太秦からの映画便り

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映写室 「ユキとニナ」諏訪敦彦監督インタビュー(前編)

映写室 「ユキとニナ」諏訪敦彦監督インタビュー(前編)    
 ―日仏二つの個性をぶつけて―

 シチュエーションは設定するものの、多くの台詞を俳優に任せると言う独特の手法で知られる諏訪敦彦監督の新作です。今回は、フランスの俳優イポリット・ジラルドとの共同監督作で、日仏混血の少女を主役に据え、撮影も仏日両方にまたがりました。現在は東京造形大学の学長でもある監督に、カンヌでも絶賛された本作について、撮影秘話等を伺います。

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(1月16日 大阪にて)

<その前に「ユキとニナ」とはこんなお話> 
 ユキはフランス人の父と日本人の母を持ちパリで暮す9歳の少女。ある日、母が父と別れてユキと日本で暮すと言い出し、ショックを受ける。親友のニナに打ち明けると、手紙を書いて二人が愛し合っていた頃を思い出して貰おうと言う。彼女も両親が離婚して母との二人暮しだ。そのニナが母と喧嘩して家出し、ユキもついて行く。


<諏訪敦彦監督インタビュー>
―イポリットさんとの共同作業はいかがでしたか?
諏訪敦彦監督(以下敬称略):色々難しい事もあったけれど、終わってみると楽しかったなと思えます。宣伝でイポリットが来日したので、2人でインタビューを受けながら、この映画について話し合っていると、2人で最後まで完成させたんだなあと言う実感が湧いて来ました。今回は、違う考え方の2人の人間が、1つのものを作れるかと言うのが、もう一つの大きなテーマだったので、完成してよかったなあと思いますね。
―撮影や編集段階で考え方の違いが際立ってきたと伺いますが。
諏訪:そうですね。シナリオ作りには2.3年かかっていて、色々やり取りしながら進めたんですが、その時は「ああ、そうだね」とか、「僕も子供の頃はこんな風に思っていたよ」とか「親って何だろうね」、「こんな事をしてたね」とか、共感する事が多く違いは際立たなかったんです。でも撮影が始まり、何処で撮るか、どうやって撮るかの、物を作る過程に入ると、いきなりお互いに譲れない所が出てきて、それをどう纏めるかが課題でした。それでも撮影中は一緒にいるので、僕らは毎日他のスタッフより1時間以上早く現場に入って、前の日の反省や、今日はどう撮るかと監督同士のディスカッションをやったから、まだ調整出来る訳です。ところが編集になると、僕は日本に帰って家内が編集するし、イポリットの方もフランスで向うのプロとチームを組んで編集する。お互いにデータをメールで送りながらの作業ですが、やっぱりエゴが出てきます。どっちがどっちを打ち負かすかではなく、エゴを持った人間同士が一緒にやると言うのが今回のテーマですから、そういう意味で譲り合いは仕方なかったですね。

―そんな共同作業の結果として、いつもの諏訪作品より間口が広がったと?
諏訪:自分一人だったらやらなかっただろうなあと言う事は、沢山ありますね。編集も自分一人でやってるわけじゃあないし、自分が思う通りに自分一人でやっていたら、もっと解りにくいものになっていたかもしれません。僕が撮るとどうしても長くなっちゃうんですよね。短く切れず、まだ色々映ってるんじゃあないかと思ってしまって。僕を知ってくれたのは「パリ・ジューテーム」での人が多いんだけど、あんな作風を期待してこれを観ると驚くんじゃあないかなあ。
―もっとカメラを回したかったと?
諏訪:回したいと言うのはないんですが。芝居はイポリット担当で僕は現場では殆ど見てただけです。

―そのせいなのか、いつもの諏訪監督より特にフランス語のシーンが過剰だった気も。
諏訪:でもユキちゃん役のノエは違うでしょう?
―ええ、とっても繊細な思慮深い演技でした。だから余計に他の方が目立って。
諏訪:ノエは結構不安でした。彼女は実際にパリで生まれた日仏の混血ですが、演技の経験がないので、制作に入った時はこの子で大丈夫だろうかと心配したんです。ニナ役の子は俳優だから感情を良く表情に現すんだけど、ノエはあまり表情に現れないというか、誰が見ても解るという表情ではない。でも彼女なりに考えて演技してるんですよ。希望的な演技じゃあないけれど、でもそれが良かったなあと後になって思えました。演技の経験がないと言うのは、誰からもある状況の表現方法を強制された事がないわけで、思いもよらないような彼女の内からのものが出てくるんです。演技の経験があると、例えば悲しい場面では、誰が見ても悲しんだと解かる演技をしてしまう。ノエの場合は、悲しくは見えないんだけれど、凄く個人的なその人独特の悲しみの表現が出てくる。そういうユニークなものの方がより普遍的だと僕は思うんですね。一般的には意味が通じ難いから、演技指導を受けたりすると、解りやすい表現を教え込まれるんですが、彼女はそんな回路を持っていないから、例え解りにくいとしても、私は実際に悲しくてそんな演技をするんだから良いと思えるんですよ。

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(C)Yoshi OMORI

―お母さんが泣いているシーンとか特にそう思いましたが。
諏訪:あそこなんて笑ってますからね。(笑)実はあれはレンズを見て笑っているんですよ。撮影に入る前に、彼女にはカメラだけは見ないようにと言ったんですが、これって難しい事で、彼女はまだプロではないんで、ついつい見てしまうんですね。さもカメラがないかのごとく出来るのがプロなんだけれど、お母さん役の俳優がそれをやってるのが彼女には不自然なんですよ。で、笑ってしまったんだけど、現場では感情が途切れてしまった、NGだと思ったけれど、ラッシュを見て、こういう事もあるのかもしれないと思いました。あのシーンのノエは凄く失望しているんです。僕たちがNGだと思ったのは、そんな時にお母さんが泣いているんだから笑うはずがないと言う大人の考え方で、そんな状況でさえ彼女の中では色々な考え方がくるくる替わっている。今回は僕たちが簡単には理解できない存在のとしての子供を描こうとしているんだから、子供に大人の感情を投影してはいけないと。あの時のノエのリアクションは正直解らない。でもあのシーンを入れた事で、子供は判らない存在だと言うのを改めて確認しました。

―森に入っていくシーンも大胆ですが。
諏訪:あれを撮る時は僕たちにとっても賭けだったんです。最初のシナリオでは、ニナが転んで動けなくなって、ユキが誰か助けを呼んでくると言う展開だったんです。それで道に迷って、淋しくて泣いて動けないと言う設定だったんですが、そんな風にやってと言っても、ノエちゃんが「私泣かないから」と言うんですよ。一生懸命演技をするけれど、その気分にならないから泣けないと、何度も言うんですね。こっちとしてもここが肝心だから「泣いてよ」と説得するんだけれど、できないと言う。理由は解からないけれど、そこまで言うんだから、これは違うんだなあと思い直し、別の方向を考えました。1人で森の中に入っていくと、倒れるとかしないので歩くしかない。それでああなりました。撮影中も、歩くシーンしか撮ってないけど大丈夫なのとスタッフは不安がっていましたね。で、あんなふうに繋がるんですが、実際にも森を抜けると超現実になります。見てる時は現実でも、それは夢の中の現実だという訳で、彼女が一人で歩き出した瞬間に、観客もユキと一緒に森と言う非日常的な空間をさ迷うと。ユキが一人で森の中に入っていくのは無意識の自殺ですよね。妖精が食事を運んでくれると言うけど、そんな事あるはずがない。彼女が生と死の間をさ迷い何に出会うだろうと考えると、その空間をふっと超えてしまっても良いんじゃあないかと思ったんです。あれは観念的な森であって、フランスのそこから日本の森に繋がる。元々森って幻想的なそんなもんでしょう? この映画では全て現実を描くけれど、結果として、描かれているのは非現実と言うのでも良いのではないかと考えた訳です。この空間のねじれ方が極めて映画的だなあと思いました。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く> 
 
 この作品は、梅田ガーデンシネマ2月6日から、
       京都シネマ2月13日から 公開
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