太秦からの映画便り

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映写室 「星の国から孫ふたり~「自閉症」児の贈りもの~」槙坪夛鶴子監督インタビュー(前編)

映写室 「星の国から孫ふたり~「自閉症」児の贈りもの~」槙坪夛鶴子監督インタビュー(前編) 
  ―時代に要請されながら、「共に生きる」事を訴え続ける―

 この作品は、門野晴子さんの『星の国から孫ふたり―バークレーで育つ「自閉症」児―』を原作として、自閉症児とその家族について描いたもの。「自閉症」という言葉は知っていても、実態は掴めず、言葉だけが独り歩きしている感もある。でも、当事者の心の声を、吹き出しにしたり、人形劇を使ったりして示されると、私たちとの違いが想像できます。これを見て、『親も大変、子も大変と知り、「でも私たちも応援しますよ」と言う、温かい眼差しを向けて欲しい』と言う、槙坪夛鶴子監督にお話を伺いました。

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(4月16日 大阪にて)

《その前に「星の国から孫ふたり」はこんな作品》 
 作家の弓子はバークレーから帰ってくる娘、陽子夫婦と3歳の孫を、大喜びで迎える。でも孫はまだオムツが取れず、「デュワイン、デュワイン…」と不思議な言葉を発するだけだ。自閉症と診断され、落ち込む陽子。育児を助けながら、弓子は孫の不思議な世界に関心を抱く。エリートサラリーマンだった陽子の兄も、会社を辞めて発達障害の勉強を始める。二人目の孫が生まれるが、又自閉症と診断され…。


《槙坪夛鶴子監督インタビュー》
―(車椅子の監督に)遠い所までお疲れ様です。
槙坪夛鶴子監督(以下敬称略):こんにちは、どうぞよろしく。ずっと高熱が続いて、おかゆしか食べれない状態だったので、今日ここに来れたのは奇跡のよう。久しぶりに生きている気持ちです。この頃あちこち体の具合が悪くて、いいところは気持ちだけですから。
―それでも冷めない映画への情熱が凄いですね。
槙坪:情熱と言うより、情と熱の間です。私はご覧の様に車椅子だし、いっぱい障害を抱えて、皆さんに助けられて生きています。そんな状態でも、今自分に出来る事、やりたい事は何かと考えたら映画しかない。この10年間、具合が悪くなればなるほど、伝えたいという思いが深くなるのです。私は7本映画を撮っていますが、5本は親の介護をしながら作りました。母が生きている間は死ねないと思っていたけれど、それもある意味で生かされてたわけでしょう? 母が亡くなった後は、今度は自分の体が輸血をしないと駄目になった。長い間入退院を繰り返し、薬を飲み続けたものだから、糖尿病や血液を作れない体になってしまったんです。この映画の撮影中は何とか2週間に1回でよかったけれど、去年の10月位から更に悪くなって、輸血が1週間に1度になった。実は昨日も輸血を受けたところです。つまり私の場合、大勢の方から命の元を貰って生かされていると。昨日も先生に1週間後にお会いできたら奇跡ですねと言ったくらいで、今は一瞬の命のその極点の中。だから、情熱と言うより、情と熱の間で生きていると。

―情熱を超えていますね。今までも、弱者の命や生きる事をテーマにしたものを作られていますが、そういう視点を持たれるのは、小さい頃から体がお弱かったとか?
槙坪:いいえ、小さい頃は強かったんです。疎開して、野山の中を駆け回って大きくなりましたから、とっても丈夫だった。そんな私がどうしてこうなったのか解からないけれど、両親の離婚騒ぎとかありましたからね。小4で大阪に引っ越してきて、高校は北野高校。大事な思春期は淀川の水で育ちました。駄目と言われたのに、淀川で泳いだりもしたんです。一人っ子だから一人遊びも好きだけれど、皆と一緒も好きでした。私がやることで皆が付いて来ると言うか。
―リーダータイプだったと?
槙坪:どうでしょうねえ。駄目といわれた事は何でもするんだけれど、見た目が良い子なんで、叱られたことはありません。映画も一人で行ってはいけない時代で、先生も親も全校生徒にそう言うんだけれど、私だけは「貴女は大丈夫」と言われる。大人びていたと言うか、大人が勝手に信頼していたのでしょう。だから逆に、信頼を裏切れなくて、それなりにきちんとしました。自分でコントロールしますよね。

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©2009 星の国から孫ふたり製作委員会, 企画制作パオ(有)

―勉強もお出来になって、大人が一目置いていたのでしょうね。
槙坪:私がやる事は仕方がないと見逃してもらえたようです。でも、一方で苛められっ子でもあったんです。都会から田舎に疎開してますからね。一人っ子だから、寂しいとかの自分の心の内を打ち明けられる人もいないし、孤独でした。両親の離婚騒ぎがあるとは誰も知らないでしょう? 親友にもそんな事を言って煩わしたくないしね。それを紛らわすように、小、中、高と演劇に打ち込みました。自分で主演し、演出をしたんです。中学校では演劇部を作ったし、高校も演劇部に入りました。

―演劇少女だったんですね。そのまま早稲田の演劇学科に進まれたと?
槙坪:本当は医者になりたかったんです。でも早く家を出てアルバイトで自活したくて、それには医学部は無理だなあと思ったんです。で進路に迷い、1年間位自殺願望を抱えて鬱々としていました。その後で、演劇を勉強できるところもあると知って早稲田に進みます。19歳で学生結婚をするんだけど、彼は商売をしている家の長男だったので、大家族に入って家業を手伝いながら、学生も続けた。学校に行くのはどうしても受けないといけない授業だけ。そんなことで無理をして、22歳の時にリュウマチで倒れるんです。治療をしながら学校へ行くの繰り返しで、又無理をしてたら、今度は相手に彼女が出来て別れる事になる。この間は働いたといっても自分の自由になるお金は皆無でした。米倉斉加年さんに相談したら、自立しなさいと映画の世界を紹介されたんです。

―演劇少女がとうとうこの世界に入ったと。
槙坪:ええ。でも映画の世界に入ってもまだ半人前。経済力もなくて、子供がいたんですが、どうしても渡してもらえなかったんです。この時期、ある意味で人生のどん底を味わいました。弱いというのはこんなにも弱いものかと思い知り、自分は人間以下だと情けなくなりましたね。でも気が付いた事もある。それまでは一生懸命に尽くせば解かってもらえると思っていたけれど、自分1人頑張っていれば良いと言うものではない。相手との関係の中で、嫌な事は嫌と言い、して欲しいことはして欲しいと伝え、相手と一緒に、どう生きていくかが大切だと気が付きました。「共に生きる」という事ですよね。一人っ子ですから、それまで争わなくても自分の言う事は何でも通ったし、仲が悪い両親の中にも「共に生きる」なんて思いはなかったんですよ。相手の言う事もちゃんと聞き、自分の事も伝えるという関係が大事なんだなあと、初めて知ったわけです。

―大きな挫折、転換期ですね。
槙坪:ええ、この頃の思いが後々の映画に生かされているかと思います。映画の世界に入っても、封建的ですから、色々差別的な事がありました。まだ女性はほとんどいない時代で、仕事といっても、男性が感じたものをどう表現するかのお手伝い。女性の視点との違いを感じて、おかしいんじゃあないかと思っても、なかなか言えません。いつか映画監督になったら、女として母親として感じた事を、映像で表現したいと思いました。2度目の結婚をして、子供が3年生の頃、少女歌手の飛び降り自殺がありました。これにものすごく衝撃を受けたんです。「自殺」というのは自分の中にずっとあった思いだけれど、(そんなに簡単に死ねるもんじゃあないよ)と思っていたから、本当にショックでした。しかも、全国で13人位が後追い自殺をするんですよね。

―そんなことがありましたね、思い出しました。私もショックを受けたものです。
槙坪:苛めによる自殺もありました。「このままだと生き地獄だよ」という遺書を残して死んだでしょう? 子供が死ぬ時代なのかと驚きましたね。丁度テレクラが始まった時代で、性教育をどうしようかと皆が迷っていた。母親として、息子に大人になって人を傷つける人になって欲しくないし、傷つけられて自死もして欲しくない。そんな思いを胸に、初めての映画の企画をあちこちで話していたら、性教育をどうやったら子供たちに上手く伝えられるか迷っていると、色々な人から言われたんですね。で、そんな映画を作ることに。少なくとも我が子には解かって欲しいという思いから、「子どもたちへ」という題名になったんです。これが凄い反響で、結局次々と作る事になりました。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く>

この作品は、5月22日(土)より第七藝術劇場で上映
      5月22日~28日(金) 12:35~、16:35~
      *22日と23日は監督の舞台挨拶があります。
      その時間と29日以降の上映スケジュールは劇場まで(06-6302-2073)


*「星の国から孫ふたり~「自閉症」児の贈りもの~」を自主上映しませんか?
  詳細はパオ(03-3327-3150)まで
 
 
星の国から孫ふたりサイト: http://hoshinokuni-autism.com  
パオ公式サイト: http://www.pao-jp.com
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| | 2011年11月27日(Sun)02:15 [EDIT]


 

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