太秦からの映画便り

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映写室 戦争ドキュメンタリー2本:「嗚呼、満蒙開拓団」(前編)

映写室 戦争ドキュメンタリー2本:「嗚呼、満蒙開拓団」(前編)    
 ―羽田澄子監督インタビュー―

 お盆と共に今年も終戦記念日が近付いてきました。今更ながらに平和の大切さを噛み締める時期ですが、時を合わせたように、戦争の惨さを伝えるドキュメンタリーが上映されます。「嗚呼、満蒙開拓団」と「花と兵隊」の2本で、前者は文字からも解るように、引き上げの際に多くの中国残留孤児を出した中国北東部の満蒙開拓団の話。後者は敗戦時に自らの意志で日本に帰らなかったタイに住む未帰還兵の物語。どちらも声高に反戦は言わないけれど、すくいとった人生の過酷さが雄弁に何かを語ります。今週、来々週で、それぞれの監督インタビューをお届けしましょう。

《第1弾 「嗚呼、満蒙開拓団」羽田澄子監督インタビュー》

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(7月10日大阪にて)

<その前に、満蒙開拓団の悲劇>
 開拓団は敗戦の直前まで送り込まれた。45年8月、ソ連軍の侵攻と日本の敗戦で、奥地の開拓団は逃げ惑うことになる。この頃には軍に取られて成人男子はいず、ほとんどが女子供や老人だった。目指したのは軍の補給基地もあり関東軍のいる方正。100~200キロも歩いて辿りつくと、軍は撤退した後。このままでは死んでしまうと中国人に子供を渡す人もいれば、親の手でわが子を殺した人も、集団自決した人も多い。冬には零下40℃にもなる土地で飢えと寒さ病気で多くの人が命を落とす。生きる為に中国人と結婚し日本人なのを隠して生き延びた人、養父母に貰われ中国人として育てられた人等、複雑な人生が始まる。 当時満州にいた開拓団員は約27万人。そのうち約7万2000人が犠牲になり、未帰国者は約1万1000人(うち6500人は死亡と推定)。遺骨のほとんどは今も満州に眠る。

 
<羽田澄子監督インタビュー>
―漢字の並んだ刺激的な題名ですが。
羽田澄子監督(以下敬称略):制作の夫、工藤がつけた題名です。最初は“嗚呼”が若い人には読めないのでは心配したのですが、岩波ホールの支配人が、「“嗚呼”は劇画で知っているから大丈夫」と言うのでそのままにしました。でも「それよりは“満蒙開拓団”が読めないかも」と言うから驚いたんです。

―戦争体験のある世代が高齢化して、色々な事が受け継がれていない。そんな意味でも、これは今創っておかないといけない作品ですね。監督はお父様の仕事の関係で昔中国で過ごされました。この物語の舞台に近いわけで、この作品はそんな事と関係があるのでしょうか。以前から温めておられたテーマですか。
羽田:いいえ、そうではありません。私は確かに戦中戦後を中国で過ごしましたが、滞在したのはずっと南の大連。開拓団のいた所とはずいぶん離れていますし、大連は日本にもないような大変な都会で恵まれていました。原っぱの真ん中に放り出されて、何処かに行こうにも駅まで行くのすら大変だった開拓団とは環境が違う。同じ中国にいながら当時は開拓団の情報は私のところまで入ってこなかったんです。もちろん戦後の引き上げには苦労しましたが、それだってあの方たちの苦労とは比べ物になりません。それでも帰国船に乗りながら、大勢いた日本人が皆船に乗れたんだろうかとか、気になる事はありました。残留孤児の訪日や補償問題等の記事が出始めると関心を持って読んでいたんです。そんなところへ「星火方正」(せいかほうまさ)という雑誌が届き、方正に日本人の公墓があると知って驚きました。で、雑誌を出している方に聞いたら、新潟からそこへ行く訪中団があるのを知って、じゃあ行ってみようと。その時は映画にしようとは思ってなかったんだけれど、夫でプロデューサーの工藤が「君1人で行っても駄目だ。カメラマンを連れて行け」と言うので、とりあえずカメラマンと一緒に行って、色々映してきたのです。

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―ご主人はこの時点で映画になると直感が働いたんでしょうか。
羽田:いやいや、夫は最後までどんな作品が出来るかなんて解らなかった。ただ、カメラマンを連れて行けといっただけです。でもそれが正解だった、と。結局夫は、解らないままに最初から最後まで私を支配したことになります。正直なところ、私もこんな作品になるとは思わず映していました。どんな人がツアーに行くのだろうと思っていたので、飛行機の中や宿舎で話して、ああこんな人たちが行くんだなあと思ったのをそのまま映したりしただけ。そのうち、この話はこの人に聞こう、あの話はこの人にと、聞きたいことや映す事がどんどん広がっていったんです。
―誰かに話を聞く度に広がっていったと?
羽田:そうなんです。どんどん広がっていきました。でも最後まで映画のスタイル、形は見えなかったですね。

―そんな風に漠然と撮り始めたものが、映画になると思われたのは何時ごろですか?
羽田:中国人が小さい女の子を育てて後で日本に返した。で、その娘を探していると言う話あたりからです。
―あのシーンには感動しました。日本はこんなにもひどい事をしたのに、それにも拘らず助けてくれた中国人がいる。しかも助けた少女との間に人間的な繋がりが出来ていたのだと知り、温かいものが溢れてきました。
羽田:本当にそうですね。娘も養父を心配しているし、養父もいまだに日本に帰した娘を気遣っている。もともと帰したくて帰したんじゃあない、日本人の娘の為に良かれと思って帰した事です。作品になると確信したのは、2度目の方正訪問で、彼女のほうは直前に体調を壊して行けなくなり夫だけになりましたが、お宅を訪ねてお墓参りに行ったあたりです。結構遠いのに皆がぞろぞろ一緒に行ってくれるでしょう? 日本にいても想像出来無かったのですが、目のあたりにしたあの養父と娘夫婦の、実に自然な繋がりが素晴らしくて心に響きました。後、やっぱり方正の日本人の公墓ですね。それが日本人じゃあなく、中国人によって作られたという事が大きい。

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―それにも感動しました。この作品を見た直後に、私は(周恩来って凄い人だなあ。もっと知りたい、本を読んでみよう)と思いました。
羽田:周恩来は偉いですよね。毎日凄い数の人と会うのに、松田ちゑさんの名前を覚えていた。毛沢東の時代に開拓団のお墓を建てたというので死刑になりそうだったちゑさんを、「この人は無罪だ」と言って救っています。この作品を撮って立派な人だなあとあらためて思いました。
―考え方も素晴らしいですよね。
羽田:ええ、日中戦争の頃には嫌な思いもしたでしょうが、若い頃に日本に留学したりして親日家でもありました。バランス感覚のある国際的で視野の広い方です。「祖国を見ることなく逝った開拓民たちも、日本軍国主義の犠牲者だ」と言って、戦争の犠牲者と加害者をきちんと区別できる。あの当時の中国でそれだけの事を思えるのは、相当です。(聞き手:犬塚芳美)
                               <続きは明日>

この作品は、8/1(土)から第七芸術劇場
        8/15(土)から京都みなみ会館
        9月12日(土)から神戸アートビレッジセンタ にて公開
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