太秦からの映画便り

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映写室 NO.158水の中のつぼみ

映写室 NO.158水の中のつぼみ
    ―シンクロナイズド・スイミングの少女たち― 
 少女たちの憧れは、時に異性以上に大人びた同性に向かうもの。異性への思いよりも熱い事さえあり、恋に似ている。でも相手に未来の自分を重ねてこうなりたいと憧れる訳だから、本物の恋とはちょっと違うのだ。そんな惑いの季節を経て、大人への扉を潜るのだと思う。本作は少女に恋する少女、大人びたふりをしながら実は臆病に大人の手前で足踏みする少女、片思いの切なさに悩む少女と、思春期の3人の疼くような夏を、瑞々しい感性で描いていく。憧れの人を追いかける少女の瞳は、あまりに無防備で切ない。本年度のセザール賞にノミネートされています。

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(C) Les Productions Balthazar 2007

 <スレンダーでまだ子供のようなマリーは>、オデブな同級生アンヌのシンクロの応援でプールサイドに座っていた。アンヌたちの演技が終わると上級生の演技が始まり、マリーの目は華やかなフロリアーヌに釘付けになる。一方アンヌは、はずみで男子にヌードを見られて彼に恋してしまう。ある夜、アンヌはその男子とフロリアーヌがキスしているのを目撃。マリーはフロリアーヌに近づきたくて、シンクロ・クラブに入ろうとするが…。

 <こうして少女たちの夏は甘く切なく絡んでいくのだけど>、主な3人の少女は、それぞれに個性的だ。もうこの年で魔性すら漂わせて男子の心を騒がせるから、女性からはやっかみと戸惑いで敬遠される、特別な存在のフロリアーヌ。除け者にされ揶揄されても平然と孤高を保ち女王のように振舞うが、そんな彼女の心の奥の秘密を覘いたのはマリーだった。派手な行動から誰もがとっくに異性を経験済みと思っているフロリアーヌだけれど、成熟した肉体とは裏腹に、心にはまだ少女の戸惑いを残している。こんなアンバランスさを誰が想像するだろう。早熟な美少女にとってもこの年代は辛い。

 <一方マリーは、まるで姉に憧れる様にフロリアーヌに付き纏い>、邪険にされても利用されても付いて行ってしまう。これが後の同性愛に繋がる恋なのか、それともこの時期特有の物なのかは、今はまだ解らない。皆がやっかみに変える感情を、素直な憧憬に表しただけかもしれないのだ。マリーを見ていると、相手が異性であれ同性であれ、こんな風に好きな相手に視線を絡みつかせるものかと、胸が詰まる。隠すことを知らない無垢さが痛々しいのだ。可愛い顔にペタンコの胸とひょろ長い手足のマリーは、この後女らしくなるのだろうか、中性的なままで同性愛的志向が続くのだろうかと、気にかかる。

mizunonaka-s.jpg
(C) Les Productions Balthazar 2007

 <もう一人の、子供っぽいようで時には>中年女のような図太さも見せるアンヌは、こうしてみると一番現実的で、生きるのが上手なのかもしれない。欲しい者に自分から向かって行き、どうしても駄目となったら自分で引き返す強さもある。たとえ涙を流す時があるとしても、少女と大人の間を逞しく通り過ぎることができそうだ。もちろんそんな少女は主役にはならない。痛みや神秘をなりふり構わず自分で乗り越えた時、女は大人と言うより中年期になるのだろうか。それはそれでちょっと切ない話だ。
 ところでこの物語、男子も大人も単なる脇役。あまり登場しない。少女たちの心的世界は、実は少女たちの間だけで成立してるのだという、監督の思いでもあるのだろう。

 <この作品は、少女と言う常識的には甘やかな存在の>、神秘のベールを上げて奇麗事ではない体の内側まで入って、等身大に描いている。3人の揺れる心模様は、男性が見たら意外で戸惑うかもしれない。あまりに赤裸々で辛いシーンもあった。こんな事があっても、いつの間にか記憶は封印と美化をされ、思い出の少女時代はたいていふわふわと甘やかなものになる。それは少女を描くのが、記憶を封じ込めた大人だったり、実態を知らず憧れの目線で追う男性だから。母親だって自分の娘の疼きを直視はしないものだ。この作品のすべては、まだ思春期の痛みの記憶が残る、製作時27歳という若い女性監督、セリーヌ・シアマだからこそだと思う。オリジナル脚本も彼女で、少女の心をこんなにリアルに描けるのは、この監督にとってこの年代が心の中の永遠なのかもしれない。

 <それを裏付けるように>、この物語が今のようにも少し昔のようにも見える。いったい何時の時代なのか、解らないのだ。つまり少女たちは時を越える存在で、セリーヌ・シアマ監督の中の永遠、少女と言う自らの時代を生きていると言うことだろうか。そう言えば場所だって、特定できるような象徴的なものは無い。何処かの町の郊外の中産階層、ここでもあり何処でもない場所だ。リアルな心を描きながら、現実からの不思議な浮遊感が素晴らしい。

 <ところでこの物語の主役は>3人の少女だけでなく、シンクロナイズド・スイミングでもある。ぴったりとした水着を着た伸びやかな少女たちは、健康的で美しい。でもこの競技は不思議なことに、見える世界と見えない世界が正反対なのだ。美しさを競って水の上ではにこやかに微笑みながら、水面下を映すと手足をまるで蛸のように絶え間なくぬらぬらと動かし、目をしっかりと見開いて仲間の動きに合わせ、鼻を器具でつまみ、思いっきり吸い込んだ空気でまるで蛸のようになったほっペから、少しずつ息を吐き出していく奇妙さ。美とは程遠い。水中カメラで丁寧に映す様は、まるで少女と言う存在そのものが、このシンクロのように、見えないところで絶え間ない努力を続けて大人へと脱皮しようとしているとさえ見える。
 <監督は言語感覚も抜群で>、この作品の原題は「蛸の誕生」だったのだ。確かにそんな顔や手足の動きは蛸に似ている。カンヌ出品前の英題「WATER LILIES」を経て、邦題は「水の中のつぼみ」とより情緒的に変化した。

 <肌が触れ合う事など何とも思わず>、腕を組み合って歩き、笑い転げたのは幾つ位までだろう。素肌が触れ合うことに戸惑いを覚え始める頃が、思春期かもしれない。そんな少女の季節を、少女の目線で瑞々しく描いた時を超える秀作です。(犬塚芳美)

   この作品は、7月19日(土)より、梅田ガーデンシネマ
           8月9日(土)より、シネカノン神戸、
           晩夏に京都みなみ会館で上映予定
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| | 2013年02月11日(Mon)15:38 [EDIT]


 

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映写室 NO.158水の中のつぼみ:犬塚芳美

    ―シンクロナイズド・スイミングの少女たち―  少女たちの憧れは、時に異性以上に大人びた同性に向かうもの。異性への思いよりも熱い事さえ...
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journalist-net | 2008年07月11日(Fri) 21:19


 
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