響の痕跡を残しているから。ロボットのガーディ、月面車等、どこかで見た感じがする。それにSF作品とはいっても、そこはイギリス映画。CGには頼り切らず実写映像との組み合わせが多いのも、そう思わせる一因だ。未来というよりは、時々月の時代に(?)に連れ戻される。
 <そうは言っても、内容的には近未来感がいっぱいで>、なんとも不思議な、時代不詳の作品だ。もしかすると今だって現実に起こっているかもと思わせる、リアリティもある。こんな発想が湧く、ダンカン・ジョーンズこそが宇宙人。日本でも芸能界の2世監督が増えてきたが、世界でも同じこと。とびっきりの感性を持つ両親の影響を、全身に浴びて育った人の才能を堪能したい。(犬塚芳美)

 この作品は、4月24(土)より梅田ガーデンシネマ、京都シネマ、
               シネ・リーブル神戸等で上映

映写室 「風のかたち」&「大きな家」上映案内

映写室 「風のかたち」&「大きな家」上映案内 
  ―いせフィルムのドキュメンタリー2本―

 上質なドキュメンタリーを作り続ける「いせフィルム」の新作が、続けて2本公開になる。「いせフィルム」と言うと、編集に絡んでいるだけで、独特の世界観をかもし出すプロダクション。さりげない日常描写の中に、人間への愛、生きることの素晴らしさを滲み出させるのが特徴だ。しなやかながら、そのスタンスを崩さない作風へのファンは多い。私もその一人だ。今回の2作品は、どちらも、ひたむきに生きる子供たちの姿を、長年にわたって追いかけたもの。作り手の被写体への静かな愛が滲み出ている両作品を紹介します。(犬塚芳美)

1.風のかたち―小児がんと仲間たちの10年―:伊勢真一監督
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 <この作品は小児がんと戦う人々を>、10年にわたり伊勢監督が追いかけたもの。始まりは聖路加国際病院副委員長の細谷亮太医師が、リーダーの一人の、SMSサマーキャンプに参加したことだった。医学の進歩で、小児がんはもう不治の病ではない。10人のうち7,8人までが直っているのに、無知な社会の偏見や差別は消えない。子供たちは病気とだけではなく、そんな世間とも戦わないといけないのだ。小さい体で過酷なのだけれど、でもカメラは苦しみだけを映したりはしない。
 <細谷医師が語りかける>「子供は死んじゃあいけない人たちだからね」と言う言葉を立ち居地に据え、彼らを悲劇の主人公ではなく、「再生」のシンボルとして描いていく。この病んだ社会に、命の尊さ、生きる意味を問いかけ、私たちに希望をメッセージしてくれる子供たち。彼らが苦しみの中から見出したものが、私たちの光となってくれる。そんな事とかが、押し付けがましくなく自然な形で浮かび上がってくるのが、本作の力。子供たちだけでなく、医療の現場で子供たちを見守り続けた細谷医師の記録にもなっている。

  この作品は第七藝術劇場で上映中(いずれも1日1回上映)
      4月10日~16日(金) 12:15~
      4月17日(土)~23日(金)10:15~

      5月以降、京都シネマで上映予定


2.大きな家~タイマグラの森の子供たち~:澄川嘉彦

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 <この作品は、東京から岩手の山奥に移り住んだ>子供たちの、森での日々を7年間にわたって追いかけたもの。まず、緑溢れて瑞々しい自然を堪能して欲しい。
前作「タイマグラばあちゃん」の撮影の為、岩手県のほぼ真ん中、早池峰山のふもとに棲みついて10年になる澄川嘉彦監督。“タイマグラ”と呼ばれるこの開拓地は、アイヌの言葉で「森の奥へと続く道」と言う意味だという。その言葉どおりに、人里から離れた森に、ブナやトチ、ミズナラといった巨木が奥へ誘う様に立ち並んでいる。
 <大人の目からは素晴らしくても>、そんなところへ突然、東京で育った4歳と2歳の子供たちがやってきたのだから困惑も当然の事。幼稚園もテレビもない生活に、最初は大声を上げて泣いたと言う。でもその子供たちが、やがて野山を駆け回って遊ぶようになる。
 <池のカエルやサンショウウオ>、春になると息吹く木々、家の中に入ってくる野鼠や赤ちゃんウサギ。森に蠢く色々な命との出会いに、上の少女は「お父さん、私たち“大きな家”に住んでいるんだね」と呟く。
 <いつの間にか、自分の命は一人のものではなく>、他の生き物、時間を越えて、面々と受け継がれたものであることを感じ始める子供たち。やがて視点は森を超え、地球と言う青い“大きな家”に暮らす仲間たち全ての命に繋がっていきます。子供の素朴な視点と、豊かな自然が、病んだ私達を癒し、命の原点を見つめさせる。

この作品は、第七芸術劇場で、4月17日(土)~23日(金)12:20~
             4月24日(土)~30日(金)10:00~ いずれも1日1回上映

      5月以降、京都シネマで上映予定


*両作品共に、自主上映を受け付けます。
  問い合わせ、資料請求は、いせフィルム(03-3406-9455)まで。

映写室 「モリエール 恋こそ喜劇」シネマエッセイ

映写室 「モリエール 恋こそ喜劇」シネマエッセイ   
―井上ひさしさんの訃報と、フランス喜劇作家の恋の物語―

 <井上ひさしさんが亡くなった> ずいぶん以前に講演で心を捕まれて以来、近くで講演やお芝居があると必ず駆けつけていたので、心にぽっかり穴が開いたようだ。
 <小説もよく読んだが>、井上ひさしさんといったらやっぱり劇作家。それも人生の機敏を描く泣き笑いの喜劇を思い出す。「頭痛肩こり樋口一葉」のような新派系の脚本も書いたし、映画化された「父と暮せば」、井上さんの遅筆でしょっちゅう公演延期になった自前の劇団「こまつ座」も懐かしい。

 <どれも独特の語り口で>、膨大な早口の台詞はやがてそれ自体が音楽のようになったし、市井の人々の深刻な事態や社会問題を扱っていてさえ、何処かにユーモアを潜ませてくる。人の本質を描きながら、芝居は楽しむもの、人生の憂さを一時忘れて心を軽くするものと、肝に銘じていたのだと思う。こんな時代だからこそ、もっと生きて、「じたばたしなくても大丈夫、人生最後は喜劇になるよ」と言い続けていただきたかった。
 <このところ>、尊敬するクリエーターの訃報が続く。世間の閉塞感と重なり、まるで黄金の一時代が幕を閉じようとしているかのようで、何とも心細い。

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©2006 FIDELITE FILMS - VIRTUAL FILMS - WILD BUNCH‐FRANCE 3 CINEMA - FRANCE 2 CINEMA

 <ところで、井上さんの訃報で>、同じように舞台に命をかけた人の映画、「モリエール 恋こそ喜劇」を思い出す。これは、17世紀のフランスを舞台に、若き日のモリエールが喜劇に人生を捧げることを決心する、ある夫人との恋が描かれている。彼を伝える全てのバイオグラフィで空白になっている、22歳の時の数ヶ月に光を当て、こんな事があったのかもしれないと、想像の限りを尽くした、フィクション伝記とも言えそうな代物だ。「恋に落ちたシャークスピア」と言い、クリエーターの創造の元や空白期間を想像すると、どうしても恋に行き着くらしい。

 <シェークスピアのように>、シリアスなドラマを書いて劇作家になりたいのに、喜劇を求められたモリエール。不本意さで腐る彼は「笑劇や喜劇は人の外側だけを描き、笑わせるが、悲劇は人間の本質を描き、感動を与える。だから悲劇をやりたい」と言う。「では、感動を与え人の心を動かす喜劇を、貴方が書けばいい。貴方なら出来る」と答えた夫人。この言葉の深さがその後のモリエールを決定つけたとしたら、まさに彼女が彼のミューズだ。知的な彼女は、見かけに騙されず知性の何たるかを知っていたし、この作家の本質と才能を見抜いていた。惹かれあう2人、でも彼女はスポンサーの夫人。

 <こんな恋が後のモリエールを作った>と言う設定は、夢の様でもあり、説得力もあり、それ以上に、俳優陣の魅力と映像の美しさに見ほれさせられた。恋も芝居も、夢と現の間のつかの間のもの、だからこそ支配しあうとそんなことも思わせる。

 <夫人の夫の、恋ゆえに背伸びした姿や、人妻への苦しい恋を>、少し離れたシニカルな他者の目で眺め、“恋こそ喜劇”と位置づけたこの作品。そのままモリエールの戯曲手法でもある。自前の劇団を持ちながら、資金不足でお金の工面に苦労した男。それでも止まらない芝居への情熱、この辺りは井上さんとも重なりそう。井上さんは日本の“モリエール”とも思えるのだ。視点は、もう少し温かくウエットだけれど。

 <井上さんの座右の銘は>「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに」だった。逆になったら陳腐極まりないのに、時々小賢しくも“やさしいことを難しそう”に言ってしまう。知的という言葉には弱い。大切な戒めを時々思い出さなくてはと訃報で改めて思ったが、この作品でも、お上品ぶったサロンで、背伸びして高尚に人生を語る陳腐さが、描かれている。それを見て、モリエールはさらに夫人の言葉を噛締めると言うわけだ。

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©2006 FIDELITE FILMS - VIRTUAL FILMS - WILD BUNCH‐FRANCE 3 CINEMA - FRANCE 2 CINEMA

 <この作品、モリエールの色々な作品のエッセンスを>ちりばめた構成もいいが、ビジュアルにも圧倒される。フランスを代表する作家の伝記映画に全面協力したのだろうか、これぞフランスと言う豪華な映像が続く。ヴェルサイユ宮殿や、イルド・フランスのお城、世界遺産の町並みが重厚で美しい。映画ならではの臨場感は、モリエールが見たら嫉妬しそうなほど。今度は悲劇と喜劇に悩まず、板に留まるか映像に進むかと苦悶したかも。コスチューム劇だけれど、衣装に負けず、それを着る俳優の個性を際立たせた、少し現代性を加味した衣装も素敵だった。

 <だからもちろん俳優陣もいい> それぞれの輪郭が際立っている。モリエールに扮するのはちょっと危険な匂いがするロマン・デュリス。惑いの瞳や鬱積した表情はクリエーターのもの、幾多の恋に翻弄されたモリエールにぴったりと一致する。特筆したいのは、モリエールが惹かれる夫人に扮する、ラウラ・モランテの素晴らしさだ。イタリア人のせいか、フランス女優ではもっと小さくなっただろう役を、知的に華やかに、たおやかに広げていく。まさに大人の魅力、大人の余裕を見せて、こんな恋があったのかもと説得力を持たせた。
 <モリエールが立ち去らなければ>、二人の恋の結末はどうなっていただろう。恋も芝居も、一時の、夢と現の間の出来事。何時か終わるものなら、一時の輝きを胸に立ち去るのが正解だ。それを知っていたモリエールと夫人。これぞ恋、これぞ映画、これぞフランスの世界が楽しい。

 <…と、喜劇に身を準じ>、台詞の一つ一つに命を縮めた井上さんとモリエールを重ねながら、美しい映像を思い出している。映像は残るが、舞台は一瞬で消えてしまう。劇作家たる者、それをこそ愛したのだろうけれど、あの舞台をもう見れないのは残念だ。これから井上作品の映像化が始まるかもしれない。期待したいような、一瞬の命を惜しみたいような…。(犬塚芳美)

この作品は、4月10日よりテアトル梅田で上映中。
      7月上旬京都シネマ、神戸アートビレッジセンター にて公開

映写室 新NO.47 プレシャス

映写室 新NO.47 プレシャス 
  ―ネグレスト、虐待と子供たちは受難の時代―

 <本年度のアカデミー賞で>、助演女優賞と脚色賞の2冠に輝いた作品がもうすぐ公開になる。アメリカの下層社会の、娘を虐待する母親を、悲哀を込めて演じたモニーク。ブルーのドレスではちきれんばかりの黒い肉体を包んだ、圧倒的な存在感の彼女の、受賞スピーチを思い出す人も多いだろう。衝撃的だけれど、よく似たニュースは日本でも時々流れる。社会の皺寄せは何時も一番弱いところに向かう。今母親たちに何が起こっているのか、助けるはずの父親たちはどうなっているのか。この作品が伝えるのはアメリカの今だけれど、世界の今でもある。
 <日本では子供手当て法案が通ったが>、お金で解決しないこともある。そんな問題に根本から取り組むアメリカの姿勢が、暗い話の中で感動となって浮かび上がります。ほとんどノーメイクで歌姫マライア・キャリーが登場し、不思議な存在感を見せるのも見逃せない。

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(C) PUSH PICTURES,LLC

 <プレシャスは16歳の少女>、実の父に犯され2度目の妊娠中だ。父親は行方をくらました。生活保護を受けて何もしない母親からは、体と精神に虐待を受けている。辛いことがあると幸せな自分を夢想して、現実逃避。妊娠がばれ、フリー・スクールに送られるが、母親は勉強して何になると言う。でも,文字を一から教えてくれるここでの出会いが、過酷な人生にわずかな光をともし始めて…。

 <この作品、貧しい黒人社会を描きながら>、それぞれの女優の姿形がすでに物語になっている。主人公プレシャスを演じるのは、電話オペレーターから抜擢されたガボレイ・シディベ。彼女の迫力たるやモニークの比ではない。鬱積した思いが全て体に蓄積し、目も口も鼻もほっぺにめり込んでいる。この年齢でもう人生の苦悩が全身からたっぷり。いつも怒っている様で若さは見えないが、そんな姿に卑下することもなく、夢の中の彼女はもてもてのいけてる女の子だ。
 <ルージュを引き>、大きなイヤリングと原色のカチューシャ、彼女なりのお洒落をしてピンクのディバックを背中に、のっそのっそと町を歩く。その勘違いぶりと無防備さが切ない。ファースト・フードで育たないとこんな巨漢にはならないと思わすほどで(だから多分、ここまでの巨漢はアメリカにしかいないのでは)、ふてぶてしい表情、姿形の全てがプレシャスの環境を物語っている。

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(C) PUSH PICTURES,LLC

 <こんな風に、表情を消して体の存在感だけで>主人公になりきったガボレイ(彼女も主演女優賞にノミネートされていた)に対して、アカデミー賞に輝いたその母親役のモニークは、ここまで堕ちた女の悲哀を、だらしなく放り出す手足や瞳に宿す濁りや影で表現。夫を娘に寝盗られ(?)、猫だけを可愛がって、薄暗い部屋の中で自堕落な毎日だ。でも心は寂しさと空ろさではちきれそう。不貞腐れる以外生きる術を知らない中年女の悲哀をたっぷり見せ付ける。納得の受賞だ。母親に辟易し、学校へ行ってこんな生活から脱出したい娘の足を引っ張り、自分の人生を肯定しようとする。存在そのものが病める社会。
 <迫力のモニークだけれど>、ガボレイの隣に立つと彼女の中の女性性が浮き上がってくる。母でありながら何時までも女でしかなく、母親になれない女。それが決して美しくないからこそ、余計にリアリティがあった。日本の ネグレストもこんなケースが多い。ところでモニークもガボレイも、いつもは表情が動いて魅力的。無表情がどれほどブスに見えるかを証明するかのような演技でもあった。

 <こんな具合に前半はアメリカの暗部を見せ付け>、後半のフリー・スクールでの出会いからは、アメリカの光と良心を描いていく。目標にしたいような素敵な女性たちが登場し始める。真っ暗だったプレシャスの人生にも薄日が差し始めるわけだ。病理、暗部が深いからこそ、社会の仕組みとしてそこへ伸ばす手も用意されているアメリカ。この国の善悪両面が見える。
 <まずプレシャスの心を掴むのが>フリー・スクールの先生だ。ポーラ・パットンが知的に演じて、ブラックビューティーとでも呼びたいような素敵さ。誰もが辛い現実から目を逸らす事で生き延びてきたのに、それを許さない。辛抱強く生徒と向き合い、ここに来るしかなかった現実を直視させて、なおかつ乗り越える力をそれぞれの中に芽生えさせるのだ。彼女が見てくれていると言うだけで感じる安心感、再生へのタフな情熱は、先生というより皆のお姉さんだった。黒人でしかも同性愛らしいけれど、社会の中で堂々としなやかに生きる自身の姿から、希望を現実に変える方法を生徒たちに示している。

 <そこから廻される、福祉相談所の女性>を演じるマライア・キャリーが又素敵なのだ。最初歌姫だとは気付かなかったけれど、柔らかい、包み込むような存在感。こんな女性なら助けてくれるかもしれないと、目を惹きつけられた。余談だけれど、プレシャスの出産する病院スタッフとして、同じくシンガーのレニー・クラヴィッツが登場する。それと知らなくても、同じように独特の存在感を示し、何者なのかと思わずチラシを探したほど。シンガーの存在感の強さに圧倒された作品でもある。

 <監督とプロデュースは>、黒人のリー・ダニエル。原作本はニューヨークに住む詩人のサファイア。黒人、貧困層と世間から一くくりにされがちな彼らも、近づくとそれぞれの顔を持っている。その個性を描き分けて、極端な様でも、どのエピソードもリアルそのもの。虐待、貧困と言う愚劣な環境の中でも、生きる知恵と思いやりを忘れず、そしてしなやかに回復する力を宿す若い女性たちは素晴らしい。監督と原作者は、そんな彼女たちを愛を込めて描き、自分の手で掴む未来へとエールを送っている。(犬塚芳美)

この作品は4月24日(土)より、TOHOシネマズ梅田、敷島シネポップ、
               TOHOシネマズ二条、シネ・リーブル神戸等で上映

映写室 ドキュメンタリー「破片のきらめき~心の杖として鏡として」上映案内

映写室 ドキュメンタリー「破片のきらめき~心の杖として鏡として」上映案内    
―精神科病棟での芸術活動の記録―

 <この作品は、あるアトリエに集う> “精神の病”を抱える人々の、“心の声や叫び”を在るがままに記録したもの。一般には解かりにくい、精神の病を抱えた人々の繊細な心の領域が、絵画と日常から、慎み深く、配慮を持って、映し出される。何て繊細で、何て不思議な世界。心を揺らされた。精神を病む事事態が、藝術の領域を旅しているようでもあるのだろう。

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(C) 2008 破片のきらめき心の杖として鏡として製作委員会

 <舞台になったのは平川病院> この精神科病院の中には、造形作家 安彦講平さんが、もう40年近く指導を続けるアトリエがある。安彦さんを慕い、入院患者だけでなく、外からも色々な人がやってくる。誰もが作品を見せながら、それ以上にそれに込めた思いを安彦さんに語る。絵画だけでなく、オブジェを作る人もいる。ここは患者達の自作の誌や音楽を発表する場所にもなっている。魂が生み出したもの、つまり魂を晒す場所だ。

 <安彦さんは彼らの作品を見>、話を聞きながら、さり気無いアドバイスをする。それに対していっぱしの画家のような返答を返す患者達。ここでは自己表現することでそれぞれが自分自身を癒し、そんな仲間を見ることで自分が癒されているように見える。絵画という空想の中で、現実社会では縮まっている心を伸ばし、その自由さを楽しんでいるようにも見えた。安彦さんはそんな彼らを見るのが楽しそうだ。優しく、さり気無く見守っていく。

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(C) 2008 破片のきらめき心の杖として鏡として製作委員会

 <驚くのが、うつ病や潔癖症を患う彼らが>、自然な形で自らの病んだ姿を晒している所だ。“潔癖症の男性など、早朝に起き、出かける支度に3時間近くもかかる。少しでも必要と思うものは、ありとあらゆる物をポケットに突っ込み携帯する用心深さ。しかも何度も何度も蛇口を閉めながら、タバコをふかして心の安定を図り、次の動作に移れる瞬間を待って、自宅から出る。アトリエに行きたくて、2,3日前から体調を整えて、こうして出かけるのだと言う。
 <若い頃の画家になる夢を捨てきれず>、幻聴に苦しみながら、表現する事で心の平穏を獲る人もいる。絵画への思いと病の苦しみを語りながら、彼らに何の緊張もない。それもそのはず、カメラマンの高橋慎二さんはここに10年以上も通い、彼らと交流し、人間関係を築いた上で、出来るだけ自然な姿の彼らと、その作品をカメラに収めたのだ。高橋さんが彼らと彼らの生んだ作品に、心をつかまれた様がそのまま映っている。
 <描いた人も主役だけれど>、もう一方の主役は、彼らの作品。ディカプリオ扮する過去のトラウマに苦しむ男を主人公にした、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター アイランド」が注目を集めているが、精神の病を持つ人々の心は複雑だ。健常者には見えないものが見える。まるで描いた人そのもののような、揺らぎのある不思議な絵画に心を揺さぶられた。(犬塚芳美)
 
 この作品は、第七藝術劇場(06-6302-2079)で
       4月10日~16日(金)10:30~(1日1回上映)
       4月17日(土)~22日(木)16:40~(1日1回上映)



*制作委員会は、皆さんの地域、グループ、学校等での上映会をサポートします。
    監督、安彦さんたちとのトークセッション、絵画展等もご相談を。
        Tel:090-8647-4268(高橋) 090-2564-5494(中村)

映写室 新NO.46第9地区

映写室 新NO.46第9地区
 ―南アフリカの人類立ち入り禁止地区―

 <今まで見たこともない>、不思議な映画が誕生した。舞台はワールドカップ開催真近の南アフリカで、ここに人類立ち入り禁止地区が誕生すると言う話だ。棲んでいるのは、空中に浮かんだ巨大な宇宙船から降り立ったエイリアンたち。現実には黒人達が住んでいるスラム街をもっと崩壊させたようなところに、有刺鉄線を張り巡らして隔離され、海老のような外観をした地球外生物が徘徊している。その不潔さ、その不気味さ、類を見ない。一方で見え隠れする彼らの人格(?)、いったい彼らは何者? 何が目的?
 <創ったのは南アフリカ出身のニール・ブロムカンプで>、弱冠30歳の新人監督が、故郷を舞台に斬新なアイデアを散りばめて、今年のアカデミー賞でもひときわ異彩を放った作品だ。新しい才能に喝采しながら、人類、エイリアン共に哀れな物語が心を締め付ける。

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(C) 2009 District9 Ltd All Rights Reserved.

 <28年前、巨大宇宙船が南アフリカ>、ヨハネスブルグの上空に浮かんだまま動かなくなった。船内には弱ったエイリアンが多数いて、その形からエビと呼ばれる。第9地区の仮設住宅に集められるが、そのまま月日が流れ、市民との対立が激化して、ヴィカスを責任者に第10地区への強制移住を始める。そのヴィカスが謎のウィルスに感染し人類から追われる羽目に。逃げ込んだのは第9地区だった。

 <第9地区を紹介するニュース映像で始まり>、調子もドキュメンタリータッチ。気がつくと、現実と混同しながらエビ族を探っていた。ヨハネスブルグと言う距離感が良い。ここにならこんな不思議なことが起こるかもしれないという、未知の領域がある。実際にもここのスラム街で撮影されたと言う。白人から迫害され続けてきた黒人達の悲しみが、空気感で漂っているのかも。二つに分断された街はSFの世界でも魔力を発揮する。

 <ここでちょっとエビについての知識を整理しよう> 28年間で収監されたエイリアンは総数180万。外観がエビに似ているから人間からはそう呼ばれるが、知能は高そう。凶暴そうだけれど、それは劣悪な環境に閉じ込められてきた歴史からかも。キャットフードの缶詰に目がなく、買収はもっぱらこれ。人間の策略に負け、猫缶1個で見苦しいほどの争いをするなど、ちょっと目に見えない差別感を感じて辛くもなる。
 <一方人間にも負け組みはいる> 他の地区からはみ出したナイジェリア人のギャングはここに潜り込んで暮す。エビを搾取するのが仕事だった。自分たちの女をエビに抱かせ(?)、猫缶を法外な価格で売りつけ、彼らの強力な破壊兵器を取上げる。でもその兵器はエビのDNAがないと使えない。

 <…と、よくもここまで荒唐無稽な事を>想像するものだと感心するエピソードのオンパレード。まさに映画ならではの世界に喝采だ。とは言うものの、奇妙なリアリティにも溢れ、乱暴なエビの擬人化も見事だった。B級感と大作感の間をさ迷う不思議な感覚、ヒット・メーカー「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソンが、若い才能をメジャー世界に導き、色々な映画賞で話題をさらっている。

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(C) 2009 District9 Ltd All Rights Reserved.

 <笑えるのが>、事件の鍵となるヴィカスがエビたちに立ち退き承認のサインを取り付ける過程だ。エビたちを騙して、もっと劣悪な環境に押し込むと言うのに、無理やりとは言え、契約のサインは取る。あの手この手で、しかし誠実にサインを迫るヴィカス。人権を無視ている様でもあり、尊重しているようでもあり、この国の黒人と白人の歴史を見ているようだ。

 <ヴィカスが昇進で張り切る様>、ヴィカスを自慢する家族、異人種を前にへっぴり腰になる様と、どれもリアリティに溢れ、平凡で誠実な男の人生と人柄が浮かび上がる。エイリアンを描きながら、核心は人間ドラマなのだ。
 <一方少しずつ明らかになっていく>、エビの事情。彼らは故郷に帰りたがっていて、宇宙船の故障で難民になってしまったらしい。エビの中でも特別な存在のクリストファー・ジョンソンとの出会いが後半を盛り上げていく。ぼろぼろの小屋に見せかけて、その地下で最新ハイテクを組み立てる抜群の知性。追われる立場になったヴィカスとの心の触れ合い。お互いマイノリティ同士だ。終盤の悲劇の中のわずかな光がここにある。

 <とにかく盛りだくさんの作品> 言葉だって、英語やアフリカーンスだけでなく、ナイジェリア語、架空のエイリアン語と入り乱れている。荒唐無稽な物語に込められた、新星ニール・ブロムカンプの温かいメッセージが余計に哀れを誘う。ヴィカスに救いはあるのか。人もエイリアンも心を持っているから切ない。(犬塚芳美)


*4月1日エイプリルフールに、難波周辺を、この作品から飛び出したエビエイリアンが徘徊した。

   この作品は、4月10日(土)より、梅田ピカデリー、なんばパークスシネマ、
                    MOVIX京都等で上映


*今洋画界は、ちょっとした9ブームだ。「NINE」と言う、イタリアが舞台でもてもての映画監督を中心に美人女優が大挙出演する、業界の裏側を面白おかしく描いた、映画全盛期の古きよき時代を髣髴させる作品も公開中だし、1ケ月後には「ナイン 9番目の奇妙な人形」という、この作品と同じ様に若い監督が作った、奇妙な形をした人形が主人公の、CG技術を酷使した未来映画もやってくる。同じ様な題名ながら、方向性はばらばら。でもどれもが見逃せないクオリティの高さと面白さ。ナインマジックが続いている。

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