太秦からの映画便り

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映写室 「台湾人生」酒井充子監督インタビュー(前編)

映写室 「台湾人生」酒井充子監督インタビュー(前編)   
 ―今も健在な台湾の日本語世代―

 <韓国や中国と比べて格段に親日的な近国>が台湾だ。日本語の離せる年配者も多い。でもそのわりには、私たちは台湾を知らない。政治に翻弄されて、オリンピックや国連とか世界規模のことになると、中国本土との兼ね合いで複雑な対応になるから余計に混乱する。「昔、台湾は日本だった」…と言う事すら知らない世代が増えた。蒋介石時代には長い間戒厳令が敷かれ、自由な発言の出来なかった国でもあります。
 <そんな風にあやふやな私たちに>、台湾のことを伝えようと、台湾が大好きな一人の女性が、“かって日本人だった人たち”を訪ねて、統治時代とその後の複雑な思いを聞き出しました。最後の最後に搾り出すように訴えた、心情の重さが胸に迫る作品です。2本続いた戦争ドキュメンタリーの番外編と言えるかも知れません。6年にわたる取材をまとめた酒井充子監督に伺いましょう。

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(8月3日 大阪にて)

《その前に台湾の簡単な年譜と日本との歴史》
<台湾統治の年譜>
  1624~1662年:オランダ植民統治時代
  1662~1683年:鄭氏政権時代
  1683~1895年:清朝統治時代
  1895~1945年:日本統治時代
  1945~1996年:中華民国統治時代
  1996~現在:台湾総統選挙時代

<日本との歴史>
 〈1895~1945年の日本統治下の51年間〉、欧米への対抗心もあり、日本政府はインフラ整備や治安維持、教育の普及に力を注いだ。また同和政策により、台湾での学校教育が日本語で行われた為、この時代に学校教育を受けた世代は日本語が話せる。いわゆる「日本語世代」と呼ばれる人々だ。このドキュメンタリーの登場者はその最末期に多感な頃を送った人々で、第2次大戦を日本人として生き、戦況が厳しくなると米軍の空爆をうけ、日本兵として従軍した人もいる。
 〈敗戦後日本が撤退すると〉、今度は大陸から来た蒋介石の中国国民党が統治。激しい台湾人弾圧が行われた。台湾語、日本語の使用が禁じられた為、「日本語世代」は長い間口を閉ざさざるをえなくなる。1952年、「サンフランシスコ講和条約」締結で、日本は台湾における一切の権利を放棄するが、その帰属は明記されなかった。1971年には国際連盟で「中国」の代表権を喪失し、脱退。1972年の日中友好条約で日台の国交は断絶したが、民間レベルの交流は今なお強固に続いている。それを支えているのが「日本語世代」だ。

《酒井充子監督インタビュー》
―経歴を拝見しますと、最初は民間企業の営業マンで、その後新聞記者、そして映画監督とふり幅の大きい転職ですが。
酒井充子監督(以下敬称略):元々大学を卒業する時は新聞記者になりたかったんです。サッカーが好きなので記者になってスポーツを担当したかった。で、就職試験でスポーツ新聞を受けたんですが、役員面接で「駅売りのエロ記事とかは嫌だ」と言ったら、「そんなことを言っているようではウチは無理です」と言われてあえなく頓挫です。だから、新聞社への転職は自然でした。
―でも新聞記者志望でエンジニアリング会社の営業と言うのは…。
酒井:そこの会社はアジアを中心に展開していたんです。当時アジアに興味があったので入りました。

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(C) 台湾人生 2009

―アジアに興味をもたれたのは?
酒井:初めて外国旅行に行ったのがイギリスで、友達が留学していて遊びに行ったんです。向こうの人に「何処から来たの?」と聞かれて、「日本」と言ったら、「ああ、あの皆が同じ服を着て自転車に乗っている国ね」と言われた。中国と一緒になっているんだけれど、(イギリスの田舎では中国も日本も一緒なんだなあ。自分はアジア人だなあ)と思って、それからアジアに興味を持ち始めました。アジアの中でも特に台湾に興味を持ったのは、台湾のツァイ・ミンリャン監督の「愛情萬歳」を見た時で、映画の舞台に立ってみたくて、キー・フンと言う町に行くんですね。小さい町を半日掛かって回って、バス停で帰りのバスを待っていたら、私が日本人だと解ったらしく、近くの家からおじいちゃんが出てきて、「日本からお越しですか」と流暢な日本語で話しかけてきました。「昔、公学校(台湾人の為の小学校」へ通った頃、凄く可愛がってくれた先生がいる。戦後引き上げられて住所が解らなくなったけれど、僕は今でも先生に会いたいんです」と一気に話された。今だったらバスを何本乗り過ごしてでも聞くんだけど、その時はなぜか立ち話で終わって、そのままバスが来て帰ってしまったんです。後でそれを後悔して、(どうしてその先生のお名前とか聞かなかったんだろう。日本で探してあげられたかも知れない)と悔やまれました。それと共に、あんな風に流暢に日本語を話す方がいると言うのと、53年も経った今でも昔の先生に会いたいという人がいるような台湾ってどんな国だろうと思い、帰国後に台湾に関する本を読み始めるんです。でも周りの皆も、統治下だった台湾についてや、日本語世代についてよく解らない。日本人は台湾についてもっと知るべきだと思って、現役の記者だったので、そんな事とかを文字で纏められたらいいなあと思いました。一方、当時は函館にいて、函館は映画祭がありますし映画のロケも多い。仕事で映画を作る人たちに沢山会いました。元々映画ファンだったけれど、新聞記者として映画関係者に取材するうちに、映画を作ることに興味を持ち始めるんです。台湾に興味を持った時期と映画つくりに興味を持った時期が重なって、台湾の映画を作ろうと思って退職しました。

―「かもめ食堂」の荻上直子監督とか、その後の映画制作や宣伝の仕事は、函館時代の繋がりですか。
酒井:いえ、映画に関わっていくのは東京に帰ってからです。新聞社は、何の展望もなく、ただ「映画が作りたい」と言う思いだけで辞めました。東京に帰ってから、たまたま知り合いがいて紹介してもらったりと、映画の世界に繋がりが出来ます。映画を作りたいとは言っても生活もしないといけない。その後は宣伝や制作の仕事をしながら、台湾に通い続けることになりました。実は、バス停で出会ったあのお爺ちゃんにもう一度会いたくて、キー・フンに行ったんです。でも、周辺をしらみつぶしに当っても解らなくて。
―お幾つ位の方だったんですか。
酒井:日本語の流暢さや声のはり等から、2000年当事で70代の前半だったと思います。あの後ご病気にでもなられたのかもしれません。で、仕方ないから、キー・フンの町をうろうろしていたら、小さな雑貨屋さんから日本の軍歌が聞こえてきた。ランニングシャツのお爺ちゃんが出て来たんで、「お好きですか」と尋ねると「軍歌を聞くとスカッとするからね」と言われる。当時は軍国少年だったんだなあと思いました。その他にも日本語を話す人に沢山出会って、この国は未だに日本の統治時代をしょっているなあと思って帰って来たんです。

―そんな事とかを、劇映画ではなく、ドキュメンタリーにしようと思ったのはどうしてですか。
酒井:実は最初は劇映画を作りたかったんです。台湾のお爺ちゃんと日本の青年が出会う物語が出来ないかと思って、最初は老人の人物背景の取材のつもりで行っていました。当時は日本や台湾の知り合いから紹介してもらったり、電車の中で日本語の解る人はいませんかと聞いたりして、取材相手を広げていました。そうしたら、その人が解らなくても、必ず回りに知り合いのお爺ちゃんやお婆ちゃんがいたりと繋がっていったんです。取材範囲が日本語繋がりで広がっていく感じでした。それをドキュメンタリーにしようと思ったのは、取材で、想像以上に貴重な話が出て知らない事を聞いたのと、あそこまで流暢な日本語を話し、独特のイントネーションを使う人たちを、演技的に再現するのは難しい。本人たちを映して、ダイレクトに伝えようと思ったんです。彼らの存在感、日本語を流暢に話す人たちが生きていることを、ちゃんと映して映像で伝えたいと思いました。

―新聞記者は伝えることが主眼です。映画となると表現したいとか描きたいもあると思いますが、酒井監督のこの映画のスタンスは?
酒井:伝えたいです。台湾をこう見て下さいより、台湾の日本語世代の話を聞いてどう考えますかと尋ねる映画にしたかった。私が驚いたり怒ったりした皆さんの話をそのまま伝えて、皆にも歴史を知って欲しい、考えて欲しいと思いました。(聞き手:犬塚芳美)
 <明日に続く>

 この作品は、8月22日(土)から第七藝術劇場で上映、
        (舞台挨拶があるので、日時、時間等は直接劇場まで。06-6302-2073)
        その後京都シネマ、神戸アートビレッジセンターで上映予定
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