太秦からの映画便り

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映写室 「プンサンケ」チョン・ジェホン監督インタビュー(後編)

映写室 「プンサンケ」チョン・ジェホン監督インタビュー(後編)
―分断国家・南北の境界線上を自在に行き来する男―

<昨日の続き>
―知らないもので、映画と現実の境界線が無くなるのですが、38度線の中には本当にこういう場所があるんですか?
チョン:今回色々な資料に当たって、研究しました。葦原のようなところは実際にあります。鉄城門もありますが、あんな風に棒高跳びのようにして超えるのは、現実的には不可能です。

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©2011 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

―キム・キドク監督の脚本に、あのシーンはあったのですか?
チョン:1箇所ありました。それをぜひ使いたいと思ったわけです。
―見せ所になる、躍動的なシーンですね。
チョン:ええ。でも撮るのが大変でした。
―ワイヤーとか使って実際に飛んでいるんですか?
チョン:そうです。ワイヤーを使いました。

―この作品のポスターのコピーに、「おまえはどっちの、犬だ」という衝撃的なものがありますが、韓国の人にとってもそういう思いがあるのでしょうか?
チョン:私自身で言うと、中にいた時には分断というのに無感覚だったと思います。中にいるとそうなのでしょう。韓国にいるより海外に出たほうが分断が見えてきますね。中にいると、解からないという事に対して、あまりにも知らなさ過ぎたと思います。そのうちヨン・ビョン島事件があって、ああ、まだ戦争中なんだなあと思ったりしました。

―この映画を見た韓国の人の意識の変化はどうでしょう?
チョン:意識の変化はどうでしょうか。韓国の人は皆映画を楽しんでみてくれました。重いテーマなので、皆にどう映るか、心配でしたが、重いテーマを受け取りながら、それ以上に楽しんでもらえたのは良かったと思います。よく聞かれたのが、本当にピョンヤンまで3時間で行って帰れるのかということです。韓国にいるとピョンヤンがすごく遠く思えるんです。それと低予算というのにも驚いていました。低予算というと、通常は芸術系でしか上映できないのに、20箇所以上で上映できたのは大きな成果ではないかと思います。これくらいの予算の作品が、これだけの数のメジャーな劇場で上映できたのは、おそらく初めてではないでしょうか。

―今度は日本で上映されるわけですが。
チョン:難しい映画だと思わず、楽しんでもらえれば嬉しいです。その上で、分断について、少しでも考えてもらえれば、有り難いなと。特定の思想的な人に向けたものではなく、すべての人に向けた映画なので。
―国内にいた監督がそうだった様に、韓国の若い人にとって、分断という言葉は遠いのでしょうか?
チョン:私は遠いと思います。
―北朝鮮の人にとってはどうなのでしょう?
チョン:この映画を撮るに際し、脱北者のインタビューをしたのですが、その人たちは韓国の実情をご存知ではなかった。だからこそ、同じ言語を持ちながら、脱北して来た韓国で、韓国に馴染めず大変な思いをしていると聞きました。60年間放れていた事でそうなったのでしょう。私自身は分断後に生まれていますから、北の情報の無い分断後の社会しか知らない。北朝鮮の若い人もそうです。お互いにお互いのことを知らないというのが実情でしょう。これから多くの方と交わることが出来ればいいなと思います。

―この作品のDVDを、プンサンケのように北に運んでくれる人がいるといいですね。
チョン:この映画を撮り終えた後ですが、ある新聞の記事で、こういう風に両国の間を運んでくれる組織があると読みました。ただし、38度線ではなく、中国を通ってだと思いますが。本当にプンサンケがいると聞いて嬉しかったです。

―脚本を書いた、監督の師匠でもあるキム・キドク監督は、この作品について何か言われましたか?
チョン:自分が想像した世界とは違うと、驚いてらっしゃいました。どう仕上がるか、気になっていたとは思いますが、撮影現場にはいらっしゃらなかったので、東京の試写で見てもらいました。私とスケジュールがずれていたのですが、まだ見ていないので絶対見たいと仰って、これを見る為に残って下さったんです。僕はもう緊張してドキドキでしたよ。裏切られたなあと言われました。
―嬉しい裏切りだったのでは?
チョン:(笑い)やっぱり若い監督が撮った映画だなあと仰いましたね。僕の映画だからと、僕がどう撮ろうと、口出しをされることは無かったです。
―さすがですね。ところで、この後どんな作品を撮りたいと思われますか?チョン:年齢にあった作品を作りたいと思います。スピード感のある若々しい、アクション映画を撮りたいんです。70代になったら、アクション映画は作れませんから。私自身がまだ人生の深みを解かっていませんから、この年齢と立場で、イ・チョンドン監督やキム・キドク監督のような、世界観のある作品を作るのは無理がある。幼い子が背伸びして我が儘を言っているようなものです、自分の年齢にあった作品をまずは撮りたいのです。(聞き手:犬塚芳美)

<この作品の感想とインタビュー後記:犬塚> 
 監督の歌だという挿入歌のシューマンの睡蓮。あのシーンで監督と主人公が重なったようにも思います。感性の分野も含め、丁寧に独特のご自分の世界を話して下さり、省くところがありません。奇想天外な物語なのに、不思議なリアリティ。しかも作品に品格があって、楽しみながらももっと深いものを受け取りました。少し長いのですが、あの日の知的興奮を少しでも皆さんにおすそ分けできたらと。それにしても、躍進目覚しい韓国映画界。この頃深く感動するのは、韓国映画が多いのです。


この作品は、9月1日からシネマート心斎橋、
      順次京都シネマ、元町映画館 にて公開
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映写室 「プンサンケ」チョン・ジェホン監督インタビュー(中編)

映写室 「プンサンケ」チョン・ジェホン監督インタビュー(中編)
―分断国家・南北の境界線上を自在に行き来する男―

<昨日の続き>
―主人公の内面を思わせる重要な場面で、印象的な声楽が流れます。後でパンフを読むと、監督の歌だと知りました。オペラ歌手として、ご自分の歌をどこかで流すのは、最初からの計画だったのでしょうか?

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©2011 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

チョン:最初はそういうつもりはなかったのです。もともとは別の曲でしたが、編集したのに、その曲を使うことが出来なくなりました。で、音楽監督と色々話をする中で、私がコンサートで歌ったシューマンの「睡蓮」がぴったり合うのではないかと、音楽監督の方から言い出しました。あの歌を使ったことで、二人が落ちる愛の情景を、最初に音楽で表すことができたかと思います。

―ドラマティックというか、彼の内面の豊かさを思わされ、今も心に残るシーンです。映画の作り方に関して、キム・キドク監督から学んだり影響を受けたことはありますか?
チョン:沢山学びました。一番印象に残っているのが、現場ではピエロになりなさいと言われたことです。しんどくても大変でも、いつも笑っていなさいと言われました。と言うのも、私が顔をしかめたり暗い表情をすると、全部のスタッフにその暗さが伝わってしまいますから。それに、座ってはいけないとも言われました。皆の前でサングラスをかけ、足を組んで座っていたら、それだけで別の世界の人間だぞ。現場にはいつも皆と一緒にいなくてはいけないと言うんです。後、監督としての生き様を学びました。監督は私より年上ですし、先輩です。私が悩んでいる時、唯一相談できる相手が、キム・キドク監督なのです。


―そういう風に、大切なことを学びながら、キム・キドク監督とはやっぱり作風が違いますよね?
チョン:色々な人にそう言われるのですが、その度に私は、どこがどう違いますかと聞くんです。自分では違いが解かりません。キム監督は師匠であり、父であるわけです。その監督から学んだものを違うと言ってしまうのは、あり得ないのではと思うんです。でも、キム・キドク監督が凄く得意とする分野があるように、私には私にしかできない分野があるとも思います。ですから、私が自分で出来る事を最大限にするのが、私らしい作品を作ると言うことだと思います。

―お若いのに、そういう精神力が凄いと思います。さっき劇所の方も、映画の完成度や成熟感から、もっと年上の監督を想像していたら、お若いので驚いたと言っていました。そういう精神力を作られた一番の要因は何だと思われますか?
チョン:精神力というのは愛です。映画そのものへの愛ですね。でも、映画が私の全てとは思いません。私が今したい事で出来る事が映画だと言うことです。映画は私が選択した職業、私のやりたい職業です。もし、人が入ってすごく儲かるとかそんなことがあれば、その時点で疲労してしまうでしょう。私は別の世界からここに入ってきたので、自分が本当にしたいのはこれだというのが解かるのだと思います。ただ、この職業を自分より年若い人たちに進めたいとは思いません。映画界の人間ですが、私はお酒を飲まないし、タバコも吸いません。人と濃厚に交わることもありません。自分がしたいことに集中する為に、他の多くの事を諦め、放棄して来ました。それに、これは他の作品もなのですが、作品が出来上がると、もっともっと上手くできるのではないかと、自分の至らないところへばかり目がいきます。周りの人たちは、これだけの条件で、どうしてこれほどのものが出来たのかと言うけれど、私はもっと出来たんじゃあないかと言う思いにとらわれます。イメージを固定されるのも嫌です。韓国で封切られた時には、こんな作品を作った監督なんだから、笑わないでくれと言われました。ちょっと辛いです。

―さっきから伺っていると、監督と主人公が重なります。撮ってらしていかがでしたか?
チョン:私も重なると思います。不思議なんですが、他の作品でも、僕の場合重なることがあるんです。意図したものではありません。でも、本当に(ああ、僕みたいだなあ)と思えるのが不思議です。僕自身は最初それが解からなかったのですが、友達がそう指摘してくれました。それを聞いて、もう一回自分の映画を見直し、その通りだとショックを受けたんです。
―主人公も何かへの愛で動いているじゃあないですか。そういうところが凄く近いなと。監督を動かしているのも、そういうもの、愛なんだなあと思いました。
チョン:私は愛が好きです。でも愛は苦しく難しい。悲しいです。

―脚本の縛りだと思うのですが、主人公は言葉を話せませんよね?
チョン:実は脚本にはあったんです。でも、それは私が表現したい事と違っていたので無くしました。キム・キドク監督が書かれているので、この主人公も「うつせみ」や「サマリア」の主人公に近いものがあったんです。神秘的な存在と言うか。でも、私が見たプンサンクは違っていました。先ほども言いましたが、私はオペラをやってきたのですが、オペラは元々神話からスタートしています。神話を見ると、神様が女性を愛し、神を捨てて人間になると言うストーリーがあります。愛の為に死を受け入れる。愛の為に永遠の若さを捨てる。私のプンサンクはそういう人物だなあと思いました。映画をご覧になればお解かり頂けますが、プンサンはイノクに出会い、だんだん笑顔も出て、人間になっていきます。死すらも恐れない愛の美しさ。
―でも、プンサンは、人間になってしまった為に、死に至ります。残酷ですね。
チョン:そうですね。例えば「蝶々夫人」を例に挙げさせてもらうなら、そういう熱情的な愛は、死に至らしめるということがあります。これもそういう話です。

―結局のところ、彼女が脱北の時にまで、突っ張っていたことから、全てが崩れたわけですね。プンサンケまで破滅に向かっていきます。最初見た時、いい加減にしてよといらいらしました。
チョン:多くの女性があの時の彼女の態度にいらいらするようです。あの女性はどうしてあの大変な場面で、文句ばっかり言うんだと言いますね。でも、僕にとっては、あのシーンはとても大切なのです。彼女にとってはとても幸せなシーンだったのではと思っています。北で隠れたように暮らし、つい誰かを頼っていたのに、休戦ラインを超えてから、自分のその抑えていた感情を表す訳です。おそらく、イノクにとっては初めての経験だったのではと思うんです。

―なるほど。まあいらいらはしましたが、後の彼女の美しさで、仕方がない、全て許そうと思えました。主役の二人をキャスティングした理由を教えて下さい。
チョン:男性のユン・ゲサンは元々僕が注目していた俳優です。脚本を読んで最初に頭に浮かんだのが彼でした。でも、周りの人たちからは反対されたんです。彼はもっと柔らかい映画や役が似合うと、皆が言う。私はそれはちょっとおかしいと思いました。それ以前の作品からだけで、その人の可能性を計ってはいけない。それは俳優だけでなく、僕のような監督についても一緒です。僕も「ビューティフル」を撮った後に、そういう芸術的な作品しか撮れないと言われましたが、1作だけで私を評価するのは早過ぎるのではないでしょうか。ユン・ゲサンと最初のミーティングをした時に、彼も私と同じ悩みを持っていると解かりました。僕はもっと強く激しい役をしたいのに、柔らかい役ばかりが来ると言うんです。それだけで彼と通じ合えました。この作品が公開された後、ユン・ゲサンの再発見と散々言われましたが、再発見ではなく、ユン・ゲサンの才能をお見せ出来たという事だと思います。キム・ギュリさんに関しては、好きな女優さんなので、前の作品でもキャスティングに入れていたんですが、スケジュール的に合わず実現できなかったのです。今回も、キャスティングした時、他の映画に出ている最中で、一度は難しいだろうと言われました。でも、イノクをキャスティングする段階で、他にぴったりの女優さんがいなかった。私がやりますと言ってくれる女優さんもいたけれど、どうもぴんとこない。この役に必要なのは、難しい感情の表現と、もう1つは体力です。それとノーギャラですね。撮影の2週間前になってもまだ女優さんが決まらず、リハーサルの時は代役の方が来てやってくれたほどなんです。でもかかっていた作品が終わったと聞き、もう一度お願いすると、快諾して下さいました。

―イノクのキャスティングに関して、一番大事にしたのは何ですか?
チョン:演技力です。この役は、新人の女優さんの、感性で切り抜けてる演技では無理です。演技力を十分に持った人で無いと出来ないと思いました。彼女は過去に僕を納得させる作品を作っていて、それに体力もあります。僕の考える条件を満たしていました。それと、彼女の凄い所は自分が女優だというのを良く知っているところなんです。プロという意味ですが。

―極寒での撮影だったと伺いますが、皆のモチベーションは?
チョン:最悪でした。特に鉄城門の辺りの撮影は、体を遮る物など何も無い、吹きさらしのところですから、寒くて大変でした。休みの無いスケジュールでしたし、スタッフと俳優さんが、まるで鳥のように背中を丸め身を丸くして、集まって寒さを凌いでいたのが印象に残っています。気温が昼間で零下10度という寒さですから、夜など相当の寒さなんです。僕が鉄板を素手で触ると瞬時に凍傷になりましたし、ユン・ゲサンが走っているシーンでは、汗が凍るんです。あまりの寒さに、20分ですが、車の中で一息ついてくれと言った事もあります。服も薄いものだったし、二人は本当に大変だったでしょう。撮影が終わると、キムさんの手が震えているのが解かりました。そんな状況の中でも、やりたいという熱い気持ちをスタッフや俳優さんに伝え、皆で頑張ったので、あんな苦しい状況の中でも文句を言う人は一人もいませんでした。(聞き手:犬塚芳美)
       <明日に続く>

この作品は、9月1日からシネマート心斎橋、
       順次京都シネマ、元町映画館 にて公開

映写室 「プンサンケ」チョン・ジェホン監督インタビュー(前編)

映写室 「プンサンケ」チョン・ジェホン監督インタビュー(前編)
    ―分断国家・南北の境界線上を自在に行き来する男―

 韓国映画界の底知れない力を感じる作品が公開になる。脚本は、鬼才キム・キドク。メガホンを取ったのは、韓国美術界の巨匠キム・フンスの孫、チョン・ジェホン。奇想天外な物語から浮かび上がるのは、分断国家の悲しい運命で、この作品が作られたのは統一への憧憬からだ。来日のチョン・ジェホン監督に、撮影秘話だけでなく、師匠であるキム・キドク監督への思いとか詳細に聞いています。

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©2011 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

<その前に、「プンサンケ」とはこんなお話> 
38度線を飛び越えて、3時間以内に何でも運ぶ、謎の男がいる。離散した家族の最後の手紙やビデオメッセージ、時には人間も運ぶ。いつも北朝鮮製の煙草・豊山犬(プンサンケ)を吸うことから、その名で呼ばれ始めた。連絡方法は“帰らざる河”に、メッセージを残すしかない。ある日、韓国に亡命した北朝鮮高官の恋人、イノクを連れてくるよう頼まれる。危険な境界線を共に越える間に、彼の何かが狂い始めた。

<チョン・ジェホン監督インタビュー>
―南北問題を丁寧に描かれていますが、この問題は元々監督の中にあったものでしょうか?
チョン・ジェホン監督(以下敬称略):南北問題はいつも頭の中にはありましたが、実感したのは国内ではなく海外でです。僕は10代をアメリカで、20代を中立国のオーストリアで過ごしました。そのオーストリアで北朝鮮の人に出会ったのですが、僕は小さい頃に、韓国で厳しい反共教育を受けて育ったので、北朝鮮の人はとんでもない人たちだと思っていますから、声がかけれないんです。でも喋るのを聞いていると、会話の中にジョークを交えたりと、僕と同じ普通の人だった。で、驚きました。それでも、お互いに警戒しあい、声をかけれない。これこそが分断国家なんだなあと思ったんです。

―この作品の始まりは、キム・キドク監督の脚本ですよね? 始めて読まれた時の感想は?
チョン:内容はそれ以前から知っていたんです。シナリオを読んで、これを自分が理解できるだろうかと思いました。キム・キドク監督のお父さんは、朝鮮戦争に行っていますし、監督自身も海兵隊にいらした方です。言わば分断の現場を知っている。それに対して私は、外国の生活が長く、父も国連で働いていたりして、見る視点や環境が明らかに違います。結果的には私自身の視点で映画に向き合おうと思いましたが、その決心がつくまで悩みました。二つ目の悩みは、この重いテーマをどのように普遍化することが出来るかです。分断という単語自体が重いですよね。それをどのように観客の皆さんに伝えることが出来るかと悩みました。

―少し話が戻りますが、脚本を読む前に内容は知っていたというのはどういう意味でしょう? キム・キドク監督にこういう話を書くと、聞いていたとか?
チョン:この脚本はだいぶ前からあったのです。私がこれを読む前に、キム・キドク監督は何人かの監督に声をかけていました。その方たちは内容的にもお金の点でも自信がないと断ったようですが。
―でも、監督は果敢に引き受けたわけですよね? その時の覚悟は?
チョン:覚悟も何も、挑まないという選択肢がなかったんです。いい素材があれば、何とかすべきですから。それが監督として一番力を発揮できるところでもあります。特に南北問題を扱った映画自体がほとんどありませんから、私自身の視点でこの問題の映画に取り組めるというのが、興味深くもありました。それに、映画はお金で作るのではなく、思いで作ることができるというのを、知らせたい思いもありました。

―それで、キャストの皆さんに、ノーギャラを交渉されたと?
チョン:そうです。この作品は、キャストだけでなく、全てのスタッフがノーギャラなのです。字幕をご覧になれば解かりますが、投資というところに“「プンサンケ」のスタッフ”というのが出ていると思います。
―そういう事をまったく感じさせない大作感、エンターテイメント性でした。扱っている問題はとてもコアですが、映画としてとても広がりのある作品ですよね。パンフレットを読むまでは、セット等も含め、もっと大掛かりなものを想像したのです。そういう厳しい状況で作ったことが想像出来ませんでした。
チョン:観客の皆さんに、低予算であることをわからせるような映画にしてはいけないと思います。見る方は低予算だとか、お金をたくさんかけているとか関係ありませんから。作品を作品として見て頂きたいです。だから、低予算であることを見せない為に、色々な準備をしました。商品として競争力のあるものを作らなくてはいけないと考えたのです。僕の長編デビュー作となった「ビューティフル」も、同じように低予算の映画で、最初は3箇所でしか上映できなかったのです。そういう経験があったので、もっと多くの人に届くような作品にしたいと思いました。もちろん低予算ゆえの制約も多かったです。でも、それに挑戦する事自体が、楽しい作業でした。

―監督は経歴がユニークですよね。以前はオペラ歌手をされていたという話を聞きました。映画に向かうきっかけとか、監督にとって映画はどういうものなのか、教えて下さい。
チョン:声楽は20年以上しています。小さいころからずっとまじめにやってきたので、これが自分の進むべき道だと思っていました。映画監督というのは夢のまた夢ですね。20代後半には声楽をしながら経営学も学び、美術も小さい頃からやっています。こういう風に色々なことを勉強しましたが、1度しかない人生だし、自分が夢でしかないと思っていたことをやってみたいと思ったのが始まりでした。周りの人たちが、声楽の道をあきらめるのは勿体無いと言いましたが、私はそうは思いません。と言うのも、オペラも芝居で結局は演出なんです。私は声楽家でありながら俳優でした。映画監督として、俳優の視点で演出をするというのも、あり得るのではないかと思うんです。普通は1つの舞台に2,3ヶ月準備をします。全部楽譜を覚えないといけないですから。そういう手順を、私の演出では使っています。リハーサルを沢山するということです。撮影に入る時には、全てを覚えてもらっていました。そういうのは、私の声楽家としてのトレーニングがなければ不可能だったと思います。

―では、20何日という撮影期間には、そのリハーサルは入っていないのですか?
チョン:ええ。撮影の前の準備期間が一カ月位あったと思います。撮影現場ではいつもありえないことが起こります。入念に準備しないとそれに対応することができません。私にとっては、いくらしても完璧な準備というのはありえない。でも準備をしておけば、早く撮影が進みます。(聞き手:犬塚芳美<明日に続く>

この作品は、9月1日からシネマート心斎橋、
順次京都シネマ、元町映画館 にて公開

映写室「隣る人」上映案内

映写室「隣る人」上映案内   
―「光の子どもの家」の日常―

 <かってアフガニスタンの空爆被害>を取材し、アジアの子どもたちを映してきたアジアプレスの刀川和也監督が、今度は日本の、とある児童養護施設の日常を追いかけました。
まるでユートピアのような世界に、これは現実なのだろうか、はたまた実験社会?と戸惑います。場所にしても、日本なのだろうか、日本だとしたらどこの話なのか、そして映っているのは、家庭?いや、違うようにも見えるし、どういう場所なのかと、多くの「はてな」を抱えながら、映像を見続けました。その内流れてくる温かさに、そんなことはどうでも良くなります。ここにあるのは、家庭でも施設でもないけれど、その中間のような、穏やかな、人と人が隣り合う形でした。ここの理事長が投げかける、新しい社会への、一つの提案でもあります。

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 <さまざまな事情で親と一緒に暮らせない子どもたち>、今日本ではそういう子どもたちが児童養護施設に集まって暮らします。物語の舞台となる「光の子どもの家」もまさにそういう児童養護施設の一つですが、施設らしさはありません。温かい建物も家庭的なら、食卓に集う形も家庭的。泊り込んで一緒に暮らす保育士たちにも、仕事の影が見えません。与えられる物質的なものも、精神的なものも、とても恵まれてさえいます。今の日本で、母親がおみおつけの具を刻む音で目覚める子どもがどれほどいるでしょう。

 <まだ若い女性を>、ママと呼んで奪い合う子どもたち。私を受け止めてと、我が儘にその存在のすべてをぶつけていく子どもたち。その重さに戸惑いながら、子どもに寄り添い続けようとする保育士たち。8年間の取材で浮かび上がったのは、新しい人と人の関係性で、「血縁」ではない、人と人とのつながりでした。

 <光の子どもの家を作るとき>、設置地域からは反対の声が上がりました。問題児が転校してきて、地域の学校が崩壊するのではと恐れられたからです。ところが程なくして、ここに地域の家出した中学生が「助けてくれ」と駆け込んできたり、養育相談が舞い込んできたりします。見えないところで、新しい家族の形を求めて、社会が動いていたのでした。擬似家族で構成されたこの施設が、今の社会がなくしている欠損した何かを、一生懸命築こうとしていたのを、周りが本能的に見抜いたのかもしれません。

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 <この夏「おおかみこどもの雨と雪」と>いうアニメがヒットしています。おおかみおとこを愛し、おおかみこどもを生んだ母親が、やがて夫を亡くし、たった一人で、幼い二人の子どもを、人間として生きるか狼として生きるか、どちらでも選択できる場所に移り住み育てる物語ですが、母親は子どもを愛しながらも、子どもたちの選択に任せ、ただ寄り添うように見守ることしかしません。細田守監督が描くのは、一言では言い表わせない色々なものですが、子どもに寄り添う母親の思いの深さは、「隣る人」が描く施設の理事長や保育士の思いに通じるものでした。
 <血縁関係があろうがなかろうが>、他者への究極の愛は、そっと寄り添うこと、その人に「隣る」ことだなあと思わせる、両作品の共通性です。二つの作品が描くユートピアは、一見稀有なものですが、ふと気づけば、私たちが心のありよう一つで、手に入れることができるものでもあるのでした。(犬塚芳美)

この作品は、8月18日から第七芸術劇場、
9月15日から神戸アートビレッジセンター、順次京都シネマ にて公開

映写室「ニッポンの嘘」長谷川三郎監督インタビュー(後編)

映写室「ニッポンの嘘」長谷川三郎監督インタビュー(後編) 
  ―報道写真家 福島菊次郎90歳―

<昨日の続き>
―福島さんの出発点に重なりますね。
長谷川:そうなんです。実は福島さんに惹かれて撮り始めながら、今なぜ福島菊次郎なのかと、僕自身模索していました。残念ながら、望まずしてその答えが撮影中に起こったしまった。放射能で広島と福島が繋がってしまったんです。僕がおんぶして運んだのは2階へですが、福島さんをおんぶして今の観客に運ぶような思いでした。

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©2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会

―確かに。
長谷川:皆さんに福島菊次郎を知らせたいのです。僕ら撮影クルーはみんなが福島さんに魅了されました。密着取材したこの2年間、人を撮るということ、どう生きるべきかと言うこと、福島さんの豊かな日常を通して、色々教えてもらったのですが、映画を見る人にも、僕の経験を追体験して欲しいし、福島菊次郎を体感して欲しいのです。年配の方からは、元気をもらえたと言われます。何しろ90歳の福島さんがこんな風に現役なんですから。戦後を見てきて生き抜き、今の日本に何が出来るのか、模索したいと。若い世代には、この国と戦ってきた福島さんを見て、自分が今何をすべきか感じて欲しい。この世の中に嘘や違和感を感じながら、戦い方がわからないのが、今の我々ですから。

―福島さんの目と福島さんの撮った写真の中の、原爆被害者の中村さんの目が重なります。嘘を許さない、射抜くような二人の眼差しの強さに圧倒されました。眼差しが重いと言うか、たじろぎます。
長谷川:あの写真集はやっぱり特別です。未だに福島さんの中に、中村さんの「敵を取ってくれ」という言葉が残っているのでしょうね。福島さんの原点は原爆病で苦しむ中村さんの姿だったと思います。中村さんの写真はどれも壮絶で、余分な肉のない体は、誤解を恐れずに言えば、苦しみの中ですら体自体が芸術作品のように妖しく美しい。福島さんがあの写真集は二人の共犯関係で出来たと言っていますが、中村さんも福島さんを挑発するように、自分の苦悩や苦しみをさらけだしたのだと思います。二人のそんな緊張関係が映っている。福島さんは、黙っていても、そんな総て、自分の悲しみを受け止めてくれると思わせた人なのでしょう。

―中村さんの写真のすべてに圧倒されました。とにかくすごい。肉体だけでなく、そういう中村さんの覚悟が写っていて、それに心を捕まれたということでしょうね。
長谷川:ええ。この作品には、埋もれそうだったそういう写真を皆さんに見ていただく目的もありました。もちろんその後も、日本の国と戦った多くの人々の思いが、福島さんを作り上げます。福島さんは写真を撮るとき、その人たちの正面に入って、訴える人々の視線を正面から受け止めている。僕も同業者だから解かるんですが、なかなかカメラマンはそこまで入れないものなんです。あそこまで出来るのは、中途半端な遠慮や優しさより、お前たちの思いはしっかり受け止めるよという、覚悟なんでしょう。被写体も福島さんのカメラを見つめ返していますからね。僕はそんな福島さんの写真を沢山撮影したのですが、写しながらも、かって声を上げた日本人に見つめ返されているような思いでした。

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©2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会

―福島さんのいう、「問題自体が法を犯したものであれば、報道カメラマンは法を犯してもかまわない」は説得力のある言葉です。
長谷川:法を犯してでも、嘘を暴き出せと言うことでしょうね。「ニッポンの嘘」というこの題名も、福島さんの発案なんです。福島さんは僕に、今の時代に写真を撮る君らは大変だねと言いました。嘘に塗り固められて、一見きれいになった社会では嘘を暴きにくい。皆が騙されていて、誰も怒りの声を上げないとも言います。でも、それでも必ず嘘の露見しているところはあるんだから、諦めてはいけないとも言われました。
―ええ。
長谷川:そういう過激なことを言いながら、福島さんは楽しく普通の日常を送っています。でもそれが繋がっているんだなあと思えました。豊かな日常を壊されることへの怒りが、福島さんの原動力なんでしょうね。80年代に隠遁生活に入ったのは、自分が腐りたくなかったからだと言います。昔よく撮っていた頃は、苦しみながらも伝えようとする人々がいた。自分の写すべきものがあったと言うんです。覆い隠されて写すべきものがなくなったから隠遁したけれど、今嘘を暴かないと日本は同じ間違いを繰り返す。福島は広島の二の舞になると言っていました。福島さんの多くの作品は、今支援者の方の農地に建てたプレハブの小屋の中で保存されています。ありがたいことではあるんですが、保存方法が心もとない。それにいつまで可能かもわかりません。何とかもっと確実な方法で保存できないかと、僕も心当たりを当たっているのですが、なかなか上手くいかなくて。残したい、かっての日本がここにありますから。

―大杉漣さんという個性派が担当しながら、ナレーションがまったく耳に残っていないのですが。こんなことは珍しくて。あまりにも自然だったのだと思います。
長谷川:福島さんは写真に自分で解説をつけていることが多く、それ以外にも、撮影した時の状況や心情を文章で残しているんです。ナレーションはそういうものの中から取ったので、福島さんの心の声として自然だったのだと思います。大杉さんのナレーションも、過多にならないよう、淡々と読み上げてもらったので、それも良かったのかもしれません。何度も練習し、感情の込め方の調節をしてくださいました。いいナレーションになったと感謝しています。ナレーションもですし、この作品は、かかわったスタッフ全員のセッションでした。皆が福島さんに魅了され、どうすれば皆さんに福島菊次郎をうまく伝えられるか、知恵を出し合いました。この作品では、福島さんの写真と共に、そういう僕らを魅了したチャーミングな福島さんを見ていただきたいと思います。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記:犬塚> 
 デモ隊警備の警官の面前に、蝶のように舞い降り、平然とカメラを向ける福島さん。カメラを向けられたほうも、怯むことなく睨み返して、そこには独特の緊張感が漂います。このシーンだけで、福島菊次郎さんの超人さを見た思いがしました。続く、広島の被爆者、中村杉松さんの映像。カメラに向けられた中村さんのまなざしの深さに、またもや釘付けになります。こんな眼差しを受け止め、レンズと言う瞳を返し合って、福島さんが精神衰弱になったと言う誠実さ。やはり現場には相当の緊張感があったのでしょう。決して諦めて下を向かず、怒りの瞳を向ける人もいたけれど、それを真摯に受け止める人もいたのだと、思い知らされました。
 かっての日本には、戦い方を知り、怒りの声を上げる日本人が一杯いたと言う言葉にも、再び項垂れるしかありません。飼いならされた現代人。気がつけばもう一度広島が広がっていると、福島さんと監督は警鐘を鳴らし続けます。そんなことはともかく、迫力のある福島さんの写真と、そういう写真を生み出しながら、飄々と日常を楽しむ御歳90歳の福島さんの素敵さに魅了されてください。

この作品は8月18日(土)~テアトル梅田
     8月25日(土)~シネリーブル神戸で上映
            順次京都シネマでも公開


*なお、8月18日から、映画公開に併せ、大阪人権博物館で「福島菊次郎写真展」が開催されます

映写室「ニッポンの嘘」長谷川三郎監督インタビュー(前編)

映写室「ニッポンの嘘」長谷川三郎監督インタビュー(前編) 
  ―報道写真家 福島菊次郎90歳―

 かって日本の嘘を暴き、一世を風靡した報道カメラマンがいる。御歳90歳の福島菊次郎さんだ。最盛期には月刊誌を中心に年間150ページを発表しながら、80年代にすべてを捨て、無人島で自給自足の暮らしを始めた。高度成長期の何でもお金に換算する世の中に嫌気がさしたのだそうだ。そして今、犬と二人で暮らしながら、いまだ消えないジャーナリスト魂。心のうちにたぎらせる、何を残せるかと言う思いは消えていない。伝説の報道写真家の仕事と、その日常を追った作品です。長谷川三郎監督にお話を伺いました。

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©2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会

<その前に、福島菊次郎さんの仕事の一部>
1961年:広島の被爆者、中村杉松さん一家の10年の記録写真「ピカドン ある原爆被災者の記録」刊行。日本写真批評家協会賞特別賞を受賞
1969年:学生運動を取材した写真集「ガス弾の谷間からの報告」刊行
1970年:写真集「迫る危機:自衛隊と兵器産業を告発する」刊行
1977年:写真集「戦場からの報告 三里塚・終わりなきたたかい」刊行
1978年:写真集「原爆と人間の記録」刊行
1980年:写真集「公害日本列島」刊行
1981年:写真集「天皇の親衛隊」刊行
2003年:著書「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘」刊行
2005年:著書「写らなかった戦後2 菊次郎の海」刊行
2010年:著書「写らなかった戦後3 殺すな殺されるな」
2011年:震災後の福島を撮影

<長谷川三郎監督インタビュー>
―この作品を見るまで福島さんを存じ上げなかったのですが、すごい方ですね。
長谷川三郎監督(以下敬称略):実は僕も存じ上げませんでした。僕は1970年生まれなので、菊次郎さんが精力的に写真を取られた敗戦直後の広島とか、60~70年代という日本の戦後が大きく動いた学生運動や三里塚闘争を、リアルタイムで経験していません。福島さんはその頃にフォトジャーナリストとして、月刊誌でたくさんの写真を残されているんですが。でもお会いする前に福島さんの写真を見て、ショックを受けました。写真の中に自分の知らなかった日本や日本人を発見したんです。怒りをもって声を上げ、戦っている日本人の姿に、衝撃を受け体が震えるようでした。被災者の苦悩を知り、修学旅行で訪れる広島の足元にこんなことが埋まっているのかと驚きました。一方で、僕はドキュメンタリーの仕事をしているので、さまざまな現場で出会う人の声を、これだけ撮れるカメラマンと言うのは、どういう人なんだろうとご本人に興味も持ちました。ちょうど自分の仕事の方向性に限界も感じていたので、とにかく菊次郎さんに会ってみたいと思ったのです。

―それまでは隠遁生活のようだったのですか?
長谷川:80年代に突然メディアから消えて、それ以降消息が伝わってこなかったので、福島さんがいらっしゃることに、多くの方から驚きの声が上がりました。福島さんに対してはさまざまなイメージがありましたが、会ってみると社会的にまだ現役で、自分は何を残せるかと日々模索している。それにも驚きました。あれだけの仕事をした人なら、普通だったら90にもなったら、静かな老後の暮らしをしていても不思議はないですから。それと、お会いして、あんな写真を撮る人だと思えないような、柔らかい人柄で、僕は写真だけでなく福島さんの人柄にも魅了されたんです。ドキュメンタリーだと、放送枠が決まってから撮り始めるのですが、そういう予定がなくても、撮りたい。福島さんが撮ってきた日本と、福島菊次郎という人をドキュメンタリーで残したいと直感的に思いました。

―ご本人からの撮影許可はすぐに下りましたか?
長谷川:「僕のような独居老人を撮って絵になるのか?」と言われました。でも、福島さんの暮らしが僕にはとても豊かに思えたのです。自分のことは何でも自分でされます。食事も3食自分で作り、犬と一緒に暮らしながら、こんな中で自分に何が出来るかをいつも考えている。福島さんが撮ってきた作品の世界を紹介すると共に、そういう福島さんの日常を撮りたいというのが、この作品の裏のテーマでもあります。足掛け3年、2年間の密着撮影中に僕は色々なことを教えてもらいました。そういう僕のわくわく感も、映画を通してお伝えできたらと思います。

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©2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会


―福島さんがこのお歳でここまでモチベーションを保てる秘訣は何でしょう?
長谷川:取材する相手から色々なものを受け取っているのでしょう。それを受け止め、その上で被写体との距離をきちんと取っているのがすごいところです。
―素敵な方ですよね。37キロですか。身体にも体重を感じないし、動きが人間とは思えない。異次元の行動に見えます。被写体の面前でまっすぐカメラを向けて、向けられたほうもまっすぐ睨み返している。すごいなあとその関係性に驚きました。
長谷川:僕がおぶって階段を登っているように、普段は足腰に危なっかしいところもあるのですが、鍛えているので、カメラを持つと野生動物のようになります。敏捷ですね。それに人間に対する距離感がすごい。福島の被災地に一緒に行った時も、すぐにはカメラを向けないのです。酪農家の長谷川さんの話をじっくり聞いて、被写体の苦しみに寄り添うようにする。この方はこんな風にして取材してきたんだなあと教えられました。

―福島にはご本人が行こうといわれたのですか?
長谷川:撮影の途中で福島の事故が起こりました。どう思っているか気になって行ってみたら、福島さんがテレビを食い入るように見ているんです。事故の直後は、体が動くならすぐにでも飛んで行きたい。でも、現地は混乱しているし、自分のような老人が行っても、迷惑をかけるだろうしと諦めていました。僕らもそれで良いと思ったんですが、本人は諦めきれず、福島の惨事を自分が今までに撮ってきた日本と重ねてみていたようですね。半年くらい経って、現地も大分落ち着いてきた頃、「福島に行くんだけれど、一緒に行かないか?」とご本人が言い出しました。「自分の仕事は敗戦後の広島で始まった。あの時の広島には、放射能で汚染され、しかも国からも切り捨てられて、のた打ち回る人々がいた。福島と広島は一緒だ。放射能に野ざらしにされている日本人が今ここにいる」と言っていましたね。広島には嘘で固めて捨て去られた人々がいっぱいいた。福島には、今の日本の嘘と未来の日本の嘘がある。又嘘が始まるんじゃあないか、そうなってはいけないと警鐘を鳴らしています。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く>

この作品は8月18日(土)~テアトル梅田
     8月25日(土)~シネリーブル神戸で上映
            順次京都シネマでも公開


*なお、8月18日から、映画公開に併せ、大阪人権博物館で「福島菊次郎写真展」が開催されます

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