太秦からの映画便り

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映写室「無言歌」ワン・ビン(王兵)監督合同会見

映写室「無言歌」ワン・ビン(王兵)監督合同会見 
 ―中国近代化の歴史の暗部―

 この作品は1960年の日本が高度成長に沸いていた頃の、中国で行われた思想弾圧の実態です。封印されて、歴史の彼方に追いやられようとしている史実が、外国資本によって映画化されました。ゴビ砂漠で秘密裏に撮影された本作について、ワン・ビン(王兵)監督に伺います。

mugonka-kan.jpg


<その前に、「無言歌」とは>
1956年、毛沢東は自由な批判を歓迎すると言い、人々は国の未来を思い、辛口の提言も活発に発した。しかしその数ヵ月後、毛沢東は彼らを弾圧し始める。いわゆる「反右派闘争」だ。政府を批判した知識人は、辺境の地に追いやられ、厳しい労働で次々と命を落としていく。原作はヤン・シエンホイ(楊顕恵)の小説「告別夾辺講」。

<ワン・ビン(王兵)監督合同会見>
―何時頃この事件を知ったのですか?
王兵監督(以下敬称略):何時ごろかはっきりはしませんが、自分の回りに右派といわれる人々がいましたから、事件は知っていました。でもこれを撮ろうと思ったきっかけは、飛行機の中で元となるヤン・シエンホイの「告別夾辺講」を読んだ事です。登場人物たちのそれぞれの運命や生き方に大きな感銘を受けました。で、この映画を撮ろうと考えて、色々な準備を始めました。生き残った人々へのインタビューを重ね、資料を探したんです。「反右派闘争」のプロセスについては、当時から多くの本が出ていました。そういう書物を多く読み、自分の中に知識を蓄積していきました。

―何人位にインタビューを?
王:およそ110人です。
―大変な数字ですが、さまざまな人へのインタビューをこの作品にどう反映させていますか?王:「告別夾辺講」の19の短編の中から、一本の作品をどう撮っていくかを数ヶ月考えました。その過程で多くの期間を捨て、最後の3ヶ月だけを撮ろうと思ったんです。明水という所に移されていった後の3ヶ月ですが、原作だけでは頼りなく、当事者の多くの人にインタビューしました。その過程で、明水に着いたばかりの頃の写真や手紙等、一次資料が見つかったのも幸運でした。映画の中で使っているのはその一部です。どのインタビューを採用するか以上に重要だったのは、この作品をどう撮るかを決める事でした。歴史物語をどう撮るか?それは突き詰めると、監督である自分が歴史をどう捉えるかでもあります。留意したのは、これはもう50年以上も前のことですが、当事者は何を忘れないでいたかで、それを取り出し、そこから映画の輪郭を見つけ出していきました。普通の歴史物ではなく、さまざまな人の記憶の断片を重ね合わせて、この映画を作ることにしたのです。そういう意味で重要なのは、ラストシーンです。数多くの人を訪ねたけれど、ある人は多くを語ってくれなかった。でも暫くすると、突然彼は、自分の感情を制御できないかのように、「初めて死体を埋めた時の感覚が君に解かるか?」と言った。当時人が亡くなると、布団や衣類をはいでしまって裸にし、谷間に行って埋めたようです。埋めようとした時、死体を狙う鳥の声がして、恐怖と共に、自分たちが運んでいるのは動物ではなく人間なんだと、強烈に意識したそうです。

mugon_main.jpg
©2010 WIL PRODUCTIONS LES FILMS DE L’ÉTRANGER and ENTRE CHIEN ET LOUP

―そういう風な、人間の極限状態を描いていますが、反映の今敢えてそれをする意味は?
王:新しい中国が建国されて60年ですが、最初の30年は政治的な時代でした。物資も欠乏し、暮らしも楽ではなかった。さまざまな芸術の中でも、映画で当時の状況をリアルに再現するのは難しいことでした。映画史から見ると歴史的に空白の時代です。後の30年、80年代から今までは経済の時代でした。完全ではないけれど、一定の自由があります。締め付けも緩やかで、人々の暮らしも楽になって来ました。今作るのは、その楽さと自由度を利用して、過去の空白を埋めるということです
―この作品は中国では上映できないと伺いましたが、同じ内容の資料になった原作は表立って出版されているのですか?
王:出版も苦労したようです。この作品は19の短編が集まって出来ているのですが、一度に出さず、一つ一つの短編を期間を置いて出しています。すべて揃った時には発禁になるのですが、今度は出版社を変えて出しました。中国政府は「反右派闘争」について、70年代末から80年代につき、一定の結論を出しています。全面的に認めてもいないけれど、全面的な否定もしていません。


―撮影時の苦労は?
王:かなり秘密裏に進めたことです。撮影期間は長かったけれど、スタッフとキャストを絞って、これを撮ることを宣伝しないでひそかに決行しました。キャスティングについても、大々的に集めず、自分の友人たちを通じて密かに集めました。
―今までドキュメンタリーを撮ってきた経験が生きている点は?
王:ドキュメンタリーは目の前のリアルな映像をそのまま撮ります。劇映画は俳優によってリアルさを出さないといけないけれど、脚本に書いたリアルさを俳優が理解してくれてこそです。この作品は音を入れていません。音と言うのは映画で重要な要素で、ポスト・プロダクションの段階で入れていきますが、この作品の場合音を入れると合わないのではと思いました。で、音楽に替わるものとして、風を入れようと考えたのです。天空を吹く風、近くの風、ドラマティックに吹く風、この作品は風の音によって始まり風の音によって終わります。光の使用にしても、多くの機材を運ぶ余裕がなく、昼間は自然光で、普通の光を固定して撮りました。困ったのは夜で、地下壕の外のシーンも2000Wのものが2つしか使えなかったんです。外の夜のシーンを撮るには少な過ぎます。

mugon_sub1.jpg
©2010 WIL PRODUCTIONS LES FILMS DE L’ÉTRANGER and ENTRE CHIEN ET LOUP

―生存者を作品に出したのは?
王:彼に始めて会った時は、健康状態が良好でした。だから、撮影中は現場に来て顧問のようにして欲しいと頼んだんです。でも2008年に会うととても体が弱っていました。作品に出てもらってよりリアリティが増したと思います。

―今までドキュメンタリーを撮ってきたのに、今回劇映画にされた訳は?
王:過去の歴史ですから。2003年に別の企画で劇映画を撮ろうという話になっていたんです。でも飛行機の中でこれを読み、すぐにこっちを進めて、前の企画を横においておこうと思いました。ただ大作になりそうで資金的な問題が解決しないままでした。後に外国からの資金援助があり進み始めましたが、中国の制作会社は入っていません。中国で公開されないのが解かっていたので、自由度が増し、自分の計画通りに撮ることが出来ました。今までの自分の作品も国内では映画館で上映されていません。でも特にそれを変えようとも思わないのです。このインターネット時代、色々な方法で見ることが出来るし、海賊版は良く売れてもいますから。この「無言歌」もすでに中国では海賊版が出回っていて、売れています。興行的には困りますが、この作品が多くの人に見られるのはいいことだと思います。

―国内で上映されないとはいえ、原作の出版がそれほど大変だったのに、このような作品を作って、国内で監督の立場は大丈夫なのでしょうか?
王:僕は北京に住んでいますが、普通に静かな暮らしをしています。これは30年前のある政治闘争を扱ってはいるけれど、政治映画ではありません。歴史的な観点で描いてはいなく、ある状況に置かれた人々を淡々と描いているだけです。だから問題になることはありません。僕も大丈夫です。

<インタビュー後記:犬塚> 
もう動くこともままならず、極寒の地で、せんべい布団に包まり水の様な粥を啜るだけの日々。自由な発言を咎められて、乾いた中国の内陸部で、人としての尊厳を失うところまで追い詰められたインテリたち。過酷な運命に巻き込まれるのを恐れ、家族が送りつけてくる離婚状。それでも底流を流れる、インテリジェンスの美しさ、重く重厚なそして美しい作品です。


この作品は12月24日(土)~1月13日(金):テアトル梅田で上映
     1月7日(土)より、第七藝術劇場、京都シネマで上映予定
     1月は神戸アートビレッジセンターでも上映
スポンサーサイト

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

| | 2013年02月11日(Mon)23:51 [EDIT]


 

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。