太秦からの映画便り

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映写室「死刑弁護人」斉藤潤一監督インタビュー(後編)

映写室「死刑弁護人」斉藤潤一監督インタビュー(後編)   
―悪魔の弁護人と呼ばれても、なお―

<昨日の続き>
―題材的にもこれは深夜枠がよかったかも。最初はテレビ作品ですが、とても映画的でした。
斉藤:実はこれは最初から映画にしようと思って作っています。編集の仕方も、テレビ的じゃあない。映画的なんです。音の入れ方もだし、手紙の文面もナレーションを入れず、目で画面を追ってもらっています。テレビ番組なら普通はここでナレーションが入るんですが。今まで自分が作った中では一番映画的な作りになっています。

―ええ、なるほど。
斉藤:そういう風に作りながら、テレビの人間なので、こうして劇場公開しお金を払って見て下さってる人を見ると、なんだか申し訳ない。いつもは只で見てもらっているのになあと思ってしまうんです。でも、映画は良いですね。画面の大きさが圧倒的に違いますし、テレビと違って、後ろの方で観客の皆さんと一緒に、皆さんの反応を見ながら見ることが出来ます。眠られないかなあとか怖いけれど、目の前で反応が見れるのは嬉しいです。それに、こういう番組をうちのキー局から全国ネットで流してもらえることは、まずありません。スポンサーがつきませんからね。そういう意味でも劇場公開は、うちの放送エリア以外の方に見ていただけて、嬉しいです。

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©東海テレビ放送

―こういう作品を被害者の方が見ることは?
斉藤:東京では地下鉄サリン事件の被害者の会の方が見てくださいました。良かったといってくださいました。その人は「どうしてこんな事件が起こったのだろう。それを知りたい」と言ってましたが、そういう点で見ると、安田さんは犯人側の弁護士ではあるけれど、真実を究明すると言う意味では、被害者の方と同じベクトルを向いているかもしれませんね。
―そうですね。そういう意味からも、安田弁護士は麻原さんに対して複雑な思いを持ってらっしゃるということですね。一つのきっかけで、事件の究明がうやむやになりましたから。
斉藤:そうですね。あの時反対尋問をしないで、強引に裁判を止めた方が良かったかもという思いはお持ちなのではないでしょうか。裁判所がやれと言うから仕方なく反対尋問をして、それ以降麻原がああなったわけですからね。あれがなかったら、もしかしたら麻原の精神状態が狂わず、法廷で麻原の証言が聞けたかもわかりません。それだとまるで違う展開ですからね。

―安田さんは、弁護士の自分が麻原の意向に反したことで、麻原が自分に対して心を閉ざしたと思っているのか、それとも緊張の頂点だったあそこで孤立し、麻原が壊れてしまったと思っているのでしょうか?
斉藤:たぶん後者でしょうねえ。自分の言い分を聞いてくれない警察や裁判に対する不信だと思います。まあ、本当のところは本人に聞いてみないとわかりませんが。

―麻原が精神錯乱を装っているという見方もありますが?
斉藤:それはないでしょうねえ。さすがにそこまでは描いていませんが、麻原の今の意識レベルは相当低下していると言う具体的な証言がいくつもあります。たとえば娘が会いに行っても、おしっこを垂れ流しでやってくるそうですから。

―そういう複雑な思いを持ち、重い事件の弁護をしながら、安田さんはいつも楽しそうにされていますが?
斉藤:そうですね。弁護士の仕事はすぐにでも止めたいと口癖のように言いますが、この仕事が好きなんだなあと、見ていて思います。
―1ヶ月に1度しか自宅にも帰れず、あの雑然とした事務所に泊まり込んで、仕事漬けですよね。
斉藤:そうですね。仕事しかしていません。土日もたいてい弁護団体の活動で全国を飛び回っていますから。

―でも暮らし方に余裕も感じます。服装もアイビールックの名残でお洒落ですし。
斉藤:お洒落ですよね。コットンパンツと紺ブレで、法廷にもあの格好で行きます。弁護士バッジもつけませんしね。法廷の弁護士はたいていダークスーツなんですが。

―こだわりがおありなんでしょうね。どうしてここまで刑事事件にのめり込まれたのでしょう?
斉藤:やっぱり優しさだと思います。こういう事件を起こす犯人と言うのは、社会的な弱者で、恵まれない環境で育っています。社会からも家庭からも見放された挙句と言う人が多い。弱者と言う環境がああいう事件を起こす下地にあるんです。そういう弱者を救ってあげたいと言う思いが、おありなのだと思います。きっちりと、なぜ事件が起こったのかを聞き取って、2度と犯罪が起こらないようにしたいと言う思いでしょう。そういう意志を聞くと、とてもピュアで気持ちの優しい人なんだなあと思います。

―何かの大きなきっかけで、刑事事件にかかわっていきだしたと言うのではないのでしょうか?
斉藤:どうでしょうか、今回では解かりません。元々学生運動をやっていたので、反体制派ですから。法廷でも検事側になることはないと言ってますからそういう思想的なものもあるかもしれません。全国の弁護士にとってもカリスマでしょうね。敵も多いとは思いますが、弁護士なら安田好弘と言う名前を知らない人はいないでしょう。
―相手側に安田さんがいると嫌とか?
斉藤:う~ん、基本的に負け続けていますからね。負け続けているのにそれでも続けると言うのが尊いですよ。死刑になった人も3人います。

―時にはそういう人の身柄を引き取り、お葬式もやるわけですね。死刑事件と言うと背負うものが重い。
斉藤:世間から「人殺しを弁度する人でなし」とバッシングを受けながら、人命が奪われたと言う大事件を通し、加害者と被害者双方の悔恨や悲嘆に苦悶するのですから。
―引き受ける時には突破口を見出しているんでしょうか?
斉藤:いや、見つけてないんじゃあないですか。たいていは最高裁判決の手前で依頼されるわけで、もし自分がここで断ったら、この人は死刑執行されるだけという断腸の思いじゃあないでしょうか。

―他の弁護士さんがお手上げ状態で?
斉藤:ええ。だから引き受けざるを得ないと。

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©東海テレビ放送

―精神だけでなく体もがっちりとされていて、見るからにタフ。そういう方でないと精神的にも勤まらない仕事ですね。ところで、斉藤監督がこれだけ司法問題に取り組まれるわけは? 面白いとか?
斉藤:いや、面白いわけではありません。暗い事件ばかりで、性格もどんどん暗くなってますから。それでもやっているのは、1つやると次の課題が見えて、止めるに止められなくなったというか。そんな数珠つながりで続けているんですかねえ。

―それで今度はドラマですか?東海テレビで、ドラマ「やくそく」を作られたばかりですよね。これは「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝死刑囚を描いたものとか?
斉藤:僕は最初に「重い扉~名張毒ぶどう酒事件」と言う作品を作り、1本作ると問題点が見え、切り口を変えてその後も2本作りと、合計3本、この事件のドキュメンタリーを作っています。4本目を作ろうと思った時、確定死刑囚の奥西さんに会うことが出来ないという現実に直面しました。僕の立場では、面会はおろか手紙のやり取りも出来ないのです。これでは彼を表すことが出来ない。(そうだドラマでやれば、本人の怒りや叫びを表すことが出来る)と気がつきました。

―そこまでこの事件に拘るのは何故ですか? 確定死刑囚の思いを伝えたいと思われたのですね?
斉藤:そうです。僕は長い間この事件を取材してきて、これはきわめて冤罪の可能性が高いと思っていますから。弁護団もそう思って、再審請求をしているのですが、なかなか認められない。そうこうするうちに、もう86歳です。今肺炎にかかっていて、いつ亡くなってもおかしくない状態です。

―冤罪と思う斉藤監督が作ったわけだから、裁判には反映されない色々なところを描いていると言うことですよね?
斉藤:そうです。ドラマは冤罪の可能性が高いと描いています。
―放映はいつですか?
斉藤:テレビの放映は6月30日に終わりました。次は劇場展開したいと思って、色々作業をしています。

―何とか生きているうちに再審が始まって欲しいですね。
斉藤:ええ。生きて出してあげたいと思います。僕らは接見できませんが、弁護士と親族、支援者のうち1人は出来るので、こういう作品が出来たのも伝わっているかもしれません。奥西さんは51年獄中にいます。大変なことです。僕は最初にかかわった司法事件で冤罪の可能性を感じてしまいました。司法は重いけれど、その判断が絶対に正しいとは限らない。でも重いことをやっているだけに、前言を翻すことも出来ない。間違えていたらごめんなさいと言えばいいのに、それが言えないんですね。そういう悪しき仕組みの中で苦しむ人を助けたいと思うのは安田弁護士にもあると思います。安田さんはどんな人も再生できると考える人で、死刑廃止運動もしています。死刑囚の中にも死刑廃止論者はいて、「罪を犯した者だからこそ償い、伝えるべきことがある。僕が最後の死刑囚であって欲しい」と、ともすれば反省していないと受け取られかねないリスクを犯して訴え続けました。1995年に執行された木村修治死刑囚です。

―安田さんは完成した本作を見て、何か言われましたか?
斉藤:だまされたと言われました。
―え?何を?
斉藤:元々1人に密着するのは嫌だと言われていたので、撮影に関して、数人に密着するので、その中の一人だよと言う言い方をしていたんです。安田さんの近くの弁護士から、そうしないと撮らせてもらえないよと、アドバイスを受けていたので、作戦でした。でも、だまされたと言っても嫌な感じで言われたわけではありません。

―ご家族の方は?
斉藤:奥様とお嬢さん二人ですが、家族の取材は止めて欲しいと最初から言われていました。きっと奥様も気丈な方なんだろうと思います。陰で支えているはずですよ。安田さんはいつもニコニコした方です。司法の問題を色々教えてもらいましたが、それ以上に一人の人間の生き方を教えられました。信念を通すのは大変なことですが、どんなにバッシングされても、逮捕されても、自分の信念を曲げずに続けている。一人の男の生き方みたいなもの、こういう人でありたいなあというのを見せてもらえました。

―見た私も、そういうもので満たされました。斉藤監督は、そういう風に世間の評判と違う内面を持つ人を主人公に撮ってきましたが、今興味をもたれるのは?
斉藤:取材すると対象者から色々刺激を受けます。それに背中を押されここまでやってきました。今度ニュース局に移動になりましたが、今後は後輩の拾ってきたニュースの中から次のネタを拾いたいと思います。僕はこのところ、安田さんや戸塚さんと、周りから悪人と言われる人を取材対象にしてきました。そういう意味で言うと、今は小沢一郎に興味があります。まあ、一般的には、悪人と言う捕らえ方をされていますから。密着は出来ませんし、本当に選挙のためというその通りかもしれないし、そうではない深いものがあるかもしれない。今一番気になる存在です。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記:犬塚> 
斉藤監督や岩井カメラマンの目線の通りに、安田弁護士に魅せられました。それにしても、こういう作品に出会わなければ、私もテレビの前で「こんな人のことまで弁護して」と、嘯いていたかもしれません。世間の常識に流されない斉藤監督、そういう番組を作り続ける東海テレビ。ジャーナリストらしいこういう姿勢を貫いていただきたいと思います。ささやかな応援として、そういう映像を見続け、皆に良さを吹聴したい。生きる指針として、ぜひ安田弁護士を見てください。


この作品は、7月28日から第七芸術劇場、
順次神戸アートビレッジセンター、京都シネマ にて公開

*7月28日18:40~の上映後、斉藤潤一監督と安田好弘弁護士のトークショーがあります。
*又、7月28日~8月3日の16:20より、日替わりで「免罪映画特集~戦う弁護士たち~」と題して、同劇場で下記の2作品が上映されます。時間等は劇場まで(06-6302-2073)
  A 「証人の椅子」(1965年)
B 「帝銀事件 死刑囚」(1964年)

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映写室「死刑弁護人」斉藤潤一監督インタビュー(前編):犬塚芳美

映写室「死刑弁護人」斉藤潤一監督インタビュー(前編):犬塚芳美 
  ―悪魔の弁護人と呼ばれても、なお―

麻原彰晃(オウム真理教事件)、林眞須美(和歌山毒カレー事件)、木村修治(名古屋女子大生誘拐事件)、元少年(光市母子殺人事件)、丸山博文(新宿西口バス放火事件)これらはすべて、死刑事件だ。この全てを弁護してきた弁護士がいる。「極悪人の代理人」、「人殺しを弁護する人でなし」と呼ばれ、世間からバッシングを受けながらも、誰もやり手のない仕事を引き受ける安田好弘弁護士。世間の評価のダークサイドに寄り添い、問題作を作り続ける東海テレビの斉藤潤一監督にお話を伺いました。

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©東海テレビ放送

<その前に、安田好弘弁護士の担当した主な事件>
1971:新宿クリスマスツリー爆弾事件(鎌田俊彦―無期懲役)
1972:あさま山荘事件(坂口弘-死刑:再審中)
   晴山事件(晴山広元-死刑)
1973:日航機ダッカハイジャック事件(丸山修-無期懲役)
1976:北海道庁爆破事件(大森勝久―死刑・再審中)
1980:新宿西口バス放火事件(丸山博文-無期懲役)
   山梨幼児誘拐殺人事件(梶原利行―無期懲役)
   名古屋女子大生誘拐事件(木村修治-死刑)
1986:仙台老夫婦殺人事件(堀江守男―死刑)
1988:名古屋アベック殺人事件(少年―無期懲役)
1989:オウム真理教事件(麻原彰晃-死刑・再審中)
1991:千葉福島岩手誘拐殺人事件(岡崎茂男―死刑)
1992:市川一家殺人事件(少年―死刑・再審中)
1998:和歌山毒カレー事件(林眞須美-死刑・再審中)
1999:光市母子殺人事件(元少年-死刑)

<斉藤潤一監督インタビュー>
―いつもながら、斉藤監督ならではの斬新な切り口ですね。感服しました。主人公、安田好弘弁護士の生き方にも感服です。カッコいい。この1年、個人的なことで多くの弁護士さんと関わりました。肩透かしを食わされることが多く、弁護士さんの嫌な面をたくさん見たのですが、安田弁護士の姿にこれぞ弁護士と、わが意を得た思いです。誰でもが正義、正しいと思うことを主張するのは簡単です。解からないもの、圧倒的に不利な中にも、人としての尊厳を守ろう、真理を追求しようとする姿に、司法界の光明を見た思いがしました。
斉藤潤一監督(以下敬称略):ありがとうございます。安田さんは外見もかっこいいですよ。
―でも、お若い頃の写真を拝見すると、素敵といっても普通じゃあないですか。今は、そんなレベルじゃあない。全身からにじみ出るものがある。すべてを包み込むようなオーラに惹かれました。
斉藤:そうなんです。いいお年の取り方をされていますよね。ぜひ本人にそう言ってあげてください。

―斉藤監督も安田弁護士に一目惚れされたと?
斉藤:そうですね。「光市母子殺人事件」で最初に取材に入ったんですが、僕も最初は悪魔の弁護人だと思って会ったのですが、すぐにそんな考えはなくなりました。名古屋にいるもので、安田さんに会ったことがなく、東京からの情報、新聞やワイドショー、週刊誌の論調に流されていました。マスコミはそういうトーンでしたからね。そういう悪いイメージで入ったからこそ、報道されているのとまったく違うじゃあないかと驚きました。そこから魅力に惹き込まれていきます。
―プロデューサーの阿武野さんが、百戦錬磨のカメラマン岩井彰彦さんが被写体の魅力のとりこになり、被写体との距離感をなくしていると書いていますが、距離感をなくしたのは岩井さんだけではなかったと?
斉藤:そうですね。僕もだし岩井さんもグーッと入り込みました。もともと密着取材は入り込まないと撮れないので、最初は仲良くなっていく作業をします。でも、仲良くなり過ぎると作品が偏るので、途中で少し引いて撮影をするのですが、安田さんの場合はずっと魅力に引き込まれ続けたまま。それが良いのか悪いのかは、作品として判定するしかないのですが、僕は必ずしも悪くなかったと思います。ちょっと引こうと思っても出来なかったというのが正直なところです。

―すごい魅力ですね。
斉藤:そうですね。もともとこの人は、一般の人から見ると極悪人というか、悪魔の人なので、見るほうは完全に負の部分からスタートしますから、べったりだとしても、中和されてちょうど良いのではと思います。
―メディアのこちら側にいる私達は、情報に流されて確かにそう思いましたが、テレビ局という、情報の中枢にいる方でもそう思っていたのですか?
斉藤:そうですね。完全に世の中の風潮に流されていました。でも、この人に会って、この人の過去の事件を追うと、大きな事件ばかりです。何でこの人はこんな事件ばかりやっているのか、変な人だなあと思ったのが、理由を知りたいと思った最初でした。麻原とも喋っていますし、林眞須美とも喋っている。どちらも我々から見ると、とんでもない人ですよね。そういう人を弁護するというのに興味を持ちました。

―自分の経験もあって、私もこれぞ弁護士と思いました。
斉藤:基本的にこういう刑事事件は全く儲かりません。報酬もほとんどありませんから。民事で顧問弁護士をやったりして、そこで稼いだものを全部こっちにつぎ込んでいる感じです。だからお金持ちでもない。弁護士というと裕福というイメージがありますが、安田さんにそういうイメージはありません。
―弁護士さんには表の顔と裏の顔があって、人権派といわれる人でも、メディアで取り上げられるような、世間から注目されるはっきりとした正義問題にはかかわるけれど、問題が複雑だとしり込みする。それにそういう大きな事件の陰で、民事で稼がないといけないから、儲からない中途半端な事件には、見て見ぬ振りをしてかかわらないんだと、思い知らされたところです。

斉藤:国選弁護人ってすごく安いんですよ。
―そうなんですか。善意の人に甘えると言う、そういうシステムも問題ですよね。私は観客として安田弁護士にやられ過ぎたのか、和歌山毒カレー事件の林眞須美についても「詐欺をして贅沢に暮らしてきた人が、一文の得にもならないことをやるとは思えない」という言葉に、なるほどと思ってしまいました。当時もそう思ったものですが、改めてそうだなあと。
斉藤:そうですよね。普通に考えるとそうなんです。でも、あの時は、我々マスコミにも責任があると思うのですが、ホースでバーっと水を撒くとかのシーンを見せて、この人がやったに違いないと思う雰囲気を作ってしまいました。もし冤罪だとしたら、間違いなくマスコミが犯人に仕立て上げましたね。
―まだ未定の方に、ああいう取材や報道をするのは、名誉毀損にならないのでしょうか?
斉藤:訴えたら勝つかもしれません。いや、訴えているかもしれませんね。ただし、今のところこの人が犯人なので、司法的な判断として、名誉毀損にはならないのかもしれませんが。

―斉藤監督は今までも多くの司法事件に取り組んでおられますね。
斉藤:一番最初に作ったのは「名張毒ぶどう酒事件」です。調べるうちに司法には色々問題があると思い、裁判官や検事さん、弁護士さんを密着取材して、いくつか番組を作りました。安田弁護士につながるのが「光市母子殺人事件」です。放映されると、被害者の気持ちがわかってないと抗議が来ました。だったら別の視点から作ろうと思い、あの時、被害者のご主人に取材を申し入れたのですが、もうそっとして欲しいと言われ出来なかった。だったら犯罪被害者を取材しようと「罪と罰」という作品を作りました。一つの作品を作ると次の課題が見えてくるわけです。そういう風に数珠繋ぎにして番組を作ってきました。
―実績を残されたからでしょうが、作り手としても、恵まれた環境なのですね。
斉藤:そうですね。テレビ局という安定した境遇で、好きなことをさせてもらっています。テレビも営利団体で、スポンサーのおかげで経営が成り立っているのですが、ドキュメンタリーはほとんどスポンサーがつきません。それでも、テレビ局の使命として、続けさせてくれています。それを応援してくれる人も多いんですよ。この作品は24時以降の放送でしたが、東海テレビは恵まれていて、土曜日や日曜日の午後1時からドキュメンタリーの枠があります。でもこれは、時間が長くてそこに収まりませんでした。深夜でも良いから、しっかり尺も取り、きちんとした作品を作ろうと考えたんです。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く>

この作品は、7月28日から第七芸術劇場、
順次神戸アートビレッジセンター、京都シネマ にて公開

*7月28日18:40~の上映後、斉藤潤一監督と安田好弘弁護士のトークショーがあります。
*又、7月28日~8月3日の16:20より、日替わりで「免罪映画特集~戦う弁護士たち~」と題して、同劇場で下記の2作品が上映されます。時間等は劇場まで(06-6302-2073)
  A 「証人の椅子」(1965年)
B 「帝銀事件 死刑囚」(1964年)


映写室「相馬看花-第一部奪われた土地の記憶―」松林要樹監督インタビュー(後編)

映写室「相馬看花-第一部奪われた土地の記憶―」松林要樹監督インタビュー(後編) 
      ―福島第一原子力発電所から20キロ圏内の町―

<昨日の続き>
―それだけ大変ということなのでしょうね。誰かが苦境を脱しそうになると、他の人は置いてきぼりを食った気分になる。そういう感じかも。震災がすべてを壊して一瞬で非日常が広がったのに、1年経ってみると、この大変な状況が、非日常ではなく、日常になっていた。期間限定に思えた苦しみが、果てしなく続きそうに思えたら、これからどうなるのかと、不安になるのも無理はありません。今こそ、外部の支援が必要な時ですよね。

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©松林要樹

松林:だけど、そうはならない。今年の3月11日にメディアがいっせいに1周年の記念番組を流しましたが、なんかそれで終わった感じがあります。本当はぜんぜん終わってないのに、社会全体が短いスパンで動き、回っているのかなあ。他者にとっては1年で終わっても、当事者にとってはちっとも終わっていない。しかも、本当は考え方に溝があるのに、お互いに口を閉ざし、その溝を確認しないことで、何とかつながっているという危うい関係性。とても小さい村社会で、親戚縁者の中にたいてい東電がらみの人がいる。今まで経済的にも恵まれ、大手を振って歩いていたんですから複雑ですよ。今までの関係もあるし、これからの関係もある。それぞれの問題の根が深いというか。これは描き切れていないんですが、フクシマについても、嫌な面をいっぱい見ました。

―今も撮影中なんですよね。第2部もあると伺っています。
松林:2部はもう作りません。その後も追いかけてはいますが、もう作れないなあ。皆喋らないんですよ。原発に関しては特に。皆が無関心になろうとしているのかなあと。誰かがネガティブな話をすると、「止めろ。そんな話するんじゃあねえ」と誰かが止めるし、取材しようにも「どう編集されるかわかんねえぞ」と警戒されだして、時間とともにギクシャクしてきました。
―難しいですね。それだけ大変なのでしょうが、だからこそ、ここはフクシマの方に声を上げ続けてもらいたい。
松林:それも難しいなあ。誰かがNHKの特集とかで取り上げられて喋ると、又それが悪口になるんですよ。「あの人は自分が代表みたいにあんなこと言うて。偉い人なんだ。講演料も貰って」とやっかみになる。本当に狭い世界で、未来よりも隣の人が気になるんです。

―この作品は前向きな明るいものになっていますが、そういう面を見ると、この作品の編集トーンが変わるのでは?
松林:いや、それは変わりません。最初から、この人たちの前向きな姿を伝えて、皆の勇気に変えて欲しいと思っていましたから。
―桜等、被災地に咲く美しい花が出てきますね。田中さんも花の一つかと思いますが。
松林:花はいいですよね。たくさん撮りました。田中さんは本当に普通の人でありながら、ひた向きで、ある種の希望で、花のような存在です。普段着感覚、主婦の目線を忘れず市議の任務をこなしています。
―頼もしい存在です。ところで、田中さんたちがやっていた「いととんぼ」は再開できましたか?
松林:いや、出来ません。どこかで出来たらいいねと言うんですが、なかなか。もともと「いととんぼ」は、1970年代に大手企業の工場が進出してきて、雇用とお金を生み出したのに、2004年頃から、もっと安い賃金も求めて、企業が工場を海外に移し出します。雇用もお金もなくなった。以前していた仕事からも遠ざかっているから皆立ち往生です。町が大企業の都合でガタガタになるのを見て、田中さんたちが、「昔はここにこういう良い物があった。おいしい野菜や果物におじいちゃんおばあちゃん」と、地元のものを見直して、ここの良さを再発見して貰おうとはじめたものです。それが軌道に乗りそうになった矢先に、今度の震災でしょう。なんか辛いですよね。今も1月に一度は取材に行っていて、田中さんのところに泊めてもらうんですが「何か良い事あった?」、「上手くいった?」、「いととんぼを何所かで再開したいなあ」と言い合っていますよ。そう出来ればいいなあと思っています。それには皆さんがフクシマを忘れず、応援し続けてくれることが大事。今関西は関西の原発問題で頭がいっぱいですが、日本中いつあんな大震災が起こらないとも限らず、自分たちがフクシマのようになる可能性がある。当事者意識を持って、フクシマと原発の悲惨さを忘れないで欲しいと思います。

―映画の中に、東京のデモの様子も入っていましたね。
松林:あそこに入れたのは、東京のデモの人たちの声って、現地には届かないかもと思ったんですよ。声を上げることに反対はしないけれど、地元には届かないよと。まんま、地元の人たちに見せたいなあと思いました。相馬の人たちは、あんなことがあったのも知らなかったんです。今回見せると「あの人たちは何が悲しくてあんなことやってるんだ」と言っていました。「何であんなことやってるんだ」という印象だと思います。
―良い悪いは別にして、東京で馬鹿騒ぎをやっているようにも見えますよね。怒りは?
松林:怒りではないですね。もう諦めですよ。自分の身に起ってみないと、これはわからない事で。もしかしたら自分たちに関係ないところで、騒いでいるという思いもあるかもしれません。所詮生活がかかっているわけじゃあないので。それは今回だけでなく、運動とドキュメンタリーをやっている人間の、問題かもしれません。初期のドキュメンタリーはたいてい、運動とリンクしたような社会問題を扱っていましたから。今回あそこにあれを入れた意味を聞かれても、解かりませんとしか答えられません。あそこに入れるのが良いなあと思っただけで、後は見てくださる方に委ねたいと思います。
―温かさの中に色々な問題提起を含めた作品ですね。
松林:こういうものは、考えるきっかけにしか成らないですよね。自分がこれを伝えたいと思っても、それがうまく出来ているかどうか、皆さんの役に立っているかどうかはわかりません。でも何かのきっかけにはなって欲しいなあと。僕が言いたいのはそれと、あの惨事を忘れないで欲しいということ。まだ渦中の当事者がいっぱいいるのを、忘れないで欲しいと思います。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記:犬塚> 
「花と兵隊」の時はもっとひ弱だったのに、今回の松林監督は逞しい。心の奥のヒューマニズムを守って、つき進んで行く頼もしさが見えました。この作品も自身の感覚としては長すぎるそうで、描き足りないくらい、物足りないくらいが丁度良い。後20分削りたいけれど、出来なかったと言います。3畳という狭くてシンプルな部屋も、本当に大事なものだけ。余計なものは排除した暮らしぶりからして、いつかそういう作風にたどり着かれることでしょう。そういう戦士を、田中さんがフレームからはみ出し温かくフォローされているのを感じました。そういう、フレームの外の余情、取材の過程で築く人間関係が、この若い監督の持ち味でもあるかと。それにしても心は骨太。

この作品は、7月21日(土)より第七藝術劇場で上映
8月25日から神戸アートビレッジセンター、
順次京都みなみ会館 にて公開



映写室「相馬看花-第一部奪われた土地の記憶―」松林要樹監督インタビュー(前編)

映写室「相馬看花-第一部奪われた土地の記憶―」松林要樹監督インタビュー(前編)  
     ―福島第一原子力発電所から20キロ圏内の町―

 「花と兵隊」の松林要樹監督の最新作です。2011年4月3日、共同監督をした前作「311」の撮影から帰ってすぐ、松林監督は燻る思いを胸に、福島に引き返します。今度は支援物資を運ぶトラックに便乗し、たどり着いたのは、福島第一原子力発電所から20キロ圏内の町、南相馬市市原町区江井地区でした。津波と放射能汚染と強制撤去で様変わりし、避難所暮らしをする人々。苦境の中の人々と寄り添うように、カメラは奪われた土地の記憶を探ります。松林監督にお話を伺いました。

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©松林要樹

<その前に、「相馬看花」とは>
 中国の故事「走馬看花(そうばかんか)」からとった松林監督の造語。本来は「走る馬から花を見る」、つまり物事の本質ではなくうわべだけを見て回ることをいう。しかし、イラク取材中に亡くなったジャーナリストの橋田信介さんは、「走る馬の上からでも、花という大事なものは見落とさない」と解釈し、良きジャーナリストを象徴する言葉に読み替えた。橋本さんを尊敬する松林監督は、走馬を相馬と置き替えて、本作のタイトルにしている。

<松林要樹監督インタビュー>
―共同作品の「311」とは対象的な作品ですね。あの時の取材で、メイン監督となった森達也さんが「賛否両論のある切り口なので、松林君は最後まで納得せず、東京に帰ってすぐに、自分の作品を作ろうともう一度フクシマに行きました」と仰っていたので、松林監督がどんな作品を作られるのか、楽しみにしていました。
松林要樹監督(以下敬称略):森さんはすぐにそういう風に話を拡大するんですよ。(笑い)ただ、「311」はカメラが人間に向かわず、被災した風景ばかりを撮っています。あれに反対ではないけれど、消化不良もありました。編集のせいではなく、あの時は、現場で人に話を聞けなかったのです。今度は被災地で人に会いたい。人々の声や色々な思いとか聞いてこようと思って出かけました。行き先も特に決めていなく、支援物資のトラックの行き先に任せてです。最初は映画になるという確信もありませんでした。とにかく行こうで、放射能への防御もなく、そういう意味では「311」の時と同じく、無防備なままです。

―映像でいくと、フクシマに行く前に、震災当日3.11の松林監督の部屋の揺れが映りますよね。家具のガタガタという音、窓の外の木々の大きな揺れ、とてもリアリティがありました。最小限の物とともに、清貧に暮らす監督のスタンスもわかって、好感が持てました。
松林:部屋が3畳と狭く、手を伸ばせばすぐにカメラに手が届くんです。だから自然に映したもので、東京での地震体感が残りました。映画に使おうという意図もなく条件反射のようなものです。丁度、ラジオで津波警報が出たりして、離れていても、あの時は皆が緊迫していましたね。
―その後でフクシマの映像になるわけですが、南相馬を選ばれたわけは?
松林:僕が一緒に乗った救援物質を届けるトラックが、たまたま南相馬を目指していたというだけです。
―監督の意志ではなく?
松林:ええ、そうです。その救援物資の受け入れ先として、公のところが絡んだほうがいいだろうと、田中さんが立ち会ってくれたわけです。

―南相馬市の市会議員、田中京子さんですね。
松林:ええ。市会議員なので田中さんは色々なところに行くことが出来ます。この上ない水先案内人に出会ったわけで、僕もずいぶん助けてもらえました。その頃、まだここには支援物質が入ってなかったんです。それを最初かその次位に、僕らが運んだものだから「この人は信用してもいいかな」と思ってもらえたようです。で、僕がドキュメンタリーを撮りたい、避難所の様子を知りたいと言ったら、案内してくれました。そこからもう一人の市会議員、末永さんにもお会いでき、「1000年に1度あるかないかの災害が起こった。ぜひこの状況を記録してくれ」と言われ、色々紹介していただき、撮影がスムーズに行きました。この頃は福島第一原発から20キロ圏内、30キロ圏内には、どのメディアも入っていません。4月の21日に国が立ち入り規制をかけますが、それまでに記者クラブが、勝手に自分たちで、この圏内のことは放送しないという自主規制をかけていました。だからこの時期、この圏内を取材していたのは、外国メディアか、僕のようなフリーランスの人たちです。そういうことがなければ、逆に僕らが取材できなかったと思います。

―政府が規制を出す前に、記者クラブがそういうことをやったのですか?
松林:そうです。政府が21日に規制を出すという動きを察して、やったというか。
―怖いものからいち早く逃げて、切り捨てるというか。見て見ない振りをするというか、ちょっとひどい。メディアの使命としても、やることが反対です。映像にそういう声は出ていませんが、当事者として怒りになるのでは?
松林:現地の人は怒っていましたねえ。本当にそういうことをするとは、思ってなかったと言っていました。だから尚更、僕が「こんな状況でよく来てくれた」と言われましたね。取材はしやすかった。でも、そうかと言って、すべてウェルカムでもないんです。こんなことでもないとカメラを向けられることのない人たちですから、戸惑いも大きかった。
―この時届けたものは?
松林:最初は生理用品や水でした。2回目からはそんなものより野菜だと気づいて、変わっていきます。僕が避難所に泊っているシーンがありますが、あれは避難所の人たちの、とにかく実態を知ってくれという思いに答えたのもあったのです。あんな時に避難所に泊まってといわれたりもするんですが。まだ何も物が届かない頃で、米や菓子パン等はあるけれど、お野菜がなかったですねえ。

―あそこにいるのは、津波被害の方というより、原発の放射能汚染の被害者ですか?
松林:映っているのはすべてそうです。田中さんの家も道1本隔てたところまでは津波が来たけれど、かろうじて免れている。それでも、その後の放射能汚染で帰れないわけです。
―高齢者の取材は多いですが、若い方はどう思われていたんでしょう?林:高齢者を狙って取材したわけではありません。若い人はいなかったんです。皆遠くに避難していましたね。残されたのはおじいちゃんおばあちゃんだったと。

―そうなんですか。家族や親族に、東電や東電関連企業に勤める方も多いのでは?
松林:多いでしょうねえ。避難所に行かない老夫婦にしても、おばあちゃんの介護で行けないというだけでなく、元原発関連の仕事についていたわけですから、行きにくいのもあると思います。今までは「おらが作ったんだから大丈夫、絶対安全だ」とか言ってたと思うんですよ。あの人たちが若い頃に作ったものが爆発したわけで、本人もショックだろうし、行っても居場所がないですよね。避難所の中の人も考え方は色々です。

―こちらからは一緒に見えるんですけれど。
松林:絶対違いますよね。全員が全員、東電に怒っているわけでもないし。むしろ悲しすぎて、怒る気力もない人もいる。この時もそうでしたが、今はそれぞれの立場がもっと違います。友達同士でも東京電力の話はしませんし、聞きません。補償問題が始まってもっと複雑で、立場が色々に違ってきました。1年たつと余計に喋れなくなりましたね。避難所も閉まり、仮設住宅とか借り上げ住宅で、それぞれが日常を取り戻したように見えるけれど、逆にまったく未来が見えなくなった。見えないという現実に直面していますね。自分たちの土地で野菜を作ることも出来ないし、田んぼで自分たちの食べる分だけ米を作ろうにも、農協全体で保証を求めるんだから一人が勝手なことをしないでくれとか言われる。皆で輪になろうとしているけれど、肝心の深いところを話さないで、やってるんじゃあないかなあ。(聞き手:犬塚芳美)                           <明日に続く>

この作品は、7月21日(土)より第七藝術劇場で上映
8月25日から神戸アートビレッジセンター、
順次京都みなみ会館 にて公開

映写室「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」海南友子監督インタビュー(後編)

映写室「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」海南友子監督インタビュー(後編) 
  ―どん底からの再出発―

(昨日の続き)
―監督がこの作品に特に込められたものは?
海南:彼女の3つの強さを示したいと思いました。働く女性としての強さ、アーティストとしての強さ、反戦活動家としての強さです。全て母でありながらというか、母親としてというのが加わるのですが。アーティストとしては、ちひろは自分の絵にプライドを持っていました。まだその頃は、こういう絵に著作権もなく、挿絵画家という扱いをされがちで、編集者に絵を勝手に切られたり細工されたりしたんですが、彼女はそれが耐えられなかった。著作権運動をし、自分の絵をぞんざいに扱わないでくれと強く言っています。それで仕事をなくしたりもしていますが、自分のアートに対する絶対的な自信がありました。

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(C)CHIHIRO ART MUSEUM

―強いですね。
海南:ええ。この頃は失業中だったご主人を自分の筆一本で支えてもいます。やがて子供が生まれる。でも赤ん坊を抱えていては暮らしが立ち行かなくて、生後1ヵ月半という、一番可愛い盛りに、長野の実家に預けています。辛かったと思います。会えないことが子供への思いを深くしていった。会えないからこそ、子供のことを考え、色々な絵を描く。この時期の苦しみがアーティストとしての彼女の深みにつながったと思います。27歳の旅立ちが彼女の最初の転機だとしたら、子供と別れたこの時が、第2の転機だったのではないでしょうか。不幸な事や悲しみが、彼女の作風を深めるわけで、そこも面白いなと思いました。

―逆境の中でこそ強さを発揮する彼女のモチベーションはどこから来るのでしょう?
海南:ちひろは自分の好きなものをとても大事にします。敗戦後すぐで世の中はお洒落とかには程遠いのに、そんな時でもちひろは、きれいなものを求めて愛した。どこかから紐を拾ってきて、リボン代わりに髪を結んでいたというんです。当時としてはとても異様なことのようでした。でも、自分が良いと思うものは他の人がどう思おうがやりたい。これは生き方全般、絵にも通じることで、自分の大事にしているものを誰にも汚されたくないし、貫きたいというのが、彼女の強さだったのではと今は思っています。
―子供への思いも深かったと?
海南:息子との子別れは大きかったのでしょう。これだけファンが多いのも、絵の向こうにある子供への思いの深さが、多くの母親族を捕らえているように思います。特に、ちひろと同じ世代の、私の母の年代にちひろファンが多いのですが、今回取材をして、「ああ、母は絵を見ていたんじゃあなく、絵の向こうに私や弟という、自分の子供を見ていたんだなあ。ちひろのそういう子供への思いに共感していたんだなあ」と納得しました。彼女は形ではなく、子供の思いをどう描こうかと工夫し苦心し続けました。絵を見ると、その子供はどんな気持ちなのかが伝わってきます。皆さんが絶賛する「あめのひのおるすばん」の絵の具のにじみも、子供の涙と重なる。それにちひろは余白をとても大事にします。絵は余白で完成すると言っていて、白いあまっているところ、何もないところに多くを語らせている。髪にしても本来なら黒く塗りつぶすところを、あえて白いまま。でもそれが見るものの想像を掻き立てる。さりげないようで実に計算された絵です。今回私は原画をたくさん見たのですが、原画の持つ圧倒的な力にやられました。映画を入口にして、東京や長野の美術館に行き、原画でちひろのぬくもりに接して欲しいなと思いました。

―ちひろは子供を描き続けていますが、それはどうしてでしょう?
海南:長さの関係で省略していますが、ちひろは満州、戦時下の中国へ2度行っています。途中で見た悲惨な風景、苦境の中で苦しむ子供たちを見て、命の象徴のように思ったのではないでしょうか。無力な子供が安心して住める社会は、大人にとっても住みやすい世界ですから。
―そういう、守るほうの大人の視点だけでなく、自身の子供時代への憧憬もあるような気がするのですが。無垢で汚れを知らなかった子供時代への慕情というか、色々な苦境を乗り越え、きれいなものを愛し守り続けたけれど、そんなことをしなくても自然にそういうものに囲まれていた子供時代が、ちひろの好きな時代だったのではと、そんなことも考えました。
海南:そうですね。もしちひろが生きていたら、聞いてみたいところです。実際ちひろは、自分の息子を描きながら、時にはそれを少女に転換しているんです。あの少女はちひろ自身かも。そういう絵が何枚もありました。

―この作品を見る方へのメッセージをお願いします。
海南:ちひろの絵が好きな方には、大画面で見るすばらしい絵の世界を堪能して欲しいと思います。ちひろの世界に包み込まれる感じを体感して欲しい。絵に興味のない方は、女性としての行き方を見て欲しいと思います。どん底からどう立ち直っていくか、チラシに「すべてを失った日、わたしは夢に向かって歩き始めた」と入れたのですが、ちひろはどん底に落ちたからこそ、夢に向かって歩き始めることが出来ました。今苦しむ多くの方の指針になるのではと思います。
―この作品を見て、山田さんはなんか仰いましたか?
海南:山田さんは途中もずっとご一緒だったので、完成を見てということはないのです。一緒に議論しながら作り上げたものですから。その時間が私にとっては奇跡のようなすばらしいものでした。
―ちひろの言葉が時々挿入されますが?
海南:あれは、ちひろが日記等に書き残したものです。ちひろは自分のものをきちんととっていたので、スケッチや日記と無名時代のものもすべて残っています。今は東京と長野の美術館に保管されているわけで、彼女が自分の世界を大事にし愛した結果ですね。スケッチもちひろのスタイルに落ち着くまで色々なことをしています。ピカソのまねをしたりマチスのまねをしたり、試行錯誤の後が見える。売れる前の頭を抱える自画像では、私自身にも重なりました。NHKを辞めてフリーでやり始めた頃は、お金もなくて先が見えず真っ暗でしたから。

―その声を檀れいさんがされていますが。
海南:編集中から、強くて優しいちひろの世界を誰に表現していただけばいいか、模索していました。結果的には山田さんに推薦してもらってお願いしたわけです。ぴったりでよかったと思います。檀さんは感情移入されて、読む間に涙ぐまれたりもしていましたね。シナリオの段階で、ちひろはどういう気持ちでこの言葉を言ったのか、書き残したのかと、ずいぶん議論をしました。童画の世界から挿絵という言葉をなくしたいという言葉を、どう熱く伝えるか、語り合ったこともあります。去年の12月に私も出産して母親になったのですが、それを機に、より深くちひろの母性を感じるようになりました。実はこの作品にかかるまでは、それほど興味がなかったのですが、今はちひろの絵の世界の深さに感嘆しています。
―絵はたくさんご覧になりましたか?
海南:ええ。それはもちろん。同じ題名でも少し構図が違うとか、同じような絵がたくさんあるのですが、今ならそのすべてを見分けることが出来ます。ちひろ美術館の館長に成れるくらいです。これだけたくさんの原画に接せられ、作者の息吹を感じられたのは、幸せな時間でしたね。でも、作品となると、ちひろのその時の気持ちを、どの絵で代弁させるか、たくさんあるだけに選択が難しい。苦労しました。絵だけで600枚くらい撮影していますから。迷いました。じっくり見ると感嘆も大きいです。晩年の「戦火のなかの子どもたち」とか、悲惨な情景の前の、幸せな情景を描くことで、その後の無くしたものの大きさを伝えています。彼女は1974年に55歳で世を去りました。早く亡くなったけれど、それで又彼女の絵が世に広がったところもある。息子さんたちが広めましたからね。逆境が良い方にも作用したわけで、色々なことを考えさせられた取材でした。テレビの作り手だった時、お客さんの反応が見えず孤独でした。でもこの作品は映画なので劇場で皆さんの反応を直に体感出来る。フリーになり苦労もしたけれど、こういう作品を作れたし、嬉しいですね。暗闇の中で、お客さんと一緒に、ちひろの世界を見てみたいと思います。(聞き手:犬塚芳美)

この作品は、7月14日より、テアトル梅田、シネ・リーブル神戸で上映
      順次秋、京都シネマで公開予定


又、この作品の公開にあわせ、期間限定のちひろのミニ・ギャラリーやショップもオープン中。詳しくは上映劇所迄。


《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》
<実は私もイメージに先導された>、いわさきちひろの食わず嫌い。ちゃんと見たことがなかったのです。今回じっくりと見て、無邪気そうな子供の瞳の影にはっとしました。天真爛漫というより、彼女の描く子供は、母に抱かれながらも、わずかに不安な影をにじませている。子供の繊細さに胸を締め付けられました。それに構図の大胆さにも、改めて感嘆。さりげないようで、ちひろの絵は余情を狙ったとても戦略的なものだと、この辺りにも、彼女の2面性を感じました。まさに中心の鉄の部分があったからこそ、彼女はここまで自分の絵を深めることが出来たのでしょう。
<友人の画家に>、彼女のように美しい世界を描く人がいます。優しいけれど、彼女も自分の世界を世俗から守る為には、容赦ない棘を伸ばしたもの。ちひろにもそういうところがあったのではと、質問すると、「ここまで成功すると、正面から彼女を非難する人はなかなか見つかりません。でもそういうこともあったのかも」と監督。人間ドラマとしてはそこも見たかったのですが、ちひろの絵のように、そこは観客が余白から想像するところかもしれません。この作品で知った、人間いわさきちひろへの興味。私も一度真摯に、ちひろの絵に退治して見たくなりました。きれいなもの、優しいものの裏にほどく能と茨の道がある。そんなことを実感しました。ファンだけでなく、私のような食わず嫌いにこそお勧めの映画です。

映写室「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」海南友子監督インタビュー(前編)

映写室「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」海南友子監督インタビュー(前編) 
  ―どん底からの再出発―

 画家としてではなく、人間としてのいわさきちひろを、生前を知る多くの方の証言から浮かび上がらせたドキュメンタリーが完成しました。誰もが知る、いわさきちひろ。あのメルヘンティックな世界を描く画家に、こんな苦難の半生があったとは。どん底の日々に驚きながら、それでも負けずに立ち上がった彼女の強さに勇気を貰える筈です。自身も母親になったばかりの海南友子監督が、溢れんばかりの母性で子供を描き続けた作家に、共感を持って作り、答えてくださいました。

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(C)CHIHIRO ART MUSEUM

<主な証言者>
・黒柳徹子(女優。ちひろ美術館館長。自著「窓際のトットちゃん」の挿絵をちひろに描いてもらった)、高畑勲(アニメーション映画監督)、松本善明(夫)、松本猛(息子)、中原ひとみ(女優。知人)、三輪寛子(デッサン会の仲間)、編集者多数


<海南友子監督インタビュー> 
―知っているようで何も知らなかった、いわさきちひろの世界に驚きました。この作品にかかわるきっかけは?
海南友子監督(以下敬称略):私もいわさきちひろの作品には、子供の頃に触れただけで、その後ご縁がなかったのです。ところが4年ほど前に、この作品のエグゼクティブプロデューサーの山田洋次さんから、とあるところで偶然ご一緒した折に、「人間いわさきちひろのドキュメンタリーを作りたいんだけれど、興味がありますか?」と打診されました。山田さんはちひろ美術館の理事長をされているんです。監督として大先輩の山田さんとご一緒できるのは嬉しいのですが、いわさきちひろについては何も知らず、戸惑ったのも事実です。で、どうしようか。どう作ろうかと悩みました。まだこの時は、ちひろについてどんな人なのかというイメージが沸いてこなかったんです。とりあえず自分なりに調べ、彼女を知る人に、人となりを聞いてみると、私なりの気づき、この人面白いなあというのがありました。複数の人が、「鉄を真綿でくるんだような人だ」というんです。面白い表現で、外側はふわっとしているけれど、真ん中に曲がらないもの、芯のようなものがある人なんだなあと思いました。その時に聞いたのは従兄弟とかの親戚の人なのですが、子供の時からそういう感じがあったというんですね。そう言われてみると、確かに絵は可愛らしいけれど、人生は波乱万丈です。そんな中でも自分を貫き、諦めない強さのようなものをみせている。そういうのが面白いと思いました。

―山田さんが海南監督を抜擢されたのは?
海南:山田さんの奥様はドキュメンタリーがお好きで、たまたま私の2つ前の作品を気に入ってくださいました。とても小さな作品なのですが、山田さんに「面白い子がいるので、会ってみたら」と推薦してくださったのです。最初は、なぜ今、いわさきちひろなのかという思いがありました。でも、働く女性の大先輩ですから、そこら辺を知りたいと思って取材を続けました。ちひろは生きていればもう90歳を超えています。生前の彼女を知る人たちも高齢化しており、話を聞くのなら早くしなくてはいけません。2009年から取材を始め、50人の人に、一人2時間位ずつインタビューし、編集の段階で20人に絞りという工程を経て、この3月に完成しました。情景も四季折々に撮影し、テープはものすごい長さで、この作品に3年間かけたことになります。最初の間は、今なぜ、ちひろなのかという疑問が消えませんでした。単なる宣伝映画にはしたくありませんから。でも取材する間に、彼女の諦めない強さ、彼女の生きる強さは、今悩んでいる女性にも充分勇気を与える、意味のあることだと気がつきました。それは証言を聞けば聞くほど強くなった思いです。サブタイトルに「~27歳の旅立ち~」と付けましたが、これも私が拘ったところです。彼女の絵は日本人なら誰でも知っているほど有名ですが、そういう作家になったのも、27歳という遅い旅立ちだった。彼女は最初から画家を志したのではありません。最初の夫に死別し、戦争で全てを失います。仕事もなければ家庭もない。帰る家もなくした。自分を守ってくれるはずの親の立場もなくなった。そういう3重苦の中での出発でした。今の27歳と違い、当時はもっと小母さんだったと思うんです。しかも、もっともっと偏見の強かった時代のバツ一。それでも自分の夢を貫いた。しかもたまたま絵で大成しましたが、ここで立ち上がっても、もしかしたら成功とは程遠い、明日の食べ物もない状態のままだったかもしれません。それでも彼女は自分は絵を描きたいんだと気づくわけです。それまでも絵が好きではあったけれど、絵を仕事にしようとは思っていなかった。もし最後のすべてを奪った戦争がなかったら、彼女はもしかしたら、近所の絵の上手い小母さんで終わったかもしれない。そういう意味では、すべてをなくしたからこそ、彼女は立ち上がることが出来たと思います。しかもいつ始めても遅すぎる事はないということも教えてくれる。逆境の中でもへこたれずに続けていれば、ちひろのように成れる瞬間があるんじゃあないかと、そういう希望を提示したいと思いました。

―可愛い絵ばかりがイメージにあったので、最初のご主人の自死には衝撃を受けました。それも、結婚しながら、身も心も開かず相手を追い詰めて自殺に追いやったわけです。そういう波乱の人生も、山田さんはご存知だったのでしょうか?
海南:ええ。東京と長野にある、ちひろ美術館で、簡単な略歴をまとめたものがあり、公にされています。苦しい思いは、自分が被害者の時もあれば加害者の時もある。どちらも苦しいもの。そういう苦しい思いを経てきたからこそ、優しい絵がかけたのではないかと。 ただ、今回私が集めた資料を報告に行くと、山田さんがなるほどと納得されるものもありました。ある美術家に言われたのですが、改めて「纏まった50人の証言から浮かび上がるものの強さ」を感じます。

―ちひろさんの両親の戦争協力などは?
海南:当時は相当の文化人でもそういうことがあったようです。私は何も知らなかったので、知っていく面白さがありました。結婚したのに身も心も開かず相手を追い詰めて自殺に追いやったというのも、不思議な話です。普通だったら、その前に離婚や相手からの暴力沙汰があったりすると思うんです。でもそういうこともなく、相手を追い詰めていくわけで、相当ひどいことを相手にしている訳です。相手の行動もある意味不思議ですよね。発見する喜びが又次の発見につながるという、そういう繋がりでした。
―あまりにもプライベートで、そこのあたりの当事者の思いが解かるわけではありません。周りにしても、重い証言なので聞き出すのが大変だったのでは?
海南:ずいぶん前の話なので、証言することで誰かを傷つけるという話ではありません。そういう意味で大変さはなかったです。公表することについて、ご主人の親族からのクレームもありませんでした。ただ難しかったのは、すでにいない一人の人間を、多くの証言だけで浮かび上がらせることです。難しくてやりがいのある作業で、今回面白い体験をさせていただきました。山田さんも、多分御自分で想像されたよりも、深いちひろの素顔に出会われたのではと思います。編集の過程は相当悩みました。毎日が試行錯誤で1年くらいかけています。いっぱい議論もしました。山田さんもお忙しい中、何度も試写に付き合ってくださり、そのたびに議論です。息子さんの猛さんも加わってくださいました。

―構成はかなり山田さんの意向が反映されているということですね。猛さんもと言うと、ちひろ像について、三者三様でぶれることもあったのでは?
海南:そこは豊かな議論で解消しました。いいものを作りたいという志は一緒ですから。山田さんと同じ土俵に立って議論を戦わすのは、41歳の私にとって、とても新鮮でありがたく感じました。気がつくと周りは年下ばかりで、年上の方から教えていただくことや議論することがなくなっていましたから。いわさきちひろの絵のファンは多いです。単に宣伝にならないようにしたいし、去年311という大きな災害がありました。どんなメッセージを出すか、今迷ったり苦しんでいる人に、ちゃんと希望を与えるものにしたいと思いました。迷ったのはその方向の模索でもあったのです。ちひろはなぜ再出発をすることができたか。それは全てをなくしたからだと思うのです。震災や津波、原発で東北の人々も全てをなくしました。同じ様に全てをなくしたところから立ち上がった、ちひろを見て欲しいのです。
―山田さんにとってはじめて知ったということがありましたら。
海南:資料は全てちひろ美術館に残っていたものですが、今回発掘したのが、ご主人松本善明さんからのラブレターです。今まできちんと整理したものがなく、自分が光を当てれたと思います。リアルでべたべたで恥ずかしいほどのものですが、ご主人は今も白髪で素敵なおじいちゃん。ちひろも年齢よりずっと若く見える可愛い人だったので、二人は、まず外見に惹かれ、戦争への思いや社会への向き合い方という内面の豊かさも一緒で、惹かれあったのでしょう。1回目の結婚が失敗しているからこそ、2回目は本当に好きな人とと思ったのでは。(聞き手:犬塚芳美)
(続きは明日)

この作品は、7月14日より、テアトル梅田、シネ・リーブル神戸で上映
      順次秋、京都シネマで公開予定

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