太秦からの映画便り

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映写室 追悼・若松孝二監督の思い出

映写室 追悼・若松孝二監督の思い出 
―サングラスに隠したシャイな瞳―

 <この春>「海燕ホテル・ブルー」と「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」という新作を引っさげて、関西キャンペーンにいらした若松孝二監督。着込んで体の一部になったようなジーンとスニーカー、ヨレッとしたシャツにベストを重ね、襟元には無造作にマフラーを巻き込み、好奇心旺盛なきょろきょろ動く瞳を隠すような黒いサングラスだった。以前の取材でもそんなスタイルが写っているから、多分監督の定番ファッションなのだろう。寒くなるとそこに革ジャンが加わる。そういう姿が目を閉じると自然に浮かんでくる。全身で若松孝二を体現している監督だった。
 <この日は主演男優を加えて>の合同会見だった。台上まで少し距離があり、それぞれへの遠慮もあって、直ぐには皆から質問が出ない。そんな様子を見た監督が、丸っこい体でニコニコ取材陣を見回し、さあ何処からでもかかってこいと言うように、作風とはまるで違う人懐っこい雰囲気をかもし出してくださる。隣の男優さんが緊張しているのとは対照的だ。

 <以前、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」>のキャンペーンの後、監督を囲む飲み会に出た時も、同じような感じだった。始めてこんな席でご一緒する私にも、まるで旧知の間柄のような打ち解けた顔を向けてくださった。狭いテーブルを挟んだ皆との雑談がことのほか嬉しいようで、この映画の資金集めの苦労、お嬢さんからも借りたこと、「無一文になっても、色々な人が“お酒くらい飲ましてやる”というから、それでいいよ」と、自分の別荘まで撮影で爆破した捨て身の状態を、話された。監督はいつも自然体、脱力の人だ。場所や相手によって態度が変わることはない。これこそが反体制、反権力の本来の姿で、監督の作風にもなっていると思う。

 <ピンク映画と強面で一世を風靡した若松監督は>、私には遠い世界だった。ピンクを隠れ蓑に、どんなメッセージを忍び込ませていようと、男子の世界には違いがなく、敬遠していたのだ。
だから私が始めてみた若松作品は「17歳の風景 少年は何を見たのか」だった。大好きな母親を金属バッドで殴り殺して、自転車で北国を目指した少年の物語だ。発生当時マスコミをにぎわした事件も、次第に風化していったが、私はなぜかこの事件を忘れられなかった。事件の根底や少年の孤独に、現代社会の閉塞感だけでなく、私の中に潜む何かを嗅ぎ取っていたような気がする。

 <そんな題材を>、あの若松孝二が撮ったのかと、驚きと好奇心で見て以来のファンだ。いまだに私の一番好きな若松作品で、少年の孤独と絶望、心の中にぽっかりとあいた空洞、少年を追い詰めた社会の残酷さが、ひしひしと伝わってきた。この時監督は67歳だ。偉大な監督に失礼な感想だけれど、67歳で思春期の感情をここまでリアルに描ける監督がどれほどいるだろう。監督の中に永遠の少年がいるとしか思えない。

 <その後から、快進撃が始まる> 大ヒットした「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」、「キャタビラー」と続いて、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」では、「実録・・・」とは対照的な、右よりの、しかし同時代の、国を憂う若者の事件を描いた。
 <ピンク映画の中に>自分の社会的なメッセージをこめてきた監督が、やっと、正面切って、自分のメッセージを押し出せる土壌を得たのだ。しかし、「キャタビラー」は別として、歴史的な事件を題材にした後の2作品には、監督の思いを曖昧なままにしている。分からないことは分からないままに提示して、後は観客に任せる手法。無理やり結論を導こうとしない思い切りの良さも作風といえる。それをずるいと思ったこともあるが、若松監督の目的はそういう事件を解説することではなく、そういう事件に駆り立てられた若者自身、若者の焦燥感を描くことなのだろう。そこにこそ共感していたのだと、今気が付いた。
「彼らは何が目的だったのでしょう?」、「三島は本気だったのでしょうか?」という質問に、「色々考えたけど分からなかったねえ」と、答えてくださった。目的を見失いながらも、死に急ぐように生きた若者たち。若者が私利私欲もなく、純粋な目で未来を見据え、何とか世の中をよくしようと世の中を憂う。そういう若者に、監督は若い頃の自分自身を見ていた気がする。

 <ところで>、この時の話で印象深いのは「実は体のあちこちが悪いんですよ。癌になって何回も切っているしね。撮影中は気力で乗り切るけど、もう体はがたがたでねえ。この撮影中にも実は一度倒れている。でもまだまだ死ぬわけにはいかない。撮りたいものがあるからなあ。この歳になると、食べるものにも大して興味がないし、一番やりたいことが映画を撮ることなんだ。こんな楽しいことってないよ。こう見えて僕は案外人見知りだから、次の作品も今まで出会った、気心の知れた人たちと作りたい」という監督の隣で、「監督の現場は辛い。役者をどんどん追い詰めていく。極限で出てくるものを要求する演出法です。1作終わったらもうくたくたで、今はまだ次のことまで考えられない」と困惑した主演俳優。

 <あっけない最期で>永遠にその機会をなくした今、誰もが極限を求められた監督の現場を渇望しているだろう。でも若松監督に長患いは似合わない。この最期も、らしいのだ。意識不明のまま亡くなられたとのことだが、我が家の夫のように、頭を打ったのだろうか。少ししたらリハビリの参考に「破損した脳、感じる心」を送ろうと思っていたのだけれど、それもかなわなかった。しきりに監督を思い出す秋の夜長です。(犬塚芳美)
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映写室「天心の譜(調べ)」細川佳代子さん舞台挨拶

映写室「天心の譜(調べ)」細川佳代子さん舞台挨拶   
>―コバケンとその仲間たちのオーケストラが迎えた、知的障害者たち―

 <INCLUSION(イルクルージョン 包み込む)社会>の創造を目指す、元総理夫人・細川佳代子さんが、映画製作の第5弾として、世界的な指揮者・小林研一郎さんとその仲間たちのオーケストラが、知的障害者を演奏者として加えたコンサートを開くさまを、ドキュメンタリー映画で作りました。

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 <細川さんとコバケンとの出会いは>、細川さん悲願のスペシャルオリンピック(知的障害者のオリンピック)を、2005年に日本で開いたときでした。アジアで始めてのこのオリンピックに、頼んでもいないコバケンが現れ、無償で仲間を引き連れて演奏をしてくれたのです。静かな賛同者の出現でした。
悲願だったスペシャルオリンピックは開催できたものの、まだまだ国内の知的障害者への偏見は大きい。イルクルージョン社会を知ってもらおうと映画製作を始め、孤軍奮闘する細川さんを助けようと、再びコバケンが動きました。

 <2010年に古希を迎えた小林研一郎さんは>、音楽仲間たちに呼びかけ、障害のある31名の演奏者を加えたコンサートを開催します。プロの中で生き生きと演奏する彼らの、真剣で誇らしい顔、顔。映像の45パーセントは、同じく知的障害のある9人の撮影隊“ビリーブクルー”が映したものです。本来なら許されない角度からの映像は、コバケンが彼らとの心のふれあいを大切にして、特別に立ち入りを許可されたからこそのもの。

 <「どんなに医学が進歩しても>、人間が生まれ続く限り、人口の2パーセント前後は知的障害のある子どもが生まれてくる。それは人間にとって一番大事な“優しさ”や“思いやり”を教えるために、神様が私たちに与えてくださった、神様からの贈り物だからです」と言う言葉を聞いて、私の人生はひっくり返ったと言う、細川さん。「知的障害者を“可哀想で不幸な人たち”と哀れみの目で見ていた私は、彼らのよき理解者、支援者になりたいと、心の底から思いました」と繰り返す言葉通り、イルクルージョン社会の実現を目指して、日本中を飛び回る生活を続けている。

「破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学」で思うこと

「破損した脳、感じる心―高次脳機能障害のリハビリ家族学」で思うこと  
 ―色々な方からの反応―

 自著が出て少し時間が経った。色々な方が感想をメールしてくださる。まだ情報が行き渡らず、今この本が届いているのは、主に知り合いだ。介護の当事者からも届いたけれど、「介護記」としてより、今のところは、エッセイとして読んで感想を下さった方が多い。なぜか、女性よりも男性から「泣いた」と言われる。それも介護には関係ない人ばかり。電話で「感動したよ!」と言いながら、私との話の途中で感極まって又泣き出した男友達は、何に泣いてくれたのだろう。繰り返し、「二人に会いに京都へ行くよ。応援するぞ!」と言ってくれた。
 鴨川で、毎夕定点観察で雲を映し続けるK先生は、リハビリの夫と時々雲見に参加して知り合ったという関係で、事故があったからこそ出会えた方だ。一年の半分は関東で過ごされるが、秋に入った軽井沢から軽やかな声で「いやあ、感動した! 二人の静謐な精神を感じる。それがすばらしい」と感想を伝えてくださった。
 そういう電話での激励も多いけれど、とりあえずは匿名で一部のメールを記してみたい。著者に向けての感想なので、ちょっと甘口のものばかりなのはご容赦を!なお、私のアップ記事にコメントをくださった分は、重複するのでここでは取り上げません。


<友人の編集者>
 今度の土・日にゆっくり読もうと思っていたのに、ちょっと時間の空いたときにぱらぱらページをめくると、とまらなくなり、結局、土・日まで待てず読んでしまいました。
良い本です。
役に立ちます。
感動と、勇気を与えてくれます。
何より、あなたと犬塚さんの、プライドと美意識の高さ、それが「生」の源泉になっていることの証明・・・(これは、これまでのこうした本・・・医療の当事者の体験に基づいた本・・・には、欠けていた視点ではないでしょうか?)が、素晴らしいと思います。
ちょうど、昨日のこと、テレビで、なかにし礼さんががん闘病に際し、「病気になったとたんに、人は個人ではなく「患者」という名の病気を治すための存在になってしまう、それではいけない、自分で考え、自分らしく病気に向かわねば」というようなことを話され、自分自身の未熟(?)だった入院体験と引き合わせて感動しました。あなたたちの体験は、まさに「自分」と向かい合った記録で、ある意味情熱的な恋愛小説のようにも感じました。
改めて、犬塚さん、ご快復、おめでとうございます!
芳美さん、よく頑張ったね!


<仏文学に精通した友人>
 すぐ一気に読ませていただきました。リハビリ内容だけでなく犬塚さん夫婦の2年間の日記ふうで、脳の不思議さをあらためて強く考えました。脳の学者本より当然はるかにリアルでこれこそ映画的!!
 あらためて犬塚さんの愛情力&生命力&観察力&文章力などに唖然!!
ワンさんのあとがきもとてもいいですよね~。
普通なら苦悩の介護紀になってしまいがちですが、客観的な本に出来上がってて驚きです。
表紙のイラストもユーモアセンスありで、もしかしたらもしかしたら話題のベストセラー本になるのではと??これからもさらなる二人三脚への道のりを歩まれてください。
 私は実は犬塚さんの夫婦像にさらに自分の過ちを気付かされましたが、これは哀しきかな手遅れ状態です。


<献本した脳神経学の権威、Y先生>
 あなたのご主人に対する愛情があふれかえっている書物で、感銘を受けました。
同病の方々やご家族にも希望を与えるご本だと思います。ますますのご回復を、心より願っております。


<学生時代の友人>
 本当に大変でしたね、知らなかったとは言え力になれず御免なさい。こんなことで芳美ちゃんの友達だって言えるんだろうかと自己嫌悪。本はとても読みやすいです。今日中に読み切ってしまいます。


<大人になっての同年の友人>
 やっと読了しました。老化現象で、白内障になり始めていると言われてます。
のっけから自分の事を書きましたが、それには訳があります。というのは、痛みだとかその閉塞感だとかに、とても弱くて、つい、自分の事のように感情移入して、夫さんの事故については、『何が起こったのだ!』という思いが伝播してしまってなかなか、辛かったのが正直な感想でした。

 ゆっくり読みながら、もし、私の夫に起きた事なら、私がまず、発狂寸前か、心中か…を考えたと思います。でも、またそれも、そう簡単に出来るものではありませんし、人は目の前の起きたことについては、何とか治したい!そのためなら、何でもやり尽くそうとするのは、人間本来の持っている本能なのかもしれませんね。

 やはり、生き抜く事しか選択肢はなかったかもしれませんねぇ。けれど、芳美さんのようにアーティスト的な発想で何もかも『!』が出来る状態はなかったかもしれませんけれど。そして、パワフル!よくぞ、あなたが倒れなかった事!
さすがです。創造者たらんとする日常の積み重ねが功を奏したゆえんだと思います。すべてにおいて思いもつかない発想は凡庸な私には考えも及ばない事。

 あなたが本当の主治医ですね。患者が主人公!その患者の側に寄り添いその観点から発想したリハビリや言語獲得は、ただ、お勉強してマニュアル化された教科書を覚えているかどうかの問題ではないと思うのです。
 日常の夫さんを信じ、彼の感性を尊敬していたあなたからこそ、やり遂げたものです。
専門バカというドクターが多い中で、ある一点しか見えないドクターより、何もかも知り尽くした総合的に観て暮らしていた夫婦だからこその二人三脚だったように思います。
 起ちあがれ!と言えども本人がその気にならないとどんなに背中を押しても動かない人もあると思うのですが、同級生に会わせたあなたの一つの行動から、この奇跡は誕生したのでしょう!
奇跡は起こるのではなく、起こすものだと、福島での時にどなたかが言ってたのを思い出しました。


<全国紙、文化部記者さん>
 イヤー、何とこの感動を表現したらいいのでしょう。 たおやかでチャーミングな印象の犬塚さんのどこに、 ご主人の回復に向けた、体育会系も真っ青のバイタリティーが隠されていたのか!
素晴らしいです。
 高次脳機能障害という病を得た場合、家族としてどういう風に患者に接していけばよいのか、 多くの方にとって、非常に参考になるご著書と存じます。


<最近知り合った、とある会でお世話になっている言語療法士さん> 
 読んでしまうつもりはなかったのに、読んでしまいました。直後に思ったのは、とても勝手な感想で申しわけないのですが、「犬塚さんのリハビリの担当者をさせてもらいたかったな~」です。多分これだけ奥さんがご主人のことをわかった上で、がんばっているので、担当者は相当なプレッシャーだと思います。だからこそ、一緒に伴奏してリハビリ街道を走り抜けた後の景色をみたかったな~。セラピストにとっても、おそらく今までみたことのない景色に出会えたことだろうと思います。 患者さんにとっては、どんな医療者にあたるかで、随分身体的にも心理的にも変わるだろうと思います。一方で、医療者にとっても、自分の医療者としての総合力みたいなものは、どんな患者さんや家族に出会うかでも随分変わってくるように思います。
 おそらく、犬塚ご夫婦の場合、どこかの医療者の考え方を大きく変えたと思いますよ。
 本を読ませてもらって、色々思い出したり、感じたりしたのですが、脳損傷をおこしたその場所は再生しないと言われていますが、脳には使っていない場所がかなりたくさんあるようです。失った場所の働きを違う形で補うネットワークができたり、今まで眠っていた特殊な才能が大きく開花したりと、可塑性と可能性を秘めた臓器だそうです。左脳損傷を起こした数学者が、右脳が活性化したことで、今まで味わったことのない宇宙や自然との一体感を感じられるようになり、満ち足りているという内容のTV番組もありました。
 発症2ヶ月での犬塚さんの俳句を読んで、犬塚さんの脳の可塑性・可能性を確信しました。


<本業のお客様でもある方>
一晩で引き込まれてしまいました。
犬塚さんをリハビリに駆り立て、愛情もって介護させてしまう旦那様は愛すべき佳きパートナーなのですね。悲壮感より楽しく刺激的な生活を送ることを私も心がけたいと思います


 まずは、こういうメールをご紹介しました。余談だけれど、この情報化時代、情報を必要としている人に、届けたい情報を届ける難しさを実感している。実は私が一番届けたい、私たちとは無縁の医療従事者からのリアクションはまだありません。さりげなく忍び込ませた、脳の神秘を探る旅の道しるべ。そこへのプロの考察を期待しているのだけれど、今のところは誰もそこに触れてくれない。 
 何時だか映画宣伝の人が、あふれるほど情報があるからこそ、無意識で多くの情報をスルーする習慣を身に付けた世間に情報を渡そうと思ったら、あらゆるツールであふれるほど情報を流さないと届かないと嘆いていたのを思い出した。

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(中編)

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(後編)
    ―「絆」や「希望」という言葉で括れない被災地の日常―

<昨日の届き>
森岡:そういう意味では、この作品を1年目でも2年目でもない、真ん中の時期に何気なく上映できるのがよかったなあと。そういう点も、日常を描いたこの作品らしいなあと受け止めてもらえればと思います。今回の劇場での公開の後も、公民館で上映されたりと、一時のことではなく、この作品が持続的に見ていただければ嬉しいですね。

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©MBS

井本:僕らはテレビ局の人間なので、別のところで収支を合わせているから、映画化にさいし、一つ一つ当てていかないと、次の作品が作れないという状況ではありません。この作品で採算ペースに乗せなくてもいいので、そこのところは鷹揚に、僭越なのですが、テレビ局の社会的な使命として、記録を残さなくてはいけないと思いました。なぜなら、関西の私達は、阪神・淡路の経験があります。苦しい再建の歴史を見てきましたから、それを生かすべきだと思いました。

―テレビ局がテレビの枠を飛び出したのは、パンフレットに想田監督が書いているように、テレビ制作者の間に、別の表現方法を求める要求が高まっていたのもあるのでしょうか?
井本:それも大きいですね。先日、想田さんと話す機会があったのですが、彼は最近のテレビ番組は離乳食だと言うんです。「噛み砕いて解かりやすく作り、それをスプーンで口元にまで運ぶほど、見るほうに委ねた作り方になっている。何かを見て考えるという提案の仕方が少ない。もっとそうするべきだ」と。その通りなのですが、でも、そういうのを今の商業ペースのテレビでと思っても難しい。制作者の中に欲求不満が募っているのです。この作品にしても、ナレーションを省いた冒頭の25分が長すぎるという人もいるのですが、行間を読んでもらう作品を作ろうという思いで作りました。解かりにくいかの知れないけれど、こういう表現法を、皆さんに問うて見たかったのです。

―ちっとも解かりにくくなんかありません。もともとテレビの現場で、伝えたい思いを正確に伝えるという訓練を受け、そういうテクニックを持っている制作者なので、いくら引き算をしても、その精神が残っている。解かりやすさと、観客にゆだねる兼ね合いが、丁度いいところに収まっているのではないでしょうか。完成度の高い大人の作品だなあと思いました。
森岡:映画の時はナレーションを入れないで作りたかったのです。テレビのほうも、1年目に放映の3作目は、ナレーションを3分の1くらいに少なくしましたが、それでも何かが違う。テレビ業界にいると、どうしてもわかりやすく作ろうと思ってしまうけれど、何か不満が残りだしました。今回のやり方がいいのかどうか、それは皆さんに尋ねてみたいのですが、8割がわからないとしても、ひとつのやり方なのではないかと思うのです。過激にして人の目を引き付けるという手法もあるし、テレビならこれでもかというほど積み重ねて、チャンネルを廻させないテクニックがある。90年代からそういう研究を重ねてきましたが、作るほうにしても、何ともやり切れない思いを重ねてきました。テレビもBSとか色々なスタイルが出てきて、そちらが人気を得てもいるんですよね。このままでは自分たちの存亡にもかかわってくるわけです。
―今後の制作方針のアンテナっぽいところもあるのでしょうか?
井本:社内でもそういう風に言う人もいますが、今回はテーマがテーマなので、特別なケース。他の事でそういうことが出来るのかどうかはわかりません。

―被災地の取材は続いているのですか?
井本:僕らは続けていますが、1年を過ぎてめっきり減りました。今年の3月11日の前後は何十台もテレビカメラが並んでましたが、今は地元のテレビ局とNHKくらいですね。まあ、2年目には又カメラが並ぶと思いますが、そういうアニバーサル的な興味や関心になりつつあります。うちは上が認めてくれるので続けていますが、1クルーで3人ですから、交通費滞在費等を考えると、関西一円で取材するのとは桁違いの経費がかかります。それに僕らの番組にしても、改編期には毎回存亡の危機にさらされているのが現状で、実際は厳しいのです。東海テレビの阿武野さんがたった一人の戦いだと窮状を訴えていますが、そこまで厳しくはないものの、やっぱり大変です。

―それでも今回は社内に配給も置いて、映画を作ったと。
井本:ええ。ただし、この作品を作ったのは僕ら報道セクションで、配給は又別のセクションなのです。報道の者が収支を考えると変なことになるので、そこは分けるべきだという考えが社内にありますので、そうなりました。
―なるほど。それでも、テレビ番組ではなく映画を作ったと。
森岡:なぜ、テレビではなく映画なんだという問いは、当然、社内でもありました。内にもBS系がありますし、テレビという電波から逃げないでやるべきだというのは、テレビ局として当然の考え方です。それでも作ってしまったと。フリーランスの方はたくさん映画を作っていますが、テレビ局が作ったのは、僕の認識ではこれが初めてではないでしょうか。一石を投じたことになるかもしれません。全国で始めて舵を切ったかなあと。

井本:1月に1度、深夜に「映像12」というドキュメンタリーをやっていて、「映像80」から、もう32年間続いている。NHKに続いて古いドキュメンタリー枠を持っている局なんです。年間12本だから、もう320本以上のコンテンツがある。映像シリーズから切り分けて映画を作ることも出来るわけで、そういう可能性を僕自身は考えているところです。最もテレビ局内でも、ドキュメンタリーはスポンサーも付かずに厳しい。幾多の存亡の危機を潜り抜けてきましたが、受け継いできたドキュメンタリーを作るノウハウを、伝えていかないといけないと思っています。

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©MBS

―映画を作ったことに対して、他局の反応はいかがですか?
井本:他局はある意味でライバルなので、一般公開の始まるこれからです。ただ、今回の取材の質問に絡んで、他局に問い合わせの電話取材をしたら、そういうことをやるのかと、興味を持っていました。
―テレビとか映画だけでなく、今は過渡期で、色々な境界がなくなっていますからね。
井本:そうなんです。そういうくくりはもう無意味かもしれません。テレビを見るといっても、録画の人も多いし、パソコンで見る人もいる。ハードはどんどん広がっている状態で、短絡的なくくりは通用しなくなっていますね。そういう意味でも、映像を扱う手法を知っているテレビ局が、ピュアな気持ちで作った作品のクオリティを見て欲しいです。テレビの可能性を、こういうところにもう一度問いたいという思いもありました。

森岡:震災の報道も、当時は半々だったのに、今は原発報道ばかりになって、津波報道がなくなっています。現地に行くと、まだ自分たちはそのままなのに、震災が世間から風化されてきつつあると、それを恐れる声が多い。身近でないと物事は遠くなっていきます。忘れるのを非難はしないけれど、これが何かのときに思い出すきっかけに成れればいいなと思います。(聞き手:犬塚芳美)

《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》
 <現場の空気が伝わってくるような>荒削りな作品もいいですが、こういう、プロならではの、整理されたクオリティの高い作品は、やはり見ていて届くものが違います。何も考えずに、画面に吸い込まれて、冒頭の圧倒的な津波の破壊の跡に言葉をなくし、だからこそ、4人の物語に自然に感情移入できました。考えること、行間を読むことを、より深いところに向けられるのではないでしょうか。
<時間とともに深くなる悲しみを>口に出さずにはおれなかった、一人暮らしの女性。でもそれは、前向きに生きようと涙を隠す誰もの中に、おりのようにたまっている感情かもしれません。自分の日常に流され、忘れがちな被災地。十分に頑張っている人に、これ以上頑張ってとは言えないけれど、それでも、生きていればきっといいことがある、それを信じてという言葉を送りたいと思います。

この作品は、10月6日から第七芸術劇場(06-6302-2073)
      10月13日からポレポレ東中野
      10月20日から神戸アートビレッジセンター、
      11月10日から京都シネマ にて公開

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(中編)

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(中編)    
 ―「絆」や「希望」という言葉で括れない被災地の日常―

<昨日の届き>
―ところで、どうして南三陸町なのでしょう? 取材班が偶然入られた場所ですか?
井本:そうなんです、偶然の産物でした。3.11には、ここMBSのビルも揺れました。体感時間で2,3分の揺れだったでしょうか。それからだんだん情報が入ってき始め、ばたばたと取材班を構成し、3班を東北に送り出します。1班は空路で伊丹から、もう1班は中継車と一緒に高速道、北陸自動車道を走りました。もう1班はとりあえずJRで東北を目指せと指示を出したのです。どこに何があるかわからず、とりあえず行ける所まで行けと3つのクルーを送り出しました。で、すぐに色々な点検で空路は駄目と解かり、そのうち仙台空港が津波に襲われ、決定的に駄目になります。次に24時間かけて車で行った班と、JRで行った班も結局新潟で降りて、そこから車になるんですが、その二つの班が偶然、南三陸町に吸い込まれていったんです。あの時期は横のつながりがなく、1回縦の道路に入ると入ったきりでしたから。そこで1週間取材しました。その時の衝撃から、阪神・淡路大震災を経験した地元のメディアとして、私たちも南三陸町にきちんと向き合おうと考えました。

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©MBS

―初めて被災地をご覧になったときの感想は?
森岡:僕が行ったのは3月20日頃なんですが、阪神を経験した僕ですら、非常に驚きました。町1面何もない状態で、記録映像で見る原爆の後の広島のようでした。われわれは常に、日常の中の非日常を探して伝えるのですが、日常などどこにもなくて、あたり1面が非日常で、何を撮ればいいものか戸惑いました。阪神の時は一部の町が焼け野が原で、津波とは別の意味で何もなくなったという印象でしたが、もっと広範囲にそれが広がっていて壮絶でしたね。

井本:私達は第3陣で入っていて、時期的に色々なメディアが入っている頃なんですが、被害が広範囲に広がり、メディアの数が少ない印象を受けました。阪神・淡路は、やはり都市部の災害で、長田町あたりにすごい数のメディアが集まり、10日目くらいになると、取材されるほうがメディアストレスを溜めていたのです。でも今回は、茨城から青森までの沿岸一帯がやられていますから、密度という意味で、圧倒的にメディアが足りなかった。私たちの近くにはNHKのクルーしかいなくて、私の感覚ではこれは信じられないことでした。だから皆さん、メディアへの親和性が高かったですね。この惨状を伝えて欲しいという思いが強く、東北の方たちの気性もあるのでしょうが、何か尋ねても、こんなところへ来てといった風当たりもなく、取材しやすかったです。

森岡:震災後10日くらい経っているのに、南三陸町にはまだ孤立した地区すらありました。仮設された橋を渡っていくと、伝えてほしいという方がいっぱいいらっしゃいました。南三陸町は特に、消防、学校、役場等の行政機関が全滅していたので、住民の安否確認も進まず、町がどうなっているのかとか、全体のことも解からない状況だったのです。皆さん人を探すので精一杯だった。
―今頃になってやっと地名とこの土地の映像がつながってきたのですが、南三陸町というのは、よくメディアに流れた、最後まで町の職員の若い女性が、津波からの避難勧告を放送し続けた場所ですね。
井本・森岡:ええ、そうです。
井本:遠藤みきさんと、私たちがこの作品で取り上げている三浦たけしさんという二人の方が、交代で放送していたのです。遠藤さんを僕らも取材したのですが、そっちのストーリーが有名になったけれど、その隣には三浦さんもいたのです。で、こちらをクローズアップしました。

―震災のドキュメンタリー映画を何本も見ましたが、この作品は少しテイストが違っているなあと思いました。プロが作ったものだなあというか、一人で取材に行きカメラを回す監督だと、対象者の素を撮りたい、空気を映したいと言うけれど、この作品はそんなもの以上に、その人の心の中の訴えたい思いにフォーカスしている。映されるほうは、カメラを意識しながら、それでもそれに負けずに訴えていると感じました。
井本:そうかもしれません。やっぱりテレビクルーが、何人かで大きな機材を持って取材に行くと、取材対象者も、素の自分よりも、そういうものを前面に出してきます。こちらの取材方針もそうですし、そういうものがテイストになるかもしれませんね。
森岡:現場には色々複雑な現象や事情があります。仮設住宅の抽選を巡って、職員と町の住民が口論をしていますが、そういうものを放送したいなあと思いました。あの方は西条さんと仰るのですが、あの方自身が自分の父親と家を津波で流されている被災者なんです。でもそういう人を相手に、同じ被災者が文句を言っている。彼は他の住民がすべて仮設住宅に入るまで自分は入らないといって、一人で避難所にとどまるんです。シャワーも水もなくて、川水に使って生活していた。夏の番組ではそういうところを取り上げました。

―漁業の町で山のほうに仮設住宅を作っても、すぐに空家だらけの廃屋になると、一部で懸念されていますが、実際はどうでしょう?
井本:今のところは、まだそういう状況ではありません。その次の住宅がなんともなっていないので、いくら不便でも動きようがない。町が町営住宅を建てようとしていますが、それも出来るのかどうかわからない。仮設には3年間の期限が付いていますが、全員がその期限内に出て行けるかどうか、難しい問題があります。
―そういう意味でも、震災直後より悲しみが深くなっているかもしれない。そういうものを伝えたい思いがおありだったと?
井本:そこのあたりは、おそらく人それぞれだと思うのです。悲劇を前面に出すつもりはありませんし、これは1年目の記録で、現在進行形で物事が変化していますから。被災地ではない人たちに「ああ、そうだったよなあ。あの時自分たちは何とかしなくちゃあと思ったよなあ」というのをもう一度思いだして欲しいと思うだけです。ストーリーに入っていく前に、たっぷり25分間当時の状況を組み入れました。あの被災が風化していけば行くほど、あの25分は意味があると思います。(ああ、そうだったなあ)と思い出してから、それぞれのストーリーに入って頂きたいと思ったのです。身近なものに感じないと物事は風化していきます。忘れるのを非難は出来ないけれど、この作品を思い出すきっかけにしてもらえたらと。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く>

この作品は、10月6日から第七芸術劇場(06-6302-2073)、
      10月13日からポレポレ東中野
      10月20日から神戸アートビレッジセンター、
      11月10日から京都シネマ にて公開

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(前編)

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(前編)    
 ―「絆」や「希望」という言葉で括れない被災地の日常― 

 長年深夜枠でドキュメンタリーを放映し続けてきたMBSの報道局スタッフが、このほど映画に挑戦した。描かれるのは、1年半前の3月11日、東北大震災で突然すべてを奪われた、南三陸町の人々の日常だ。1年目とかの区切りの日にはマスコミが押し寄せても、普段は報道陣が姿を消した。日ごとに風化していく東北大震災。でもそこには今も続いている日常がある。「阪神・淡路大震災という経験のある僕らが、こういう作品を公開することで、僭越ながら、テレビ局の社会的な使命として、あの日のことを思い出してもらえるきっかけにしたいと思った」と語る、プロデューサーの井本里士さんと、監督の森岡紀人さんにお話を伺いました。少し長いのですが、テレビと映画の違い等、興味深い話が続きます。

<その前に「生き抜く 南三陸町 人々の一年」はこんな作品> 
 2011年3月11日の地震発生直後、MBSのスタッフは、東北を目指して本社を飛び出した。28時間後にたどり着いたのが宮城県の南三陸町だった。行く手を阻む瓦礫の山、魚網が絡まった家の残骸、路上で転覆した船、屋根の上の車、町はあの瞬間で時を止めていた。生き残った人々は身内の安否確認に奔走し、自衛隊員は行くえ不明者の捜索だけでなく、写真等の記念品を拾い上げる。避難所暮らしの中、仮設住宅の抽選が始まるが…。

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©MBS


<井本里士プロデューサー、森岡紀人監督インタビュー>
―テレビ局のMBSが、あえて映画を作ったわけは?
井本里士プロデューサー(以下敬称略):東日本大震災が起こった時、TBS系列局の私たちも、JNNの応援として現地に入りました。その様子をドキュメンタリー番組として作り、被災から1ヶ月目に関西のローカル番組で放送しています。その半年後に又、区切りとしてもう1作作り、1年目でもう1作と、南三陸町を舞台に合計3作作ってきました。次に2年目で制作するのが普通なのですが、もっと全国に向けて発信できないかと、社内あるいは部署内で話が持ち上がったんです。2年目の作品75分のものを99分の形に作り直し、劇場公開の形で全国に発信することになりました。

―映画にしようと思ったのはいつごろでしたか?
井本:去年の秋ごろです。1作目は津波がどういう形で町を襲ったかを、検証する形で作りました。2作目は漁業の町の人々が、高台への移転に向けてどう動くか、納得するか、あるいは決まるまでの皆さんの心的ストレス、そういうものを軸にドキュメンタリーを作りました。ところが高台移転とかは、時間経過で状況が刻々と変わっていきます。制作時期で編集が違ってくるし、その時々のテーマが色褪せていくことへの虚しさも感じました。これだけの素材をもっているのだから、もっと普遍的なテーマを持ったものを作りたい。映画に出来るのではないか。ドキュメンタリー映画なら作れるのではと思い始めたのです。

―具体的にはテレビ用の作品をどう映画用にしたのでしょうか。75分から99分へと追加した部分は?
森岡紀人監督(以下敬称略):75分から99分になりましたが、もともとは膨大な映像から4時間に絞り、それが120分になり、そこから75分にしたので、今回は120分のテープを99分にまとめたというのが実際です。追加したというより、各シーンを長くしたのと、順序を変えました。テレビ版と明らかに違うのは、ナレーションが入っているかいないかで、今回はまずナレーションを省きました。ナレーションがあると言葉の誘導である程度のストーリーが出来、シーンをコンパクトにしても物語が伝わるのですが、ナレーションを排除すると、色々なインタビューをきちんと聞かせないといけない。短縮できなくて初稿に近い形に戻したわけです。もっともこれは作品を重ねるうちにテレビ用のものでも、だんだんそうなってきていて、3作目のナレーションは、通常のものに比べて3分の1のナレーションになっています。

―この作品は4つの物語に集約されていますが、その4人の選択の過程を教えてください。
井本:夏の特番の、高台移転を中心にまとめたものには、この映画には入っていないテーマがありました。でもそれも時間経過で変化していきますからね。テレビだと時事性が大事ですが、映画にする場合は、もっと普遍的なものにテーマを絞り込む必要がある。僕らの持っている素材から時事性を排除したら、残っていたのが普遍的なもの、命でした。つまり、この物語の背後に流れているのは命ということです。妻を亡くし、もう海は見たくないと隣町へ引っ越して、幼い二人の子供をシングルファザーとして育てる男性、たった一人の身内の弟さんを亡くして、避難所暮らしをしながら、それでも住み慣れた町に住みたいと、仮設住宅の抽選に落ち続ける女性、いち早く魚業を再会し、行くえ不明の娘の捜索にならないかと、網を投げ続ける父親、町の防災担当だった夫を探して、毎日のように遺体情報の確認に訪れる女性と、この4つの物語が最終的に残りました。普遍的なのは、人間が絶望の底から立ち上がっていくことだと気づくと、他のものは自然にそぎ落とされていったのです。

―時間経過でより悲しみが深くなる女性の気持ちがよくわかって、痛々しいです。でもどうしてあげることも出来ず、辛さだけを共感しました。
井本:そうですね。私たちがこの作品に静かなアンチテーゼとして掲げているのが、時間が経てば経つほど、一部の人には絶望感が深くなるということです。ところがテレビではなかなかそれを描けない。「絆」とかの前向きな言葉に踊らさせて、なぜそういう負の現実を伝えないのかと、一部の方からは非難を受けましたが、テレビ側としてはそういうことを放送する影響も考えるわけです。伝えるのは簡単だけれど、社会への影響を考えると、やっぱり後ろ向きの話ばかりは組めません。ただ、今回の作品はそういう点もうまくポジションを見つけて描きました。トータルで被災地の1断面にしたいなあと思ったわけです。ただし、そういうものを入れる場所とかは大分考えましたが。
―ええ、心に染みました。
森岡:この作品は、見る人によって感情移入する対象が違うようですね。どうしても見る人の状況に近い人に共感をもって見てくださる。僕だと、年齢や立場が似ているシングルファザーの男性なのですが。

―私は二人の女性の気持ちがよく解かりました。ご主人の遺体情報を求めに日参する方の、「遺体が見つかったと言われなくて安心し、そうかと言って、こんなに時間が経ったんだから、早く見つけて供養してあげたいという気持ちもあります」という言葉に納得しました。厳しい現実を受け入れるのはなかなかできないことです。悲しみの中でも、精一杯平常心を保とうと、お洒落して通う姿も、本当言ってそれがちょっと過剰で、(この人は今バランスを欠いているなあ。身をつくろう事で、今の状況を拒否しているんだなあ)と、痛々しさになりました。取り乱さずに何とか平常心を保とうとする男性は、心の中で泣いているのでしょうが、女性は、どちらの行動にしろ、心の中のうつろさが零れて、身につまされました。
井本:そういう風に見ていただけると、作り手冥利に尽きます。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く>

この作品は、10月6日から第七芸術劇場(06-6302-2073)、
      10月13日からポレポレ東中野
      10月20日から神戸アートビレッジセンター、
      11月10日から京都シネマ にて公開

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