太秦からの映画便り

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映写室 新NO.7 サガン―悲しみよこんにちは―

映写室 新NO.7 サガン―悲しみよこんにちは―   
 ―天才作家のドラマテックな人生―

 <フランソワーズ・サガンに>直視や真正面は似合わない。大抵のポートレートは斜めからだし、視線も何処か遠くか斜め下に落としている。取り巻きに囲まれながら孤独な影が消えない彼女を、一番的確に表現するのはこんな風な写真だ。世間とサガンは、そんな具合にお互い斜に構えて対峙していたのだと思う。間には作家が煙に巻いておろした、薄いベールだってあったような気がする。
 <踝を出したスリムなパンツに金髪のショートカット>、せわしなくくわえタバコをふかすサガンの瞳は何を見ていたのだろう。書くもの以上に私生活が話題になった作家のスキャンダラスな人生を、孤独と愛から読み解いた作品です。本物より庶民的なイメージのシルヴィ・テスチューが演じて人間味が増し、愛と孤独がより強く結びついた。

sagan-m.jpg
(C) 2008 ALEXANDRE FILMS / E. George (C) 2008 ALEXANDRE FILMS / C. Schousboe

 <伝え聞くサガン伝説そのままに>、物語はドラマティックに展開する。友人に小説を書いていると見栄を張って、辻褄合わせでひと夏で書き上げた「悲しみよ こんにちは」は、18歳の少女をマスコミの寵児に押し上げた。手にした巨額の富で繰り広げる夜毎のパーティ、取り巻きたちを引き連れての凄まじい浪費、大事故と奇跡の復活、ドラッグ、ギャンブルと、車だけでなく人生そのものを猛スピードで駆け抜ける。

 <危うい関係を描く彼女に>、世間は不道徳、新しい時代の小説と賛否両論だったが、もちろんそれは、作家の生き方への非難でもあった。サガンの方も、世間に対してこれ見よがしに思えるほどの行動をとる。このあたり、サガンは自分のしたいように行動しただけではなく、自分の描く世界に縛られてますますエキセントリックになったように見えなくも無い。何しろ若くて無防備、自転車が欲しかったのにスポーツカーをプレゼントされ、走りながら運転を覚えたようなものだ。作品の世界と実生活を分けられるほど器用でもない。心の中の小さな願望が、文字にしたことで作家を支配し始めたようにも思うのだ。
 <それに200ページ足らずの小説が変えた人生を>一番危ぶんでいたのは、本人だったのだろう。まるで夢から覚めるのを恐れるかのように、地位や名誉お金と、手に入れたものを狂ったように浪費する。世間から見ると、取り巻きたちは彼女の富に群がったようなものだけれど、彼らだって知らず知らず嵐に巻き込まれて、狂乱の一時期を疾走させられたのかもしれない。

 <彼女は、「10歳に戻りたいわ。大人にはなりたくない」が口癖>だったと言う。恋をし、2度まで結婚し子供を産んでと、女として成熟の時もあったはずなのにそのイメージは無い。69歳で亡くなるその日まで少女のままだったように見える。持ち主の願望どおり、体や精神が年を重ねるのを躊躇していたようだ。
 <私たちはよく>、楽しかった昔を思い出して、あの頃に戻りたいと言う。大抵の人が、戻りたい時代に思春期や幼年期の、誰かに守られて無邪気に毎日を楽しめばよかった時代を上げるけれど、私は幼年期はともかく、思春期にだけは返りたくない。もちろん楽しいこともあったし可能性にも溢れていた。あの頃に返れたらもっと賢い選択をして、今よりもっといい人生をつかむことも出来るかもしれない。それでも嫌だ。取り扱い要注意のまるでガラス細工のような自我は、自分も回りも傷つける。些細なことに悩み、些細なことに傷ついたあの頃に返りたいとは思わない。少々の事はまあしょうがないかと諦める術を覚えた今がいい。

 <人は自分の一番輝いていた時を忘れられない>という。女性など、一生その時代の化粧法を続けるとも言われるほどだ。天才作家の不幸は、彼女が嫌がったとおり諦める術を覚えた大人にもなれず、10歳の少女にも返れず、彼女が輝いた、精神的には一番過酷な思春期を生き続けたからだと思う。何をしても消えない孤独は思春期特有のもの、私たち読者は自分が逃げ出したくせに、作家のそれに共感する。なんと残酷なことだろう。それが解りながら、サガンは自分の紡いだ世界に溺れ殉死したのだった。

sagan-s.jpg
(C) 2008 ALEXANDRE FILMS / E. George (C) 2008 ALEXANDRE FILMS / C. Schousboe

 <例え自分がファンでないとしても>、マイケル・ジャクソンとか、一時代を築いた有名人の死は、誰もに特別の思いを抱かせる。彼らが活躍した時代と我が身がシンクロして、時の流れを強烈に思い知らされるのだ。2004年にサガンが亡くなった時もそうだった。日本ではもう新聞にも小さくしか載らなかったけれど、なおさらに青春が遠ざかった事、時の流れを思ったものだ。

 <彼女が私たち世代の文学少女に与えた影響は>計り知れない。私と同じ年の文筆業の友人は、字面だったらサガンとも読めるようなペンネームを持っているほどで、多感な頃に読んだサガンの世界は強烈だった。
 <ハイソサエティーが舞台の小説世界は>日常からは遠いけれど、それを紡いだのが少女というのがみそで、作家と小説世界の両方に憧れを募らせた。先進国と日本の経済力の差は歴然としていたけれど、でもいつか手が届くかもしれない勢いもその頃の日本にはあったのだ。しかもまだフランスは遠く、情報だって少なかったはず。全てへの憧れを凝縮したフランソワーズ・サガンという名前の甘美な響きはたまらない。口にしたり映画のタイトルを読むだけで、彼女に憧れた日々がよみがえってくる。
 <そんな人には見逃せない作品だけれど>、元祖天才少女の破天荒な姿は、現代の若者たちにも響くと思う。覚悟せよ、個性派達!天才ならではの孤独な人生が待っている。まあ、ここまでのスケールで物事が押し寄せてくるなら、それも甘受したいけれど。(犬塚芳美)

  梅田ガーデンシネマ、シネリーブル神戸、京都シネマ等で上映中
スポンサーサイト

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

学生時代、古本屋で手にした「悲しみよこんにちは」を、通学電車でどきどきしながら読みました。あの頃の私は奥手で堅物で、自分を傷つける物との関わりを避けていた…(と今にして思えばそうなのですが)、そんな自分の弱さを直球でビシッと指摘されたショックは今でも鮮明によみがえります。
昔、「アマデウス」の映画を見て、「天才には、天才級の壁や悩みが存在するんだなぁ」と思ったことがありました。彼女もまたそういう人生だったのでしょうね。凡人の私はちょこっとだけのぞき見して、その気分に浸るのが精一杯です…

ayako | URL | 2009年07月17日(Fri)00:23 [EDIT]


Re: タイトルなし

> 学生時代、古本屋で手にした「悲しみよこんにちは」を、通学電車でどきどきしながら読みました。

私のサガンとの出会いは高校時代。映画館の本の編集者に薦められて読みました。田舎の高校生にとってハイソサエティーのアンニュイな世界は衝撃的で、彼女の本を次々と読んだけれど、本当言うと「悲しみよこんにちは」以外内容をほとんど覚えていない。どれも良く似ていた気がします。それでも憧れていた。
この映画を見ると、そんな私たちの憧れをふり払えずに押しつぶされたようにも思います。天才といえど普通の人でもある。私たちは時々それを忘れて、天才にいつも天才らしい行動を期待する。いつの間にか奇想天外なそれが習性になる人だっているでしょう。若くして嵐の中に放り込まれ、自分を取り戻せずに大衆に消費されつくされたようにも思いました。この映画、明石でも上映されるといいですが。

> 昔、「アマデウス」の映画を見て、「天才には、天才級の壁や悩みが存在するんだなぁ」と思ったことがありました。彼女もまたそういう人生だったのでしょうね。

犬塚 | URL | 2009年07月17日(Fri)21:08 [EDIT]


 

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。