映写室 「花はどこへいった」坂田雅子監督合同会見(前編)
―ベトナム戦争で使われた枯葉剤―
報道はなくても、今も世界のあちらこちらで不毛な争いが絶えません。しかも信じられないような非人道的な兵器が、次々と開発されて密かに使われています。現在ならクラスター爆弾や劣化ウラン弾という、主にイラク戦争で米国が使った兵器を思い出しますが、その前には、やはり米国があのベトナム戦争で使った枯葉剤がありました。
坂田雅子監督が始めて撮った本作は、戦後30年も経つというのに、今もって世代を超えて、あの枯葉剤に苦しめられているベトナムの人々を映しています。この作品の出来たいきさつや、枯葉剤に絡む米国やベトナムの事情、撮影秘話等を伺いました。

(6月17日大阪にて)
<坂田雅子監督合同会見>
―この作品を撮られたきっかけは。
坂田雅子監督(以下敬称略):夫のグレッグ(注 米国人フォト・ジャーナリストのグレッグ・デイビス氏)が2003年にあっけなく肝臓癌で死にました。訳が解らず呆然としていたら、知人が「グレッグは枯葉剤のせいで死んだんじゃあないか」と言うんです。そう言えば出会った頃に、彼が「自分は枯葉剤を浴びているので子供は出来ないだろう」と言っていました。当時はそれが大変な事だとは解らなかったし、その後も元気だから枯葉剤の事は忘れていたんです。でも私は忘れていてもグレッグはそうではなかった。ベトナムを30年取材している中村さんに、枯葉剤を浴びた不安を口にしていたと聞きました。突然彼を亡くしたので、喪失感がひどくて何も出来ません。枯葉剤について調べる事で、夫の思い出を取り戻したくてベトナムに行ったのが始まりです。
―監督は68年に京大に入ってらっしゃいますね。学生運動や反戦運動が盛んな頃ですが。
坂田:そうなんですが、当時はそんな運動とはまったく無関係です。学生運動が何を目指し、何処へ行こうとしているのかも解らなくて、ちょっと距離があった。枯葉剤のことも一部で噂されていましたが、よく解らなかった。グレッグは実際に戦場を経験しているので、心底反戦家ではありますが、日本の反戦運動はちょっと違うというか、当時は運動とかはしなかったですね。二人ともグループを作るのが苦手だったのもあります。彼はベトナム戦争が激しかった67年から70年に、米軍兵士として南ベトナムに駐留し、サイゴン、ダナン等ベトナム各地に送られています。それまでは普通のアメリカの中流階級の青年だったのに、この戦争で総てが変った。一度アメリカに帰るけれど、嫌になって飛び出しアジアに来て京都に住むんですね。色々噂されていたので、グレッグも戦争の頃から枯葉剤がどんなものかは知っていました。それでも避けれない。彼は直接浴びていないけれど、アメリカの兵士たちの中にもジャングルの中でたくさん浴びた人がいます。枯葉剤に強い問題意識を持って、1986年にアメリカ人がベトナムに入れるようになってからは、何度も撮影に行きました。ただ、このドキュメンタリの中で「ダイオキシンの問題を研究するにはベトナムは良い舞台だけれど、ベトナムは躊躇するしアメリカは隠そうとして、なかなか思うように進まない」と言ってるような複雑な問題がありました。

(C)2007 SAKATA Masako / 映画『花はどこへいった』より
―両国はどうしてそのような対応なのでしょう。
坂田:ベトナムでは色々な思惑がありました。戦後アメリカの経済制裁があり、それが取れた頃は、アメリカから援助を引き出さないといけず、声高に糾弾が出来なくなる。最初は隠そうとすらしました。それに海老等を輸出していますし、他所の国から観光にも来て貰わないといけない。枯葉剤の事を大っぴらにして、風評被害を受けたくないというのもあったのでしょう。
―複雑ですね。
坂田:枯葉剤がクローズアップされる時期は波がありました。 80年代半ばから、アメリカで帰還兵の補償問題に絡み問題になってきます。90年代半ばには又クローズアップされ、グレッグも取材に行ったりしました。ベトナムはとにかくお金がないので、アメリカからの援助を待っている。今は救済が始まったばかりで、重い障害者も多く、汚染した土壌とかも取り去らないといけない。ベトナムだけでは出来ませんから、援助の為にも窮状を知って欲しいと言う感じです。
―エージェント・オレンジ(枯葉剤)は何処の会社が作ったのですか。
坂田:1社ではなく、政府からの依頼で10数社が作りました。損害賠償を求めた裁判で、薬品会社は「国からの命令で国の為に作ったんだから、訴えられる謂れは無い」と言い、国を訴えると、今度は国が「主権国家が他国から民事裁判で訴えられる謂れは無い」と言い出して、争っています。今ベトナム政府は、帰還兵士から生まれた重い障害者を枯葉剤の影響だと認めていますが、アメリカ政府は断言できないと言う理由から、認めていません。ただそうはいっても、自分の国の帰還兵士については保障を続けて来た。その資金が底をつきそうで、問題になっています。

(C)2007 SAKATA Masako / 映画『花はどこへいった』より
―撮影はどれ位の期間ですか。
坂田:最初は映画を作ろうと思って行ったわけではありません。自分で撮って繋いだものを友人に見せたら、良いから他にも見せれるようにしたらと言われて、次の段階になりました。ベトナムには2回行っていて、最初に行ったのは2004年の夏です。その後アメリカの化学者等のインタビューをしたりと、述べ100時間回しました。
―撮影は大変だったのでは。
坂田:最初は障害を持った人がそんなに簡単に見つかると思わなかったのに、本当に大勢いるんです。ベトナムの外務省から次々と紹介され、撮影も拒否された事はありません。期待した以上に事が進展して、自分の未熟なカメラで追いかけるのが大変でした。この中でも「戦争だったんだからしょうがない」と言う父親がいますが、今まで「先祖が悪いことをした崇りでは」等、子供の障害を自分たちに起因させて表に出さなかった。でも今は、誰もが因果関係を知っている。どの家族も見て見てという感じで、積極的にアピールして支援を集める方向に変っています。(犬塚芳美)
<続きは明日>
この作品は7月5日(土)より、第七藝術劇所で上映
8月23日(土)より、神戸アートビレッジセンター
8月下旬、京都シネマ上映予定
―ベトナム戦争で使われた枯葉剤―
報道はなくても、今も世界のあちらこちらで不毛な争いが絶えません。しかも信じられないような非人道的な兵器が、次々と開発されて密かに使われています。現在ならクラスター爆弾や劣化ウラン弾という、主にイラク戦争で米国が使った兵器を思い出しますが、その前には、やはり米国があのベトナム戦争で使った枯葉剤がありました。
坂田雅子監督が始めて撮った本作は、戦後30年も経つというのに、今もって世代を超えて、あの枯葉剤に苦しめられているベトナムの人々を映しています。この作品の出来たいきさつや、枯葉剤に絡む米国やベトナムの事情、撮影秘話等を伺いました。

(6月17日大阪にて)
<坂田雅子監督合同会見>
―この作品を撮られたきっかけは。
坂田雅子監督(以下敬称略):夫のグレッグ(注 米国人フォト・ジャーナリストのグレッグ・デイビス氏)が2003年にあっけなく肝臓癌で死にました。訳が解らず呆然としていたら、知人が「グレッグは枯葉剤のせいで死んだんじゃあないか」と言うんです。そう言えば出会った頃に、彼が「自分は枯葉剤を浴びているので子供は出来ないだろう」と言っていました。当時はそれが大変な事だとは解らなかったし、その後も元気だから枯葉剤の事は忘れていたんです。でも私は忘れていてもグレッグはそうではなかった。ベトナムを30年取材している中村さんに、枯葉剤を浴びた不安を口にしていたと聞きました。突然彼を亡くしたので、喪失感がひどくて何も出来ません。枯葉剤について調べる事で、夫の思い出を取り戻したくてベトナムに行ったのが始まりです。
―監督は68年に京大に入ってらっしゃいますね。学生運動や反戦運動が盛んな頃ですが。
坂田:そうなんですが、当時はそんな運動とはまったく無関係です。学生運動が何を目指し、何処へ行こうとしているのかも解らなくて、ちょっと距離があった。枯葉剤のことも一部で噂されていましたが、よく解らなかった。グレッグは実際に戦場を経験しているので、心底反戦家ではありますが、日本の反戦運動はちょっと違うというか、当時は運動とかはしなかったですね。二人ともグループを作るのが苦手だったのもあります。彼はベトナム戦争が激しかった67年から70年に、米軍兵士として南ベトナムに駐留し、サイゴン、ダナン等ベトナム各地に送られています。それまでは普通のアメリカの中流階級の青年だったのに、この戦争で総てが変った。一度アメリカに帰るけれど、嫌になって飛び出しアジアに来て京都に住むんですね。色々噂されていたので、グレッグも戦争の頃から枯葉剤がどんなものかは知っていました。それでも避けれない。彼は直接浴びていないけれど、アメリカの兵士たちの中にもジャングルの中でたくさん浴びた人がいます。枯葉剤に強い問題意識を持って、1986年にアメリカ人がベトナムに入れるようになってからは、何度も撮影に行きました。ただ、このドキュメンタリの中で「ダイオキシンの問題を研究するにはベトナムは良い舞台だけれど、ベトナムは躊躇するしアメリカは隠そうとして、なかなか思うように進まない」と言ってるような複雑な問題がありました。

(C)2007 SAKATA Masako / 映画『花はどこへいった』より
―両国はどうしてそのような対応なのでしょう。
坂田:ベトナムでは色々な思惑がありました。戦後アメリカの経済制裁があり、それが取れた頃は、アメリカから援助を引き出さないといけず、声高に糾弾が出来なくなる。最初は隠そうとすらしました。それに海老等を輸出していますし、他所の国から観光にも来て貰わないといけない。枯葉剤の事を大っぴらにして、風評被害を受けたくないというのもあったのでしょう。
―複雑ですね。
坂田:枯葉剤がクローズアップされる時期は波がありました。 80年代半ばから、アメリカで帰還兵の補償問題に絡み問題になってきます。90年代半ばには又クローズアップされ、グレッグも取材に行ったりしました。ベトナムはとにかくお金がないので、アメリカからの援助を待っている。今は救済が始まったばかりで、重い障害者も多く、汚染した土壌とかも取り去らないといけない。ベトナムだけでは出来ませんから、援助の為にも窮状を知って欲しいと言う感じです。
―エージェント・オレンジ(枯葉剤)は何処の会社が作ったのですか。
坂田:1社ではなく、政府からの依頼で10数社が作りました。損害賠償を求めた裁判で、薬品会社は「国からの命令で国の為に作ったんだから、訴えられる謂れは無い」と言い、国を訴えると、今度は国が「主権国家が他国から民事裁判で訴えられる謂れは無い」と言い出して、争っています。今ベトナム政府は、帰還兵士から生まれた重い障害者を枯葉剤の影響だと認めていますが、アメリカ政府は断言できないと言う理由から、認めていません。ただそうはいっても、自分の国の帰還兵士については保障を続けて来た。その資金が底をつきそうで、問題になっています。

(C)2007 SAKATA Masako / 映画『花はどこへいった』より
―撮影はどれ位の期間ですか。
坂田:最初は映画を作ろうと思って行ったわけではありません。自分で撮って繋いだものを友人に見せたら、良いから他にも見せれるようにしたらと言われて、次の段階になりました。ベトナムには2回行っていて、最初に行ったのは2004年の夏です。その後アメリカの化学者等のインタビューをしたりと、述べ100時間回しました。
―撮影は大変だったのでは。
坂田:最初は障害を持った人がそんなに簡単に見つかると思わなかったのに、本当に大勢いるんです。ベトナムの外務省から次々と紹介され、撮影も拒否された事はありません。期待した以上に事が進展して、自分の未熟なカメラで追いかけるのが大変でした。この中でも「戦争だったんだからしょうがない」と言う父親がいますが、今まで「先祖が悪いことをした崇りでは」等、子供の障害を自分たちに起因させて表に出さなかった。でも今は、誰もが因果関係を知っている。どの家族も見て見てという感じで、積極的にアピールして支援を集める方向に変っています。(犬塚芳美)
<続きは明日>
この作品は7月5日(土)より、第七藝術劇所で上映
8月23日(土)より、神戸アートビレッジセンター
8月下旬、京都シネマ上映予定
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