太秦からの映画便り

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映写室 戦争ドキュメンタリー2本:「花と兵隊」(前編)

映写室 戦争ドキュメンタリー2本:「花と兵隊」(前編)   
 ―松林要樹監督インタビュー―
 
 太平洋戦争末期、地獄の戦場はアジアのいたるところにありました。先々週の作品の舞台、ソ連侵攻に伴う満州国崩壊は、開拓民を巻き込み地獄絵となりましたが、陸軍兵士の地獄絵の1つが、1944年3月に発動された「インパール作戦」です。この作品「花と兵隊」に登場するのは、タイ・ビルマ国境付近で敗戦を迎えた後、祖国に還らなかった6名の日本兵とその家族。2005年から3年にわたる取材で、未帰還兵のその後を追った松林要樹監督にお話を伺いましょう。

《第2弾:「花と兵隊」松林要樹監督インタビュー》

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(7月21日 大阪にて)

<その前に、ビルマ戦線、あるいは「インパール作戦」とは>
 〈1941年12月、日本軍はビルマ侵攻作戦を始める〉目的は連合軍から中国国民党へ送られる物資の輸送路の遮断だった。42年には日本軍と密通したビルマ独立義勇軍との共闘で、英領のビルマ・ラングーン等を次々と陥落、東南アジアに勢力を伸ばす。しかし6月のミッドウェー海戦以降、米軍に制海権、制空権を奪われ、物資の海上輸送が不能に。輸送路確保の為、7月にはタイとビルマを結ぶ「泰細鉄道」の建設を始めた。おびただしい犠牲の元に1年3ヵ月後に完成する。
 〈1944年3月に発動された「インパール作戦」とは〉、ビルマの第15軍司令官が立てた、連合軍の輸送路を断つ為に、拠点のインパール進攻を目指したもの。補給の目安も無いままに決行され、近くまで迫ったものの、食糧・弾薬の払底で7月作戦中止命令。退路はまさに地獄絵で、力尽きた日本兵の死体が累々と続き「白骨街道」と呼ばれた。この作戦を含むビルマ戦線では、33万の日本兵が送り込まれ19万人が亡くなっている。


<松林要樹監督インタビュー>
―この作品を作ろうと思ったきっかけは。
松林要樹監督(以下敬称略):始まりは1999年から2000年にかけて、東南アジアを貧乏旅行した事です。バンコクの中華街で「日本に還らずここに残った兵士がいるよ」と聞いたんですが、よくある都市伝説の類だろうと思っていました。でも2004年に日本映画学校に入って、資料室で今村昌平監督のドキュメンタリー作品を見たら、それがテーマ。以前タイで聞いた事が本当にあったんだなあと驚きました。それまで未帰還兵と言うと、横井庄一さんや小野田寛郎さんの例から、もっと南のグアムやフィリピンのミンダナオ島とかだと思っていたんです。そうしたらちょうどその頃、朝日新聞に東南アジアに未だに残る日本兵と言う記事が出て、やっぱりいるんだなあと思い、大宅文庫で色々調べて、2005年にこの映画の企画書を出しました。

―1979年生れで戦争を知らない世代の松林監督が、何故其処まで未帰還兵に興味を持ったのですか。
松林:戦争を知らないと言われましたが、それは戦争と戦場を混同しているんだと思います。戦場は確かに知りませんが、戦争は政治の延長ですから、色々な紛争地に日本も自衛隊を派遣している今、特にイラク戦争以降は、知らないとは言えません。
―確かにそうですね。ご両親の影響とかは?
松林:父は団塊の世代ですが、政治の時代を潜り抜けながら全くノンポリ。影響を受けていません。それよりは2000年に旅行した時、途中で見聞きした事が大きいです。現地で知り合った人たちに、僕が日本人と言うだけで、尊敬されたり敵意をもたれたり、色々突き詰めたことを聞かれたりしました。東南アジアにはかっての日本軍が残したものが、今も至る所に残っているんです。最初の頃に入った兵士は、アジアを列強の植民地支配から開放しようと本気で思い、その為に行動した。それもだんだん意識が低くなるんですが、同じ日本軍でも差がありますよね。どの時に接したかで人々の反応が違います。(ここで何があったんだろう?)とは思っても、何も知らない。それを知りたいと思いました。又、東南アジアの人たちは、僕らよりはるかに強いなあと思ったこともあります。外国で感染症にかかった時慌てふためいたけれど、現地の人にとってはどうって事の無い病気だった。無菌状態のような日本で育った自分は、この人たちと比べて生命力が劣っているなあと。そんな事とか、この旅の途中で思ったことを表現しようと思って映画学校へ入ったのもあります。

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(c)2009 Yojyu Matsubayashi

―未帰還兵だけでなく東南アジアを描きたかったと言うことですね。監督はこの映画を作る以前に紛争地に行かれていますよね。その影響はどうでしょう。
松林:2005年の12月にアチェにテレビ取材のアシスタントで入りましたし、アフガニスタンの選挙取材にも入っています。そんな風に紛争地の取材をして、軍隊と言うのは国民を守る組織ではないと思ったのも大きいです。それに戦場というと、玉がバンバン飛ぶシーンばかりを思うけれど、そこにも日常がある。現地に行ってみて、戦う男たちの後ろで、土地を守り日常生活を支えているのは女の人だということにも気付きました。でもそちらは報道されません。だったら僕がやろうと。横井さんや小野田さんは、戦争が終わっているのにそれを知らずに残り続けました。向こうに家族がいませんから、終わっているのが解ると日本に還って来ている。ところが未帰還兵には家族がいた。戦争が終わったことを知っているのに残り続けたのはどうしてだろうと考えた時、家族、妻がいたことは大きいと思ったんです。彼らが残ったきっかけは、終戦、戦争のトラウマや捕虜への恐怖だけれど、残り続けさせたのは家族だったと。それを撮りたいと思いました。

―登場する未帰還兵のうち、坂井さん、中野さん、藤田さんは今村監督のドキュメンタリーにも登場しますから、その後の物語としても観れますね。この作品は特に坂井さんに焦点を当てて作られていますが。
松林:坂井さんが亡くなった時にたまたま撮影をしていて、これは坂井さんの映画にしなくてはと思いました。ポスターの写真も坂井さん夫妻ですが、実はここは自宅ではなく、お墓の隣で撮ったものです。坂井さんがお墓を買った時のもので、横を向いている奥さんが見ているのはそのお墓ですし、本人はお墓を買ってほっとした様子、安心した顔が映っていますよね。
―そんな穏やかな写真にマッチする、風がそよいでいるような風情のある題字が素敵です。色も優しくて。
松林:友達が書いてくれたものです。気に入っています。

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(c)2009 Yojyu Matsubayashi

―この作品を撮り終えて何か変わったことは。
松林:太平洋戦争の末期は空襲とかで、日本人にとっても戦場が身近だったけれど、今イラクで爆撃があってもテレビの中の事。どこか他人事になっている。それに戦争は政治なのに、最近の若者の傾向として政治を語らない。こんな時代こそ、もっと危機意識を持って、政治を語らないといけないと思いました。撮影は実は藤田さんから始まったんですが、最初は話してくれない。そのかわりに怒鳴られました。でも、「おい、お前!」とか、「こら!」とか上から目線の罵声を絶えず浴びながら、こういう形で初年兵の教育は行われたんだなあと実感したんです。これほどの時間がたっても、藤田さんには若い頃の軍隊経験が抜けない。染み付いているんですね。供養塔の掃除をしたりして、少しずつ話してもらえるようになりました。(聞き手:犬塚芳美)
                              <明日に続く>

  この作品は、8/15(土)から第七芸術劇場、
          8/30(日)から京都みなみ会館 にて公開
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