太秦からの映画便り

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映写室 新NO.27戦場でワルツを

映写室 新NO.27戦場でワルツを   
 ―ドキュメンタリーアニメと言う新しい手法―

 2008年カンヌでの上映以来、各国の映画賞を総なめにした衝撃作がいよいよ公開になる。日本での配給権がつかず、一時はお蔵入りさえ噂された本作。内容、手法、人間の深層心理の追求と、色々な意味で新しい。主人公は監督のアリ自身で、20年以上前戦場にいたはずなのに記憶がない。何故記憶がないのか、そこで何があったのか、生きる為に失くした記憶の謎を探っていく。攻める側の兵士の苦しみを描けば、複雑な歴史と民族問題が絡み、今もって戦場という中東の悲劇が浮かび上がる。戦友に会う度記憶のパズルがくっついたり離れたり。そんな心象風景を映したアニメーションの芸術性の高さも見逃せない。

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(C) 2008 Bridgit Folman Film Gang, Les Films D'ici, Razor Film Produktion, Arte France and Noga Communications-Channel 8. All rights reserved

 <2006年冬、イスラエルのバーで映画監督のアリ>は、旧友から26頭の犬に襲われる悪夢に悩んでいると聞く。レバノン戦争の後遺症だろうかと言う彼に、アリは驚く。自分にはその時の記憶が全くないのだ。でもこの時ベイルートの焼夷弾が光る海に、戦友と全裸で漂うシーンが浮かぶ。これは何だろう? 親友で映画監督兼精神科医のオーリの勧めで、失われた記憶を求めて、世界中に散らばる戦友を訪ね始める。

 <この作品の端正さは何だろう!> 色々な作品に端正という言葉を使うけれど、まるで別格のこんな世界に出会うと、むやみに使ってはいけない、こんな作品にこそ使うべきだと痛感する。何が端正って、計算され尽くしたアニメの画面もだし、記憶の欠片を拾い集める形で全体像を浮かび上がらせる手法、場面場面の音楽もそうだ。それ以上に、作品のトーンとなっている、過去を探っていく精神自体が端正だと思う。悲しみと後悔を芸術に昇華させながらも、それでも作者に残ったもの、作品の根底を流れるやるせなさが作品のトーンになっている。

 <人は記憶を作り変えるらしい> 思い出すと生きていけないようなあまりに辛い記憶は消してしまうのだ。アリもそうだけれど、彼がインタビューする戦友もその人によって覚えていることが違う。それでもかっての同士を横に、重い記憶の扉を開けて話し出す。
 <何も解らないまま戦場に送り込まれた若者は>、緊張と恐怖の極限で、一台の車にすら過剰反応。皆で銃弾を浴びせて蜂の巣のようになった車の中に、自分と同じ年頃の無防備な若者の死骸を見つけたら、今度は自分の異常に気付いて、なおさら敵地は不気味になる。このあたり、イラク戦争等でも米軍兵士が経験しているのではないだろうか。
 <戦場は、平時は犯罪になる人を殺すことが>唯一の正義と言う異界。さっきまでの戦友も極限では置き去りにせざるを得ない。壊れていく人間性、生き延びながらも人は自分の凶暴性に怯える。命を狙われ攻められるほうだけでなく、攻める方も傷ついているのだ。

 <圧巻は、映画の題名にもなっている>、周りのビルの影から銃弾が飛び交うベイルートの町中で、一人の兵士がワルツを踊るようにくるくるに舞いながら銃を連射する姿だった。この時フランケルは何を思ったのか。一介の兵士がこのばかばかしい争いに抗議する手段と言ったら、戦場という現実を否定することだけ。銃さえも華麗な小道具にし、戦場の最中をこの世でもあの世でもない特別な舞台に変えた。踊り果てて宇宙の塵と消える覚悟が見えるのだ。軽やかなピアノの調べが重なり、静謐さに圧倒される。

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(C) 2008 Bridgit Folman Film Gang, Les Films D'ici, Razor Film Produktion, Arte France and Noga Communications-Channel 8. All rights reserved

 <それにしてもこのアニメーションの贅沢さ>はどうだろう。手法としては、まず最初にこの通りの実写版を撮り、手だれのアニメーターたちがそれを参考に絵を描いたと言う。写真を加工するのではなく、一からの制作だった。だからこそ到着した領域、動きや位置等は正確でも、心象風景らしく見たくないところは大胆に描写をカットして影にする手法で、省略と抑制が効いて独特の世界を作っている。その影が又雄弁なのだ。時々は不安な心理のままに影が周りを飲み込み、ゆらゆらと不安定に揺れる。アニメーターの創造が観客の想像力を掻きたて、造形の妙と共に、描かないからこそ雄弁だと言う、もう一つの真実に思い至った。
 <全体のセピアのトーン>、くすんだ黄色から茶色を限りなく黒に近づけた影の色も中東のイメージだ。砂漠の色、砂漠の下の石油の色、砂嵐の中の太陽の色と、どんどん想像は膨らむ。もしかすると人々の皮膚の色かも知れず、その土地に似合う色があるものだと納得した。

 <監督のアリは>「イスラエルの兵士は戦場と日常生活の場が近い。休暇で戦場から帰り遊びに行く海辺は、昨日までの戦場の海辺に繋がる」と、この地の複雑さと悲しさを訴える。以前ここで、イスラエル兵士による「沈黙を破る」と言う映画を紹介した。パレスチナの難民キャンプへの攻撃の不当性を、文字通り沈黙を破ってイスラエル兵士たちが話す映画だ。その中でも兵士たちが言っていた言葉だった。戦場が日常の続きになる怖さ、でも二つの世界で違う命への倫理観。人間が狂わないのがおかしい。

 <ちょっと気になるのは>、イスラエル側からは自分たちを反省するこんな発信があるのに、パレスチナサイドのそれが見えないことだ。受け手の問題で、日本とのつながりのせいだろうか、それとも世界でもこんな風なのだろうか。あるいは、イスラエルの脅威に怯えるパレスチナには被害者意識はあっても自省の思いがないのだろうか。
 <隣どうして止まない争い>、長い歴史と宗教観、後ろに大国の思惑が見え隠れする。どちらの側も、特にパレスチナ側には色々な勢力があるし、どんな解決法があるのか解らないが、今のようにあまりにも右に傾いたイスラエルや、過激なヒズボラでは問題は解決しないのは確かだ。

 <この作品もイスラエル、アラブの人々>、どちらもに監督の思いが上手く伝わったわけではないらしい。イスラエルの右派には、この作品の反戦メッセージが届かないまま世界での快進撃を歓迎され、監督を戸惑わせる。一方極左のイスラエル人は、作品の中でアラブ人が言葉を持たず、単なる肉体として描かれていることを強烈に非難する。それに対しては、監督は「元兵士の視点で描く戦場の映画なんだから仕方がない。そこの描写はアラブ人自身が作る映画でやって欲しい」と答えている。

 <消えた記憶をたどると>、実は彼が従軍していた「サブラ・シャティーラの虐殺」、そして彼の両親がアウシュビッツにいた事と、歴史の暗部に繋がる。被害者が加害者になっている現実と不条理、中東問題は複雑で根が深い。
 <そんなアリの思いから生まれた作品は>、サブラとシャティーラでの非公式の上映会では遺族が敬意を表してくれたと言う。しかしレバノンでは上映禁止なのだ。パレスチナ人は映画を好意的に観ようとしながら、イスラエルの責任を前面に出してないのに批判的だという。
 <映画だけれど>、政治抜きでは鑑賞できないこの地の不幸。監督の私的な物語が私的な物語として、その思いのままに届かないのが悲しい。この地の不幸は、私的な思いが政治に隠れて表に出ないことかもと思ったりする。(犬塚芳美)

この作品は、11月28日(土)より梅田ガーデンシネマで上映
      12月19日(土)より京都シネマ、
シネ・リーブル神戸でも12月中旬上映予定
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