太秦からの映画便り

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映写室「相馬看花-第一部奪われた土地の記憶―」松林要樹監督インタビュー(前編)

映写室「相馬看花-第一部奪われた土地の記憶―」松林要樹監督インタビュー(前編)  
     ―福島第一原子力発電所から20キロ圏内の町―

 「花と兵隊」の松林要樹監督の最新作です。2011年4月3日、共同監督をした前作「311」の撮影から帰ってすぐ、松林監督は燻る思いを胸に、福島に引き返します。今度は支援物資を運ぶトラックに便乗し、たどり着いたのは、福島第一原子力発電所から20キロ圏内の町、南相馬市市原町区江井地区でした。津波と放射能汚染と強制撤去で様変わりし、避難所暮らしをする人々。苦境の中の人々と寄り添うように、カメラは奪われた土地の記憶を探ります。松林監督にお話を伺いました。

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©松林要樹

<その前に、「相馬看花」とは>
 中国の故事「走馬看花(そうばかんか)」からとった松林監督の造語。本来は「走る馬から花を見る」、つまり物事の本質ではなくうわべだけを見て回ることをいう。しかし、イラク取材中に亡くなったジャーナリストの橋田信介さんは、「走る馬の上からでも、花という大事なものは見落とさない」と解釈し、良きジャーナリストを象徴する言葉に読み替えた。橋本さんを尊敬する松林監督は、走馬を相馬と置き替えて、本作のタイトルにしている。

<松林要樹監督インタビュー>
―共同作品の「311」とは対象的な作品ですね。あの時の取材で、メイン監督となった森達也さんが「賛否両論のある切り口なので、松林君は最後まで納得せず、東京に帰ってすぐに、自分の作品を作ろうともう一度フクシマに行きました」と仰っていたので、松林監督がどんな作品を作られるのか、楽しみにしていました。
松林要樹監督(以下敬称略):森さんはすぐにそういう風に話を拡大するんですよ。(笑い)ただ、「311」はカメラが人間に向かわず、被災した風景ばかりを撮っています。あれに反対ではないけれど、消化不良もありました。編集のせいではなく、あの時は、現場で人に話を聞けなかったのです。今度は被災地で人に会いたい。人々の声や色々な思いとか聞いてこようと思って出かけました。行き先も特に決めていなく、支援物資のトラックの行き先に任せてです。最初は映画になるという確信もありませんでした。とにかく行こうで、放射能への防御もなく、そういう意味では「311」の時と同じく、無防備なままです。

―映像でいくと、フクシマに行く前に、震災当日3.11の松林監督の部屋の揺れが映りますよね。家具のガタガタという音、窓の外の木々の大きな揺れ、とてもリアリティがありました。最小限の物とともに、清貧に暮らす監督のスタンスもわかって、好感が持てました。
松林:部屋が3畳と狭く、手を伸ばせばすぐにカメラに手が届くんです。だから自然に映したもので、東京での地震体感が残りました。映画に使おうという意図もなく条件反射のようなものです。丁度、ラジオで津波警報が出たりして、離れていても、あの時は皆が緊迫していましたね。
―その後でフクシマの映像になるわけですが、南相馬を選ばれたわけは?
松林:僕が一緒に乗った救援物質を届けるトラックが、たまたま南相馬を目指していたというだけです。
―監督の意志ではなく?
松林:ええ、そうです。その救援物資の受け入れ先として、公のところが絡んだほうがいいだろうと、田中さんが立ち会ってくれたわけです。

―南相馬市の市会議員、田中京子さんですね。
松林:ええ。市会議員なので田中さんは色々なところに行くことが出来ます。この上ない水先案内人に出会ったわけで、僕もずいぶん助けてもらえました。その頃、まだここには支援物質が入ってなかったんです。それを最初かその次位に、僕らが運んだものだから「この人は信用してもいいかな」と思ってもらえたようです。で、僕がドキュメンタリーを撮りたい、避難所の様子を知りたいと言ったら、案内してくれました。そこからもう一人の市会議員、末永さんにもお会いでき、「1000年に1度あるかないかの災害が起こった。ぜひこの状況を記録してくれ」と言われ、色々紹介していただき、撮影がスムーズに行きました。この頃は福島第一原発から20キロ圏内、30キロ圏内には、どのメディアも入っていません。4月の21日に国が立ち入り規制をかけますが、それまでに記者クラブが、勝手に自分たちで、この圏内のことは放送しないという自主規制をかけていました。だからこの時期、この圏内を取材していたのは、外国メディアか、僕のようなフリーランスの人たちです。そういうことがなければ、逆に僕らが取材できなかったと思います。

―政府が規制を出す前に、記者クラブがそういうことをやったのですか?
松林:そうです。政府が21日に規制を出すという動きを察して、やったというか。
―怖いものからいち早く逃げて、切り捨てるというか。見て見ない振りをするというか、ちょっとひどい。メディアの使命としても、やることが反対です。映像にそういう声は出ていませんが、当事者として怒りになるのでは?
松林:現地の人は怒っていましたねえ。本当にそういうことをするとは、思ってなかったと言っていました。だから尚更、僕が「こんな状況でよく来てくれた」と言われましたね。取材はしやすかった。でも、そうかと言って、すべてウェルカムでもないんです。こんなことでもないとカメラを向けられることのない人たちですから、戸惑いも大きかった。
―この時届けたものは?
松林:最初は生理用品や水でした。2回目からはそんなものより野菜だと気づいて、変わっていきます。僕が避難所に泊っているシーンがありますが、あれは避難所の人たちの、とにかく実態を知ってくれという思いに答えたのもあったのです。あんな時に避難所に泊まってといわれたりもするんですが。まだ何も物が届かない頃で、米や菓子パン等はあるけれど、お野菜がなかったですねえ。

―あそこにいるのは、津波被害の方というより、原発の放射能汚染の被害者ですか?
松林:映っているのはすべてそうです。田中さんの家も道1本隔てたところまでは津波が来たけれど、かろうじて免れている。それでも、その後の放射能汚染で帰れないわけです。
―高齢者の取材は多いですが、若い方はどう思われていたんでしょう?林:高齢者を狙って取材したわけではありません。若い人はいなかったんです。皆遠くに避難していましたね。残されたのはおじいちゃんおばあちゃんだったと。

―そうなんですか。家族や親族に、東電や東電関連企業に勤める方も多いのでは?
松林:多いでしょうねえ。避難所に行かない老夫婦にしても、おばあちゃんの介護で行けないというだけでなく、元原発関連の仕事についていたわけですから、行きにくいのもあると思います。今までは「おらが作ったんだから大丈夫、絶対安全だ」とか言ってたと思うんですよ。あの人たちが若い頃に作ったものが爆発したわけで、本人もショックだろうし、行っても居場所がないですよね。避難所の中の人も考え方は色々です。

―こちらからは一緒に見えるんですけれど。
松林:絶対違いますよね。全員が全員、東電に怒っているわけでもないし。むしろ悲しすぎて、怒る気力もない人もいる。この時もそうでしたが、今はそれぞれの立場がもっと違います。友達同士でも東京電力の話はしませんし、聞きません。補償問題が始まってもっと複雑で、立場が色々に違ってきました。1年たつと余計に喋れなくなりましたね。避難所も閉まり、仮設住宅とか借り上げ住宅で、それぞれが日常を取り戻したように見えるけれど、逆にまったく未来が見えなくなった。見えないという現実に直面していますね。自分たちの土地で野菜を作ることも出来ないし、田んぼで自分たちの食べる分だけ米を作ろうにも、農協全体で保証を求めるんだから一人が勝手なことをしないでくれとか言われる。皆で輪になろうとしているけれど、肝心の深いところを話さないで、やってるんじゃあないかなあ。(聞き手:犬塚芳美)                           <明日に続く>

この作品は、7月21日(土)より第七藝術劇場で上映
8月25日から神戸アートビレッジセンター、
順次京都みなみ会館 にて公開
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