太秦からの映画便り

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映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(中編)

映写室「生き抜く 南三陸町 人々の一年」制作者インタビュー(中編)    
 ―「絆」や「希望」という言葉で括れない被災地の日常―

<昨日の届き>
―ところで、どうして南三陸町なのでしょう? 取材班が偶然入られた場所ですか?
井本:そうなんです、偶然の産物でした。3.11には、ここMBSのビルも揺れました。体感時間で2,3分の揺れだったでしょうか。それからだんだん情報が入ってき始め、ばたばたと取材班を構成し、3班を東北に送り出します。1班は空路で伊丹から、もう1班は中継車と一緒に高速道、北陸自動車道を走りました。もう1班はとりあえずJRで東北を目指せと指示を出したのです。どこに何があるかわからず、とりあえず行ける所まで行けと3つのクルーを送り出しました。で、すぐに色々な点検で空路は駄目と解かり、そのうち仙台空港が津波に襲われ、決定的に駄目になります。次に24時間かけて車で行った班と、JRで行った班も結局新潟で降りて、そこから車になるんですが、その二つの班が偶然、南三陸町に吸い込まれていったんです。あの時期は横のつながりがなく、1回縦の道路に入ると入ったきりでしたから。そこで1週間取材しました。その時の衝撃から、阪神・淡路大震災を経験した地元のメディアとして、私たちも南三陸町にきちんと向き合おうと考えました。

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©MBS

―初めて被災地をご覧になったときの感想は?
森岡:僕が行ったのは3月20日頃なんですが、阪神を経験した僕ですら、非常に驚きました。町1面何もない状態で、記録映像で見る原爆の後の広島のようでした。われわれは常に、日常の中の非日常を探して伝えるのですが、日常などどこにもなくて、あたり1面が非日常で、何を撮ればいいものか戸惑いました。阪神の時は一部の町が焼け野が原で、津波とは別の意味で何もなくなったという印象でしたが、もっと広範囲にそれが広がっていて壮絶でしたね。

井本:私達は第3陣で入っていて、時期的に色々なメディアが入っている頃なんですが、被害が広範囲に広がり、メディアの数が少ない印象を受けました。阪神・淡路は、やはり都市部の災害で、長田町あたりにすごい数のメディアが集まり、10日目くらいになると、取材されるほうがメディアストレスを溜めていたのです。でも今回は、茨城から青森までの沿岸一帯がやられていますから、密度という意味で、圧倒的にメディアが足りなかった。私たちの近くにはNHKのクルーしかいなくて、私の感覚ではこれは信じられないことでした。だから皆さん、メディアへの親和性が高かったですね。この惨状を伝えて欲しいという思いが強く、東北の方たちの気性もあるのでしょうが、何か尋ねても、こんなところへ来てといった風当たりもなく、取材しやすかったです。

森岡:震災後10日くらい経っているのに、南三陸町にはまだ孤立した地区すらありました。仮設された橋を渡っていくと、伝えてほしいという方がいっぱいいらっしゃいました。南三陸町は特に、消防、学校、役場等の行政機関が全滅していたので、住民の安否確認も進まず、町がどうなっているのかとか、全体のことも解からない状況だったのです。皆さん人を探すので精一杯だった。
―今頃になってやっと地名とこの土地の映像がつながってきたのですが、南三陸町というのは、よくメディアに流れた、最後まで町の職員の若い女性が、津波からの避難勧告を放送し続けた場所ですね。
井本・森岡:ええ、そうです。
井本:遠藤みきさんと、私たちがこの作品で取り上げている三浦たけしさんという二人の方が、交代で放送していたのです。遠藤さんを僕らも取材したのですが、そっちのストーリーが有名になったけれど、その隣には三浦さんもいたのです。で、こちらをクローズアップしました。

―震災のドキュメンタリー映画を何本も見ましたが、この作品は少しテイストが違っているなあと思いました。プロが作ったものだなあというか、一人で取材に行きカメラを回す監督だと、対象者の素を撮りたい、空気を映したいと言うけれど、この作品はそんなもの以上に、その人の心の中の訴えたい思いにフォーカスしている。映されるほうは、カメラを意識しながら、それでもそれに負けずに訴えていると感じました。
井本:そうかもしれません。やっぱりテレビクルーが、何人かで大きな機材を持って取材に行くと、取材対象者も、素の自分よりも、そういうものを前面に出してきます。こちらの取材方針もそうですし、そういうものがテイストになるかもしれませんね。
森岡:現場には色々複雑な現象や事情があります。仮設住宅の抽選を巡って、職員と町の住民が口論をしていますが、そういうものを放送したいなあと思いました。あの方は西条さんと仰るのですが、あの方自身が自分の父親と家を津波で流されている被災者なんです。でもそういう人を相手に、同じ被災者が文句を言っている。彼は他の住民がすべて仮設住宅に入るまで自分は入らないといって、一人で避難所にとどまるんです。シャワーも水もなくて、川水に使って生活していた。夏の番組ではそういうところを取り上げました。

―漁業の町で山のほうに仮設住宅を作っても、すぐに空家だらけの廃屋になると、一部で懸念されていますが、実際はどうでしょう?
井本:今のところは、まだそういう状況ではありません。その次の住宅がなんともなっていないので、いくら不便でも動きようがない。町が町営住宅を建てようとしていますが、それも出来るのかどうかわからない。仮設には3年間の期限が付いていますが、全員がその期限内に出て行けるかどうか、難しい問題があります。
―そういう意味でも、震災直後より悲しみが深くなっているかもしれない。そういうものを伝えたい思いがおありだったと?
井本:そこのあたりは、おそらく人それぞれだと思うのです。悲劇を前面に出すつもりはありませんし、これは1年目の記録で、現在進行形で物事が変化していますから。被災地ではない人たちに「ああ、そうだったよなあ。あの時自分たちは何とかしなくちゃあと思ったよなあ」というのをもう一度思いだして欲しいと思うだけです。ストーリーに入っていく前に、たっぷり25分間当時の状況を組み入れました。あの被災が風化していけば行くほど、あの25分は意味があると思います。(ああ、そうだったなあ)と思い出してから、それぞれのストーリーに入って頂きたいと思ったのです。身近なものに感じないと物事は風化していきます。忘れるのを非難は出来ないけれど、この作品を思い出すきっかけにしてもらえたらと。(聞き手:犬塚芳美)
<明日に続く>

この作品は、10月6日から第七芸術劇場(06-6302-2073)、
      10月13日からポレポレ東中野
      10月20日から神戸アートビレッジセンター、
      11月10日から京都シネマ にて公開
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