太秦からの映画便り

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映写室「スマグラー」舞台挨拶

映写室「スマグラー」舞台挨拶
 ―主演の妻夫木聡さんと石井克人監督―

 <真鍋昌平原作の漫画「スマグラー」>が、「鮫肌男と桃尻女」等の鬼才石井克人監督の手で、映画化されました。「悪人」、「マイ・バック・ページ」と複雑な役を演じて、役者としての幅を広げている妻夫木聡さんが、またまた新境地です。「スマグラー」(運送屋)が運ぶのは何か。情けなく心優しい若者が、弾みで裏社会に飲み込まれていく様が、劇画タッチで展開していきます。

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<エッジの効いた映像が続いて>、実はしょっちゅう目を伏せていたのですが、この混沌の時代、奇想天外で非日常の世界が、すぐ隣の落とし穴にも思えたのは、キャラの立った役柄を張り切って演じる実力派の面々の中、主演の妻夫木さんと永瀬正敏さんが、リアルな演技でこの物語を現実に着地させているからでしょう。複雑な思いを瞼や目に語らせる二人の演技が見逃せません。

 <この作品は29日の大阪から>一般試写が始まりました。舞台挨拶に立った妻夫木聡さんは、映像の中とは違う端正な姿。石井監督に憧れ続け10年、今回オファーが来たとたんに、脚本も見ないまま快諾していたと。永瀬さんとの共演も10年間待ち続け、やっと実現したもの。
<端正な顔をこれでもか>というほど崩して、体当たりの演技。役になりきる為に不摂生を極め、寝ない、栄養失調と自分を追い込み、冒頭の青白い顔を作ったのだそうです。そんなリアルさと、石井監督の世界に自在に遊ぶ、他の出演者たちの快演の競作。役者さんとは、別の世界を作るのがこれほど嬉しいのかと思わせる、見所がいっぱいの作品。石井監督の奇才ぶりに驚くのも見所かも。(犬塚芳美)

この作品は、10月22日(土)より梅田ブルク7等で全国ロードショー
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映写室「田中さんはラジオ体操をしない」上映案内

映写室「田中さんはラジオ体操をしない」上映案内  
 ―主演の田中哲郎さんに伺う、ハッピーになる方法―

 不思議な題名のこの映画、主人公は反骨精神旺盛な団塊世代の男性です。御年63歳の田中哲郎さんは、30年前に就業前のラジオ体操を拒否して、大手電気メーカーを解雇されました。ラジオ体操位妥協してすればいいと思うけれど、この話には前段があります。81年はまだバブルの前で、石油ショックの尾を引いて会社の経営は厳しいものがありました。大量の指名解雇があり、外部から社長を招いて、おっとりした社風だった会社の建て直しが始まる。ラジオ体操は健康の為にやるのではなく、新しい社長と共に、会社が生まれ変わるのに協力する意志を、体操をすることで伝えようとしたのだそうです。

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<労働争議は、いろいろなセクトがあり>、会社側に上手くそれを利用して潰されました。最初は田中さんと同じように、体操を拒否した人も、会社のあの手この手の圧力に屈し、体操を始めます。拒否し続けて、会社を止めざるを得ない人も出てきました。最後には、田中さんに話しかけることすら、会社の圧力で出来なくなっていくのです。何時までも体操を拒否する田中さんは、遠隔地への転勤を命じられ、それに従わないと解雇されました。それ以来、30年間会社の前でギターを弾きながら抗議の唄を歌い続けているのです。

<組織に残って>、戦うことも出来たのではと質問すると、「会社の嫌がらせはそんな生易しいものではなかった。結局何も出来ないで自分で辞めていっただろう」と。
<体操をしないことが自分であり続けること>だったと話す田中さん。長い物に巻かれることで自分を守り、幸せをつかもうとした人に比べ、自分の心に忠実に生きて解雇されたけれど、人がどう思おうとも、自分はこんなに幸せだよと歌い続け、そういう情報を発信し続けたのでした。

<そういう姿に心を捕まれ>、このドキュメンタリーを作ったのは、マリー・デロフスキーさん。オーストラリアの女性監督で、インターネットで偶然に田中さんを知り、映画を作る為に、はるばる東京までやって来ました。
<30年という長い地道な活動が>、ここにいたり、インターネットで海の向こうの監督に届いたというのにも、時代の流れを感じます。そう言うと、「やっと僕の時代になってきた。マスコミは正しいことを報道しない。すぐに権力に巻き込まれて、差しさわりの無いことしか書かないものだ」と、そんなものに頼らず、自分で情報発信のツールを持てる今の時代の幸運を話されました。

<田中さんや監督の行動を知ると>、同じネット時代を生きながら、生かしきれていない自分たちの不甲斐無さも感じるのです。伝えるべき事のある時は、例え見えない相手に向けてであっても、伝え続ける事が大事だと。自分の見つけたい情報は、ネットを上手く使えば辿り着けるという事実も教えられました。

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<一方で>、この作品から浮かび上がるのが、生き方が人を作るという事実です。若い頃は優しい普通の青年。ところが、年と共に戦う体つきになって、まるで武士のような風貌になって行く。そう言うと、何よりの褒め言葉だと喜んで、自分は平家の落ち武者の血を引くのだと誇らしげ。勿論大変だったでしょうが、こういう風貌の変化を目のあたりにすると、こういう事があって、ある意味でお幸せだったと実感できます。苦しい日々が、田中さんの中の、育ちたがっていた、戦うDNAを大きく育てていったのではないでしょうか。

<この間4人の社長が亡くなり>、中には虐めの手段を発案して社長にまで上り詰めなりながら、自死した方もいるそうです。管理する方も又、もっと大きな組織の中の一歯車。皆、体制側について自分を守ろうとしながら、最後はその体制の論理に飲み込まれ、命までも落とすという事実。田中さんは力説します。「皆自分の守り方を間違えている。自分を守るとは、自分らしく生きること。幸せになりたかったら、そう出来る強さを持たないといけない。人についていっても自分は守れない。長いものに巻かれても結局はハッピーになれない。奇麗事を言うのが一番ハッピーなのだと、僕は今の幸せな姿を皆に見せて、訴え続けるのが自分の仕事だと思っている」と。
<会社を辞めて>、収入の道を捜す時も、とにかく会社の前に行ける仕事をしようと思ったのだそうです。確かにその通りで、素晴らしいけれど、ご自身はともかく、奥様が大変だったでしょうねと言うと、「女性からは必ず言われますね。そうですねと言うしかありません。私一人で頑張ったとはとても言えません」ときっぱり。

<作品からは>、日本人との視点の違いも感じます。そもそもこのローカルな事実の中に、普遍的なものを見つけて映画にしたのは、はるか遠くの監督。冒頭のシーン等、監督も、田中さんの姿にきわめて日本的な何か、武士道のようなものを感じられたようにも思いました。(犬塚芳美)


この作品は、第七藝術劇場で上映
10月1日(土)~10月7日(金)  10:30~
8日(土)以降も続映予定。
詳しくは劇場まで(06―6302―2073)

映写室 「天から見れば」入江富美子監督インタビュー(後編)

映写室 「天から見れば」入江富美子監督インタビュー(後編)
―どうしても伝えたい想い―

(昨日の続き)
―でも作品を拝見すると、そんなドタバタがあったようには見えませんが。
入江:作品の根本のところはじっくり練っていますから。バタバタはその外の部分です。衣装も決まってなかったし、お弁当の手配もまだだったとか。
―あのシーンは思い切ったものですね。実は直前に恐怖から下を向いてしまって、現実には見ていないんですが。目を上げると画面が暗転していて、どうだったのか気にはなるのですが、見る勇気はない。

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(c)ひとさじの砂糖ムーブメント

入江:そういう方もいるでしょうねえ。特にお子さんとかは見れないかも。あそこは凄く勇気の要る決断でした。現実にも苦しい方々は多い。健康そうでも、幸せそうでも、心の中に苦しみを抱えている人は多いものです。東日本大震災もそうですが、人生で突然、自分には想像も出来ないことが起こってしまったというショック。あの事件もそうです。リアルに描かずあそこをサラッと流してしまうと、後の色々な事を乗り越えなくてはいけない南先生の苦しみとか、それを乗り越えて笑顔になっていく凄さが、現実のものとして伝わらないのではと思いました。作り物なんですけれど、架空にしてしまわず、リアルに描こうと思ったんです。興味本位でやったわけではないんです。いらないのではという意見もありましたが、自分を通しました。

―ええ、確かに。自分が見れないほどの事を経験されたと思うからこそ、お二人の苦しみをリアルに想像できるというのもありますよね。
入江:(過去にこういう事があったんや)では、自分の痛みになりませんからね。
―この映画を作りたいという、南先生へのお話や出演依頼は?
入江:色々なことがありました。南先生のことはその前から知っていて、いつか映画にしたいと思っていたんですが、順教尼先生の「無手の法悦(しあわせ)」を読んで、物凄く感動し、これは私が映画にしなくてはいけないと思い込んでしまったんです。絶対やらないといけないと思いつつ、一方で、こういう歴史に残るような方の映画を、私が作っていいんだろうかと苦悩しました。自分には力がない、技術がないと力不足も思って、祖父が僧侶の四天王寺に、子供が眠っている間に、毎朝お参りに行くんです。あんな事をしたのは初めてで、何とか私にこの映画を作らせて下さいと、毎日一生懸命お祈りしました。でも怖さがなくならない。怖い自分が克服できませんでした。そんな時、近くで南先生の講演があって、聞きに行き、前から存じ上げていたので楽屋にご挨拶に行くんです。そこで、ついぽろっと、「先生の映画を作らせて下さいね」と言ってしまいました。もう一作作って、自分に力をつけてから、先生にお願いしようと思っていたのに、あの瞬間に、そんな気持ちになってしまって。そしたら偶然その頃、南先生も順教尼先生の事を伝えたいと思っていた時期だったんですね。弾みで言ったとはいえ、私の中に本気があったし、南先生の中にも本気があった。お会いして「私に命がけで作らせてください」とお願いしました。南先生もその少し前でも、後でも断られていたと思うんです。その後で大病をされますしね。多分そういうことは出来なかったでしょう。

順教
(c)南正文

―ご縁というか、人生のいいタイミングで事が起こったと。
入江:ええ。私が感動したのが、順教尼先生が自分の腕を切り落とした、恨むべき相手のお墓を立てたということです。そこにお参りされる南先生にも感動したんですが、撮影も最後になって解かったのが、そのお墓が、自分の祖父が僧侶の四天王寺にあったんです。映画を作りたいとお参りしたお寺でもあって、「終りなき…」というのが、私にとってもそうだったのかと。そういう不思議なご縁で作れた映画です。
―衝撃的なシーンばかりをうかがって申し訳ないのですが、最後のほうで、南先生が奥様にも見せたことがないという、お一人で服を着られる姿が流れますね。
入江:手のない人はこんな事も出来るんだよと言う場面ではないのです。南先生が順教尼先生の事を伝えたいと思うからこそ、見せてくださった姿で。あの場面は私も、心の中で土下座するような気持ちでした。奥様の弥生さんは、常に二人三脚で暮してらして、南先生を疲れさせずに絵に専念できるようにして差し上げているので、勿論着替えも手伝いますし、両足骨折で入院されない限り、あの場面は撮れなかったと思います。二人が離れ離れになるのは結婚して初めてなんです。映画を作ると決めたとたんにこうなるのも不思議で。

―不思議なご縁というか、色々偶然が重なりますね。
入江:もともと、南先生の何を撮りたいかといって、先生の心が撮りたかった。命がつながって、最後に許しが起こっているあのことは、絶対撮りたかったんです。南先生は順教尼先生に「常にすっきりと」と教え込まれていますから、本来はああいうのは好きではない。すっきりした姿だけを撮ってねと言ってらした位で。ところが、撮影が進んで、「監督があれほど一生懸命、命を懸けて作っているのに、自分たちは思いで作りのような気持ちでいた。だったら私たちも本気で伝えよう」と言って下さったんですね。順教尼先生にあんたらも本気でやれと怒られたような気がするとも言っておられました。決心して伝えて下さった時のあの声は忘れられません。背筋が伸びましたね。だから私たちも泣きながら決心して、この姿を撮らせてもらおうと決めたんです。誰が動いたんでもない。偶然が偶然を読んだんだと思う。弥生さんは映画を見るまであの姿を知らなかった。見て泣いておられましたけどね。

―ええ。
入江:先生は後々まで、心が揺れたと思うんです。奥様にすら見せなかった姿なので、撮影はしたものの、無くてもいいんじゃあないのとか言われたりもしました。でも凄い何ともいえない場面になっています。あの中に凄く品位があって、順教尼先生から受け継いだ何かがあると思いましたね。尊い場面だと思います。
―ええ。本当にその通りで。ああいうお人柄を見ると、絵を見る目が深くなりますよね。
入江:そう言って下さると嬉しいです。もっと先生の絵を映して欲しかったと言う方もいるのですが、私は先生の人間を描きたかった。その人の生き方も絵の中に滲み出ると思っているから、絵を伝える以上にそれをしたかったのです。
―衝撃的なシーンも含めて、観る方も、色々な方の覚悟を見せられた思いがしました。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記>
 もっと年上の方を想像していたら、可愛いスカートをはいたギャル系の入江監督が登場して、驚きました。こんなふり幅の広さも素敵です。インタビュー中何度も出てきた、不思議なご縁という、神の思し召しを示唆する言葉、さすがに僧侶のお祖父様をお持ちの監督だと、つながる命を感じました。作品は、拝見しているとだんだん背筋が伸びていきます。色々な方の覚悟を見せられた思いがしたと言うのが、偽らざる気持ちです。自分も頑張ろうと、大きな力を頂きました。順教尼先生、南先生、入江監督皆さんに感謝を込めて!


この作品は十三シアターセブン(06-4862-7733)で上映
9月24日(土)~10月7日(金)11:00~ 
15:00~

映写室 「天から見れば」入江富美子監督インタビュー(前編)

映写室 「天から見れば」入江富美子監督インタビュー(前編)
―どうしても伝えたい想い―

  第七藝術劇場のあるビル、十三のサンポ―ドシティの5階に、この春シアターセブンがオープンしました。<文化と交流の場>を目指すここは、映像ホールとイベントホールを併せ持っています。丁度東日本大震災で日本が揺れた頃でもあり、原発映画特集、トークイベントと多くの人を集めてきました。今までも上映作品を何本か紹介しましたが、ここにいたり、新しい企画が始まります。
「感謝と希望が増えるムービーセレクションPART1」と題して、第1回目に選ばれたのが、今からご紹介する入江富美子監督。9月24日(土)から10月7日(金)の期間が入江富美子特集となります。メインになる新作の「天から見れば」だけでなく、前半は2007年の第1回監督作品「1/4の奇跡~本当のことだから~」が、後半は監督自身が被写体になった、村上和雄博士のドキュメンタリー「SWITCH」(鈴木七沖監督)が併映。小さなキラキラが周りに一杯ある入江富美子監督に、ご自身と新作についてお話いただきましょう。

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(9月13日 大阪にて)

<その前に「天から見れば」とは、こんなお話> 
主人公は口筆画家として活躍する南正文(まさのり)さん。少年時代に事故で両腕を無くしながら、同じように両腕を無くした大石順教尼に出会い、苦しい時代を乗り越えていきます口筆画家として歩みだす。そんな過去や日常と、絵画の数々や製作風景等が描かれます。


<入江富美子監督インタビュー>
入江富美子監督(以下敬称略):今回シアターセブンさんで、私の特集をしていただくことになりました。新作の「天から見れば」だけでなく、併映作品を一緒に観ていただければ、よりメッセージが強くなるのではと思います。この機会にぜひご覧になって下さい。「1/4の奇跡~本当のことだから~」は最初の監督作で、養護学級教員の山元さんを主人公に、子供たちとのふれあいを通して、生かされている意味や命の神秘を描いたものです。「SWITCH」の方は、ノーベル賞に一番近いといわれる村上和雄博士の軌跡と、実際に遺伝子がオンになった人の生き様を追ったものです。村上先生は眠っている遺伝子にスイッチが入ると、人は人間以上の力を発揮するということを提唱していて、私も日常生活の中で突然スイッチが入って、人生が変わった人として紹介されています。これは、最初監督を依頼されていたのに、途中で出演依頼に変わったものです。ある日電話がかかってきて、「謝りたいことがある」と切り出されたので、「あ、監督を下ろされるんや」と思ったら、出演して欲しいと言うものでした。20分ほどなので、全てではありませんが、私が突然目覚めて人生を変えた様子は、伝わっていると思います。これを観ていただくと、自分には無限の可能性があるのではないかと思えるはずです。

―入江監督は、主婦だったのに、突然映画監督になったと、何かで読みましたが、本当にそうなのですか?
入江:そうなんです。映画は好きで良く見ていましたが、映画監督になるなんて夢にも思っていませんでした。今でも不思議なくらいです。元々私は、アロマテラピーのプロを養成する学校の講師だったんです。そこの授業で13年間色々な思いを伝えてはいましたが、伝えられる人数に限りがある。ある時、どうしてもこれは伝えないといけないと思って、何も知らないのに映画を作り出すんですが、その時にもまだそこに所属していました。でも映画を作った結果、全国各地から講演に呼んでいただくようになり、それがもう千ヶ所にもなるのですが、忙しくなって元の仕事に戻れなくなりました。アロマセラピストから、突然映画監督になったようなもので、監督という肩書きがふさわしいかどうか、自分自身でも悩むところです。でも今は、頂いたと思って、使わせて頂いています。

―そんなお話を伺うと、映画以上に監督に興味が湧きますね。詳しいことは「SWITCH」を拝見するとして、「SWITCH」への導入になるようなお話を伺えますでしょうか。
入江:ある時、突然、私が幼い頃から苦しんできたことを子供たちに伝え、そんなことで苦しまないでと、伝えたいと思いました。私のように、この年齢になるまで苦しませたくなかったんです。たまたま伝える手段が映画だったので、気が付いたら映画監督になっていました。
―良いアプローチですね。最初に伝えたい思いがあって映画を作り、映画を通して伝えたい思いが広がっていくというのは理想です。
入江:「映画監督でこんなに映画を広げられる人はいない」と言って下さる人がいたんですが、私は映画監督が先じゃあなくて、映画に込めた思いを広める為に映画を作ったんで、広げるのは自然でした。周りから色々要望もあって、皆に背中を押されたようなものです。

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(c)ひとさじの砂糖ムーブメント

―でも、ドキュメンタリーならまだしも、新作の「天から見れば」には再現映像という、劇映画の部分がありますよね。映画作りの知識がないと大変では?
入江:あれは大変でした。脚本もどう書いていいか解からず、ぐちゃぐちゃで、形になってなくて。小林綾子さんから、「この脚本は入江富美子記念館に納めたいですね」と言われた位です。「でも込めた思いは伝わったので、出演させて頂きました」と言って下さいましたが。
―脚本はどれほどかけて作られたんですか?
入江:半年ほどですかねえ。たくさんのエピソードの何処の部分を再現するかから決めていかないといけないので、それも大変で。技術がないだけでなく、自分にできるのだろうかという不安と戦うのも大変でした。現実逃避したくなるんですよ。前に進まないので、途中で、撮影日を決めて自分を追い込んでいったんです。でも前日になってもまだ準備が出来てない。もう駄目だと思って、メールで「助けて~!」と言って集まってもらって。家に来ると、皆、これじゃあ出来ないよと、びっくりしていました。人にお願いできなくて、何でも自分で抱え込むタイプなんです。それぞれが、他の人が手伝ってるだろうと思っていたら、誰も手伝ってなかったと。そこからバタバタ進んでいきました。(聞き手:犬塚芳美)
                          (明日へ続く)

   この作品は十三シアターセブン(06-4862-7733)で上映
9月24日(土)~10月7日(金)11:00~ 
15:00~

映写室 「MADE IN JAPAN-こらッ!―」インタビュー(後編)

映写室 「MADE IN JAPAN-こらッ!―」インタビュー(後編)      
―高橋伴明監督・大西礼芳さんにうかがう―

<昨日の続き>
―脚本は今回、当時21歳の和間千尋さんが書いたものを、監督が読んで面白いからと何度も書きなおしていったと伺いますが、共同執筆ということですか?
高橋:授業用に書いてくる彼女の脚本に、妙な病気人間ばかりが出てくるんです。そういうのを見ていたもんで、家族の物語で病気人間の話を書いてみてくれと彼女に言った時から、この作品が始まったんです。

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©北白川派

―和間さんの病気人間の書き方が面白くて始まったと?
高橋:そうですね。普通だったら根を上げると思うんですよ。ここは違うとか、こう直せとか、えんえんと言われるわけだから。直したのは17回と書いていますが、実際は20回以上ですからね。それにもめげず粘って付いてきたのが、この結果になったんだと思います。
―何回目位でこれは映画になると思いましたか?
高橋:最初から映画にするつもりでした。これを俺は映画にするんだから、もっと映画になった時の事をイメージしろと、途中からは言い始めました。
―彼女は最初、舞台のようなことを考えていたと?
高橋:いや。ただ、後から漏れ聞こえてきたことによると、舞台をイメージしていたらしいんですよね。書き方としてという意味ですが。
―それもあったのでしょうか。見る方としては、演劇的な所が新鮮で面白いと思いました。台詞も自然なようで跳んでいるというか、上手いなあと思いました。大西さんの演技にしても、これが始めてだというのに物怖じしないと言うか、ベテランの中で堂々と渡り合い、逆に自分の存在感で圧倒している。感覚だけでなく、もの作りの現場で、世代交代が進んでいるんだなあと、最後は敗北感を味わいながら見ました。勿論監督は、才能のレベルが違うので、敗北感というのはないでしょうが。

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(7月15日 大阪にて)

高橋:僕は敗北感を感じて、次の世代にバトンタッチをしてもう立ち去りたいと、最近は思いますね。気持ちよく負けたいんです。
―教える形を取りながら、若い人の感覚を一杯吸収されているわけで。
高橋:それはあるでしょうね。メンタルな面も含め、引き出しは多くなると思います。
―手持ちの上にさらに大きくなられるわけですから、気持ちよく負かしてくれる相手は、なかなか現れないでしょうね。この作品、気になる台詞がたくさんあって、例えば「弱い者ほど強い」とか、ドキッとしますが、あれは、監督のご意見ですか?それとも和間さんの? 
高橋:限りなく協議を続けたので、今となっては正直どっちが言ったのか解からない。こう直せと言っても抵抗してくるでしょう。そういう事が長く続いて、ストーリーが変わると出てくる台詞も変わってくる。そういう事の繰り返しだったので、何時生まれた台詞だったのかなあ。解からない。

―でも、この台詞が結構この映画を貫いてますよね。どちらかの思いとして以前からあったのではないかと思いますが? 
高橋:確かにね。社会的な弱者であっても、それを利用してこいつは良いよなあと思うことはしょっちゅうありますからね。表面的に見えないだけで、こっちのほうがよっぽど辛い思いをしているんだよと言うところが、あったりするじゃあないですか。
―ええ、言いにくい本音ですが、肯かされました。こんな出来上がり具合を見ると、北白川派というのが軌道に乗りそうですね。
高橋:うん、何とか軌道に乗せていきたい。第三弾となる次の作品も、もう撮影が終わって編集にかかっていますし、その次も準備しています。

―監督にとって、この作品の位置づけは?
高橋:挑戦です。こういう傾向のものは撮ったことがないんでね。
―凄く楽しい挑戦だったのでは?
高橋:そうですね。丁度これのすぐ前に「禅」と言う、オーソドックスな、いわば薬のような作品を撮ったので、その反動がやれて楽しかったね。毒があって笑いがあって、全てに過剰で見たいな事がやりたかった。それが全部やれたのが楽しかったんだと思う。
―北白川派というのが大きいんでしょうか?
高橋:大きいですね。大きな北白川派という柱があると思うんですが、まあ、一つは学生と一緒にやれたということと、通常の映画業界ではなかなか通らないであろうと思われる企画ですから。これからもこういう試みをやっていこうと。

―とても好きな作品なので、自分の個人的な興味に流れる質問ばかりをしてしまいました。最後になりますが、これを見てくださる皆さんに、それぞれ一言お願いします。
高橋:自己中と個人主義を間違えるな。個人主義そのものは良しと。ただし、個人主義というのは相手、他人を認めてこその個人主義。他人がいるからこそ個人主義が成立するのであって、それをよく理解して、自分の人生を生きて下さいというのを、この映画から感じ取ってもらえればなと思います。
大西:色々な方に見ていただいたんですが、女性の反応が良いんです。学生の女性、松田美由紀世代の主婦の方、後、伴明ファンの方には、こんな作品も撮るんだなあと思ってみていただきたいと思います。毎回舞台挨拶をするくらいの勢いでいますので、ぜひ劇場に足を運んでみてください。YOU TUBEで、ジャンクションダンスを流しているので、それも検索してください。宣伝も私たち学生がしていますから。(聞き手:犬塚芳美)

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(7月15日 大阪にて)

<インタビュー後記:犬塚>
 お会いした瞬間、「え、こんな方なんですか」と、雛子とはあまりにもかけ離れた佇まいの大西礼芳さんに、目を見張ってしまいました。初めての演技なら、もっと自分の素を晒しているのかと思ったのです。のっけから心地よい肩透かしを食らいました。
主人公は、普通躊躇しそうな言葉も攻撃的に相手にぶつける。でも無神経なわけでもない。無頓着そうに見せながら、何処かで他人との距離を推し量っている。新しい世代の不思議さが見えます。最後にいくほど、この作品の毒と、突きつけてくる刃がドーンと迫って来る。応えました。ほんのささやかな均衡で保っている家族は、誰かの喪失で一気に崩れていく。家族だけでなく、私たちの心も、危うい均衡で何とか平常を保っているだけだとも思う。和間千尋さんの書く病気人間は、誰もの中に少し燻ぶっている思い。この暑さや地震で吹き出しかねない、危うい今の社会です。それにしても、大西礼芳さん可愛い!



この作品は、9月24日から京都シネマ、
10月15日から第七芸術劇場 にて公開

映写室「チェルノブイリ・ハート」上映案内

映写室「チェルノブイリ・ハート」上映案内   
 ―遺伝子に傷をつけ、汚染は続く―

 この作品は、フクシマの原発事故に衝撃を受けたマリアン・デレオ監督が、放射能の怖さを知って欲しい、今からでも出来る自衛をして欲しいという思いから、作ったもの。2002年に製作した40分の「チェルノブイリ・ハート」と、その6年後に作った19分の「ホワイトホース」を、日本語版として特別に編集したものです。
目先の爆発を避けることで精一杯で、これから起こる悲劇に目をそらしているけれど、放射能の怖さはこれからが本番。爆発のその後を、放射能の怖さを、こちらの身に痛みを伴うほどのリアルな映像で、しっかりと見せていきます。

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©2003ダウンタウンTVドキュメンタリーズ

<1986年にレベル7の事故を起こした>チェルノブイリは、190トンの放射性ウラニウムと放射性黒鉛が空気中に拡散し、のべ60万人の現場作業員が大量の放射能を浴び、13000人以上が死亡。避難民の総数は40万人を超え、2000以上の集落が廃村になりました。高齢者の中には、今も強制避難区域に住む人もいますが、彼らに大きな健康被害は出ていない。一番放射能の影響を受けたのが、子供たちです。
 <例えば>、事故当時幼少期や思春期だった若者に多発する甲状腺がん、事故の前に比べると25倍にも増えた重度障害児、そんな子供に驚愕し遺棄する親。そんな子供の集まる遺棄乳児院には、見るのも痛々しいほどの障害を抱えた子供たちが、なす術もなく、ベッドに横たわっています。チェルノブイリから80キロのゴメリ市では、障害児が生まれる確率は15~20%。放射能の影響を考えないわけにはいきません。

 <題名の「チェルノブイリ・ハート」とは>、壁に穴がある等の重度の疾患を抱えた心臓のこと。チェルノブイリの事故の後生まれた子供たちに多く見られる現象で、年間300人の子供たちが手術を必要とするのに、医師、お金と全てに不足し、手術に辿り着ける子供は僅かで、累積待機患者は7000人にも上ります。

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©2003ダウンタウンTVドキュメンタリーズ

<後半の「ホワイトホース」で捉えるのは>、放射能という目に見えない脅威に汚染された街の姿です。チェルノブイリから3キロのウクライナ、プリピャチにある家に、事故から20年後に始めて帰っていく一人の青年。荒れ果てて荒涼とした様は、まさに死の街。事故から時が止まったままで、見えないはずの死の影が、そこここに見えました。彼の呟く「近親者の10人が癌で死んだ」という言葉の重さ、その彼も撮影の1年後には27歳で亡くなります。

<勿論フクシマとチェルノブイリは>違います。でも、一歩間違えばこうなる。程度の差はあっても見えない汚染も同じ。監督は、フクシマが第2のチェルノブイリになる前に収束して欲しいと、切に望んでいます。収束も勿論ですが、この作品を観て、見えない脅威にもっと怯え、放射能への感受性の高い世代を出来るだけ早く汚染地帯から遠ざけ、遺伝子への影響を避けなくてはと、焦りにも似た思いを持ったのは私だけでしょうか。「放射能は目に見えないから怖い」という言葉の重さを実感しました。日本語版製作にあたり、トルコ生まれの詩人、ナジム・ヒクメットの「生きることについて」の言葉が、日本人に捧げられています。(犬塚芳美)

この作品は、シネ・リーブル梅田(06-6440-5930)で上映中
9月24日から神戸アートビレッジセンター、
10月22日から京都シネマ にて公開
 
   
*「チェルノブイリ・ハート」は、2003年のアメリカアカデミー賞ドキュメンタリー部門でオスカーを獲得。マリアン・デレオ監督は、べトマム、グアテマラ、イラク等数十カ国の取材経験があり、2度のエミー賞の他、多くの受賞経験もある。

映写室 「MADE IN JAPAN-こらッ!―」インタビュー(前編)

映写室 「MADE IN JAPAN-こらッ!―」インタビュー(前編)      
―高橋伴明監督・大西礼芳さんにうかがう―

 映像なのに演劇的な世界が広がる、刺激的な作品が完成しました。京都造形大映画学科の教員と学生が共同で作ったもので、北白川派映画の第二弾です。指揮をとったのは同校で教鞭と取る高橋伴明監督で、松田美由紀さんとダブル主演を努めるのは、当時まだ一回生で、演技経験もなかった同校の大西礼芳(おおにし あやか)さん。脚本は執筆当時21歳で同校の学生だった和間千尋(わま ちひろ)さん。プロの業に支えられながら、若い感性で描く、壊れていく個人や家族像が、時間と共に効いてきます。高橋伴明監督と、大西礼芳さんにお話を伺いました。

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(7月15日 大阪にて)

<その前に「MADE IN JAPAN-こらッ!―」はこんなお話> 
祖母の死をきっかけに、父が引きこもりになる。祖母の服を着てお化粧までし始めた。母は、娘の同級生で足の悪い健一のホームヘルパーだ。牛乳配達のバイトをする雛子は父や母と衝突する毎日。憂さ晴らしは配達した家のベルを鳴らすという悪戯だった。ある日、健一の唯一の家族、姉が家出する。母が家を出て健一と暮すと言い出し…。


<高橋伴明監督・大西礼芳さんインタビュー>
―京都でも造形大のある左京区は詳しいつもりなので、ここは何処だろうと記憶を探りながら見たのですが、解からなくて…。撮影は京都ですか?
高橋伴明監督(以下敬称略):ええ、ほぼ京都です。一部、比叡平という滋賀県と京都の中間のようなところも入っていますが、後はぜんぶ。大木の並木道は植物園です。後、トイレのシーンや、雛子が居候する友人の部屋は高原学舎のスタジオにセットを組みました。
―そうですか。いつも見ている風景も新鮮に切り取ってらっしゃるのですね。会話のテンポが良くて、刺激的でした。雛子が友人に甘えるところなど、こんな風に出来たらどんなに生きるのが楽だろうと、憧れます。劇中の雛子をイメージしたので、大西さんがこんな方とは思わず、びっくりしました。プレスにも、雛子は自分と真逆だと書いてありましたが、ご自分と役柄のギャップはどうやって埋めましたか?
大西礼芳さん(以下敬称略):雛子は良いですよね。言いたいことをはっきり言えて、普通こうはいかない。羨ましいなと思いました。ただ、演じた当時は自分とは真逆だなあと思ったんですが、後になって、結構自分と似てるかもしれないと思いました。本当はそういうところがあるのに、普段は猫を被っているんだなあと、思い出したんです。もう一人の私というか、押さえ込んでいる私の裏側の顔かもしれないと。この時は演技が初めてでしたが、凄く演じ易かったんです。その後で学生映画とか色々ださせてもらっているんだけれど、そういう経験の中でも一番演じやすくて、やっぱり雛子は自分に近い気がします。

―キャスティングされたのは監督ですよね? そういうところを見抜かれたと? 多くの演技経験のある方の中から、未経験者の大西さんを選ばれたと伺いますが?
高橋:彼女が入学してきた時に、印象に残っていたんです。端的に言うと顔かなあ。今時の子の様で、今時じゃあない。何か強いものを内に秘めているというようなことを、顔から感じたんですよ。俳優志望かどうかも知らなかったけれど、今回のオーディションのメンバーに入っていたんで、第一印象で選びました。
―目じりの上がった瞳とか、確かに時代不明。
高橋:大陸から渡ってきた仏像のようだと言った人もいます。
―上手い表現です。映画を拝見した時は、もっと経験のある方だと思って。演技的に劇団の人だろうと思ったんです。この映画はなんか劇的ですよね?
高橋:まあ、演劇的ですよね。

―それは監督の演技指導のせいですか?
高橋:いや、周りにどんどん引っ張られていって、そうなったんでしょう。周りを固めているプロの共演者たちのせいですよ。僕は演技指導はしませんから。それは僕の仕事ではないと思っているんで。
―高橋監督の、監督としての仕事で一番大切なのはなんですか?
高橋:映画の世界観を作ることでしょうね。映画作りはシナリオ作りから始まって、キャスティングが出来たところで、7割位は終わっているのかなと言う気がします。その後は映画の世界観を作ることですよ。
―世界観と言うのも難しいですよね?
高橋:一言で言うと一言で終わるけれど、じゃあそれは何なんだと聞かれたら、なかなか難しいものがある。それはもう自分ではフォローできないんで、プロデューサーなり宣伝なりが、考えて頂戴と言うんですよ。テーマは何とかね、そんなことは最初考えない。映画を作るにおいて、自分の中であまり問題じゃあないんです。後付で考えてもらってもかまわないと。

―具体的に、撮影中に一番神経を使われたのは?
高橋:母親役の松田美由紀の暴走を何処まで容認するかですね。彼女は舞台もやっていて、その延長の気分や、溜まっているフラストレーションがあったりして、それが映画にきた時に、ひょっとすると暴走するんじゃあないかと思ったんで、どのへんで折り合いをつけるかと、そのあたりが大変でした。
―そういう方の隣で演じて、大西さんはいかがでしたか?
大西:恐々と見ていたんですが。そういう方じゃあないと、私を引っ張っていってくれなかった。現場での精神的なことにしても、松田さんがいなかったら雛子になれなかったと思います。もしかしたら大西のままで撮り終えていたかもしれない。
―そんな大西さんは監督から見ていかがでしたか? 初演技、初主演ですが?
高橋:正直ここまでやれると思ってなかったんで、それにもびっくりしました。だんだん役者になっていくんですよね。
―お友達とかは、この映画を見て何か言いましたか?
大西:あまり話さないです。先輩とかは、なんか感想を言ってくれるけれど、同級生の俳優コースの人というのは、皆がライバルなので、これについて何も言いません。

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©北白川派

―雛子を演じて何か変わりましたか?
大西:演技することがちょっとだけ好きになりました。やっている最中は、今だから言えるんですけれど、とても嫌で、演じることが苦痛で仕方がなかったんです。周りに人が一杯いて、その前で何かをしないといけないというのが、苦しくて、とても苦痛でした。でも今は、もっとやりたいと思う。雛子の役だからそう思ったのかもしれません。たぶん私も雛子のようになりたいのだと思います。雛子は誰に対しても激突していくけれど、実は誰に対しても遠慮もしている。内向的というか、心理的に受身の部分を持っているので、複雑な存在です
―その苦しそうなのも、雛子にいいですよね?
高橋:ええ、そう思いますよ。
―それも監督の作戦ですか?
高橋:いや、ぜんぜん。

―若い彼女に、こういう人生を変えるかも知れない作品を与えたことをどう思いますか?
高橋:やる気があるからオーディションに来たんでしょうという開き直りはある。これに出たことで、これから良い事も悪い事もあるだろうけれど、自分のことは自分で責任を持って、自分で生きていってねと言う思いですね。ただ、僕も出来る応援はするよと言う気持ちはあります。責任と言うなら、映画に対する責任ですね。出演者やスタッフに対する責任は、取りようがない気がします。(聞き手:犬塚芳美)
                            <明日に続く>

この作品は、9月24日から京都シネマ、
10月15日から第七芸術劇場 にて公開

映写室「ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード」上映案内

映写室「ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード」上映案内   
 ―被爆者を訪ねる、竹田信平監督の旅―

 <終戦後、日本を離れ>、原爆を落としたかつての敵国「アメリカ」に移住した被爆者たちがいます。竹田信平監督がそんな史実を知ったのは、5年前に「最後の原子爆弾(The Last Bomb)」の制作アシスタントをした時でした。アメリカ人監督の隣で、通訳として直接被爆者の話を聞き、頭の中で言葉を反復して衝撃を受けた竹田監督は、滞在していたアメリカ・サンディエゴを拠点に、北米及び南米に移住した被爆者の体験を取材し始めます。それから5年間、出会って話を聞けた方々は、アメリカ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルーと、広範囲の50名以上になりました。
 <その間の資料で>展示会やキャンペーンを催し、長崎の原爆死没者追悼平和記念館に寄贈し、そして今度の作品です。このドキュメンタリーは、アメリカに住む日本人青年二人が、カナダのバンクーバーからメキシコ国境まで、北米大陸西部を車で移動しながら、各地に住む被爆者にインタビューする形になっています。

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 <登場するのは>、当時2歳から16歳という幼さで被爆した人々。長い間沈黙を続け、初めて被爆体験を語る人もいます。心の扉を開けるには、ここまでの時間が必要だったのかもしれません。高齢で被爆者がどんどん亡くなる中、近づいてくる自分の死を見つめ、多くの人が命を落とした中で、自分が生かされた意味を考え、吐き出すように言葉を重ねていきます。

 <淡々と語られるその後の人生ですが>、ほとんどの人は、「ジャップ」と呼ばれアメリカ社会で差別された日系の中でさえ、さらに被爆という差別に苦しみました。公的なもののないアメリカの保険制度の元で、体の不調に怯えながら、被爆を口外出来なかった人もいます。そんな方々と接する度に、今なら間に合う。若い自分たちが心の内を聞き、次の世代に伝えていくのが使命と、監督の思いが強くなったそうです。
 <題名の「ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード」には>、パソコンのダウンロード、アメリカ西部を北から南へ下っていく、ダウン・ザ・ロード、そして、消えそうな戦争体験を、当事者から、何も知らない監督世代が受け継ぐという、世代間の受け渡しの意味も込められています。

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(8月19日大阪にて)

 <監督は、「あの戦争という大きなくくりではなく>、個の物語を浮かび上がらせるのが狙いだった」と。被爆体験を、長い人生の中のたった一日の鮮明な記憶として、その後の人生を懸命に生きてきた被爆者たち。被爆の日までもその人の暮らしはあったし、その後にも長い日々がありました。その言葉どおりに、淡々と悲惨な過去を語る証言者たちの、その後の人生や人柄こそが印象に残る作品になっています。
どの方もお美しく、苦労にも負けず、一生懸命生きた日々が、一人一人のお顔をこれほどくっきりとさせ、内面を深くしたのだと、そこにも感慨を覚えました。

 <重い証言をクールダウンするように>、被爆者を訪ねる合間合間を、雄大な西海岸のランドスケープの映像が流れます。美しい風景と、人間の犯した恐ろしい過去、重いものを秘めながら淡々と続く人々の暮らし。ここにあるのは、まさに今。全てを飲み込んで自転し続ける地球の姿でした。
 <勿論こんな地球の裏側では>、この後すぐに、「フクシマ」の惨事が起こります。世界の人々から、放射能で苦しめられた唯一の国なのに、今度は自分の手で放射能を撒き散らすのかと、呆れられる日本。事故はともかく、こんな最中にも、原爆を持ちたがる国も後を絶ちません。被爆者は過去の言葉ではない。もしかすると明日何処かに新たな被爆者が生まれるかもしれない状況です。そんな今だからこそ、この映画を見て欲しいと、熱い思いを語って下さいました。

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 <お話を聞く際にはたっぷり時間をかけて>、被爆体験以外に、その人の人生を話してもらったそうです。父親の仕事の関係で幼い頃から世界を転々とし、今も日本を離れて暮す監督には、このお爺ちゃんやお婆ちゃんの寄る辺のなさも、又、自分に重なるものでした。祖国を離れた者の宿命ですが、望郷の思いはあっても、もう故郷に帰る場所はない。訪ねて行くと、久しぶりに日本語を喋れる事を喜び、味噌汁を作れば食べてくれる人がいるのを喜び、お互いに日本への思いを濃くしたと。
 <例えば日本なら>、戦争の記憶すら消えそうな今、(重い体験を解からなくても仕方がない、解かろうと思う姿勢が大事)と、殻を破って素直な姿を取り戻し、監督自身が成長していく。そんなロードムービーでもあるのでした。
 <まだまだ漂流中の>一人の若者でもある竹田信平さんにとっては、この5年間と被爆者を訪ねる旅が、自分探しの過程でもあったそうです。(犬塚芳美)


この作品は第七藝術劇場にて、上映
      9月17日(土)~23日(金) 10:00~
      9月24日(土)~30日(金) 11:35~

映写室 「ぼくたちは見たーガザ・サムニ家の子供たちー」上映案内

映写室 「ぼくたちは見たーガザ・サムニ家の子供たちー」上映案内
ー古居みずえ監督の新作ー

 <「ガーダ~パレスチナの詩~」で>、戦火の元で生きる一人の女性の目を通して、パレスチナの今を伝えた古居みずえ監督が、再び、バレスチナを舞台に現状を伝えています。古居監督は、1400人という犠牲者を出した、2008年末から2009年にかけての、イスラエルによる、パレスチナ・ガザ地区への攻撃直後に現地に入り、多くの子供たちが犠牲になっているのにショックを受けます。特にガザ・サムニ家の子供たちは、一度に一族が29人も殺されるという惨事を目撃し、心に深い傷を抱えていました。この作品ではあの爆撃で子供たちが何を見たのか、そしてその後どんな風に暮したのかを、子供たちの言葉と絵で探っていきます。

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 <古居監督は昔大病を患い>、自分の健康を取り戻すと共に、カメラを抱え、パレスチナへと行脚を始めました.小柄な体でどうしてここまで、危険な地にのめり込むのかと尋ねると、「理由は解からないけど、パレスチナが好きなんですねえ。イスラエルに囲い込まれるようにして不自由な暮らしをしながら、明るく逞しい人々を応援したいんです。報道にも偏重があり、強いイスラエルに押されて、高い塀に取り囲まれた狭い場所に押し込まれ、困窮を極めるパレスチナの情報が少ないので」と言われる。監督はいつも、センセーショナルに報道される裏側で、忘れられている弱者の暮らしを切り取ります。そんな中でも特に女性に惹かれるらしい。今度も、物言うような瞳を持つ少女がクローズアップされるけれど、強者と弱者があれば常に弱い方へと眼差しを向けるのが古居流。そんな監督に元気を貰ったのか、この少女も、一族が殺された様をリアルに描き、悲しみを伝えながら、何時しか未来への希望を語り始めました。次の世代の元気こそが世界を変える元。どんなに傷付こうと銃撃で土地が荒廃しようと、ここには確かに未来があります。

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 <驚くのが>、慈愛に満ちたパレスチナの大家族制度です。戦火に晒されてきたパレスチナには、戦争孤児も多いはずですが、ガザにはストリート・チルドレンがいません。親兄弟をなくしても、従兄弟、伯父さん叔母さん、お祖母さんと言った、大家族制度で支えて、子供を引き取り、家族の一員としてわけ隔てなく育てていくのです。貧しく、一個のパンも貴重な暮らしでも、その姿勢は崩れません。そこにも、3.11と言う未曾有の惨事を経験した私たちにとっても、大切な何かが隠されているのではないでしょうか。
 カメラワークも前作以上に果敢。伝えたいと言う思いに忠実に、行動力、技術共々前進し続ける古居監督の姿勢も、私たちを元気付けてくれます。(犬塚芳美)
 
   第七藝術劇場で上映中 10:45~より
              9月17日(土)~9月23日(金) 16:55~


   又、同時に、「ミラル」(紛争の地で生まれた感動的な実話を、
「スラムドッグ$ミリオネア」のフリーダ・ピントが、希望の象徴となるような少女を力演)も上映中。
 詳細は劇場(06-6302-2073)まで

  ※古居みずえ監督を迎えての「ぼくたちは見たーガザ・サムニ家の子供たちー」の公開記念トークが、
10月1日13:00より、こうべまちづくり会館であります。詳細は、元町映画館(078-366-2636)まで。

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