太秦からの映画便り

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映写室 戦争ドキュメンタリー2本:「嗚呼、満蒙開拓団」(後編)

映写室 戦争ドキュメンタリー2本:「嗚呼、満蒙開拓団」(後編)
  ―羽田澄子監督インタビュー―

<昨日の続き>

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―お墓は松田さんが建てたのですか?
羽田:飢餓や寒さで死んでしまった開拓団の遺体が方正周辺に山となっていたんです。冬は寒いから凍っていたのが、春先になって溶け出してくる。匂いも凄くて、困って遺体を集めて燃やした。それがそのままになっていたのを、あのあたりの開拓が許されて土を掘り起こしていた時、ちゑさんが見つけて心を痛め、何とか供養したいと方正県政府に日本人のお墓を作る許可を申請するんです。そこから省政府、中央政府と回って、最終的には周恩来総理の元まで行ったようです。で、日中が国交を回復する9年前に、まだ貧しかった中国政府の手で、中国人の字で刻まれたお墓を建ててくれたと。もっとも最初からあそこにあったわけではありません。今は水の底に沈んだところにあったのを移転して、あんなふうに立派になった。あの墓石は、ハルピンの朽ちた外人墓地の中から一番大きく綺麗な石を探してきたものだそうです。
―日本の総理大臣もお参りに行って欲しいですね。中国政府がそこまでしてくれたというのに、日本政府の無策ぶりが情けないです。
羽田:本当にそうですよ。方正のお墓に対して日本政府は何も関与していません。騙されて国策で送り出されたと言うのに、開拓団への謝罪もありませんしね。

―開拓団にも最初の頃の方と、終戦直前の頃の方と違いがあるのでしょうか。敗戦の色濃い終戦直前には、関東軍の前に人が楯のように送り込まれたとも聞きますが。
羽田:最初の頃は武装して義勇軍として入って行ったようです。実は彼らもあまり成功してないんだけれど、それは伏せられたまま以降も送り込んでいくんですね。当時日本の農家は大変で、満州国へ送り出す環境がありました。増え続ける人口に対して土地が狭いから2男や3男坊は食べられなかったし、世界恐慌で養蚕業が壊滅的になったのも大きく、開拓団はそんな地域から多く送り込まれています。それにあの頃の満州は関東軍がいましたから、誰もが安全だと思っていた。私なども大人が“関東軍”と言う時に浮かべた誇らしげな表情を覚えていますからね。でもソ連軍の入る半年前には負けた場合のシュミレーションをして、戦いの主戦場は南へ下がっていた。皆が信頼した関東軍の精鋭部隊は、実際には満州からいなくなっていたんです。私の周辺の男の人たちも招集されて奥地へ送られたりしましたから、なんとなく解かってはいたんですが。
―嘘の情報を吹き込まれて、最後まで送り込まれた開拓団の人々の怒りは収まりませんね。しかも引き揚げの時に軍人の家族を優先して、開拓団の人を見捨てている。日本人社会に階級があったということですよね。
羽田:一部の人は、日本から送った荷物の紐を解かないうちに終戦だったそうですからね。平時は解らなかった階級意識が、ああいう極限状態で炙り出されて、助ける命に順番を作ったと言うことだと思います。

―そういうことの保障はどうなのでしょう?
羽田:作品の中にもあったように、国家賠償請求がされていますが、年々厳しくなって認められないことが多いそうです。ただ以前は生活保護だったけれど、それだと養父母に会いに行く旅費も生活費からになる。今はそのあたりは別にできるようになったようです。
―6割近くの人が生活保護になっているそうですが、生活苦から又中国に帰りたいと言う人も多いのでは。
羽田:私も心配になってそれを聞いてみたんですが、いくら生活保護でもまだ日本のほうが良いと言っていました。向こうには生活保護という最低保障制度もありませんから。それに敗戦国の日本人と言うことで、向こうにいると肩身の狭い思いをするのもあるのかもしれません。

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―皆さん辛くて嫌な思い出なので口が重かったのでは。
羽田:辛い思い出には違いないけれど、誰もが話を聞いてくれる人を探してもいたのでしょう。非常に熱心に話してくれました。家族に話そうにもその家族に興味が無いこともあれば、身近過ぎて話せないこともある。話せる相手はなかなかいないものです。そんな時に話を聞きたいと言うのが現れた。それもまるで別の世界の人ではなく、同世代で同じ頃中国にいた私にだからこそ話してくれたのもあると思います。話しやすい人に話したいことを話したと言うことですね。
―「皆“国の為”と送り出されたのに、遺骨を見ると残念で」と言う松田さんのお話が真に迫っていました。
羽田:心からの言葉でしょうね。ただ年齢的なこともあって、松田さんも当時のことをす~っと思い出すわけではありません。何か聞いても、「もう忘れた」と言うんですね。相当長い時間一緒にいて色々話していると、そのうちにあんなことも話し出す。当事者の貴重な体験談を聞くと言う意味でも、時間的にぎりぎりでした。

―あのあたりには遺骨がまだ残っているんでしょうか。
羽田:方正のあたりのものは解る範囲で遺体を集め遺骨にしたそうです。でも色々な開拓団がいたので、遺骨はあちこちに散らばっているでしょう。それを収集しようにも出来ないのです。近くまで行ってお線香を上げてきたと言う話をよく聞きますが、大体このあたりでと言う場所でしかない。反日感情もあって、日本人が入れないところもあります。
―この作品は2008年度のキネマ旬報文化映画ベストテンの第1位ですし、日本映画ペンクラブ文化映画ベスト1も取っています。映画賞の常連ですが、企画はどのように。
羽田:賞を頂くのは励みにはなりますね。でも作っている時は関係ないんです。私は器用ではないんで、同時にあれこれは出来なく、一つの事を集中してやるしかない。で、ずっとやって、一つの作品を作り終わると、又次の作りたいものが出てくる。そんな風にして作り続けてきました。自然に作りたいものが近づいてくるというか。だからこの作品の公開のことで頭が一杯の今は、次回作とかも思い付きません。

―実際にお会いしたら勿論、この作品の中でも監督は颯爽と歩いてお若いですが、何か若さを保つ秘訣がありますか。
羽田:私はそんなに元気ではありませんよ。(隣にいた秘書的役割の自由工房の佐藤さんが、「撮影現場では動くのも早いしお元気ですよ。凄いエネルギッシュです」とフォロー)私って何も自慢できることが無いんです。スピードもゆっくりですしね。映画を作る以外何も出来ない。だから作り続けているんですが、岩波映画にいた頃、優秀な人はどんどんフリーになって有名になっていく。私は定年までいて、そこで映画を作っていたんだけれど、(若くして有名になった)親しかった人から「どうして辞めないの?」と聞かれて、(どうして私にそんなことを聞くの?)と逆に思いました。そんな能力はありません。その時にスローペースのこの調子だから、私がちゃんとした作家になれるとしたら、よっぽど長生きしないといけないなあと思いました。その時からあまり年を考えないで働いてきたんです。でも80歳を過ぎると、自分では何とも思って無くても、周りのほうが、80,80と年を口にするようになって。
―実際の監督と実年齢とのギャップがあまりにも大きいからでは。羽田監督というと、いつも女性監督のパイオニアと言う代名詞が付いて回ります。今でこそ増えましたが、当時は珍しかったですよね。
羽田:映画を作る上で女なのを意識したことはありませんし、岩波でも女性だからと言って差別も特別待遇もありません。そんな風に紹介されて戸惑うこともあります。

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―自由学園のご出身ですが、そんなことも関係していますか。
羽田:自由学園の影響はあったと思います。あそこはキリスト教で、私は真面目なキリスト教徒ではないけれど、キリスト教的な精神を教えられました。当時創設者の羽仁もと子さんがいらして、毎朝お話をするんです。私が育ったのは戦争中ですから、学校での話と言ったらたいていは杓子定規なものだったけれど、あの方は違って、どうしたらいい生活が出来るかとか、世の中が楽しくなるかとか、実に率直な話をされる。東北の方で時々何を言っているのか解らなくなるけれど、聞き逃さないように一生懸命聞きました。一番印象に残っているのが、「一人一人が努力しないと良い世の中は作れない。こうすれば良いと感じた人は行う責任がある」と言われた事で、これはぴんと来ました。何にそう思うかは人によって違うけれど、感じた人はそれを見逃してはいけない。私が感じたことは私の映画で表現していこうと思います。私は最初から映画監督を目指したわけではありません。何かものを表現する仕事をしたいとは思ったけれど、画家になるほど絵が上手くもなかった。自由学園を卒業する時、学長が、「岩波書店で教育映画部門を作るから来ませんか」と誘って下さったんだけど、最初は断ったんです。そしたら、写真集を作るからこないかと言われて、本の編集なら出来るかもと入ったんですね。そうするうちに周りで皆が面白そうに映画を作っているから、私もやってみようかと映画を作り始めました。私は他にできることが無いので映画を作り続けて来たんです。

―ご主人が制作ですが。
羽田:主人は元は文部省にいたんですが、岩波が文部省との提携で「薄墨の桜」を作った時、彼が制作をしていて知り合いました。主人はその後文部省を辞めて製作会社を作りますが、私が岩波を定年になってからは、私の映画をそこで作っています。資金を集めてきたりはぜんぶ主人の仕事。私はお金の心配をせずに作品に集中すればいいんです。ありがたいけれど、その分作品に高い次元を要求される。それに応えるのも大変だし、あまりに重い証言を頂いたこともあり、今回は途中で体も悪くしました。それでも何とか完成させた作品、“満蒙開拓団”を読み難いと言わず、若い方たちにもぜひ観て頂きたいのです。(聞き手:犬塚芳美)

この作品は、8/1(土)から第七芸術劇場
        8/15(土)から京都みなみ会館
        9月12日(土)から神戸アートビレッジセンタ にて公開


<満蒙開拓の歴史> 
1929年:世界恐慌が始まる
  31年:関東軍が軍事行動を起こし、満州事変始まる
32年:満州国が建国される。第1次武装移民団がチャムスーへ
34年:東北地方の冷害で大飢餓
36年:満州100万戸移住計画を策定
37年:日中戦争始まる
38年:満蒙開拓青少年義勇軍第1次募集
41年:太平洋戦争勃発
44年:関東軍による開拓団男子の根こそぎ動員
45年:ソ連参戦により満州国崩壊。敗戦。
46年:満州からの集団引き上げ開始
49年:中華人民共和国の建国。日中国交断絶で、政府による集団引き上げ中断
53年:民間レベルの集団引き上げ開始
58年:民間レベルの集団引き上げ中断
66年:文化革命始まる:(~77年)
72年:日中国交正常化
74年:民間レベルでの肉親探し開始
81年:厚生省による中国残留孤児・訪日肉親探しの開始
2001年:3名の元中国残留婦人が国家賠償請求訴訟を提起。全国に広がる
  07年:改正中国残留邦人支援法、成立。
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