太秦からの映画便り

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映写室「Peace ピース」想田和弘監督インタビュー(後編)

映写室「Peace ピース」想田和弘監督インタビュー(後編)
  ―死とは時を繋いで共に生きる事―

<昨日の続き>
―「Peace ピース」と言う題名は、橋本さんの好きなタバコと平和を引っ掛けて?
想田:ええ。それと、英語なんだけれど、この言葉なら何処の国の人も知っているのではと思いました。日本人にも通じますものね。実は最初は「平和と共存」と言う無粋なものだったんだけど、何人か信頼できる人に見てもらったら、その中の一人の中村さんという方から、「映画は良いけど、題名がなあ。Peaceはどう」と言われ、そのまま拝借しました。
―猫の話と柏木さんご夫妻の話、橋本さんが繋がったのは何時ごろですか?
想田:猫を撮っている時も、何となく関係性を感じながら撮っていたんです。アッと思った瞬間があって、義父がチロという猫を病院に連れて行って帰る時、「強いものが去って行って、弱いものに餌を譲る」と言うんです。自然淘汰という言葉を、普通は強いものが生き残ると言う意味で使うけれど、義父は強い者が弱い者に譲る、と言う意味で使うんですよ。障害のある人々と生きてきた義父らしい解釈だなあと思ったんですが、その時に、橋本さんが世を去る話と猫の話が繋がると思いました。共存すると言うと、僕らは同時間のことばかりを考えるけれど、次のものに場所を譲るという、時間をずらした共存もあると。共存する為に生き物は死んでいくんだなあと思ったんです。そう考えると、死というのもネガティブにばかり捉えなくていい。映画になるなと感じました。

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©2010 Laboratory X, Inc.

―なるほど。
想田:でも橋本さんは猫の事を知らない。勿論猫も橋本さんの事など知らないわけです。両者を繋いでいるのは唯一義父で。
―それに気付いたのは、撮影中ですか? 編集中ですか?
想田:編集中です。
―そういう色々なことが見えてくる編集って楽しそうですね。
想田:いや、苦しみですよ。最初の間は繋いでもちっとも面白くないんです。撮影中に面白いと思ったのにどうしてだろうと、がっくりしますよ。そこからシャッフルするんですが、何かが見えてくるまでが大変。撮影時に面白いと思った感覚を再現する為の作業が編集で、パズルと言って、色々入れ替えていくんですが、見えてくるとほっとします。わくわくするものを壊さないですんだと言う気持ちですね。

―もしかすると、撮影時にも、無意識の頭の中でそういうつながりを感じているのかも。
想田:ええ、そうですね。もやもやが起こっていて、それに道筋を付けていくのが編集かもしれません。頭の中の作業をはっきりとした形に起こすというか。
―しかもドキュメンタリーだから、撮り直しが出来ない。材料は限られていると。
想田:そうなんです。あの瞬間はもう撮り直しがきかない。毎日、一秒一秒が流れている。僕らは一回きりしかない時間を生きているわけですから。
―今回は、本もお書きになりましたね。
想田:ええ。「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」という題名で、僕の観察ドキュメンタリー論です。出会いが出会いを呼び、結びついて行き、僕の手を離れていったという意味で、今回の「Peace ピース」と言う作品自体が、ドキュメンタリー的だった。最初は書くつもりがなかったんですが、配給の人に「今回は本を書かないんですか」と言われて、気が付くと自分の中に色々な思いが溜まっているのに気が付いた。ドキュメンタリーと同じのように、本を書くのもタイミングが大事。「Peace ピース」について書けるのは今しかない。自分の中の物を吐き出したいと思いました。「Peace ピース」の制作過程を書くことで、観察ドキュメンタリー論を展開したいと思ったんです。

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(7月6日 大阪にて)

―想田監督の作品は、ナレーションも解説もない。色々な思いを自分の中に押さえ込むので、映画でそぎ落とした分だけ、文章にして外に出したくなるのではないでしょうか。
想田:そうかもしれませんね。編集には2,3ヶ月かけたのに、本のほうは3週間で書き上げました。ドキュメンタリーの編集の間に、思いを熟成させていたのかもしれません。書き始めるとすらすら出てくるので、鬼のようになってパソコンを打ちました。書いていると色々な発見があって、それも面白かったです。
―監督はいつもご自分の観察映画を、壁に蝿がとまったごとくと言われますが。
想田:「フライ・オンザ・ウォール」ですね。水や空気のように、そこにいないかのように自分の存在を消して、観察するという意味ですが、「選挙」の時はそう思ってそうしたけれど、それもだんだん変わってきているんです。今は僕も含めたものを観察したいと。今までだったら、例えば僕が声をかけたりしたシーンを削り落としていたんだけれど、ああいうシーンにこそ、橋本さんらしさや人柄が出ている。だったら積極的に近づこうと思い、撮り方も変わっています。今回は僕の声もたくさん入っていますしね。
―ええ、それはそうなんですが、何て言うか、今迄で一番自然で、「ああ、想田監督はいつも、フライ・オンザ・ウォールと言っているなあ」と思いながら見ました。
想田:もしかしたら僕が存在を消そうとか無理をしていないので、その自然さがそう感じられるのかもしれません。

―今、平田オリザさんのドキュメンタリーを編集中ですよね。日本での仕事が増えられましたが、ニューヨークを引き上げて帰られる予定は?
想田:こっちでの仕事は増えましたが、色々荷物が多く、銀行口座も向こうだしとか考えると、面倒でなかなか帰って来れない。ニューヨークって住み心地がいいんです。それに、日本に住んでいると、日本とそれ以外という感じがするけれど、ニューヨークは半分以上が外国人。そこの辺りが柔軟で色々な視点が持てる。それに向こうにいると、こちらでは当たり前のことが当たり前に見えてこない。新鮮に思えるんです。「Peace ピース」を作って、日本的な時間の流れが印象に残りました。義父が女の人を送った時、ちゃんとお金を払っているのに、その人がカステラのお礼を置いていくんですね。いかにも日本的だなあと思って僕は残したんだけれど、日本にいる監督だったら切ってしまうかもしれない。そんな、外にいるからこその視点もいいなと思っています。(聞き手:犬塚芳美)

 この作品は、7月30日から第七芸術劇場、
8月20日から神戸アートビレッジセンター、
順次京都シネマ、 にて公開


<インタビュー後記:犬塚>
「今日は」とご挨拶すると、監督からは、「今日は。久しぶりですね。ご無沙汰しています」と、お辞儀と共に丁寧な言葉をかけていただきました。インタビューもこれで3作目、それ以外に映画の本で、ニューヨークの映画館事情もレポートしていただいたというお付き合いです。
穏やかな作品で、飄々と福祉の仕事をされる奥様のご両親柏木夫妻と、淡々と自分の運命を受け入れる橋本さん、暖かい田舎町の何処かのんびりした空気感、そんな全てが「Peace ピース」です。私は自分の故郷、母や伯母が暮す田舎町を思い出しました。ここなら確かに、猫も人間も平和に共存できる。こんな時間を何時まで持続できるのだろう。都会と地方都市の時の流れの違いも感じます。
編集中の監督の様子等の本当の裏話は、制作補佐の奥様、想田規与子さんから伺いました。インタビューの途中でいらした奥様を紹介下さいましたが、「Peace ピース」の中の柏木夫妻にそっくりで、それぞれの関係性は一目瞭然。いつもご一緒で、いつかこのお二人がドキュメンタリーになるかもと、予感しました。


*想田和弘「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」
講談社現代新書より2011年7月15日刊行 798円 新書判
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映写室「Peace ピース」想田和弘監督インタビュー(前編)

映写室「Peace ピース」想田和弘監督インタビュー(前編)  
―死とは時を繋いで共に生きる事―

 「選挙」、「精神」と意表をついた視点のドキュメンタリーで、国際的にも広く認められる想田和弘監督が、今度は優しい世界を映しました。舞台になるのは、「精神」と同じ岡山市で、長年福祉事業に関わる、奥様の両親柏木夫妻の日常が映ります。始まりは餌を巡る野良猫たちの騒動だったという本作も、幸運な出会いを重ねて着地点は意外なところまで広がる。今を生き抜くヒントが一杯。この作品の誕生秘話や、独自のドキュメンタリー論等を伺いました。

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(7月6日 大阪にて)

<その前に「Peace ピース」とは>
 柏木寿夫は養護学校を定年退職後、福祉車両を運転している。利用者の安価な足となるだけでなく、時には一緒に寿司を食べ、買い物に付き合う。自宅では野良猫に餌をやるのが日課だ。最近、外部の泥棒猫が侵入してきて、頭が痛い。妻の廣子は高齢者や障害者にヘルパーを派遣するNPOを運営している。週に一度行くのは、鼠とダニだらけのアパートに一人で住む、末期癌の橋本さん(91歳)のところだ。


<想田和弘監督インタビュー>
―「選挙」に始まって、もう3作目ですね。今回の「Peace ピース」の誕生のきっかけは韓国の映画祭に依頼されたことだと読みましたが、前作の「精神」の頃から、このような作品について、予感がおありだったのではないのでしょうか。
想田和弘監督(以下敬称略):鋭いですね。その通りです。この作品の直接のきっかけは、韓国の映画祭から「平和と共存」と言うテーマで、短編を作って欲しいと依頼されたことです。妻の実家に行っていて、最初は猫の紛争にカメラを回していたのに、義父の福祉ドライビングサービスとか、義母のNPOサービスとかに飛び火したけれど、そうなったのも元はと言えば、「精神」を撮った時に義母が仲介役をしてくれたのがあったと思います。義母のおかげでコラール岡山に繋がったんですが、撮る過程で、患者さんとの間にも入ってもらったりして、義母の仕事が見えてきた。こんな仕事もあるんだなあと気付き、大事な仕事だけれど光が当りにくい。福祉の充実とかよく議論されるけれど、皆実体を知らないのではないかと感じました。少なくとも僕は、ほとんど知らなかった。現場が置いていかれていると思いました。この時に、いつか機会があったら、義父や義母のやっている事に光を当ててみたいと思ったのが今回に繋がっていると思います。ヘルパーさんとかは「精神」でも映っているけれど、あくまでサブキャラクターなんで、メインに据えてみたいと思ったわけです。

―なるほど。ところで韓国の映画祭とは? まだ新しいのですか?
想田:朝鮮半島の真ん中の、非武装国境地帯が会場で、北と南の対立の象徴のようなこの町でドキュメンタリー映画際をやろうという話になって、第1回目が2009年だったんです。せっかく新しく映画祭を始めるのだから、何か新しいことをやろう。アジアの作家3人に短編を依頼し、それを合わせてオムニバスを作ろうという話になって、僕のところに「平和と共存」と言うテーマで、20分くらいのものをという話が来ました。たいそうなテーマで撮るのがやりにくいようで、出来るのかなあという気持ちと、僕はドキュメンタリーのテーマというのは後で浮かび上がってくるものであり、今回の依頼のように、最初にテーマありきはよくないと思っているので、断ろうかと思ったんです。ところがたまたま妻の実家に行っていて、義父と猫を映していたら、泥棒猫が入ってきて紛争が始まった。猫の世界も大変だなあと思いましたが、そんな猫の世界を映せば短編が出来ると気が付いて引き受けました。もしあの時、たまたま居合わせて猫の餌争いを見なければこの作品は出来なかった。この作品はあらゆる瞬間がそういう偶然の出会いです。橋本さんにしても、3日間会って、その中で突然、赤紙が来た事を思い出したりもする。しかも撮影の1ヵ月半後には亡くなるわけで、家も取り壊されてもうありません。そんな風に、この作品ではドキュメンタリーの不思議を感じてばかりでした。1ヵ月後だったらこの作品は出来なかったと思います。


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潤・010 Laboratory X, Inc.

―戦争体験の話は突然出てきたと?
想田:ええ、全く予期してなかったです。驚きました。ドラマティック過ぎて、もしかしたら橋本さんに会うのは最後かも知れないという感じを受けたくらいです。橋本さんは末期癌に侵されていますし、僕も数日後のニューヨーク行きの切符を買っていましたから、それもありますが。唐突だけになんか不思議で。あの話が聞けたのも僕らの運命の一瞬の交差だと思います。橋本さんは死期を悟っていたし、もしかしたらカメラに対して遺言を残したのかもしれません。「厄介かけないように、早いとこ往生せにゃあ」と言いながら、一瞬カメラを見るんですよ。撮影中ではなく、編集していて気付いたんですが、自然に振舞いながらカメラを意識しているんです。
―服装もスーツを着たりして、そのまま遺影になりそうですものね。洒脱で、素敵な方でした。
想田:そうなんですよ。身寄りのない方なんで、亡くなられた時は、お葬式等を柏木の義母がアレンジしたんですが、若い人が20~30人も来たそうです。驚きですよね。義母の推測では、多分居酒屋とかで出会った友達なんだろうと。生活保護が入ると、皆に奢っていたんではないかと言うんです。橋本さんを見ていて、「Peace」と言うのは、心の状態だなあと思いました。死期が迫っているのに、きわめて穏やかに事実を受け入れている。そういう心境を英語でも「Peace Of Mind」と言うんですよ。

―橋本さんもですが、観客から見ると、お義父様の柏木寿夫さんのかもし出す世界観そのものが、Peaceだと思えました。肩の力を抜いて色々な人の心に寄り添い、ゆったりとした時を共にする。奥様のNPOの活動もそうですよね。ただ、そんな、経済的にも精神的にもゆとりのある世代の献身で成り立っているのが、この作品の中のPeaceであって、これを次の世代がどう受け継いでいくのか、厳しい社会状況を見ると大きな課題だと思いました。
想田:そうですね。福祉と言いながら、介護サービスにしてもどんどん切り捨てられている。偶然なんですが、柏木の義母の声の後ろに、そんなラジオの放送が流れてもいます。そういう点や、橋本さんとの出会い等、このドキュメンタリーを撮っていて幸せな出会いが重なりました。僕と橋本さんの人生が重なるなんて、ドキュメンタリー作家としては有り難い授かりもののような時間です。(聞き手:犬塚芳美)
                           <明日に続く>

 この作品は、7月30日から第七芸術劇場、
8月20日から神戸アートビレッジセンター、
順次京都シネマ、 にて公開

映写室「青空どろぼう」阿武野勝彦プロデューサーインタビュー(後編)

映写室「青空どろぼう」阿武野勝彦プロデューサーインタビュー(後編)
―「四日市ぜんそく」の記録人を追う―

<昨日の続き>
―阿武野さん自身が欲した、自分の理想の上司を目指していると?
阿武野:なんかカッコいいですね。そういう風に言ってくれたら有り難かっただろうなという思いですね。そうは言っても、僕らは楽しんでやりますから。彼も理想の相棒、部下です。斉藤は大変な時でも「しんどい、しんどい」と言わず、常にポーカーフェイス。僕が「こんなんどう?」と言うと、「面白いですね」、「こんなんは?」と聞くと、「面白そうですね」と、すぐに面白いと受け止めてくれる。
―なるほど、いいコンビです。作中で患者さんが自殺をされたニュースが何度か流れ、ぜんそくがそんなに苦しいのかと驚きました。
阿武野:僕も小児ぜんそくですが、発作が起こって肺の中に空気が入ってこないのは、本当に苦しいです。でも、「ヒーハーヒーハー…」と言葉で言っても、経験のない人にはなかなか伝わらない。そこら当たりは数値の画像を映し、目で見えるよう工夫しました。

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©東海テレビ放送

―公害認定患者はゼロだけれど、四日市ぜんそくは今も発生しているわけですね? もくもくと上がる煙が映りますが、あれも今ですか?
阿武野:そうです。凄いでしょう。まだ青空は戻っていません。水蒸気だと言っていますが。ぜんそくにしても未だに発症しているけれど、口に出して言えない状態です。
―言えない分だけ、ある意味もっとひどくなっていると?
阿武野:そうですね。公害認定制度がないんですよ。発症しているけれど、それは公害のせいではないと言う。この町の人々は、家族や親戚の中にたいてい誰か企業関係者がいて、色々な絡みから口を閉ざしてしまうわけです。野田さんたちが起こした第一次訴訟が損害賠償請求だったのに対し、1971年に喘息の子供を持つ母親など100人が起こした第二次訴訟は、公害の発生源そのものの撤退を求めると言うものだったけれど、提訴直前に金銭交渉にすり替えられ、切り崩された歴史がある。それ以降、何か言うとお金が欲しいのかと言われだして、市民運動としては終わってしまった。

―巧妙な企業にしてやられたわけですね。何かを求めると何処かには犠牲が出ると、市長さんの言葉がはっきりしていますが?
阿武野:この方はまだ新しい市長さんで、出来ることと出来ないことを仕分けしようとしています。我々も、ちゃんとしないと市長も怒られるよという思いがあって、そこら辺りをちゃんと解かってくれる人ではないかと、今のところ思っています。来年は四日市市の公害資料館を作ると言ってらっしゃり、澤井さんの資料はぜんぶ寄贈されることになっている。

―宮本信子さんのナレーションが素晴らしかったです。説得力があって、聞き惚れました。
阿武野:宮本さんはもの凄く読込んできて下さいます。読み込みの仕方としてはNO.1じゃあないかなあ。息継ぎの場所、イントネーション等々、真っ赤に書き込んだ台本を持ってきますよ。僕らのところでは6作目なんですが、「天地人」ではナレーションをやったけれど、それ以外は、東海テレビのナレーション以外やったことがないんです。報道番組とかは平気で当日とか言うんですが、私のところはイメージを掴んで貰う為に、要請があれば半月以上前に、原稿とVTRを渡して見て貰う。そういう作業を丁寧にやるので、年に一本しか出来なかったんですが。

―3.11に福島があり、まだ収束していません。映画館の客足も落ちています。現在進行中の災害(公害)がある時期にこの作品を公開することの意義は?
阿武野:被災した、しないに関わらず、3.11以前と以降では物の見方が変わってしまった。作り物は見たくなくなっています。前作の「平成ジレンマ」の公開中に丁度震災があって、やっぱり客足が落ちました。平和な時代に引き篭もりがあると言う話なのに、福島からは人の生死に関わる映像がバンバン流れてくる。テーマがぬる過ぎますよね。でも又客足は戻っている。別の箇所にある現実も、現実として受け止めているんじゃあないでしょうか。実は震災以前にこの上映は決まっていたんです。6月中旬からとなっていたんですが、震災後、この時期に「青空どろぼう」を始めるのは、どうだろうかとは思いました。ただ、野田さんを訪ねていくと、問わず語りに福島のことになる。「福島はどうなった?」と必ず聞いてくるんですよ。四日市で公害にかかりながら、四日市から福島が見えている人たちの話を自分たちは描いたんだと思いました。四日市を克服できない私たちが、福島を克服できるのか?とも言える。「青空どろぼう」の中に、福島を見つめ続けていかないといけないファクターがあるのではと思います。野田さんが経済優先で近道をした結果がこれだと言うけれど、原発も同じところがありますよね。

―確かに。
阿武野:澤井さんの人生をなぞろうとしたところから、克服できない四日市公害が浮かび上がり、野太いヒューマニズムの持ち主野田さんと、鋭角的な行動力の澤井さんという、違う志向性を持ちながら、もっとも分かり合っている二人の結びつきが浮かび上がってきました。二人は延々とこれに関わっています。僕らメディアは目の前のことにすばやく飛びつき、すぐに忘れてしまうと言う悪癖があるけれど、福島にしてもそうしてはいけない。澤井さんの見せてくれた持続の力を忘れないようにしたいと思っています。


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©東海テレビ放送

―持続の力と言えば、澤井さんの手を変形さすほど出し続けたと言う、ガリ版刷りの冊子は凄いですね。何が澤井さんをこんな風にしたんでしょう?「綴り方運動」と言うのも気になります
阿武野:勿論本人の資質が大きいんでしょうが、僕もそのところが気になってしつこく聞いています。取材を始めた初日に、「女房が病気になって入院した時、我侭を言わない彼女が、個室に入りたいというので事務局長に話して裏から手を回したんです」と言うんですよ。不正なことをしたと言う意味ですが、これが澤井さんの最大の汚点で、気に病んでいて、「僕はそんな人間ですよ。それでも良いんですか」と尋ねた訳です。こんな風に澤井さんの場合、正義と府正義のラインが物凄く高い。そういう真っ直ぐな正義感の人なんです。又、作中に、奥さんの遺影に線香を上げるシーンが出ますが、紡績工場に勤めていた頃、会社の車に労働運動のビラを積んでいて首になるんですが、奥さんはすぐに澤井さんの為に車を買ったそうです。奥さんも又そういう人で、長年澤井さんを支え続けた。ここまでの継続にはそういうこともあったと思います。

―なるほど。奥様も凄いと。
阿武野:ええ。それと、この時女子工員たちとやっていた「綴り方運動」の「生活記録」が、始めは単に自分の生活を見つめることだったのに、事実の記録が会社の労働環境を変える力を持っていると澤井さんが知ったんですね。ここの生活記録サークルは日高六郎さんや鶴見俊介さんが加わり、一番頑張ったところなんです。そういうことも影響したのかもしれません。生活記録と言う、澤井さんが戦後やっていたステップがなかったら、これに繋がらなかったかもしれませんね。継続の力を実感させられた取材でもありました。(聞き手:犬塚芳美)

この作品は、7月16日(土)より第七芸術劇場で上映
      順次京都シネマ、神戸アートビレッジセンター にて公開


<インタビュー後記:犬塚>
 すぐに目新しい事件に飛付くという自分たちのだらしなさを認め、正義感を振りかざすわけでもないのに、結果としては、しっかり刃を相手方に打ち込んでいる。しなやかな社会派ドキュメンタリーの作り手集団が東海テレビにはいるようです。上手い題名の付け方と共に、そういうスタンスが色々なところに風穴を開けていくのではと思いました。

映写室「青空どろぼう」阿武野勝彦プロデューサーインタビュー(前編)

映写室「青空どろぼう」阿武野勝彦プロデューサーインタビュー(前編)
―「四日市ぜんそく」の記録人を追う―

 「平成ジレンマ」で、優れたテレビドキュメンタリーを劇場で公開するという試みをした、東海テレビの阿武野勝彦プロデューサーが、新作「青空どろぼう」で、第二弾を仕掛けてきました。日本四大公害の一つ、「四日市ぜんそく」を覚えていますか? とっくに無くなったものと思っていたけれど、今も黙々と上がる煙突からの白煙。目を凝らしてそれをカメラに捕らえる老人、澤井余志郎さんをこの作品は追います。この人こそ、四日市公害裁判の元原告らを支え続ける、公害記録人です。この作品の誕生秘話や、「四日市ぜんそく」、今も続く福島の悲劇等について、今回はプロデューサーだけでなく、共同監督もされた阿武野勝彦さんに伺いました。

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(6月27日 大阪にて)

<その前に「青空どろぼう」とは、こんな作品>
四日市市磯津地区では、 高度経済成長期に、石油化学コンビナートからの煤煙で多くのぜんそく患者が発生した。苦しさのあまり自殺者まで出したこれが、日本四大公害の一つ「四日市ぜんそく」だ。公害防止法の法制化のきっかけとなった、1972年の裁判の判決から38年がたつ。公害裁判に立ち上がった人々と、彼らを支え続けた男の目に映った38年間はどんななのか? 原告の一人元漁師の野田之一さんと、澤井余志郎さん。二人の絆も浮かび上がる。


<阿武野勝彦さんインタビュー>
―前作「平成ジレンマ」に続いて、今回の「青空どろぼう」も、いい題名ですね。押し付けがましくなくて、大層でもなく肩透かしの仕方とかセンスが良いなあと思いました。何方が付けられたんでしょう?
阿武野勝彦プロデューサー(以下敬称略):有り難うございます。僕です。
―確か「平成ジレンマ」も阿武野さんが付けたんでしたね? どういう風にしてこの題名になったんでしょう?
阿武野:去年の11月に、50分バージョンをテレビで放映した時は「記録人・澤井余志郎」とし、サブタイトルとして四日市公害と付けたんですが、すぐに劇場用に94分バージョンを作って、映画でこの題名はないなあと思い、色々なことを考えたんです。目を閉じて、94分に纏まったものを何度も思い浮かべて見たら、澤井さんが何か犯人を追いかける刑事に見えてきた。でも、どろぼうはなかなか捕まらない。盗まれたものは何か? 青空と言うことで、二つをくっつけそこからはすぐに完成しました。この過程で自分がどろぼうの片棒を担いだような気もしてきたんです。

―片棒を担いだとは?
阿武野:近くのテレビ局に勤めながら、四日市公害はすでに終わったと思い込んで、1972年以降に発症した患者さんの為に何もしてこなかった。澤井さん一人に刑事をやらせていたわけで、そういう意味ではどろぼうの片棒ですよね。
―そういう重いテーマを秘めながら、過激には迫らず、底流にそれが流れているのが良いですね。まずは人を描くと言う、抑制の効いた語り口です。
阿武野:僕は元々叙情派を自認しているんですよ。激しいものは自分の本意で作っているわけではなくて、いやいや引っ張られてやっている。叙情的なものの方が自分の得意な分野です。ただ残念ながら、闘争的な面も持っているので、取材の過程でこんな事実があるのかと発見してしまう。何かの時に、視点を変えるとこういう風にも見えるよと、気付いてしまうわけです。これもそんな風にして作りました。元々東海テレビの50周年記念番組として、3年前に1年をかけて、「ドキュメンタリーの旅」という、昔のドキュメンタリーの現場や人を訪ね歩くと言うシリーズを作ったんです。永六輔さんと吉岡忍さんの二人に旅人になってもらったんですが、その中の一本、吉岡忍さんに旅してもらったのが「四日市公害」でした。澤井さんに案内されて四日市を回ったんだけれど、僕は澤井さんが誰だか知らなくて、四日市公害についての市民ボランティアだと思っていたんです。吉岡さんのインタビューが始まると、野田さんが「いろんなんが来たが、みんなわしらを利用して、最後は裏切りよった。…ずっと変わらんのは澤井さんだけや」と言った。澤井さんが外でそれを聞いて、ハンカチで目頭を押さえている。その時から、私の中で澤井さんが気になってしかたのない人になりました。そうは言っても、生来の怠け者なので、一年位寝かせたままだったんですが、編集マンに突付かれ、最初は澤井さんの人生を追えばいいんだと言う軽い気持ちで撮り始めたんです。まさか四日市公害を追う事になるとは思ってもいなかった。澤井さんの半生を追って、昔男ありきのように作ろう。私たちと同じ時代を生きた記録人を記録して、記憶に残そうと思っていたら、澤井さんの人生をなぞっている間に、(今、四日市公害ってどうなっているんだろう?)と疑問を抱く。で、調べ始めました。ところが、1987年の「公害健康被害補償法」の改正後、新規の公害病認定患者がいない。ゼロなんです。この奇妙な構図の謎を現場で聞きまわっていきました。市役所にデータがあるのでは? 三重県にならデータがあるのではと思うけれど、ないと言われる。患者がいないわけではないのに、ゼロありきなんですよ。この辺りで四日市を記録してきた澤井さんの歴史に、私たちがスパークしました。即座に、鈴木祐司監督に、「行け~」と命じたと言うわけです。

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©東海テレビ放送

―テレビ局ならではの強みで、報道とかの自局の古い映像も使える。今撮り始めても、今だけでなく、歴史を描くことも可能だと。ここからは早いですね。
阿武野:そうなんです。「ドキュメンタリーの旅」を作っているので何処に何があるか頭の中にありますから。拾い上げていくのも楽でした。
―プロデューサーを努められた、前作「平成ジレンマ」もですが、司法ドキュメンタリーシリーズ等、硬派ですね。東海テレビの社風ですか? 時代に埋もれそうな事件の発掘とか、良い所をついてきます。
阿武野:「平成ジレンマ」については斉藤監督の執念ですよ。僕のほうが10才位年上なので、僕がしてもらえなかったことを彼にしてあげたいと思っています。斉藤監督は20年営業にいましたし、僕もアナウンサー出身で、報道としては二人とも外様なんです。だから記者クラブに入り込まないで、独自の路線が貫ける。司法シリーズの最初は、名張の毒葡萄事件を追いかけたんです。彼に「何か思った?」と聞くと、「裁判所がおかしいですよ」と言った。裁判所は取材させてくれないのはわかっていたけれど、断られるのを撮ろうと思って行きました。ところが丁度、裁判員制度が始まる時で、裁判所も広報努力をしているとアピールしたい時に当って、ある意味で幸運でした。この時に、斉藤に「司法ドキュメンタリーのエキスパートになって欲しい」と言うミッションを与え、それで何作も作っていったんです。(聞き手:犬塚芳美)
                            <明日に続く>

この作品は、7月16日(土)より第七芸術劇場で上映
順次京都シネマ、神戸アートビレッジセンター にて公開

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