太秦からの映画便り

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映写室「牛の鈴音」イ・チョンニョル監督&コー・ヨンジェプロデューサー会見(前編)

映写室「牛の鈴音」イ・チョンニョル監督&コー・ヨンジェプロデューサー会見(前編)
    ―韓国で社会現象を起こしたドキュメンタリー―

 <この作品は79歳になる農夫と老いた牛>の物語です。スター主義の韓国でドキュメンタリーがヒットするのは異例中の異例なのに、この作品は最終的に300万人を動員しました。ドキュメンタリーの新記録で、韓国人のおよそ15人に1人が観たことになります。
 <しかも、この作品を観て泣かない人>はいないと評判になり、テレビ、新聞、さらには経済誌までが特集を組み、「牛の鈴症候群」と呼ばれる社会現象まで起こりました。二人の物語だけでなく、お爺さんに寄り添うお婆さんの姿や、全てを包む韓国の農村の美しい四季も見所です。この作品について、イ・チョンニョル監督とプロデューサーのコー・ヨンジェさんにお話を伺いました。

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(10月23日 大阪にて)

《その前に「牛の鈴音」とはこんな作品》 
 農夫のチェ爺さんには30年もの間一緒に働いてきた牛がいる。牛の寿命は15年ほどなのに、この牛は40年も生きているのだ。皆が耕運機を使う時代にお爺さんは手作業のみ、しかも牛が食べる草の為にと農薬を撒かない。長年連れ添ってきたお婆さんは、お爺さんのそんな頑固さが不満だ。ところがある日、牛が動かない。獣医を呼ぶと…。

《イ・チョンニョル監督&プロデューサーのコー・ヨンジェさんインタビュー》
―この作品を撮ろうと思われたきっかけは?
イ・チョンニョル監督(以下敬称略):以前はテレビでドキュメンタリーやドラマ、子供番組、クイズ等、色々な分野の仕事をしていました。放送の仕事は好きだけれど、やりたいことが出来ていたわけじゃあなく、不満が燻ぶっていたんです。自分が納得できるものを撮りたい、何かドキュメンタリーでいいものが撮れないかと題材を探していました。そうしているうちに金融危機が起こり、1998年の外注で制作を引き受けていた頃でしたが、放送が父親たちの失職を取り上げ出したんです。時代の要請として父親の話は良かった。ただ職場から追われた父親というのは、他の人が作っているから作りたくない。別の形で父親の話を撮ろうと思ったんです。というのも、僕自身に父への思いがありました。もう30代の半ばでしたが、せっかく父親が無理をして大学まで出してくれたのに、代表作も無ければ名声も無く、結婚もしていない。子供としてちゃんとしてないと、申し訳なく思っていたんです。父は農業にたずさわっていますが、いつも汗をかいて働き、子供3人を育て皆大学まで行かせてくれました。その父によく似た存在が牛で、この二つを題材にして描こうと思っていたのです。本当は自分の父親と牛を撮りたかったんだけど、韓国では機械化が進み、父ももう牛を手放して豚を飼い始めていました。だから父のイメージに近い人を探したんです。

―それでチェさんに出会ったと?この作品の成功は、何とも味わい深い主人公を見つけた事にもあると思いますが。
イ:そうです。2000年頃から自分のイメージに合う人を探していたけど、なかなか見つからない。韓国でも「働く牛」自体が少なくなっていますから。でも2004年に「ぴったりのおじいさんと牛がいる」とポンファから電話を貰って駆けつけました。ポンファは韓国の中でも素朴な自然が残っている特別な場所なんです。
―そうして出会ったお爺さんは、すぐ撮影をオーケーしてくれましたか?
イ:自分が説得したわけではありません。まあ田舎の人なんで、本人は撮影の意味もよく解らないで、撮るんだったら撮れと言ってはくれたんだけど、撮影は長期にわたり日常生活に入り込んで行きます。かってにという訳にもいかないので、長男に話を持っていきました。というのも、韓国ではもう両親に意志の決定権が無く、子供たちが決めるんです。9人子供がいるけれど、全員には聞けないから、代表して長男に聞いたわけですね。そこで、どんな風に撮るかとか、期間、牛が死ぬまで1年間撮る、もっと撮るなら追加の契約をするという風に細かく書いた契約書を作り、撮影の許可を貰いました。ところが思った以上に牛が長生きしたので、色々大変な事が起こったわけです。

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(C)2008 STUDIO NURIMBO

―知らないところから始まり、そんな事があって、どうやって老夫婦との信頼関係を結んでいったのでしょう?
イ:今回は最初からそんなに親しくなろうとは思っていなかったんです。「牛の鈴音」の前に政治的理念のドキュメンタリーを撮っていますが、それもだし、その前の炭鉱がテーマの作品では一緒に掘ったりと、いつも被写体と一緒になって撮影してきました。でもそれだけではいけないと気が付いたんです。それも良いけれど、製作者としての立場を忘れてはいけないと思い始めた頃でした。最初にコープロデューサーと会っていて、映画化する事が決まっていたら又違っていたとは思いますが。お爺さん・お婆さんは自分の親の世代なので、本当だったらお父さん・お母さんと呼び、今までの僕だったら抱きしめるでしょうが、ここではしていません。人情に流されてしまうのを避けて、一緒にご飯も食べていないのです。そんな僕を見てお婆さんは疑っていました。「私よりも年をとった人をお母さんと呼ぶのに、何で私にはそう呼ばないのか?馬鹿にしているのか?」とまで言うんです。お爺さん・お婆さんに一番多くかけた言葉は、「働いて下さい。僕らは勝手に撮りますから」でした。

―そういう関係は撮影中ずっと変らなかったんでしょうか?
イ:親しくなるのは悪い事ではありません。逆に距離を置いて撮るほうが難しい位です。でも今回は親しくはならなかった。期間を区切られた契約書があったので、何時もそれが頭の片隅を占めていましたから。そうは言っても親しくはなるんですが、映像的にそれを強調しなかったんです。
―入ってしまうと2人の生活を壊しそうとか? 
イ:たしかにそれもありますね。二人の法則を尊重して突き放しているのもあります。
―実はそんな監督と被写体との距離感が映像に表れていて、子供ですら安易に手助けや口出しの出来ない、老夫婦の孤高の世界を感じました。そんな風にしてこの二人は生きてきたんだなあと。私の一番琴線に触れたところです。
イ:確かにそうですね。このお爺さんとお婆さんの暮らしを全て映せたわけではありません。撮影は足掛け3年になりますが、月に2.3回のペースで通いながら撮ったので、おろそかになったところもあります。場面として100個撮っても20か30使えるかどうかでした。でも使えない所が無駄だったかといったらそうではなくて、それがあったからこそ大切なところが解ったんですが。

―お爺さんとお婆さん、牛をじっくりと映していますね。ドキュメンタリーなのに映像が丹精でした。固定カメラで撮られたとか?
イ:ええ。固定カメラを選んだのは、お爺さんと牛の動きにそれが合致したからです。そのせいもあってドキュメンタリーなのに劇映画のようだといわれますね。カメラを忘れてもらおうと、遠くから望遠で撮って、声はマイクで拾ったりもしています。
―ドラマも作ってらした監督だから、劇映画的な編集傾向もお持ちなのかもしれませんね。結果的にそういうものが出来た監督が、どうしてドキュメンタリーで作ろうと思われたんですか?
イ:ドラマは制作費がかかるので資金的に無理でした。外注の製作者なので、企画書を出して貰える資金で作る私たちとしては、出来るのがドキュメンタリーだったんです。最初は15日位で撮れるテレビドキュメンタリーのつもりで出発したんですが、それも自分のお金はなく人のお金で撮り始めてますから、賭博のようなものでした。ところがこのお爺さんと出会い、どうしてもここで撮りたくなり、1年の予定で撮り始めました。それが2年になり3年になりだから、お金は使い果たしてくる。制作会社のほうも物凄く不安だったと思います。(聞き手:犬塚芳美)
 <続きは明日>

  この作品は、12/19(土)より第七藝術劇場 、シネマート心斎橋で上映
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