太秦からの映画便り

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映写室「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」大宮浩一監督インタビュー

映写室「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」大宮浩一監督インタビュー   
―命の踊り―

 伝説のフラメンコダンサー・長嶺ヤス子。日本から世界に躍り出たアーティストの先駆けだ。この頃噂を聞かないけれど、それは世界を舞台にしているからで、日本にご無沙汰なんだと思っていた。この方にはそういうスケールの大きさを感じる。介護保険制度に一石を投じる、数々の名作を作ってきた大宮浩一監督が、今回は一転して、孤高の舞姫の素顔に迫ります。制作秘話を伺いました。

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©大宮映像製作所

<その前に、「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」とはこんな作品> 
震災直後の、節電で薄暗い病院に、白いガウンを着た長嶺ヤス子がいる。直腸癌で闘病中だった。しかし表情は明るい。毎年開く個展が近いと、ベッドの周りに絵を広げている。術後3週間でダンスも再開した。「エルフラメンコ」の舞台が近いのだ。当日、カスタネットと三味線を融合させた、魂の踊りに観客が熱狂する。一転して、犬や猫の世話をする穏やかな長嶺。彼女は福島の猪苗代に家を借り、沢山の動物の世話をしている。

<大宮浩一監督インタビュー>
―凄い方ですね。全てに圧倒されました。長嶺さんを撮ろうと思われたきっかけは?
大宮浩一監督(以下敬称略):この頃の若い人にはなじみが薄いようですが、ダンサーとしてだけでなく、犬や猫の問題で騒がれたこともあったので、お名前は存じ上げていました。不思議な人だなあという思いがどこかにあったのでしょうね。震災の直後に、長嶺さんが入院したと聞き、お見舞いに行って、その途中で「ドキュメンタリーを撮らせてください」とお願いしたんです。僕らがお見舞いに行くというのは、単なるお見舞いではなく、もう撮影を頼もうというところまで思っているわけですが、いいですよとあっさり言われて、撮影を始めました。というか、その時に話が弾んで色々広がりそうだったので、そういうのは映画の中で使いたいと、話を中断しました。同じ話を何度も聞くと観客に分かりますからね。撮影する側にも初めて聞く驚きが必要なんです。冒頭のシーンは、まだお会いしてから2回目くらいじゃあないかなあ。
―え、ずいぶん慣れているように感じましたが? 
大宮:長嶺さんの人柄ですよ。最初からあんな感じでした。

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©大宮映像製作所

―なるほど。ところで、長嶺さんの口から核心を突く刺激的な言葉が続きます。
大宮:ドキッとしますよね。あれはすべて、ご自分から淡々と言われた台詞です。「どうして撮るかなんて、撮ってみたらわかるわよ。それは私だけじゃあなくて、私を見て映すものであって、私自身じゃあないかもよ。あなたの感じる私を、結局表現するんだと思うの。私そのものじゃあなくて、きっと」
―ここまで言われたら、自分の長嶺さんを撮るぞと、腹を括るしかありませんね。
大宮:そうなんです。実際そうですしね。いくら素顔に迫ったところで、僕に見える素顔は、僕の心と響きあった部分の長嶺さんですから。それが表現するということだと思う。若輩者の僕を、おなじ表現者として、対等に見てくれている。それに感動しました。

―震災の直後で、気の毒、可哀想とあちこちでボランティアが立ち上がる中、「可哀想な人は今までもいた。震災後に急にそんなことを言うなんて罪よね」とさらりと言ってのけるのにも、ドキッとします。大宮:当時は、ドキッとだけでなく、(なんじゃこの人は!)と、思いました。皆の気持ちに水をさすのかと。それに僕も被災地のドキュメンタリーを撮ったりしていますからね。自分に言われたようにも思いました。編集の段階でもこの言葉を残すかどうか迷いましたが、時間が経ってみると、なるほどと思わされたんです。あれほどいたボランティアは、潮が引くようにいなくなったし、まだ困難の続く被災地を僕らは忘れがちです。(皆で何とかしなくちゃあ! 手助けをしたい!)という、震災直後の熱い熱は消えてしまいました。でも、長嶺さんは、当時も今も変わらず、動物たちを助け、一緒に暮らしている。(そういうことだったのか、変わらないのはこの人だけだなあ)と、あの時の言葉が重みを増してきました。誤解を招きかねない言葉なので、もっと前の編集なら、使わなかったかもしれないけれど、今ならしっくり来るんです。他の人ではない、長嶺さんだからこそ説得力を持つ言葉です。

―自分が平時からやってるからこそ、言えると。ところで、実際の長嶺さんはどんな方でしたか?
大宮:漠然と強い人だと思っていましたが、穏やかな人でした。そしてどんな時もしっかり前を向き、顔を上げている人です。震災直後で、皆が俯いている時期でしたが、彼女だけは変わってなかった。この人を見ていたら、僕らももう一度元気を取り戻せるのではと思いました。それも長嶺さんのドキュメンタリーを撮った理由の一つです。
―いつも平常心ということでしょうか。それに言葉が哲学的で、核心を突き、一つ一つ心に響きます。自分にも厳しく、「絵はこう描いたら売れるだろうなと思って描くから、ペンキ屋さんと一緒」とか、「もう踊りでやりたいことは無いの。やり尽くしたと思っている」とか。ドキッとします。
大宮:そんなことを言えば、僕ら映画やだって、観客の受けを計算しないわけではない。観客におもねた物も作れるわけです。自分はどうなんだと考えました。長嶺さんの言葉は、色々な人の心に突き刺さりますよ。

―字幕で流れる言葉も深くて感動しました。
大宮:あれは全部、長嶺さんの著書から取ったものです。色々な本から取るとややこしくなるので、出典は「炎のように火のように」の1冊からにしました。
―男性関係も含めて、お若い頃は激しい生き方でした。そういう生き方で身に着けた、人生哲学をお持ちなのですね。それに、長嶺さんの踊りは魂や命そのもの。まるで何かが乗り移ったかのようですし、自分の命を注ぐように踊られて圧倒されました。
大宮:あの踊りには圧倒されますよね。それを映すのもこの作品の目的でした。
―「フラメンコって綺麗なものじゃあないのよ。きれいな衣装の下の醜いものなの。私の描く絵はフラメンコのそこを描くから、誰にも描けないものになっていると思うわ」という言葉もその通りで、フラメンコを踊る女性は衣装を着けずに、裸体です。確かに、着衣の隣のものより、心惹かれます。
大宮:公演の度に赤字になっても、舞台には最善を求める。フラメンコにかける思いには計り知れないものがありますよ。

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©大宮映像製作所

―「裸足のフラメンコ」という、題名の意味は?
大宮:まだ若い頃、スペインで、日本人の癖に物まねをするなといわれて、長嶺さんは靴を脱ぎ裸足で踊ります。これをきっかけに長嶺さん独自のフラメンコが確立され、向こうでも認められました。当時はフラメンコといえば、スペインでもジプシーのものだったのです。裸足は長嶺さんのトレードマークにもなり、ドレスを着たときは靴を履きますが、着物を着た和物の時は裸足で踊ります。そういうことだけでなく、生の長嶺さんという意味も込めました。
―チラッと映った長嶺さんの足は、ひどい外反母趾。長年ヒールを履いて踊り続けてきた人だなあと思いました。
大宮:一瞬のそういうシーンをちゃんと見てくださって嬉しいです。

―え、でも狙ったシーンでしょう?
大宮:そうです。長嶺さんの足を映したいんだけど、あからさまにそうも言えない。そういう映像は解りますしね。で、チャンスが無いかなあと、待っていたら、靴下を履きかえるというんです。きたっと思いました。
―そんな素顔の長峯さんがいっぱい映っていますね。東京で、ハチという犬の看病のために、一人暮らしの方の家に泊まりこむ長嶺さん。点滴を打つ姿も自然です。猪苗代の家で、犬や猫をそれぞれの名前で呼び、抱きかかえる長嶺さんも、とても自然でした。口先だけではない動物たちとの共存の暮らしを見た思いです。
大宮:下手な獣医さんより上手いかもと思わせるほど手馴れたものでしたね。楽品もいっぱいそろっていてまるで病院ですよ。動物の面倒を見ているうちに、いつの間にかそうなったのでしょうね。犬や猫を保護しているけれど、長嶺さんも動物たちから、多くの物を貰っているのだと思います。いとおしそうに動物たちを見つめていますからね。か弱いものの命、それが結集して舞台では魂が乗り移ったような踊りになります。そして舞台から降りた一転して穏やかな顔の長嶺さん。どちらも長嶺さんなんです。自分のことにはお金を使わない人で、服も全てもらい物。いっつも同じ服を着ていますよ。
―でも、そういいながら普段はピンク系のラブリーなもの。イヤリング等こだわりを感じました。ところで、ご本人はこの作品を見てなんといわれましたか?
大宮:私ってこんないい人じゃあないのに、いい人に映っていると、言われました。え、充分嫌な長嶺さんも映しているよ?と思いましたが。自宅だとか、もっと映したいところもありましたが、僕らは可能な中で長嶺さんを作りました。映っていない部分も含めて、それが長嶺さんということかなあと思います。(聞き手:犬塚芳美)

<作品の感想とインタビュー後記:犬塚> 
普段はちっとも踊らないとご本人が言いますが、ドレスを着た長嶺さんの背中は、くっきりと背骨が通った、まさにアスリートの若い背中です。普段鍛えていないはずがありません。とても実年齢には見えない。プロのダンサーなら普段のレッスンは当たり前、そういう姿を見せたくないのだと思います。素顔を映しているようで、これは長嶺さんの見せたかった長嶺ヤスコ像かも。それに気づきながら、こう見せたいと思う姿こそが長嶺ヤスコだと、大宮監督は思ったのではないでしょうか。透けて見えそうで見えないもの、世界の舞姫はやはり舞台で見なくては!

この作品は、5月4日から第七芸術劇場、
6月1日から神戸アートビレッジセンター、順次京都シネマ にて公開
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映写室「桜並木の満開の下に」船橋淳監督インタビュー

映写室「桜並木の満開の下に」船橋淳監督インタビュー   

―震災後の皆が抱える心の暗さ―  

今年の桜は不思議でした。関東では早々に満開を迎え、遅れて開いた関西では、満開と時を同じくして、台風並みの雨と風。桜はあっけなく散っていきました。この物語の舞台の今年はどうでしょう? そんなことが気になるような、日立市が誇る素晴らしい桜並木が、映像の中に広がります。現実への桜への心残りをこの作品の中に探してみてください。満開の桜の下で何があったのか等々、制作秘話を船橋淳監督に伺いました。

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<その前に「桜並木の満開の下に」とはこんなお話> 
茨城県日立市の小さな町工場で働く栞(臼田あさ美)は、同僚の研次と結婚したばかりだ。そんな幸せの絶頂に、研次が仕事中の事故で死亡する。事故を起こした工(三浦貴大)が謝罪するが、栞は受け入れられない。しかし工場の建て直しに必死で働く工の姿が、彼女の心を溶かしていく。1年が過ぎ、工が工場をやめることになった。理由を聞くと・・・。


<船橋淳監督インタビュー>
―この作品は、日立市の支援で作られたものですね。
船橋淳監督(以下敬称略):ええ、そうです。日立市は平成20年度から、地元のPRとイメージアップを狙って、映画制作を支援する事業を行っているのですが、その公募に脚本を出して選ばれたというわけです。ところが撮影に入ろうとしていた矢先に、3・11が起こって、映画制作どころではなくなった。茨城県の被害も大きく、福島から避難してくる人たちもいましたから。キャスティングも決まっていたのに、一度中止になりました。映画の製作は実際の撮影の前に、かなりの資金を使っています。それがパアになるわけで、おまけに制作に予定していた2,3ヶ月が空白になって、何もすることが無い。鬱々とした日を送りました。ところが、少し落ち着いた夏頃に、あの映画の制作をやろうと、日立市のほうが言って下さったんです。予算のかなりを使っていたので、資金的にももう無理と、一度は断ったのですが、その話をオフィス北野の市川さんに話したら、お金を出していただけることになりました。あの震災で、この街や日本の状況は大きく変わってしまいました。工場も被災したし、親会社も被災しましたから。で、もう一度脚本を練り直し、キャスティングも1からやり直して、作ったというわけです。

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©2012 『桜並木の満開の下に』製作委員会

―震災後に大きく変わったところは?
船橋:やはり、さらに深まった暗さや不安感ですね。今、アベノミクスで景気が上向いているといわれますが、この物語は、3.11の震災の後の、日本中が暗く沈んでいた頃の物語です。日立の企業城下町の日立市には、関連の中小企業がたくさんあります。これらが震災で大打撃を受けました。そういう実際の被害だけでなく、原発の影響を恐れる風評被害も大きく、技術者や医者が、東京からこちらに派遣されるというと、赴任を拒否するという現象もあったようです。これでは物事が回っていかない。もともとの不況が震災後にさらに深まり、これからどうなるのだろうという不安感が街に漂っていました。仕事を求め、安全を求めて、若者は街を離れていきます。そう中での若者たちの物語を作りました。日立市はある意味で日本のどこにでもある地方都市の苦悩を抱えた町です。状況が変わったのかどうか、実体経済にはまだ反映がみられない中、身につまされる地方の方も多いのではないでしょうか。

―そういう震災の爪痕は、映画の中でどのように描かれていますか?
船橋:津波で抉られた海岸とか、あくまで物語の背景として描いています。というのも、今まさに長期化しようとている震災後の現場を、フィクションで捉えるのは、事の本質を遠ざけるような気がしたからです。フィクションはある程度距離をとらないとできませんが、爪痕が生々しい現実でありすぎて。工場にしても追い詰められていました。
―日立市にしても、この映画をきっかけに、そう言う所から脱却したかったわけですね。この作品のトーンは暗いけれど、暗さの中の希望というのか、未来に向かって風穴が開いていますから。小さな明かりがとても大切に思えました。
船橋:そう言ってくださると嬉しいです。それに日立市の方の思いは、まさにそうだと思います。撮影中は市民の皆さんがエキストラで出てくださったり、炊き出しをしてくださったりと、市を上げての全面的なバックアップがありました。又、映画に出てくる工場も、実際に稼動している工場で、こういう作品にもかかわらず、快く撮影させていただけ、作品のリアリティになっています。桜並木も、通常のライトアップ時間を延長してくださったり、色々便宜を図っていただけました。

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©2012 『桜並木の満開の下に』製作委員会

―主演の二人が素敵ですね。キャスティングはどうやって?
船橋:この映画制作支援プロジェクトの条件は、日立市で撮るということと、市内の桜の名所を映して欲しいということ。町おこしにこの街の桜を使って欲しいということです。だから撮影時期は桜の咲く時と限られていますし、物理的にはその期間にあいている人ということになりますが、この二人に巡り会えたのは幸運でした。二人とも目がいいんです。鬱々とした中で、色々考えているなあという、内面を感じさせます。ヒロイン役の臼田あさ美さんは役に体当たりで、複雑な感情に揺れ動く難しい役ですが、すべての自分の感情を作品にぶつけてくださいました。役作りが難しいので二人で色々ディスカッションしましたね。憎しみが愛情に変わっていく過程が肝心なので、僕のほうで意図的に、主演二人を会さないようにしました。撮影にあわせて距離を縮めていったわけです。三浦貴大さんは、お父さんに似たのかお母さんに似たのか、本当に好青年です。折り目正しくてスタッフからも好かれていました。

―二人の古風な雰囲気もあるのか、この作品を見ながら「キューポラのある町」を思い出しました。あの作品では、機械化されて熟練工が要らなくなるのですが、コンピューター技術が入った現代でも熟練工が必要なのですか?
船橋:工場は機械化されていますが、映画に出てくる過程は些細な調節や機械の使い方に、センスや熟練が要求されるようです。ここまで機械化されても、まだまだ本当の意味での熟練工は必要なのです。又、この作品は、古い時代をイメージしながら作りました。失われていく大事な何か、主人公二人のもっているそういうものが、もう一つのテーマになっています。

―今後の作品の構想がありましたら。
船橋:僕は多くのドキュメンタリーを作ってきました。ドキュメンタリーを撮っていると、心の変化に興味が行きます。どうしてもそこを追ってしまう。そして、時々テレビのサスペンスドラマの演出をさせてもらったりもします。これも又、理不尽な出来事やありえない関係がテーマになることが多い。この作品のように、自分の愛する人を殺した相手を好きになるとかです。そういう人間の心の複雑な変化を、描けたらと思います。(聞き手:犬塚芳美)


《作品の感想とインタビュー後記:犬塚》
<最初の方に、「桜の花は迷いの花、蕾の中でいつ咲こうかと咲き時を探っている」>といった意味のせりふが出てきます。監督のオリジナルだそうですが、このせりふで、一気に、この作品の独特の視点に惹かれました。監督の仰る様に、主演二人の物言う瞳も、この作品の文学性を深くしているのでしょう。桜並木にしても、明るいだけではない、心を惑わすような儚い美しさが映っています。迷うのは桜だけではない、見る者の心なのでしょう。

 <ところで、この二人の終盤の関係は>観客に委ねられています。いくつかの暗示的な映像はありますが、決定的なものはありません。「本当はどうだったと思われますか」という監督からの逆取材に、記者からは「そういう関係があった」という意見が続き、私だけが「添い寝をしただけで、そういう意味の関係は無かった」と。それぞれのそう思う理由を重ねて監督から聞かれ、それぞれの理由を言うと、「どちらにも取れるよう観客に委ねてはいるけれど、僕なりの答えは随所にちりばめています」との事でした。う~ん、もう一度そのそれぞれを確認してみたい。ちなみに私の答えは、「まずは体ではなく心、お互いのぬくもりを求めたように思う」でした。
 <その時はこんな答えでしたが>、帰りの電車の中でもっと明確な答えが浮かびました。それは「そぐにはそうならない二人の人格を、それまでに映像の中で監督が作っていたから」です。さあ、正解はどれでしょう? 二人の心模様に焦点を合わせ、監督のちりばめたものに目配せしながら、映画館で「桜並木の満開の下」を歩いてみて下さい。

船橋淳監督は、この作品で、4作品連続ベルリン映画祭招待の快挙を成し遂げました。

●公式サイト  http://www.office-kitano.co.jp/sakura/

この作品は、4月13日からテアトル梅田、京都シネマにて公開

映写室「先祖になる」上映案内

映写室「先祖になる」上映案内
―岩手県陸前高田市のもう一つの物語― 

 中国残留日本兵の悲劇を描いて大ヒットした「蟻の兵隊」の池谷薫監督が、震災から一月後の陸前高田市を舞台に、もう一人の魅力的な老人にスポットを当てました。前作に続いて、私達はそこに、頑固で筋の通った一人の男の生き様を見せ付けられます。まさに、ディスカバージャパン! いつも間にか映画は、震災を超えて、一人の人間の生き様を追うのでした。

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 <陸前高田市は>、津波が押し寄せる市庁舎で、最後まで避難勧告を放送し続けた若い女性職員の物語で有名になったところです。テレビでも当時多くの映像が放映されたし、毎日放送のドキュメンタリー映画、「生き抜く」もここが舞台でした。

 <そして、この作品が映すのは>、同じ町ながらもっと山沿いの集落。主人公は農林業を営み、仲間から“親分“と慕われる、80歳を目前とした佐藤直志さんです。直志さんの家も2階の床まで浸水しました。でも倒れることは無かった。気仙大工の力だと直志は誇ります。しかし、消防団員の長男は、老婆を背負ったまま津波に飲み込まれました。

 <最初は息子さんの遺体の捜索>が目的だったのでしょう。皆が避難所に行く中、奥さんとお嫁さんの3人で、不便な自宅に住み続けた直志さん。市役所の職員が、避難所に行こうと誘いに来ても動く事はありません。避難所では炊き出しがあります。ずいぶん楽なのに、薪を拾って、塩水に使った米を川で洗い、煮炊きしながら「あんなところに行くと貰い癖ができる。ここに残って自分の力で生きる」と言うのです。きこりなので、今までも山に篭ればいつも自給自足。人間は水と火と木があれば、何とか生きていけるという自説を、実践するような暮らしでした。

 <時は移り>、妻も嫁も仮設住宅に移りますが、直志さんは一人瓦礫の中の一軒家に住み続けます。毎日仏壇に供えるお茶と祈り。そして、決心する。もう一度ここに家を建てよう。皆がいつの日かこの町に戻ってくるよう、自分が先陣を切ろうと。

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 <直志さんは山に入っては>、この木はあそこに、この木はあそこの柱にと、木の特質を見ては決めていく。その姿はまるで後を託す若者に、技術を教える過程のようでもありました。
復興は遅々として進みません。役所と掛け合い、しぶしぶながら建築を承諾させ、やがて、まだ回り中が震災の跡地の中で、木の香も新しい家が完成しました。この家でも毎朝、淡々とご先祖様にお茶を備える直志さん。津波で家を流されても、この老人の生き方は以前のままでした。
「家が流されたら又建てればいい。この地で自分たちは先祖になる」とは、なんと淡々とした、しかし覚悟のある言葉でしょう。

 <昔、福島に住んだことのある池谷監督は>、震災後に何かをせずには居れず、支援物質を運びます。そこで運命的に出会ったのが佐藤直志さんでした。一目で惹かれ、映画監督の自分に出来るのはカメラを回すことではないかと気づき、直志さんを追いかけ始めたのです。
直志さんも又、この生き様を見よという風に、池谷監督に自身をさらし続けます。きこりとしての技術の伝承の意味もあったのかもしれません。枯れながら色っぽい直志さん、癌に侵されている80歳近くのこの老人には、私利私欲は見えない。飄々とこの地の先祖になる覚悟を示し、後に続く若者の心を揺さぶるのです。

 <池谷監督は>、「僕はドキュメンタリーといっても仕掛けていくタイプだけれど、今回はそういう気になれなかった。被災地でそういうことが許されないというのもあるけれど、それ以上に佐藤さんが僕の予想を超えていたのです。よくこういう人に巡り会えたなあと色々な人から言われるけれど、長い間こういう仕事をやっていると勘が働く。僕の作家性でもあるし、出会わされたのかもしれません。支援物質を届けた時、今度お花見をやると聞かされて、こういう時でも、そういう毎年の楽しみを続ける人たちに興味を持って参加したら、佐藤さんがいました。又、佐藤さんを支える一世代下の菅野さんとも巡り会ったんです。二人に出会ってすぐ、この人たちを撮りたいと思いました。

 <佐藤さんは被害者ではなく>、生活者の俺を撮れという風に、自分の行動の予定を教えてくれました。佐藤さんの中には、私たちが無くした何かがあります。懐かしさを覚えるのはなぜだろうと思いながらカメラを回しました。この地の先祖代々の営みが生きる知恵となって、こういう状況でも立ち向かえる佐藤さんたちを作ったのでしょう。

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 <自宅の再建に使った木は全て杉で>、塩水に浸かったため、もう切り倒すしかなく、用途もチップスにしかならないといわれたものです。でも佐藤さんは、長年の経験から、いや、まだこの木は建材として使えると感じた。それを実践したかったのもあるのでしょう。きこりとして木の命を全うさせたかったんだと思います。根元にまたがって木のねじれを見ながらどこに使うか決めていく。そういうのを若い人たちが食い入るように見ていました。年代の離れた両者に、もともとここまでの結束があったのかどうかはわかりませんが、きっかけはお祭りでした。例年通りお祭りをやろうということになり、木の切り出しや藤の枝の細工で、若い人が佐藤さんの知恵を目のあたりにします。地元の組織が消えていく中、佐藤さんの思いが乗り移ったかのように地域の再生を口に出す若者たち、感動的でした。

 <そうは言っても>子供の学校の問題等があって、若い世代がすぐにここに帰ってくるのは難しい。この後で、菅野さんも家を建てたりと、数軒が再建されましたが、まだこの地域はがらんとしています。町の再興には、文字通り「先祖になる」覚悟の長い時間が必要かと思います。それでもも、佐藤さんも菅野さんも淡々と諦めないんだろうなあ。この地域は昔から出稼ぎの村で、田舎ながら進取の気質に富んだ特別な人々の集団だったのだそうです。そういうこの土地の伝統の力もあるんでしょうねえ」(聞き手:犬塚芳美)

*この作品は、第37回香港国際映画祭・ドキュメンタリー・コンベティション部門で、最高賞のファイアーバード賞を受賞しました。 

 4月6日より、第七芸術劇場、京都シネマで上映中、
  5月4日から元町映画館で上映。

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