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太秦からの映画便り

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(前編)

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(前編)    
 ―「絆」や「希望」という言葉で括れない被災地の日常― 

 長年深夜枠でドキュメンタリーを放映し続けてきたMBSの報道局スタッフが、このほど映画に挑戦した。描かれるのは、1年半前の3月11日、東北大震災で突然すべてを奪われた、南三陸町の人々の日常だ。1年目とかの区切りの日にはマスコミが押し寄せても、普段は報道陣が姿を消した。日ごとに風化していく東北大震災。でもそこには今も続いている日常がある。「阪神・淡路大震災という経験のある僕らが、こういう作品を公開することで、僭越ながら、テレビ局の社会的な使命として、あの日のことを思い出してもらえるきっかけにしたいと思った」と語る、プロデューサーの井本里士さんと、監督の森岡紀人さんにお話を伺いました。少し長いのですが、テレビと映画の違い等、興味深い話が続きます。

<その前に「生き抜く 南三陸町 人々の一年」はこんな作品> 
 2011年3月11日の地震発生直後、MBSのスタッフは、東北を目指して本社を飛び出した。28時間後にたどり着いたのが宮城県の南三陸町だった。行く手を阻む瓦礫の山、魚網が絡まった家の残骸、路上で転覆した船、屋根の上の車、町はあの瞬間で時を止めていた。生き残った人々は身内の安否確認に奔走し、自衛隊員は行くえ不明者の捜索だけでなく、写真等の記念品を拾い上げる。避難所暮らしの中、仮設住宅の抽選が始まるが…。

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©MBS


<井本里士プロデューサー、森岡紀人監督インタビュー>
―テレビ局のMBSが、あえて映画を作ったわけは?
井本里士プロデューサー(以下敬称略):東日本大震災が起こった時、TBS系列局の私たちも、JNNの応援として現地に入りました。その様子をドキュメンタリー番組として作り、被災から1ヶ月目に関西のローカル番組で放送しています。その半年後に又、区切りとしてもう1作作り、1年目でもう1作と、南三陸町を舞台に合計3作作ってきました。次に2年目で制作するのが普通なのですが、もっと全国に向けて発信できないかと、社内あるいは部署内で話が持ち上がったんです。2年目の作品75分のものを99分の形に作り直し、劇場公開の形で全国に発信することになりました。

―映画にしようと思ったのはいつごろでしたか?
井本:去年の秋ごろです。1作目は津波がどういう形で町を襲ったかを、検証する形で作りました。2作目は漁業の町の人々が、高台への移転に向けてどう動くか、納得するか、あるいは決まるまでの皆さんの心的ストレス、そういうものを軸にドキュメンタリーを作りました。ところが高台移転とかは、時間経過で状況が刻々と変わっていきます。制作時期で編集が違ってくるし、その時々のテーマが色褪せていくことへの虚しさも感じました。これだけの素材をもっているのだから、もっと普遍的なテーマを持ったものを作りたい。映画に出来るのではないか。ドキュメンタリー映画なら作れるのではと思い始めたのです。

―具体的にはテレビ用の作品をどう映画用にしたのでしょうか。75分から99分へと追加した部分は?
森岡紀人監督(以下敬称略):75分から99分になりましたが、もともとは膨大な映像から4時間に絞り、それが120分になり、そこから75分にしたので、今回は120分のテープを99分にまとめたというのが実際です。追加したというより、各シーンを長くしたのと、順序を変えました。テレビ版と明らかに違うのは、ナレーションが入っているかいないかで、今回はまずナレーションを省きました。ナレーションがあると言葉の誘導である程度のストーリーが出来、シーンをコンパクトにしても物語が伝わるのですが、ナレーションを排除すると、色々なインタビューをきちんと聞かせないといけない。短縮できなくて初稿に近い形に戻したわけです。もっともこれは作品を重ねるうちにテレビ用のものでも、だんだんそうなってきていて、3作目のナレーションは、通常のものに比べて3分の1のナレーションになっています。

―この作品は4つの物語に集約されていますが、その4人の選択の過程を教えてください。
井本:夏の特番の、高台移転を中心にまとめたものには、この映画には入っていないテーマがありました。でもそれも時間経過で変化していきますからね。テレビだと時事性が大事ですが、映画にする場合は、もっと普遍的なものにテーマを絞り込む必要がある。僕らの持っている素材から時事性を排除したら、残っていたのが普遍的なもの、命でした。つまり、この物語の背後に流れているのは命ということです。妻を亡くし、もう海は見たくないと隣町へ引っ越して、幼い二人の子供をシングルファザーとして育てる男性、たった一人の身内の弟さんを亡くして、避難所暮らしをしながら、それでも住み慣れた町に住みたいと、仮設住宅の抽選に落ち続ける女性、いち早く魚業を再会し、行くえ不明の娘の捜索にならないかと、網を投げ続ける父親、町の防災担当だった夫を探して、毎日のように遺体情報の確認に訪れる女性と、この4つの物語が最終的に残りました。普遍的なのは、人間が絶望の底から立ち上がっていくことだと気づくと、他のものは自然にそぎ落とされていったのです。

―時間経過でより悲しみが深くなる女性の気持ちがよくわかって、痛々しいです。でもどうしてあげることも出来ず、辛さだけを共感しました。
井本:そうですね。私たちがこの作品に静かなアンチテーゼとして掲げているのが、時間が経てば経つほど、一部の人には絶望感が深くなるということです。ところがテレビではなかなかそれを描けない。「絆」とかの前向きな言葉に踊らさせて、なぜそういう負の現実を伝えないのかと、一部の方からは非難を受けましたが、テレビ側としてはそういうことを放送する影響も考えるわけです。伝えるのは簡単だけれど、社会への影響を考えると、やっぱり後ろ向きの話ばかりは組めません。ただ、今回の作品はそういう点もうまくポジションを見つけて描きました。トータルで被災地の1断面にしたいなあと思ったわけです。ただし、そういうものを入れる場所とかは大分考えましたが。
―ええ、心に染みました。
森岡:この作品は、見る人によって感情移入する対象が違うようですね。どうしても見る人の状況に近い人に共感をもって見てくださる。僕だと、年齢や立場が似ているシングルファザーの男性なのですが。

―私は二人の女性の気持ちがよく解かりました。ご主人の遺体情報を求めに日参する方の、「遺体が見つかったと言われなくて安心し、そうかと言って、こんなに時間が経ったんだから、早く見つけて供養してあげたいという気持ちもあります」という言葉に納得しました。厳しい現実を受け入れるのはなかなかできないことです。悲しみの中でも、精一杯平常心を保とうと、お洒落して通う姿も、本当言ってそれがちょっと過剰で、(この人は今バランスを欠いているなあ。身をつくろう事で、今の状況を拒否しているんだなあ)と、痛々しさになりました。取り乱さずに何とか平常心を保とうとする男性は、心の中で泣いているのでしょうが、女性は、どちらの行動にしろ、心の中のうつろさが零れて、身につまされました。
井本:そういう風に見ていただけると、作り手冥利に尽きます。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く>

この作品は、10月6日から第七芸術劇場(06-6302-2073)、
      10月13日からポレポレ東中野
      10月20日から神戸アートビレッジセンター、
      11月10日から京都シネマ にて公開
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恋愛コラムリーダー ~Love Column Reader~ | 2012年12月05日(Wed) 13:09