太秦からの映画便り

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映写室 新NO.1 ベルサイユの子

映写室 新NO.1 ベルサイユの子 
   ―ベルサイユ宮殿の森に住む男と子供―

 格差社会が進んで今多くの都市で、野宿者が溢れている。彼らを守ろうと色々な団体が活動するが野宿からの救済は難しい。不況で仕事を無くしやむなく路上で暮らす人もいるけれど、路上に自由を求めるタイプもいる。良かれと思う手助けがうるさがられることもあるのだ。この物語の主人公もそんな男だといえば、フランスの物語がぐっと身近になってくるだろう。それにしても、どちらのタイプも以前はこんなにはいなかった。好んで路上で暮すにしても、日毎に窮屈になっていく社会の仕組みがあるのかもしれない。

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(C)Les Films Pelleas 2008

 <物語はこうだ> 幼い息子をつれた若い女は家や定職がなくて、ある夜は街の物陰である夜は支援センターに保護されて眠る。ゴミ箱を漁って二人で飢えをしのいだ朝、「失業は宿命ではない。求める仕事がここにある」と呼びかける新聞記事を見つけ、ポケットにしまう。はぐれた息子を探すと、ベルサイユの森で暮らす男の小屋にいた。問わず語りの身の上話、進められるままに焚き火に当たり食事をし肌を重ねた翌日、女は息子を残して姿を消す。

 <このあたりの女の無防備さや男のぶっきらぼうさ等>、はらはらしながら見ることになる。攻撃的でなくても大人らしくない二人の無鉄砲さは反社会的、すぐ隣に危険がありそうで、カンヌで大絶賛されたという子供役の少年の可愛さと澄んだ瞳だけが救いだった。
 まだ自分が守られないといけないような母親や男に、彼を守る為に生活を変えさせる位だから、観客の心も鷲摑み、無垢な天使のようだ。だからもちろん、女は子供を捨てたわけではない。二人一緒だといつまでもこのまま、働いてちゃんと暮らせるようになるまで、男に預けたつもりなのだ。

 <学歴の無い女は今までちゃんとした仕事に>付けなかった。親も助けてくれないという話も、貧困の連鎖そのもので辛いが、新聞記事と息子を託せる男との出会いで、ホームレスから脱却しようと努力を始めたわけだ。新しい仕事は老人介護。慣れない仕事に必死で取り組み、そこに自分の居場所をみつける。老人から感謝されて介護するほうが癒されるというのも実際にありそうだ。フランスも老人が多い。しかも介護職は大変だから、再チャレンジのチャンスがある分野だろうと、このあたりも日本と一緒で、今のフランスの社会情勢を自分に引き寄せてしまう。

 <森で暮すホームレスの事情は色々でも>、共通するのは誰もが自分から好んでここに住んでいること。社会に留まりたいのに仕方なくホームレスに追い込まれた女と違って、煩雑な社会や人間関係を嫌い自ら世間を捨て、粗末な小屋でもここに自分の居場所を見つけた人々だ。この男にしても助けてくれる親やちゃんとした家がある。
 昔ヒッピーのコミューンがあったけれど、似ているようで少し違うのは、それぞれが独りが好きな事。社会が嫌いな人々が、嫌いな人同士で、近づき過ぎないように助け合って暮している社会だ。

versailles_sub1.jpg
(C)Les Films Pelleas 2008

 <それでも苛酷な環境から突然命を落とす>者もいるし、放火されたり(こんな話が日本でもあった)、残り物を漁れない様に薬剤を撒かれたりとホームレスへの社会の目は厳しい。(どうしてだ!何か俺らが悪い事をしているか!)という男の怒りが聞こえてきそうだけれど、人は自分と違う考え方が理解できないもの、路上に暮して自分たちと違う何かを求める彼らを見逃せないのだ。そういう私だって、スクリーンの中の男の目が何処に向っているのか解らなくて怖かった。これが遺作となった、まさにはまり役のギョ―ム・ドバルヂューの名演、惹かれながらも彼の中の反社会性に怯えてしまう。

 <不本意ながら子供の面倒を見ることなった男は>、自分を頼りにする存在を得て少しずつ変わって行く。子供の為に疎遠だった実家に戻り、まじめに働いて学校にも行かせる。でもそんな、自分らしくない事がいつまでも続くわけが無い。男は根っからの反社会生活者、いくら家があっても自宅をねぐらにすることなど出来ない性分なのだ。子供を父親に託して家を後にする男の姿がやるせない。温かいベッドや学校に馴染めず「いつ森に帰るの」と尋ねた子供だって同じこと。この先彼が、普通の社会生活が送れるのだろうか、大人になった時如何するのだろうと、悲しい生活習慣の連鎖を考えてしまう。いけない、これも自分の物差しだ。彼らは普通の社会は窮屈で、息が詰まるのだ。私だって一晩外で寝れば別の世界が見えるかもしれない。何時の日か路上に寝てみたいと誘惑に駆られる。

 <昔京都に「河原町のジュリー」と呼ばれる>ホームレスがいた。長い髪は垢でこてこてに固まってまるで彫刻のようだったし、体も服も汚れて限りなく黒。でもそんな姿を悪びれることもなく人ごみの中堂々と河原町を闊歩していた。BALの前で英字新聞を読んでいたとか、元は哲学専攻だったのに路上で暮らしているのだとか、若者の間で都市伝説はどんどん広がっていったものだ。前を見ながらもっと遠くを見ているような雰囲気、何処で眠っていたのだろう。
 これを観終えた私は、ベルサイユ宮殿よりももっとリアルに、森の中の男や子供や女が思い浮かぶ。監督が描きたかったのが、そんな普通に暮らせない人々の心理なのは間違いない。あからさまな答えの無いのが余計に心に染みる作品だ。(犬塚芳美)

 この作品は5月23日(土)よりテアトル梅田で上映中、
   7/11(土)から神戸アートビレッジセンター、8月京都シネマにて公開予定
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コメント


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共感しつつも…

日本では、最近ご近所づきあいやコミュニティを見直そう、なんていう意見もありますが、私もそういうのは息苦しく感じてしまう方で、社会を離れて自由を求める気持ちがわからないでもありません。でも、ゴミをあさったり自分の身体が臭ったり痒くなったりするのは耐えられないだろうなと…やっぱり自分も「こっちの側」の人間なのかなと思います。
敢えて過酷な生き方を選んだのは、「人としてどう生きるか」彼らなりに突き詰めた結果なのでしょうか。それだけ今の世の中は生きにくくなっているのかな…等々、いろいろな問いを投げかけてきそうな気がします。

ayako | URL | 2009年06月08日(Mon)23:30 [EDIT]


河原町のジュリー

彼は太ったキリストのような風格でしたね。そのままオペラの舞台に登場してもさまになったかも。今のホームレスとは違う雰囲気がありました。

kawa | URL | 2009年06月09日(Tue)04:01 [EDIT]


Re: 共感しつつも…

> 敢えて過酷な生き方を選んだのは、「人としてどう生きるか」彼らなりに突き詰めた結果なのでしょうか。それだけ今の世の中は生きにくくなっているのかな…等々、いろいろな問いを投げかけてきそうな気がします。

それもあるだろうし、「路上のソリスト」でも描かれていましたが、路上生活者には規則の中に住むと幻聴とかが聞こえる統合失調症の方もいるかと思います。社会の実際には声にならない干渉が、彼らには聞こえるのではないかと。男にもそんなところがあるのかも。詳しくは描かれていませんが。
全てを捨てて、青空の下をねぐらにする自由さを一度で良いから味わってみたいとも思うのですが・・・。

犬塚 | URL | 2009年06月09日(Tue)22:16 [EDIT]


Re: 河原町のジュリー

> 彼は太ったキリストのような風格でしたね。

確かに風格がありました。あの方と話したと言う人もいましたが、畏敬の念を持って眺めていた記憶があります。
何時から見かけなくなったのでしょうね。どこに行かれたのでしょう。

犬塚 | URL | 2009年06月09日(Tue)22:19 [EDIT]


 

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