太秦からの映画便り

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映写室「長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語」の馮艶(フォン・イェン)監督インタビュー(後編)

映写室「長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語」の馮艶(フォン・イェン)監督インタビュー(後編)

―日本のベテラン音響マンとの出会い―

<昨日の続き>
―何だか可愛いですね。
馮艶:この作品、最初はダムの問題に興味があって撮り始めました。でもそうするうちに秉愛に魅せられる。三峡ダムに関して、経済問題や環境破壊等の社会的な視点から色々な作品が作られていますが、人間を描いた物はない。住んでいた人々はどうなのと思っていたんです。最初は格差のある色々な人のコントラストから社会問題を焙り出そうと思いましたが、一人の人間を深く描くことで、彼女の中の普遍性にたどり着けると気付いた。秉愛が身の上話を始めたときに思ったのは、彼女の背負っているのは個人史だけれど、この時代を生きたすべての人が背負ったもの、社会の歴史そのものでもあると言うことです。

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この作品の主人公は秉愛だけれど、同時に、同時代を生きた人全体の物語にもなっていると思います。アメリカで編集していた時、私の気分のアップダウンが激しくて、それを見たある人が、「馮艶はこれで自分を見ているんだよ」と言って、(あ、確かにそうだ。これは自分の物語なのだ)と気付きました。都会暮らしと農村と私たちの形態は違うけれど、私にとっても生きがいは彼女と同じように子供だったり家族だったり、親や仕事だったりする。私もやりたい事があるから頑張ってこれた。自分の大切な物を守ろうと一生懸命な彼女の姿に、共通な思いを見て感動したのだと思います。

―ラストシーンはその秉愛の移ったテントを映さず、字幕だけで処理していますが。
馮艶:それについては色々な方から質問されました。この作品について欲求不満になったと言われたところでもあります。でも一つの問題の初めと終わりを紹介すると、映画自体もそこで完結してしまう。最後のシーンは特にインパクトが強いので、それを入れると秉愛がこの問題の象徴のようになって、現実への怒りになってしまうと考え、敢えていれなかったのです。取っ掛かりは三峡ダムだけれど、描きたかったのはその中で生きている秉愛の事。ダムによって彼女の人生は翻弄されましたが、それも彼女の人生の一時でしかありません。これで終わらずまだまだ続いてきますから。ただ水位が上がって長江の風景は変わりました。以前は霧が尖った山々にたなびいて、下に行くと澄んだ河が流れて、伝統的な古い家々がありましたが、今はお水のせいでしょっちゅう下まで霧がかかり何にも見えない。しかもトイレのような白いタイルの家ばかりになりました。もっとも住む人たちはそのほうが住みやすいのかもしれませんが、政府が外観は古い形を奨励し中を近代的にするとか、景観の維持に力を注げばよかったのにと残念です。

―日本公開の前に、多くの映画音響を担当した菊池信之さんが参加していますが。
馮艶:山形の映画祭で上映された時、映像は良いけれど音がちょっときついと言われたんです。でも菊池さんは、私のような形の、沢山機材を持っていって撮るんじゃあないものにそれを求めると、逆に映画の世界を狭める。現場にある音、どんなことを伝えたいかによって音は違ってくる。綺麗な音だからと言って良い訳ではないと言って下さいました。私には音についての発想がなかったんですが、菊池さんは音を映像と独立したもう一つの物語だと考えるんです。で良かったらと、そこを担当してくださることになって、菊池さんの参加でこの作品が格段に良くなりました。特に最後のシーンは、羊の鳴き声や人の足音と、自然にとった水没した村の生活の音が被さって、字幕だけでは説明し切れなかったあのシーンが深くなりました。音で生活の匂いをつけることが出来たんです。

―この作品は、監督の手による訳書もある小川紳介さんの名前の付いた「小川紳介賞」を取りましたね。
馮艶:私が映画を撮り始めたのは、アジアプレスの人たちに山形映画祭に連れて行かれたのがきっかけです。その人は、日本に紹介されるアジアの映像は、地元の人の視点ではなく日本人の視点を通したものになっている。アジアの人を育てて、本当のアジアの声を日本で伝えたいと考えていました。だから私にも声をかけて下さったのですが、そこで小川伸介さんの劇映画のように楽しい作品に出会い、ドキュメンタリーの面白さに目覚めました。で、カメラの使い方を教わり、小川伸介さんの「映画を獲る―ドキュメンタリーの至福を求めて」を翻訳したりして、それはドキュメンタリーの撮り方ではなく、ドキュメンタリーを撮るのが如何に面白いかを主に描いているので、いっそうドキュメンタリーを撮ってみたくなった。これまで人間を撮ってきて、面白いのは被写体との緊張関係です。関係性を作りながら撮っていて、撮っている間にそれが変わっていくのが面白い。この作品で言うと、私は秉愛に寄り添っただけだった。彼女が大変な時私は何もして上げられなかったけれど、カメラを持った私が側にいた事で、孤立しがちな彼女をいくらか慰め、幹部からの強制撤去を阻止できたかもしれません。クールに現状を映すカメラにはそんな力もありますね。

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―ところで今監督は。
馮艶:別の作品になりますが、秉愛のその後も撮り続けていて、其処には彼女の娘も出てきます。娘は現代っ子のヤンキーで、彼女が又面白いんですよ。若いのに同棲したりして、一時は厳格な秉愛と険悪でした。娘は娘で、お母さんの生き方に批判的なの。お醤油も買えないほど貧乏で苦労したのは、母親が頑固なせいだと思っていて、自分はもっと良い人生を送りたい、楽しく暮らしたいと言っている。秉愛の家庭でも時代はゆっくりと回りつつありますね。

―お嬢さんの気持ちも解るような気がします。監督は秉愛についてどう思われますか。
馮艶:偉いなあと思います。
―私も偉いと思うのですが、偉いには自分にはできないと言うニュアンスもあります。
馮艶:そうなの、私にも出来ません。彼女はとにかく働きずめで、それも強制される訳でも無い自分で決めた畑仕事を、一時の休みもなく続ける。少し休んだらとか、もう少し楽をしてもいいのにとよく思いました。でもそれをしないのが彼女。山の上の貧しい村から嫁いできて、誇り高く生きてきた彼女の矜持なのです。頑固だからこそ貫けたのでしょう。

―監督は他の人の人生を描きながら、実はその人生に共鳴したご自分の人生を描いてらっしゃるのかもしれない。ドキュメンタリーと言う手法で他の誰かの人生を借りて、雄弁に自分を語り始めたとも言えますね。ところでドキュメンタリーの枠からはみ出した創作についてはどうでしょうか。
馮艶:初の長編作品「長江の夢」、本作、今編集中の「長江の女たち」と三峡ダムに絡んだドキュメンタリーを3本作りました。この後は自分の両親の話で撮りたい物があります。半分は死んでいる人の話なので、再現と言う形で劇映画が入るかもしれません。どちらにしても、誰かの人生を描く事になるのですが、そこにドキュメンタリーと劇映画の区別はないですね。幼い頃に興味を持ったのは小説の中の誰かの人生でした。そういう意味では、今も人間、誰かの人生に興味を持ち続けていることになります。(聞き手:犬塚芳美)

  この作品は、この作品は、3月28日(土)より第七藝術劇場で上映
       4月京都シネマで上映予定


<インタビュー後記:犬塚>
 日本に所縁の深い方で、馮艶さんが今翻訳中なのは、私にとってもバイブルのような、あの佐藤真さんの「ドキュメンタリーの地平」なのだとか。中国語への翻訳許可を貰った3日後に佐藤さんの訃報が届いたと顔を曇らせる馮艶さんと、佐藤さんの素晴らしさ、佐藤さんのドキュメンタリー論の深さを力説し合いました。映画制作で人生を追体験できるのが役得だと微笑んだ馮艶さんのように、こうしてお話を伺い刺激と共振の中に放り込まれるのが、インタビューアーの役得だと思える出会いです。はにかんだ笑顔が素敵でした。

馮艶(フォン・イェン)監督
 1962年天津生まれ。天津の大学で日本文学を学んだ後、1988年から13年間日本に滞在し、京都大学大学院博士課程で農業経済学を学ぶ。初長編作品は「長江の夢」(97)。2002年に帰国後は北京・天津を拠点に活躍し、日中ドキュメンタリー映画交流の要となっている。訳書に「映画を穫る―ドキュメンタリーの至福を求めて」(小川紳介)や「ゆきゆきて、神軍」(原一男)等。夫と娘の3人家族。

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journalist-net | 2009年03月27日(Fri) 08:57


 
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